歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
うっかりしておりましたが、1週間後の3月7日(日)、千葉県市原市で坂本龍馬についての講演をします。演題は表題のとおりです。

主催は市原市教育委員会

詳しくは、同委員会生涯学習課のサイトのここをご覧下さい。

会場のサンプラザ市原はJR内房線五井駅と隣接し、駅西口から2Fデッキで直結していて便利です。

すでに定員には達しているようですが、会場に余裕があるため、もう少し入場できるそうです。
また市外、県外の方でも大丈夫だそうです。
千葉県はじめ関東圏で興味のある方は参加してみませんか。

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【2010/02/28 16:57】 | イベント
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本日早朝、沖縄方面でかなり大きな地震がありました。

100年に1度あるかないかの規模だったようです。
人的被害はほとんどなくて不幸中の幸いでした。

でも、この記事にあるように、世界遺産になっている勝連城の石垣が一部が壊れたようですね。

勝連城のフォルムはとても美しく、沖縄の数多あるグスクの中で、個人的には一番のお気に入りです。
それだけに残念です。一日も早く修復が成ることを祈ります。

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【2010/02/27 17:46】 | 信長
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月の第4週がこのところ、ずっと連日の講座で大変です。
しかも、原稿締切も集中していて、乗り切るのが至難の技です。

23日(火)小学館「てらこや」講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」9

今クールの4回目。
前回、近江屋事件を少し詳しくやりました。今回は近江屋事件その後として、事件がどのように政治決着されたのか、また政局に与えた影響などをやりました。
次回が今クールと、このシリーズの最終回になります。王政復古政変を取り上げる予定です。

なお、4月から「坂本龍馬と丁卯日記」と題した新シリーズを始めます。『丁卯日記』は龍馬と関係が深い越前藩の慶応3年10~12月の記録ですが、この時期だけにとらわれずに、主に脱藩以降の龍馬の足跡で興味深いところをやってみたいと思っています。
龍馬とその周辺に興味のある方は受講してみませんか。夜7時からなので、お勤めの方も何とか受講できると思います。
そして、新シリーズの講座を知っていただくために、体験講座を3月23日午後7時より行います。内容は歴史読本4月号で紹介した坂本龍馬の新出書簡について詳しい解説を加える予定です。
問い合わせ・お申込みはここです。「桐野の体験講座について教えてほしい」とお尋ね下さい。1回だけですので、受講料もリーズナブルです。


24日(水)武蔵野大学市民講座「信長記を読む」第9回

今回は稲葉山落城と美濃平定についてやりました。
落城がいつだったのか諸説あるなかで、その重要史料である「紹巴富士見道記」について少し新しい解釈を加えました。
次回はいよいよ最終回で、信長が足利義昭を奉じた上洛戦と、それまでの外交交渉について、少し詳しくやる予定です。

25日(木)名古屋・中日文化センター講座「信長公記を読み解く」第2回

朝、新幹線で名古屋へ。前回は帰路、新幹線車中に3時間以上閉じ込められるというトラブルに遭ったが、今回は何事もなくよかった。
今回は「足利義昭の将軍宣下」と題して、『言継卿記』や『大日本史料』などを使う。
『信長公記』には、将軍宣下の記事がない。太田牛一の身分ではその様子がわからなかったのかもしれないという話をした。その代わり、その後の能興行(細川邸にて)については、能のプログラムはじめ、義昭が信長に副将軍か管領職就任を勧めたが断られるという有名な話や、「御父織田弾正忠殿」とした義昭の御内書の写しも載せられている。これらから、牛一は能興行に参加できたのかもしれないという話もした。

ほかには、将軍宣下がどのような手続きで行われるのか、上卿・執筆・奉行職事などの役割とか、口宣案・宣旨・位記とか、陣宣下や陣儀(じんのぎ)とはどんなものなのかという話もした。
話があちこちに飛んだため、またいつもの如く、レジュメを消化しきれなかったのが残念。

講座終了後、大阪に飛び、あるコレクターの方に長らく拝借していた古文書をお返しする。
お詫びがてら、歴読の最新号と前号も贈呈した。
そしたら、戊辰戦争期の某重大事件についての史料を新たに見せていただいた。これはすごい。

そんなこんなで、慌ただしい一週間でした。
いえ、まだ終わっていないのでした。

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【2010/02/27 02:30】 | 日次記
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現在発売中の『歴史読本』4月号。
目次などはここにあります。

今回はスクープ記事です。
坂本龍馬のおそらく140点目と思われる書簡を、不肖私めが発見しましたので、その紹介と解説記事を書きました。
幕末のある越前藩士の子孫宅に所蔵されていたものです。

歴史読本には、書簡のカラーグラビア(30~31頁)と、解説記事(242~49頁)の二本立てで載せてもらい、また表紙にも「特別記事 花押付き龍馬の新書簡発見」と大きく載せてもらいました。

この龍馬書簡の特徴はおおまか2点あります。

ひとつは、2例目となる龍馬の花押が付いていたことです。
1例目はすでに戦前に明らかになっていました。宛所の越前藩士・村田巳三郎氏寿の子孫が展示会に出品したことがありました。
これは原文書は火災によって失われましたが、幸いなことに写真版が残っており、それを和紙に焼き付けた精巧な複製が現在、京都の霊山歴史館によって所蔵されています。
その花押が初例でしたが、龍馬の花押というのは珍しいため、一部では否定的な意見もありました。

しかし、今回、初例とそっくりな花押(しかも、宛所も同じ村田です)を見つけたので、龍馬が花押を書いていたことは確実になりました。

特徴の第二は、書簡中に薩摩藩士の大物、岩下佐次右衛門方平(当時、大目付、のち家老)の名前が登場することです。龍馬が岩下と接触したのはいつなのか?
それについても、少し詳しく考証しました。

龍馬の生涯でもあまり史料がない空白期にあたりますので、貴重な書簡ではないかと思っています。

今回の記事掲載にあたり、書簡の公表を許可していただいた所蔵者の方、霊山歴史館の木村幸比古・武仁両氏、東京龍馬会の皆川真理子氏には大変お世話になりました。記して謝意を述べたいと思います。

なお、今月号は「2010年はとことん龍馬」というミニ特集で、私の記事のほか、宮川禎一氏(京都国立博物館)の「目撃された千葉佐那」という記事も掲載されています。佐那が宇和島伊達家の江戸藩邸に奉公して、お姫様に武芸の稽古をつけていたことなど、貴重な史実が明らかになっています。合わせてご覧下さい。

そして同誌には、私の連載記事「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」も載っています。
今回は第28回「天正の世の始まり」と題して、天正への改元、有名な薄濃(はくだみ)の一件、蘭奢待切り取り、伊勢長島一向一揆の殲滅などを書いています。こちらもご愛読のほど、よろしく。
次回はいよいよ長篠合戦です。

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【2010/02/25 00:09】 | 新刊
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桐野先生!
小林 哲也
小林哲也です。記事読まさせていただきました。新書簡が発見されたことに、驚きとともに大きな感動を覚えました。元治元年は龍馬年表で空白期ですし、書簡の発見で龍馬と薩摩の関係性の研究に新しい光が当たれば、幕末維新研究が深まればと感じております。お話が伺えれば嬉しいです。

御礼
桐野
小林哲也さん、こんばんは。

さっそく拙稿を読んでいただき、有難うございます。
龍馬の書簡を自分で発見するなんて、よほどの幸運だと思います。自分の運のかなりの部分を使いきったかもしれません(笑)。
小林さんも勉学・研究の進展をお祈りします。


小林 哲也
ありがとうございます!

大発見!
森重和雄
桐野さま

こんにちは!
歴史読本読め読ませていただきました。
すごいですね。


いえいえ
桐野
森重和雄さん、こんばんは。

たまたまのまぐれですよ。
拙稿にご意見などいただければ幸いです。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第139回
―小西行長夫人説の真偽―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、いよいよカタリナ夫人を書きました。
島原の乱の直前、薩摩藩の藩主の家族にご禁制のキリシタンがいたことが露見したわけですから、藩主家久はじめ、家老たちの驚愕、狼狽ぶりも想像できます。

今回は、カタリナ夫人が薩摩に入部するまでのいきさつをまとめました。
とくに、カタリナ夫人が小西行長の夫人だったとする説があるのに対して、完全否定はできませんが、ありえないのではないかと思っているところです。

個人的には、薩州島津家との縁から見たカタリナ夫人も興味深いです。
とくに夫の島津忠清(義久の外孫)は、加藤清正と親しくなり、薩摩の内情を探っています。
そのため、島津本宗家から敵対視され、たとえば、島津忠長などは「打ち果たし申すべく候」とまで激しているほどです。そもそも、薩摩帰還のときから因果があったわけですね。

次回は竪野移住から種子島配流あたりまでを書く予定です。

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【2010/02/24 00:28】 | さつま人国誌
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島津忠清と加藤清正
ばんない
こんにちは。

カタリナ夫人はもちろんのこと、その夫(2番目の夫?)だったという島津忠清も今まで注目されたことはなかったように記憶していますが、なかなかアヤシゲというか興味深い人物のようですね。

さて、拙ブログで一度忠清と加藤清正、島津家との暗闘関係を匂わせるような文書を過去に取り上げたことがあるのですが(URL参照下さい)、忠清が清正の意を受けてスパイ行為を行っていたという根拠になった史料はどれなんでしょうか。
また、忠清が加藤家中でどれくらいの地位にあったかというのも興味深いところなのですが、加藤家が改易されたせいもあってか、これ!という史料になかなか当たりませんね…。


旧記雑録後編三1285号
桐野
ばんないさん、こんばんは。

伊勢貞成宛て島津忠長書状は表題に全文が掲載されています。『薩藩旧伝集』のは一部しか掲載されていないようですね(まだ同集を確認していませんが)。
なお、その文中に、又介(忠清)が「定而此地三ヶ村へ徘徊たるべく候」とあるのは、忠長が在陣している北薩出水の村々のことだと思われます。つまり、国境の出水あたりまで又介が潜入しているかもしれないというわけです。

1285号によれば、忠長が忠清を「打ち果たし申すべく候」といきまいた次のひとつ書きに、「又介殿舎弟」(末弟忠豊か)が水俣まで迫っていた東軍諸勢(おそらく加藤清正勢)の陣中にいるようです。しかも「万事からくり有之」とありますから、何やら謀略がらみのようですね。

これらから、於平の息子である忠清と忠豊?が加藤清正の命で動いているとみてよいのではないでしょうか。


織田信長と島津義久
市野澤
テーマから外れる内容で申し訳ありません。

遅れ馳せながら、以前にお薦め頂いた八代市立博物館未来の森ミュージアムにて開催された「小西行長」展の図録(品切になってなくて良かった)を「関ヶ原合戦と九州の武将たち」展の図録と一緒に購入する予定です。

今年、東京国立博物館で「細川家の至宝展」が開催されるので行く予定ですが、私が関心のある忠隆・興秋・忠利の三兄弟に関するのは難しそうですね。八代市立博物館未来の森ミュージアムで三兄弟の特別展を企画してくれないものでしょうか。

田端泰子氏の『細川ガラシャ』(ミネルヴァ書房)ですが、細川関係の史料・論文の活用の少なさ、第二章の信長の兄弟姉妹・子女については最新の研究成果が反映されていませんね。

『日本歴史』2010年2月号掲載の黒嶋敏氏の「織田信長と島津義久」は大変興味深い論文でした。桐野さんにとって、守備範囲のテーマと存じますが如何でしょうか?

RE:旧記雑録後編三1285号
ばんない
早速のお返事ありがとうございます。ご指摘の文書の全文のcopyは取ってませんでしたが、「又介(忠清)殿~」で始まる節と「又介殿舎弟」の書かれている節は偶然他の文書と一緒にcopyしておりました。確かに、『旧伝集』から引用したとする3-1334文書は、3-1285文書よりかなり文量を削ってますね。おそらく『旧伝集』言うところの「忠長書状」というのはご指摘の3-1285文書を指しているのではと考えられます。

島津忠清は『本藩人物誌』の伝記を読む限りでは関ヶ原の頃までは小西行長に味方していたような書き方ですが、一考の必要有りと言うことでしょうか。謎がますます深くなったように思われます。重ね重ね御教示ありがとうございました。

黒嶋敏さん
桐野
市野澤さん、こんにちは。

黒嶋さんは『信長記』調査の仲間でもあり、その論文の抜き刷りもいただきました。
信長と地方の戦国大名の関係をどのようにとらえるのか、問題提起されているように思います。私も大変勉強になりました。

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「龍馬伝」第8回。

前回は高知にいながら、イベント二次会のため、見のがしてしまいました。
弥太郎の江戸遊学がかなったはずですが、安積艮斎や安政の大地震は出てこなかったのでしょうね。

今回も創作がつづいていますね。
まあ、この時期の龍馬と弥太郎のからみはすべて創作ですから、あまりコメントすることもないのですが、2点だけ。

ひとつは、弥太郎の父弥次郎の怪我についてです。
『岩崎弥太郎伝』によれば、喧嘩相手が庄屋の島田便右衛門で、その理由が村の用水問題に起因しているというのは、ほぼその通りのようですね。
ほかにも理由があったようで、村の年貢引当のための共同耕作地から穫れる取入米を管理しているのは庄屋や村の年寄役で、これに便右衛門のほか、岩崎家の分家である鐵吾や寅之助が関わっており、取入米の扱いをめぐって専断や不正があったらしいです。ストーリーをわかりやすくするために、こちらのほうは端折ってありましたね。
弥次郎は分家の面々と仲が悪かったらしく、この諍いはむしろ村を支配する岩崎一族間の内紛という側面もありそうです。

また、ドラマでは岩崎家に代わって龍馬が各方面に奔走していましたが、実際は弥次郎の妻、美和が激怒して、あれこれ動いたようです。しかし、同族の鐵吾や寅之助が便右衛門に味方していたため、徒労に終わっています。

余談ですが、便右衛門の大柄な手下に、どこかで見たような顔がありました。新日本プロレスの中西学じゃなかったですか? 弥次郎を袋叩きにした便右衛門の手下に田舎角力の彦右衛門という者がいたとあるので、さしずめ、この役でしょうか?

次に弥太郎の投獄ですが、訴訟となったとき、弥太郎がひそかに役所の壁に

官以賄賂成
獄因愛憎決


と大書したと同書にあります。
ドラマもこれに倣ったのでしょうが、果たして事実かどうかは判断が難しいようですね。

また、当然ながら、龍馬と弥太郎が吉田東洋に訴え出たというのは創作です。
これはのちに弥太郎が東洋の塾に入門することの伏線でしょうかね?
それに、饅頭屋の近藤長次郎が龍馬に安芸郡の奉行が便右衛門から賄賂をもらっているとささやいたのも、のちに長次郎が弥太郎の門弟になることの伏線でしょうか?

20年前に安芸郡井ノ口村(現・安芸市)の岩崎弥太郎旧宅を訪れたことがあります。そのときの写真を載せておきます(ポジフィルムをスキャンしたので画質がいまいちです)。大三菱が管理しているので、よく整備されていますが、それでも、ドラマの貧乏ぶりとは異なりますね。

旧宅
弥太郎旧邸
日本列島
弥太郎旧宅にある有名な日本列島の石組み



弥太郎銅像
弥太郎銅像(安芸市江の川公園)





それと、平井収二郎が妹の加尾に、龍馬とはもう仲間じゃないから付き合うなと申し渡していましたが、どうなんでしょう?
龍馬と半平太・収二郎がこの時期に決裂したとはとても思えないのですが……。
ドラマでは、この間ずっと龍馬を飄々とした人物に造形していますが、当時どこにでもいた普通の攘夷青年だったと思うのですが。土佐勤王党に龍馬が加盟することとの整合性は大丈夫なんでしょうかね?

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【2010/02/22 00:32】 | 龍馬伝
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忍っこ
桐野先生こんにちは
田舎角力は、まさに中西学でしたね
しかし、創作を積み重ねて
後半に影響が出なければいいのですが
前回の話しで龍馬は河田小龍に会いに行く・・まではいいのですが
なんと河田小龍(リリーフランキー)が坂本家に上がり込んで
病に伏している龍馬の父、八平と話したり、絵を描いたり
まるで実家にでも帰ったかのような振舞い
挙句に「この家は実によろしい」などと言っています。
こういうのもアリ、なんですね トホホ

河田小龍
桐野
忍っこさん、こんにちは。

河田小龍にそこまでさせたのですか(驚)。

龍馬が小龍に教えを乞うたのは、もちろん小龍の新知識ゆえですが、それも薩摩藩視察にもよっているんですけどね。
小龍は島津斉彬の集成館事業を視察しています。そのあたりも描いたらよかったですが……。

もっとも、小龍の薩摩行きはもう少し後か?

あれっ?
市野澤
こんばんわ。

桐野さん、もしかしてプロレス好きですか?

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2月14、15の両日、高知に行きました。
高知の酒屋さんから招かれました。
高知でも焼酎を広めようと、鹿児島と高知の酒屋さんたちが連携しておられ、その合同の会に呼ばれたものです。

14日のバレンタインデー、夕刻、高知パレスホテルの宴会場には100名ほどの賓客のみなさん。
焼酎やお酒好きの方、歴史のファンや愛好家の方など多彩な方々がお見え。
何と、桐野利秋の日記「京在日記」の所蔵者の方もおいでになっていた。
いつぞや、お目にかかり、さまざまなご厚情をいただき、便宜を図っていただいた方である。

演題は「坂本龍馬と中村半次郎(桐野利秋)の謎を解く」

というもの。
龍馬と半次郎の関係だが、半次郎関係の史料には龍馬が登場するが、その逆はない。
したがって、『京在日記』など桐野側の史料から見た両者の関係を少しお話しした。
史料上、両者に初めての接点が生じたのは、寺田屋事件の直後かと思われる。
三吉慎蔵の日記に、負傷した龍馬を伏見藩邸から二本松藩邸に護送してきたとき、見舞に来た薩摩藩士たちのなかに「中村半次郎」の名前がある。
もっとも、それ以前から見知っていた可能性があるが、不勉強なため管見に触れない。もしご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。
また、霊山での龍馬・慎太の葬儀に桐野も参列し、高松太郎・坂本清次郎と帰路同行してこと、近江屋事件の真相究明のため、高台寺党の残党の事情聴取などで、桐野が土佐藩側に最大限の協力をしていることなど話した。
桐野は龍馬の無念を晴らそうと奔走したことを強調した。
こうしたことが史料で明らかになっているのに、両者の関係がどうして真逆にとられたり、果ては龍馬暗殺の実行犯に擬定されるのか、私には面妖すぎてよくわかりません。またこのことは今年の大河ドラマ終盤に対する不安でもあります。

講演時間は30分程度といわれたが、あとで知ったところでは、45分ほど話したらしい。
時間オーバーで会の進行に支障が出たかもしれない。申しわけありません。

ほかにも、特別ゲストとして、いろんな酒のライター・評論家として知られている和田博温氏からも、焼酎づくりの蘊蓄をわかりやすく話していただいた。
和田氏は郷里の先輩であるとともに、薬丸自顕流の東京道場の師範もつとめる達人でもある。自顕流の「抜き」の秘技も見たかったが……。

じつをいうと、数日前から軽いギックリ腰気味で、立ち上がるときに苦労した。
和田さんとは往復とも同じ便だったので、手を貸していただいた。多謝です。
まだ若いのに鍛え方が足りません。

なお、高知龍馬空港に着いてから会が始まるまで、主催者の方に桂浜など史跡に連れていってもらいました。
私の希望で、浦戸の長宗我部元親の墓にも行き、20年前のリベンジを果たせました。写真をいくつか載せておきます。

高知龍馬空港
噂の龍馬空港
空港龍馬像
空港内売店にある龍馬像。よく似てます






龍馬銅像
ご存じ桂浜の龍馬銅像
大町桂月
大町桂月の記念碑。桂月は高知出身の歌人、小説家。桂月は桂浜から取ったのでここに碑があるのでしょうか。「伯爵後藤象二郎」も書いています。


元親
長宗我部元親の墓。浦戸の山腹にひっそりとありました。歴女の方々の「聖地」かと思ったが、まだその痕跡なし(ファンノートもなかった)。




主催者の方々、また鹿児島からおいでの方々には大変お世話になりました。
御礼申し上げます。

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【2010/02/18 12:31】 | イベント
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ご無沙汰いたしております。
NAO4@吟遊詩人
「高知空港」は「高知龍馬空港」になったんですか? と思って調べてみると、愛称なんですね。でもしっかり看板には使っているようですね。
日本で人名がついた空港というのは、画期的かと。

鹿児島空港に人名を冠するとしたら、「西郷」で昔だったら決まりなのでしょうが、今はもめますでしょうかね。(笑)

小松空港・・・・
それ、もうありました(笑)。

西郷空港?
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

鹿児島空港の愛称は難しいですね。
西郷空港も島津空港も異論出そうですね。
せごどん空港とか平仮名表記がまだしもでしょうか。

黒豚空港
おじゃったもんせ空港
さつまいも空港
焼酎空港

どれもいけませんね(笑)。



よいお話をいただきました。
和田
大変お世話になりました。
半次郎と龍馬のお話をほかならぬ土佐でお聞きすることができ大変に嬉しい一夜でした。
元親さんの墓所はさびしかったですね~。

御礼
桐野
和田さん、こんにちは。

高知では何かとお世話になりました。
今後ともよろしくお願いします。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第138回
―薩摩潜伏の末、逮捕、護送―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここをご覧になるか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックして下さい。

今回は、明石掃部全登の息子、小三郎が薩摩に潜伏したのち、露顕して逮捕、護送された一件を書きました。
明石全登は有名な割によくわからない人物ですね。
ましてや、その子の履歴や消息などはなおさら不明です。
ただ、キリシタン信者の密告制度も功を奏してか、掃部の息子たちが次々と捕らえられました。
小三郎もその一人です。小三郎については、『旧記雑録後編五』に収められた家老伊勢貞昌らの書状にはっきりと名前が出てくるので間違いないところです。
そのほか、『薩藩旧伝集』には「左近」という名の呉服屋の手代になりすました掃部の息子が出てきます。
掃部の息子が2人も鹿児島に潜伏していた可能性はないとはいえませんが、名前が異なるとはいえ、やはり同一人物だと思われます。
もし同一人物だとすれば、カタリナ夫人(永俊尼)の御内者だったジョアン又左衛門がこの呉服屋の主人だったことになります。
その辺を突きつめる史料は残念ながら、いまのところ見つかっていません。

また、小三郎が無事に京都に送還されたのかどうか、そして処刑されたのかどうかも、調べたかぎりではわかりませんでした。
キリシタン殉難史料としては、レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』上中下(岩波文庫)
幕府側史料としては、『徳川実紀』
ほかに『史料綜覧』などを見てみましたが、関連記事が見つかりませんでした。
『江戸幕府日記』(ゆまに書房)も見たほうがよかったかもしれませんが、手許にありません。

ほかに公家の日記を見るべきだったと、あとで思い出しました。
もっとも、寛永年間を書いた公家の日記って何がありましたっけ?
『国史大辞典』所収の「記録年表」は中世が中心で、織豊期までしか掲載されていないんですよね。
『孝亮宿禰日次記』はちょうど小三郎が送還された寛永11年(1634)まであるようですね。
あと、土御門泰重の日記はどうでしたっけ?
もしその時期の公家の日記をご存じの方がおいでならご教示下さいませ。

いずれにしろ、この一件は薩摩や島津家の特殊な性格を示しているように思います。
薩摩にはこれより先に、明石掃部や小三郎の主君である宇喜多秀家も落ちてきました。また有名なキリシタン大名である小西行長の旧臣たちも多数薩摩に逃れてきています。ほかにも、豊臣秀頼、真田幸村、後藤又兵衛らが落ちのびてきた伝承もあります。
島津家が西軍ながら生き残り、反徳川的な面を期待されていたこと、また薩摩が辺境の地で、大陸に海路が開かれているという地理的環境も大きいと思われます。
薩摩は流人や亡命者の歴史としても面白いですね。
中世まで遡って、懐良親王や大覚寺義昭なども書いてみたいですね。

次回はいよいよカタリナ夫人のことを書きたいと思います。

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【2010/02/16 10:19】 | さつま人国誌
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拝読させていただきました。
zeigen
明石小三郎の記事、興味深く拝読させていただきました。
明石掃部もそうですが、考え始めると、興味がどんどん湧いてきます。
勉強させていただきました。ありがとうございます。

明石氏
桐野
zeigenさん、こんばんは。

コメント有難うございます。
専門家に読んでいただくのは恐悦至極です(汗)。
私も一応「吉備温故秘録」など備前関係史料を見たのですが、あまり有益な情報は見当たりませんでした。
大名クラスの家なのに不思議ですね。
今後ともご教示のほどお願いします。

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本日昼過ぎ、高知に一泊で出張です。

このイベントのためです。

さて、どんな会になるのか、ほとんどわかっていません(笑)。
比較的短い講演でいいようだから、コンパクトにまとめないと。

ついでに、浦戸の長宗我部元親の墓に行きたいものです。
20年前、カメラのせいで撮影できなかったリベンジを果たしたいもの。
講演のテーマとは全然関係ありませんが……。

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【2010/02/14 00:08】 | イベント
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明治大学リバティアカデミー特別企画
―帯刀・龍馬・晋作・孝允・勇・天璋院の書簡―

4月8日(木)から開講の講座のご案内です。
前回の龍馬企画が好評だったため、続編をやることになりました。
木曜日13:00~14:30です。原則隔週ですが、講師の都合によりそうではないところもあります。

講座の詳細は、同大学サイトのここをご覧下さい。

念のため、記事の部分もアップしておきます。
告知2






お問い合わせ・お申し込みなどはここをご参照下さい。

全9回の講座で、講師陣は宮川禎一氏(京都国立博物館)、福井淳氏(宮内庁書陵部)、久住真也氏(中央大学非常勤講師)など、錚々たる研究者たちです。
不肖、私めも過半数の5回を担当しています。次のような日程・テーマです。

4/8(木)小松帯刀書簡―薩摩藩大黒柱の真情を読む―
4/15(木)坂本龍馬書簡―国事周旋の決意と暗殺の影―
5/13(木)高杉晋作書簡―国事奔走、私事懊悩を読む―
6/10(木)近藤勇書簡―郷里や門弟との親密な交流―
7/8(木)天璋院篤姫書簡―実家島津家への愛憎こもごもを読む―


平日午後で、お勤めの方にはきつい日程ですが、もし都合のよい方で幕末維新史に興味ある方は参加してみませんか。
ちなみに、初めての受講には受講料とは別に入会金もかかるのが申しわけないのですが。

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【2010/02/13 13:54】 | 明治大学リバティアカデミー
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桐野先生、お久しぶりです。 
小林 哲也
桐野先生、こんにちは。東京龍馬会の小林哲也です。いつも楽しく新しい幕末維新や薩摩藩の情報をありがとうございます!
表題の講座、ぜひ受講したいと考えております。今からわくわくしております!

その時にはどうぞよろしくお願い致します!

私事で申し訳ないのですが、龍馬のブログを始めてみました。

本当に拙いものですが、お時間のある時にでもご覧いただきコメントいただければ大変嬉しいです。

まだまだ寒さ厳しきおり、お風邪など召されませぬようお気をつけください。

先生にお会いできる日を楽しみにまた日々を頑張りたいと思います。
             小林 哲也

















受講御礼
桐野
小林 哲也 さま

コメント拝見。
受講していただけるとのこと、有難うございます。

またブログも拝見。
詳しくて正攻法ですね。いろいろ大変でしょうが、頑張って下さい。


小林です。
小林 哲也
ありがとうございます!

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「龍馬伝」第6回
―松陰はどこだ?―

ドラマ進行時点は嘉永7年(1854)1月から6月頃。

ペリー艦隊が再度来航しました。
龍馬の千葉道場からの一時破門など、創作がつづきます。
その最たるものは、龍馬が桂小五郎とともに、下田に行き、吉田松陰の密航を制止に行くシーンですね。
もちろん、龍馬も桂もその場にはいませんから、フィクションです。

このシーン、既視感がありました。
数年前の大河ドラマ「新撰組」です。
あのときは黒船見学に、近藤勇・土方歳三と桂、龍馬に佐久間象山が呉越同舟でしたね。
多少入れ替わりがありますが、また再現ですね。
共通しているのは、龍馬と桂です。
大河ドラマで2度も刷り込んでは「史実」だと勘違いする人が出そうです。

剣で黒船に太刀打ちできるのかという、龍馬なりの苦悩が描かれていますが、史実では嘉永6年(1853)12月、佐久間象山の砲術門人帖に龍馬の名前があることから、砲術に関心をもち、佐久間象山の塾に入っていることがわかります。黒船来航から半年後ですから、史実の龍馬は自分なりに解答を見つけています。松陰先生をあえて登場させる必然性はなかったかもしれません。

一方、岩崎弥太郎ですが、相変わらず郷里の井ノ口村でくすぶっています。
ここは高知城下から相当離れていて、平井加尾がとても通ってこれる場所ではないのですが、まあ、大目に見ましょう(笑)。

ただ、弥太郎にようやく江戸遊学のチャンスが訪れました。
加尾の根回しで、多賀屋何とかという商人が弥太郎の意見書に感心して遊学費用を出してくれるという筋書になっていました。
しかし、実際は違うようです。『岩崎弥太郎伝』によれば、遊学のきっかけとなったのは、知り合いの藩士奥宮忠次郎が江戸詰に異動となったことです。弥太郎は奥宮に江戸遊学の志望を述べたところ、奥宮が心を動かされて従者にしてくれたということです。
奥宮の日記に、その一件が書かれていて、弥太郎のことを「有志の秀才なり」と記しています。優秀な人物だったことは間違いないようです。

次回は河田小龍が登場するようですね。

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【2010/02/07 21:56】 | 龍馬伝
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忍っこ
大河ドラマを見て思うのですが・・・
ドラマという性質上フィクションは、
多少やむを得ないと思うんですよ
ただその補足を地デジ等のデータ放送あるいは
ネットの公式HPなどで
ドラマ上はこうだったけれども、史実としてはこうであると
ちゃんと説明してもらえばいいと思うんですよね



テロップ
桐野
忍っこさん、こんにちは。

そうですよね。
番組の最後に、「このドラマはフィクションです」とテロップを流すだけでもだいぶ違うと思いますが。
まあ、考えてみれば、ドラマという言葉自体、フィクションを含意してますから、もし史実だと思い込むとすれば、視聴者側のリテラシーの問題かもしれませんね。


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先を越されてしまいました。
新聞連載で書こうと思っていたネタです。

南日本新聞サイトの「どげんけ?」というwebでしか見られない記事です。
ここにあります。

記事中にもありますが、この逸話は薩長の「鴻門の会」と呼ばれています。
実際、項羽と劉邦の有名な故事によく似ています。
さしずめ、大久保は樊噲の役回りになるのでしょうか。

さて、この逸話、史実なのかどうか。
記事は出典を『防長回天史』としていますが、同書にはこの逸話には見当たらないような気がします。
ふつうは妻木忠太『偉人周布政之助翁伝』(有朋堂書店、1931年刊)が出典とされますが、中原邦平『訂正補修 忠正公勤王事績』(1911年)にも同じ逸話が載っています。こちらのほうが刊行が早いので出典といえそうですね。忠正公は幕末の長州藩主毛利敬親のことです。

中原邦平は長州出身で、明治中期、毛利家編輯所に入り、『防長回天史』の編纂に加わりましたが、総裁の末松謙澄と対立して脱退しています。

名の通った史家ですから、それほど誇張や創作をするとは考えにくいです。
でも、大久保が一枚の畳を頭上でクルクル回せるほどの剛力の持ち主だったかどうか、いささか疑問なきにしもあらずです。
この日のことを大久保は日記に「頗る暴論に及び候」と書いていますから、相当激論があったことはたしかでしょう。その勢いで畳を回してしまったのでしょうか?

なお、この逸話は『忠正公~』には次のように書かれています。

「さうすると大久保一蔵は余程力のあった人と見えて、薩州の畳踊を御目にかけるといふて、畳の間へ指を突込んだが、忽ち畳を引き起して、之れを掌の上でグル/\グル/\廻し始めた、是も誰の頭へ当るか知れぬ、其れで来島の如きは刀を引寄せ、イザと言へば、直ぐ斬りつける身構へをするという云ふ風で、(後略)」

長州側は大久保が必ずしも仲裁役だとは思っていない感じですね。
大久保としては、周布政之助が堀次郎に刀を突き付けて躍っているので、それを牽制し、堀を守ろうとしての座興だったのかもしれません。

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【2010/02/07 15:35】 | 幕末維新
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先月、急用で郷里鹿児島に帰った。
鹿児島市内から実家に向かう途中、いつもと異なり、内陸の入来峠越えをした。
じつはほとんど初めて通る道だった。

入来(いりき)は鎌倉時代の有名な西遷御家人である渋谷諸族の嫡流、入来院氏の名字となった所。
昭和初期、エール大学の朝河貫一博士が英訳刊行した『入来文書』(”The Documents of Iriki”)は一躍、世界に知られるようになり、わが国の封建制研究の基本文献となっただけでなく、「サムライ」イメージの原型となったことでも知られる。

入来院氏の居城があった清色城跡は現在、入来小学校になっている。
その周辺が江戸時代の入来郷の麓(入来院氏の家来たちの集住地域)である。
じつは、私の連載のこの記事にある平田増宗暗殺現場の「土瀬戸越」に行ってみたかったのだが、せっかく友人のかじやちょうさんに教えてもらったのに、うろ覚えのまま行き、おそらく場所を間違えてしまった。またリベンジしないといけない。関連する、いくつか写真を載せておきます。

入来麓
入来郷の麓、左右に低い石垣のある武家屋敷が並ぶ






清色城跡
入来院氏の清色城跡







入来峠
ループ道があり、今でも険しい入来峠







入来峠頂上
入来峠の最高地点(奧が宮之城、出水方面)





帰路も同じ道を通ったが、明治初期の大警視、川路利良の出身地である皆与志(現・鹿児島市)を通過したので、有名なバス停を探したら、すぐ見つかった。
川路の役職にちなんだバス停である。
地元の人々が誇りをもって付けたと思われる。
しかし、西南戦争直前、ここに住んでいた川路利良の家族は私学校党に迫害・弾圧され、死者まで出した。
このバス停標識もいつまで残るかわからない。このバス会社はすでに他社に吸収合併されて、もうないのだ。
今では路線そのものも廃止されて、このバス停が使われることもない。
そのまま朽ち果てるか、その前に撤去されるかの運命が待っている。
バス停が健在なうちに撮影できてよかった。

大警視バス停
知る人ぞ知る、噂の「大警視」バス停






川路石碑
バス停近くにある川路利良生誕地の碑






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【2010/02/04 14:32】 | 歴史紀行
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朝河貫一博士と入来院氏
形影生
朝河博士については、次のホームページにくわしく掲載されています。
http://www20.big.jp/~asayale/
入来にお住まいで、『入来文書』や渋谷氏についても掲載されている、入来院さんのホームページもリンクされています。せひ見てください。


かじやちょう
3枚目の写真は郡山の方から新道を見上げた写真で、4枚目が郡山の方から峠を登りきった所ですね。車で行かれたと思いますが、注意して走るとつづら折りの旧道を新道が分断する形で作られたことがわかります。4枚目の写真のあたりから左側の方に旧道を探していくと200~300mくらいで土瀬戸だと思います。私より父の方が詳しいですので折をみてまた聞いてみます。(昔は入来峠を歩いて入来まで行っていたと話していた記憶があります。)

御礼
桐野
形影生さん、はじめましてでしょうか。

朝河貫一氏のサイトの紹介、有難うございます。
もっと知られてよい方ですね。

リベンジします
桐野
かじやちょうさん、こんばんは。

せっかく教えていただいたのに、目的を果たせず、ご好意を無にしてしまいました。
次回こそはと思っています。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第137回
―キリシタン発覚し、火刑―

連載が更新になりました。同紙サイトのここをクリックするか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は矢野主膳の一件を書きましたが、この事件が発端となって、永俊尼ことカタリナ夫人の流罪に発展するまで、3回にわたって書く予定です。

なお、矢野主膳の処刑地について桜島とする説もありますが、帖佐脇元ではないかと思っています。

近世初期のキリシタン弾圧は徳川幕府の基本政策でしたが、薩摩藩では少し特種な展開を見せました。
ひとつは、薩摩が辺境であるせいか、さまざまな亡命者やキリシタンが潜伏しやすかったこと。またカタリナ夫人という島津家当主の家族がキリシタンだったことによって、島津家久、光久が苦渋の選択を迫られます。とくに対幕関係の悪化=島津家の改易の恐れに戦々兢々としたことはいうまでもありません。

今回から3回にわたって、矢野主膳、明石小三郎、カタリナ夫人という3人のキリシタンを紹介する予定ですが、その陰にあって、キリシタン問題の火の粉が何とか島津家に降りかからないように奔走するのが、家老の伊勢貞昌です。
貞昌は近世初期の名家老といってよいと思います。いつか本連載でも紹介したいと思っていますが、その事績が多岐にわたり、またあまり劇的な面がないため、書くにはなじみにくい人物ですね(笑)。

伊勢貞昌をはじめ、比志島国隆、島津久慶といったひと癖も二癖もある人物が書けるようになればいいなと念願していますが、まだまだ未熟です。

次回はキリシタン武将で有名な明石掃部全登の一子小三郎の薩摩潜伏について書く予定です。

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【2010/02/01 21:51】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。

「矢野主膳」なる人物の名前は、そのカタリナ夫人がらみで聞いたことはあったのですが、「薩藩旧記雑録」でも彼に言及した文書は管見では見つからず、全く謎の人物だったので、今回のコラムは興味深く拝見致しました。そもそもは義弘がらみで重用された人物のようですね。中馬大蔵といい、義弘が重用する人物は一癖ある人が多いような(苦笑)

「薩藩旧伝集」の光久が主膳をなじったという話は、光久の祖母が問題のキリシタン・カタリナだったために、光久と主膳のつながりを消し去るために捏造されたっぽい逸話に感じました。

ところで、伊勢貞昌とか島津久慶は確かに気になる人物ですね。2人とも名家老でもありますが、清廉潔白とも言い難く胡散臭い人物とも言うか(苦笑)

矢野主膳
桐野
ばんないさん、こんにちは。

矢野主膳は「島津の退き口」関係の史料でも、何カ所か登場しています。
一行が戦場を離脱して駒野の山中をさまよっていたとき、義弘の鞍が毀れたのか、主膳が自分の鞍と取り替えたりとか。
ようやく住吉まで達して、それから義弘がほとんどの家来たちと別れてわずかな供回りだけで堺に潜入するのですが、その数人の供のなかにも主膳がいます。
義弘が信頼する馬廻だったのはたしかだと思います。義弘存命中はよかったんでしょうけどね(笑)。


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