歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第143回
―貴久が歓待、布教も許す―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

キリシタンシリーズが続きます。
じつは年度末の今回で終えるつもりだったのですが、書きたいことが多くてまとめきれず、次回持ち越しとなりました。

今回はシャビエル(ザビエル)と島津貴久の会見が中心でした。
イエズス会側の史料(シャビエルの手紙)はありますが、島津側の史料に記述がないことが惜しまれます。
その頃、島津氏は肝付兼演ら反島津勢力との戦いに全力を傾注していましたから、それどころではなかったともいえます。
それで、記事にも書きましたが、問題はシャビエルと貴久の会見場所はどこかという点。
伊集院の一宇治城が通説ですが、貴久は前記の戦いのため、国分清水城に張り付いていることが多かったのではないかという気がします。
シャビエルの手紙には「鹿児島から五里(5レグワか)」離れた場所に貴久がいたと書かれています。レグワは南欧諸国の度量衡で、現在のスペインやポルトガルでは、1レグワは5キロ前後です。
つまり、鹿児島から20~25キロほど離れた場所にその地はあることになります。
伊集院の一宇治城までは20キロほど。国分清水城は30キロ以上ありますが、もともと大ざっぱな数字ですから、どちらも該当すると考えてよいと思います。

ただ、記事にも書いたように、貴久生母の寛庭夫人が国分清水城にいる可能性は低いといわざるをえません。彼女は一宇治城にいた可能性が高いのではないでしょうか。

あるいは、田布施・伊作といった、もともとの本拠が該当する可能性はないのでしょうか? 両城も鹿児島から20キロほどの所にあります。

アンジローについては、次回が最終回です。
福昌寺の住持、忍室とのやりとりや、その最期などを書く予定です。

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【2010/03/30 09:20】 | さつま人国誌
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法事でこの土日、帰郷しておりました。
帰京も時間が遅かったので、「龍馬伝」はBS放送も観られませんでした。

郷里は桜が満開でした。
せっかくなので、法事のあとに見学しました。
一番の桜の名所、東光山公園から見た出水平野と不知火海の眺望です。
ちなみに、龍馬はこの平野を通り、写真右手あたりに宿泊してます。
桜




桜の季節に帰郷したことがなかったので、珍しくてよかったです。

感想は再放送の土曜日に書きたいと思います。

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【2010/03/28 23:43】 | 雑記
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そろそろ店頭に並んでいる頃だと思います。

拙稿「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」も第29回となりました。
今回のテーマは以下の通りです。

「軍事革命」としての長篠合戦

ようやく長篠合戦まで来ました。
紙数の関係で詳しく書けなかったため、論点を絞りました。
そのひとつが、決戦直前の信長と勝頼の形勢判断比較。
次に、長篠合戦での鉄砲の数量と運用法。

鉄砲の伝来がわが国に軍事革命をもたらしたといわれていますが、何をもってそういうのか、もう少し詳しく見るべきだろうと思います。もっとも、今回の記事で十分展開できたとは思いませんが。
ただ、その背景として、わが国では東西の戦国大名の間に軍事的差異があり、その差異を信長がうまく利用したといえるかもしれません。

興味のある方はご覧下さい。

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【2010/03/24 13:09】 | 信長
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忍っこ
桐野先生お早うございます。
歴史読本読ませていただきました。
関連本等で信長軍は3000丁という鉄砲の量と三段撃ち戦法
を知りましたが、
数と飛距離の問題がどうも理解しかねていました。
今、桐野先生の本「だれが信長を殺したか」を
興味深く読ませていただいています。
嘘で固めたドラマより史実が面白いですね

御礼
桐野
忍っこさん、こんにちは。

歴読も拙著も購入されて読んでいただき、有難うございます。
ご指摘のとおり、長篠合戦の鉄砲の問題は難しいですね。

拙著についても、よかったら感想をお寄せ下さい。

反論でしょうか?
市野澤
こんばんわ。

八木書店のHPで見つけました。

『証言 本能寺の変』
藤田達生著(三重大学教授)
初版発行予定:2010年6月2日

予価3,570円(本体予価3,400円+税5%)
A5判・上製・カバー装 330頁
ISBN978-4-8406-2048-2 C0021
未刊

史料で読む 戦国史
従来の常識・通説に左右されることなく、「本能寺の変」を史料に基づき検証!
本能寺の変研究を織田政権論の重要なテーマとして位置づける
<内容説明>
●百家争鳴の本能寺の変を、良質の史料群により証言!
●史料編には、関係史料(合計117点)を収録。
●各史料には、読み下し文を付し、本文中にて平易な解説を加える。

■本能寺の変の実像を暴く!
本事変に関わる基本史料を紹介し、読み下し文を付し解説を加える。
 このクーデターの分析を通して、室町幕府最後の将軍、足利義昭とその幕府の実態を明らかにし、それをもとに織田政権論を再検討する。

①足利幕府は、元亀4年(1573)7月、義昭の追放により滅亡したのか?
②義昭の亡命政権「鞆幕府」の実態は?
③江戸~明治にかけて「つくられた」信長・義昭・光秀の歴史像とは?

本書によって、良質の史料を解読・解釈し、立論するという歴史学の方法を追体験し、さらには、教科書レベルの「常識」を疑うことの重要性を「体感」できる。

10年来、「本能寺の変」を研究テーマとし、数々の論考を発表してきた筆者の集大成。

<目次>
はじめに
 本能寺の変ブーム 戦後歴史学の陥穽 小著のねらい

プロローグ ―明智光秀は逆臣だったのか?―
 信長の改革思想 謀反の正当性

第一章 信長の西国政策
1 荒木村重の謀反
 謀反の端緒 信長包囲網に属す 脆弱な織田政権
2 四国政策の変更
 光秀と長宗我部氏 三好秀次の誕生 
コラムⅠ 幕府衆としての光秀
 秀吉と長宗我部氏 派閥抗争
3 秀吉の長宗我部氏攻撃
 長宗我部元親の外交 羽柴―三好ライン 派閥抗争の勝者 西国支配構想
 〔第一章 史料編〕

第二章 天下統一の最終段階
1 紀伊国の幕府方勢力
 将軍亡命 紀州惣国一揆 
コラムⅡ 紀州惣国一揆か「雑賀惣国」か?
 雑賀攻撃 高野山攻撃
2鞆の「公儀」
 なぜ鞆の浦なのか 公方御所 幕府の陣容 幕府財政 外交権
3 西国出陣
 秀吉の調略 揺れる海賊家中 四国攻撃 長宗我部氏の危機 
コラムⅢ 三日前でも挙兵は決断できていなかったのか?
 〔第二章 史料編〕

第三章 「安土幕府」の時代
1 安土行幸
 行幸計画 遷都構想 「安土幕府」 幕府とはなにか 空前の政権
2 改革イデオロギー
 天下人としての荘厳 外交戦略 困惑する朝廷
3 三職推任
 将軍推任へ 将軍任官のねらい 反信長勢力と朝廷
コラムⅣ 似て非なるもの―安土城天主と大坂城天守―
 〔第三章 史料編〕

第四章 本能寺の変
1 光秀の密使派遣
 越中魚津城の攻防 クーデター計画 史料批判をめぐって
2 従軍武士・周辺住民の証言
 家康の臣従 供応役をめぐるトラブル 謀反に踏み切る
3 クーデター決行
 愛宕百韻 六月二日の意味 将軍推任への回答
4 政権構想と支持基盤
 信長燃ゆ 合流する勢力 幕府再興 義昭のアプローチ
5 公方の画策
 上洛命令 義昭の誤算 落日の「鞆幕府」
コラムⅤ 各地に残る光秀伝承
 〔第四章 史料編〕

第五章 太閤と神君の神話
1 備中高松の講和
 備中高松城 講和締結 戦場の駆け引き
コラムⅥ 光秀の密使は捕まったのか?
2 復元「中国大返し」
 情報戦を制する 作られた神話 名分にこだわる光秀
3 天下の再建
 下剋上 幕府衆の最期 将軍権力のゆくえ
4 「神君伊賀越え」
 わずかな手がかり 基本文献 推定ルート 由緒の創造
 〔第五章 史料編〕

エピローグ―信長スクール―
 改革者とは 不世出の思想家 時代の教育者

おわりに
 通説を疑う 本能寺の変と現代
史料解題
初出一覧
文献一覧
本能寺の変の推移

ご存知でしたら、申し訳ありません。

ご教示多謝
桐野
市野澤さん、こんばんは。

藤田達生氏の新刊予定、お知らせいただき有難うございます。
精力的に書かれていますね。
初出一覧がありますので、これまで書かれたものを集大成したものでしょうか?

>三好秀次の誕生

相変わらず天正9年説にこだわっておいででしょうか?
尾下論文でほとんど否定されたと思うのですが……。

いずれにせよ、このテーマの深化に寄与すればよいですね。

戦国史研究会シンポジウム「織田権力論―領域支配の視点から―」
市野澤
こんばんんわ。

>相変わらず天正9年説にこだわっておいででしょうか?

こだわっていらっしゃるのは鞆の浦に関しても同様のようです。

ご存知かと思いますが、↓凄い興味深くないですか?

平成22年6月12日(土)
9時~17時30分
場所 駒澤大学
「織田権力の京都支配」木下昌規
「織田権力の摂津支配」下川雅弘
「織田権力の和泉支配」平井上総
「織田権力と織田信忠」木下聡
「織田権力と北畠信雄」小川雄
「織田権力の北陸支配」丸島和洋
「明智光秀の領国支配」鈴木将典
「羽柴秀吉の領国支配」柴裕之
「織田権力の取次」  戸谷穂高

意外な方が、意外なテーマを取り組んでいるのに少々驚きました。

参加者の一人である平井上総氏といえば、
「津田信張の岸和田入城と織田・長宗我部関係」
『戦国史研究』第59号は尾下成敏氏の研究と同様に
桐野さんの見解の補強になりません?

知ってました
桐野
市野澤さん、こんにちは。

コメント遅くなりました。
情報有難うございました。
そのシンポ、知ってました。
ただ、出席できるかどうか微妙なところです。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第142回
―殺人犯し、改心して入信―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここをクリックするか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回も薩摩のキリシタンシリーズです。
フランシスコ・ザビエルの来日を案内した薩摩人アンジローについて書きました。
当初、上下の2回のつもりだったのですが、まとめきれずに3回になるかもしれません。

今回は亡命したアンジローがマラッカでザビエルと会い、インド・ゴアでの修行と再来日までを書きました。
古くは海老沢有道、近年は岸野久・清水紘一といった先学諸氏の学恩を蒙っております。
この方面の研究は日進月歩で、とくに史料の活字化、翻訳化も著しく伸展していることを実感しています。

それでも、アンジローは謎が多い人ですね。
名前はもちろん、出身や出自など前歴もさっぱりわかりません。
ザビエル書簡などによれば、どうも鹿児島出身(鹿児島市近辺)ではないかという気がします。
名前については、祢寝氏の分家で、池端弥次郎重尚ではないかという説もありましたが、現在では否定されています。
重尚は南蛮船と唐船の戦闘に巻き込まれて戦死していますが、その年次について疑問が出ており、すでにアンジローが亡命する前に死んでいるようですから、別人になります。

面白いのは、アンジローの国家認識というか、帰属意識です。
アンジローが受洗してからローマのイエズス会総会長に送った書簡がありますが、その末尾に、

僕なるジッポン人(Gitpon) サンタフェのパウロ

と署名しています。

「にっぽんじん」ではなく「じっぽんじん」。
これはアンジローの読みなのか、それとも当時の普遍的な呼び方だったのでしょうか?

考えてみれば、島津日新斎も「にっしんさい」ではなく「じっしんさい」と読むようです。
わが国の国名「JAPAN」も「じっぽん」から来たんでしょうか?

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【2010/03/23 00:28】 | さつま人国誌
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松裕堂
>アンジローの読みなのか、それとも当時の普遍的な呼び方だったのでしょうか?
九州地方や上方における宣教師の布教に益する目的で1603年に刊行された『日葡辞書』には、「日本」について「ニホン」(当時のハ行の発音は現在とは異なるので注意)・「ニッポン」・「ジッポン」の呼称が記されているそうですから、「ジッポン」がアンジロー一人の読み方ってことはまずないでしょう。

「日」の漢音が「ジツ」で、なおかつ「日域」(ジツイキ)という呼称が日本の代名詞としても使われていた中世のこと、当時の人にとってはさほど違和感ない呼称だったのではないでしょうか。

>わが国の国名「JAPAN」も「じっぽん」から来たんでしょうか?
JAPANの語源については諸説あるみたいですが、元朝~明朝期の漢土における日本国の呼称がそれに近い音(といっても転訛分を含め近いというレベル)なのだそうで、現代中国語でも日本人を「ズーベン」にちかい音で呼ぶことから、時代差を含めても欧州における漢土からの借用語がJAPANの由来である、とする説が一番妥当なような気がします。

ちょっとした中国音韻について書かれた本でも調べればわかりそうですね。

管理人のみ閲覧できます
-


日葡辞書
桐野
松裕堂さん、こんにちは。

ご指摘のとおり、日葡辞書を見ればと思っていたのですが、面倒くさくて見ませんでした。有難うございます。

中国語での「日本」(ri-ben)の発音ですが、私も少し中国語をかじっていたので、ある程度わかるのですが、そり舌音の一種で発音が難しいです。
ただ、私の耳には「ジーベン」または「ジーパンと聞こえます。たしかに「ジャパン」に近いですね。
JAPANの由来は諸説ありそうですね。

アドレス
桐野
お知らせです。

このエントリーで、管理人しか閲覧できないコメントをいただきました。
お返事も同様の形にしたほうがよいと思いますが、残念ながら、アドレスが記載されていなかったので、返信できません。
もし返信をお望みなら、ご一報下さい。不要なら、そのままで結構です。
よろしくお願いします。


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第12回「暗殺指令」

ドラマ進行時点は文久2年(1862)正月から3月初め。

このところ、忙しいというより、テンションが下がっていて、なかなか更新できませんでした。
こんなときこそ、いただいた著書や論文を紹介すべきなんでしょうが……。

さて、ドラマも龍馬が脱藩する直前、吉田東洋が暗殺される直前まで来ました。

ただ、何というか、幕末の主要人物の造形が少し軽いように思うのは、私だけでしょうか?

武市半平太については、以前からそう思っていました。もっとカリスマ性のある人物だと思うし、龍馬との仲も良好だったはず。

今回、龍馬が長州の久坂玄瑞を訪問して、「攘夷とは何ぞや」と初歩的な質問をしておりましたが、果たして龍馬はそんなに無知で、安政条約の中味を知らなかったのでしょうか?
どうも龍馬の目線を視聴者のそれとパラレルにしてあるような。親しみやすいといえば、そうなんでしょうけどね。

また、久坂玄瑞もいたずらに「松陰先生」を連呼して慷慨の士に描かれていましたが、松下村塾随一の英才であり、もっとカミソリのように切れる人物だと思うんですけどね……。

まず、龍馬の長州行きですが、これは久坂の日記『江月斎日乗』に少し記述があります。その部分だけを抜き出します。当時、久坂は藩主の江戸出府を阻止する伏見要駕策が失敗して謹慎中でした。

正月14日
「土州阪本龍馬、武市書翰を携え来訪、松洞に托し、夜前街の逆旅に宿せしむ」

正月15日
「龍馬来る、話す、午後文武修行館へ遣す、(中略)阪本生などの周旋も有之を以てなり、夜寺島と薩人を訪う、夜半帰家、薩人は田上藤七と申す男にて有之候」

正月21日
「土人の寓する修行館を訪う、中谷と同行、是の日薩人を訪う」

正月23日
「是日を以て土州人去る」

久坂の日記によれば、龍馬は10日ほど萩に滞在したようです。
龍馬は萩城下の旅宿や、「修行館」に宿泊していたようですね。これは藩校明倫館のなかにある道場有備館のことでしょうか。龍馬がやはり剣術に関心があることが判ります。ここで、龍馬は長州藩士と試合をし、負けたと伝わっていますね。

でも、龍馬のもっとも重要な目的は、久坂も日記に書いているように、「周旋」のことでしょう。
これは、同時期に薩摩藩士の田上藤七も久坂を訪れていることから推定できるように、薩長土三藩による連携、とくに京都での尊王決起について、何らかの打ち合わせがあったと見たほうがよいでしょう。
つまり、「攘夷とは何ぞや」などと龍馬が久坂に教えを乞うどころか、龍馬は土佐勤王党首領の武市の名代として「周旋」に関わっているわけです。ドラマの描き方は違和感ありましたね。

それで、ドラマには登場しませんでしたが、久坂の日記に出てくる「薩人」、薩摩藩士の田上藤七。最後の龍馬紀行で紹介された石碑に名前が刻まれていました。
じつは私も彼のことは詳しくは知りません。龍馬が最初に会った薩摩人かもしれません。
本名は田中頼庸(1836~97)といいます。龍馬より1歳年下です。国学者で神道家ですから、その主義主張のほどは知れます。
父親の罪科で奄美大島に流されています。母親は樺山氏ですから、樺山三円と親戚の可能性が高いです。ただ、精忠組の名簿にありません。ないからといってメンバーではないとは断言できませんが。久坂の日記には、田上が樺山三円の書簡を持参したとありますから、これまでの武市や久坂の人脈から考えると、樺山三円の仲間なのは確実ですね。
龍馬が武市の使者だったように、田上も薩摩藩尊攘派の代表格だった樺山三円の使者だったわけですね。2人が同時期に久坂を訪問しているのは偶然ではないでしょう。
田上は明治になってからは山陵調査などを行い、古事記や神道関係の著作も多くあります。のちに伊勢神宮の大宮司などを勤めています。

なお、龍馬が萩を離れる直前の21日、久坂は武市に書簡を送っています。これは龍馬のことを触れているだけではなく、松陰先生の愛弟子たる久坂の真骨頂を示したものですね。

まず龍馬に関する部分は、
「此度阪本君お出游在らせられ、腹蔵なくご談合仕り候、事委曲お聞き取り願い奉り候、(中略、下記の部分あり)就いては坂本君へお申し談じ仕り候事ども、篤くご熟考下さるべく候」

そして、一番有名な一節は、
「つひに諸侯恃む(たのむ)に足らず、公卿恃むに足らず、草莽の志士を糾合、義挙のほかにはとても策これなきことと、私共同志中申し合わせ居り候ことに御座候、失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、大義なれば苦しからず」

龍馬が久坂と国事について重要な打ち合わせをしたことは明らかです。
とりわけ、久坂が土佐藩も長州藩も滅亡しても大義が立てばよいと喝破したことは痛快で、吉田松陰の「草莽崛起」論(久坂の部屋に大書して張り出してありました)そのものであり、龍馬の脱藩に影響を与えた可能性がありますね。
こうした久坂の考えをみると、ドラマはいささか緊張感を欠いていたといわざるをえません。

また龍馬の萩行きは、武市の吉田東洋への建白や会見とも関係があるはずです。
ドラマで描かれたように、武市は同志たちを引き連れて強訴したわけではなく、おそらく単独で東洋に合っていると思われます。
その会談の中味も、尊王攘夷一般ではなくて、土佐藩の藩論を定めるにあたって、その具体策を提起したものであったはずです。
そのひとつは、土佐藩が薩長と連携し、朝廷守護のため率兵上京すべきだという国事方針。
もうひとつは、前藩主山内容堂の赦免をどのような方法で勝ち取るのか。武市は無勅許条約調印や和宮降嫁など、幕閣の非を糾弾することによって。東洋は幕府との妥協策で。という方法論の違いがあったのではないかと思います。

武市は畏敬する容堂を押し立てての「闔藩勤王」路線を貫徹しようとしていましたから、容堂の赦免を幕府に強く要求して正々堂々と勝ち取ろうと考えたのではないかと思います。

次回はいよいよ東洋暗殺と龍馬の脱藩ですね。

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【2010/03/21 23:08】 | 龍馬伝
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久坂との会見
NAO4@吟遊詩人
いつもお世話になっています。
ブログ拝見し、龍馬と久坂玄瑞の会見の意味合いが、ようやく分かりました。ありがとうございました。

久坂玄瑞
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

少しはお役に立ててよかったです。
久坂玄瑞はもっと評価されていい人物ですね。
久坂との出会いが、龍馬脱藩の触媒になった気がします。

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表紙写真


表題の拙著、三刷になったそうで、昨日、見本が届きました。

地方出版のため、販路が限定されているなか、我ながらよく健闘していると思います。読者のみなさんに感謝します。
詳しくは版元のサイトであるここに拙著の案内があります。
鹿児島の方は地元書店や新聞販売店を通じて購入できます。県外の方は版元に直接申し込むか、大手書店(ジュンク堂や紀伊國屋書店など)やネット書店などでも購入できます(アマゾンでは扱っていません)。
*後筆:「アマゾンで扱っていません」と書きましたが、念のため、調べてみると扱っていました。

姉妹編というべき戦国・近世編も早めに刊行しないといけないですね。
これを刊行したら、相乗効果も期待できますしね。
早く着手しないといけないのですが、多忙と不器用のため、思うにまかせません。
すでに一冊にまとめるには十分すぎるほどの分量がたまっています。
ちょちょちょいとまとめられたらいいんですけどね。
若干の加筆や訂正だけならいいんですが、新聞と書籍の書き方の違い(・や、の使い方や年号と西暦表記の違いなど)もあって、成稿までに意外と手間取るんです。助手がほしいくらいですね。

いつも後手後手に回るから何とかしたいものです。

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【2010/03/16 23:13】 | 新刊
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第11回「土佐沸騰」

ドラマ進行時点:万延元年(1860)~文久元年(1861)9月頃

安政5年(1858)から桜田門外の変があった万延元年まで飛びました。
たしかに安政6年の龍馬の動きはよくわからなくて、土佐藩の西洋砲術家、徳弘孝蔵に入門しているくらいでしょうか。

井伊大老が水戸浪士らに暗殺された桜田門外の変について、龍馬がどのような感慨を抱いたかですが、『維新土佐勤王史』には、次のように書かれています。

「諸君何ぞ徒らに慷慨するや、是れ臣子の分を尽くせるのみ、我輩他日事に当る亦(また)此の如きを期さんと」

龍馬は水戸浪士の行動を「臣子の分を尽くした」ととらえています。これは孝明天皇から戊午の密勅が水戸藩に下されたのに対して、井伊を首班とする幕閣がその返納を命じたことを理不尽だというわけです。天皇に対して水戸藩が朝臣だという後期水戸学的な考え方が「臣子の分を尽くす」という意味でしょうか?
この時点において、龍馬の勤王思想を叙述したものですが、一次史料には見えませんし、どこまで史実かどうかはわかりません。むしろ、この程度なら龍馬に限らず、尊攘派の人間なら誰でも唱えそうですが。

桜田門外の変からちょうど1年後の文久元年(1861)3月3日、桃の節句に事件が起きました。
高知城下西の井口村で、上士と下士の対立が些細なことから殺傷事件へと発展しました。
弟を斬られた池田虎之進が上士の山田広衛と益永繁斉を殺害しました。
その後、ドラマにもあったように、上士と下士は集結して気勢を上げ、一触即発となります。
さて、このとき、龍馬がどのような行動をとったのか、私は不勉強でよくわかりません。

ひとつ、疑問だったのは下士たちが虎之進の家に集まっていましたが、そのなかに岡田以蔵もいました。
これはどうでしょうかね? というのは前年7月から武市半平太は九州視察に出かけ、以蔵も同道しています。そして、半平太は以蔵を剣術修業の名目で豊後岡藩に預けていますから、井口村事件のとき、以蔵は帰国していたんでしょうかね?

井口村事件が虎之進と宇賀喜久馬の切腹により落着すると、半平太はまた江戸に出府します。
ドラマの何回か前、久坂玄瑞・佐々木男也・樺山三円(資之)・桂小五郎らと会見する場面がありましたが、実際はこのときでしょう。もちろん、龍馬は同行していません。

そして、8月、半平太は江戸で土佐勤王党を旗挙げします。
このとき、江戸鍛冶橋の土佐藩邸にいた下士は半平太のほか、大石弥太郎、小笠原保馬、河野万寿弥、池内蔵太、柳井健次、広田恕助などのようです。

それで、ドラマでは在江戸の者が先に血盟者名簿に署名し、土佐在住者では龍馬が一番目に署名するように促されていました。これはほぼ史実かもしれませんね。龍馬は9番目に署名していますが、8番目までは次の順番で署名しています。

○武市半平太
○大石弥太郎
 島村衛吉
 間崎哲馬
 門田為之助
○柳井健次
○河野万寿弥
○小笠原保馬
 坂本龍馬

私の乏しい手持ち史料で在江戸を確認できたのは○印の人物です。『武市瑞山関係文書』をもっていないため、あとの3人の所在地はわかりません。中村武生氏がそのうち書いてくれると思います。

気になるのは、明らかに在江戸の池内蔵太の名前が名簿にありません。これはおそらく名簿が山内容堂に提出された文久3年(1863)3月時点で、内蔵太が脱藩していたからではないでしょうか?
また龍馬も同2年に脱藩していながら、署名があるのは同3年2月25日に容堂から脱藩の罪を許されていたからでしょうか?
ほかに、岡田以蔵の名前もあとで削除されたといわれています。

現存している名簿の写しには、192名の名前があります。これは結成当初ではなく、その後に加盟した者を含めた最終的な数です。土佐8郡から加盟したといわれますから、相当な勢力ですね。
ちなみに、薩摩藩の下級城下士の結社、精忠組の加盟者は50名ほどですから、土佐勤王党の規模の大きさがわかります。その後、武市が藩政に進出して実権を握るのは、ひとえに同党の存在ゆえですね。

次回は吉田東洋暗殺直前をやるようですね。

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【2010/03/15 20:33】 | 龍馬伝
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龍馬が上士に?
忍っこ
「土佐沸騰」見ました。
今回のドラマでありえないことが放送されていました。
それは、上士殺傷事件で龍馬が単独で上士にかけあい
話しで決着したい意志を伝えたのち
吉田東洋に呼ばれ龍馬に対して
おまんを上士に取り立てちゃると吉田東洋が言ってましたね
耳を疑ったのですが、土曜日に再放送があるのでもう一度見てみたいと思います。
あの郷士嫌いの吉田東洋が・・ですよね
これから脱藩にどう結びつけるか、という時に残念です。
あれはないでしょう 

呼ばれましたので
中村武生
中村武生です。
 桐野先生の書庫にない本が拙宅にあるとは光栄です。
 とりあえず島村衛吉の在府は、樺山三円日記でわかるようです。
 文久元年8月28日条に、「土州の藩武市半平太、島根英吉同伴被参候」とあります(『武市瑞山関係文書』1、53ページ)。
 「島根英吉」は島村衛吉の誤りだと同書に注記があります。

 間崎哲馬と門田為之助は在府せず、実は在土佐だと、松岡司氏『定本坂本龍馬伝』140ページは記します(典拠の記載はありませんが)。
 のち削除された池内蔵太・岡田以蔵の空白部分に両人を埋めたのが原因だと同書は推定しています。ご参考まで。

龍馬が上士に?
桐野
忍っこさん、こんばんは。

ご指摘のとおりですね。
ドラマではたしかに吉田東洋が龍馬を上士にすると言っていました。でも、東洋がそもそも龍馬を知っていたかどうかも怪しいですから、ありえそうもありません。
もっとも、岩崎弥太郎もどさくさ紛れに上士末端の留守居組に昇進していますから、下士から上士になるのがまったく不可能というわけではないと思います。

何というか、今年もまた、脚本家の想像力が史実を凌駕できないですね。そんなことなら、妙にいじらないで、史実どおりに作ったほうがよほど面白いと思うんですけどね。
とくに武市半平太の造形には問題ありですね。半平太が矮小化されていると思います。


なるほど
桐野
中村武生さん、こんばんは。

わざわざのご回答痛み入ります。
やはり3人のうち、間崎哲馬と門田為之助は在府していなかったのですね。
彼らの名前が上位に載せられたのは、削除された池内蔵太と岡田以蔵の替わりというわけですか。
なるほど面白い。となると、以蔵も江戸にいたことになるんでしょうか?


松裕堂
どうも、大河ドラマは視れてないのでアレですが松裕堂です。

>井口村事件のとき、以蔵は帰国していたんでしょうかね?
おそらく帰国していないはずです。
井口村事件に関する話題で以蔵が出てくるような論を私は読んだことがありませんし、なにより古沢迂郎の執筆した半平太伝には、江戸での再会を期して両者は別れたことになってます。

また「岡田以蔵の道中控」を自著に引用する平尾道雄氏は、「翌年[文久元年]三月」まで堀道場で修行したとも書いてますんで、時間的なことを考えると難しいかと。

>在江戸を確認できたのは○印の人物
横田達雄氏によると、間崎と龍馬以外の面々については結成当時「江戸に在りたるは明らかなり」とのことなんですが、中村武生さんも上記されているように松岡司氏によると、間崎と門田は在府していなかったそうなので、いざ史料的な裏付けとなると私はよく存じません。

ただ半平太伝や『維新土佐勤王史』によるかぎり、間崎と門田の在江戸は確認できませんので、消去法になりますが両者ともおそらくは在土佐でしょう。

>以蔵も江戸にいたことになるんでしょうか?
島村衛吉の証言によると岡田以蔵も江戸で加盟したことになってますので、前記した理由とあわせ恐らくは江戸かと。

ご教示多謝
桐野
松裕堂さん、お久しぶりです。

細かい疑問を教えていただき、有難うございます。
岡田以蔵はやはり井口村事件のときは不在だった可能性が高いんですね。
土佐勤王党名簿の署名のやり方や順番については、とくに当時の龍馬の位置づけなどとも関わり、意外と重要なことかもしれませんね。


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先週も講演・講座などが多かった。
4月からの新講座も含めて、まとめて書いておきます。

7日(日)は午後から千葉県市原市でシルバーカレッジ市民講座の講演会に出かけた。
「坂本龍馬の魅力」と題して、90分話した。
旬な話題のせいもあって、参加者は200名近く。折からの冷たい雨の中、多くの方々に聴いていただいた。

私にしては、あまり史料に頼らない講演だった。
でも、大河ドラマとリンクしていたせいで、意外とうまく話せた気がする。
参加者のみなさんも熱心に耳を傾けておられる様子が壇上からもわかった。

あとで、参加者のアンケート結果を送っていただいたが、こちらが恐縮するほどの高評価に驚く。変に自信がついちゃいそうです(爆)。

9日(火)は夕方から神保町で、いつもの「てらこや」に出講。
長くやってきた「小松帯刀と幕末薩摩藩」のシリーズもついに終わりました。
じつに50回以上です。時間にして80時間ほど。レジュメもファイルに綴じてありますが、厖大な厚さになっています。平均して毎回B4で10枚以上は用意しましたから、それだけで500枚以上になる計算。
篤姫から小松帯刀という流れも、今となっては遠い昔の物語のようです。
でも、まだ個人的に宿題が残っていることは忘れていません。

10日(水)
午後3時から、三鷹駅前のサテライトキャンパスで、武蔵野大学市民講座「信長記を読む」に出講。
これも全10回のうちの10回目、最終回でした。
信長が足利義昭を奉じて上洛するまでを、首巻のほか、『愛知県史』所収の史料を使って解説。
『愛知県史』資料編のおかげで、これまでバラバラに収録されていた史料をまとまって見ることができたのはとても有難い。ただ、比較的知られている史料が収録洩れになっていたり、年次比定について疑問を感じるものがある。どうなんだろうか?
武蔵野大学のほうは、私の個人的な事情でしばらくお休みさせていただくことになりました。
受講生のみなさんには申し訳ないと同時に、長らく聴いていただき、有難うございました。


4月からは、次のような新しい講座が始まります。
興味のある方は参加してみませんか。

○小学館アカデミー「てらこや」
 「坂本龍馬と丁卯日記」全5回 初回は4月13日(火)19:00~20:30
 詳しくはここです。

○明治大学リバティアカデミー
 「幕末維新 志士の手紙を味わう」全9回 初回は4月8日(木)13:00~14:30
 詳しくはここです。
 全9回のうち、私の担当は5回で、小松帯刀、坂本龍馬、高杉晋作、近藤勇、天璋院篤姫の5人を取り上げます。

○栄・中日文化センター講座
 「戦国の手紙を読み解く」全6回 初回は4月22日(木)15:30~17:00
 新講座です。同日開講の「信長公記を読み解く」は継続しておりまして、それが終了してから連続してやります。
 詳しくは同センターサイトの表紙(ここ)から、「4月スタートの新講座はこちら」をクリックししていただくと、カテゴリーが表示されます。そのうちの「歴史」をクリックすれば、冒頭にあるのが私の講座です。

ほかにも龍馬や信長関係の講座・講演がすでにいくつか決まっています。
追って告知する予定です。

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【2010/03/14 18:26】 | イベント
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大変にお忙しいですね
木暮兼人
僭越ながらお疲れ様です

月ごとのお講座も大変魅力的ですが・・・
子供の預け先に悩んでいるところです(笑)
単純に託児といっても
費用もバカになりませんし・・

まだ掲載になっておられませんが
清洲だけはなんとか参加できないかと
現在模索してる段階です


清須市
桐野
木暮兼人さん、こんばんは。

お久しぶりです。
そういえば、うっかりしていて、清須市の講演はまだ書いていませんでした。
ご出席できるといいですね。

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小生が講師をしている小学館アカデミー古文書塾「てらこや」。

これまでずっと続けてきた「幕末薩摩藩と小松帯刀」のシリーズが9クール、天璋院篤姫シリーズからだと、11クールくらい、50回以上、あしかけ4年つづけてきましたが、今週9日をもって終了しました。

そして4月13日(火)からは新シリーズとして坂本龍馬と丁卯日記を始めることになりました。
『丁卯日記』は幕末越前藩のいわば公用日記に近いもので、松平春嶽の側近、中根雪江が執筆したものです。
執筆期間は、干支である丁卯が示すように、慶応3年(1867)10月~12月までの3カ月分です。

この時期は大政奉還、王政復古政変など大事件があり、何より、近江屋事件が勃発しました。
坂本龍馬は越前藩に知友が多く、わずか3カ月の日記にも、龍馬が何度か登場します。
そういう点も、テキストに採用した理由です。

本来は、文久年間の『再夢紀事』あたりから読みたかったのですが、厖大な量になるので、とりあえず、おいしい所をつまみ食いすることにしました。

龍馬については、もちろん慶応3年秋期だけでなく、もっと以前から書簡を中心に見ていきたいと思っています。
それで、どのような講座になるのか、なるべく多くの方々に知っていただきたいために、体験講座を開くことにしました。

講座内容は、先日公表した坂本龍馬の新出書簡(詳しくはここ)について、その中味や年次、当時の龍馬の置かれていた環境などについて、さらに突っ込んで検討する予定です。

日時:3月23日(火)19:00~20:30
会場:古文書塾「てらこや」
   会場住所:神田神保町2-14SP神保町ビル
   交通:都営地下鉄または東京メトロ半蔵門線「神保町駅」 徒歩約2分
      JR「水道橋駅」 徒歩約12分
   地図はここをご覧下さい。

1回限りで、受講料もリーズナブルです。
お問い合せ・申し込みは小学館アカデミーのここで、「桐野作人の体験講座について」お尋ね下さい(サイトの中には体験講座の案内はありませんので悪しからず)。フリーダイヤルです。
また4月13日19:00からの本講座も同サイトからお問い合せ・お申込みができます。こちらもよろしく。

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【2010/03/13 09:04】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第141回
―偽りの改宗から種子島へ―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回はカタリナ夫人の最終回です。
いよいよ彼女に対して種子島に配流が決定します。
いくら幕府の禁制とといっても、現藩主の姑、次期藩主の祖母ですから、処刑するわけにはいかず、配流しか選択肢がなかったということでしょう。
そして配流先がなぜ種子島になったのか、記事に書いたように、それにも理由があります。

カタリナ夫人が家久や藩当局からの圧力により、浄土宗に改宗しています。
問題はこれを偽装と見るかどうかという点です。改宗したとされる時期がいつなのかよくわかりません。配流より少し前だったようですが、家久や藩当局はこの改宗を真正なものと認めなかったのでしょうね。もし認めたら配流は中止になったはずですから。
キリシタンの祭具を焼却したとか、夫人側は改宗の証をそれなりに示しています。踏絵はあったのでしょうかね? そのあたりが見極められず残念です。

2年前に種子島に行ったとき、カタリナ夫人の墓所を初めて参拝しました。種子島家の墓地の一角にありました。
種子島での配所が、中心地の赤尾木周辺より遠隔地にあったのが、赤尾木近くまで移されているのは、種子島家の同情なのか、改宗の実を認められたのかどうかまではわかりません。

次回は他のキリシタンを書こうかどうか迷っているところです。
税所七右衛門はすでに紹介されているし、あとは日新斎の家老だった新納康久家のことか。個人的には新納旅庵も最初はキリシタンだったのではないかと疑っているのだけど……。

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【2010/03/09 10:22】 | さつま人国誌
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第10回「ひき裂かれた愛」

ドラマ進行時点は安政5年(1858)、龍馬24歳。

龍馬が千葉定吉から免許皆伝の巻物をもらい、帰国後、それを開いて家族に見せていました。
この免許はたしか長刀兵法のものではなかったでしたっけ?

ともあれ、龍馬は修業を終えて帰国します。佐那とも別れたわけですが、まだ2人の関係は続くようですね(昨夜の番宣番組より)。

土佐に帰国したのが9月。その後、重要な事件があったのですが、加尾の隠密話に重点が置かれてスルーされてしまったようです。
龍馬が帰国してほどない11月、水戸藩士の住谷寅之助と大胡聿蔵が土佐国境までやってきて、龍馬が立川番所まで会いに行っています。このとき、住谷が日記で有名な龍馬評をしていますね。いわく、

「龍馬誠実、かなりの人物、しかし撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」
「頗る愛すべき人物也、郷士にて他国の比にあらず」


住谷らは当時、一級の攘夷派志士ですが、彼らは龍馬を高く評価しながら、土佐や龍馬が当時の政局について情報を何も得ていないことも付け加えています。
この年8月、井伊大老の安政条約無勅許調印に怒った孝明天皇が有名な戊午の密勅を水戸藩に下しています。そのなかには幕府糾弾の意を諸藩に伝えるようにという条項がありました。
住谷らはこの密命に従って、同志を募る遊説のため土佐と伊予の国境にまでやってきたのだと思います。そして龍馬が彼らに会ったのは武市の指示だったかどうかわかりませんが、いずれにせよ、土佐藩の尊攘派代表として会見したことになります。
ドラマでは、龍馬が武市派と対立して孤立しているように描かれていますが、どうも違和感があります。

ドラマはスルーしてしまったので、住谷らがやってきた立川番所の写真を載せておきます。
立川番所





そして戊午の密勅に対する幕府側の反動として、安政の大獄が始まります。
これにより、土佐藩主山内豊信も隠居を命じられしまい、容堂と名乗りを替えます。容堂は隠居するにあたって、吉田東洋を再び参政に登用し、藩政運営を任せます。

東洋の復活により、門閥派には東洋排斥の動きが出てきます。
武市はその間隙を突く作戦に出て、山内家一門の山内民部などと結ぶことになります。

またドラマでもあったように、容堂の妹友姫が三条家の嫡子公睦に嫁ぐことになり、加尾がその侍女として上京することになりました。
三条家(転法輪家)は清華という摂関家に次ぐ高い家格で、当主実万(さねつむ)は孝明天皇の信任が厚かった人物です。有名な三条実美は実万の四男で、公睦の死により家督を継ぐことになります。
山内家と三条家の関係は、島津家と近衛家の関係によく似ており、代々婚姻関係によって結ばれていました。容堂の夫人も実万の養女ですし、実万夫人も山内豊資の妹紀子です。実美の生母でもあります。

加尾の上京により、龍馬との仲が引き裂かれたのかどうかはわかりませんが、龍馬が加尾にあてた現存する唯一の書簡は文久元年(1861)9月のもので、龍馬が脱藩する半年ほど前ですが、袴・羽織・宗十郎頭、その他大小を用意してくれという事務的ものですが、むしろ、それだけで2人の意思疎通ができる関係にあったともいえそうです。
この書簡の頃は、加尾は在京しているわけですが、龍馬はすでにこの時期から脱藩して上京することを考えていたのかもしれません。

なお、友姫の夫公睦は早く亡くなってしまいますが、加尾はそのまま友姫のもとに留まりました。
奉公をやめて帰国するのは文久2年(1862)の秋頃でしょうか。
土佐の郷士千屋菊次郎の日記には、同年10月5日条に、

「平井氏の妹、四年来京師に在り、他日帰国の故を以て、この日に婢を携へ来る」

とあります。10月時点ではまだ在京していますが、ほどなく土佐に帰国する予定だったようです。

さて、来週はいよいよ土佐勤王党の結成になるようですが、龍馬の加盟をどのように描くのでしょうか?

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【2010/03/08 00:01】 | 龍馬伝
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龍馬が武市派と対立して孤立に違和感云々
忍っこ
桐野先生こんばんは
私も、表題の件で違和感を感じました。
今、高知県佐川町の青山文庫館長 松岡 司氏が
新人物往来社から出版されている
「月と影と武市半平太伝」を手にしていますが
土佐勤王党結成が文久元年で
文久2年1月に武市は龍馬を久坂玄瑞のもとへ送っていますね
その年の4月か゛吉田東洋暗殺ですから
1年くらいは土佐勤王党に席を置いていることになります。
番組当初に、このドラマはフィクションです。と
一言うたっておけばいいんでしょうが・・難しいでしょうね

脱藩理由
桐野
忍っこさん、こんばんは。

仰せのとおりですね。
龍馬の立ち位置が少しおかしいですよね。
座標軸が定まっていません。
脱藩の事情もどう描くつもりなのかも見えてしまいますね。

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昨日、興味深い新聞記事を見た。
ここです。

中世山城の起源がじつに200年も遡るのではないかというのである。
その山城とは、秋田県横手市にある大鳥井山遺跡
八幡太郎義家や清原氏が登場する後三年合戦(1083~87年)の頃の山城だという。10世紀後半に築造が始まり、11世紀後半に土塁や堀が完成したという。
そして、後世の戦国時代には使用されていないという。この点が年代比定のうえで重要だろう。

通説では山城の出現は14世紀の南北朝内乱時代とされるから、じつに200年以上も遡る。しかも、立派な畝状竪堀が3本もあるというから驚きだ。

専門家のコメントがいくつか載っているが、11世紀後半築造説に否定的・批判的なコメントはない。
それにしても、事実ならどえらい発見です。ただ、年代比定については、より多方面の検討がなされたほうがいいのではという気がします。
今後の展開に期待するところ大ですね。

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【2010/03/03 22:33】 | 戦国織豊
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すごい発見ですよね。
NAO4@吟遊詩人
桐野先生 こんにちは

私も新聞でこの記事を拝見したときには、凄いことだと思いました。専門家の否定的な意見がないのは、調査報告書がしっかりしているのでしょうね。

>世界遺産を目指す平泉(岩手県)などで古代遺跡の調査が進み、歴史の物差しとなる土器の編年が整っていた。

>後世の戦国時代などに城として使われたことのないことも確認された。

などが、検証のポイントでしょうか。

なお、次のコメントが、私の長年の気になっている「一騎打ち」への疑問を投げかけているようで興味深いのですが。

>源平の合戦といえば、名乗ったうえでの刀での一騎打ちの場面を思い浮かべるが、「それは軍記物語や江戸時代の軍学者らが作り上げたイメージで実態ではない」と否定する。


桐野
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

大鳥井山遺跡をきっかけに、平安後期から源平期の山城があちこちから出てくる可能性がありますね。
もしかしたら、戦国期とされる山城も、それを遡る前史が埋蔵されているのかもしれませんね。今回の発見で、曲輪や土塁、空壕などの遺構だけでは年代特定の決め手にはならないことがわかりました。
おそらく土器などの随伴する遺物での年代特定が重要になってきます。戦国期の山城は実測調査などが主流で、発掘している事例はそんなに多くないですからね。
今後が楽しみです。

一騎打ちの引用は、おそらく近藤好和氏でしょうね。
彼には『騎兵と歩兵の中世史』(吉川弘文館、2005年)があります。何か解答が見つかるかも知れません。



ありがとうございます
NAO4@吟遊詩人
桐野先生
>『騎兵と歩兵の中世史』(吉川弘文館、2005年)
お教えいただき、ありがとうございました。
さっそく、入手してみます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第140回
―姑に棄教迫り家久苦悩―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここをクリックされるか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックして下さい。

今回は前回の続きで、カタリナ夫人(永俊尼)が鹿児島に来て、娘が藩主家久の側室となり、嫡男光久を産んでから、境遇が変わってくるあたりを書きました。

カタリナ夫人のキリシタン信仰は強固で、家久の諫言などはねつけています。
幕府からはキリシタン禁令を迫られているのに、姑が薩摩のキリシタン勢力の領袖ですから、家久の窮地や苦悩も察せられます。

その独裁ぶりや正室亀寿への冷淡さなどから、あまり評判のよくない家久ですが、考えてみれば、舅(義久)と姑(カタリナ夫人)には永年苦しめられた婿さんですね。
カタリナ夫人を種子島に追放した前後、家久は病床にあります。もう晩年ですからありえることでしょうが、カタリナ夫人がらみの精神的な心痛が起因ではないでしょうか?

余談ですが、カタリナ夫人の娘で光久の生母、私は「桂安夫人」と書きましたが、ほかにも「慶安」としているものもあります。記事にも書きましたが、島津家は「心応夫人」と呼んでいます。不勉強で彼女の院号・戒名を知りませんが、院号にちなむ命名でしょうか? また彼女は家久の側室ではなく、後妻と考えてよいのでしょうかね? どうも不勉強でいけません。
*以下後筆
『本藩人物誌』の島津忠清譜に彼女の法名があり、「心応慶安大姉」となっていました。どちらも法名だったということですね。桂安夫人より慶安夫人のほうが適切だったか。

次回はいよいよ種子島配流のいきさつを書きたいと思います。
なぜ配所に種子島が選ばれたのか、カタリナ夫人と家久=藩当局とのかけひきなどを書くつもりです。

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【2010/03/02 13:02】 | さつま人国誌
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