歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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今月下旬売りの歴史雑誌で、期せずして信長ものを2本書いていますので、ご紹介しておきます。

1.歴史街道6月号
同誌には久しぶりに書かせてもらいました。
特集が「桶狭間の謎」です。
4人の論者による4つの仮説を提示してありますが、拙稿のタイトルは

「方角誤記」と義元進路の考察から見えてくるもの

というものです。
義元の進路と最終的な本陣の位置が確定できれば、桶狭間合戦における義元の死の謎と信長の攻撃方法もほとんど解けるというのが私の意見で、これまでも書いたことがあります。

今回はそれに加えて、『信長記』首巻にある桶狭間合戦での方位・方角の不正確さについて書きました。
同場面には4つの方位・方角が出てきますが、ほとんどおかしいですね。
その不正確さが首巻の史料的限界につながっていると思います。
たとえば、巻八の長篠合戦での方位・方角の正確さと比較しても、首巻の不十分さは明らかです。
ですから、方位・方角を真に受けてはいけないという論旨です。

あと、用語の問題も少し提起しておきました。
正面攻撃」というのは、その実、あいまいで多義的です。
これだけだと「奇襲」も「強襲」も必ずしも排除しているわけではありません。
藤本正行氏の提起は桶狭間合戦研究に新段階を画しましたが、藤本説における「正面攻撃」とは、おそらく「正面強襲」ということでしょう。こうした用語の定義も統一したうえで議論する必要があるのではと感じているところです。


2.歴史読本6月号
本号の特集は平城京遷都1300年です。
小生の連載「信長」もいよいよ30回めとなりました。
今回のテーマは、

義昭越えの達成と安土築城

です。
ようやく安土築城までたどり着きましたので、タイトルまわりの写真を岐阜城から安土城に替えてもらいました。

長篠合戦の直後、信長は上洛します。
そのとき、禁裏御所で信長は誠仁親王主宰の蹴鞠を見学しました。
その意義を指摘したのは堀新氏です。将軍義昭追放後の信長と朝廷の結合はここから始まったと位置づけています。
私もこの蹴鞠が親王主宰である点を別の角度から見ると同時に、信長の官位叙任との関連も重視すべきだと考えているところです。

信長の官位については、橋本政宣氏の学説が通説になりつつありました。
つまり、天正3年(1575)11月の従三位権大納言兼右近衛大将は直任(一足飛びにその官に任ぜられること)であり、『公卿補任』に記録されている参議その他は遡及叙任であり、事実ではないというものです。

しかし近年、金子拓氏の論考は、そうした通説に再考を迫るものになっています。
同氏「織田信長の東大寺正倉院開封と朝廷」『国史学』196号 2008年

金子説によれば、参議任官は否定するものの、蘭奢待切り取りに際して、信長は朝廷から叙爵(従五位下)と昇殿を聴されており、それは将軍の先例に準じたものだったとし、ただ足利義昭が健在だったので、官職補任は留保してあったというものです。叙爵と昇殿についてもきめ細かい実証がされています。

なかなか興味深い説だといわなければなりません。
私も金子説に従うなら、天正3年11月の従三位権大納言兼右近衛大将の叙任は蘭奢待切り取りの際の留保分を解除して叙任がなされており、蘭奢待切り取りからの一連の連続的な手続きだろうと考えているところです。

さらにいえば、信長のこのときの叙任は将軍義昭同等とか将軍に準じる地位だと評価されてきましたが、足利将軍の叙任の先例と比較すれば、将軍職を除いて、信長の官位のほうが上回っているのではないかと考えています。叙任の陣儀が本式か仮設かというのも同一線上の議論です。

義昭越えの達成というのはそのような意味においてです。

なお、『歴史読本』の連載については、信長のもっとも充実した時期を駆け足でやらねばならなくなった私の不手際に対して、編集部から温かい助け船があり、あと半年6回分延長になりました。来年の6月号まで書くことになりました。じつに42回分の連載ということになります。
有難いと同時に、まだ苦しみが続くのかと思っているところです(爆)。

興味のある方は両誌をご覧下さい。

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【2010/04/29 09:41】 | 信長
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歴読
K2
桐野様
こんばんは。
連載延長おめでとうございます。
本能寺の変まで辿りつけなくて、最終号に詳しくは拙著「信長は誰に殺されたか」をお読み下さい。となるのではと、心配してましたが。
 苦しみも続くと思いますが、楽しみにしております。

ご心配をかけております
桐野
K2さん、こんにちは。

やはりこの部分に反応されましたね(笑)。
歴読前編集長のSさんのご好意のおかげです。

この話の前から駆け足なりに本能寺の変まで行きつくような構成は考えていたのですが、でも6回分増えると、かなり余裕をもって書けそうです。

もっとも、42回連載となると、原稿枚数も800枚近くになり、これを単行本にまとめるのも大変そうです。
頭が痛くなるので、あまり先のことは考えないようにしようと思います。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第146回
―島津家久、煙草の匂い嫌う?―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は『旧記雑録後編』を読んでいて気づいたネタで、前から気になっていた煙草のことをまとめてみようと思いました。
煙草の禁令は慶長年間から何度も出されており、キリシタン禁令と同様、ある程度の時間的スパンで見ないと、その性格や意味をつかむことはできないのでしょうけど、島津家久が「煙草の匂いが嫌いだ」という一節に思わず反応してこだわってしまいました(笑)。
いや、いかにもこの人らしいと。

民謡「おはら節」の起源については記事に書いた説が有力のようですが、じつのところ、よくわかりません。
たしかに曲自体は比較的古いのかもしれませんが、歌詞はどうでしょうかね?
私は曲と歌詞を一緒くたに考えて、慶長10年代でもおかしくないとしましたが、よく考えてみれば、疑問なきにしもあらずです。

というのは、「おはら節」1番の最後の一節、

「燃えて上がるはおはら、はあ、桜島」

果たして、慶長10年代に桜島のことを「桜島」と呼んだかどうか。
私はかつて拙著『島津義久』(PHP文庫)で、彼の晩年の史料をいくつか調べましたが、桜島のことを「向之島」と書いてある史料にいくつかぶつかりました。義久が他界したのが慶長16年(1611)です。鹿児島や富隈から見れば、たしかに「向之島」そのまんまです。
義久の晩年はまさに「おはら節」が誕生したとされる時期と重なりますが、どうも当時は「桜島」とは呼ばない気がします。

となると、歌詞はもっと時代が下って江戸中期くらいかなと。
国分の煙草が全国的に有名になるのも元禄期ですから、これも符合が合います。

それと、分量の関係で記事では使わなかったのですが、煙草に関して『新薩隅煙草録』という本をもっていました。これに鹿児島各地の煙草の葉っぱのカラースケッチが載っています。
鹿児島では国分だけでなく、垂水・指宿と並んで、私の郷里出水も煙草の産地として有名だったのですね。

そういえば、子どもの頃、通学路の両脇の畑にはほとんど煙草が植えてあったような記憶があります。
同書には、慶長初年、島津氏が近衛家から煙草の種子を譲り受けて普及したと書いてありますが、義弘や家久の態度とは食い違いますね。さて如何?

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【2010/04/26 20:06】 | さつま人国誌
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No title
中の人
>左のリンク欄「さつま人国誌」
この間のテンプレ変更で右へ移動してますよ(^_^;)
おそらく「さつま人国誌」投稿用がテンプレがあるのでしょうが、
変更されたほうがよろしいかと。

訂正しました
桐野
中の人さん、こんばんは。

ご指摘有難うございました。
リンク欄のカランの位置の記述は訂正しておきました。

リンク報告
カミタク(リンク先は「おはら祭見聞記」)
【リンク報告】
貴作の読書の1人、カミタクこと神山卓也
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/
です。

私が運営しております、鹿児島県内外の観光と温泉を紹介するホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「おはら祭見聞記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKAN14.HTM
から貴ブログ記事にリンクを張りましたので、その旨、報告申し上げます。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。



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この間、いろいろな方から、ご高著やご論考をいただいたまま、お礼もご紹介もできずに心苦しい思いをしております。
そこで、とりあえず、お名前と書名・論文名などをご紹介してお礼に代えたいと思います。
またそれらについては別の機会に論評させていただければと存じます。

いただいたものの新しい順でご紹介しておきます。


まず、宇喜多氏研究を精力的に行っている気鋭の大西泰正氏からいくつかいただきました。

大西泰正『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』 岩田選書・地域の中世史7 岩田書院 2010年
大西泰正「宇喜多秀家と豊臣政権」 『年報赤松氏研究』3号 2010年
大西泰正「洛陽浮田町の松」 『桃山歴史・地理』44号 2009年

 附:同氏は近いうちに「宇喜多騒動をめぐって―光成準治著『関ヶ原前夜』第五章への反論―」『日本史研究』掲載予定という論考も公表される予定とか。

次に、古くからの知友で、いまも『兼見卿記』輪読会の仲間であり、諸学会で活躍している川戸貴史氏からいただきました。私などはせっかく『兼見卿記』を読みながら、その成果を十分に活かしきれていませんが、川戸氏はさすがに目の付け所が違いました。そういう切り口もあったかという感じです。
なお、川戸氏には現段階の主著といえる『戦国期の貨幣と経済』吉川弘文館 2008年もあります。学位論文をまとめられたものです。これも以前、いただきながら不義理しておりました。申し訳なかったです。

川戸貴史「一六世紀後半京都における貨幣の使用状況―『兼見卿記』の分析から―」 『東京大学史料編纂所研究紀要』20号 2010年

これも古い友人ですが、実際は川戸さんと同世代の若手です。以前、彼女からある信長文書について質問を受けました。信長の尾張時代のことで、私がもっとも苦手とする分野でしたから、畏友の和田裕弘氏をご紹介しました。そうした関係から、その成果を恵贈していただきました。

小松原瑞穂「館蔵 織田信長書状」『堺市博物館報』28号 2009年

存じ上げない方からもご著書を送っていただきました。龍馬本は汗牛充棟の如く世間にあふれておりますが、瞥見したところ、いくつか鋭い指摘もあるようです。

山本栄一郎『実伝・坂本龍馬―結局、龍馬は何をしたのか』 本の泉社 2010年

太田牛一『信長記』の共同研究の仲間である黒嶋敏氏からも、私の守備範囲ともっとも重なるご論考をいただいていたのに、ご紹介が遅れてしまいました。このテーマについては、私も一度内輪の発表をしたことがあったのですが、それを完膚無きまでに打ち破られた感がしております。不勉強を恥じ入った次第です。

黒嶋 敏「織田信長と島津義久」 『日本歴史』741号 2010年

お会いしたことはありませんが、メールその他で交流を続けている関西の若手研究者平出真宣氏からもいただきました。平出さんは以前、若手研究者たちが刊行した『室町・戦国期研究を読みなおす』思文閣出版に「戦国期政治権力論の展開と課題」という論考を寄せられており、それが非常によくまとまった研究史の整理だったので印象に残りました。以前、当ブログでもご紹介しました。ここです。

平出真宣「上杉謙信の軍事編成の特質」 『新しい歴史学のために』275号 2009年

最後に永年の畏友である堀新氏の著書です。堀新氏は私より年下ですが、私の蒙を啓いてくれた先学でして、永年、『晴豊記』や『兼見卿記』の輪読会をご一緒しております。彼の鋭い着眼や贅肉を徹底的に削ぎ落とした論考はいつも学ばせてもらっております。今回は待望の通史的な概説書を上梓されて、私としても、彼の仕事を改めて通観させてもらうことができました。とくに射程が鎖国までを扱っており、中近世移行期の政治史が簡潔ながら活写されています。

堀 新『天下統一から鎖国へ』日本中世の歴史7 吉川弘文館 2010年

ほかにもいただいたものがあったかもしれませんが、現在、仕事場が取り散らかり、惨憺たる状態でして、お許しいただきたいと思います。発掘もとい、見つかったらまたご紹介させていただきます。

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【2010/04/24 09:45】 | 新刊
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こちらこそありがとうございます。
zeigen
拙著等ご紹介いただいて恐縮です。大西です。
なにぶんにも、どれもこれも至らぬ点ばかりですが、
今後とも宜しくご指導のほどお願いいたします。

読むのが楽しみです
桐野
zeigenさん、こんばんは。

ご高著・ご論考有難うございました。
いまなかなか読む時間がとれませんが、読むのを楽しみにしています。
宇喜多氏のことを信頼できる史料に基づいて通時的に読める好著だと思っています。
これからもよろしく。

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昨日は「龍馬伝」の放映日でしたが、焼酎の会があり、帰宅が遅れたため、見逃してしまいました(残念)。
龍馬と勝海舟の出会いという重要な場面だっただけに、土曜日の再放映はぜひ見たいと思います。


南日本新聞連載「さつま人国誌」第145回
―関ヶ原敗走中、28歳の若さ―

先週は休刊日のため、連載もお休みでした。
連載が久しぶりに更新されましたので、左のリンク欄「さつま人国誌」か、同紙サイトのここをクリックして下さい。

今回は先月帰鹿した折りに取材に行った所です。
たまたま新書(来月刊予定)で島津の退き口を書きましたが、入来院重時についても少し書きました。
また当連載の123回から130回まで8回にわたって、退き口の人物列伝を書きましたが、入来院重時については書きそびれていたので、取材を機に書いておこうと思いました。

入来院重時は名門の出です。本宗家にもっとも近い分家の垂水島津家に生まれ、渋谷五族の名門、入来院氏の養子となり、妻は島津歳久の娘を迎えています。
この御曹子の最期は非業の死、玉砕といってよいと思います。

入来院氏の墓所は旧寿昌寺跡で、道路整備のため、当初の場所から少し移転しております。
そこには、初代渋谷定心の墓もありました。もっとも、中世の当主たちの墓は定心以外はなく、ほとんどが近世から明治の墓です。

また旧寿昌寺跡の左横には重来神社があります。参道の階段を上っていくと、比較的新しい社がありました。
ここは入来院重時を祀っています。重来明神は重時の神号です。
ここには、蒙古襲来の折り、博多で蒙古軍と奮戦して討死を遂げた渋谷有重・致重・重尚(入来院氏3代公重の弟たち)も合祀されています。
せっかくなので、いくつか写真を載せておきます。

定心
入来院氏初代渋谷定心の供養塔

於珍
29代公寛夫人於珍(島津久光の三女)の墓 実家の島津家の家紋が入っています

旧寿昌寺跡遠景
入来院氏の墓所遠景(中央奧の林の中)

重来神社
重来神社の社と境内

重来神社不動明王
重来神社の参道を上ったところにある不動明王?の石像

入来院氏の墓所で当主と夫人の墓は墓石が家形の覆いの中に入っています。この形式は石殿型と呼ばれているようです。
以前、小松帯刀の墓所(日置市日吉町吉利)に行きましたが、そこも石殿型でした。参考のために写真を載せておきます。小松帯刀とその夫人お近さんの墓はすぐ前にフェンスがある関係で、なかなか正面から撮影できません。
入来院、小松の両氏とも、由緒ある家柄で、島津家中では一所衆(私領を有する門閥)でした。ですから、墓所も格式を感じさせます。

小松帯刀
小松帯刀の墓

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【2010/04/19 21:52】 | さつま人国誌
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ばんない
古い記事へのレスご容赦下さい。

何故かこの記事をうっかり読んでいなかったのですが、入来院重時が島津歳久の娘と再婚したのは歳久の横死後の籠城事件の後じゃないのでしょうか。というのは、史料(「旧記雑録後編2」940,941など)では籠城したのは歳久の妻(晴簑簾中)+袈裟菊丸(島津常久)+同母(袈裟菊丸の母=歳久の娘)と書かれてあるので…


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東京は寒いです。雪も降りそうです(ブルブル)。

名古屋の中日文化センターの新講座が来週22日(木)から始まります。
以前から続けている「信長公記を読み解く」と同日開催のためか、また歴史ファンの関心が龍馬や幕末にシフトしているためか、募集に苦労しております。

名古屋・東海方面で興味のある方がおいでなら、受講してみませんか。
詳細は同センターのサイトにあります。ここです。
「4月スタートの新講座はこちら」、「歴史」という順にクリックすると、一番上に私の講座があります。

ただ、ネットでの募集は終了したため、お問い合せ・お申込みはフリーダイヤルにてお願いします。

講座の趣旨やカリキュラムは以下の通りです。

講座名:戦国の手紙を読み解く

【講座内容】
戦国時代は戦乱や死と隣り合わせの緊張した時代ですが、いまなお現代の私たちを魅了してやみません。そんな時代を生きた人々は何を考えていたのか。戦国武将を中心にしながら、公家、僧侶、茶人、町人なども交えて、さまざまな人々の手紙を読み説き、彼らの人生観や死生観などに迫ります。4月から始まる6ヵ月講座です。

【カリキュラム】
第1回:織田信長
第2回:上杉景勝
第3回:安国寺恵瓊
第4回:伊達政宗
第5回:千利休
第6回:豊臣秀吉


ご参加お待ちしております。

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【2010/04/16 16:50】 | 中日文化センター
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No title
忍っこ
桐野先生こんばんは
私の興味にドンピシャなのですが、名古屋ですと厳しいですね
さて桐野先生著の「だれが信長を殺したのか」読み終えました。
とても内容も濃く面白く拝読いたしました。

光秀の家康饗応役で腐った魚の一件がありますが
この時はすでに四国担当から外されていたんですよね?
実は、小学館より出版の週刊分冊百科
 真説歴史の道「明智光秀 敵は本能寺にあり」を見ていたら
地図やビジュアルがたくさん載っていたので購入しました。

そこに桐野先生の名前が記載されていました。以下の通り
   宣教師ルイス・フロイスは「日本史」に記している
   それによると、信長は好まぬ要件で光秀に言葉を返され、
   怒って立ち上がり、光秀を足蹴にしたという。
   作家 桐野作人氏は、
   この諍いが対四国政策をめぐるものと推測している

結局、信長は三好一党よりも着々と侵攻している長宗我部のほうが脅威に
なってきたんでしょうね
光秀と上杉景勝の関連も面白く拝読させていただきました。




腐った魚
桐野
忍っこさん、こんにちは。

拙著を詳しく読んでいただき、有難うございます。

光秀が信長に家康の接待役を命じられたのはたしかですが、表題の件は『川角太閤記』だったかにあるだけで、どうもうそ臭いですね。
鮒寿司だったという説もあるようですが、どうなんでしょ?

またその接待役も罷免されたのかどうか確認できません。
単に任務替え、担当替えだったかもしれませんし。

小学館の冊子にも引用されていたのですか。
未読だったので知りませんでした。
教えていただき、有難うございました。



No title
とらさん
名古屋での講座ですので本当に出席したいのですが、残念です・・
ところで、本人の許可なく引用されていた、というのには驚きますね。
古代史のほうですが、知ってる方の文章がやはり連絡無しに研究者に引用されて、少しトラブル?もどきになったこともつい最近ですがありましたし。
戦国ブームとかですので、いろいろなところで知らないうちにそういうことは多いのかもしれませんね。
週末はまた寒くなりそうです・・


節度ある引用はかまいません
桐野
とらさん、こんにちは。

コメント有難うございます。
名古屋の講座はお会いできなくて残念です。

さて、引用の件ですが、多少の引用は出典さえ明記すれば、本人の許諾の有無に関係なく問題がありません。

問題があるとすれば、引用部分が数頁に及ぶなど大量だったり、出典を明記しなかった場合です。後者は引用ではなく、盗用、剽窃になります。

よく誤解されるのですが、節度ある引用は認められていますので、一言申し添えておきます。


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テンプレートを変えたら、さっそくメールで反応がありました。

見にくいとのこと。
字の大きさの問題ではなく、配色の問題とのこと。
茶色地に黒ではぼやけて見えるということでしょうか。

個人的には字が大きくなって見やすい感じがしたのですが……。

どうしたものか。

「人気ブログランキング」などクリックしていただく個所が本文と同じ色で区別がつかないのは、私も不満ではありますが……。

もう少し、よりましなテンプレートを探してみます。
個人的には、ネコのものにしたいんですけど、意外とペット系が少ないですね。

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【2010/04/12 22:59】 | 雑記
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僕も
ぶるぼん
僕も思い切ってデザイン変更してみましたが、
レイアウト的に美しくないので元に戻しました。
それにしてもまだいろんな機能が使いこなせていません。


初心者
はじめまして。
人それぞれなので、こればっかりはしかたありませんが、
私はこの間刷新した背景の方が見やすかったです。
白っぽい背景は素っ気ないし、この間のやつのほうが
字も大きかったですしね。
これがいいと言う人は「慣れ」もあるのかもしれないですね・・・・

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気分転換に変えてみました。

この齢になると、字は大きい方がいいです(笑)。
目は大事にしたいものです。

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【2010/04/11 14:45】 | 雑記
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以前からずっと疑問に思っていることです。
そしてつい先日も経験して、いささか不愉快な気分になっています。

公共機関、とくに国や地方自治体の図書館、博物館、資料館、教育委員会などでは、図録・紀要・報告書など刊行し、また資料の複写サービスなどもしています。
これを購入したり複写申請するとき、その購入方法や代金支払はほとんど例外なく「現金書留」を指定されます。

私は先日、わずか250円ほどの複写サービスのため、500円も払って現金書留で送付しました。
以前はわずか50円程度送金するのに、同様のことがありました。切手ではダメかと聞きましたが、ダメの一点張り。
送金コストのほうが代金の2倍どころか10倍もかかっている現状を、関係者の方々はどの程度、自分のこととして受け止めておられますかね?

現金書留だと、金額1万円以内なら送料+420円かかります。
ほかに送金方法がなければ致し方ありませんが、果たしてないですか?
誰もネットバンクを使えとか、クレジットカード決済にしろとは申しません。

郵便局の「郵便振替」という、簡便で全国一律の庶民的なサービスがあるではありませんか。
自分でATMを操作して送金すれば、手数料わずか80円です。通常の現金書留の6分の1以下です。
しかも、現金封筒を購入したり(1枚20円)、3回厳重に糊づけしたり、ハンコを3カ所も捺したりする手間もかかりません。


私も会社を持っていましたので、郵便振替口座を開設したこともあります。
その手続きは簡単です。

関係機関では、なぜ郵便振替による送金方法を採用しないのでしょうか?
なぜ誰でもわかることなのに、利用者の便宜を図ろうとしないのでしょうか?

さらに、郵便振替のほうが現金書留よりも記録性において優れています。
現金を直接扱う現金書留のほうが紛失その他の事故の確率が高いです。事務処理上も記録が残る郵便振替のほうが間違いがなくてよいのでは。

なぜ現金書留にこだわるのか、ぜひ納得できる理由が聞きたいものです。

市民や利用者に不必要で過重な負担を押し付けて平然としていられる神経については、ゲスの勘繰りもしたくなるというもの。たとえば、

先例だからやめられないし、自分の懐が痛むわけでもない →住民サービスが強調されるご時世、不合理・理不尽なものを変えるちょっとした勇気もないのか

いまさら郵便振替口座を開設するのが面倒だ →余計な仕事はしたくない

現金書留のほうが手数料が高いので利用者が少なくなる →仕事が増えなくてよい

なんてことはおそらくないと思いますが……。

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【2010/04/10 18:42】 | 雑記
トラックバック(0) |

賛成に一票!
森重和雄
桐野先生、こんにちは!
郵便振替口座の件は僕も全く同感です。
たぶん利用者の立場でものを考えた事が全くないのでしょうね。

賛成に同じく一票!
水野青鷺
桐野先生、コメント覧では、はじめまして。
「郵便振替口座」は私も同様に考えております。
おそらくは、「貨幣という物品」を収納することが唯一の決済だと考えられているのでしょう。振替や振込ですと、担当者が口座の入金をわざわざ確認しなければならない煩わしさがあり、もしも確認を怠ったり間違えたりすれば担当者の責任となり、「そんなことはやりとうない!」というのが本音でしょう。




決済
桐野
森重和雄さん、水野青鷺さん

やはり私以外にも疑問を感じていた方はおいでだったのですね。

>「貨幣という物品」を収納することが唯一の決済

なるほどと思いました。
もしそうなら、これは明治時代からの牢固とした「お上」意識の表れかもしれませんね。

もっとも、現金決済はいろいろ危ないし、不正の可能性もあると思うんですけどね。

コピー料金
森重和雄
桐野さま

こんにちは!
公共機関でコピー料金がモノクロ一枚¥50のところもありますが、これもいまどき高過ぎですよねぇ、・・・
貧乏な僕のような個人研究者には大変な負担です。

同感です
市野澤
こんにちわ。
おっしゃる点、激しく同感です。
私は怠慢と利用者へのサービス意識の低さが原因と考えています。
最近、支払いは現金書留でという機関が頓に増加したように感じていたので、
思わず書き込んでしまいました。

大河ドラマ「龍馬伝」の効果か、
武市半平太あて書状が高知市の高知県立文学館で開かれる土佐山内家宝物資料館企画展「山内容堂」で展示されるそうですね。
個人が所蔵していたため、資料集で活字として見ることはできたが、
現物の一般公開は初めてのようです。

藤本正行氏の新書(洋泉社)が出版されましたね。
同社から中田正光氏の新著が久々に発売したので、こちらを先に読むつもりです。

コピー料金
桐野
森重さん、こんにちは。

コピー料金50円はたしかに高いですね。
ただ、図書館などのコピー料金がコンビニなどのそれより多少高めになるのは致し方ないと思っています。
コピー自体が蔵書を傷めますし、文教予算が削減される昨今、多少でも維持費に充てるのは致し方ないとも思います。

サービス
桐野
市野澤さん、こんにちは。

サービス精神の欠如、その一言に尽きるでしょうね。

藤本正行氏の新著、ほかの方からも教えてもらいました。
私への批判があるそうですね。
さっそく読んでみたいと思います。



意識と努力
市野澤
桐野さん、こんにちは。

4月18日(日)の朝日新聞1面に「博物館 閉鎖の波」と報じられていました。
この件では色々と言いたいことがありますが、私が一番心配している点は所蔵品の保管や行き先です。
この報道、2面にも続いていて、文化庁で博物館行政を担当する栗原祐司学芸課長が「自治体も利用者を楽しませる意識や努力が足りなかった」と反省の弁を述べられていますが、これって、今回の『なぜ現金書留にこだわるのか』にも当て嵌まる反省に感じました。


藤本正行氏の著書で、桐野さんの見解に対する反論・批判の箇所、先に読みました。読了後、感想述べさせて下さいませ。

「龍馬伝」の近藤・土方・沖田のキャストが決定しましたね。
土方役の松田悟志さんには期待しています。
近藤役の原田さんは現代劇なら良いのですが、「篤姫」での大久保利通・「おんな太閤記」の前田利家も受け付けなかったのでチョット・・・


相模相公
はじめて書き込みをします。
現金書留で複写料金の支払いは高いという問題は当方も従前、問題視しています。
以前、郵便振替があるのだから、それを導入せよと図書館側に指摘したことがあるが、
彼らの言い分は、郵便振替になるとそれを管理する事務が煩雑になるという回答があった。
公務員はことさら、事務の煩雑さを忌み嫌う習性があるが、その一端ともいえる。
また、多くの図書館では郵便振替が馴染みで無いため、導入に踏み込めないといった感じも否めません。
因みに静岡県立図書館では郵便振替にて支払いが出来るので当方はここをよく利用している。

いやはや
桐野
相模相公さん、はじめまして。

古いエントリーにコメント有難うございます。

やはり公共機関が郵便振替を採用しないのは、事務の繁雑さが理由のようですね。
しかし、煩雑といったって知れたものですけどね。むしろ、現金を直接扱わなくてもいいという利点もあると思うんですが。
静岡県立図書館のように、利用者の便宜を図っている所もあるようで、少しホッとします。

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ここに書いている場合ではないのですが……。
また重層的な仕事累積のスパイラルに入っておりまして……。

本日午後、駿河台の明治大学リバティアカデミーの特別企画講座に出講。詳しくはここです。
同大学の駿河台キャンパスといえば、やっぱりこの人ですね。
リバティタワーの道を隔てた正面にあります。
大久保


今日は全9回講座の第1回。私がトップバッターです。
テーマは「小松帯刀書簡―薩摩藩大黒柱の真情を読む―」でした。
小松の書簡3点取り上げました。
堀直太郎、後藤象二郎、そして夫人のお近さん宛てです。
小松の公私の違い、また藩内と藩外の書き方の違いなどを見ました。
例によって、小松の「足痛」がキーワードでした。

受講者も前シリーズよりも多くなった感じです。
またみなさん、熱心に聴き入ったり、メモを取られていました。
質問もいただきました。
詰めこんだレジュメで、1枚すっとばしたものの、何とか5分オーバーで済んでよかったです。

終了後、友人のMさんとお話していて、何げないお言葉にものすごいヒントを得ました。
ある企画なんですが、そうかそういう手があったかという感じです。
まあ、こちらの頭が固いだけかもしれないんですが(汗)。

次回も担当は私で、1週間後の4月15日(木)です。
テーマは「坂本龍馬書簡―国事周旋の決意と暗殺の影―」。
本来は隔週のはずだったのですが、別件と重なってしまい、スケジュールがタイトになってしまいました。

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【2010/04/08 22:52】 | 明治大学リバティアカデミー
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桐野先生 今日はありがとうございました
小林 哲也
桐野先生、小林哲也です。今日は楽しい講義の時間をありがとうございました。先生に久しぶりにお会いできて本当に嬉しかったです。

先生の講義を聞いて、小松帯刀という人物の繊細さと奥深さを再認識しました。

小松の手紙からは大政奉還後の京都政局の混乱や「足痛」のために、動きたくとも動けない小松の歯がゆさ・無念さが痛いほど伝わってくる、そんな風に感じました。

王政復古政変まで、もし龍馬が生き延び、小松が上京していたら2人の交渉力で慶喜がすんなり議定に就任していたかもしれない・・・。

そのような想像さえしたくなってしまいます。

小松の周辺記録を読んでいると小松の京都政局での重要性が浮かび上がってくるような気がします。

それだけにもっと多くの小松研究本が生まれればよいのに、感じています。

お話したブログのアドレス載せておきます。

「龍馬を語ろう~維新雑記」

http://d.hatena.ne.jp/tatewaki09/20090731/1249025120

本当に拙いものですが、お時間のある時にでも、ご覧いただきコメントいただければ大変嬉しいです。

今後とも、よろしくお願い致します。

        小林 哲也



ブログ
桐野
小林 哲也さん、こんにちは。

先日は講座を受講していただき、有難うございました。
ブログも拝見しました。
詳しく書いてますね。
これからも健筆をふるって下さい。

桐野先生、ありがとうございます!
小林 哲也
桐野先生、コメントどうもありがとうございます!本当に、本当に励みになります。龍馬伝の感想や周辺人物について本当にゆっくり自分なりに書いていきたいと思っております。いち幕末ファンですので、人物の膨らまし方・史料の解釈・明らかなまちがいなどアドバイスなどいただければ嬉しいです。これからも(次回以降の授業)でもよろしくお願い致します。
                     小林 哲也

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第144回
―僧忍室との交流と末路―

連載が昨日、更新になりました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

キリシタン編の最終回、アンジローも最終回です。
福昌寺の住職忍室との交流を書きました。
この坊さん、意外と面白い人だったんじゃないかと思います。
紙数の関係で詳しく書けませんでしたが、シャビエルが坐禅を組んでいる僧たちが何を瞑想しているのかと問うと、忍室が次のように答えています(フロイス『日本史』6)。

「ある連中は、過去数カ月に、信徒たちからどれだけの収入を得たかを数えており、他の連中は、どこに(行けば)自分たちのためによりよい衣服や待遇がえられようかと思いをめぐらしている。また他の連中は、気晴らしになることや閑つぶしになることを考えているのであって、つまるところ、何か有意義なことを(黙想)しているような者は一人もいないのだ」

思わず笑ってしまいますが、とても聖職者とは思えませんね。
でも、そのほうが人間くさくていいと思います。たとえ僧侶でも。
悟りを開くのは難しいです。

また、シャビエルが別の質問をしています。
それは青年時代と老年時代のどちらがよいかというもの。
忍室は「青年時代だ」と答えています。
その理由は「まだ肉体が病気その他の苦労に煩わされることがないし、何でもしたいことを妨げられずにする自由があるからだ」というもの。思わず、私もうなずいてしまいました。

でも、キリスト教の司祭であるシャビエルはそうは考えません。
船が出港するとき(青年時代)と、長い航海の末、港が目の前に見えたとき(老年時代)を比較すると、後者のほうがうれしいはずだ、前者だと風波や嵐に曝されて大海原に投げ出されたようなものだからという理由からです。

忍室はそれに穏やかに反論して、私はどの港に入るか見分けられないし、まだ決めていないと答えています。
すると、シャビエルは忍室が地位や信望、収入といった名誉や既得権益を失いたくないからだと判断して、忍室は地獄に至る道を選んだと結論づけました。

世俗にまみれた私にすれば、シャビエルの考え方は余計なお世話ですけどね。
老年になっても、迷いがあるのは当然ではないかと思いますが、シャビエルはそうは考えないのですね。

黒白(善と悪、正義と不正義)をはっきりつけるキリスト教と、善悪の境界はあいまいで線が引けないし、互いに転化することもあると考える仏教の違いが出ているように感じます。
やっぱり自分は日本人で、仏教に近いかなとも。

それはともあれ、薩摩のキリシタンのことは勉強になりました。
フロイスやイエズス会関係は日頃からよく使う史料でしたが、ほかに

クラツセ『日本西教史』上・下
ピント『東洋遍歴記』3


とか書名だけは知っていても、あまりなじみのない史料も読んだりして、なかなか刺激的でした。

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【2010/04/06 17:17】 | さつま人国誌
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てげてげ人生
nick
認知症の父と長年過ごしてきましたが、、、
なかなか。。

実際、50を過ぎると体が動かない。。
悔いは残るが、、これもまた人生。。
毎朝、「今日もつつがなく過ごさせて下さい」
とお祈りしています。

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書き込むのも久しぶりです。

第14回 お尋ね者龍馬

ドラマ進行時点:文久2年(1862)3月~8月

脱藩した龍馬は4月1日、下関の白石正一郎の世話になったあと、九州遊歴の旅に出ます。
龍馬と沢村惣之丞は先に脱藩した吉村寅太郎と落ち合う手筈になっていましたが、何かの手違いで不発に終わりました。

ちょうどこの頃、薩摩藩国父の島津久光は朝幕改革のため、1000人の藩士を率いて率兵上京の途につき、龍馬が下関に着いた直前に下関を発して京都に向かっています。
このすれ違いはまったくの偶然とは思えません。吉村寅太郎はその後上京して、伏見寺田屋に入り、薩摩藩激派の有馬新七らと合流していますので、龍馬も久光の率兵上京に合わせた京都での攘夷派の挙兵計画に一枚噛んでいた可能性があります。これも「草莽崛起」を説く久坂玄瑞に影響されたのかもしれません。ただ、史料不足でそれ以上はわかりません。

その後、龍馬はドラマでもあったように、薩摩に向かいました。
このことはあまり知られていませんが、脱藩した龍馬の最初の目的地が薩摩だったことは、その後の龍馬の足跡を考えれば暗示的です。
龍馬の薩摩行きについても、一次史料はなく編纂史料のみです。

「坂本龍馬海援隊始末」一 
『坂本龍馬関係文書』二所収 日本史籍協会叢書
文久2年(1862)4月朔日条
「此の日龍馬は島津久光已に(すでに)汽船にて東上せるを聞き、義挙に投ずるの軌を失するを悟り、沢村と東西に手を分ちたりと云ふ。
 爾来(じらい)数十日は龍馬の消息を伝へず、唯薩藩に入らんとして関吏に拒まれ、空しく踵(きびす)を返して東上したるを知るのみ」


また龍馬の薩摩行きは郷里の画家、河田小龍の影響ではないかともいわれています。
小龍は島津斉彬存命中の安政元年(1854)、土佐藩が薩摩藩の集成館事業を視察したのに同行しています。その見聞を龍馬に語ったので、龍馬が関心を示した可能性もないとはいえません。
この件についても一次史料はありませんが、編纂史料には書かれています。

「坂本龍馬海援隊始末」一
「是れより先、即ち此の年(安政元年)八月、藩庁筒奉行池田歓蔵・砲術指南役田所左右次を鹿児島に遣はし、反射炉を視察せしむ。河田小龍其の随員たり、地震後、小龍帰国し、旧宅焼失するを以て上町築屋敷三丁目新越戸に寓す。坂本家本町の宅と甚だ近し。龍馬即ち往きて薩藩の武備の状を聞き、日本刀のみを以て攘夷の効を見るべきにあらざるを悟る」

『維新土佐勤王史』其四十七
「蓋し(けだし)坂本は嘗て画家河田小龍より、薩藩が夙に(つとに)製鉄所を設け、盛に大砲などを鋳立つるを聞きしを以て、一たび其の実際を目撃せんと企てしものなるべし」

その後、6月、ドラマにもあったように、龍馬は大坂に現れます。11日には沢村惣之丞と再会を果たします。これはドラマにありませんでしたが。すでに惣之丞は入京して、公家の河鰭家(かわばた・け)の公家侍になり、大河原刑部と変名していました。

龍馬は吉田東洋暗殺の直前に脱藩していますが、それでも、時期が近かったため、龍馬にも東洋暗殺の嫌疑がかかっていたようです。
土佐藩主山内豊範の率兵上京に随行していた、郷里の友人望月清平が龍馬に次のように忠告しています。

「坂本龍馬海援隊始末」一
「去る四月八日の夜、高知城下に於て参政吉田元吉(東洋の実名)暗殺せられ、御身にも亦刺客の嫌疑かかれり。速に捕吏を避けよと」

武田鉄矢演じる勝海舟もちらりと登場しましたね。
ただ、イケメンの海舟役にはさすがに向いていないのではないかという気もしますが……。
それに、キャラクター的に江戸っ子海舟の洒脱さを出せるでしょうかね?

それと、岡田以蔵が吉田東洋暗殺の探索のため、上坂していた下横目の井上佐市郎を暗殺してしまいました。これは史実とおりですね。いうまでもないですが、岩崎弥太郎は井上と同行していません。
【後記】
岩崎弥太郎が井上佐市郎と同行していないと書きました。これは弥太郎が目付的な仕事をしていないという意味でしたが、弥太郎もこのとき、藩主山内豊範上京・出府に「臨時御用」として加わっており、道中や大坂の住吉陣屋で、井上と何度か会って懇談しています。この点、不正確でしたので、訂正・加筆しておきます。
とくに井上が暗殺される2週間ほど前、2人はかなり親しく懇談しています。
また、のちの岡田以蔵の口供書によれば、井上暗殺を提案したのは平井収二郎のようですね。収二郎が絞殺を指示しています。暗殺を実行した者も以蔵だけでなく、3、4人おります。手拭いで絞めたのが以蔵、腹を短刀で刺したのが村田忠三郎のようです。

『岩崎弥太郎日記』上巻
文久2年7月19日条
「井上佐市郎、五藤の寓前に余を待ち、何の談を以てすを問ふ。余実を以て答ふ。佐市郎格別心気不快の模様に付、余痛悔し、容易の談を以てす。実に易らざるは、久々の回寓の一睡」

これによれば、弥太郎と井上が語り合っており、井上が「格別心気不快」な様子だったと書き留めています。それが何を意味するのか、よくわかりません。東洋暗殺の探索に関わることなのかどうかも、これだけではわかりません。
その後、弥太郎はまた失策をやらかして帰国命令が出ており、井上が暗殺された当日の8月2日は室戸岬沖を航行しており、日暮れまでに郷里に着いていますから、井上の死を知る由もありませんでした。


武市半平太にけなげに尽くし、何とか認められようと暗殺に手を染める以蔵の哀しさの端緒を、佐藤健が予想以上に好演していました。
個人的には、岡田以蔵といえば、ショーケン(萩原健一)を思い出してしまう世代ですが(爆)。ショーケンはこの熱演によって役者として化けましたが、同じ健君はどうでしょうか?

次回は龍馬の江戸行きでしょうか?

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【2010/04/04 22:21】 | 龍馬伝
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岩崎弥太郎の同行について
NAO4@吟遊詩人
桐野先生、いつもお教えくださりありがとうございます。

「龍馬の夢をかなえた男 岩崎弥太郎」(原田泉著、KKベストセラーズ)という本p81付近に、「岩崎弥太郎は、藩主山内豊範の上洛の供に加えられたが、規律違反のかどで帰国を余儀なくされる。」と書かれており、岩崎弥太郎の日記には井上佐一郎が身の危険を感じたようなことが書かれているとあります。

この本からは、岩崎弥太郎は井上に同行したと考えられます。一次史料を確かめてないので、不勉強な根拠で申し訳ないのですが。

不覚
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

ご指摘、有難うございました。
私は、弥太郎が藩主上京の隊列に加わっていても、目付的な仕事はしていないはずだと思っていたので、井上佐市郎とは行動を共にしていないはずだと書いてしまいましたが、やはり井上とは東洋塾の同門ということもあって、日記を見れば、何度か会っていましたね。
本文も訂正しておきます。


忍っこ
桐野先生こんばんは
佐藤健の岡田以蔵はいい演技でしたね
武田海舟はイメージに合いません
ちゃきちゃきの下町江戸っ子ですので
べらんめー調の会話が武田鉄矢に出来るとは思いません
私が、いいなと思ったのは大河新選組の時の海舟をやった
野田秀樹です。
もう一つ注目は、龍馬と海舟の出会いです。
あい変わらず 斬りに行くんですかね(笑)

ノンポリ龍馬
桐野
忍っこさん、こんばんは。

半平太と以蔵の関係はBLですね。
腐女子さんの間では盛り上がっているのでは?

最近の大河は意識的にこの路線、場面を狙っていますね。
昨年は兼続と景勝の関係が怪しかったです。
一昨年の「篤姫」では小松帯刀と坂本龍馬が霧島で一緒に温泉に入って裸の付き合いでした。
その前の「風林火山」でも、山本勘助と武田晴信が隠し湯に一緒に入っていましたね。

もう40年以上前、勝新太郎が岡田以蔵を演じた「人斬り」という映画がありましたが、あれは無骨な以蔵だったですね。
半平太は仲代達矢。
田中新兵衛は何と、三島由紀夫。
龍馬は石原裕次郎
でした。

これまで「攘夷」に疑問を抱いている龍馬像からすれば、勝麟太郎を斬りに行くのは不自然ですね。
もしそうするなら、千葉重太郎が斬りに行くのに同行して制止するという設定か、あるいは勝に素直に時勢と国事のあり方を尋ねるという設定のどちらかでしょうかね?

このドラマの龍馬像が見えてきました。

ノンポリ龍馬

です。
小市民的、日和見的で面白くも何ともありません。
何より時代が描けません。

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