歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第151回
―小松帯刀の家来、米国留学―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、薩摩ゆかりの海援隊士シリーズの第三弾です。
白峯駿馬は海援隊士のなかで、それほど知名度は高くありませんが、小松帯刀との縁は格別です。
彼は慶応3年(1867)でも、二十歳そこそこの若僧でした。おそらく海援隊士で一番若いのではないかと思います。
その関係もあってか、小松の家来という身分で行動しているようです。

長崎で何礼之の英語塾に入門しますが、これも薩摩藩士というより、小松の家来という形だったかもしれません。

記事の末尾に書いた白峯の墓石裏の銘。
紙面には掲載できなかったので、ここに載せておきます。
右から3行目に、坂本龍馬や陸奥宗光の文字が読み取れます。
同じく4行目頭に、

「寄身小松帯刀」(小松帯刀に身を寄す)

とあるのがわかるでしょうか? 
写真をクリックすれば、拡大画面が出ます。
銘がくすんでいるので読み取りにくいかもしれませんが。
白峯


白峯はむしろ、明治になってからの人生が面白いかもしれません。
2度の米国留学、おそらく海援隊の夢を託したのであろう白峯造船所の設立と倒産。岩崎弥太郎の三菱への勤務などなど。
かなり浮き沈みが激しいです。

次回は、沢村惣之丞を取り上げる予定です。

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【2010/05/31 21:21】 | さつま人国誌
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海援隊士シリーズ
まいたけ君
 大河ドラマ「龍馬伝」には、もしかしたら登場しないのではと思われる白峯駿馬のことを、南日本新聞の連載で取り上げていただき、ありがとうございました。
 
 今後も、海援隊士シリーズを楽しみにしています!
 

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このところ激務がつづいており、すっかりくたびれ果てております。

27、28の両日、名古屋で泊まりの講座(中日文化センター主催)が3コマも連続してありました。そのための準備も大変でした。
その一方で、ホテルでは原稿書いたり、単行本のゲラの校正をしたりと休む間もありませぬ。
ゲラを抱えたまま、迂闊にも机の前で寝てしまい、ゲラを床に落とした音で目ざめるという体たらくです(苦笑)。
主催者からせっかくいいホテルをとっていただいたのに、それを堪能する暇もありませんでした。

ひとえに私の能力不足に起因するのでしょうが、それだけでなく、時間的、物理的に無理な日程を組んでしまったといえそうで(泣)。

中日文化センターの講座は「信長公記を読み解く」の第2クールと、新たに始めた「戦国の手紙を読み解く」第2回でした。
後者については、上杉景勝を扱いました。小生の準備不足を露呈してしまった感があります。受講者からも貴重なご指摘をいただきました。有難うございます。

一方、28日の清須市の講座はおかげさまで受講者のみなさんに熱心に聴いていただき、比較的好評だったようです。
この講座は、名古屋築城400年記念事業の一環で、築城にあたり清洲城から部材が運ばれた縁から、「清洲越」(清洲からの引っ越しの意)と呼ばれていますが、それもちょうど400年なので、それを記念して開催されたものです。

「信長と清洲城」

というわかりやすいテーマでの講座でした。
事前にこのブログで告知することも忘れておりましたが、それでもたくさん集まっていただきました。
五月晴れのなか、清洲城模擬天守の近くにある会場までの間の往復に五条川の土手を歩きました。五月らしい薫風を顔に感じて、束の間の清々しさでした。

帰宅してからも取材を受けたり、連載原稿を書いたり、ゲラ校正のつづきをしております。

そうそう、本日30日の南日本新聞文化面で発売されたばかりの拙著

関ヶ原 島津退き口』(学研新書)

の書評が掲載されると聞きました。
鹿児島方面の方々、よかったらぜひ読んで下さいませ。
なお、拙著につきましては、ここここをご覧下さい。

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【2010/05/30 00:20】 | 中日文化センター
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このたびはお疲れ様でした
木暮兼人
いろいろとばたついていますが
間隙を縫う形で参加させていただきました

準備不足で道に迷ったために最初の10分を
聞き漏らしてしまったのが残念です。

久々のセミナー参加となりましたが
存分に楽しませていただきました
ありがとうございました

当日はお天気もよく
講座に参加されている方々の熱意もすがすがしく
大変よい時間をすごせたと感じました

また機会がありましたら清洲は訪れたい場所です
清洲模擬天主はともかくも(笑)
 #たしかアレはふるさと創生1億円が資金で建築されたと
 #地元の方に以前聞いた覚えがあります
清洲古城址など、じっくり時間をかけて散策したいところです

御礼
桐野
木暮兼人さん、こんばんは。

ご事情あるのに、わざわざ受講していただき、有難うございました。
もしかして、以前の講座で既知の話だったのではなかったでしょうか?
それでも、ある程度は満足していただけたようで幸いです。

私が初めて清洲城の取材に行ったとき、あの模擬天守は建ったばかりでした。たしか80年代後半だと思いますが、ふるさと創生云々の頃ですかね?

今後ともよろしく。


ありがとうございます
木暮兼人
ふるさと創生云々・・・
については、ネットで調べてみましたが
時期としては合致する気がします

ただ、創生資金と建設のタイミングが一緒ですので
1億円をいただいてから、あの模擬天守の計画を立てたのでは
なさそうな印象です
1億円が天守建設資金の一部になったというだけの話かもしれません


先日の講座についてですが
私自身、今までまじめに歴史の講座などを
受講してこなかったタイプの人間ですので
清洲のゴタゴタについては、小説その他で既知の内容ではありましたが
一次史料を紐解く形で解説していただけるのは
初めての経験でしたので、かなり楽しかったです
周囲の理解をいただいて参加できて本当によかったと思います

ご多忙の日々が続いていらっしゃるようですが
お体ご自愛くださいますよう

またどこかの会場でお会いできることを願っております

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第150回
―薩長和解に奔走、非業の死―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしていただければ、ご覧になれます。

前回に引き続き、薩摩にゆかりのある海援隊士シリーズです。
今回は近藤長次郎=上杉宗次郎を取り上げました。
前回告知で白峰駿馬としましたが、写真手配の関係で順番を変えました。ご了承下さいませ。

なお、海援隊の結成は慶応3年(1867)4月でして、近藤はそれ以前に他界していますから、厳密に言えば、海援隊士ではないのですが、同じ仲間だったということで大目に見ていただければと思います。

近藤の国事周旋力は坂本龍馬に劣らないものがあったような気がします。
ああいう形で非業の死を遂げたのは残念ですね。近藤が町人身分だったことがまったく無関係だったかいえば、そうでもないような気もします。

書いているうち、上・下2回に分けたほうがよかったと気づきました。
薩長和解までと、その死をめぐってと書き分けたほうがよかったかもしれません。
それを1回にまとめてしまったので、やや中途はんぱな出来かも。


この連載も今回で150回になりました。
ご愛読、ご支援に感謝するばかりです。

次回は白峰駿馬の予定です。

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【2010/05/25 10:40】 | さつま人国誌
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歴史読本の最新号(7月号)の掲載誌が届きました。
25日前後には書店に並ぶと思います。

今月号の特集は「知っておきたい幕末史の新・視点」というもので、
拙稿は表題のとおりです。

近江屋事件について、私は「薩摩黒幕」説なるものが史料に基づかない的外れなものであることを、拙稿や拙ブログで何度も強調してきました。今回はその中間報告といった位置づけになるでしょうか。中間報告になったのは、紙数の関係で全面的に自説を展開できなかったため、概要だけ示したからです。

今回の趣旨として、

まず第一に、「薩摩黒幕」説を唱える論者(系統だった論文なり著書は見たことがありませんが)が一様に、大政奉還を進める龍馬が薩摩藩討幕派にとって邪魔だったとする考え方が史実、史料に基づかない思い込みにすぎないものであることを、岩倉具視や会津藩の史料をもとに明らかにしました。ほかにもまだ史料はあるのですが、とりあえずこの2点は必須なので掲載しました。

とくに岩倉具視書簡(大久保利通宛て)は重要な内容を含んでいます。会津・桑名両藩やその配下の幕臣(見廻組や新選組、慶喜側近の梅沢孫太郎・渋沢成一郎など)は明らかに大政奉還に反対であり、しかも、薩摩藩を大政奉還を推進する元凶ととらえ、小松帯刀・西郷隆盛・大久保の3人を襲撃するテロまで計画していました。さらに、会津藩は大政奉還建白書を提出した土佐・芸州両藩も敵であり、これを「斃す」と主張しています。

会津藩にとって、薩摩・土佐・芸州の三藩は大政奉還推進勢力として一体なのです。これだけでも「薩摩黒幕」説の破綻は明らかです。
そして、岩倉書簡の中味がほかでもない、会津藩の文書から裏が取れることも付記しておきます。つまり、岩倉書簡の内容は信頼がおけるということです。

記事には書ききれなかったため、附言しておきますと、将軍慶喜の政権返上の奏上文を高家の大沢氏が持参して参内しますが、それを妨害しようとしたのは、ほかでもない桑名藩の用人です。
大政奉還に反対していたのは会桑と幕府内強硬派です。彼らこそ大政奉還に関与した龍馬を暗殺する動機を有しているのは明らかですね。

なお、今回、この注目すべき岩倉具視書簡(大久保利通関係文書)の写真を、所蔵先の国立歴史民俗博物館のご好意により掲載することができました。記して謝意を申し上げます。

次に、用語の問題があります。
今回、私は意識的に「廃幕」と「保幕」という用語を使いました。
これは従来の「討幕」と「倒幕」、あるいは「討幕派」と「公議政体派」といった用語が誤解を招きかねないことが多いので、それを避けるためと、近江屋事件についても誤解を生む温床になっていると感じたからです。

たとえば、「討幕」を武力討幕派(薩摩藩の西郷・大久保や公家の岩倉・中御門などが代表)の行動・目的、「倒幕」は土佐藩など公議政体派の行動・目的だと規定する考え方があります。
これは非常に誤解を招きますね。土佐藩などは平和的な政権移行をめざしていたとされるのに、「倒幕」という用語はぴたりときません。「倒」という言葉は武力討幕に近いニュアンスですから。むしろ、「廃幕」のほうがふさわしいと思います。

かといって、薩摩藩などの「武力討幕派」と土佐藩などの「公議政体派」(平和的政権移行派)というとらえ方も対立点だけが際立ち、両者の重要な共通点が埋没してしまいます。記事にも書きましたが、両者には共通点が多いのです。すなわち、幕府制度の廃止と王政復古の実現です。

ところが、この共通点はあまり語られず、これを実現するための手段・プロセスや慶喜の評価が異なる点のみが過度に強調されてきた経緯がありました。こうした評価は戦後歴史学の歴史観とも大いに関わっていますが、このことが近江屋事件にも意識的にか無意識か投影・敷衍されて、大政奉還を進める龍馬は武力討幕派の邪魔になったという見方を生み出す培養基となった面が強いです。

こうした見方はもうリセットすべきだという立場から、私は「武力討幕派」と「公議政体派」の共通点を示す「廃幕」と、あくまで幕府制度の維持・復活をめざす「保幕」という対立軸が慶応3年後半の政局で重要なキーワードだと考えているところです。
このような立場に立つと、「薩摩黒幕」説のおかしさがよく見えます。

以上、記事には書けなかったことを少し補強しておきました。
歴読記事と合わせて参照していただければ幸いです。

補足
歴読今月号は私の連載記事である「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第31回も掲載されています。
今回のタイトルは「天王寺合戦で信長負傷」です。
天正4年(1576)の本願寺合戦と第一次木津川沖合戦を中心に書きました。
関心のある方はこの連載もご覧下さい。

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【2010/05/23 14:51】 | 新刊
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おーっ
小林 哲也
桐野先生!小林 哲也です。なんと面白そうな記事でしょう。幕末の研究において、大政奉還後の政治情勢は正確に分析されるべきなのにおざなりにされてきた気がします。

特集楽しみにしております。

             小林 哲也

読んで下さい
桐野
小林 哲也さん、こんにちは。

今日明日には歴読発売になると思いますので、よかったら読んで下さい。


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ローカルな話題ですが、戦国島津氏のなかで、私が興味ある人物の上位にランクされる人物。

平田増宗(1566~1610)は島津義久の信頼する家老(老中)でした。

島津家久の家督継承に反対する中心人物で、義久の外孫(二女新城の子)の忠仍(ただなお)を擁立しようとしていました。そのため、家久にとっては目の上のコブともいうべき人物です。

400年前の今日(旧暦)、増宗は入来峠近くの土瀬戸越で、家久の密命を受けた押川強兵衛と桐野九郎右衛門によって、鉄砲で至近距離から狙撃されました。
増宗は腰の刀を半分抜きかけたままで絶命したそうです(『薩藩旧伝集』)。
至近距離なら火縄の匂いがしなかったのかという疑問もありますが、風下から狙ったのでしょうか?

後記:私が月日の勘違いをしていました。増宗が暗殺されたのは旧暦6月19日でした。1カ月早まってしまいました。削除するのも何なので、注記したうえでそのままにしておきます。

かつて、ここここで書いたことがあります。
また、最新刊の拙著『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)でも、押川強兵衛の節でこの事件に少し詳しく触れています。
関心のある方はご覧下さい。

なお、下の写真は現在の入来峠の最頂部ですが、写真奧に下ったあたりが暗殺現場となった土瀬戸越です。

土瀬戸越え


平田増宗暗殺は、島津氏が戦国大名から近世大名へと転換するきっかけとなった大きな事件ではないかと思っています。
増宗暗殺の密命は家久だとされていますが、私は義弘も噛んでいると思っています。何より押川強兵衛は義弘の家来ですから。
この事件からわずか半年ほどで義久が他界します。義久は信頼する増宗の死に大きな衝撃を受け、失意のうちに亡くなったのではないかと思います。
義弘・家久父子の事実上のクーデタであり、私は島津氏の系譜がここで切り替わったのではないかと考えているところです。
つまり、日新斎が新たに立てた本宗家は貴久-義久の2代で途絶し、新たに義弘の後見の下、家久の近世島津氏に再編成されたのではないかと。となると、義弘はこの新しい本宗家の中興の祖という位置づけ(旧本宗家の日新斎に相当)もありなんじゃないかと考えられないか。ともあれ、そう考えたほうが鹿児島での過剰なまでの義弘顕彰も合点がいきます。

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【2010/05/19 20:47】 | 戦国島津
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『関ヶ原 島津退き口』
森重和雄
『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)購入したしました。
読むのが楽しみです。

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表題の拙著が本日発売です。

関ヶ原 島津退き口 ―敵中突破三〇〇里―

版元:学研新書
定価:830円(税込)

版元サイトの新刊にはまだ告知が出ていません。出次第URLを追加します。

アマゾンにはすでに出ていましたが、カバー写真は間に合わなかったようです。ここです。

私としては、これまでにない「退き口」の本だと思っています。といいますか、「退き口」の本自体がこれまでありませんでした。
関ヶ原合戦や戦国島津氏に関心のある方にはお勧めです。

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【2010/05/18 08:46】 | 新刊
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No title
中の人
鹿児島ですが、本日購入できました。


赤松小三郎のこと
zen
はじめまして。
赤松小三郎に関する記述があったので思わず書込ませていただきました。
私は赤松小三郎の出身地・信州は上田市在住の者です。
今年は大河ドラマの影響で竜馬ブームですが、赤松小三郎の地元で暮らす者とすれば、竜馬と同時代に同じような志を持って生きた人物は他にもたくさん居たんだということを訴えたい気持ちです。
話は少々かわりますが、赤松小三郎が作曲した「行進曲」を中学校の時に部活(吹奏楽)で演奏したことがあります。ご存知の通り洋兵法を学んだ小三郎は、その一環として西洋式の軍楽隊や音楽についても学んでいたようです。実際の楽譜は、とても行進曲と呼べるほどのものではなく、今の時代の消防団のラッパよりもさらにシンプルなものでしたが、子供なりに維新期当時の時代に思いを馳せたものでした。今となっては、その楽譜がどうなったのか、また演奏するに至った経緯も記憶にありませんが、地元出身の歴史上の人物について学ぶ貴重な機会だったのだな、と今更ながら感じています。(もう30年以上昔のことですが)
失礼いたしました。

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御礼
桐野
中の人さん、こんにちは。

拙著お買上げいただき、有難うございます。
もしよかったら、感想などお聞かせ下さいませ。


赤松小三郎
桐野
zenさん、はじめまして。

上田のご出身ですか。
赤松小三郎はなかなかの人物だったと思います。政争に巻き込まれたのが不運でしたね。

今秋はそちらの池波正太郎記念館で、赤松関連の企画展もある由聞いております。楽しみですね。


ご返答ありがとうございます
zen
池波正太郎記念館でも赤松小三郎の企画展があるのですね。チェックしておきます(地元に居ながら知りませんでした(苦笑))機会がありましたら、是非一度上田にもお越しください。

購入
森重和雄
桐野さま
本日、ご著書を購入いたしました。
じっくり読んで楽しむつもりです。(微笑)


No title
中の人
読了いたしました。

>「退き口」の本自体がこれまでありませんでした。
そういえば、浅学菲才の身では「島津奔る」や「真田太平記」といった小説でしか、まとまった分量には出遭ったことがなかったですね。

それだけに、史料を縦横に駆使された、(私にとっては)新知見ばかりで、存分に堪能させていただきました。

講読御礼
桐野
森重さん、中の人さん

拙著のお買い求めや読了有難うございます。
まわりの方々にも紹介して下さいませ。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第149回
―小松帯刀や西南戦争の縁―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしていただければ、ご覧になれます。

今回から数回にわたって、薩摩とゆかりのある海援隊士を取り上げる予定です。
その第1回が菅野覚兵衛です。
坂本龍馬の相婿でもある人物です。
とりわけ、西南戦争の発端となった私学校党の火薬庫襲撃のとき、その政府側当事者として事件に巻き込まれたことはあまり知られていません。私も以前雑誌に書いたことがありますが、今回改めて書いてみました。

紙数の関係で書けなかったことですが、菅野はよく無事だったと思います。興奮した私学校党の連中に殺害されてもおかしくなかったです。
県庁に掛け合っても、県令大山綱良は私学校を庇っていましたから相談に乗るはずもなく警備も付けてくれません。
その後、菅野は桜島に避難したり、あちこちと点々としています。
それでも、弾薬に注水して使用不能にし、上司である海軍大輔の川村純義に事後報告してから鹿児島をあとにしており、最低限の任務は果たしたと思います。

その後、菅野は安積の開拓事業でも苦労していますね。これも龍馬の夢を実現しようとしたと思えなくもないです。
でも、開拓もうまくいかず、何となく報われなかった生涯だったかもしれません。

次回は連載150回ですが、白峰駿馬を書く予定です。

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【2010/05/18 08:38】 | さつま人国誌
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造船所と砲列が並んだ写真
岩剣石塁
 毎朝、造船所の石碑の前を通りますが、どのような種類の船が
建造されていたのかが、気になります。
昇平丸は桜島での建造のようですし・・・。

 幕末~明治初年の磯の風景の写真には、浜辺に大砲の砲列が
並んでいます。
 薩摩藩の所有物なのか、明治政府の所有物なのかは分かりませんが、
ひょっとしたらこれらの大砲は、磯の海軍火薬庫の備品になった
可能性もありますよね。

磯龍洞院?
桐野
岩剣石塁さん、こんばんは。

あの石碑のあるところですが、安政元年(1854)3月から1年ほどかけて、磯龍洞院近くの海岸で建造したことが『新納久仰雑譜』に出ています。
このことじゃないでしょうかね?

もっとも、この蒸気船は試運転が失敗しています。
だから、船名もないのかも。


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先日、上野まで用事があったので、そのついでに、東京国立博物館に立ち寄り、表題の展示を見てきた。

詳しい告知はここをご覧下さい。

長谷川等伯展を見逃してしまったので、せめてこれは観なければと思っていた。幸い、入場者もほどよく、かなりスムーズに観ることができた。等伯展だったら、こうはいかなかっただろう。

「珠玉の永青文庫コレクション」とあるように、熊本細川家のお宝がこれでもかというばかりに展示してあった。

お目当ては、信長文書と光秀文書である。
本能寺の変後、明智光秀が細川幽斎・忠興父子に与えた有名な覚書の実物を初めて実見。かなり長く立ち止まって感賞した。

個人的に関心があった「但、若之儀」か「但・若之儀」かというところを見たけれど、よくわからなかった。
帰宅してから図録の解説を見たら、「但・若之儀」と翻刻してあった。読点ではなく並列点(中黒)であるから、これはやはり、「但し」云々という条件ではなくて、恩賞として摂津国を与えたいが、但馬・若狭の両国がよければそれでもかまわないという趣旨のようである。

あと、信長文書は、信長が幽斎に山城国西岡一帯を与えるという領知朱印状と、忠興に与えた有名な信長自筆感状が展示されていた。前者は前に観たことがあったが、後者は初めて観たような気がする。信長自筆文書はほとんど存在していないので、これもじっくり見学した。なかなか雄渾な筆致だった。

しかし、前宣伝では、信長が幽斎に宛てた長篠合戦関係の書状2点が本邦初公開されるとあったが、どのコーナーを探しても見当たらなかった。
私の情報不足かもしれず、もしかして展示期間の前半と後半で出品が異なるのかと思ったが、図録を見てもこの2点は掲載されていないようである。
これも帰宅してから、館内に備えつけの出品目録を見たら、末尾に参考出品として信長文書4点が掲載されていた。果たして、これはいつ、どこに展示されていたのだろうか?

信長文書でも有名なものを観られるかと思って出かけただけに、ちょっと消化不良だった。

あと、第2部にあたる細川護立コレクションも観たが、これはすごい。
横山大観、菱田春草、安井會太郎、梅原龍三郎から、セザンヌ、ルノワール、マティスまで展示されていて驚く。

そのなかで、お気に入りは春草の「黒き猫」。
猫好きにはたまりましぇん。絵葉書とメモ帳買いました(笑)。

ほかにも見所満載です。
さすがに永青文庫だという半日でした。

附:
同博物館内の庭園に創設者である町田久成(薩摩藩士)の顕彰碑があるのを前から知っていたので、これを機会に撮影しようと思ったが、庭園は春・秋の一般公開と、月2回の庭園茶室ツアーのときしか入れないとのこと。これまた残念でした。リベンジしないといけません。

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【2010/05/14 19:43】 | イベント
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行かれたんですか!
市野澤
こんばんわ。
『細川家の至宝』展、行こう行こうと思いつつ、
今月は論文の複写と図録を購入し過ぎました。

やはり、良かったようですね。
来月、行けるだろうか・・・

現在、尚古集成館で開催されている『戦国大名島津氏』展は如何でしょう?

18日に、ご著書が書店に並ぶの楽しみにしています。

「戦国大名島津氏」展
桐野
市野澤さん、こんばんは。

尚古集成館の展示、どんな内容なのか、サイトにはまったく情報ありませんね。残念です。
おそらく図録も作らないんだろうなと思いますが……。

それが・・・
市野澤
こんばんわ。
返信も頂けなくて・・・こんなの初めてです。
桐野さんが以前にブログで紹介されていた佐土原歴史資料館にて催された「島津家久・豊久父子とその時代」も同様ですかね?

仕事や遠方過ぎて行けない時は図録と講演会の資料だけは購入しているので、困るんですよね。
電話だと誰が出るか分からないし、以前に言った・言わないで嫌な雰囲気になったことや、作成しているのに作成していないと言われたことがあるので
電話しか連絡先が明記されていない博物館はホント困ります。

こんなこと、桐野さんはありますか?

不運でしたね
桐野
市野澤さん、こんにちは。

尚古集成館にはメールで問い合わせされたのでしょうか?
あそこはメールでの応対はけっこうルーズです。
電話されたほうが確実でしょう。

それにおそらく図録を作る余力がないと思いますよ。
予算、人力の両面で大変かと。

佐土原のほうはよくわかりません。
電話で問い合わせされたほうがいいと思います。
私はたいがい電話しますね。


お疲れ様でした
市野澤 永
こんばんわ。

シンポジウム、盛況だったようでなによりです。

本日はご質問させて頂いた件の、ご報告をかねて。

古い話題で恐縮なのですが、尚古集成館で開催されていた『戦国大名島津氏』展はご推察のとおり、図録を作成していないそうです。

佐土原歴史資料館にて開催された「島津家久・豊久父子とその時代」展ではパンフレットを作成していて(本企画展の参考文献野中に桐野さんの『真説 関ケ原』があがっておりました)、みやざき歴史文化館学芸員の新名一仁氏の企画関連講座のレジュメと関連史料ともども、送付頂きました。
同館の松原様、ありがとうございました。

薩摩川内市川内歴史資料館にて開催された『激動の戦国期-島津氏の光と影-』展の図録と三木靖氏の企画関連講座のレジュメも購入しました。
三木氏のレジュメはありがたかったです!
同館の出来様、ありがとうございました。

『月刊歴史読本』の最新号、拝見しました。
連載に早速、信忠の官位についてを触れていらっしゃいましたね(レジュメ、入手できました)。
おっしゃられたように、『歴史読本』は内容が良くなってますね。最近では金子拓氏の論考は興味深く読ませて頂きました。また、岩田慎平氏に原稿を依頼しているのには驚きました。岩田氏のような前途有望な若き研究者をドンドン起用して頂きたいものです。

9月になっても、まだ暑いですが、お体にはくれぐれもお気をつけ下さいませ。

P.S
ご著書、購入させて頂いています。
勤務先にも入れて貰いました。

よかったですね
桐野
市野澤 永さん

お久しぶりです。
図録など入手できてよかったですね。
また拙著も購入いただき、有難うございました。



「-没後400年・古今伝授の間修復記念-細川幽斎展」
市野澤 永
こんばんわ。
お忙しい中、恐れ入ります。
書き込みが頻繁になってしまい、申し訳ございません。

今週末に熊本県立美術館において、
10月6日(水)~12月19日(日)
「-没後400年・古今伝授の間修復記念-細川幽斎展」

催されている展示の図録が届きました。
内容はタイトルのとおり、
古今伝授について多く割かれています。
信長の書状が5通、光秀の書状が1通、カラーで掲載されています。
ご存知かと存じましたが、
桐野さんの守備範囲に入ると思いましたのでお知らせ致します。
ちなみに現金書留のみで価格は1500円です。

熊本県立美術館のHP ↓

http://www.museum.pref.kumamoto.jp/

お知らせ御礼
桐野
市野澤さん

毎度、貴重な情報提供有難うございます。
さすがに熊本まで見に行くのは難しいので、せめて図録を入手したいと思います。


ガラシャと細川家の女性たち
市野澤 永
お世話になります。

熊本県立美術館
「ガラシャと細川家の女性たち」
1月7日(金)~2月27日(日)
前期 1/7(金)~2/6(日)
後期 2/8(火)~2/27(日)
会場 熊本県立美術館本館 細川コレクション 永青文庫展示室
開館 午前9時30分~午後5時15分(入館は午後4時45分まで)
休館 1月11日(火)、17日(月)、24日(月)
料金 一般200円(150円)
大学 120円(100円)
   本館2階展示室との共通観覧券:一般400円(300)円、大学生240円(180円)
   ( )内は20名以上の団体料金、高校生以下無料、障がい者手帳をお持ちの方は無料
主催 熊本県立美術館、熊本日日新聞社、RKK熊本放送
詳細  http://www.museum.pref.kumamoto.jp/

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表題の拙著が近日中(18日)に発売になります。

副題:敵中突破三〇〇里
版元:学研新書
頁数:288頁
定価:790円(税込:830円)


私としては、手前味噌ながら、島津の退き口に関してここまで書かれたものはないと思っております。
このブログを読んでいただいている方の多くは、退き口については一定の知識をお持ちかと存じますが、ほかにも知られていない事件や事柄がたくさんあります。それをてんこ盛りにしました。
退き口なんて知ってるよという方もぜひご覧下さい。決して損はさせないと思います。


連動企画として、雑誌「歴史群像」2010年6月号の第2特集に、

遙かなる故国への道
【続 関ヶ原島津退き口】


という記事も書きました。ここです。
こちらも合わせてお読みいただければ幸いです。

なお、この記事の末尾に拙著の広告が掲載されております。
そのなかで、発売日の誤植があります。

5月11日発売となっておりますが、これは見本日でして、

5月18日(火)発売

が正しいです。
お間違えなきようにお願いします。
すでに「まだ書店に並んでいない、どうなってるんだ」というお叱りの問い合わせもいただきました。
申しわけありません。

ついでながら、拙著についてご協力いただいた方々に贈呈するつもりでおりますが、多忙を極めており、しばらく発送作業をする時間的余裕がありません。しばしご猶予をいただきたく存じます。

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【2010/05/13 02:22】 | 新刊
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No title
橋場
御上梓おめでとうございます。
な、なんだか戦中の少年向け小説の様な副題ですね(笑)

高著、ご恵贈感謝申し上げます
中村武生
桐野先生
 中村武生です

 本日、高著、拝受いたしました。

 うれしいです。心より感謝申し上げます。

 略儀ながら、まずは御礼まで。

楽しみです
tsubu
桐野先生、こんにちは。
是非購入して、読ませて頂きます。
退き口の決定版であろうと思われますので、
今から読むのが本当に楽しみです。

有難うございます
桐野
橋場殿下

「敵中突破三〇〇里」はたしかにねえ(笑)。
まるで山中峯太郎みたいですわ。

中村武生さん

お久しぶりです。
龍馬と離れてしまっていますが、ご笑覧下さい。
ブログも拝読しましたが、「先生」はご勘弁を(笑)。

tsubuさん

お久しぶりです。
時折、貴ブログも拝見しております。
今回は幕末ではないですが、こちらもよろしくお願いします。






新刊おめでとうございます
ばんない
5/11にAmazonを必死になって検索していたのはこの私です(苦笑)

ところで、一般的には「島津退き口」と書かれることが多いと思いますが、あえて「島津退き口」とされたのには重大な意味があるのですか?ちょっと気になったので…。

タイトル
桐野
ばんないさん、こんばんは。

やはり誤った告知のため、振り回してしまってすみません。

タイトルについては、私も最初違和感あったのですが、まあ、デザイン上の要請だと思います。

新書のカバーに幅広のオビが付いていますが、そのオビ下にタイトル文字が被らないようにしたのかなと。
「島津の退き口」としたら、「口」の字がオビ下に入ってしまいます。

新書なので、統一のデザイン、フォーマットになっていて、タイトル文字も字体・級数などが統一されていて、字数も制限がある感じですね。タイトルが1行なら、8文字以内とか。

そんな技術的な理由かと思います。


「大人の事情」
ばんない
こんばんは。しょうもない質問に関して丁寧な御回答ありがとうございました。
が、そんな理由だったとは…。
何とも答えにくいお話を書いて下さってありがとうございました。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第148回
―京都政局を冷静にリード―

昨日連載が更新になっていました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きです。
慶応3年(1867)大政奉還前後の政局と吉井の関わりについて書きました。
ほんとは、吉井が大政奉還をどう評したのかも書きたかったのですが、紙数の関係で断念しました。
吉井は小松帯刀や伊地知正治と同様、大政奉還を高く評価しています。
将軍慶喜の「反正」は真実であり、それなりに処遇すべきこと。また勝海舟と大久保一翁を幕閣に登用すれば、一緒にやっていけるとまで書いています。

余談ながら、近江屋事件について薩摩黒幕説なるものが流布しています。薩摩藩討幕派(西郷・大久保ら)が大政奉還を進める龍馬が邪魔になったというのが根拠のようですが、果たしてその説を支持される方はそのことを史料で検証されたことがあるんでしょうかね?
薩摩藩は明らかに大政奉還を支持しています(とくに小松帯刀が活発に動いています)。これだけでも龍馬が邪魔になって殺害する必要などどこにもないのですが、もし黒幕説の通りだとすれば、藩外の龍馬よりも先に藩内の大政奉還支持派を排除することが先決では?
小松も伊地知も、そして吉井も排除するか殺害しないと、討幕派は藩内の主導権を確立できませんよね。
そしてほかでもない、上の3人は薩摩藩討幕派に属する面々ですよね。
黒幕説の自家撞着は明らかだと思うんですが……。

あと、前回これまた紙数の関係で書けなかったのですが、吉井は近江屋事件の直後、近江屋に駆けつけ、龍馬の遺体と対面したと思われます。凶報を知った陸援隊の田中光顕が陸援隊屯所から駆けつけるとき、途中、二本松の薩摩藩邸に立ち寄って、吉井に急を知らせています。おそらく吉井は田中と一緒に近江屋に向かったと思われます。

脱線したというかとりとめのない話になってしまいましたが、次回からしばらく龍馬周辺の人々、とくに薩摩と縁が深い海援隊士たちを取り上げようと思っています。

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【2010/05/11 23:39】 | さつま人国誌
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本日の大河ドラマ「攘夷決行」第19回

ドラマ進行時点は、文久3年(1863)5月10日前後。

今回もツッコミどころが多かったが、次のことだけに絞ります。

仏作って魂入れずとはこのことではないだろうか。

龍馬の幾多の印象的な言葉のなかで、もっとも有名なのは,

「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申し候」

と書いた乙女姉さん宛ての手紙だろう。
本日のドラマでは、まさに龍馬のこの言葉が泣いていた。

乙女姉さん宛ての手紙の日付は6月29日。
攘夷決行日から1カ月半後である。

しかし、その内容は明らかに5月10日のことが書かれている。
龍馬の「洗濯」の言葉の直前に何と書かれているか、ご存じだろうか?

「右申す所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打ち殺し」

とあり、「洗濯」につづく。
姦吏」とはもちろん、攘夷決行を約束しながら、その実、外国勢力に屈服・内通している幕府の役人たちのことである。
龍馬の「洗濯」とは、こうした「姦吏」を一掃するという意味だった。

この「姦吏」とは、まさに売国・買弁の徒である。
龍馬は怒りとともに嘆く。

「其の長州でたゝかいたる(戦いたる)船を江戸でしふく(修復)いたし、又長州でたゝかい申し候、是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものにて候」

ドラマでも、一橋慶喜をして、外国船を幕府で修理してやろうというセリフを吐かせていた。
ということは、明らかにこの龍馬の手紙を意識してのセリフである。

しかし、肝心要の龍馬がなぜか日本を「洗濯」するという気概を示さない。示さないばかりか、むしろ逆に、敗北主義で日和見な龍馬像が結ばれていた。
いわく「長州だけでなく、日本の藩がみな砲撃したら、日本はなくなっていただろう」と。

日本が朝廷・幕府から諸藩、庶民に至るまで一致団結して攘夷(独立運動と読んでほしい)を決行したなら、たとえ日本の砲台がすべて破壊されても、外国はむしろ、日本を恐れて一目置いたはずである。

何とも情けない龍馬である。

それというのも、制作者が紋切り型で通俗的な「攘夷」と「開国」の二項対立にとらわれているからである。

龍馬も攘夷主義者である。間違いない。
長州との人脈(久坂・桂・高杉など)から類推して、かなり考えが近かったのではないかと思う。

龍馬が「姦吏」を一掃して日本を「洗濯」すべしとまで激したのは、為政者(幕府)の言行不一致に憤慨したからである。

辛うじて勝麟太郎に「天下の幕府が姑息な真似をする」とつぶやかせたが、決して龍馬のセリフではないし、勝だってつぶやくか、無言を守るだけで上司に面と向かって反論さえしない。
すでに幕臣の大久保一翁が攘夷が出来ないなら政権返上せよと主張していた(言行一致を遵守せよという意味)。勝も大久保と近い立場のはずだから、このセリフを吐いてもおかしくないはず。
このドラマには、どこにも気骨ある人物がおらず、陰謀家と感傷家ばかりではないか。果たしてこれで龍馬と幕末維新を描いたといえるのだろうか?

5月10日の攘夷決行は、その思惑やいきさつはどうあれ、朝廷と幕府が合意した日本政府の国民に向けた「公約」である。
その「公約」をあっさりと反古にし、自分の利益のためには同じ日本人である長州が負ければよいとうそぶく為政者に、龍馬はキレたのである。
(同時に「公約」を守った長州藩が庶民の間で人気が高くなるのも当然である)

攘夷をするといって、外国と内通する。
大政奉還をするといって、幕府を温存しようとする

こうした「姦吏」の言行不一致が国を滅ぼす基だと龍馬はいいたいはずである。
ここを描かなかったら、龍馬をドラマ化した甲斐がないと思うのは私だけだろうか。


と、ここまで書いて、まるでいまの日本の状況と同じだと気づいた。

言行不一致は誰か?
外国と内通している「姦吏」は誰か?
洗濯」すべきはいまの日本もじゃないのか?

つくづく歴史は今を映す鏡だと思う。

妄言多謝

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【2010/05/09 21:51】 | 龍馬伝
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史談会
ふもと小町
ご無沙汰しております。
南さつまのふもと小町です。

久しぶりに開いたら「龍馬・・・」とても勉強になり興味をそそりました。これからは楽しみに読ませていただきます。

今日はくしくも竹田神社で「史談会」があり、出席してきます。初めての出会なのでさて?どのようなお話があるでしょうか?


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石ころ
某防衛庁OBの方のブログでも似たような批判がなされていました。

龍馬が弾道計算をする学生たちに危惧の念を抱いて勝に注進するのはおかしい

みたいな感じで。

No title
 
龍馬は確かに武闘派で、海援隊は武器商人の集団でしたが

日本全国で大砲をぶっぱなせば欧米人に一目おかれるという考察は、噴飯ものです
「極東の小国の野蛮人」「力でねじ伏せないと理解できない猿」
としか思われませんよ

中国がイギリスと戦争状態になってどうなったかご存じですか?

No title
 
あ、それから
アヘン戦争の惨状を見て、幕府のお偉いさんや知識人が
「これは日本も開国しなきゃやばいな」
と考えたのもご存知ですよね?

はっきり申し上げると、当時の欧米諸国はアジア人を同じレベルの人間だとは思っていませんでしたよ

コメント御礼
桐野
石ころさん、こんにちは。

龍馬像がその時代の空気や雰囲気に影響されるのは致し方ないかもしれませんね。
ただ、基本的な史実はそれほど変わらないわけで、それを無視したり、またく反対の造作にするのは、いかがかと思っているところです。

今年の龍馬は、争いを好まない非政治的なノンポリ龍馬像のようですね。

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前回、この間ご恵贈いただいたご論著を紹介しましたが、幕末・近代の2点を失念しておりました。
机まわりを整理したら、「発掘」されました。お二人には遅ればせながら、お詫びします。


松井慎一郎著『河合栄治郎―戦闘的自由主義者の真実―』 
中公新書 2009年12月刊

松井さんとは桜美林大学であった大久保利通研究会の報告会で知り合いました。
私は近代史には疎いのですが、河合の名前と事績は漠然とながら知っておりました。
でも、読んでみると、これほど気骨と信念のある思想家はわが国では珍しいと思いました。
副題にある「戦闘的自由主義者」という言葉がぴったりの人ですね。
マルクス主義と対峙しながらも、反軍部・反ファッショの闘いには、背筋の通った戦前の知識人の姿を彷彿とさせます。今日こそ、このような思想家や政治家が求められていると思いますが……。
またそれだけに、もっと知られてよいと思います。

町田明広「幕末政局における「皇政回復」―島津久光率兵上京を中心として―」
『佛教大学大学院紀要』文学研究科篇38号 2010年

現在、幕末島津氏についての論著を活発に世に問うている町田さんのご論考です。
2年ほど前だったか、明治維新史学会の大会での報告を論文化されたのだと思います。
「皇政回復」というのは聞き慣れない言葉ですが、文久年間における公武もしくは朝幕藩の関係のありようを規定した用語です。
ペリー来航以来、幕府の統治能力の衰退は誰の目にも明らかになり、代わって朝廷の権威が高まりました。そうしたなかで、幕府と朝廷の二元政治を何とか統合する試みが各方面からなされます。
従来、「公武合体」とか「公武一和」といった用語で語られていましたが、あまりにも漠然としており、それを語る朝廷や幕府・諸藩の立場性が捨象されてしまっています。
町田さんは諸政治勢力の立場・利害の違いによって「皇政回復」の位置づけが異なっていることを指摘しています。
とくに公武融和の下で自らの主導権を確立しようとする久光と、「天皇親政」をめざした岩倉具視や長州系攘夷派との違いを浮き彫りにしています。


余談ながら、私も今月18日、久しぶりに拙著を上梓予定です。

『関ヶ原 島津退き口―敵中突破三〇〇里―』 学研新書 

これまで書きためたものに加筆したものですが、これまでほとんど知られていない退き口の実態が書かれていると自負しております。関心のある方、ぜひお求め下さい。

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【2010/05/07 23:59】 | 新刊
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楽しみにしています
岩剣石塁
 『関ヶ原 島津退き口―敵中突破三〇〇里―』。
これは興味深い題材ですね。
 本屋に並ぶのを楽しみにしています。 

拙著
桐野
岩剣石塁さん、こんばんは。

拙著、まわりにも宣伝して下さいませ。
手前味噌ながら、力作だと思っております。

広告
岩剣石塁
 今日、鹿児島でも歴史群像101号の発売日だったので、早速
先生の「続 関ヶ原 島津退き口」を拝読いたしました。
最後の65ページに「5月11日発売」と広告が載っていました。
しっかり宣伝活動させていただきます(^_^)/

いよいよですね
市野澤
こんばんわ。
1月にお知らせ頂いていた新書の発売が迫っていますね。
版元が何処か気になっていたのですが、学研でしたか。

友人にも知らせ、「オンライン石田三成会」の掲示板を利用させて頂き、
SHUNさんへも紹介させて頂きました。

発売日ですが、月刊『歴史群像』では11日、
ネットでは21日というのもありました。
弊社関連のオンラインビーケーワンではデータもまだない状態です。

18日発売で宜しいでしょうか?

No title
桐野
市野澤さん、こんばんは。

拙著の発売日ですが、雑誌『歴史群像』に出ていた広告の5月11日は間違いです。
これは見本の日でして、18日発売が正しいです。

混乱させてすみません。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第147回
―坂本龍馬と公私の友人―

連載が昨日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回からおそらく2回に分けて、吉井幸輔のちの友実について書きます。
前から書きたい人でした。とくに龍馬との関係で。
龍馬とかなり早くから知り合った人物であり、龍馬が亡くなる1カ月前に龍馬に薩摩藩邸に避難するよう忠告に行ったほど、龍馬と公私にわたって親しかった人です。

メインのタイトルがいかにもありふれていていただけませんが、ほかに思いつかなかったもので(汗)。

最近、吉井が留守中に訪ねてきたと書いた龍馬書簡(望月清平宛て、10月17日付)を新たな文脈で再検討すべきだと思っているところです。なぜこの時期に吉井が龍馬を訪ねたのか、私は吉井の側に切迫した理由があったと思っています。詳しくは今月下旬発売の歴史読本7月号を読んで下さいね。

大河ドラマでは、まだ龍馬と薩摩藩士との本格的な接触はありません。神戸海軍操練所が出来ていますが、そのうち西郷吉之助か小松帯刀との対面の場面があるでしょう。
でも、きっと吉井幸輔は登場しないでしょうね。
龍馬の郷里の友人である吉村寅太郎が登場しないのと同様、薩摩藩でもっとも親しかった人物である吉井も登場しないわけで。

だからこそ、ドラマの進行と併行して、吉井の事績に触れておくことは意味があると思っています。
ただ、吉井の史料が少ないです。伝記もないはずです。精忠組ではNo.3といってよい人物だけに惜しまれます。
本人の日記(おそらく明治時代)も存在するようですが、不勉強にして未見です。というか、所在先・所蔵先もよくわかりません。その断片は『忠義公史料』などに収録されてはいるのですが……。

次回は、大政奉還直後、三巨頭(小松・西郷・大久保)がそろって帰国してしまった京都藩邸を伊地知正治とともに預かった吉井の覚悟と奮闘ぶりを書く予定です。

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【2010/05/04 00:17】 | さつま人国誌
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吉井友実日記
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 ご無沙汰いたしております。三猿舎・安田です。フラッとお立ち寄りしましたところ、吉井幸輔とその日記について触れておいででしたので、ちょっとコメントを。これは、宮内庁書陵部にある「三峰日記」のことではないでしょうか。通称「吉井友実日記」だそうです。
 私もまだ閲覧したことはないのですが、なにか龍馬との関係を物語る未見の記述があると面白いですね。
 でも書陵部での史料閲覧って、ほんとうに面倒くさいですからね。恥ずかしながら、私はよほどのことでないと行く勇気がわいてきません。

有難うございます
桐野
安田さん、ご無沙汰しております。

ご教示有難うございました。
ほかにも教えていただいた方がおいでで、有難い限りです。

おそらく明治になってからの日記じゃないかと推察しているところです。
だから、龍馬関係はないかもと想像しているところなんですが。
吉井が文久~慶応あたりの日記を残していてくれたら、じつに面白いと思うんですけどね。

取り急ぎ御礼まで。

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もう先月のことで旧聞になってしまいました。
このところ忙しくて、なかなかブログの更新もかないません。
連休も仕事ばかりです。

先月22日(木)、名古屋の栄・中日文化センターに出講。
今回から、2コマの講座になりました。

13:00からは、いつもの「信長公記を読み解く」第4回。
今回は「山科言継とフロイスの岐阜訪問」がテーマ。
今回に限って、『信長記』のテキストは使いませんでした。
この2人の岐阜訪問を太田牛一が書いてくれていないためです。
牛一は知らなかったのでしょうか。あるいは大したことではないと思ったからでしょうか。
この2人は気難しい信長から奇跡的に親切にされています。
次回からいよいよ元亀争乱に入ります。まずは金ヶ崎の退き口でしょうね。

15:00から新たに始まった「戦国の手紙を読み解く」の初回です。
同日連続になったので、受講者の方が当初少なかったのですが、このブログでもお願いしたせいか、最終的にはそこそこの受講数になりました。
御礼申し上げます。

さて、初回のテーマは「織田信長」の手紙です。
連続して受講された方には既視感があったかもしれません。
でも、取り扱う時代が違ったのでお許し下さい。何というか、初回に信長はお約束みたいなものですから。
今回は5点の信長書状を取り上げました。
有名なおね宛ての手紙や、信長と家族(信忠・信雄)との関わりを述べたものです。
5点は多いかと思いましたが、5分ほどオーバーしただけで何とかおさめられました。
次回は上杉景勝です。


4月27日(火)、小学館「てらこや」出講
今月から始めた新講座「坂本龍馬と丁卯日記」の2回目です。
大政奉還をめぐる土佐藩や薩摩藩の動きとともに、龍馬の越前訪問を見ました。
また、越前藩の前藩主松平春嶽が上京するか否かをめぐって、春嶽本人と側近たちの間で検討が加えられますが、その根底には将軍慶喜への不信感が横たわっており、大政奉還が慶喜の「権謀」「権略」ではないかという疑念を拭いきれなかったようです。
結局、ある藩士の「朝幕之危難」を助けるべきだという「一正論」によって上洛と決します。
この「正論」を唱えたのが誰だかわかりませんでしたが、受講者からご指摘あり、なるほどと思いました。

中根雪江の日記は越前藩の準公用日記といってよいと思いますが、今回も内部のあーでもない、こうでもないという議論はぐだぐだ感が否めず、読むのにやや退屈ですが、これが実態というものでしょう。
藩の方針を定めたり、ひとつのアクションを起こすにも、内部でのさまざまな情報収集と慎重な検討がなされたということでしょう。
こういうのはドラマで描かれるはずはありませんが、やはり大事なことだと思います。
次回は近江屋事件まで行くかどうか。

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【2010/05/03 09:34】 | 中日文化センター
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