歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨日夕刻、小学館古文書塾「てらこや」に出講。

特別講座「坂本龍馬と丁卯日記」第2クールが開講した。

事前に当ブログで告知するのも忘れておりました。
忙しかったこともありますが、勘違いもしています。
じつは、第1クールの最終日だとばかり思い込んで、レジュメも作成してしまいました。
同シリーズだったからよかったものの、別のシリーズに変更していたら,大変なミスになるところでした。
受講者のみなさま、すみませんでした。

第2クールが始まったばかりだというのに、もう龍馬は他界しています。
こればっかりは致し方ありません。『丁卯日記』じたいは龍馬が亡くなってからも慶応3年いっぱい続くものですから。

今回は龍馬の死の反響として、大久保利通と岩倉具視の往復書簡を取り上げました。
大久保は重態だった中岡慎太が息を引き取ったと聞いて、
「石川(中岡の変名)もなくなり候由、実に以て慨すべし、惜しむべき事と存じ奉り候」
とその死を悼み、さらに近江屋事件の犯人がわかったと、
「坂本はじめ暴殺の事、いよいよ新撰(新選組)に相違なし」
「第一近藤勇が所為と察せられ申し候」

と新選組、なかんずく近藤勇の仕業だと怒りを発し、近藤に対して、
「実に自滅を招くの表れ」
だと断罪しています。

一方、岩倉も中岡の死を知ると、
「坂(龍馬)・横(横山勘蔵=中岡の変名)の死云々、臣も実に遺憾、切歯の至り、何卒真っ先に復讐致したきもの」
と、2人の仇討ちをしたいとまで激しています。
このあたりのことがもっと知られるようになると(新選組犯行説は大久保らの思い込みですが)、変な説も横行しなくなると思うのですけどね……。

もうひとつは、大政奉還後の徳川慶喜の動向の一端を見ました。
あまり知られていませんが、慶喜はこの時期、国際的な外交交渉に乗り出そうとしていました。それは鎖国攘夷の朝鮮国と仏米間の調停です。慶喜は朝鮮国説得のために使節を派遣しようとしました(最終的には断念)。
これは、朝鮮だけでなく、仏米に対して日本の外交権を保持しているのは自分であると誇示する目的がありました。大政奉還後、慶喜は新政権の首班に就くつもりだったのです。この一件は国際社会に対しての根回しでもあったと思います。

最後に、討幕の密勅見合わせの一件を史料を使って検討しました。
これを明らかにしたのは、故・高橋秀直氏です。
高橋説に従って、中山忠能の史料(日記と履歴資料)を中心に検討しました。
ほとんど知られていませんが、討幕の密勅は薩長だけでなく、芸州・土佐、そして尾張・越前にも降る予定になっていました。しかし、慶喜が大政奉還をしたために、薩長だけに留まったのです。
もし、他の4藩にも降っていたら、その時期の政治勢力の色分けについて、かなり印象が変わるはずです。つまり、薩・長・芸・土・尾・越は同一の政治勢力だと見えるはずで、その内部対立を深刻にとらえることはなくなったに違いありません。密勅こそ4藩には降らなかったものの、実態はそうだったということです。

密勅が大政奉還によって宙に浮いてしまい、その見合わせが倒幕派公家4人(中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之・岩倉具視)の間で検討され、見合わせ沙汰書が作成されましたが、結局、薩長に渡されなかったのではないかと見られます。その理由は薩長両藩の率兵上京に悪影響を与えるから、薩摩が上京してから知らせればよいということでした。実際、上京してきた大久保一蔵に正親町三条などから伝えられています。
この件で、正親町三条の手記『嵯峨実愛手記』を読みました。難解な部分でしたが、受講者からの指摘により、よく理解できました。大久保自身も大政奉還と密勅の矛盾について疑問を抱いていたということが確認できたような気がします。

次回は王政復古政変前夜あたりになるでしょうか。

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【2010/06/30 22:00】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第154回
―久光四天王随一の実力者―

連載が昨日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回から、中山実善を3回にわたって書く予定です。
中山実善よりも、中山尚之介、中山中左衛門という通称のほうがよく知られています。
もっとも、「実善」「尚之介」は何と読むのか、確証がありません。おそらく「さねよし」「なおのすけ」だと思いますが、後者は「ひさのすけ」「しょうのすけ」と読む可能性もありますね。子孫の方に伝わっていない限り、正式の読みを確定するのは難しいです。ですから、あえてルビは付けませんでした。なお、「中左衛門」は「ちゅうざえもん」でいいと思いますが。

中山はなかなかのやり手ですが、鹿児島では評判が悪いですね。
記事では西郷の批判をあげました。西郷が2度目の島流しになった一因は、中山の讒言があったと,西郷は思い込んでいる節もあります。もっとも、それは私怨もありますから、多少割り引いたほうがいいでしょうね。
しかし、ほかにも中山を批判している人はいますので、嫌われる傾向はあったようにも思います。

さりながら、そういう個人的な性格だけで割りきっていいのかというのが今回の執筆動機です。
私は中山の失脚には政治的な要因があると思っています。むしろ、貧乏くじを引かされたのではないかとも思っています。
次回はそのあたりを書けたらと思っています。

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【2010/06/29 22:14】 | さつま人国誌
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てらこや参加できてませんが・・・
津曲楽園
「久光四天王」の中で一番謎の多い人物ですね。
個人的には、西郷より大久保との関係が気になります。


中山と大久保
桐野
津曲楽園さん、こんばんは。

コメント有難うございます。
仰せのとおり、中山と大久保の関係は微妙というか、よくわからないところがありますね。
文久2年まではかなり親しく、共に手を携えて国事にあたっていたと思いますが。

連載では、中山の3回目が面白いと思います。
明治になってから、中山と大久保の関係が意外な展開を遂げるからです。
お楽しみに。

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大河の感想、久しぶりに書きます。

今回のタイトルは「西郷吉之助」。
いよいよ西郷の登場です。

しかし、前回も疑問に思いつつ書かずにいたのですが、勝海舟の軍艦奉行罷免・神戸海軍操練所閉鎖と龍馬が西郷吉之助に会ったのと、時系列が逆になっている。

海舟の罷免は江戸帰府命令が元治元年(1864)10月22日、免職が11月10日。
操練所の閉鎖は翌慶応元年3月9日。

それに対して、龍馬が西郷に初めて会ったのは、元治元年8月初中旬頃(会見日は特定できず)。

なぜ逆にしたのだろうか。制作者の意図がよくわからない。
時系列どおりに描いても、何か不都合なことがあったとは思えないが……。
ひとつ考えられるのは、ドラマでは龍馬が西郷に不信感を抱いている点を強調したかったために、龍馬たち脱藩浪士が薩摩藩からの雇用に積極的に応じたのではなく、行き場を失って致し方なく消極的に応じたとしたいがためだろうか。
もしそうだとすると、その後の西郷の描き方にも関わってくる伏線なのかもしれない。しかも、実態からずれた……。

しかし、ドラマとは逆に、龍馬と薩摩藩はむしろ親近的だった。
何より、操練所では薩摩藩士も20名ほど学んでいたのである。のちの連合艦隊司令長官の伊東祐亨がその代表である。また、禁門の変でも、薩摩藩の砲隊長、中原猶介は操練所の塾生(薩摩藩士たちだろう)を動員し、海軍砲で長州藩兵を背後から砲撃して潰乱させている。この海軍砲はおそらく操練所から借用したものだろう。
操練所と薩摩藩の親近性はかくのごとしであり、龍馬が薩摩藩を忌避する理由はそれほどない。

龍馬が西郷に長州藩を砲撃したのを攻め立てる口ぶりだったが、自分と同じ塾生が薩摩藩側で従軍していたのを考えると、おかしい言い種である。

また、薩摩藩が京都市中に放火して、お龍らが焼け出されたとして、これまた龍馬が西郷を責めていた。
通説では、長州藩兵が籠もる鷹司邸に火を放つ決断を下したのは一橋慶喜で、これがきっかけになって京都市中の多くが焼失したといわれている。
一方、鷹司邸への放火について、西郷が国許の大久保一蔵に宛てた書簡に次のようにある。

「(長州兵が)鷹司家内へ逃げ込み、砲戦これあり、又々崩しがたく、此の御方より砲隊並びに二組の人数を以て、打ち挫き火攻めに及び候処、たまり兼早々退去候由」

薩摩藩も鷹司邸を「火攻め」にしたと,西郷は認めている。これは慶喜の命によるのか、薩摩藩の独自の判断かはよくわからない。
なお、薩摩藩は長州藩の拠点だった嵯峨の天龍寺にも放火している。

なお、西郷が禁門の変で流れ弾で足に負傷したのは事実である。

西郷が当初、長州征伐に熱心で厳しい処分を考えていたのは事実である。
『海舟日記』元治元年9月11日条によれば、
防長二州は半国を以て禁裡の御物成とし、半は征討の諸侯え下されへし」と,薩摩藩は建白していた。つまり、半国は朝廷領、半国は従軍諸侯への論功行賞というわけである。

しかし、ドラマのナレーションにあったように、対長州強硬論者だった西郷がのちに豹変して寛大論に転換する。
その最たるきっかけは9月11日に西郷が勝と会見したからだろう。
有名な大久保宛て西郷書簡(9月16日付)で、西郷は勝を
「実に驚き入り候人物」「この勝先生にほれ申し候」
と絶讃する。そして勝から「共和政治」を示唆される。これが寛大論への転換の背景にあった。
なお、西郷が(越前藩とともに)勝に会見を求めたのは、ちょうど勝が江戸下向の予定になっており、将軍家茂の上京を説得してもらうためだった。西郷は将軍家茂上京により、幕府に長州征伐への本気度を示すように要求していたのである。

ドラマでは、西郷と勝の会見も省略してあったし、操練所閉鎖後に龍馬が西郷に会うことにしてしまったために、西郷がすでに寛大論に転じていたことを描けなくなってしまった。無理して時系列を逆にした矛盾が露呈してしまった。
そこまでしても、制作者は龍馬と西郷の対立を強調したいらしい。イヤな予感がする。

余談ながら、ドラマの中で龍馬がよく口にする幕府海軍ではなく日本海軍という考え方だが、龍馬と佐藤与之助の両塾頭が勝海舟に提議した構想がある(『海舟日記』文久3年8月7日条)。

「尚又神戸は関西の海局と相定め、朝庭(朝廷)の令を以て人物御任撰、惣都督に据え」

龍馬は神戸の海軍操練所は幕府海軍ではなく、朝廷の命令に従う海軍で、摂海防御や西日本防衛の任にあたり、関西の諸藩がその経費を提供するというものだった。
この日本海軍建設について、龍馬と海舟の構想は異なっていたのではないかと指摘がある(松浦玲『勝海舟』筑摩書房、2010年)。

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【2010/06/28 01:14】 | 龍馬伝
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龍馬伝の脚本家
-
 あまり詳しいことはいえないのですが、この龍馬伝の伽本をお書きになっている方は、史実にそのままのっとって物語を作るということは、作家=クリエーターとして不名誉なことである。歴史再現ドラマを作っているわけではないので、史実を微妙にいじったり捻ったりすることが、創作者としての矜持なのだ、という歪んだ自負をお持ちのようです。
 百歩譲って、史実に対して功名に「改変」を加える妙味なるものがあるとしても、それが物語に劇的な効果をもたらしたり、読者=視聴者の心を揺さぶる優れた演出効果が認められるならば、という前提があるように思うのです。しかし…。正直なところ、いままでも、そしてこれからも、あまり意味のない小手先の改変としか思えないような史実の書き換えが頻出します。
 そんなに、ご自分の作家性やストーリーテラーとしての才能(笑)を誇示したいのであれば、なにも歴史上の人物や設定など借りないで、いかようにでも好きな物語を書けばいいじゃないか、と思わず毒づきたくなります。
 たとえ小説であれテレビドラマであれ、歴史物を扱う場合はそれなりの「マナー」というものがあるように思います。腕のいい作家なり脚本家であれば、動かしがたい事実関係にはいっさい手をつけずに、それでいて独自の視点や人間観に基づく独創的で魅力的な物語をつむぎだすことができると私は思います。その過程で、たとえば「ありえたかもしれない」嘘を上手に入れるという「腕前」に、私は惚れ惚れしてしまうのですが、あまりに高望みでしょうか?


できればハンドルを
桐野
はじめまして。

できれば,ハンドル付けていただければ有難いです。

仰せの趣、一理あるかもしれませんね。
史実には敬意を払うべきだろうと私も思います。

「敬天愛人」
ばんない
古めの記事へのコメントお許し下さいませ

本日(7/14)の昼のNHKの番組でも『龍馬伝』第3部の番宣みたいなことをやっていたので見ましたが、どうも今後の坂本龍馬と薩摩藩の関わりの描き方には不安を感じるような紹介内容でした…。最も他の事の描き方にも不安いっぱいですけどね!(苦笑)

私は、この回で薩摩藩邸の床の間に「敬天愛人」と大書された掛け軸がかかっているところで大爆笑してしまったのですが。ありえない、というのもありますけど、あんまりなわざとらしさがギャグマンガのネタみたいで…。

不吉な予感
桐野
ばんないさん、こんにちは。

番宣をご覧になったばんないさんの直感は当たるかもしれませんね。
今回のドラマは悪役と良い役がはっきり分けられていて、西郷は悪役に分類されていると思います。
龍馬と西郷の関係は、信義や友情ではなく、損得づくの打算的な関係として描かれるのではないかと思われます。

ですから、近江屋事件などは、龍馬はもう用済み→西郷が暗殺の黒幕という最悪のシナリオが予想されますね。




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日次記です。

先週は恒例の月末講座が多い週でした。

23日(水)
午後から横浜市栄区テレビセミナーの講演。
自宅からかなり遠いと思っていたが、湘南新宿ラインのおかげで意外と早く到着。
大河ドラマ「龍馬伝」に関連した連続講座(全6回)の5回目で、すでに同ドラマ・プロデューサー氏などのお話もあった由。
会場は地球市民かながわプラザホールというデザイン性あふれた立派なホール。
開場前から聴衆がおいでで、会場は300名ほどで埋まった。
有料なのに有難い限りである。
主催者は区民のボランティアの方々。
送迎など、いろいろ親身にお世話いただいて、これまた多謝。

演題は「薩長同盟論の現在」。
話は薩長同盟の名称や目的・性格について、いつもの持論を語る。
間に10分休憩を挟んで、2時間の長丁場だったが、それでも、最後は駆け足になった。困ったものである。

24日(木)
早朝、新幹線で名古屋へ。
栄・中日文化センターの講座2コマ。
13:00から「信長公記を読み解く
今回は「金ヶ崎の退き口と元亀争乱の幕開け」。
信長が諸国の大名や守護などに送った触状を分析。
興福寺一乗院の坊官の日記「二条宴乗日記」に写しがあるところを見ると、松永久秀筋から得たものか。
この触状は多数発給されたはずだが、現存しているのはこの写しだけではないだろうか。
ほかにも、お市の方の有名な小豆の袋の逸話も紹介する。
来年の大河ドラマには間違いなく登場するエピソードだと思うので、予習のつもりで読んだ。
この講座はほとんど欠席もなく、受講者のみなさん熱心である。
最新刊の拙著を紹介するのをうっかりして忘れてしまった。
もし、このブログをご覧の受講生の方がいらしたら、ここに紹介記事がありますので、ご覧下さい。

このシリーズの第2期が終わりました。
来月からは同じく第3期に入ります。元亀争乱を正面から取り上げます。
以下のようなカリキュラムです。

① 7/22 姉川合戦の再検討
② 8/26 野田・福島の陣と本願寺挙兵
③ 9/30 志賀の陣と「勅命講和」
④10/28 比叡山焼き討ちと明智光秀
⑤11/25 小谷封じ込めと異見十七カ条
⑥12/23 武田信玄の西上と三方ヶ原合戦


途中からの受講も大歓迎です。
信長の生涯ではここからが面白いところです。
ご参加をお待ちしております。
詳しくは同センターサイトのここをご覧下さい。

15:30から教室を変えて、2コマ目の「戦国の手紙を読む」。
今回は3回目で「安国寺恵瓊―羽柴秀吉への傾倒―」と題して、3点の書状を読んだ。
もちろん、有名な信長・秀吉を批評した書状を中心に考えていた。
この書状のことは、戦国ファンならよくご存じだろうが、全文を読んだ方はそれほど多くないだろう。
秀吉を「さりとてはの者」と評したことで有名だが、じつはこの言葉はこの書状にもう1カ所出てくることはあまり知られていない。それは三好義継の代わりに家来が腹を切ったという一件。そのありさまが「さりとては」の腹切りだというのである。
この「さりとては」をどのように理解するかを考えた。
とりあえずの結論は、主君と家来を対比的に描き、家来を持ち上げる(=主君をけなす)意図が込められていたのではないかというもの。妥当な解釈かどうかはわかりません。
恵瓊関係の史料として『東福寺誌』所載の史料も少し触れた。
恵瓊は東福寺の住持となっており、退耕庵を創建していることでも知られる。
関ヶ原合戦後の恵瓊書状らしきものがあった。東福寺の寺中は恵瓊には加担していないという趣旨のもの。
差出人が恵瓊で、寺中が宛所になっている。でも、どうも逆ではないかと思ったが、よくわからない。

結局、この書状でほとんど時間を使いきり、残りの2点を10分ほどでやる羽目になった(汗)。

終了後、上洛。

25日(金)
午前中、洛北岩倉へ行く。実相院ではなく対岳文庫を訪問。
じつはどうしても確かめたいことがあった。
管理人さんに館の扉を開けていただく。ほかにはほとんど来訪者がないのだろうか。
しかし、目当てのものはなかった。あとで管理人さんに詳しく話をうかがい、事情がよくわかった。
目的の達成度は半分。残念。
午後から反転して、宇治に行く。
槙島城跡を前から見てみたかったのと、すぐ近くの平等院は未訪問だったから、一度は現世の浄土をのぞいてみたいと思った次第。
あいにく小雨がぱらつく。
それでも有名な観光地だけに人が多い。
鳳凰堂は想像していたより小さかった。いかにも1000年前の木造建築だと感嘆。
朱塗りや漆塗りなどがあったのだろうが、だいぶ剥げ落ちている。でも、そこに歴史の風格を感じる。
真西を向いているという鳳凰堂の阿弥陀仏のご尊顔が丸い穴からのぞけました。
藤原氏の栄華と浄土への憧れのほどを実感。
鳳凰堂

宇治川は満々と水を湛え、流れが速く、白波が立っていた。
源平合戦での佐々木高綱と梶原景季の先陣争いに思いを致し、この激流に「いけづき」と「するすみ」がざんぶと飛び込んだのかと思うと感無量だった。
紫式部
宇治川の激流と紫式部像

が、折からの梅雨期で上流のダムが満杯になってしまい、大量に放流しているゆえの激流だったことがわかった。
はて、宇治川合戦での水量はどの程度だったのか?
先陣争いの碑や、源三位頼政の墓も参拝。
先陣争い
宇治川先陣争いの記念碑(一戸兵衛の揮毫だった)

槙島城の石碑は2カ所に碑が建っていることがわかっていた。
でも、道に迷ってウロウロする。
宇治はけっこう工場が多い。ユニチカや任天堂などがあった。
地元にあった町内地図に、同城址の保存顕彰会の事務局があるのを見つけて、お宅にうかがう。
これ以上ないガイドで、詳しく教えていただいた。感謝。
ひとつは、やや広い槙島公園に石碑が立っていた。
もうひとつは小さな児童公園の一角にあった。こちらが槙島城の本丸にあたるらしい。
槙島城
槙島公園にある城址記念碑

25日(土)
講座の日だが、新聞連載の原稿の締切なので早起きして書く。
何とか午前中にゲラを出してもらい、校正を済ませた。
相変わらずの綱渡りである。

午後から神奈川県大和市に行く。
小田急線に乗ったが、当初予定していた藤沢行きの快速急行(特急の次に速い)に乗ればよかったのに、待ち時間が15分以上あったので、各停や急行を乗り継いだところ、結局、後続の快速急行に抜かれてしまうという体たらく(苦笑)。
どうも小田急線には昔から慣れないな。

会場は大和市生涯学習センターの大会議室。
当初の募集は50名を予定していたそうだが、主催者の話では応募が多かったらしく、おそらく100名以上の受講者がいらしたのではないだろうか。

これは同市の「やまと市民大学」の講座。

「坂本龍馬の生涯を知る」

という6回講座の初回で、私は第4回と合わせて2回担当する予定。

今回は「坂本龍馬と薩摩藩」

レジュメもきっちりと8枚も用意(笑)。
とくに吉井幸輔について詳しく語る。
大河ドラマにはおそらく登場しないだろうけれど、龍馬ともっとも親しかった薩摩藩士だったことを強調。
こちらも間に休憩を挟んで2時間の講座だった。

質問タイムでは、龍馬が生きていたら、その後の歴史の展開はどうなったのかとか、龍馬は横浜に来たことがあるのかといったなかなか面白い質問があった。
みなさん、熱心に聴講していただき、感謝です。
送迎していただいた市の職員さんにも感謝。

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【2010/06/27 15:07】 | 中日文化センター
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対岳文庫
ばんない
こんばんは。

岩倉具視の隠棲地は、今大修理中で公開中断してませんでしたっけ?
去年行ったときに、そういう話をちらっと聞いたような記憶があったので…勘違いだったら済みません。

…でもあそこは以前からも平日はとりわけ見学客少なかったです(失礼)

修復中でした
桐野
ばんないさん、お久しぶりです。

対岳文庫横の岩倉隠棲の家は屋根を葺き替え中で、足場とシートで覆われていました。秋に作業は終了すると聞いたような気がします。
対岳文庫の管理人さんが、ワラの入手などや人手が大変だと仰せでした。

No title
ばんない
こんにちは。お返事ありがとうございました。

稲刈り機が良くなって、藁の粉砕までするようになってしまったので藁の入手は困難になってしまったとか聞いたことがあります。岩倉具視の旧宅のある辺りは今でも田んぼが多いですが、最近では刈り取り期に藁を干している田んぼは見たことがありません…農家の人は楽になったんでしょうが痛し痒しですね。

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今月、新刊を出しました。
見本はだいぶ前に届きましたから、そろそろ発売になっている頃です。
私にしては珍しく、連月の上梓です。

長いタイトルですみません。
版元サイトに告知があります。ここです。
アマゾンはこちらです。

「火」「馬」「船」「水」

という4つのキーワードで構成しました。
鉄炮・大砲について、とくに詳しく論じています。
また長篠合戦では、鉄砲の機能と武田軍の「騎馬隊」「騎馬戦術」について私見を述べています。

図版や写真が豊富、しかも全面カラーの「図鑑」構成なので、私の本にしてはかなり読みやすくなっていると思います。
関心のある方はぜひお買い求め下さい。

また、先月上梓した拙著『関ヶ原 島津退き口』もよろしくお願いします。
ここここにあります。

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【2010/06/23 23:41】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第153回
―朝鮮陣でも熱中、免許皆伝―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回はサッカーのワールドカップにちなんだテーマです。
日本の蹴球「蹴鞠」と薩摩の関係を取り上げました。

薩摩の関係者で蹴鞠といえば、まっ先に思い浮かぶのは記事にも書いた島津忠恒(のち家久)です。
でも、忠恒以前から島津氏ならびに家中では蹴鞠に関心を示していました。
ほかにも連歌、和歌、茶道などもあります。公家文化や上方文化に大いに好奇心を持ち、その摂取に熱心だったことがうかがえます。
忠恒はそうした系譜のなかに属しながら、とりわけ蹴鞠に熱心だった人物です。
おそらく初めて上京したとき、蹴鞠を見てほれ込んだのでしょう。
肥前名護屋や朝鮮陣で、まず最初にしたことが蹴鞠の庭普請というあたりがなんとも。
とくに戦場で蹴鞠に熱中するのはいかがかという批判があったのではないかと思いますが、忠恒は馬耳東風だったようです。
付き合わされる側近の家来たちにも同情してしまいます。
庭に網を張ってまで打ち興じています。これは忠恒の技倆不足か、家来たちのそれかどうかはわかりません。
馬術などは技倆不足が指摘されている忠恒ですが、蹴鞠だけにははまってしまったようです。
「好きこそものの上手なれ」でしょうね。

参考までに、以前、京都御所の一般公開で見学した蹴鞠の写真を載せておきます。
四隅に竹を立ててありますが、本来は樹木(柳・桜・松・かえでの4種)を立てるのが本式です。
蹴鞠


なお、記事中に「曲足」が蹴鞠道で一定の段階に達した資格のひとつではないかと書きましたが、はっきりした根拠があるわけではありません。日本国語大辞典にもこの言葉は立項されていませんでした。蹴鞠の解説書などには出ているのかもしれませんが。
国史大辞典によれば、蹴鞠の演技者を「鞠足」、その名手を「上足」、とくに優れた名手を「名足」と呼んでいたそうです。どれも「~足」が付いているので、「曲足」も「上足」の手前くらいの段階かなと思っただけです。
不勉強なので、ご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。

次回から中山中左衛門(尚之介、実善)のことを書く予定です。

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【2010/06/21 19:38】 | さつま人国誌
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曲足
かわと
稲垣弘明『中世蹴鞠史の研究』(思文閣出版、2008年)によると、「曲足(高等な技)」(p.175)とあります。

さらっと書いてあるだけでこれ以上の詳しい説明はないようですが、ご参考まで。

御礼
桐野
かわとさん、こんにちは。

「曲足」についてのご教示、有難うございます。
私の臆測も当たらずとも遠からずだったようで、ホッとしました。
蹴鞠道についてのちゃんとした研究書があるのですね。こちらのご教示も有難うございます。

また、貴ブログでも、拙著の紹介をしていただき、痛み入ります。



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三好氏研究で知られる天野忠幸さんから表題の研究書(清文堂出版刊)を恵贈される。
謹んでお礼申し上げます。

まだアマゾンなどには掲載されていないようです。
ここに記事がありました。

天野さんの仕事には、これまで信長の畿内支配や四国政策について貴重な示唆をいただいていたが、今回、これまでの三好氏研究を新稿も含めて集大成されたのが本書である。
タイトルが「三好氏~」ではなく「三好政権~」となっているように、三好政権を織豊権力という統一政権へとつながる「プレ統一政権」と積極的に位置づけているところにその眼目がうかがえる。

先日の織田権力のシンポでも提示された諸課題ともリンクする重要な視点が提起されているように思う。
従来、戦国大名が生成されず、将軍や守護が没落し、衰退と停滞のイメージで語られることが多かった畿内政治史や畿内社会のありようを解明し、三好政権の形成を積極的に評価している。
とくに地域からの視点、都市についての着目に大きな特徴があるように感じた。
また摂津の芥川城が単に摂津支配の拠点というだけでなく、三好政権の畿内支配の要であるという指摘などは興味深かった。織田権力における安土城との位置づけとも関わってくるのかもしれない。

三好氏ならびに三好政権の研究に新たな地平を切り開いたものであり、今後の研究に不可欠な一冊だと思われる。

とりあえず、本書の構成と意図がわかるように章見出しを掲げておきます。

 序 章 戦国期畿内権力研究の成果と課題

第一部 国人編成と地域支配

 第一章 摂津における地域形成と細川京兆家 
 第二章 三好氏の摂津支配の展開
 第三章 荒木村重の摂津支配と謀反
 第四章 三好氏の権力基盤と阿波国人
 第五章 三好氏の広域支配と和泉
 補 論 三好一族の人名比定について

第二部 三好政権と畿内社会

 第一章 大阪湾の港湾都市と三好政権
 第二章 大阪平野の都市ネットワークと三好政権
 第三章 畿内における三好政権の支配構造
 第四章 三好政権と将軍・天皇

 終章 結論と展望


 あえて触れなかったが、第一部第三章の荒木村重、第二部第四章の三好政権と将軍・天皇との関わりなど、興味深い論点も提示されていることを付けくわえておきます。

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【2010/06/20 19:54】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第152回
―開成所教授と悲運な最期―

一昨日、連載が更新になったのをすっかり忘れておりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は海援隊シリーズの最後で、沢村惣之丞を取り上げました。
この人も近藤長次郎と同様、非命の人ですね。
記事の最後に書いた沢村の切腹となった事件ですが、戦乱中の出来事で、非は明らかに相手側にありました。
しかし、相手が薩摩藩に属していたのが沢村にとっては不運でした。
海援隊としては、薩摩藩の不興を買っては大変です。
沢村はただちにそのことを察知して、自分で責任をとったわけですが……。
よく言われるように、龍馬が生きていたら、薩摩藩側とうまく交渉して、沢村が落命することはなかったのではないかと思われます。返す返すも残念ですね。

沢村が弱冠22歳のとき、薩摩藩の軍事エリートを養成する開成所で蘭学教授をつとめたのは驚きですね。
蘭学を勉強できたのは、勝海舟の門弟として江戸にいたとき、神戸の海軍操練所にいたとき、その閉鎖後に江戸にいた時期しかありません。
一応、佐藤与之助からじきじきに伝授されたのではないかと推定してみました。正しいかどうかはわかりません。
しかし、実質3年ほどの勉強で教える側になれるのですから、よほど優秀だったのでしょうね。

次回はサッカーのW杯にちなんだ話題にしたいと思っています。

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【2010/06/16 16:33】 | さつま人国誌
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同日、同所で2つのイベントが重なった。
両方出席したいが、なかなかそういうわけにもいかない。
会場はともに駒澤大学の1号館。フロアを上下しての開催となった。

戦国史研究会は、

「織田権力論―領域支配の視点から―」

という私の守備範囲のテーマだから無視するわけにはいかない。

一方、明治維新史学会には、友人の町田明広氏や中村武生氏も参加していたし、高木不二さんや落合弘樹さんの報告も聴きたかった。
同会は同時に同大学所蔵の徳富蘇峰旧蔵品「維新回天帖」の展示もしていたので、一度、抜け出して見学した。
こちらに小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通などの書簡が展示されているのがわかっていたからである。
とくに小松宛ての書簡が多い。
後藤象二郎が小松に宛てた書簡は慶応3年9月のものと思われ、土佐藩が大政奉還建白書を提出する数日前のものではないかと思った。非常に貴重な文書である。

戦国史研究会のシンポは報告者がじつに9名という多数だった。
織田権力の領域支配がテーマになっているのは、織田権力が信長個人の個性に収斂する傾向があるのに対して、やはり、その領国経営の実態や、家臣団の動向を詳しく見るべきだという問題意識に基づくもので、織田権力論にとって、かねてから指摘されていた課題だったから、私も異議はない。

たとえば、和泉国という、この時期、あまり話題にならない地域(堺は除く)で、織田権力がどのように浸透していったのか(実際は国人支配を追認するものだったらしい)という検討はとても新鮮だった。
また信忠の尾張・美濃経営では、その領域支配のとらえ方にはいささか異議があった。あとで谷口克広氏とお話したときも話題になったが、尾張・美濃には信長の旗本家臣領が相当残っており、そこには信忠の支配は及んでいないのではないかと思われた。
それでも、信忠の官位問題の指摘については、私もかねがね疑問に思っていたことだったので興味深かった。

全体を通じて、織田権力の領域支配がかなり具体的になった感じで、個人的にも得るところが多かった。報告者たちは2年間も準備に費やしたとのことで、その苦労のほどがうかがわれた。

もっとも、素朴な疑問もないわけではない。
たとえば、支城領主(勝家・光秀・秀吉など)が織田権力末期には外交権さえ保持していたという指摘はどうだろうか? 
それをいうなら、明智光秀は天正3年(1575)にすでに長宗我部氏との間で外交を展開しており、もっと遡るということになる。しかし、光秀の対長宗我部外交は明らかに同10年(1582)に信長によって否定される。これで外交権をもっていたといえるか。
要は、信長の許容範囲内で、支城領主たちは外交に関して一定の裁量をもちえただけで、外交権はあくまで信長が保持していたと見るべきではないのか。そもそも「上様」「公儀」である信長を無視した外交が展開されたら、「政権」とはいえないだろう。
また城割政策が天正8、9年あたりから各領域で展開されている事実も指摘されている。ほとんどの報告者が支城領主たちの独自性、自律性を強調していたが、こうした政策基調の共通点は偶然なのだろうか。やはり統一権力の上から意志を支城領主たちが遂行しているという見方はできないのか。

また、独自性、自律性という言葉にもやや違和感をもった。
各領域において、ある時期から信長の朱印状発給がなくなることなどを契機に、支城領主たちによる領域支配が独自に展開されたとするが、地域の条件の違いという意味での「独自性」は承認しえても、「自律性」はどうなのだろうか? 外交権ひとつとっても「自律性」があったとは考えにくい。
それに、支城領主の典型といってよい佐久間信盛の改易という冷厳な事実を、支城領主たちの「独自性」「自律性」からどのように説明できるのだろうか?

支城領主たちも結局、信長の掌の上での「独自性」「自律性」だったのではないかという感が否めないのだが……。

シンポの最後に、池享さんから、それでは織田権力って何なんだという趣旨の疑問が述べられたが、私もそのように感じた。

今回のシンポの目的が織田権力の領域支配に焦点をあてるだけで、その先の結論を述べるのは時期尚早ではないかという報告者の発言もあったが、それでも、織田権力が戦国大名と変わらない、大戦国大名であるだけだという趣旨の発言も漏れ聞こえた。
それでは、織田権力が他の戦国大名と異なるのは、領国規模が大きいのと京都を支配しているだけということになりそうだが、それでいいのだろうか?
何というか、もっとも根源的な疑問を突きつけられた会だった気がした。もっと勉強しないといけなさそうだ。

シンポ終了後、予定外の2次会に参加。
大家先生をはじめ、多くの方々がおいでだった。懐かしい方とも何人かお会いできた。

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【2010/06/13 11:37】 | イベント
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織田権力研究の難しさ
御座候
お疲れ様でした。


織田権力を近世の統一権力の前提と捉えず、発給文書の網羅的蒐集に基づき、同時代・他地域の地域権力(戦国大名)との同質性を検討するという視角には一定の意義があったのではないか、と思いました。そうした視角を徹底すると「大戦国大名」という評価になるのでしょうね。

ただ一方で、信長による畿内近国支配は室町幕府(将軍)のそれと大差ない、と論じる報告者もいらっしゃり(懇親会でも「織田権力は外に拡張する一方で信長の膝下にあたる畿内近国の支配は意外に脆弱」という意見が出されていましたね)、その辺りの相反するイメージをどう統合するのかが課題であるように感じました。

結局、織田信長の政権構想が完全な形で実現する前に、唐突な形で織田権力が破綻してしまったので、後世の人間は「完成型」を知ることが出来ないんですよね。織田権力は全期間を通じて「過渡期」の様相を呈しているわけで、後世から見ると、ある部分は先進的で、ある部分は保守的というか、チグハグな印象を抱かざるを得ません。戦争遂行政権に特有な、良く言えば臨機応変、悪く言えば場当たり的な対応も含め、織田権力研究の根本的な難しさを痛感させられました。



>支城領主の典型といってよい佐久間信盛の改易という冷厳な事実を、支城領主たちの「独自性」「自律性」からどのように説明できるのだろうか?

報告者のお一人が「全権を委ねられているからこそ、統治に失敗した場合は、全責任を負わされて改易の憂き目に遭う」と説明されていましたね。まあ理屈としては成り立つようにも思いますが、さて実際のところはどうなんでしょうね・・・

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どうもありがとうございました。
まるしま
突然失礼申し上げます。丸島です。
当日は、お越し頂きありがとうございました。懇親会でご挨拶しようと思ったのですが、慌ただしい中で機会を逸してしまい、失礼を申し上げました。また御意見をたまわり、重ねて御礼申し上げます。

ご批判頂いた点について、ちょっとだけ補足。まず外交権ですが(本来の私の専門分野はこれなんで)、あれは外交書状を出す許可というニュアンスです。外交方針の最終決定権が、信長にあるのは当然です。報告者の説明不足ですね。戦国大名の場合、勝手な他家との音信は処罰対象ですから(これは織田も同じはず)、取次として動き出すのがいつか、という意味です。

それからより本質的なご指摘ですが、領域支配の問題を考える上では、一度中央政権という前提を取っ払ってみたほうが良いんじゃないか、というのが個人的意見です(異論がいっぱいでそうですが)。このふたつって、別の問題として把握したほうがいいんじゃないのかなぁと。

貴重なご批判、どうもありがとうございました。

佐久間信盛
桐野
御座候さん、こんにちは。

ご意見有難うございます。
「過渡期」「ある部分で先進的で、ある部分で保守的」というご指摘には同感です。
そのあたりで、どちらに力点を置くかで異なるイメージが結ばれるのでしょうね。

佐久間信盛については、その領域支配がどのようなものだったのか、ほとんど史料がないので、どうしようもありませんね。
もっとも、通説としては、領域支配の統治能力というよりも、本願寺攻めが長びいた責任をとらされ、「武篇道」怠慢という理由での改易になっています。
信長の恣意的な権力行使にも見えるのですが、判断が難しいですね。



ご意見多謝
桐野
まるしまさん、はじめまして。

当日はお疲れさまでした。
越前国掟についての新たな解釈など、勉強させてもらいました。
ご意見、有難うございます。
さらに解説していただき、感謝です。
私の考えが浅かったかもしれないですね。

領域支配についてのお考えもわかりました。たしかに中央政権の枠があると、余計な判断をしがちになりそうですね。それはそれとして、予断を交えずに検討してみるという態度は重要だと思います。
ただ、それでは統一権力はどのような契機で生成されるのかという点が個人的にはわからなくなってしまって困っております(笑)。

ところで、せっかくなのでお尋ねしたいことがあります。
以前、私のブログで、まるしまさんのご論考に触れました。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-66.html

勝頼の官途についての論文「武田「四郎」勝頼と「大膳大夫」勝頼」をお書きになっていますか?
私のメモにそうあったのですが、探せずにおります。私の記憶違いかもしれませんが、もしご存じのことがありましたら、ご教示いただければ幸いです。


拙文につきまして
まるしま
ええと、「武田「四郎」勝頼と「大膳大夫」勝頼」ですが、たしかに以前書いております。
『武田氏研究』24号の18頁の下段に掲載されたコラムです。柴辻先生に、「雑誌を編集してたら隙間が空いた。来週までに埋めてくれ。600字くらいで」と頼まれて、急遽書いたものでして…。目次にも載っておりません(時々こういうのがあります)。

もし雑誌がお手許にないようでしたら、データをメールなりで送付いたします。なにしろ、わずか700字の短文で、文章と呼べるかどうかも怪しい代物ですが。

ご教示御礼
桐野
まるしまさん、こんにちは。

さっそくのご教示、有難うございます。
やはり「武田氏研究」に掲載されていたんですね。
目次に載っていなかったので、てっきり記憶違いしたと思い込んでいました。

私も武田氏研究会の会員ですので、当該号はもっておりますので大丈夫です。
有難うございました。

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昨6日、東京・町田で開かれた「『侍士の浪漫』を楽しむ会」に行く。

これは、2月に高知で開催されたイベントとほぼ同趣旨のものが東京での開催になった。
発起人は鹿児島の焼酎の蔵元さんたちで、それを町田の販売店であるリカーポート蔵家さんが受け皿になって開催された。本来は、知る人ぞ知る秘蔵の鹿児島焼酎を東京の人にも呑んでもらおうという趣旨である。
参考までに、高知の会はここです。

小田急線で町田駅に着いたが、会場は比較的駅から近かったはずだが、道に迷ってしまう。情けない。
というのも、町田駅周辺はすごい人通りで、ビックリした。こんな賑やかな町でしたっけ?

会場はホテルの広間で、丸テーブルがいくつも並んでいた。
高知の会よりかなり人数が多そうだった。

私の席は、桐野利秋の直系子孫の加藤房子さんと、桐野の日記を所蔵されている同じく子孫のIさんと隣り同士だった。
講演を終えたのち、いろいろお話がうかがえて、とてもよかった。

講演は40分程度で、テーマは

「中村半次郎(桐野利秋)という男」

というもの。
レジュメはまたA4で5枚と、ミニ講演にしてはかなりの分量でございました、はい。

内容は、幕末維新期の中村半次郎の動向について、天狗党探索の一件や鳥・伏見の戦いでの奮戦ぶりなどについて語った。
もちろん、40分ではとても時間が足りず、レジュメをかなり端折りました。

じつは、高知の会に来られた東京方面の関係者も来られると予想して、高知での話とは違うものを用意していたのだが、残念ながらお見えではなかった。おそらく当日は稽古日と重なったからではないかと思います。

高知の会と違ったのは、ライブのミニコンサートがあったことです。

楽しい催しが続きながら、あっという間に終わりました。
このブログでの告知を見て、最低3人の方が出席されていました。
決して安くはない会費だったのに感謝です。
また古い拙著をわざわざお持ちになり、サインを求められた方もおいででした。有難うございます。

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【2010/06/07 20:34】 | イベント
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お疲れ様でした!
小林 哲也
桐野先生、お世話になっております。小林哲也です!とっても楽しい、濃~い講演で、先生と御話も出来て本当に参加して良かったと思いました。我が家のこの日の夕食の話題は「桐野利秋」と「龍馬」でした(笑)

木曜日もどうぞよろしくお願いいたします。

御礼
桐野
小林哲也さん、こんばんは。

わざわざお越しいただき、有難うございました。
いろいろごった煮的な会でしたけど、楽しめたようで何よりです。
木曜日もよろしく。

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織豊期研究者の藤田達生氏より表題の新刊を頂戴した。
厚く御礼申し上げます。

藤田達生著
証言 本能寺の変―史料で読む戦国史―
八木書店
2010年


副題が「史料で読む戦国史」とあるように、織田権力や本能寺の変に関する基本史料が多数掲載されている。
私は織田権力や本能寺の変のとらえ方では、藤田氏と見解を異にするが、史料の提示や公開による議論、論争の進展をはかるやり方には賛成である。藤田氏の研究態度に敬意を表したい。

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【2010/06/05 21:47】 | 新刊
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小学館アカデミー古文書塾「てらこや」特別講座

1日夕刻、表題シリーズの第4回に出講。
この講座のことを書くのも久しぶり。

越前藩の公用日記といってよい『丁卯日記』と龍馬の手紙を同時進行で読んでいる。
今回は、慶応3年(1867)11月初旬から龍馬暗殺の15日までの日記を読んだ。

大政奉還後、幕閣・御三家・親藩・譜代・旗本の間で、それを支持するか反対するかの色分けがかなり鮮明になってきていることを確認する。
反対派は会桑のほか、紀州藩・藤堂藩など。幕臣では将軍慶喜の側近である梅沢孫太郎や渋沢成一郎、そして近藤勇などである。
渋沢は尾張や越前など大政奉還支持派に出向いて説得を試みている。それは御三家・親藩連合を軍事的に形成しようという強硬路線である。その鼻息の荒いこと、荒いこと(笑)。
また近江屋事件の2日前に、近藤勇が大政奉還を支持する尾張・越前両藩に対して恐喝しまくっている。このことが近藤にとっては不運だったのではないか。近江屋事件の嫌疑をかけられやすい直近の行動である。

龍馬の手紙では、陸奥宗光の台頭を確認。龍馬はビジネス関係を陸奥に委任している感じ。
また奥州仙台や丹波・丹後、さらに河内・播磨などでもビジネスチャンスを狙っているようである。何をやろうとしていたのだろうか?
また仙台に進出しようとしている沢屋(海援隊宿舎)の加七って、どんな人物なのか興味が湧いた。

受講者から永井尚志の政治的立場について鋭いご質問があり、みんなで考えた。

次回はいよいよ近江屋事件の記事などを読んでいきます。

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【2010/06/04 00:33】 | てらこや
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イベントの案内です。
あたふたとしている間に、もう1週間を切ってしまいました。

来る6日(日)15:00から、東京・町田のリカーポート蔵家さんで、表題のイベントが開かれます。
桐野利秋のご子孫(加藤房子氏)のトークと、不肖私のミニ講演(45分程度)があります。
私は幕末期の中村半次郎の動向を中心に話す予定です。

また、鹿児島の知る人ぞ知る焼酎が呑めますよ。
焼酎「桐野」もあります。ふだんはなかなか呑めない銘柄が揃い踏みです。
焼酎好きで関心のある方は参加してみませんか。

詳しくは、お店のサイトであるここをご覧下さい。
問い合わせ・申し込みの要領も書いてあります。電話でもメールでもかまいません。

会場のホテルラポール千寿閣はJR町田駅、小田急町田駅の近くです。
アクセスはここです。


今年は秋に映画「半次郎!」が封切られるせいか、ちょっとした桐野利秋ブームかもしれません。
秋には、私も鹿児島で話す予定です。

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【2010/06/01 22:47】 | イベント
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