歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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本日、暑いなか、小田急線に乗って大和市に出講。
じつは何を勘違いしたのか、予定より2時間も早かったことを最寄り駅のホームに入ってから気づき、いったん帰宅して雑用をすませてから再度出かける羽目に。おかげで汗びっしょりになった。
遅れたわけではないからまだよかったけど、このボケ、暑さのせいなんでしょう、きっと。

講座は大和市の市民大学講座で、先月下旬も出講。
先月は「坂本龍馬と薩摩藩」。

今回は「薩長同盟論の現在」と題して話をする。
暑いにもかかわらず、みなさん、熱心で200名近くおいでではなかったか。
先月は途中で休憩時間を入れたが、今回はうっかり忘れていて、そのまま2時間近く話し通しだった。
これまたあとで気づいたが、あとの祭り。これも暑さのせいなんでしょう、きっと。

連載や雑誌原稿などの締切が一度に押し寄せていますが、それを振り切るように、明日は大阪出張です。
これも龍馬がらみの講演です。

演題は「龍馬暗殺の背景―岩倉具視書簡の意味―」

詳しくはここです。
関西方面で興味のある方、まだ受講可能かもしれません。主催者に連絡してみて下さい。

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【2010/07/31 23:15】 | イベント
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ありがとうございました
tsubu
桐野先生

おはようございます。
tsubuです。

昨日は大阪龍馬会でのご講演、お疲れ様でした。
ようやく念願叶い、先生の貴重なお話を伺えることが出来て、本当に勉強になりました。
ほんとアッという間の3時間で、いつまでもお話を聞きたいと思えるような楽しい時間でした。

私自身も先生を目の前に少し緊張していたため、上手くお話が出来ませんでしたが(^^;、また先生のお話を伺わせて頂く機会を楽しみにしております。

p.s
二次会に参加することが出来ず残念でした……。
(子供がまだ4ヶ月なもので、妻だけに面倒かけるのが難しいものですから^^;)

有難うございます
桐野
tsubuさん、こんにちは。

先日は講座に参加していただき、有難うございました。
私も年来の懸案でしたので、おめにかかれてよかったです。
講座のほうは高い受講料でしたが、元が取れていたら幸いですが。

今後ともよろしくお願いします。
お子さん大変ですね。うちも親族にちょうどそのくらいの幼児がいますので、よくわかります。



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先日、京都国立博物館の宮川禎一さんから、最古の龍馬書簡が見つかったので、そのうち新聞に載りますと教えてもらった。
それが昨日から今日にかけて、いくつか記事になっている。こことかここ

現存する龍馬書簡では最古のものだとか。
この書簡の存在は古くから知られていたが、現物はずっと行方不明だった。今回、その現物が発見されたわけである。
新聞記事に掲載されている写真版を見てみると、小さくて細部がよくわからないが、『龍馬の手紙』所収分には含まれていない情報がある。

署名の「坂本龍馬」の左横に花押のようなものがあるような? 実名(直陰)ではないような。下部が横にはねてあり、「馬」の字のような気もします。
もしそうだとすれば、この花押が初例になるか?
小さな写真なので、見当外れのことを書いているかもしれないことをお断りしておきます。

龍馬の花押といえば、私もそれを見つけ、歴史読本2010年4月号に掲載してもらいました。関連エントリーはここです。
これは2例目(1例目は霊山歴史館所蔵)のつもりだったのですが、3例目になるかもしれません。

いずれにしろ、現物を拝見したいものです。
京都国立博物館でミニ展示でもしてもらえないだろうか。

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【2010/07/30 12:29】 | 幕末維新
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坂本龍馬に関するシンポジウムのご案内です。

来る8月30日(月)、東京新宿・京王プラザホテルにて開催されます。
小生がコーディネーターを仰せつかりました。
斯界の名前の知られた方々をパネリストにお迎えしています。

脱藩から近江屋事件までのおよそ5年間について、パネリストにさまざまな視角から龍馬を語っていただくとともに、シンポジウムでは熱い議論を展開していただく予定です。
関東方面で関心のある方は参加してみませんか。

応募要領など詳しくは、下記の告知をご覧下さい。画面をクリックすれば拡大されます。
往復ハガキのみの応募です。締切は8月10日必着です。

京王文化セミナー

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【2010/07/28 00:42】 | イベント
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参加します8月30日in新宿
ひろみ
木脇祐秀の末裔のひろみです。このたび8月30日の京王文化セミナーに参加いたします。5代前の幕末の先祖は龍馬と同じ時代活躍しており、興味をもって楽しみに拝聴させていただきます。


有難うございます
桐野
ひろみさん、こんにちは。

シンポに参加されるとのこと、有難うございます。
拙著『関ヶ原 島津退き口』では、ご先祖のことも少し書かせていただきました。ルビも「きのわき」とさせていただきました。
シンポ終了後にでも、お声をかけていただければ幸いです。
今後ともよろしく。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第158回
―鹿児島士族との連携図る―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は会津藩家老だった山川浩を取り上げました。
彼も薩摩との縁があります。それは戊辰戦争や西南戦争、妹捨松と大山巌との結婚だけではありません。

斗南藩の大参事として、士族救済に奔走した明治初年から同5年の間に、山川は薩摩に入っています。
ほとんど知られてない史実だと思います。
しかも、西郷隆盛への直訴や、島津久光系の復古派の鹿児島士族との交流をひそかに図っていたようです。
これは戊辰の怨念だけに基づいた行動ではないのかもしれません。
もう少し詳しいことがわかれば面白いのですが……。

西南戦争までの10年間、いわゆる不平士族といわれる人々の裾野が予想以上に広がっていたような気がします。
中山中左衛門と山川浩という、本来なら関係がなさそうな人々さえ、どこかでつながっているのかもしれません。

次回取り上げる人物もその系統の人物です。
これまた、意外な人物です。

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【2010/07/27 13:19】 | さつま人国誌
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さわだ
本文とは関係なくてすいません(笑。
先生が出された「島津の退き口」を読ませていただこうと思ってます。
幕末人気ですが、関ヶ原がいわば維新の原点でもありますので、
いまだに謎が多い島津軍の動きを先生流にどう解析されておられるのか楽しみにしております。


不平の質
坐忘
密偵の記録が重要史料になっているのが面白いですね。
山川浩も自藩の命運を背負って必死だったのがよく伝わってきます。
合併に反対したのが大隈重信だったというのが微妙なところですね。
彼を抜擢した小松帯刀が元気で生きていればどうなっていたか、興味深いところです。
斗南の横の弘前の菊池九郎の場合は、西郷を敬愛していて「不平」の質が自ずと違っていたようです。
会津と薩摩は何かと相性のよさを感じます。
白洲正子も、松平容保の孫にあたる節子(秩父宮勢津子妃殿下)さんと同級生として親友だったようですね。

山川豊
ばんない
こんばんは。前回の予告で「まさか」と思っていた、そのまさかの人だったのでニヤニヤしています(汗)。ちなみに、この人の名前を見ると、何故かこのコメントのタイトルで書いた演歌歌手の顔が浮かんでしまいます…苗字が同じ、かつ名前が漢字一字という共通点があるのでイメージがすり込まれてしまったようで(汗)

しかし、内容は全く知らない話だったのでビックリしました。よりによって、仇敵とも言える島津久光との連携を目指していたとは、驚きです。山川浩、戊辰戦争とその後の斗南藩の悲劇と、西南戦争後の一転した出世物語ばかりが注目されますが、なかなか策士な一面を持った人物なのかも知れませんね。

さて、余談?で書かれた『不如帰』の話ですが、これのせいで大山捨松はかなり不快な思いをしたようですね。



御礼
桐野
さわださん、こんにちは。

拙著を購入されるとか。有難うございます。
現在重版の印刷中なので、できれば、もう少し待っていただき、重版分の購入をお勧めします。誤植などを直していますから。
今後ともよろしく。

士族の不満
桐野
座忘さん、はじめまして。

明治初年の在野の士族を「不平士族」と呼びますが、語弊のある呼び方で再考が必要ではないかとずっと思っておりました。

明治初年、大久保利通らが進める政府の政策は、今日からみれば、相当大胆で野心的な改革だったと思います。
とくに全面的な欧化政策には、士族を中心に不安や反発があって当たり前だったでしょう。
そうした不満の行き着く先が、保守派の重鎮である島津久光であり、政府の重職にありながら下野した西郷隆盛だったのでしょうね。当人たちが望むと望まないとにかかわらず。

山川が戊辰の因縁を超えて鹿児島に行ったのも、そうした広い意味での士族の不満を表していたのでしょうね。

大山捨松
桐野
ばんないさん、こんにちは。

山川浩だと予想されていたんですか。さすがですね。

「不如帰」では捨松さんは嫁いびりをする姑に描かれているそうですな、ちゃんと読んだことないですけど(汗)。
何となく、民放の昼メロにふさわしい題材ですね(笑)。

大山巌はあの顔に似合わず西洋かぶれで、洋装の貴婦人然とし、英語を流暢に操る捨松にひと目ぼれしたんでしょうね。
むしろ、こちらこそ小説やドラマになってもいいといいという気がしますが。

因縁
ばんない
こんばんは。

久野明子『鹿鳴館の貴婦人・大山捨松』によれば、徳富蘆花は某華族夫人(実名不詳)から聞いた伝聞情報をネタにして『不如帰』を書いたそうです。ちなみに久野明子氏は大山巌の曾孫に当たります。

穿った見方をすれば、華族社会という狭い世間の中で、どうも大山捨松が浮き上がってしまっていた様子がうかがえます。早くから留学していてアメリカナイズされていて華やか(悪く言えば派手)な女性だったので、他の華族女性から見ると鼻持ちならない女と思われて根拠のない噂を立てられたように想像されます。

同様な女性に同志社創始者・新島襄の妻であった八重子がいます。彼女は留学経験はなかった物の「ハンサムウーマン」と夫に言われるような欧米ナイズされたところがあったようで、夫の死後、同志社の運営に関わった他の人たちとあわなかった部分があったようです。同志社出身であった徳富蘇峰とも不仲だったようで。

奇しくも大山捨松と新島八重子は会津藩出身、しかも”悪評”の背景にいたのが徳富兄弟というのが何とも因縁を感じさせます。

大山捨松と新島八重子
桐野
ばんないさん、こんばんは。

大山捨松と新島八重子のエピソード有難うございます。

うちの近所は蘆花恒春園(徳富蘆花終焉の地)で、蘆花の小さな資料館があります。そのなかに「不如帰」関係の資料が展示されていたのを思い出しました。

以前、中村半次郎の恋人、村田さとの墓を探しに、東山の同志社墓地に登りました。
八重子の墓のそばに蘇峰の墓もありました。死後の世界では仲がよい感じでした(笑)。

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以前も告知しましたが、直前になりましたので、再度お知らせします。

大阪龍馬会が主催する講演会「龍馬研究 最前線」の第2弾です。
8月1日(日)、大阪で開催です。

演題は「龍馬暗殺の背景―岩倉具視書簡の意味―」

新しい視点から、近江屋事件を論じます。
関西方面の方で興味ある方は参加してみませんか(有料)。

詳しくは、同会サイトのここをご覧下さい。

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【2010/07/26 17:59】 | イベント
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お知らせです。

暑いので、涼しげなのに変えてみました。

【2010/07/26 15:02】 | 雑記
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第30回「龍馬の秘策」

ドラマ進行時点:慶応元年(1865)何月頃なんでしょうな?
フィクションが多くて、確定できません。

前回から続いていますが、この分では、龍馬も近藤長次郎たちも鹿児島には行きそうもないですねえ。
カステラの話題はあまり関心がないので、ひとつだけ。

小松帯刀と西郷吉之助がからむ場面があって、薩摩藩の方針、とくに対幕関係をどうするかについて、西郷が長州出兵を拒否すべきではと小松に進言したところ、小松が「幕府に逆らうわけにいかん、うまく付き合うしかない」と西郷に答えていましたが、どうも違和感ありますね。
小松はすでに前年の禁門の変のときから、幕府からの出兵要請に対して、幕命は受けない、朝命(朝廷の命令)なら受けるという態度を示しているほどです。ですから、名分が立たない第2次長征なら、なおさら幕命に従うはずがないです。

慶応元年5月、将軍家茂の上京によって、幕府は第2次長州征伐に乗り出そうとしますが、諸藩の多くは消極的か反対でした。名分が立たないのと、財政窮迫が理由です。

当然、薩摩藩も幕命拒否の藩論でまとまっていました。
たとえば、西郷はどうか。同年4月25日、筑前藩士の月形洗蔵に宛てた書簡には、

「近来関東(幕府のこと)においては、再長征の儀を促し候向きと相聞かれ申し候、この度は幕府一手を以て打つべしとの趣に相聞かれ申し候、勿論弊藩などは如何様軍兵を相募り候共、私戦に差し向くべき道理これなく候間、断然と断り切るつもりに決定いたし居り候」

幕府の第2次長州征伐に対して、西郷は幕府と長州の「私戦」だから、薩摩藩が兵を出す理由はないから、断然断ると藩論で決したと述べています。
幕府の行動はもはや大義のない「私戦」とまで、西郷は断言するとともに、すでに幕命拒否は藩論になっていると述べています。つまり、小松もとっくに承知で、同様の認識だということです。

また、同年閏5月5日、西郷が小松に宛てた書簡には、

「(将軍家茂が)いよいよ発足の様子、自ら禍を迎え候と申すべく、幕威を張るどころの事にては御座あるまじく、これより天下動乱と罷り成り、徳川氏の衰運この時と存じ奉り候」

とあります。
将軍家茂の上京に対して、西郷が醒めた目で見ており、幕威を張るどころか、逆に天下動乱となり、徳川氏は衰退するだろうとまで述べています。とくに将軍家茂に敬称を用いていないのが注目ですね。西郷の対幕認識を示しています。

一方、大久保一蔵も西郷と同様の認識でした。
5月12日、同僚の伊地知壮之丞に宛てた書簡には、

「幕府も別して奮発にて長州征伐の再挙これあり、大はづみの由に聞こえ申し候、これは別して面白き芝居に成り申すべきと楽しみ申し候、(中略)彼は彼、我は我にて大決断策を用い申さず候ては相済み申さず候」

大久保は幕府の長州再征を「面白き芝居」だとして高みの見物をさせてもらおうというわけです。「彼は彼、我は我」というのは、幕府は幕府、薩摩は薩摩でわが道を行くという意味です。「大決断策」というのは、薩摩藩の「割拠」策を意味すると思われます。

小松帯刀については、この時期、この問題に関する史料は残念ながらないようですが、西郷や大久保とそれほど意見が違うとは思われません。

薩摩藩は慶応元年前半、すでに対幕自立=割拠方針を藩論として定めており、その方針に沿って動き出していたのです。その要点は、藩政改革による軍事力強化、そのための封建商社育成構想、そして対外的には対長州接近策です。
近藤長次郎たちや龍馬が相次いで鹿児島入りし、近藤らは長崎に行き、長州の武器購入を斡旋したのも、龍馬が陸路から太宰府の五卿に会い、長州に行って木戸貫治(のち孝允)と会見したのも、薩摩藩の対長州接近方針に沿った動きでしょう。
すなわち、龍馬たちは薩摩藩の対外方針を実現すべく動いていたといえそうです。
長崎でのあれこれはどうもかったるいというか、歯がゆい動きですね。
龍馬の先見性と国事周旋力を際立たせるために、薩摩藩がまだ時勢に遅れており、薩長和解に踏みきれずにいるという演出になっていますが、実際は逆だと思うんですけどねえ。

次回は、中岡慎太が登場するようですね。

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【2010/07/25 23:48】 | 龍馬伝
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一種の判官びいき?
視点
このドラマの脚本家である福田靖氏は山口の出身で、当然、高杉晋作などのいわゆる“長州びいき”の視点なはずです。様々な場面で話を強引にもってきているようで、これはある意味、仕方のないことなのかもしれません。

今のところ、このドラマでは、龍馬と長州のみが「先見の明」を持つという基本構成になっていますので、歴史をある程度知っている方々が見ると、いろいろ違和感を抱いてしまうかもしれませんね。

極端に言うと、このドラマの製作者は、龍馬と長州関係者の歴史研究しかしていないんですよ。その他の登場人物は単なるイメージだけで作られているようです。

山口出身
桐野
視点さん、はじめまして。

脚本家さんは山口出身でしたか。なるほど、よくわかりました。何となく、ドラマにもそれが反映されていますね。
薩摩は「悪役」になる役回りだということもわかりました。



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前回エントリーで書き忘れていました。

ひとつは、高杉晋作に「長州は独立するんだ」と言わせたこと。
これは「防長の腹を五大洲に突き出す」と豪語した高杉らしいユニークな発言です。
研究者のなかでも、たとえば、宮地正人氏はこの時期の長州藩は(日本から分離して)一種の独立国家(=割拠)だったと指摘しています。
2次にわたる「長州征伐」は,幕府側から見れば、分離した長州を再統合するための統一戦争だったという位置づけにもなります。


次に、英国商人グラバーが友人に「日本はもうすぐ終わりだ。本国が日本を侵略する計画を進めている」といった趣旨の話をしていました。
これも、ある程度史実を反映していると思います。実際、英国がわが国を侵略する計画を練っていたことを明らかにした論文があります。

熊沢 徹「幕末の鎖港問題と英国の軍事戦略」 『歴史学研究』700号、1997年

たしか上記論文だったのではないかと記憶しています。
私はこれを読んだことがあり(中身はだいぶ忘れていますが)、所蔵していたはずと思っていて、探してみたのですが、なぜか見つかりません(泣)。
したがって、具体的な侵略計画がわからないので、グラバーの発言が正確だったかどうか検証できません。
興味のある方はこの論文をご覧になって下さい。
この問題はとても重要で、「癸丑以来」(ペリー来航以後)、わが国の対外的危機の本質的な面を示しており、幕府の対応や,薩長同盟などもそれを意識したものだといっても過言ではありません。

なお、筆者の熊沢氏は改姓されて、現在、保谷徹というお名前です。
幕末維新の軍事史の研究者で、このお名前の近刊では『戊辰戦争』(吉川弘文館)があります。なかなかよい概説書ですね。

以上、2点補足でした。

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【2010/07/25 11:25】 | 龍馬伝
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あたりまえなのか 浅識なのか 答えがないのか 誰が正しいのか
村石太マン
日本国内の 武士の縦社会の時代から 世界の時代になる。外国との戦争が起こる前の時代というのか 島国日本 長州は その島国から独立国を作る夢をみる。現代 日本は 世界は 貿易 ビジネス社会 ビジネス マネーウォーズ  

保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機-下関戦争の舞台裏』
まいたけ君
 熊沢徹氏=保谷徹氏だったのですね。
 
 保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機-下関戦争の舞台裏』吉川弘文館(歴史文化ライブラリー289、2010.2)という本を、今年、買ったまま未読のまま手元にありまして、上記の書込みをみて、慌ててこの本を開いてみました。
 ご紹介してくださった論文などを元に、一般向けに刊行されたのがこの本のようです。

 しょぼい理由で購入したままになっていた本ですが、もともとあやふやな知識の寄せ集めだった頭の中が、「龍馬伝」をみていたら混乱してきて、わけがわからなくなってしまいましたe-452 
 この本を読んで、少し整理してみたいと思います。

#お気に入りの以蔵くんが死んでしまいましたが、かわりに登場した晋作は、龍馬よりカッコよくて、気に入ってますv-238 
 

 

その本でした!!
桐野
まいたけ君さん、こんばんは。

保谷徹氏のその本、私も買おうと思って忘れておりました。さっそくアマゾンで一発購入してしまいました(笑)。

それにしても、伊勢谷友介の高杉晋作、衝撃的な登場でしたね。昨今の大河ドラマのなかでも随一では。ガクト謙信よりも凄かったです。

たしかに龍馬よりもかっこいい。
こんなかっこいい晋作は初めてではないかと。

しかし、視聴率はワースト記録更新です。これは2部後半の出来の悪さが尾を引いているんでしょうね。

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感想のアップが一週間遅れてしまいました。

ドラマ進行時点:慶応元年(1865)2月から7月頃のはずですが……。

第3部が始まりました。
前回までと違って、スピード感が増しました。
とくに高杉晋作の登場が強烈でした。

面白かったのですが、でも、フィクションばかりでしたね。

まず、高杉はその時期、長崎にはいないはずです。
讃岐に亡命して、侠客の日柳燕石に匿われている時期ですね。
当然、西郷吉之助にも会っていません。というか、生涯、高杉は西郷と会っていないはずです。

今回は、というか今回も時系列の混乱と出来事や事件の混同が多いですね。おそらく意図的にやっているのでしょうが……。

なお、龍馬は近藤長次郎たちとは別行動だったはずです。
また沢村惣之丞も近藤たちと一緒だったかどうか微妙です。陸奥陽之助(のち宗光)も同行していないと思います。

慶応元年の動きを時系列で整理しますと、

2月中旬
近藤長次郎・新宮馬之助・高松太郎・菅野覚兵衛・白峯駿馬・黒木小太郎ら約20人は大坂を出航して鹿児島に着き、島津家の祈祷所である大乗院の子院、威光院に収容されています。
龍馬はこのとき、同行していません。

4月25日
龍馬は前年10月以降、蒸気船の購入か借用のため、江戸・横浜に行っていましたが、近藤たちから遅れて、この日、大坂から鹿児島に向かい、5月1日に着いています。
近藤たちと合流したかもしれません。
このとき、龍馬は西郷宅に宿泊しています。有名な褌を借りた逸話もこのときです。

近藤たちはほどなく長崎に向かったと思いますが、史料不足で時期はよくわかりません。
『小松帯刀伝』によれば、小松が6月26日、鹿児島から長崎に出張しています。蒸気船開聞丸購入のためでしょう。
近藤たちは小松に同行して長崎に行った可能性がありますね。

5月16日
一方、龍馬は単独行動をとり、この日、鹿児島を発して陸路北上し、熊本で横井小楠、太宰府で三条実美ら五卿に会っている。また長州藩士の小田村素太郎(のち楫取素彦)にも会っています。その後、龍馬は長州に渡り、木戸貫治(のち孝允)らと会っていますから、薩長和解の段取りだったのかもしれません。

7月21日
長州の伊藤俊輔・井上聞多が長崎に来て、小松帯刀に会う。仲介したのは近藤長次郎である。
伊藤・井上の長崎行きは、龍馬が長州に行ってつけた段取りかもしれない。
ここで、小松が長州藩のために薩摩藩名義で軍艦と小銃購入を請け負う。これが薩長同盟への大きな一歩となった。

ドラマでは、円山の料亭引田屋で、薩長両藩士が一触触発になっていたが、このときの伊藤・井上の長崎来訪に材を採ったのだろう。
しかし、このとき、高杉はいないし、西郷もいない。薩摩藩の代表は小松帯刀である。
龍馬もいなかった。

このように、当時、長崎にいない人間ばかり集めて、ドラマが作られていたことになる。
まあ、今後の展開の伏線として必要なのかもしれないが、やはり粗っぽさは否めない。

もっとも大きいのは近藤たちも龍馬も鹿児島を経由しているのに、一切スルーされたことである。
とくに龍馬が西郷家に宿泊したのは有名な逸話であり、褌一件は西郷と龍馬の親近と友情を示していますし、ドラマでも絵になる場面だと思うのですが、どうも、このドラマはある意図をもって、2人の関係をそのようには描かないようです。
ある意図とは、2人の関係をあくまで損得づく、打算的な関係に描きたいということでしょうな。
まあ、打算的な関係でもいいですが、相互の信頼関係に裏打ちされないで、薩長同盟を仲介できるとは思わんのだけど、余計なお節介だろう。

しかし、この分では龍馬とお龍の霧島旅行もどんな視点から描かれるのやら。さらにいえば、慶応3年11月15日をどう描くか、ますます疑問や不審が高まるばかりですなあ。

次回は亀山社中の結成らしい。
高松太郎も陸奥宗光も菅野覚兵衛も白峯駿馬もみな、小松帯刀の家来なんだけど、社中結成では小松が前面に登場してくることはないんだろうな。

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【2010/07/25 00:15】 | 龍馬伝
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お久しぶりです
忍っこ
桐野先生お久しぶりです。
毎年大河ドラマの史実を無視する感はありましたが、
今回の龍馬伝は特にひどく感じられます。
西郷と龍馬が対立しているように見えますが、
最終的に龍馬暗殺に関係してくるのでしょうか
後半に入って、またどんな捏造があるのか ある意味 楽しみです。
桐野先生にお伺いしたいのですが、
時代考証ってどんな役割なんでしょうか、私の知る限り、
幕末史の本をたくさん出しておられる先生方と認識しております。
また番組制作において意図的に史実を変えてしまうことがあるんでしょうか

時代考証
桐野
忍っこさん、こんばんは。

ドラマにおいては、史実とフィクションの塩梅が難しいですね。
いろいろいじくってみても、結局、史実のほうが面白かったというのも多いです。
これぞという創作にはなかなか出逢えるものではありません。

時代考証について、何人か担当者を存じ上げていますが、共通していた感想は「制作側は時代考証の意見を聞かない」というもの。

最近、ある大河ドラマ担当のプロデューサーのインタビュー記事読みましたけど、「大きなウソはつくが、小さなウソはつかない」を歴代の制作者がモットーとしているそうです。

大きな史実は枉げるが、小さなディテール、たとえば、刀とか着物とか小道具とか細かいものは徹底的に調べるという趣旨らしいです。

私は大小ともウソをつかないか、せめて逆のほうがいいのではと思うんですが、さて、いかがでしょうか?

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先日、上梓した表題の拙著がめでたく重版となりました。
これも読者のみなさんのおかげです。
有難うございます。

読者や贈呈者のみなさんから、おおむね良好な反響をいただいております。
意外だったのは、「読みやすかった」「一気に読めた」「『島津義久』より何と読みやすいか」(汗)といった読後評です。
何というか、拙著では初めてこの種の感想を聞いた気がします(笑)。
また豊後沖での黒田水軍との海戦は知らなかったという感想も多かったです。

重版期間中のため、品薄になりますが、まだの方々にもお読みいただければ幸いです。
拙著の案内はここにあります。

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【2010/07/23 21:53】 | 新刊
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こんにちは!
自転車(左京住)
はじめまして。自転車と申します。

唐突ですが、コレはご存じでしたでしょうか? 漫画です。

ドリフターズ 1巻   平野 耕太 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d.html/ref=mp_s_a_1?qid=1280287563&a=4785934077&sr=1-1

関ヶ原は烏頭坂 島津の退き口が舞台。
島津中務少輔豊久が三尺薩摩拵の野太刀で
井伊徳川軍勢を相手に大暴れです。是非御一読をば。

ところで気になったのですが島津豊久の流派は何だったんでしょうか。
二つのジゲン流や太刀流が整えられたのは江戸初期だったと記憶していますが。
タイ捨流?

タイ捨流
桐野
自転車(左京住)さん、はじめましてでしょうか?

島津豊久が登場する漫画作品の紹介、有難うございます。
その作品は一応知っておりました。まだ未読です。

豊久の流派は何だったのかよくわかりませんね。
東郷示現流の成立は江戸初期ですから、豊久には関係ないと思います。
タイ捨流の丸目蔵人は薩摩より肥後人吉の出身じゃなかったでしたっけ?

そうそう、丸目蔵人が豊久の父家久に敗れたというエピソードはあるようです。永禄12年(1569)のこととか。参考文献は以下です。

今村嘉雄『定本大和柳生一族』、新人物往来社、108頁

ご参考までに。



自転車(左京住)
やはり不明でしたか…
自分でも色々と調べたみたのですがやっぱり分からなかったです

>今村嘉雄『定本大和柳生一族』
ちっくと読んでみますね
有難うございました

薩州行きて~
自転車(左京住)
あと蛇足になるのですが
百万遍下ル近衛医科薬科大学(w)卒業後は薩摩の地にて初期研修を望みております。
ジェネラルとプシコ専門医・指定医、発達障害専門医を習得した暁には地域病院勤務にしたいとぞ存するなり。
そして願わくば薬丸流、示現流、太刀流とを修めたくも思うております。

近江国生まれ、京育ちではありまするが
第三の故郷、薩摩の地にぞ骨埋める覚悟に在り候也。


薩摩弁は難しそうですけどもw

近衛医科薬科大学?
桐野
自転車(左京住) さん、こんばんは。

「近衛~」に引っ掛かりましたが、もしかして大阪龍馬会の講座を受講されたのでしょうか?

鹿児島で医師としての研修をされるかもしれないとのこと、心強いかぎりです。

自顕流関係は友人もおりますので、話が現実化したあかつきにはご紹介できればと思っています。
今後ともよろしく。

近衛医科薬科大学ww
自転車(左京住)
世の人は京都大と云うそうですが、
中心部の百万遍交差点からメチャクチャ離れた
近衛通りにある薬学部と医学部・病院は
「近衛薬科大学」とか「近衛大学医学部」「近衛白衣族」等と呼ばれてます。

疎外感満点です。

近衛通
桐野
自転車(左京住) さん、こんばんは。

そうか、近衛通だったんですね。
ちょうどあのあたりの東西の通りですね。

私もあのあたり土地勘があります。
時計台とか西部講堂とか○○寮とか。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第157回
―開化に反発、幻の政権構想―

連載が昨日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の中山中左衛門の国事犯の一件との関連記事です。
島津久光が明治6年から同9年までの3年有余、左大臣という明治政府の要職にありました。太政大臣の三条実美に次ぐナンバー2の地位でした。

久光が復古的な政策の持ち主だったことはよく知られています。
殖産興業、富国強兵路線を突き進む流れのなかでは、久光の政策が主流になる可能性はかなり小さかったといえますが、政府内外にまったく支持者がいなかったわけではありません。
とくに旧攘夷派で在野の士族たちからは相当の支持があり、たとえば、佐賀の憂国党の首領・島義勇は久光を「日本の中興第一の元老」と高く評価しているほどでした。

彼らの支持と、地租改正に苦しむ農民や急激な欧化政策に不安をもつ中間層を背景に、久光がひそかに自らを首班とする政権構想を抱いており、具体的な人事構想まで考えていたというのが、今回の胆です。
このことはあまり知られていないのではないでしょうか。

記事にも書きましたが、玉里島津家史料の何げない官員推薦の覚書がその実、内閣名簿案だったという指摘は驚きでした。
そこに挙げられた10人は明治政府主流の反対派や保守派の面々で、なかなかの人物たちです。これはあくまで久光たちの願望で、10名すべてが久光を支持していたとは思えませんが、興味深いですね。

そして、名簿にはありませんが、久光が一番期待していた人物こそ西郷その人だったと思います。
実際に西郷スカウトのため、内田政風が西郷に支持を要請する書簡を送り、その自宅まで訪問していますが、西郷は理由をつけて、内田と面会しておりません。
久光は、西郷は大久保と対立したから味方になってくれるのではという願望があったのかもしれませんが、西郷にしても、大久保とは対立したとはいえ、久光路線を到底支持できるはずもなかったでしょうし、かつての因縁も甦ってきたことでしょう。
西郷との関係は紙数の関係で書けませんでしたが、もし西郷が久光を支持したら、大久保政府も無視できない一大勢力になったことは間違いないでしょうね。

久光と西郷・大久保の長い関係を考えますと、むしろ久光と大久保が親しかったはずですが、征韓論争ののちは関係が逆転して、大久保が久光の最大の政敵になっています。
三者のトライアングルな、めぐりめぐる因縁の連鎖を感じます。

次回はやはりほぼ同じ時期の反政府勢力の一員だった人物を取り上げる予定です。
この人は「朝敵」藩の出身で、薩摩とはこれまた切っても切れぬ因縁で結ばれた人です。
お楽しみに。

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【2010/07/20 16:34】 | さつま人国誌
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7月23日 NHK総合の番組「燃え萌え!戦国武将列伝」について
市川
桐野先生、こんばんは。
タイトルの番組をたったいま見たのですが、どうしても感想を言っておきたくて投稿します。
番組内容は九州の武将・島津家久と鍋島直茂を歴女二人が熱く語るものでした。

個人的に感じたことは、番組の中で直茂は主君龍造寺隆信をとても大切にしている感じなのですが、彼は本当に龍造寺家を大事にしようと思っていたのでしょうか。またせっかく期待して見たのに、あまりに周囲の人間をはしょり過ぎだと思います。

九州の武将を歴女が語る。時代は変わったと思います。
以上、単なる感想文に終始してしまいましたが、どうしてもこの興奮を文書にしたくて送りました。失礼します。


すみません
桐野
市川さん、こんにちは。

その番組見せませんので、何とも感想を述べようがありません。

鍋島直茂と龍造寺氏の関係は微妙ですね。
もともと親戚ですが、隆信の子、政家が病弱だったのか、朝鮮出兵は直茂が名代となって出陣します。
これをきっかけに、秀吉は直茂を龍造寺氏の代表とみなすようになります。こうした既成事実が積み重なり、龍造寺氏に代わり、鍋島氏が大名として独立した存在になったのだと思います。
直茂は秀吉や家康をうまく利用しましたね。

もちろん、龍造寺側には怨念が生じたのでしょう。有名な化け猫騒動がその表れだと思います。



返信ありがとうございます
市川
桐野先生、返信ありがとうございます。

どのような人物であれ、結果的に主家を出し抜いた直茂はやはり「戦国武将」に相応しい才能を持った人物だったのでしょうね。
そういう点では、慶長年代前に亡くなった家久にはない人生の紆余曲折だと思います(幸か不幸か)。

これからも応援してます、頑張って下さい。


ばんない
古い記事へのコメントで失礼します。

中山実善の記事に関する私のコメントですが、ちょっとネタバレっぽくなってしまったようですね。本当に申し訳ありませんでした。

島津久光は維新後は西郷隆盛に秋波を送っていたというのが驚きでした。まあ、でもこの記事でも桐野さんが指摘してますように、私も久光と隆盛の連携はとても無理だったように思います。余り良い例えじゃないですが、北朝鮮と日本が連携してアメリカを攻撃する、というくらいあり得ないように思います。

…しかし、かつて沖永良部島に流刑にするほど憎しみ嫌っていた西郷隆盛に、一転してこうやって近づこうとする辺りに、島津久光は所詮”お殿様”だったんだなあ、なんて感想を抱いてしまいました。ちなみに、西南戦争後に久光、隆盛の悪口(あいつは絶対反逆を起こすと思ったとか云々)を言っていたという話を何かの本で読んだ記憶があるのですが…ちょっと本のタイトルなどは失念してしまいました。

久光一派
桐野
ばんないさん、こんにちは。

久光も策士で、敵の敵は味方とばかりに、西郷に秋波を送っていたのでしょうね。

しかし、久光の側近は内田はまだしも、奈良原繁や海江田信義がいて、西郷がもっとも嫌っている連中ですね。
薩摩藩内の派閥分けも時期ごとにまとめても面白いかもしれません。
その前提として、幕末薩摩藩人名辞典をまず作成しないといけないですね。いかがですか?

それは…
ばんない
>その前提として、幕末薩摩藩人名辞典をまず作成しないといけないですね。いかがですか?

それは桐野さんのお仕事じゃないんですか?(苦笑)
正直なところ、戦国時代の島津氏関連の女性だけで手一杯、というか、近頃ではこれもまともにできずにあっぷあっぷしてる状態なんです(滝汗)


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先週の話題ですみません。

7月8日(木)、明治大学のリバティアカデミーの特別企画講座「幕末維新 志士の手紙を味わう」
その第8講「天璋院篤姫書簡―実家島津家への愛憎こもごもを読む―」に出講しました。

篤姫の史料を扱うのは久しぶりでした。
2年前の展示図録所収の篤姫書簡を中心に読みました。
慶応4年(1867)の徳川幕府終焉のあたりで、

薩藩隊長
輪王寺宮公現法親王
伊達慶邦

に宛てたものです。
とくに後二者宛ては激烈な内容で、仙台・会津両藩に対して徳川家再興を呼びかけるとともに、薩長を「朝敵」「逆賊」扱いしています。

実家をこれだけ糾弾する篤姫の一面はほとんど知られていないでしょう。
2年前の大河ドラマではもちろんそんなシーンはありませんでした。

篤姫の銅像が鹿児島の鶴丸城跡に立つことになりましたが、これらの書簡を読むかぎり、篤姫が喜ぶかどうか疑問ですね。むしろ、旧江戸城本丸あたりか、千駄ヶ谷の徳川邸跡にでも立てたほうがよいのではという気がしてきました。

彼女が完全に徳川家の人になっていたことを再確認した講座でした。

講座はあとひとつ残すのみになりましたが、私の担当分の5回は無事終了しました。
熱心に聴いていただいた受講者の皆さんに感謝です。

次の企画があれば、またよろしくお願いします。

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【2010/07/18 01:07】 | 明治大学リバティアカデミー
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講演のお知らせです。

明治大学のOB会で、紫紺倶楽部という団体があるそうです。
そこが定期的に開いているトークイベントの一環です。

しかも、今回は新たな試みとして、参加者をはじめ、多くの方々にあらかじめ「西軍勝利のシナリオ」(100~150字程度)を募集するそうです。応募作のなかから主催者が面白いと判断したシナリオを提案した方、10組20名を無料で招待するとか。締切は9月6日(月)。
我こそはという方、ぜひ応募して無料招待券をゲットして下さいませ。

応募先など詳しくは、主催者のブログをご覧下さい。ここです。

講演まではまだだいぶ時間があります。直近になったらまた正式の告知をしますが、事前のアイデア募集があるため、早めにご紹介しました。

私の講演は以下のような要領です。

第46回
開 催 日: 10月3日(日)
タイトル: 「関ヶ原合戦~西軍勝利のシナリオ~」 新釈歴史シリーズ①
ゲ ス ト: 桐野 作人さん(作家)
会  場:明治大学(駿河台キャンパス)リバティタワー1階 1012教室
    1時半 開場  2時 開演  4時 終演
入 場 料:2,000円


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【2010/07/16 21:22】 | イベント
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如何でしたか?
市野澤 永
こんばんわ。

お忙しいところ、恐れ入ります。

参加できなかった理由をメールで送らせて頂きましたが、
当日にお話しされたことや会場の反応・質問内容などをお聞きしたく思いました
(おそらく、私だけではないと思う)
ので、書き込みさせて頂きました。

宜しくお願いします。

原哲夫氏の新作漫画「いくさの子」、谷口克広氏の研究の成果(矢代勝介)を資料にしていました。
でも、八代になっていました。
谷口氏といえば、「織田信長家臣人名辞典 2版」の発売が遅れているようですね。

谷口氏の人名辞典
桐野
市野澤さん

先日はメールいただきながら、お返事もできず失礼しました。
とにかく忙しくて首が回りません。

先日の関ヶ原の講演ですが、もともとifの話ですから、大したことはないです。
会場からは、毛利輝元の動向や考え方とか、豊臣家は東西両軍をどのように思っていたのかといった質問が出たような。
なかなか鋭い質問でしたが、満足していただける回答だったかどうかはわかりません。

谷口さんの人名辞典は刊行されています。送られてきたのは一週間ほど前でした。本日紹介記事を書きました。


市野澤 永
桐野さん、こんばんわ。

お忙しい中で、コメントを頂き、ありがとうございます。

谷口克広氏の新著は注文先の丸善さんから27日に店着したとの連絡を頂戴しました。
天気さえ良ければ、購入しに行きたかったのですが、この天候ですからねぇ・・・
一緒に岩田書院の『論集戦国大名と国衆』③を注文しているので、
早く読みたくて仕方がありません。

>本日紹介記事を書きました

拝見致しました。
益々、楽しみになりました。



Re: 購入できましたか?
桐野
市野澤さん

谷口さんの人名辞典はその後入手できましたか?

私も中味を詳しくチェックしたわけではないので、そのうち感想をお聞かせ下さいませ。
個人的には、前回収録されていなかった斎藤利三が立項されていたのはよかったです。




購入しました!
市野澤 永
こんにちわ。

本日は天気もよく、注文先の丸善へ本を購入しに行きました。

これからじっくりと読ませて頂きます。

拙い感想ですが、お言葉に甘えて、読後に書き込みさせて頂きます。

12月に角川より下記の書籍が出版されますね。
タイトルが凄いですね・・・

『信長革命「安土幕府」の衝撃』

従来の<天下人像>をくつがえす信長評伝の集大成!

[ 著者 ]
藤田達生

[ 内容 ]
長槍隊、兵農分離に始まる集権国家への道、日本海から伊勢湾までを網羅した経済構想、天正四年に始まる安土幕府の機能、そして、武家政権三百年の礎となった預治思想による国づくりなど、改革者・信長の実像に迫る!

発売日 2010年12月 20日
定価  1995円(税込)
ISBN  978-4-04-703484-6-C0321
発行  角川学芸出版

安土幕府?
桐野
市野澤さん

藤田さんの新著の紹介、有難うございます。
精力的に刊行されていますねえ。

しかし、「安土幕府」というのはどうなんでしょうね。
もともと、「幕府」という言葉は当該政権担当者の自称ではなくて、後世の研究者の用語が社会的に定着したものですね。

藤田さんがどのような意味で「幕府」と使っているのか知りたいものです。
『天正記』などに信長を「将軍」と呼んでいることからでしょうか?
あるいは、朝尾直弘さんの学説で、信長が将軍権力の起点と位置づけられていることから、それを継承して、信長を「将軍」とし、その権力を「幕府」ということでしょうか?

まあ、「安土幕府」がありなら、秀吉の「大坂幕府」なり、「伏見幕府」もありかなという感触もあるのですが……。


市野澤 永
桐野さん、こんばんわ。

お忙しい中でコメントを付けて頂き、ありがとうございます。

>藤田さんがどのような意味で「幕府」と使っているのか

同感ですね。
タイトルのインパクトを狙われたのか、出版社サイドの商業的な意味合いなのか・・・

最近では、高橋昌明氏の「六波羅幕府」もありますが、
藤田氏の場合は高橋氏とは意味合いが違うような気がしますね・・・

モデル兼女優の杏さんは現在、谷口克広氏の『織田信長家臣人名辞典2版』に夢中だそうです
(『ザ・テレビジョン』2010 No.42 11・12号の34頁より)。
この人は筋金入りですね。
杏さんが歴史を語る際の話し方は好感が持てます。


とらさん
こんにちは。
藤田せんせの新刊情報は参考になりました。楽しみですね。
安土幕府、とは意外な表現ですが、義昭を重要視されている関係で鞆幕府に対応させたのでしょうかね。
改革者というのとは少し印象が違ってくるようで、氏の考える信長像もまた興味のあるところです。

名古屋では、桃山展、が今週までですが、長篠屏風の解説で徳川・織田連合軍、と徳川が先に来ているのが地元らしかったですね。これだと徳川主戦というイメージに近くなってしまいますし。
記述したのは徳川美術館の方かな・・


とらさん
連続だったらすいません。「安土幕府」という単語は藤田せんせの今年6月出版の「証言本能寺」で見出しにも使われていますね。
それを拡大したのでしょうか、もう一度みてみないといけませんかね。

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大阪龍馬会での講座のご案内です。

来る8月1日(日)13:30から,大阪市中央区で小生の講座があります。
詳しくは同会サイトのここをご覧下さい。会場のマップも付いています。
第1回は宮川禎一さんが講師のようです。

小生は2回目で、今回のテーマは、

「龍馬暗殺の背景―岩倉具視書簡の意味―」

この岩倉書簡を深く読み込めば、近江屋事件の背景はよくわかります。

定員40名で、申し込み先着順とのことですので、関西方面で興味のある方はお急ぎ下さい。


同会サイトのイベント情報を転載します。

龍馬大学校 夏期特別講座 第2弾 「龍馬研究 最前線」

 龍馬伝の舞台が長崎に移ります。今後の展開がますます楽しみですね。
 今年の夏は、龍馬研究の最前線で活躍されている3人の先生をお招きして、2ヵ月間で3回の龍馬大学校を行います。
 今回は第二弾・桐野作人先生(歴史作家)の講座案内です。とても貴重なお話が聞けること間違いないと思いますので、皆様、下記日程を必ず空けていただきご参加ください。終了後、桐野先生を囲んでの二次会もあります。こちらも是非ご参加を。

日時:8月1日(日) 13:10から受付開始 13時30分から16時30分

場所:アネックスパル法円坂(旧大阪市立中央青年センター)中央区法円坂1-1-35

  JR森之宮 西へ600m徒歩10分  地下鉄森之宮2番出口 西へ500m徒歩8分
  地下鉄 谷町4丁目駅10番出口 東へ500m徒歩8分

講師:桐野作人先生(歴史作家)
演題:「龍馬暗殺の背景―岩倉具視書簡の意味―」

講師プロフィール:1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係の出版者編集長を経て独立。戦国・織豊期や幕末維新期を中心に執筆・講演活動を行う。主な著書に『さつま人国誌 幕末・明治編』『孤高の将軍 徳川慶喜』『関ヶ原 島津退き口』『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』『だれが信長を殺したのか』『島津義久』など多数。

会費:会員 3000円(飲み物付き) 非会員3500円
募集定員:40名
申込方法:先着順で受付けます。メールかファクシミリ、電話で申し込みください。

締切:7月31日
【申込方法】メールかファクシミリで申し込んで下さい。メールアドレスは同会サイトのイベント情報にあります。  
ファクシミリ 072-853-9669

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【2010/07/14 19:10】 | イベント
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参加いたします
tsubu
桐野先生、こんにちは。

大阪で桐野先生のお話を聞かせて頂く機会を待っておりました。
参加申し込みをいたしましたが、定員が一杯でないことを祈る
ばかりです。
8月1日のお話、とても楽しみにしております!

御礼
桐野
tsubuさん、こんにちは。

大阪ご在住でしたか?
てっきり九州だとばかり。

当日、お会いできるのを私も楽しみにしております。
いつぞや、黎明館で会えるはずだったときから5年くらいたっていますか。



楽しみにしております
tsubu
桐野先生、こんにちは。

そうなんです、今は大阪に住んでいます。
一昨年までは宮崎に三年間住んでおりましたが、今は大阪におります。
以前お会いできなかった時は、大阪から鹿児島・宮崎を旅していた時に事故にあったためでした。
(その節は、桐野先生をはじめ、お会いする予定の皆様方に失礼と心配をかけてしまいました……)
私の実家は大阪城の近くでして、今回の会場はほぼ地元です(笑)。
当日楽しみにしております!

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第156回
―大久保暗殺企て国事犯に―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

中山中左衛門実善の連載の最終回です。
今回は、中山が国事犯へと転落してしまいます。
これはあまり知られていない史実だと思います。しかも、罪状が大久保利通暗殺の謀議ですから、これは因縁というほかありません。

記事にも書いたように、明治7~8年、島津久光が国政に登場し、左大臣となりました。
久光は、大久保らが推進する開化政策を過度な欧化政策で、わが国の美風を損なうと立場から激しく大久保を攻撃します。かつて自分が薫陶した家来と、政府内で激突したわけです。久光は大久保の罷免を要求したほどです。

中山の上京から謀議、逮捕に至る一連の動きは、久光の政治運動と密接に関連しているようです。
中山はかつての攘夷派士族たちに久光の復古政策を支持するよう呼びかけるために活動していました。
それが久光の辞職を機に急進化し、ついには大久保暗殺の密議までこらすようになってしまいました。

この中山投獄一件については、友人の研究者である落合弘樹氏の著書『明治国家と士族』(吉川弘文館、2001年)から学びました。学恩に感謝です。
そのヒントから国立公文書館所蔵の史料群を漁っていたら、中山の供述調書を見つけたので、それをもとにまとめたものです。

中山と大久保といえば、文久2年(1862)、久光の率兵上京のため、共に手を携えて尽力した仲間同士です。
それが一方の他方の暗殺未遂までに立ち至るとは、2人の明暗や陰陽を感じざるをえません。
また投獄されたときには、西郷軍が熊本城に攻めかかっているときで、中山を「粗暴で無暗」と非難してやまなかった西郷との因縁も感じます。
また獄死したのは、西郷の死の4カ月後、大久保の死の4カ月前だというのも奇縁を感じます。

なお、中山の墓は東京・青山墓地にあります。
ふつう、同墓地には国事犯や朝敵となった人々は埋葬されません。
では、なぜ同墓地に中山の墓があるのかといえば、子息尚之介があとから改葬したからだと思われます。
尚之介(1861~1912)はおそらく官僚になったのではないかと思いますが、まだ調査が及んでおりません。
もしご存じの方がおいでなら、ご教示のほどを。
子息尚之介の墓も掲げておきます。青山墓地の同じ区画にあります。
尚之介

余談
今回の連載記事と同日に、小生の紹介記事も掲載してもらいました。
参院選開票翌日の特別編集という大事な紙面なのに、文化面で拙稿とともに2本も取り上げていただきました。目立つこと目立つこと(汗)。
拙著『関ヶ原 島津退き口』(詳しくはここ)の著者紹介です。
大きな写真付きで恥ずかしいです。
立派な書評も書いていただいたうえに、著者まで取り上げていただき、感謝しております。

次回は今回と関連した一件で、明治8年(1875)、左大臣久光の復古政策とその人事構想について書く予定です。

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【2010/07/14 00:06】 | さつま人国誌
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知りませんでした
tsubu
桐野先生、こんにちは。

中山実善についての「さつま人国誌」、大変興味深く拝見しました。
恥ずかしながら、中山が最後に大久保暗殺を企てて獄死していたことを
初めて知りました。
昔一度中山の末路を調べようとしたことがあったのですが、力不足で
調べきることが出来なかったため、今回は本当に勉強になりました。

西郷や大久保がこの世を去った明治10年、11年という年は、薩摩藩閥
(旧薩摩藩関係者)にとって、一つの大きなターニングポイントとも
言える年だと思いますが、中山も同じくこの世を去っていたのですね。

次回の久光の復古政策とその人事構想について、今から拝見するのが
楽しみです。
「さつま人国誌」は、薩摩藩の歴史を愛好する者にとって、大変貴重
でありがたい連載ですので、お忙しい中の執筆は大変だと思いますが、
これからも末永く連載して頂けると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

中山のこと
桐野
tsubuさん、お久しぶりです。

コメント有難うございます。
あれだけお詳しいtsubuさんもご存じでなかったとは!

記事でも紹介しました落合弘樹さんの著書に当時の中山だけではなく、「不平士族」たちの全般的動向が詳しく書かれているので、機会があったらお読み下さい。

連載も4年目に突入と、だいぶ長くなりました。
拙稿にもかかわらず、南日本新聞の太っ腹には感謝しているところです。


勉強になりました
tsubu
桐野先生、こんにちは。
こちらこそご無沙汰しております。

中山の末路については、全く知りませんでしたので、ほんとお恥ずかしい限りです(>_<)
桐野先生の著作やエッセイ等を拝見していますと、自分の知識不足に汗顔の至りです。。。
『島津退き口』も早速購読し、大変勉強させて頂きました。

さて、「太政類典」の中山の供述調書を公文書館のデジタルアーカイブで読みました。
中山の供述だけを信用すると、金蔓ではないですが、中山も利用された可能性がチラホラと見受けられますね。
ただ、丹羽精五郎他の調書を読むと、中山が積極的に加担していたような供述をしていますので、中山と彼等の供述とにはかなり温度差がありますね……。
落合弘樹さんの著書については、その存在は知っていたのですが、まだ未読ですので是非今度読んでみたいと思います。

p.s「さつま人国誌」、単行本の続刊を期待して待っております!

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第28回「武市の夢」

ドラマ進行時点は慶応元年(1865)閏5月頃のはずですが……。

いよいよ武市半平太と岡田以蔵の最期を迎えました。
でも、龍馬が牢獄で半平太と対面するとか、山内容堂が獄中の半平太を訪れるとか、フィクション満開ですな。もう笑うしかないです。

刑死直前の半平太と獄中で対面した龍馬ですが、史実のうえでは、とっくに薩摩藩に招聘されて、鹿児島に行き、5月初旬には西郷吉之助宅に宿泊しています。さらに同月、熊本の横井小楠に面会し、次いで太宰府に行き、三条実美ら五卿にも会っています。
半平太が切腹した閏5月11日前後には桂小五郎と会見し、薩長和解を説き、西郷と桂の会見をセッティングするところまで事態は進行しています(もっとも会見は西郷がキャンセル)。
すでに龍馬が本格的に国事周旋に乗り出している時期なのに、ドラマではなぜ獄中の半平太と会ったりしてるんでしょうね。時系列の混乱も極まっています。

そして、もっとも大きいフィクションは半平太が容堂に吉田東洋暗殺を告白したことです。これって、相当罪深いプロットでは。何より半平太への冒涜じゃないですかね。

前回書きそびれたのですが、半平太をはじめとする土佐勤王党は半平太たちが入獄したのち、連絡を取り合って獄中と獄外で闘争を開始します。それは土佐勤王党の矜持を守る闘いでもあり、形を変えた反上士闘争でもありました。ですから、半平太は獄中から他の同志たちに頻繁に指令を出しています。そして、この戦線から脱落して、この闘争の破壊者に転じた岡田以蔵の毒殺も考えたわけです(ただし未遂)。
以蔵については、今回その純朴な性格を半平太に利用された「犠牲者」というイメージで描いています。
しかし、以蔵も土佐勤王党に血判して加盟した以上、あくまで同党を守り、同志間の信義を重んじる責務があるわけですが、それを捨て去った脱落者,離反者になったのは客観的に明らかです。
その人間的な弱さには憐憫の情もないわけではありませんが、過度な贔屓の引き倒しも一面的すぎてどうかという気がします。

藩内では7郡の勤王党の同志たちが密接に連携し、半平太ら獄中同志を支援すべく、一部は蜂起まで実行しています。有名な野根山の決起です。この決起が藩中に拡がることを恐れた藩庁では、清岡道之助など23名を捕縛し、問答無用で斬罪に処しているほどです。
野根山
野根山23士の墓

この闘争は、半平太たちにとって自分たちの生命よりも、下士としての誇りとプライドを守るものでした。
ですから、前回の龍馬の「大芝居」はこの闘いの意味をどこまで理解しているのかと首をかしげざるをえません。
門外漢のお節介は軽率の極みではないかと。

それと、ドラマで強調される吉田東洋暗殺一件ですが、これも大きな問題ではありましたが、吟味した藩庁側もそれほど深く追及しておりません。それというのも、下士や勤王党以外にも半平太のシンパが存在したからです。
その最大のものは藩主豊範と、容堂の弟民部といった山内一門です。ほかにも吉田東洋排除の一点で連携した門閥派もいました。
東洋暗殺を厳しく吟味すると、これら山内一門や門閥派にも累が及ぶ可能性がありましたから、おのずとその追及の矛先は鈍りました。
東洋暗殺一件は半平太たちが頑として供述を拒み、最後まで真相が明らかになりませんでした。
この厳然たる史実を枉げることはいかがなものでしょうか? 極端にいえば、これでは何でもありということになりませんか。

半平太に切腹を命じた「申渡書」は次のとおりです。

「  武市半平太
 去る酉年(文久元年)以来、天下の形勢に乗じ、窃か(ひそか)に党与を結び、人心煽動の基本を醸造し、爾来、京師に於いて高貴の御方へ容易ならざる儀屡々(しばしば)申し上げ、将又(はたまた)ご隠居(容堂)様へ屡々不届きの儀申し上げ候事共、総じて臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を紊乱し、言語道断、重々不届きの至り、屹度(きっと)ご不快に思し召され、厳科に処せらるべき筈の処、ご慈悲を以て、切腹これを仰せ付けらる」


これには東洋暗殺一件などどこにも書いてありません。
強調されているのは、京師での国事周旋、容堂や上司への不届きな振る舞いがあったという漠然とした理由しか挙げられておりません。
これは半平太が断固として供述を拒んだと同時に、藩庁側もこういう抽象的な形でしか処分できずに、体面を維持するしかなかったことを示しています。ある意味、半平太は獄中闘争に勝利したともいえましょう。

こうした半平太の闘い(獄中生活1年8カ月に及ぶ)を見るにつけ、史実には厳粛に敬意を払って取り扱うべきではないかと思うのは私だけでしょうか?

なお、南会所での半平太の切腹場面ですが、これはある程度史実に沿っていましたね。
お気づきの方も多いと思いますが、半平太は念入りに腹を横に3回、つまり腹三文字にかっさばきました。
介錯人は半平太の希望が容れられ、親戚の島村寿太郎(妻富の弟)と小笠原保馬がつとめました。
2人は半平太の脇腹を6回刺したところで、絶命したとか。
(上記部分、2人が介錯し損ねて6度も切ったという趣旨で書きましたが、私の勘違いでしたので、下記の史料を提示して訂正します)

『竹井瑞山関係文書』に、この現場に立ち合ったらしい五十嵐文吉の手記「武市半平太最期ノ始末」が掲載されています。それには次のようにあります。

「半平太坐に著くと左右へ介錯人寿太郎・保馬著す、半平太より両人へ御苦労と挨拶致し、懐剣を取り抜き、中身を能く/\見、三宝へ置き、諸肩引き抜き、帯際を押くつろげ、懐剣を取り木綿切にて刃を押し巻き腹へ突き立て、三この通り三段に切り剣を右へ置き手を突き、うつ伏に俯す、是にて介錯人両方より脇腹を刺す、六刀計りにて絶息に至る」

2人の介錯人が脇腹を6回刺して絶命させたということらしいです。
1人で3回ずつなのか、1人で6回ずつなのかはわかりませんが。
介錯というから、首を刎ねたとばかり思っていたのですが、そうではなかったです。
なお、記主の五十嵐は、半平太が長い獄中生活で身体が衰弱していて,自力で歩行できず、牢の下番の肩にかからないといけないほどだったと書き、

「最後如何と存じたる処、其時の潔く勇々敷ことには孰れも(いずれも)舌を巻きたり、惜しむべし」

と,半平太の堂々たる最期に感嘆しています。

半平太最期
武市半平太最期の地

以蔵墓
岡田以蔵の墓

土佐勤王党の闘いは激烈苛酷、陰惨で複雑な面も持ち合わせていましたが、土佐藩が明治維新に関与する培養基となったことは紛れもない事実です。その評価は難しいとは思いますが、安易なデフォルメを戒め、もう少し史実に敬意を払うべきではないかと感じました。

次回からは第3部が始まるようですね。

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【2010/07/12 10:52】 | 龍馬伝
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No title
エス
いつも楽しく拝見しています。
フィクション満開な件について私も同意です。
どうしても獄中の武市と龍馬が会う映像がとりたかったのでしょうか。
武市の介錯に六太刀要したというのは初めて聞きました。
どの資料に書かれていますか?


まったくです。
wada
>史実には厳粛に敬意を払って取り扱うべきではないか

まったく、そのとおりと思います。
脚本家はこのドラマを史劇ではなく、自分の思いどおりに創作しているように思えます。
それと、前々回でしたか、龍馬と西郷が会談している遠景で、変な動きをする薩摩藩士たちが描かれていました。よくみると、なんとなく薬丸自顕流の「抜き」から「かかり」に転じ、横木を打つという稽古の様子らしかったのですが、あまりにもお粗末な技指導だったのでしょう、似て非なるものになっていました。がっかりでした。
あの木刀づかいでは、抜き即斬は到底ムリ、何も斬れません。

期待しております。
NAO4@吟遊詩人
いつも、お教えいただきありがとうございます。

今回の記事は、熱が入ってますね。
でも、史実の方がよっぽど面白そうですが、

是非、桐野作人作 「土佐勤皇党階級闘争史」を上梓いただき、大河ドラマ化お願いしたいです。

予定の1年を超えても終わらず、2年ごしになるとか。(笑)
↑冗談です。失礼のほどスイマセンです。

Re: 勘違い
桐野
エスさん、はじめましてでしょうか?

半平太の切腹の様子ですが、私が少し勘違いをしてました。
「介錯」とあるので、首を刎ねたと思っていたのですが、そうではなく、左右から脇腹を6回刺したということのようですね。

本文に関連史料を提示して訂正しておきましたので、詳しくはそちらをご覧下さい。



在りし日の「翔ぶがごとく」
桐野
wadaさん、こんにちは。

昨今のドラマの大衆迎合的な作り方を見るにつけ、たとえば「翔ぶがごとく」のような、いにしえの骨太なドラマが懐かしくなりますね。
史実とフィクションのバランスを失うと、興ざめしてしまいます。

ご指摘の自顕流の稽古場面、たしかに西郷の後景にぼんやりと写っていたのを覚えています。
まあ、そんな遠景にまで力を入れて作らないのでしょうね。お嘆きのほど、お察しします。


事実は小説よりも奇なり
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

小手先のフィクションより、史実のほうがなんぼか面白いですね。
やはり、史実は当時の人々が真剣に考えて行動した結果が反映しているわけで、成功、失敗に関係なく、後世の私たちの心を揺さぶる何かがあるのだと思います。それこそ史実の重さというものでしょう。

「土佐勤皇党階級闘争史」!
勘弁して下さい(笑)。
土佐藩の上士と下士の対立は「階級闘争」とは少し趣が違うような気もしますね。
だいたい、私は土佐の幕末維新史には疎いのです(汗)。


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講座のご案内です。

名古屋の中日文化センターで開講している「信長公記を読み解く」。
今月から第3クールを迎えることになりました。
講義内容も今期からいよいよ元亀争乱に突入です。
信長はやはりここからですね。
元亀争乱は複雑な経過を経ますが、それをなるべくわかりやすく、かつこれまであまり知られていない史料や事柄を盛り込みながら、進めていきたいと思っています。

名古屋や東海方面で関心のある方は受講してみませんか。
私の講座はここにあります。
だいぶ下のほうにありますので、スクロールして探して見て下さい。
私の講座名にある「詳細情報・申し込み」をクリックすると、講座概要が表示されます。
上部に「現在募集していません」という表示が出ますが、ネット上の応募をしないだけで、電話・窓口などではまだ申し込みができます。

詳しくは栄中日文化センターのサイト(ここです)にお問い合せ下さい。

なお、今期のカリキュラムは以下の通りです。

① 7/22 姉川合戦の再検討
② 8/26 野田・福島の陣と本願寺挙兵
③ 9/30 志賀の陣と「勅命講和」
④10/28 比叡山焼き討ちと明智光秀
⑤11/25 小谷封じ込めと異見十七カ条
⑥12/23 武田信玄の西上と三方ヶ原合戦


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【2010/07/09 11:52】 | 中日文化センター
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第155回
―薩英戦争が失脚の原因か―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は中山中左衛門実善の失脚の原因について考えました。
これについては、よく中山の性格的欠陥を指摘されます。

粗暴、度量に乏しい、我意強し(わがまま)

まあ、中山にはそんな面もなかったとはいえません。
しかし、失脚一件を中山の性格だけに問題を限定しては大局を見誤ると思います。

文久2年の久光の率兵上京が幕末政局に大きな衝撃を与えたことは否定できません。
しかし、薩摩藩内レベルの受けとめ方はそれとは様相が異なっていたと思います。
まず、久光権力の特殊なあり方です。久光とその四天王を中心としたグループは藩政そのものより、国事周旋を主な目的として形成されたものです。ですから、藩主茂久と家老を中心とした本来の藩政とは一線を画しています。その証拠に、率兵上京の段階で久光グループには家老がいませんでした。小松帯刀さえも家老に就任するのはもう少しあとです。
つまり、久光権力はとても特殊で、しかも極端な秘密主義でした。これは国事周旋に関与する以上、致し方ない面もあります。

しかし、この久光権力を藩内から見たらどうでしょうか?
連中、何をやろうとしているんだという猜疑心、もしくは国事周旋に深入りして藩を窮地に陥れる恐れはないのかという不安がなかったらウソになります。

そして,期せずして起こった生麦事件をきっかけに、英国と戦争状態に入り、ついに薩英戦争が勃発し、台場の大砲90門近くがすべて破壊され、鹿児島城下も上町を中心に焼失し、集成館も灰燼に帰しました。高価な蒸気船3艘も英国艦隊に焼かれてしまいました。
欧米列強のなかでも最強英国と戦争し、これだけの危機を招き寄せたばかりか、多くの損害・犠牲をもらたした責任は誰が取るのかという声が起きてもおかしくありません。実際そうなりました。

もともと幕府と事を構えたくない保守派、久光の率兵上京に反対した日置派、さらに寺田屋事件で有馬新七らを上意討ちにされた恨みを抱える尊攘派など、久光権力に対する反発や非難は相当なものでした。
久光は引きつづき対英再戦のため、藩内の臨戦体制を構築して内部の引き締めを図りましたが、英国艦隊の強さ、アームストロング砲の威力を前に、厭戦論や再戦反対論が台頭してきました。そしてこちらが多数派の世論を形成した可能性が高いです。

そうなると、久光権力の維持・延命のためには、誰かが責任を取らなければならない。
そのとき、その性格から独断専行して具体的な失策をいくつか犯した中山がスケープゴートにされたということではないでしょうか。中山が一番切りやすかった、中山を切ったらみなが納得したということだったのではないかという気がします。

その意味では中山には気の毒な面がありますね。
もし反対派の声がもっと高かったら、久光権力そのものが解体したかもしれません。そうなると、久光は隠居、小松も大久保も失脚、下手したら腹を切らされていたかもしれません。こうなったら、明治維新の歴史も変わったでしょう。
また堀仲左衛門も江戸藩邸放火の一件が幕府に露見したため、江戸や京都での国事周旋ができなくなりました。
久光四天王は薩英戦争を前後して、4人のうち2人も脱落してしまいました。

久光の率兵上京は大きな成果があった半面、藩内的には大きなリスクを抱えたチャレンジだったことがよくわかります。

次回は明治になってからの中山を書きます。
意外な成り行きになります。

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【2010/07/06 22:51】 | さつま人国誌
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ばんない
「中山実善」全3回拝読させて頂きました。ラストで大久保利通と意外な関わり方をする、と予告されてましたが、本当に想像を超える意外なラストでしたね…。
『翔ぶが如く』で深水三章氏のねちっこい演技が印象的だった中山でしたが、当然ながら失脚後のことは説明がなかったので、今回の話は驚きでした。

また、島津久光に対して藩内で反感(?)を持っていたのが西郷隆盛だけじゃなかったこと、それが性格的な問題ではなくて、久光の権力のありように発する物だっただったという指摘は興味深かったです。
久光は藩主になったことも当然なく、正式には世子だったこともなかったのですが、そういう人が国政の表舞台に登場して(無理矢理乱入して?)権力をふるったというのは、幕末という時代を考える上で興味深いです。何かの論文(今タイトルを失念しましたが)で、久光が公式に官位をもらったことが幕藩体制の崩壊の一つのきっかけになった、という話を読んだことがあるのですが、久光自身は当初幕藩体制をつぶそうという気はなかった様子であったことなどを考えると、大変皮肉な話だと感じました。

久光の官位
桐野
ばんないさん、こんにちは。

拙稿を読んでいただき、有難うございます。

中山はかつての同輩である大久保の出世をどういう思いで見ていたんでしょうね?

久光の官位については、以前、私も書いた覚えがあります。
武家官位(大名と一部の旗本)は幕府から与えられるというのが当時の常識でした。
ところが、久光は朝廷から近衛少将を与えられました。
これが幕府の官位叙任権に風穴が開けられるきっかけになりました。
久光は徳川将軍には絶対従わないという覚悟があったのも、官位の一件がかなり影響していると思われます。


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今夜の「龍馬伝」第27回「龍馬の大芝居」

やってくれましたねえ。
龍馬の大芝居どころか、番組そのものが大芝居でした、それもあまり出来のよくない……。
いくらなんでも、龍馬が吉田東洋暗殺の下手人を買って出るとはやりすぎでしょうに。お龍のセリフではないですが、お節介にもほどがあります。

それに武市半平太と考えが違うと釈明してみたところで、龍馬はれっきとした土佐勤王党の一員。この一件で、勤王党への疑惑がさらに深まってしまうという展開が読めないのでしょうかね?

また、こんなお節介は半平太も喜ばないでしょうし、のちの後藤象二郎との連携という厳然たる史実とどのように帳尻を合わせるというのでしょうか? 象二郎は龍馬が伯父暗殺の犯人だと信じ込んでいることになるのですが……。

何より、この時期、龍馬が土佐に入国したとは常識的に考えられません。
まず元治元年(1864)10月頃、龍馬は関東に下っています。
これは有名な小松帯刀書簡や小生が見つけた龍馬の新出書簡によって明らかです。目的は蒸気船の入手か借用でしたが、結果として失敗しています。
その後、翌慶応元年(1865)4月5日、龍馬は京都に現れて、薩摩藩の吉井幸輔宅を訪ねていることが,土方久元の『回天実記』にあります。引用すると、

「夫れより吉井幸輔方を訪ひ、西郷吉之助、村田新八に面会、坂本龍馬も浪華より帰居面会す」

とあります。
龍馬が京都と大坂を往復しているようです。
龍馬は他の同志たちと同様、薩摩藩の大坂蔵屋敷を根城にしていた可能性が高いですね。
それと京都か伏見にはお龍がいます。伏見寺田屋に預けられていたかどうか微妙な時期ですね。

ともあれ、脱藩後、慶応元年のはじめは龍馬の消息がわからない部分が多いのはたしかです。
まあ、今回の「大芝居」はその空白の数カ月に着目して創作したのでしょう。
しかし、逆効果でしたね。

余談ですが、「龍馬伝」では今回のケースや数回前にあった池田屋事件をのぞきに行ったりとか、なぜか主役が本来そこにいないはずなのに、重要事件や重要人物に遭遇したり関わったりする場面がこしらえられます。

じつをいうと、これは「龍馬伝」に限らず、歴代の大河ドラマでよく使われた古典的な手法です、しかも興醒めな。
古くは「黄金の日日」で、主役の呂宋助左衛門が金ヶ崎の退き口に武器弾薬をもって秀吉の前に現れたり、杉谷善住坊が信長を狙撃しようとする千草越えに現れて、狙撃の邪魔をしたりしました。

近くは「利家とまつ」で、加賀にいるはずの利家がなぜか清州会議に姿を現し、鑓を振り回しました。
また「新選組」でも、近藤勇・龍馬・桂小五郎が3人揃って下田で黒船を見物しました。

こうした「現象」を、私は「大河ドラマ主役御節介症候群」と呼んでおりましたが、今回も例外ではなかったというわけです。
主役が重要事件にからまないと、制作する側は不安になるんでしょうかね?

前回あたりから気になっていたのが寺田屋に預けられたお龍と龍馬の関係。
元治元年8月からしばらくして「内祝言」または「縁組」をしていたと,お龍自身が回想しています(「反魂香」「千里駒後日譚」)。中村武生氏もほぼ事実だと推定しています(『京都の江戸時代を歩く』)。
すでに結婚しているのですから、2人の関係をあんなに他人行儀に描かなくてもいいのでは?


あと、投獄された武市半平太と岡田以蔵のこと。
2人は上士に属する白札と下士の郷士。しかも以蔵は無宿人鉄蔵ですから、半平太とは身分が違いすぎます。当然、牢獄も違います(半平太は帯屋町獄、以蔵は山田町獄)。だから、半平太のすぐそばで以蔵を拷問することなどありえませんね。

また「毒饅頭」の一件ですが、『維新土佐勤王史』の歪曲・捏造が尾を引いています。しかもそれが司馬遼太郎などの小説によって拡大再生産されて,半平太にとっては不幸な誤解が広がっていますね。

半平太が以蔵に毒を盛ったというのは事実ではありません。
ですから、『維新土佐勤王史』にあるように、「天祥丸」と隠語で呼ばれた毒薬を以蔵の食事に混入させ、以蔵がそれと知らずに食したけれども、平然としていて毒が効かなかったというのはウソです。

一方、半平太が実弟の田内衛吉をはじめ、投獄された同志たちに服毒自決を勧めたことはたしかです。
それは、打ち首や獄門になるより、自害したほうが武士としての恥辱を避けられるからです。つまり、武士の最後の名誉を守ってやろうとした好意から出たものなのです。
獄中には刀剣がありませんし、仮に持ち込めたとしても、拷問のため切腹する余力はありません。服毒しか自決の方法はなかったのです。

厳しい拷問によって自白を強いられた同志たちが何人かいました。とくに土佐藩横目井上佐市郎の暗殺を自白した面々は打ち首あるいは獄門(梟首)は免れません。だから、実際に服毒自殺した者もいます。

以蔵についても、ドラマとは異なり、井上佐市郎や本間精一郎暗殺の件をすでに自白していましたので、斬首か獄門は確実でした。ですから、他の同志同様の名誉保持の手段が実行に移されようとしました。
しかし、以蔵に無断で実行するという無茶な手段ではなく、以蔵の父義平や実弟の啓吉の了承を得てから、家族の勧めで以蔵に自決を決意させようというのが真相でした。
しかし結局、この計画は実行に移されませんでした。ドラマではそのあたりを弥太郎の震える手で代替したということでしょうか。

半平太にとって、以蔵は弟分のような親密な関係で、半平太が弟衛吉に毒薬を送って自決させたように、以蔵にもそのようにしたのはむしろ善意,好意から来たもので、しかも家族の了承を得ようとしています。

服毒自殺が名誉というのは、現代の価値観から見ると、なかなか合点がいきませんが、当時の武士道徳からすれば、最後の一線を守るために十分ありえたことだと理解してあげるべきでしょう。

土佐勤王党、なかんづく半平太を顕彰する目的で編まれた『維新土佐勤王史』の記事が、実際は半平太の評価を下げる役割を果たしているのは皮肉なことです。

この件で半平太が悪役に描かれるとすれば可哀相ですね。

なお、以蔵毒殺の一件については、

横田達雄『「維新土佐勤王史」のウソ・マコト』 2000年

が詳しいです。
横田さんは高知の郷土史家(故人)でしたが、これでもかこれでもかと『維新土佐勤王史』のウソを暴いています。私家版なので入手は難しいかもしれませんが。

なお、以蔵の名前が土佐勤王党の名簿から抹殺されたのは、おそらく井上佐市郎暗殺などの件で、他の共犯者の名前を自白して累を広げて犠牲者を増やしてしまったことが勤王党への裏切りとして咎められたからでしょうか。

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【2010/07/04 23:56】 | 龍馬伝
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鹿児島でこの間、天璋院篤姫の銅像をどこに建てるか議論されていましたが、いくつかあった候補地から、結局、鶴丸城跡に決まったようです。
篤姫にいちばんなじみのある今和泉島津家の屋敷跡はいま私有地になっていますから、やはり難しかったのでしょうね。

詳しくはここをご覧下さい。

篤姫は島津斉彬の養女となり、徳川家定に嫁ぐまでの間、しばらく鶴丸城の大奥に住みました。
現在、黎明館裏の駐車場になっている高台あたりだといわれています。

設置されるのは、ゆかりの地である駐車場付近でしょうか?
あるいは表の通りに近い黎明館の前あたりに立つことになるんでしょうか?

鶴丸城
鶴丸城大手門前 このあたりに立つのか?

なお、制作者は大久保利通の銅像などで知られる彫刻家の中村晋也氏です。
篤姫の晩年の写真をもとに立ち姿で制作するとか。実像に近い形になりそうで、ひと安心です。

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【2010/07/02 13:51】 | 幕末維新
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ばんない
こんばんは。

銅像帝国の鹿児島県ですが、ついに大河人気に便乗してきましたね…。
担当は大久保利通像を造った方と言うことですが、篤姫のモデルは実際の写真を元にするのか、それとも宮崎あおい嬢を元にするのか気になります(爆)

篤姫と浅田宗伯
代書屋
津々堂さんから飛び越えて参りました…

江戸攻撃の直前に
篤姫さんからの手紙を川崎で西郷さんにお渡ししたのは
医師 浅田宗伯です
これは「浅田宗伯翁伝」(赤沼金三郎著)に記述されてます
※国会図書館の近デジで無料閲覧できます

… やがて 浅田宗伯の下の娘婿に日下氏が入ります
この方は 先に 小栗さんの縁者で福島恵三郎義言という変名で150年前の遣米使節に小栗従者として同行 世界一周します
… そして脱走幕府軍の一員として函館まで転戦します その記録は国立公文書にあります「北戦日誌」(浅田惟季 著 …のちに乙葉林八と改名)です
この乙葉林八の長男に
安藤信正(対馬守)の末の姫さんが嫁いだ長州・福原氏から娘が嫁ぎます…
とりあえず
篤姫樣の幕末の一幕をご紹介申し上げました 



御礼
桐野
代書屋さん、はじめまして。

篤姫情報、有難うございます。
「薩摩藩隊長」(西郷か)に篤姫書簡を持参したのは幾島だという記録もありますが、浅田宗伯だという記録もあるのですね。

さっそく拝見したら、たしかにありました。
このとき、浅田宗伯は「老女局」と同行したと書いてありますね。これが幾島のことでしょうか。
川崎で薩州兵の隊長相良治部に会ったとありますが、相良は小松帯刀の次兄ですね。また西郷もここに来て会ったと書いています。
西郷に有名な天璋院書簡を渡したとはっきり書いてあるのはこの記録だけかもしれませんね。
その意味では貴重な記録だと思います。

No title
ばんない
こんにちは。

追記に気が付きませんでした。
晩年の写真を元に作成されるとか。ちょっと一安心ですね。
しかし大河ドラマでしか篤姫を知らない人が見たら文句が出るかも(汗)
※かつてアニメで「一休さん」を放送していたとき、一休さんゆかりの酬恩庵で一休さんの肖像画(あの無精髭の物です)を飾っていたら「TVと違う!」と苦情殺到だったそうです…。

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