歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
昨30日午前10時から、東京西新宿の京王プラザホテル5F大ホールにて、表題のシンポジウム開催。

京王電鉄広報部が主催する京王文化探訪のイベント。
会場はぎっしりとイスが並べられ、800名以上の参加者の熱気であふれる。
主催者によれば、通常、所定の募集人員よりやや多めに当選者を出すそうだ。一定の欠席があるのを織り込んでのことである。

しかし、今回は欠席率が極端に低かったらしく、新たに後方にイスを並べる仕儀となり、資料も足りなくなり、急いでプリントしたとか。
会場は後方までぎっしり一杯で、当初、後方スペースに何か展示しようかという話もあったが、取り止めてよかった。結果オーライです。

それというのも、前日が日曜日で、大河ドラマ「龍馬伝」は薩長同盟締結の巻。龍馬を助ける長府藩士の三吉慎蔵も登場したため、その子孫である三吉治敬さんがパネリストだったことは絶好のタイミングと相成った。
欠席率が極端に低かったのも、前夜の余韻のためか。

さて、当シンポ、不肖小生がコーディネーター役で、企画立案から関わった。
今回は3月の同会場でのシンポと少し趣向を変えて、各パネリストに20分程度ずつ、思うところを述べてもらうミニ講演を第1部とし、第2部をパネルディスカッションとした。

パネリストと演題は、

伊東成郎氏(新選組研究者)  龍馬と新選組
古城春樹氏(長府市立博物館) 龍馬と下関
宮川禎一氏(京都国立博物館) 龍馬とお龍・千葉道場の人々
三吉治敬氏(三吉慎蔵曾孫)  龍馬と寺田屋事件
桐野作人(歴史作家)      龍馬と薩摩藩


なお、全体テーマの「龍馬の2000日」とは、文久2年(1862)3月24日の脱藩から、慶応3年(1867)11月15日の近江屋事件まで、5年有余の龍馬の足跡を意味する。
より厳密に計算したところ、2.059日だった。多少の誤差はご愛嬌。

龍馬が歴史上の人物としてその名を残しているのは、やはりこの5年間の活動によるものである。
最後の私の出番では、時間がすでに押していて、持ち時間は15分しかなく、「坂本龍馬は大政奉還派か、武力討幕派か」という肝心の一章が話せずに終わった。第2部でと言い訳したが、それもできかなった(汗)。

第2部では、龍馬の「私」の部分として、お龍、千葉佐那・重太郎、下関の人々との関わり、「公」として薩長同盟、寺田屋事件、大政奉還、近江屋事件などを取り上げた。

もっとも、時間が足りずに、近江屋事件はさわりだけで終わったのが残念でした。

あとで聞いたところによれば、おおむね好評で、「飽きなかった」「あっという間に時間がたった」「もっと聞きたかった」といった感想が寄せられたとか。

何とか大役を果たせて、ホッとしている。
当日の参加者のみなさんはもちろん、主催者のみなさん、各パネリストのみなさん、有難うございました。

さて、来月5日、今度は鹿児島で龍馬のシンポジウムです。
基調講演ですから大変です。

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【2010/08/31 22:11】 | イベント
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一昨日は
小林 哲也
桐野先生、コーディネーター本当にお疲れ様でした!

「龍馬伝」で「薩摩編」が描かれていない分、今回のシンポジウムで「龍馬と薩摩」や「龍馬脱藩後の2000日」をじっくり堪能することができました(笑)
本当にあっという間の3時間でまだまだ議論を聞いていたい、そんな熱い気持ちになりました。

またよろしくお願い致します。

昨日の講演会
hirock
昨日のような講演会は初めて参加させて頂きましたが、あっという間の三時間でした。坂本龍馬や新撰組はネット上でも大人気ですが、やはり専門家の意見をじかに聴くことができたのは意義深いことだったと思います。なによりも、先生方の熱意を肌で感じられたのはとても嬉しかったです。またこのような講演会がありましたら、ぜひ参加したいと思います。本当にありがとうございました。

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御礼
桐野
小林 哲也さん

シンポジウムにご出席いただき、有難うございました。
人数が多かったから大変だったでしょう。
何とか満足していただけたようで、よかったです。今後ともよろしく。


御礼
桐野
hirockさん

シンポに参加していただき、有難うございました。
拙い進行でしたが、何か得られるものがあったようで、よかったです。
今後ともよろしく。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第162回
―脱藩、東北から薩摩へ―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は伊牟田尚平の2回目です。
脱藩した伊牟田が北に逃避行し、水戸、相馬、仙台などを転々とし、清河八郎らと攘夷挙兵をするため、薩摩に帰る決心をします。
京都では田中河内介と会い、挙兵の大義名分ともいうべき青蓮院宮(朝彦親王)の令旨と、中山忠能の長男忠愛の直書を得ます。
これを持参して薩摩藩を説得しようという算段でした。
幽閉中の朝彦親王の令旨にどれほどの効力があるのかどうかわかりませんが、何となく源平争乱時代の以仁王の令旨が諸国をめぐったのと似ているような気がします。
この頃、過去の「勤王事績」に倣う行動が多いですから、案外、以仁王の故事を見倣ったのかもしれませんね。

いよいよ薩摩に赴くわけですが、清河に代わって、真木和泉と平野国臣の登場となります。伊牟田はこの2人とともに薩摩に潜入しようとします。それは次回で。

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【2010/08/31 13:07】 | さつま人国誌
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大河ドラマ「龍馬伝」34回「侍、長次郎」

ドラマ進行時点:慶応元年(1865)12月~翌2年1月頃

ようやく昨日、再放送を見ました。
今回は近藤長次郎の死がテーマになりました。
長次郎が死を選ばねばならなかった理由はまだ謎があり、真相が明らかになったとはいいがたいです。

(1)通説では、長次郎が薩長周旋の功労金を私し、それを資金にして、ひそかに英国留学するつもりだったのが、社中の面々に発覚して、社中の報酬を私したという理由で切腹したというものでした。


(2)近年、それだけではないだろうという説もあります。ドラマでもあったように、グラバーから購入した桜島丸=ユニオン号の運用(桜島丸条約)をめぐって、長州海軍局と社中との間でトラブルが発生したことが起因だという考え方です。
すなわち、条約で定められた社中の権利が反故にされ、長州側に極めて有利な条件に変更されてしまったことに、長次郎が不満を抱き、社中の面々に顔向けできないとしてみずから責任を取り、切腹したという説です。

どちらも一長一短のような気がしています。
ドラマも両方の説を折衷したような形でしたね。
もっとも、長次郎の密航が長崎奉行所に探知され、社中が捜索を受けるというのは蛇足の演出でしたね。
そんな事実はありませんし、社中は薩摩藩に帰属していますから、奉行所が手を出せるはずがないと思います。

(1)に関していえば、このとき、武器・蒸気船購入にあたった伊藤博文の木戸孝允宛て書簡(11月10日付)が重要です。
それには、上杉こと近藤が蒸気船桜島丸を長州に届けに来てくれたが、近藤は「此度一方ならず苦慮」したという。それは「薩崎陽邸監など随分俗論を吐き候由、別して苦心仕り候」というもの。薩摩藩の長崎留守居役が幕府筋に遠慮するような言辞を吐いたということのようです。この時期の同役は汾陽次郎右衛門か、市来政清あたりでしょうかね? 近藤が腰の重い彼らを説得して商談を成立させたというわけです。
そして、伊藤は近藤に「同人英国行きの志御座候処、我が藩のため両三月も遅延仕り候位のことゆえ」と述べています。近藤が英国留学の志をもっていたが、蒸気船購入の交渉のため、2、3カ月遅れてしまったというわけです。となると、近藤は同年8月か9月頃にはすでに英国留学する予定になっていたことになります。
そうだとすれば、蒸気船購入以前からの意向であり、社中のほかの面々も知っていた可能性もありますね。
また伊藤は近藤の功労を認めており、「政府(長州藩庁)よりきっと御礼これありたく愚考仕り候、金なれば百金や二百金くらいは賜り候てもよろしきかと存じ奉り候」とも書いており、近藤に長州藩からの謝礼として、100両や200両与えてもよいと提言しています。
これは金額はともかく、おそらく長州藩から給与されたのではないかと思います。
近藤がこれを資金にして英国留学をしようと思ったというのではなく、もともと英国留学するつもりだったけど、この謝礼金によってその希望に拍車がかかったということになるのでしょうか?

もっとも、外国留学はそれほど簡単ではありません。
とにかく金がかかるのです。「長州ファイブ」の面々も金の工面に苦労しています。
薩摩藩英国留学生の場合は官費留学ですから割高ですが、1人あたりの費用が数千両かかったといわれます。また船賃も一等船室で片道60両もかかります。200両程度あっても、英国に着いたらすぐなくなってしまうでしょう。

英国留学が具体性、現実性をもって考えられるとすれば、むしろ、近藤とグラバーの親密性を想定すべきかもしれません。近藤は桜島丸条約の一件では、グラバーへの義理立てに固執しているところから、グラバーとの間で何らかの約束があったかもしれないですね。
知っている人は知っていますが、薩摩藩英国留学生はグラバーの貿易ルートである長崎-上海航路を利用して渡航しています。グラバーは奄美や琉球にも出張所をもっていて、薩摩藩の密貿易に深く関与していました。
近藤もそうしたグラバーと薩摩藩の深い関係とつながっていたかもしれません。
とくに小松帯刀との縁ではないかと思っています。薩摩藩英国留学生は同年4月に密航しています。これには小松も関わっています。近藤は伊藤・井上だけでなく、小松からも薩摩藩留学生の話を聞いた可能性もあります。
また、近藤が英国留学を考えていたという8月から9月は、近藤が長州藩主毛利父子の使者として、薩摩に赴き、島津久光父子と対面した時期と重なっています。このあたりから、近藤の英国留学の希望が膨らんできた可能性もあります。
薩摩側も近藤の薩長和解についての奔走はよく知っていましたし、感謝もしていたと思います。だから、近藤は小松の家来という立場(つまり、小松から資金援助してもらう)で、グラバーの援助も受けながら、英国留学しようと思っていたかもしれませんが、確証があるわけではありません。

(2)については、伊藤と一緒にこの交渉に関わった井上馨が微妙な立場・役割を果たしたのではないかという気がしています。畏友の研究者皆川真理子さんからのご教示ですが、国会図書館憲政資料室所蔵の『井上馨関係文書』のなかに「近藤長次郎伝」が収録されています、そのなかで、この薩長交渉の部分が大きく墨塗りされて抹消されています。
だれでも推測するのは、井上もしくは長州側にとって不都合な記述があったということでしょう。
おそらく近藤の死の背後に長州側の変約もしくは違約があり、井上がそれに関わっていたのではないかと推測されますが、まだまだ真相は薮の中です。
なお、皆川さんの近年の論考に「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る」(『土佐史談』240号、2009年)があり、近藤長次郎の切腹日などについて詳しく考証されています。興味のある方はご覧になって下さい。

あと、龍馬が近藤の切腹直後に下関から長崎に戻ってきて、遺体と対面する場面がありました。
もちろん、事実ではありません。
龍馬は木戸孝允が薩長同盟の交渉のため上京したのを追いかけて、慶応2年(1866)1月13日、長府藩士の三吉慎蔵や社中の池内蔵太・新宮馬之助とともに下関を発しております。
近藤の切腹日については、前述の皆川さんの考証によれば、通説の1月14日は間違いで、1月23日死亡だということです。
そうだとすれば、まさに龍馬が寺田屋で幕吏に襲撃されたその日です。
寺田屋事件で襲撃されているはずの龍馬が長崎に戻ってきて、近藤の遺体に対面できるはずがないのです。
また池内蔵太も龍馬に同行していますから、長崎で近藤に悪態をつけるはずがないのです。これは内蔵太の名誉のためにつけ加えておきます。
龍馬と近藤の惜別を描くという演出上の要請はわからないでもありませんが、違和感はぬぐえませんね。

次回はいよいよ薩長同盟締結の場面ですね。
ドラマも佳境ですが、また変な演出がなければいいですけど、予告編を見たかぎりでは、岩崎弥太郎が新選組に捕まってしまうようで、やれやれという感じです。

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【2010/08/29 13:52】 | 龍馬伝
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近藤長次郎の件
長尾敏博
桐野様 こんにちは

近藤長次郎の一件は龍馬の「術数有り余って至誠足らず。~」という言葉が印象に残っていて、長次郎の才気走った性格が災いを招いたとずっと思っていましたが、事はそう単純ではなさそうですね。私は理由2のような気がします。黒塗りの部分には何が書かれていたのでしょうね。井上馨は明治になってから財界との結びつきを強め、西郷からは三井の番頭さんとからかわれ、賄賂政治もやった人ですね。

難しい問題です
桐野
長尾敏博さん

コメント有難うございます。
近藤自害の一件は史料が少なくて、なかなか難しいですね。
でも、長州方との間で何かあったことはたしかではないかと思います。

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表題の拙著、今月中旬に重版ができており、著者分が手許に送られてきておりました。
お知らせするのをすっかり忘れておりました(笑)。

拙著案内はこことかここにあります。

誤植など少し直し、その後判明したことをつけ加えたり、差し替えてあります。
また初版は写真のインクが強すぎて、少し暗かったですが、今回はほどよく、かなりクリアになりました。

初版よりも、より完璧を期しましたので、まだの方、あるいはすでに購入された方も保存用にいかがでしょうか。

なお、このお盆過ぎ、鹿児島の伊集院(日置市)の中高生たちがまた今年も関ヶ原から退き口を踏破したという記事が地元紙南日本新聞に掲載されておりました。
東京オリンピックの頃からもう50年間近く、毎年欠かさず続いている恒例行事です。関係者の方々、そして実際に歩く中高生のみなさんには頭が下がる思いです。

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【2010/08/28 00:36】 | 新刊
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読ませていただきました。
市川
遅ればせながら、著書を読ませていただきました。島津退き口を扱った本として大変興味深く、心が躍りました。
大きすぎる亀寿の存在、息子忠恒の将来など、あの脱出劇の裏には単純ではない島津家のお家事情が深く関わっていたことを思うと、義弘の苦悩が偲ばれます。

最後に少し疑問なのですが、川口素生氏の『島津一族 -無敵を誇った南九州の雄-』の中で島津義弘の妻について宰相殿を正室、北郷忠孝の娘を継室(後妻)と記載されていたのですが、これは逆ではないでしょうか。


義弘夫人
桐野
市川さん

ご指摘の点、たしかに仰せの通りですね。
出版社経由で、著者にメールや手紙などで指摘されたらいいかもしれませんね。

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先日はペリー来航より前に生まれた人が生きていたことになっていましたが、今回は文政7年(1824)生まれですよ。ここ

文政7年生まれの有名人といえば、13代将軍徳川家定がいます。篤姫の夫です。
土佐人で龍馬に影響を与えた河田小龍も同年生まれ。

勝海舟は同6年生まれ。岩倉具視も同年です。
西郷隆盛は同10年生まれですから、西郷より3歳上ということになります。

書類上のこととはいえ、幕末維新の有名人たちと同世代の人が生きていることになっているのですから、不思議なことがあるもんですねえ(驚)。

逆にいえば、そうした人たちの戸籍が(除籍簿ではなく)現存しているという事実に歴史を感じますし、幕末維新って、ほんのこの前だったのかという感慨も起きますね。もっとも、役所の怠慢、事なかれ主義は問題ですが。

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【2010/08/26 23:49】 | 雑記
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戸籍の件
長尾敏博
桐野様 こんにちは

テレビでも報じられていましたね。まるで日本史の勉強をしているようでした。(笑)お役所は何をやっているのでしょうか。

以前実家の弟が戸籍をとろうとして間違えて除籍簿も出してしまい、思いがけず父方の先祖のことがわかりました。それによると曽祖父は文久元年、曽祖母は慶応三年生まれでした。こういう年号がでると胸がおどりますね。


もっと上が…。
snokey.F.164
初めてのコメントが超高齢者とは(笑)

長崎では200歳の人が発見?されたとか!

要は壬申戸籍編成時に生存して居て除籍にならなければ戸籍が有る。と言う事でしょうかね?(笑)

しかし
これから除籍をするのに先ず親族を探す訳ですが今度は除籍の80年廃棄が仇となりそうですね。




壬申戸籍
桐野
長尾敏博さん、snokey.F.164さん

コメント有難うございます。

200歳というのは驚きを通り越して、唖然とするばかりですね。

ご指摘のように、明治初年の壬申戸籍編成時に登録され、何かの事情で除籍されなかった人々のが問題になっているのでしょうね。
ということは、当時、80歳だった人なら(1792年生まれ)、現在、220歳近くになっていますから、まだ上限が更新される可能性がありますね。

何というか、こんないい加減なら、戸籍は過去の遺物で、もはや要らないのではという気がします(また差別の温床にもなっていますし)。
住民票で十分でしょう。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第161回
―ヒュースケン暗殺の首謀者―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回から伊牟田尚平を何回かに分けて書きたいと思っています。
上・中・下にしなかったのは、どうも3回以上になりそうな予感がするからです。
ある程度、構成を考えているのですが、最後のほうが絞り切れていません。

伊牟田尚平といえば、知る人ぞ知る人物です。
前半は尊攘激派として、後半は江戸攪乱工作の中心人物として、波瀾万丈の生涯といって過言ではありません。

もっとも、秘密の諜報活動が多かったせいか、その生涯は必ずしも明らかになっていません。
断片的にわかる点をつないで、か細い線にできるかくらいが関の山ではないかと思いますが、伊牟田に触れずして、薩摩から見た幕末維新史は描けないので、あえてチャレンジした次第です。

今回はその出自とヒュースケン暗殺一件について書きました。
たまたま、以前、ヒュースケンの墓がある麻布の光林寺を訪れていたのが幸いしました。
もっとも、墓を探すのにはひと苦労でしたが。

この一件を述べている「柴山愛次郎日記」は今回初めてじっくり読みましたが、なかなか面白いですね。
ちなみに、柴山は寺田屋事件で有馬新七らとともに上意討ちされて亡くなっています。
伏見・大黒寺にある柴山の墓を載せておきます。

柴山愛次郎

次回は文久年間の尊攘活動、とくに島津久光の率兵上京との関わりあたりを中心に書く予定です。

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【2010/08/24 00:33】 | さつま人国誌
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伊牟田尚平 期待してます
長尾敏博
桐野様 こんにちは。メール有難うございました。伊牟田尚平は特に相楽総三たちとのかかわりがとても興味が
あるところです。私の住んでいる地元にも赤報隊(嚮導隊)の檄文が回ってきています。この頃の歴史もっと知りたいです。
                                   長尾

                 

柴山愛次郎日記
tsubu
桐野先生、こんにちは。

さつま人国誌の伊牟田尚平、大変興味深く拝読いたしました。
後半で描かれるであろう、江戸攪乱工作部分がとても楽しみです。

「柴山愛次郎日記」のことですが、私は未見なのですが、何かの史料集の中に所載されているものなのでしょうか?
これを機会に是非読んでみたいと思っています。

赤報隊の檄文
桐野
長尾敏博さん、こんにちは。

お住まいの地域に、たしかに「官軍先鋒 嚮導隊 高橋下総」名義による檄文というか布告が出されていますね。
慶応4年(1868)1月という、かなり早い時期から、甲州街道経由で伝えられたようです。
私もその写しは見たことがあります。
今回の連載で触れられるかどうかは微妙ですが、赤報隊や相楽総三のことも書くことになると思います。
お楽しみに。


柴山愛次郎日記
桐野
tsubuさん、こんにちは。

「柴山愛次郎日記」上・下は西郷南洲顕彰会が刊行している『敬天愛人』に掲載されています。
tsubuさんはお持ちではないかと思いますが。

塩満郁夫「柴山愛次郎の日記」(上)、『敬天愛人』16号、1998

塩満郁夫「柴山愛次郎の日記」(下)、『敬天愛人』17号、1999

ほかにも、

平川次郎『柴山愛次郎日記を読む』 那珂書房、2000 定価2.000円+税

というのもあります。
これも全文翻刻と解説が載っています。
版元は茨城県の出版社です。
http://www.it.sakura.ne.jp/~nakasyob/index2.htm

以上です。




ありがとうございました
tsubu
桐野先生、こんにちは。

私、大きな勘違いをしておりました……。
『敬天愛人』誌で読んだことがありました……(恥)。(もちろん持っています。。。)
最近、どこで何を読んだのか、思い出せないことがままありまして。
既に持っている本を二度買ったことがあります(大汗)。
お手数をおかけして、大変申し訳ありませんでした。

『柴山愛次郎日記を読む』は、面白そうな本ですね。
在庫があれば買いたいと思います。
ありがとうございました。

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昨日の「龍馬伝」は所用のため、観ておりません。
もし感想が書けるとしたら、土曜日の再放送を観てからになりそうです。

以下、日次記です。

17日(火)
夕方から小学館「てらこや」に出講。
「坂本龍馬と丁卯日記」第4回。
慶応3年(1867)11月下旬から12月初旬の王政復古政変前夜の動きを、薩摩藩を中心に見た。
個人的には、土佐の後藤象二郎が王政復古政変に同意する事情がいまいち不鮮明だという感触をもっていた。

ひとつは、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之・岩倉具視という四卿による「内勅」発給に対して、後藤が反対できなかったという点。この「内勅」が出るよう、大久保が中山や正親町三条を粘り強く説得している様子が、同人の日記からうかがえた。
もっとも、大久保日記には後藤が政変決行に「雷同した」と書かれているが、土佐藩側の『神山郡廉日記』は若干ニュアンスが異なっているように感じた。

一番大きな理由は、大政奉還から王政復古へという流れに対して、幕府-親藩-譜代勢力からの反発が大きく、結局、大政奉還が骨抜きになりそうな形勢に後藤が危機感を抱きつつ、次の一手が打てずに大久保の政変断行方針に乗らざるをえなくなったのかなという気がしている。

次回で今シリーズは一応終わりにするつもりで、次回からは受講者のみなさんのご要望もあり、勝海舟か中岡慎太・土方久元の日記を読む予定。
ところが、昨日送られてきた次シリーズの講座リリース資料では、今シリーズを継続することになっている。
はて困った。しばらく様子を見て対策を考えるしかない。

19日(木)
夕方から銀座で知友の研究者たちと暑気払い。
博論が単行本になるとか、龍馬に関する興味深い論文作成中とか、刺激になる話題を聞く。
その他身辺事情についても種々の経験談を拝聴。

20日(金)
歯医者。先日から歯ぐきが腫れていた。
資料整理に追われる。

21日(土)
「さつま人国誌」原稿執筆。
何回かのつづきものになりそうで、各回ごとのテーマの割り振りを思案していたら、原稿が遅れる。
あわてて送信したせいか、こちらの操作ミスでおかしな原稿になっていた。
ゲラを2度出してもらって申し訳なかった。

午後から、鹿児島の県人会の方々と11月の講演の打ち合わせ。
テーマを何にするか懸案だったが、やはり龍馬関係になる。
時期的に最終回の頃である。
ベテランの方々は顔見知りというか、メールでやりとりしていた方もおいで。
若手の方々は優秀そうだった。
少し、龍馬伝のことを語りすぎた。反省。

22日(日)
信州上田の某館でのイベントについて、関係方面と打ち合わせやらメールのやりとりに追われる。
何となくうまくいきそうである。
夕方から、親族の会合。
新感覚の韓国料理を味わう。

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【2010/08/23 13:31】 | 日次記
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世間的には猛暑継続中ですが、暦の上ではとうに立秋を過ぎております。

秋風が吹く頃には来年の話題もそろそろというわけで、

来年の大河ドラマをテーマにした講座を開講します。

朝日カルチャーセンター千葉で、

「お江とその時代―戦国女性の生き方と死に方―」

と題して、とりあえず2回の講座を開催することになりました。

11月15日(月)13:00~14:30
12月13日(月)13:00~14:30

同所での講座は初めてです。
千葉をはじめ、関東方面の方で、関心のある方は受講してみませんか。
応募者が一定人数にならないと閉講だと思いますので、よろしくお願いします。

詳しくは、ここをご覧下さい。
写真付きで載っております。恥ずかしいです。

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【2010/08/21 22:46】 | イベント
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「亀山社中の大仕事」

ドラマ進行時点は慶応元年(1865)8月頃らしい。

日曜日にちゃんと観たのですが、もういいかなという感じですね。

長州の伊藤俊輔(のち博文)と井上聞多(のち馨)が長崎にやってきて、軍艦や小銃購入のため、グラバーと商談する場面。
なぜ、小松帯刀は出てこないの? ここでも薩摩無視ですか。
伊藤と井上が武器購入ができたのは、ほかでもない小松が間に立って保証してくれたからでしょうに。

しかも、商談成立ののち、井上は小松に同行して鹿児島に行き、島津父子や薩摩藩の重役たちと会見して、さらに和解を一歩進めました。
これを基礎にして、長州藩主の毛利父子が薩摩藩主の島津父子に和解を呼びかける書簡を送ります。
しかも、毛利父子の書簡を持参して鹿児島に行き、島津久光に対面して長州側の事情を説明したのは、ほかならぬ上杉宗次郎こと近藤長次郎です。
近年、これをもって薩長同盟の成立だという学説も登場するなど、重要な出来事です。

近藤長次郎の仕事が薩長同盟成立の基盤固めにいかに大事な役割を果たしたか、もっと描いてほしいですけど、もう来週は長次郎の切腹ですね。しかも、その死に京都にいるはずの龍馬が立ち合うのですかね?

小松の件といい、近藤長次郎の件といい、共通しているのは一貫した薩摩無視です。
脚本家が長州出身というのが、いわくありげに見えてしまいますね(笑)。

これで、近江屋事件のシナリオもだいたい見えてきました。そのうち、薩摩無視から薩摩敵視に転じるのでしょう。
もうお腹いっぱいで、腹こわしそうですから、感想書くのはやめようかなと思います。

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【2010/08/20 20:39】 | 龍馬伝
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雑感
ポッペリアン
歴史には疎いのですが、『篤姫』で小松帯刀が「Satsuma,Choshu,friend」といった時、「この時期の小松はもっと英語ができたのでは?」と疑問でした
でも、そもそも小松を登場させないというドラマづくりもあったのですね(笑

亀山社中
森重和雄
桐野さま

こんにちは!
暑中お見舞い申し上げます。

よく諸書で「亀山社中」と書かれていますが、これはやはり正確には「亀山」という場所にあった「社中」というのがいいのではないでしょうか?
不勉強なので僕も自信がないのですが、幕末のきちんとした史料で「亀山社中」と表記された史料はあるのでしょうか????
ご存知でしたらご教授してくださいませ。
よろしくお願い申し上げます。(ぺこり)

小松の英語
桐野
ポッペリアンさん、はじめまして。

たしかに「篤姫」で小松が英語を使っていましたね。
しかし、小松が英語を話せたとは思えないのですが……。
慶応2年6月に英国公使パークスを鹿児島に迎え、小松がホスト役でした。挨拶ぐらいは英語を使った可能性がないとはいえませんが、さてどうでしょうかね?

今回はまったくの小松無視ですね。
もっと可哀相なのは登場さえしない大久保一蔵でしょうか。
もっとも、登場しないだけに、大久保黒幕説はなさそうです(笑)。

亀山社中
桐野
森重和雄さん、こんにちは。

「亀山社中」と書かれた一次史料はないのではないかと思います。
「社中」はたしかあったと思います。

亀山社中は後世の造語ということになりますか。
平尾道雄さんあたりが作ったのでしょうかね?

ただ、亀山社中に限らず、似たような事例はありますね。
薩摩藩の「精忠組」にしても、同時代の史料にはありません。
本来は藩主島津茂久の諭書の宛先に「精忠士(誠中士)面々へ」とあったのが由来ですが。
あと、西郷の書簡だったかに「精忠派」と使われています。もっとも、否定的な意味ですが。

また土佐勤王党も同様で、同時代には使われておらず、「維新土佐勤王史」あたりの造語では?

ですから、亀山社中もそれほど目くじらを立てるほどではないと思います。



164go
母は鹿児島県出水市君名川出身、
父は出水郡長島出身で
わたしは広島に在するものです。
『龍馬伝』を検索し、
そこからあちらこちら渡り歩き
先生のこのブログにたどり着きました。
以来、大変興味深く読ませていただいております。

歴史ドラマと史実の関係は
おそらく昔から言われているのでしょうね。

観てもらってこそのドラマですが
大きく史実とかけ離れ
まさにそこに生きていた方を
冒涜するものではあってよいはずがありません。

先生のご活躍が
事実に近い、生々しい古人の生き様を
世に知らせるものであれば
それはとても意義深いことです。

お腹一杯とのことですが
あと少しでドラマは終わります。
腹八分ならばきっとあと二分入りましょう。
なんとかお願いいたします。
感想の続編楽しみにしております。

お礼
森重和雄
桐野さま

ご教授どうもありがとうございました。(ぺこり)

「亀山社中」って本当に誰が最初に使い始めたんでしょうね?・・・

連日酷暑が続いていますね。
ご自愛くださいませ。

思案中です
桐野
164goさん、はじめまして。

コメント有難うございます。
ご両親は出水・長島の出身ですか。
ご縁ですねえ。

龍馬伝についてのご意見も有難うございます。
なるべくご要望には添いたいと思いますが、根気が続くかどうか考えているところです。

今後ともよろしく。





お礼
ポッペリアン
桐野様
せっかくご教示いただいたのにレスが遅くなりすいません
歴史には疎いのでまた質問させていただくこともあるかもしれませんが、ご迷惑にならない限りでよろしくご指導ください

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第160回
―篤姫書簡を西郷に渡す―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は浅田飴の創始者でも知られる浅田宗伯を取り上げました。
以前、当ブログで教えていただいたことがヒントになりました。
彼の薩摩との関わりはほとんどこの一件だけですが、それがまさに歴史的事件でもありました。

彼が幾島付きの随行員に指名されたのは、幾島が衰弱して下半身不随状態だったため、その侍医としての同行だと思われます。
幾島はすでに大奥を離れていましたが、そんな状態の幾島が使者に選ばれたのは、篤姫の信任が厚かったのと、西郷と顔見知りだったことが大きいのでしょう。
このときから遡ること10年前の安政年間、西郷と幾島はともに京都にあって、一橋慶喜の擁立のために奔走しました。そのときの縁を活かそうとしたのでしょうね。

執筆のために史料を調べていて、気になったのは西郷吉之助の動向です。
駿府から勝海舟との会談まで、どこにいたのか史料によって異なっているような。
浅田は川崎で西郷に会ったとしていますが、史料によっては西郷はもう品川に着いていたというのもあります。
いずれが正しいのか、一次史料を精査して確認する必要がありそうですね。

浅田の写真は株式会社浅田飴さんから提供していただきました。
記して御礼申し上げます。

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【2010/08/17 22:16】 | さつま人国誌
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講演会とシンポジウムのご案内です。

来る9月5日(日)、鹿児島市・宝山ホール(鹿児島県文化センター)にて、

「坂本龍馬と薩摩―龍馬の夢は薩摩が大きく育てた―」

と題して開催されます。
詳しくは、ここをご覧下さい。

不肖、私が基調講演をします。その演題は、

「坂本龍馬と薩摩のきずな」

講演終了後、他の3人の方々とのパネルディスカッションにも参加します。

宝山ホールでの講演は2年ぶりです。
そのときは小松帯刀についてお話ししました。
大会場でしたから緊張しましたが、昼の部と夜の部、2回の講演を何とかやることができました。


日時:9月5日(日)13:00開演~
会場:宝山ホール


申込方法は往復ハガキでの事前申し込み(お一人様一枚)、先着1500名は無料ご招待です。
申込締切は8月20日(金)当日消印有効。

締切まであまり日にちがありません。南九州方面にお住まいで、龍馬に関心のある方は参加してみませんか。
1.500名のキャパなので、まだ大丈夫ではないかと思います。

詳しくは下記の案内をご覧下さい。
宝山ホール


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【2010/08/15 19:13】 | イベント
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おっと
岩剣石塁
締め切りが近いですね。
明日さっそく往復はがきを買ってこなければ(^_^;)

よろしく
桐野
岩剣石塁さん、ご無沙汰しております。

もしお時間が合えば、ご参加下さいませ。
またお会いできるのを楽しみに。

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左ききのことを「ぎっちょ」といいます。
鹿児島弁かと思っていたのですが、全国的にもそう呼ぶようですね。

何を隠そう、私も「ぎっちょ」です。
子どもの頃、親に矯正されたせいで、箸や字は右ききになりました。
でも、矯正が中途はんぱだったため、野球では左きき用のグローブをはめ、左投げ右打ち。これでは、内野は一塁しか守れません。野球友だちには役立たずだといわれました。
それやこれやで、隠れ左ききだったことが私の少年時代には暗い思い出として残っています。
だから、麻丘めぐみが有名なあの歌を歌ったときには勇気づけられたものでした。

それからも、ハサミはずっと右きき用を左手で使っていました。
そんなものだと思っていたのですが、ある日、左きき用のハサミがあると知って、軽い衝撃を受けました。
そうか、我慢する必要なんてなかったんだと思い、文房具屋に行ってみたところ、ハサミにしては目の玉の飛び出るような値札が付いていて、再び衝撃。自分が世間的にマイノリティであることを思い知らされたのです。

それ以来、何事もなかったかのように、この件は忘れていました。
最近、講演や講座でレジュメを作成する関係上、ハサミは必需品になりました。今もって原始的な切り貼りをやっております。
つい先日、20年以上使っていた愛用のハサミ(右きき用)をなくしてしまいました。家の中のどこかに潜んでいると思うのですが、出てきません。
しかたなく、近くの文房具屋でまた右きき用を購入しましたが、値段の割に切れ味がいまいちでした。

たまたま先日、近くの100円ショップに立ち寄ったら、左きき用のハサミを売っているのを見つけました。
お店がお店ですから、値段はもちろん105円。
これなら、ダメ元だと思って買いました。
そしてこれまた軽い衝撃を受けました。右と左とでは、こんなに感覚が違うのかと……。
右ききに偽装したこれまでの人生は何だったんだとまでは思っていませんが、もっと早くこの感覚を知っていたらと悔やまれることしきりです。わずか105円でも人生が明るくなることがあるようです。


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【2010/08/15 11:46】 | 雑記
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わたしも・・・
びわこ
実は私も『ぎっちょ』です。
同じく、子どもの時に母に中途半端に矯正され、お箸と書くことは右です。

中学の音楽の授業でギターを弾く時、右利きの子たちとは逆にギターを持って、コードを全く押さえることができませんでした。
そこで、改めて自分が左ききだったことを意識しました。

それと、右で鉛筆を持ち、左で消しゴムを持って、書きながら消すことができる。。。
小学生のとき、友だちに「すごい」って言われたのですが、これってもしかすると、ぎっちょを矯正した人だけ??

そういえば、中井均氏もぎっちょを矯正したらしく、講演の最中、右で書いてたかと思ったら、いきなり左で書き出すので、驚きます(笑)


隠れぎっちょの会
Holy
>びわこさん
「あれ?いつの間に書き込んだっけ?」と思ったほど冒頭部分に頷けます(笑)。
桐野さんもそうだとありましたが、同じく幼少時に字とお箸を右へ矯正されました…(最近はしないみたいですね)
でも何かの拍子に、左手使った方がやりやすいものがひょっこり身体に現れますね。大人になってから私は、お抹茶を点てる時明らかに右手より左手の方が楽なことにショックを覚えてます(苦笑)。
あと消しゴムも同じです!美大生時代や書く仕事の頃は、時間短縮になるのでこのやり方をしていたという感覚だったのですが、左利きの名残だったとは気付きませんでした。
左利きは右脳が発達すると俗に言われますが、桐野さんやびわこさんや私のような隠れぎっちょはどちら寄りなんでしょうね?

隠れぎっちょの会(笑)
桐野
びわこさん、Holyさん、こんばんは。

みなさんも同じような経験されてるんですね。
私は左手では字はあまり書けませんが、右手で鉛筆、左手で消しゴムという使い方してました。
今は右手でペンかキー、左手でマウスです。
左右が自由に使えて意外と便利ですよね。

ぎっちょを矯正しなくなったのはここ20年くらいでしょうかね?


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日次記です。

8月某日
某雑誌の締切日なのであわただしい。
初めてお付き合いしたところなので、ぶざまなことにしたくない。
でも、分量が多いのに、前日からしか手が付けられず。
この日、昼頃には納入して下さいと先方から申し渡されていたにもかかわらず、終わらず。
先方からの督促電話に、適当に4時までにと時間稼ぎで答えたが、見通しがあったわけではなかった。
でも、不思議なことに4時過ぎに脱稿。ホッと安堵。
綱渡りだよねえ。我ながらよく書きました。
もっと驚いたことに、その日のうちに校正紙がメールで届きました。

8月某日
某ムック企画の打ち合わせで神保町に行く。
友人の編集者としばらくお茶する。
同年代の編集者の孤独死を知り、愕然、合掌。
他人事ではない年代に突入したことを改めて知らされる。

8月某日
午後、著名な某薩摩藩士子孫と会う。
このところ、いろいろお世話になっている。
ちょっと前に秘蔵の西南戦争関係の史料を拝見したので、その翻刻をお持ちした。
さて、西南戦争末期の薩軍の状況がよくわかるが、どう扱ったらよいものか。
ほかにも戊辰戦争の手記あり。長文で癖字、読みづらい。

同夕、某社に行く。
近くのお店で担当のお二人に拙著重版祝いをしていただく。
雑談や思い出話に花が咲く。
帰路、人身事故で電車しばらく停車。

8月某日
事務所のデスクまわりの資料や書籍を片づける。が、とてもじゃないが追いつかない。
疲れたので、珍しく少し読書をした。
たまにはそんな息抜きがあってもいい。
最近、仕事関係の本か史料しか読んでいない、それも拾い読みしかしていないからなあ。

在関東の鹿児島県人会からの講演依頼あり、日程調整。
最近上梓の拙著の関係もあり、依頼主にはよく島津の退き口をテーマにしたいと提案しているが、先方からは坂本龍馬についての依頼ばかりである(苦笑)。旬の話題だから致し方ないか。

本日
少し史料翻刻をやります。

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【2010/08/14 10:00】 | 日次記
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是非、是非、
かごんま@しらお
先日、知人が予てより先生の来鹿講演を画策していたようで、私もやるならいくつかの団体の連合体で盛大に!と思って、先生を呼んで「島津の退き口」をテーマに講演会を!という企画メモを知人に頼まれ代筆しました^^
某団体がうまく乗ってくれたらいいな。。
というか、先生ともうまく調整つけばいいな。と、ほくそ笑んでいます^^
是非、島津の退き口を鹿児島でお願いします。。

島津の退き口
桐野
かごんま@しらおさん、こんばんは。

「島津の退き口」は、まだあまり話したことがないので、実現できればうれしいです。
よろしくお願いします。

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告知が遅くなりましたが、今週月曜日の新聞連載「さつま人国誌」は休刊日のため、お休みでした。

この間、友人の研究者から、いくつか論著をいただきました。
いつもながら、有難うございます。
ご紹介することでご好意御礼に代えたいと思います。

大西泰正氏より
「宇喜多秀家と豊臣政権」 『年報赤松氏研究』3号 2010年3月

私も以前から興味をもっていましたが、五大老の一人で豊家家門でもある秀家の政権内での位置づけはなかなか難しそうだとわかりました。史料もあまりないようです。
豊臣政権論のなかで、宇喜多氏ならびに秀家は今後も大きな課題だと感じました。


平野明夫氏より
「足利義氏の元服式」 『葛西城と古河公方足利義氏』 葛飾区郷土と天文の博物館編 雄山閣 2010年

苦手な関東戦国史ですが、足利義氏についても、北条氏康が(上杉謙信との対抗上)擁立した古河公方ということぐらいしか知りません(汗)。
この論文は義氏の元服式を通じて、氏康が関東管領ではなかったことを論証したものです。
関東の公方―管領体制を再考しようとしています。


黒嶋敏氏より
「島津侵入事件再考」 『中世はどう変わったか』 小野正敏・五味文彦・萩原三雄編 高志書院 2010年
「琉球王朝由緒と源為朝」 『由緒の比較史』 歴史学研究会編 青木書店 2010年

前論は島津氏の琉球侵攻に関する考察です。
島津側の史料が琉球王朝側の史料と突き合わせる作業で、よく読み解けることがわかりました。
とくに、『旧記雑録後編』所収史料についての年次比定の再検討は勉強になりました。
後論は、羽地朝秀の『中山世鑑』から生まれた琉球王朝が源為朝を祖とする伝説についての考察。
江戸時代初期の成立というのが重要なようで、徳川将軍家の清和源氏由緒や薩摩島津家の頼朝落胤説との同時代性が興味深かったです。


堀 新氏より
「東アジア国際関係に見る壬辰倭乱」 『壬辰倭乱と東アジア世界の変動』 韓日文化交流基金・東北アジア歴史財団シンポジウム 韓国・景仁文化社 2010年

堀氏の織豊王権論を日韓の歴史研究者合同のシンポでわかりやすく概説されたもの。
信長の大陸侵略構想や秀吉の三国国割構想とその頓挫などが紹介されている。
余談だが、本書は韓国側が日本語とハングルで刊行したもので、日本語は画数の多い旧字が多用されていて、かつて編集者時代、韓国に発注していた活版印刷の頃を思い出した。

白川宗源氏より
「喫茶文化史における闘茶の意義―バサラの検討をとおして―」 『鎌倉遺文研究』25号 鎌倉遺文研究会編集 2010年

輪読会に新たに参加された白川氏から拝受。
佐々木道誉・土岐頼遠・高師直らにまとわりつく「バサラ」のイメージを覆す論旨に驚く。
闘茶のことも勉強させてもらいました。


弓削政己氏より
『大和村誌』 大和村誌編纂委員会編集 大和村発行 2010年

奄美諸島の近世・近代史研究をリードしている弓削氏から受贈。
奄美本島にある大和村の自治体史です。
弓削氏は前近代の薩摩藩政史と近現代の歴史を担当。
島津氏の琉球侵攻以降の奄美の歴史がよくわかります。
弓削氏は島津氏による奄美支配を外部の視点だけでなく、奄美諸島の内部から構造的に把握する視点を強調しておられる。
弓削氏は自治体史や論文などたくさん執筆しておられるが、ぜひ単著の形でまとめていただきたいと思っているのは私だけではないだろう。

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【2010/08/12 10:24】 | 新刊
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関東管領
謙信
 足利義輝の要請で、関東管領・山内憲正から後継ぎを依頼されていた長尾景虎(上杉謙信)が、北条と足利持氏を古河御所から追い出し、正当な後継ぎとされる足利藤氏を入れた。
そして1561年、鎌倉鶴岡八幡宮にて長尾景虎は、正式に関東管領と上杉姓を相続。上杉憲政の一字を賜って上杉政虎(まさとら)を名乗る。
 以上と習いました。

追記 足利持氏は足利義氏だったのですかね。覚え間違いをしていました。


とらさん
ごぶさたです。
堀先生の論文は拝見したいですね。
自分はまったくのシロウトで恐縮ですが、最近知り合った方が、古代史にお詳しくて韓国にもよく行かれるというのですよね。
信長や秀吉の構想、そういったものがどのように解釈されているかには関心があります。
今後の影響、といった意味合いも強いのですけどね。

名古屋は暑いです、がんばって下さい。

堀新氏の本
桐野
とらさん、こんにちは。

堀さんのは、紹介した論文よりも、単行本のほうが読みやすいかもしれません。念のため書いておきます。

堀新『天下統一から鎖国へ』 日本中世の歴史7 吉川弘文館 2.600円+税


ありがとうございます
zeigen
いつもお世話になっております。
拙稿の紹介、ありがとうございました。

たえず史料蒐集には意を用いておりますが、
決定打となるようなものが少なく、ご指摘の通り、やや苦しい議論となっています。お恥ずかしい限りです。

また、いろいろとご教示のほどお願い申し上げます。

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第32回「狙われた龍馬

ドラマ進行時点:慶応元年(1865)6月頃。

千葉重太郎が伏見にいるのはまったくのフィクションですが、近藤勇と新選組については満更でもありません。
お龍がのちに回想した『千里の駒後日譚拾遺』(明治32年、土陽新聞連載)に、近藤と伏見・寺田屋について、次のように書いています。

「近藤勇は三十一、二の年恰好で顔の四角い様な、眉毛の濃い、色の白い、口は人並より少し大きい奸物らしき男でした。寺田屋のお登勢を捕へて新撰組の定宿と云ふ看板を出せと剛情を云つたもですが、お登勢も中々しツかりした女ですから承知しなかつたのです」

お龍の近藤の容貌観察は実際に残っている写真に近いですから、かなり正確ですね。また近藤が寺田屋お登勢に新選組の定宿にするよう迫ったというのもありえる話です。
新選組の任務のひとつに淀川水運の往来を監視する業務があります。これは淀川上流の伏見と下流の大坂八軒家で、人別改めをすることでした。もちろん、長州系の尊攘派を監視・捕縛するためです。寺田屋の立地から、新選組の定宿にしたいというのはありえる話です。

また同連載で、お龍は伏見にいた夏の時分に、龍馬と2人で散歩がてら涼みに出かけたら、新選組の隊士5、6人がわざとぶつかってきたとあります。すると、龍馬はいざこざを避けたのか、お龍を置いてどこかに隠れたそうです。あとから出てきたので、お龍が「私を置き去りにしてひどい」と怒ると、龍馬が「彼奴等(きゃつら)に引掛るとどうせ刀を抜かねば済まぬから、それが面倒で陰れた(かくれた)のだ」と答えたそうです。
30年後のお龍の回想とはいえ、新選組との因縁は実際にあった可能性は高いですね。

この連載にはいつのことか書かれていませんが、龍馬とお龍が知り合ってから、夏の時分に一緒に伏見にいるのは、元治元年(1864)か翌慶長元年、つまりドラマ進行時点しかありません。だから、ドラマの場面もまったくの作り事というわけではなさそうです。

念のため書いておきますと、すでに龍馬とお龍は結婚しています。ですから、もはや千葉佐那の名前が出てくるはずがないのですが。このどっちつかずの関係をずっと霧島の新婚旅行まで引っぱるつもりでしょうか?

なお、龍馬と慎太が連れ立って上京し、薩摩藩邸に西郷を訪ねたのは事実です。このときは海路でしたが、途中、風雨のために備前に上陸し、あとは陸路だったようです。
でも、脱藩浪士の2人が新選組はじめ幕府方の監視網のなか、そう簡単に上京できるとは思えません。おそらく大坂の薩摩藩蔵屋敷で、船印をもらうなど便宜をはかってもらったに違いありません。

龍馬が薩摩藩士のふりをして、「西郷伊三郎」という変名を名乗っていましたが、これは事実です。
ドラマの進行時点から少しあとの9月9日、龍馬が乙女とおやべ(春猪)に宛てた書簡に、これから手紙や品物を送るときは寺田屋気付で「薩州様西郷伊三郎」と書くようにと指示しています。
ですから、ドラマ進行時点で、そう名乗っていたとしても不自然ではありません。
つらつら考えるに、この変名に龍馬と西郷の親近性がよく表れていますね。2人は志と友情で結ばれていたとみて間違いありません。もっといえば、龍馬のその頃の帰属意識も示しているでしょう。変名を採用しつつ、西郷との関係をそのように描かないのはバランスを欠いており、合点がいきませんね。

龍馬が寺田屋で風呂に入り、お龍が風呂を炊いていたときの会話。
お龍が龍馬にどこに行っていたのかと尋ねると、長崎、太宰府、下関と答えていました。
やっぱりなあと思います。

鹿児島と熊本がスッポリ抜け落ちています。
熊本では横井小楠に会っています。
これほど鹿児島行きをあえて無視するのは意図的以外の何ものでもありませんね。

次回は長崎での軍艦・武器購入の周旋一件でしょうか。
近藤長次郎の働きを無視してほしくないですが……。

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【2010/08/08 22:25】 | 龍馬伝
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第31回「西郷はまだか

ドラマ進行時点は慶応元年(1865)閏5月頃か。

ようやく本日再放送を観ました。
時系列が混乱しているのと、龍馬の居所がフィクションばかりなので、肝心の薩長和解の流れが寸断されて、よくわからないようになってますね。

その最大の要因は、龍馬やその仲間たちの鹿児島行きをスルーしてしまったことです。
それはかなり意図的な操作と思われ、薩摩藩が長州との和解に前年の元治元年暮れあたりからすでに乗り出したこと、つまり、龍馬の登場とは別のところで、すでに薩長和解が動き出していたことを意識的に無視し、薩長和解における龍馬の主導権を強調し、薩摩藩の迷いや逡巡を際立たせることにあるのでしょう。

龍馬は同年5月に鹿児島に行き、西郷の世話になっています。その後、薩摩を出国した龍馬が横井小楠、太宰府の三条実美ら、長州の桂小五郎に会ったのは単なる偶然ではなく、薩摩藩の意向を受けての行動だと推測するのが合理的です。
でも、史実どおりに描くと、龍馬の主導権を表現できなくなるので、鹿児島行きを無視するしかなかったということでしょう。だから、龍馬は長崎から太宰府に行くという変なことになっています。陸奥陽之助も同行していないと思います。

西郷はすでに前年の元治元年(1864)12月、豊前小倉で、中岡慎太とも会い、さらに筑前藩の月形洗蔵や早川養敬らの勧めで馬関海峡を渡り、下関で長州藩の諸隊長と会見しています。すでに薩長和解のレールは敷かれていたのです。
龍馬の役割はそれを促進したことであり、主導したわけではありません。

また、中岡慎太はバリバリの尊攘派浪士で、八・一八政変ののち、都落ちした七卿の警固にあたり、禁門の変では戦って足に負傷し、その後も太宰府に移った五卿の警固にあたるかたわら、長州諸隊のひとつ、南園隊総督になっています。そして京都をはじめ各所に情報収集と国事周旋のために出かけています。
先ほど述べたように、中岡はすでに小倉で西郷と会っています。このとき、中岡は筑前藩の早川養敬の従者に扮し、あわよくば西郷を斬るつもりだったようですが、西郷に説得されてしまいました。
それをきっかけに、中岡は仇敵だったはずの薩摩藩に急速に接近し、上京して薩摩藩邸に入り、西郷だけでなく、大久保一蔵、小松帯刀、吉井幸輔らと交流しているほどです。まさしく龍馬の軌跡と立場こそ違え、好一対といってよいです。

龍馬も中岡も薩長両藩に人脈があり、その和解に奔走するだけの理由と役割があったといえます。
なお、ドラマでは両者が太宰府の五卿の宿舎で再会したことになっていましたが、これはフィクションです。
龍馬が三条らを訪ねたのは5月24日。
その頃、中岡は上京して薩摩藩邸におり、24日当日は伏見にいます。両者が太宰府で会うはずがないのです。

そして、西郷が桂との会見をキャンセルしてしまったとされる一件ですが、ドラマでは急用があるから下関に寄らずに上京するという通説に疑問を感じていたのか、西郷たちが乗り込んでいた薩摩藩船に幕府の間諜が忍び込んでいたという設定になっていました。残念ながら、そんな話は聞いたことがありません。

このとき、西郷らの船は長崎に向かう西回りではなく、日向沿岸を行く東回りをとっています。これは大坂方面に行く目的のほうが強いですし、中岡が下船したのは国東半島よりずっと南の佐賀関です。近年、西郷キャンセル事件の通説に疑問が出されていますが、果たして、西郷と桂の会見はどれくらい現実性があったのか、中岡が薩摩側から確たる言質をとったのかどうか、なかなか確定的なことはいえないうようです。

西郷が下関に寄る予定はあったのかどうか。どうもそういう情勢ではなかったのではないかと、私には思われます。
というのは、西郷に先立ち、すでに大久保が上京していましたが、長州再征がにわかに現実性を帯び、しかも将軍家茂も近いうちに上京してくるのが確実でした。
薩摩藩は第一次長州征伐で、西郷が戦争をせずに長州の謝罪を引き出した既成事実があります。ですから、長州再征は無理で大義名分がないという立場から、薩摩藩は出兵を拒絶する態度を表明しようとしていました。これは幕府との対決を鮮明にすることで、薩摩藩が反幕の立場に大きく踏み込むことを意味します。だからこそ、京都の大久保たちは一刻も早い西郷の上京を望んでいたと思われます。

この流れからいえば、そもそも下関寄港は日程に組み込まれていなかったか、仮に桂との会見が予定されていたのをキャンセルしたとしても、その代わりに西郷が長州再征反対論を京都で主張することは、間接的には長州藩の利益につながります。
桂ならば、そういた大局観が理解できないはずがありません。西郷はどちらにしろ、長州を裏切っていないし、その意図もないのです。

余談ながら、武市半平太が切腹したのは閏5月11日で、龍馬と中岡が薩長和解に奔走しているときです。龍馬はすでに下関で桂と会見したあと、中岡は鹿児島で西郷を説得中のときです。ドラマでは両者が太宰府で会ったとき、武市の遺志を継ぐみたいなセリフを述べていましたが、実際はまだ武市は生きていますぞ。
ドラマ構成上、致し方ないのでしょうが、時系列の混乱はかくのごとしです。

龍馬の仕事でもっとも大事な所を描いているはずですが、史実からあまりにも乖離しすぎていて、どうも観たいという気が起きませぬ。したがって、この感想もいつまで続くか……。

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【2010/08/07 21:19】 | 龍馬伝
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感想うんぬん
市川
桐野先生、こんばんは。

先生の史実的な解釈を読めば読むほど、大河ドラマの龍馬像がもはや単なる龍馬大好きファンのためのものに成り下がっている感じがします。私の郷土は鹿児島なのですが、幕末ではとことん薩摩藩は悪者扱い、いかに敗者に優しい日本文化といえども、もう少し国を作った人達に敬意を表して欲しいものです。

9月に榎木孝明さん主演で映画「半次郎」をやるらしいので、それを見てあの時代の余韻に浸ろうと思います。



意図的ですね
桐野
市川さん、こんにちは。

たしかに薩摩が損な役回りですね。対照的に長州はよく描かれています。

以前、脚本家は山口県出身だと教えてもらいました。勘繰りたくはないですけどね。

贔屓したり、肩入れしたり、疎外したりというのではなく、史実に敬意を払った(全面的に史実に基づくべきという意味ではありません)ドラマが観たいだけなんですけどね。

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高知・北川村にある中岡慎太館の豊田満広さんから、2点ご案内をいただきました。

1.土佐勤王党盟主 武市半平太の手紙 ―拝啓 おとみ殿―

大河ドラマでも描かれた武市半平太の活躍と最期、そして妻おとみとのひそやかな交流をテーマにしたもののようです。
高知県立歴史民俗資料館との合同企画で、4月からは同館、7月10日から9月12日まで中岡慎太館で開催されるようです。
詳しくは、ここをご覧下さい。


2.中岡慎太肖像写真・ガラス原版展

つい最近再発見された、笑顔の中岡慎太が写った有名な写真原版。
そして、写真の左側が塗布されて潰されていることでも有名です。芸者さんが写っているとか。
このガラス原版を緊急に展示するようです。

日程は、8月8日(日)~10日(火)までのわすか3日間です。

短すぎる開催期間ですが、四国にお住まいの方やその間に高知に観光に行かれる方は注目です。高知市内だけでなく、少し足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。詳しくは、下記にお問い合せ下さい。

中岡慎太館
 〒781-6449 高知県安芸郡北川村柏木140
 電話:0887-38-8600 fax:0887-38-8601
 MAIL:nskanzo@nakaokashintarokan.net


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【2010/08/06 16:45】 | イベント
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中岡慎太が写ったこのガラス湿板写真について
森重和雄
こんにちは!
中岡慎太が写ったこのガラス湿板写真(アンブロタイプ)は「最近発見された」ではなくて、「最近再発見された」です。
最初に発見されたのは京都の故・宇高随生先生です。

訂正しました
桐野
森重和雄さん、こんばんは。

ご指摘多謝。
さっそく訂正しておきました。

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と題した大阪龍馬会主催の「龍馬大学校 夏期特別講座」第2弾。

1日(日)午後から開かれ、無事終えることができました。
もっとも、私はてっきり2時間(質問タイム含めて)だと思い込んでいて、実際は2時間を10分ほどオーバーして終わったため、時間超過で申しわけなかったと思ったのですが、じつは3時間枠だったという……。
たしかに依頼書を確認してみると、そうなっていました(汗)。

それで、改めて受講者のみなさんの質問に答える形で、テーマから外れた小松帯刀の京都邸「御花畑」の所在地や、「討幕」の定義はどうなのかといった話をして、何とか所定の時間をクリアすることができました。

こんなことなら、もう少しレジュメを充実すればよかったと後悔しきり。
それでも、A4で6枚あったのですが、あまり多いとよくないと思って、だいぶ削ったんですよね。もったいなかったか?

話の趣旨は、近江屋事件の真相について薩摩黒幕説が目立つが、根拠薄弱でとても成立しないことはすでに自明であること。それでは、慶応3年(1867)10月の大政奉還以降の政局の特質がどこにあるのか、それは幕府制度(朝廷の関白-両役制も含む)を廃止するのか否か、すなわち「廃幕」か「保幕」こそが分水嶺であり、従来の武力討幕派と公議政体派の対立を過度に強調した言説が史実にそぐわないことを、いくつかの史料を挙げて検証しました。

とくに朝廷に対する政権返上の上表や徳川慶喜の参内を、会桑が実力で阻止しようとした史実を確認しました。すなわち、大政奉還に一番反対していたのは、薩摩藩ではなく、会桑と幕臣強硬派などであり、大政奉還以後の政局が先ほど述べた武力討幕派と公議政体派の対立どころか、親藩-譜代勢力が「廃幕」と「保幕」をめぐって分裂・対立している状況を確認しました。これこそが当該政局の特質ではないかとお話ししました。

そして、こうした政局の特質を浮き彫りにすれば、近江屋事件の政治的背景がかなりクリアになることも付け加えました。

ほかにもまだたくさん話した気がしますが、きりがないのでこの辺で。
その後の懇親会も結局、講座の続きのようで、質問攻めに遭いました(笑)。
同会のみなさんの熱心さには脱帽です。

またすでにこのエントリーをアップする前に、受講された方から感想やコメントをいただき、有難うございます。もう少し早く書けばよかったです。非常に濃い時間を共有できて、主催者と受講者のみなさんに感謝です。

懇親会が終わって、用意していただいたホテルに帰ったのが11時前で、「龍馬伝」の最後の5分間ほどをBSで観ましたが、それだけでは感想の書きようがありませんので、土曜日の再放送を観てから書きたいと思います。
どうやら、西郷が長州行きをキャンセルしたという場面をやっていたようですね。のたうちまわる中岡慎太も実見しました。

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【2010/08/04 23:21】 | イベント
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ありがとうございました
大阪龍馬会
とても楽しい時間と充実した内容で、本当にありがとうございました。
久々に目からうろこの感動した講演会でした。

来ていただいて本当によかったです。

それにしても先生の知識の豊富さとすぐに出てくる人物名。すごいですね。

参加者の皆さんからも、声がいい、話し方がいい、内容が素晴らしいなど称賛の声を多数聴いております。

ぜひ、また大阪に来ていただきたいと思います。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第159回
―宇都谷の桐野利秋に寄寓―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は清水の次郎長の伝記『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵です。
あまり知られていない人物かもしれませんが、彼は戊辰戦争(自藩の磐城平城落城)を機に、人生が変わってしまったように見えます。父母妹捜しが人生の目的になってしまったような。

面白いのは彼の人脈です。
じつに多彩な人々が愚庵の面倒を見ていますね。桐野利秋もそうですが、ほかにも、落合直亮、権田直助、山岡鉄舟、増田宋太郎、陸羯南、正岡子規などなど。そして、清水の次郎長の養子にまでなっているから驚きです。
次郎長は愚庵に問われるままに、大政、小政や森の石松などの子分のことや黒駒の勝蔵のこと、荒神山の血闘などを語ってくれたのを聞き書きしてまとめたのが『東海遊侠伝』というわけです。

愚庵は父が行方不明になったせいか、ファザコンの気がありそうで、年輩者を慕い、なついている感じがします。
それと同時に、旧攘夷派といいましょうか、アジア膨張主義的な思想の持ち主ですね。この当時の不平士族はたいていそうですが。台湾出兵にまで志願しています。
じつをいうと、愚庵が大久保利通を暗殺しようとしていたという資料も見たような記憶があるのですが、なぜか執筆のときは確認できませんでした。大久保は北京会談で知られるように、対中戦争を懸命に回避しようと努力していますが、そのことに対中強硬論者の士族たちが反発し、大久保襲撃を計画した者が少なからずいたようです。

次回は何を書くか思案中です。
伊牟田尚平にしようかと思っているのですが、数回の連載になりそうなので、短期間で準備ができるかどうか。

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【2010/08/03 10:43】 | さつま人国誌
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楽しみました
ぽん助
初めて書き込みします。
先日の大阪龍馬会の講演後にサインをねだりに行った者(半次郎ファン)です。
あっという間の3時間で楽しく拝聴させて頂ました。内容も興味深い話ばかりでした。
2次会には都合により参加できなかったのが残念ですが、次の機会にぜひぜひ参加したい思っております。
また関西での講演を楽しみにしております。


御礼
桐野
ぽん助さん、こんばんは。

覚えております。
講座を受講していただき、有難うございました。3時間という長丁場でしたが、退屈されずに聴いていただいたとのこと、うれしいかぎりです。
今後ともよろしくお願いします。


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