歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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今週発売の10月9日号。

西郷隆盛をどう評価すべきか」という特集記事があり、少しコメントしています。
近江屋事件についてです。

私のコメントの前に薩摩黒幕説が述べられていますが、見廻組の佐々木只三郎が高崎正風と関係があったということらしいです。
それをいうなら、会津藩公用方の実力者である手代木直右衛門は佐々木の実兄ですけどね。
見廻組と幕府・会津藩の太いパイプとくらべれば、あまりにもか細いですし、第一、高崎は慶応3年10月前後、土佐の後藤象二郎と懇意にしており、後藤と示し合わせて小松帯刀を責め立てているほどです。
つまり、高崎は後藤と歩調を合わせた大政奉還派です。その縁から龍馬を暗殺したというのはどう考えてもおかしいのでは?
だって、同じ考えだとされる同志の殺害を慫慂するわけですから。

とまあ、そんな特集記事です。
興味のある方はご覧下さい。

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【2010/09/30 02:38】 | 幕末維新
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びわこ
桐野さん、こんにちは。

偶然、主人が買ってきていましたので、読ませていただきました。

御礼
桐野
びわこさん

わざわざ読んでいただき、有難うございます。
ご覧の通りのお粗末コメントでした。
ほかにもいろいろ話したのですが、冗長だったのと、西郷に批判的なこともしゃべったのでカットされたんでしょうね。



エノカマ
8月に大阪で講演を聞かせていただいた者です!
その節は実証的な史料で説明いただいて、とてもわかりやすいものでした。
ありがとうございました!

今年、龍馬伝でこの週刊誌でも月一ぐらい「歴史ネタ」をしていて
この方は毎回、薩長の悪口を言う立ち位置ですけど
けっして公平な目線でなく「言いがかり」に近いように思う時もあります 。。。

この雑誌の読者層からして、信用してしまう人も多いと思うんで
桐野先生がもっと発信できて、ご活躍されるよう
願っております!

頑張ります
桐野
エノカマさん

コメント有難うございます。
大阪ではお世話になりました。

龍馬の有名税なのでしょうが、珍妙な説が横行しているのには困ったものです。

私も発信力を強化しないと思っているところでした。



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南日本新聞連載「さつま人国誌」第165回
―江戸かく乱工作の首謀者―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回も伊牟田尚平シリーズです。
いよいよ慶応3年(1867)後半の江戸攪乱工作に入ります。
伊牟田の生涯でも絶頂期、幕末維新期でも大きな意味をもつ足跡です。

流罪から赦免された伊牟田ですが、それから2年ほどの間、何をしていたのかよくわからない空白期です。
おそらく上京していたと思うのですが、ほとんど史料に現れません。

その消息がはっきりわかるのが慶応3年秋からです。
伊牟田が益満休之助とともに、密命を帯びて江戸に下るいきさつも少し書きました。
桐野利秋『京在日記』が典拠です。
伊牟田と益満に密命を下したのは、在京薩摩藩重役であるのは間違いないところで、西郷だとしてもさほど間違いではないと思います。

10月10日頃、江戸の芝上屋敷に、相楽総三・落合直亮・科野東一郎・権田直助などの浪士の首魁が集まり、江戸攪乱工作が練られます。
もっとも、実行に移されるのは、11月下旬の出流山挙兵からです。

次回は江戸での攪乱工作、なかでも、伊牟田の江戸城二の丸放火についてです。

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【2010/09/28 10:14】 | さつま人国誌
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「馬関の奇跡」

ドラマ進行時点:慶応2年(1866)6月~7月

いよいよ四境戦争が始まり、馬関海戦や長州軍の小倉上陸などが派手に展開されました。
不戦平和主義だったはずの龍馬がなぜか非常にやる気だったですね。

実際、龍馬が兄権平などに宛てた手紙(12月4日付)には、

「拠んどころなく長州軍鑑(軍艦)を引て戦争せしに是は何の心配もなく、誠に面白き事にてありし。一、惣じて咄し(はなし)と実(まこと)は相違すれ共、軍(いくさ)は別して然り」

史実の龍馬は、この戦争を「誠に面白き事」だと述べています。ドラマとはえらい違いです。
引用冒頭に「拠んどころなく」(しかたなく)とありますが、まさかこの一節から、不戦平和主義だったけど、しかたなく戦争したと解釈したわけではないでしょうね?
これは長州藩に蒸気船が不足していたから、ユニオン号(乙丑丸)が協力したという意味ですから。

戦争が終わったあと、龍馬が木戸と高杉とで三者会談をしている場面がありました。
木戸が幕府を倒すには武力しかないと言ったのに対して、龍馬がもう戦争はここまでにしようと、またまた「不戦平和主義」を発揮します。いやはやですね。
その後、史実の龍馬は大政奉還の直前、小銃1000挺を買って土佐藩の討幕派(板垣退助など)に引き渡していますよ。
この史実とどう折り合いをつけるんでしょうね? この一件は龍馬の主義主張を端的に示していますが、ドラマの「不戦平和主義」というコンセプトと矛盾して都合が悪いから、きっと無視するんでしょう。

また龍馬が「大政委任論」(幕府が朝廷から政権を委任されているという考え方)に基づく政権返上を主張すると、木戸が龍馬に「大政奉還」だと教えてくれたばかりか、筆で書いてくれましたね(笑)。これは龍馬にというより、むしろ視聴者に対して、今後、重要なキーワードですよと示唆してくれたのでしょう。ご丁寧なことです。

でも、龍馬は初めて聞いたような様子でしたが、知らないはずがないでしょう。龍馬は大久保一翁、横井小楠、勝海舟といった当代随一の開明思想家の薫陶を受けているのですよ。
大政奉還論をほとんど最初に唱えたのは幕臣の大久保一翁で、文久2年(1862)10月のこと。四境戦争から4年近く前のこと。
一翁は松平春嶽と横井小楠に大政奉還論を次のように述べています(『続再夢紀事一』文久2年10月20日条)

「万一京都(朝廷のこと)に於いてお聞き納れなく矢張り攘夷を断行すべき旨仰せ出されなば、断然政権を朝廷に奉還せられ、徳川家は神祖(家康)の旧領駿・遠・参の三州を請い受けて一諸侯の列に降らるべし」

一翁から直接薫陶を受けた龍馬が「大政奉還」という言葉を知らないはずがないです。この言葉を知らなかったら、「大政委任論」も知らないはずです。「委任」と「奉還」は対偶のセットなのですから。

せっかく一緒に戦ったのに、龍馬と木戸は意見が対立する形になりました。高杉は龍馬の意見に理解を示していましたが、あと半年ほどすれば他界する人です。これで長州に龍馬の理解者はいなくなるという設定でしょうか。
脚本家の出身県である長州さえそうなのですから、今後、薩摩に対しても推して知るべしですね。ましてや、ミッチー大久保が登場するのですから。西郷は人がよいというイメージがあるので、どうも大久保が迷う西郷を押し切って……というプロットがありえそうですね。

聞くところによると、制作側では近江屋事件はオーソドックスに見廻組の仕業として描くそうですが、予想どおり黒幕を出すそうですよ。

世論の反発を受けにくい候補は大久保と後藤ですかね? 私は前者だと予想しております。
見廻組に命令を出せるのは誰か考えれば、すぐ結論はわかることだと思いますが、世間には珍妙な意見があふれていますからね。


あと、岩崎弥太郎が長崎に行って、大威張りでしたね。
しかし、時期が違います。
弥太郎が長崎に行くのは翌慶応3年3月です。
ですから、ドラマは9カ月も早いです。

また弥太郎に長崎行きを直接命じたのは後藤象二郎ではなく、福岡藤次(のち孝弟、当時仕置役)です。まあ、後藤の内意だったかもしれませんが。
また、長崎行きも福岡と同行しています。福岡は龍馬と中岡慎太の脱藩赦免と陸海援隊結成のために赴いたわけです。

昨年の大河ドラマが「義」「義」と唱えて興ざめでしたが、今年は「不戦」「不戦」ですね。

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【2010/09/27 00:32】 | 龍馬伝
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戦後的価値観の押し売り
御座候
いいかげん龍馬を反戦平和主義者に仕立て上げるのはやめてほしいです。



>龍馬は大久保一翁、横井小楠、勝海舟といった当代随一の開明思想家の薫陶を受けているのですよ。


世間では「人々の常識を超えた気宇壮大な構想を持った天才」というイメージが流布しているように感じられますが、龍馬の政治構想は独創というよりも学習の要素が強いように思われます。

龍馬の本領はむしろ周旋能力にあったんじゃないですかね?

同感です
桐野
御座候さん

義憤ごもっともです。
私もまったく同感です。
ブログでも現代的価値観を幕末に投影することの無意味、弊害を縷々述べてきました。

龍馬の政治構想も仰せのとおりで、先達からの「学習」によるものだと思います。もっとも、その咀嚼力と応用力は侮れないかもしれません。

近年は「船中八策」の実在が疑われていますし、ましてや、八策が大政奉還建白に影響を与えたというのも疑問視されていますね。
龍馬「全能」論には鼻白んでしまいます。

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鹿児島のなかでも、さらにローカルな話題ですが、
私の郷里である鹿児島県出水市で講演をやることになりました。
鹿児島の方々、とくに北薩方面の方々のご参加をお待ちしております。
会の要領は以下の通りです。

日時:10月23日(土)14:00~
会場:出水市音楽ホール(400人収容)
    出水市文化町23
演題:坂本龍馬と薩摩・出水
入場料:無料
主催:出水市教育委員会(主管:出水市歴史民俗資料館、出水市立図書館)

お問い合わせ・お申込は下記のとおりです。

 出水市立図書館:0996-63-2105
 出水市歴史民俗資料館:0996-63-0256
 MAIL:tosho_c@city.izumi.kagoshima.jp


坂本龍馬は慶応元年(1865)に鹿児島から熊本・太宰府・長州に向かう途中、出水に一泊しています。
龍馬が残した手帳にそのことが少し詳しく書かれています。
出水は肥薩国境の要所であり、関所が置かれていました。ですから、龍馬は出国の手続きをする必要がありました。そのいきさつが手帳に書かれています。
そのあたりのお話を中心にしたいと思います。

郷里での講演というのはまた、いつもと違った感覚になりますね。
何とか頑張りたいと思います。

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【2010/09/24 23:20】 | イベント
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ながお
桐野様

それは楽しみです。早速、実家や親戚などに知らせたいと思います。


164go
とても興味深い講演となりそうですね。
ものすごく行きたいです。
できれば、両親も連れて…。
仕事との折り合い次第です。

よろしく
桐野
ながおさん、164goさん

ご参加できるようなら、ご検討下さい。
ご親類、ご友人にも知らせて下さいませ。

書き忘れましたが、入場料は無料です。


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以前、一度お知らせしましたが、期日も近づいてきたので再掲です。

本日、主催者の方とお会いして打ち合わせをしてきました。

来る10月3日(日)14:00から、東京神田駿河台の明治大学リバティタワー1Fにて表題の講演会をやります。
日曜日午後からなので、比較的参加しやすいのではないかと思います。入場料が少しかかりますが、関東方面で興味のある方はいかがでしょうか。

詳しい内容については、下の案内チラシをクリックしてご覧下さい。またここは主催者のブログで、こちらにも案内があります。
紫紺倶楽部


すでに受講予定者から数件のご意見が寄せられているようで、当日はそれらのシナリオ案について触れながら、小生の愚論も合わせて披露したいと思っております。
日頃、西軍がなぜ勝てなかったのか疑問に思っている方もおいでだと思います。当日、質疑応答の時間もかなりあるようですので、遠慮なく小生にぶつけて下さいませ。できうるかぎりお答えします。

また関ヶ原町歴史民俗資料館からも資料を提供していただき、当日の入場者のみなさまに配布する予定だそうです。
大きな会場のようですから、まだ十分間に合います。
お問い合せやお申込みは上の添付したチラシをご覧になって下さい。

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【2010/09/22 17:56】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第164回
―「大蔵谷回駕」で流罪に―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

伊牟田尚平シリーズの第4回です。
今回は伊牟田が流罪になるきっかけとなった事件である「大蔵谷回駕」を取り上げました。
といっても、あまりご存じない向きもあるかと思います。大蔵谷は現在の兵庫県明石市にあり、山陽道の宿場町でした。事件のことは連載記事を読んでいただけたらと思います。

それにしても、伊牟田をはじめとした薩摩藩や諸藩の尊攘派と、久光周辺はものの見事に思惑がすれ違っているのですが、それを知ってか知らずか、あるいは久光側を尊攘派側に巻き込もうとしたのか、伊牟田たちは懸命な工作をします。

それが伊牟田と平野国臣の暴走となってあらわれたのが「大蔵谷回駕」です。
井伊大老と同じ目に遭っていいのかという脅し文句もすごいですが、一脱藩浪士の一言に動揺して参勤交代の行列を返す黒田家もまた軟弱ですなあ……。

この一件が黒田家から久光に伝えられて、伊牟田は流罪になります。
流謫先については2説あり、トカラ列島の悪石島と大隅諸島のうちで屋久島の北方にある硫黄島(鬼界ヶ島)です。
伊牟田はのちに種子島に流謫先が変更になるのですが、「種子島家譜」80には「七島」から移されてきたとあります。「七島」はトカラ列島のことだと思われますので、悪石島を採用しました。

この流罪は伊牟田に2年半ほどの活動の空白をもたらしましたが、一面幸運だったかもしれません。
流罪にならなければ、寺田屋事件に巻き込まれていた可能性が高いです。そうなったら、落命したかもしれません。

次回はいよいよ江戸での攪乱工作あたりになりそうです。

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【2010/09/21 10:10】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様 こんばんわ

大藩の殿様を欺くなんて、こんな大それたことをしてよく命があったなと思うのですが、流罪は軽かった方ですか。

地元?!
ばんない
ご無沙汰しております
桐野さんの話では珍しく兵庫県関連の地名が出てきたのでしゃしゃり出てきました。

大蔵谷は何回か車で通ったことがあり、「西国街道の面影なんてみじんもなかったような」と思ったら、あるところにはあるみたいです。
http://matinami.o.oo7.jp/kinki2/akasiookura.htm
また、大蔵谷は幕末の一瞬のみ機能していた「徳川道」の西側の起点だったようですが、東側の起点が、ちょうど我が家の近く?にあります。とんでもない坂道ですが…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E8%A1%97%E9%81%93#.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E9.81.93

言路洞開
桐野
ながおさん

一介の脱藩浪士が藩主に会える、あるいは大藩に影響力を行使するというのは、考えてみれば大変なことですよね。

でも、この時代、一介の浪士が藩主と面会したことはよくあります。

たとえば、坂本龍馬も松平春嶽に会っています。
松平容保も藤本鉄石ら攘夷派の浪士を引見しています。
薩摩藩でも、久光ではないですが、小松帯刀や大久保正助らは伊牟田に会っています。

なぜ大藩の藩主が一介の浪士に会うかといえば、ひとつは脱藩浪士や草莽浪士(非武士身分)たちの力が侮れなくなっていたこと。

もうひとつは当時の思潮として、大藩の藩主が自分たちの度量の大きさを示す尺度として、「言路洞開」(げんろとうかい)、つまり身分を問わない一定の言論の自由と透明性を掲げていたからです。いわば、来る者拒まぬという態度を示せば、藩主個人とその藩の評判もよくなるということを計算してのことでしょう。

もっとも、伊牟田と平野の場合は明らかに身分詐称したうえに脅迫していますから、罪に問われるのは当然だと思います。
下手をすれば、処刑されてもおかしくなかったはずです。それをしなかったのは、攘夷派浪士集団からの報復を恐れていたからでしょう。




地元!!
桐野
ばんないさん

そうでした。ばんないさんの地元でしたね。

私も大蔵谷は名前だけは知っていたのですが、じつは行ったことがありません。
ここはおそらく、西郷が2回目に島流しになるとき、大久保が西郷に刺し違えようと迫ったことと関連がある場所ではなかったかと。

古い町並みも残っているようですから、一度は行ってみたいものです。


ながお
桐野様

ありがとうございました。浪士の力を過小評価していたようです。勉強になりました。

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第38回「霧島の誓い」

ドラマ進行時点:慶応2年(1866)3月~6月

いよいよ高千穂登山の場面でした。
注目すべきは、吉井幸輔の長男幸蔵(一袈裟)が道案内として登場していたことです。
先日、鹿児島宝山ホールの講演で、一袈裟君が登場するかどうか注目ですと話したが、的中したことになる。

幸蔵こと一袈裟君が注目を浴びるようになったのはほんの最近のこと。
龍馬と公私にわたる友人だった薩摩藩士・吉井幸輔(のち友実)の孫で歌人として有名な吉井勇が昭和はじめの大衆誌「キング」に、父幸蔵から聞いた話を回想して掲載した記事が見つかりました。
*吉井勇については、高知県香美市に吉井勇記念館があります。ここです。


そのなかで、一袈裟は小松帯刀の別邸(鹿児島市原良町)で吉井に連れられて、龍馬とお龍に引き合わされている。龍馬は一袈裟の頭を撫でながら、「親父より出来がいい」と冗談を言ったそうな。
一袈裟は龍馬を「がっしりとした体付きの、眼の鋭い、三十一、二の男」、お龍を「悧巧そうな二十四、五の女」と観察しています。

その後、一袈裟は2人とともに、塩浸温泉(一袈裟は日当山温泉と勘違い)に行き、龍馬のピストルでの狩猟に付き合わされている。要は射止めた鳥を取りに行く係。
また、龍馬とお龍が険悪な状態で、お龍に向かって「もういいよ。お龍さん、仲直りしよう」と言って涙目になったことも目撃しています。

ドラマではそんなシーンはなかったが、その代わりに高千穂登山に同行する役になっていました。
しかし、一袈裟の話にはそのことは書いてない。
また、お龍の回顧談「汗血千里駒後日譚」には、高千穂登山は田中吉兵衛なる人物と同行したと書いてあり、一袈裟は出てきません。やはり、一袈裟(当時12歳)の足では登山は難しかったのではないでしょうか。

お龍の同じ回想では、高千穂に登りたいと最初に言い出したのはお龍のほうで、龍馬が「言い出したら聞かぬ奴だから連れて行ってやろう」ということで、龍馬のほうが付き合わされた形です。
お龍はこのとき、弁当代わりに小松帯刀からカステラをもらったと書いていますが、残念ながらそのシーンはなかったです。

霧島の龍馬関連の史跡を載せておきます。
霧島銅像
塩浸温泉にある龍馬とお龍の銅像
犬飼の滝
龍馬が乙女宛ての手紙で「蔭見の滝」と書いた犬飼の滝

霧島から鹿児島に戻ったのが4月12日。霧島に湯治に行ったのが3月16日からですから、1カ月近く療養していたことになります。
14日には、鹿児島城下の「改正所」を見学したと、龍馬の「手帳摘要」に書かれています。
これは薩摩藩営の洋学校「開成所」のことでしょう。
前から気になっていたことですが、龍馬の仲間の沢村惣之丞はドラマではずっと長崎にいますが、事実ではありません。
沢村は航海術とともに蘭学を習得していたため、薩摩藩にスカウトされて、慶応元年8月頃から開成所で蘭学を教える教授になっています。沢村のことは大久保利通の手紙(英国留学中の新納刑部と町田久成宛て)のなかで、「いたって面白く、数学に秀でている」と書いています。沢村は蘭学のほか、数学も得意だったようです。これは航海術の一環で、各種計測・計算に長じていたのでしょう。
ですから、龍馬は開成所で沢村に会った可能性が高いです。

また手帳摘要には、龍馬がまだ鹿児島にいる5月29日、「寺内氏」から金4両3分を借用しています。
この「寺内氏」は寺内新左衛門こと、海援隊士の新宮馬之助でしょう。
馬之助もこの時期、鹿児島にいました。
おそらく長州が買ったユニオン号で鹿児島に来たのでしょう。
手帳摘要に、木戸から手紙(龍馬宛てか)があったとあるのも、馬之助がユニオン号で運んできたと思われます。
龍馬が池内蔵太の死を知ったのも鹿児島で、馬之助からの情報でしょう。

手帳摘要によれば、木戸の手紙には「其時件(事件)」については「両国論を合わせて」云々と書いてあったということです。「其時件」とは幕府の第2次征長で、「両国」は薩長のことでしょう。つまり、幕府との戦いで薩長が歩調を合わせるという合意ができたということか。
そのあたりが少しドラマに反映していましたた。場所は小松屋敷です(本邸か別邸かは不明)。

もっとも、薩長が足並みを揃えたのに、龍馬が改革を平和的にやるつもりだったため、西郷や小松に異議を唱え、西郷から「それなら坂本さんは舞台から降りたほうがいい」と皮肉を言われる場面がありました。

まったくもって不自然な成り行きですね。
龍馬は薩長同盟の立会人です。
木戸から確認を求められたその6カ条のなかには、「いざとなれば、橋会桑(一会桑勢力)と決戦に及ぶべし」という1条があります。つまり、いざとなったら戦争も辞せずという条項です。
龍馬は裏書をしたくらいですから、6カ条を知らないはずがありません。
薩長が幕府と戦争するのは約束が違うという龍馬のほうがどう見てもおかしいでしょう。
ましてや、幕府軍はもう長州国境に迫っているのに、平和的も何もない、問答無用の状況だというのに、このドラマの珍妙なコンセプトが史実に反しているだけでなく、ドラマのストーリーの足も引っぱっています。

でも、龍馬は長州を支援する戦争はするという。矛盾してるよなあ。ほかの海援隊士の主張のほうがこのドラマ的には正論です。
この長州戦争への従軍だけは例外として処理するつもりなんでしょうか。でも、その「コンセプト」はもう十分破綻しているけれど、今後も最終回まで引っぱっていくんでしょうね。

次回はいよいよ四境戦争ですね。
大村益次郎は登場しないのでしょうが。

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【2010/09/19 22:44】 | 龍馬伝
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先日、大河ドラマ「龍馬伝」の新たなキャストが発表されました。
ここです。

ミッチーが大久保一蔵を演じるようですね。
しかし、これまでまったく無視されていたのに、ドラマ終盤になっての唐突な登場はどういうことでしょうか? 面妖ですね。
考えられるのは、近江屋事件シフトということでは?
大久保が西郷に耳打ちするという設定ではないかと疑ってしまいますね。

ほかには、紀州藩の勘定奉行役で中尾彬。
これはイロハ丸の一件でしょう。

あと、アーネスト・サトウも登場します。これはパックン。
イカロス号事件で海援隊士に嫌疑がかかり、サトウが長崎で龍馬に会ったと『一外交官の見た明治維新』に書いていますから、おそらくそのエピソードを描くのでしょうか?

う~ん。
ドラマでの「悪役」候補がまた増えました。
従来の後藤象二郎、西郷吉之助、新選組、見廻組に加えて、紀州藩そして大久保一蔵ですね。
さて近江屋事件で、どのように収斂させるんでしょうか?

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【2010/09/19 09:29】 | 龍馬伝
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友人の研究者、町田明広氏より表題の新刊をいただいた。
有難うございます。

詳しくは、ここをご覧下さい。

幕末維新史のわかりにくさは、まさしく「攘夷」思想にまつわるものだといっても過言ではありません。
とくに「尊王攘夷」V.S.「公武合体」というとらえ方は、次元の異なるものを対立させた俗説で、こうしたとらえ方こそ、幕末維新史をわかりにくくしている元凶だと、私も思っていました。
文久・元治年間まではほんの一部を除いて、討幕思想はありえません。長州系の過激な尊攘派でさえも「公武合体」を否定しているわけではないし、「開国派」に見える坂本龍馬も勝海舟も「攘夷」思想の持ち主です。

私が日頃不満に思っていた現状について、町田氏が幕末維新史の一面として「大攘夷V.S.小攘夷」という観点を提示したことは、まさに我が意を得たりという思いです。
とくに「開国派」だとされる坂本龍馬、勝海舟、岩瀬忠震らの思想をひもとき、彼らが「大攘夷」派であるという指摘はまさにその通りだと思います。
龍馬が蝦夷地や竹島(鬱陵島)に関心を示したのは、わが国の境界をめぐる問題だからであり、龍馬が国境防衛や国境拡張に関心をもっていたことを示し、またそうした境界地域に尊攘派を移住させようと考えていたのもまさしく「攘夷」そのものです。

町田氏はこうした「攘夷」思想の淵源を近世初期に成立した「日本的華夷秩序」に求めており、日本、その中核たる天皇が「中華」であり、四囲の「朝貢国」を従える思想だと位置づけています。

こうした概括に私もさほど異議がありませんが、いくつか考えたことは、

1.「尊王攘夷」V.S.「公武合体」という俗流的な構図を形成したのは、ほかでもない歴史研究者たちであり、それが教科書や概説書を通じて、一般の歴史ファンにも影響を与えたのは否めないはずです。新書という器の限界はあるでしょうが、やはりこうした先行研究(とくに戦後のそれ)への批判もあってよかったのではないかという気がします。

2.「大攘夷」の考え方が「日本的華夷秩序」に淵源があるというのはその通りだと思いますが、これは17世紀半ばの中国での「明清交替」(華夷変態)への対抗意識(満洲族の清国は中華ではない)によって形成されたと思います。町田氏はそれを「東夷の小帝国」だとうまく表現しています。もっとも、「東夷の小帝国」は緩やかな国際秩序であり、侵略的ではありません。
それがアジアへの侵略を通じた「東亜の大帝国」へと思想が拡大、飛躍する動因は何なのか、そのあたりもさらに突っ込んで触れてもらいたかったという気がします。内的には17世紀半ばとは段違いに異なる天皇権威の上昇でしょうか。外的には欧米列強のアジア侵略に対する危機感でしょうか。

それはともあれ、従来のありきたりでわかりにくい幕末維新史観から解放されたい人には好個の一冊といえます。ストンと合点がいく爽快感が味わえること請け合いです。

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【2010/09/17 22:58】 | 新刊
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ありがとうございました。
町田明広
桐野さん、こんにちは。いつもお世話になっております。
今回は拙著をご紹介いただき、誠にありがとうございます。まさに的を射たコメントをいただき、重ねて御礼申し上げます。多くの方に、実際に手に取っていただき、新しい幕末の歴史観を体感いただければと思います。

さて、ご指摘いただいた点につきまして、若干の言い訳(笑)を述べさせていただきます。
今回は徹底的な一般書としての分かりやすさを、企画段階から意識をしています。そのため、先行研究への言及といったアイテムはあえて割愛をした次第です。桐野さんのご指摘もある程度承知しての、エイヤーでありました。
また、「アジアへの侵略を通じた「東亜の大帝国」へと思想が拡大」への発展についてですが、幕末期は攘夷原理を縦軸としますと、本来は横軸に天皇原理があります。つまり、天皇をキーとした国体・政体論です。この攘夷原理・天皇原理が、マトリックスを構成していると考えます。そこまで言及しなければ、ご指摘の問題視角には回答できないと考えます。
しかし、今回は「徹底的な一般書としての分かりやすさ」をとにかく重視したため、攘夷のみで語り、天皇原理の存在は、あとがきですら触れていません。読者の混乱を回避した意図でしたが、いかがだったでしょうか。

できましたら、この点は続編『天皇の幕末史』で書き込みたいのですが、その前に、『攘夷の幕末史』が売れないと、もう書かせてもらえませんが(笑)
なお、宣伝になっていけませんが、来月上旬に岩田書院から出ます『幕末文久期の国家政略と薩摩藩 ―島津久光と皇政回復』においては、専門書で分かりにくいのですが、この点を説明しております。改めの謹呈いたします。

今後ともよろしくお願いいたします。 町田明広


楽しみにしています
桐野
町田明広さん

コメント有難うございます。

来月の単行本も楽しみですね。
じっくり読ませていただきます。



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昨14日夕方、神田神保町の小学館アカデミー「てらこや」に出講。

今回は体験講座でした。
前回までと異なり、「中岡慎太の日記を読む」というテーマになったせいでしょうか、新しい方々も数人お見えでした。
私の勘違いのために、告知が前シリーズ「坂本龍馬と丁卯日記」の続きになっていましたので、それをご覧になって受講されたのではなければよいのですが……。

中岡慎太の日記は2編ありますが、そのうちの「海西雑記」の冒頭を読みました。
時期は慶応元年(1865)1月~2月あたりで、主に大田・絵堂の戦いと、薩長和解の端緒となるあたりを読みました。

中岡の日記は比較的簡略なので、補強する史料が必要です。
中岡と行動を共にすることが多い土方久元の『回天実記』はどうやら必携で、くらべながら読むことになりそうです。今回はほかに『定本 奇兵隊日記』上、『久保松太郎日記』、『大久保利通日記』上、『西郷隆盛全集』一なども使いました。

このうち、本筋とは関係ない余談で印象深かったのが『久保松太郎日記』のとある記事です。
ある村で九右衛門という人物が「不行跡」を理由に川の土手で斬首されます。すると、処刑者たちが遺骸の腹を開け、肝を取り、煮て食べたそうです。さらに胴体を試し斬りにしたようですね。

思わずのけぞってしまいました。
なんと、薩摩の「ひえもん取り」とほとんど同じではありませんか。
もっとも、薩摩では胆(胆嚢)は食さないで、乾燥させて漢方の薬「熊の胆」(くまのい)にするようですが。「熊の胆」は消化器系の疾患に効くそうです。

こうした蛮行は会津戦争や西南戦争でも行われたらしいですね。

薩摩の「特殊習俗」かと思っていましたが、長州にも事例がありました。おそらくもっと他地域でもあったのではないかという気がします。

思わぬ記事を目にしてしまいました。これも史料冥利につきますね(汗)。

次回からは本講座で、10月12日開講です。
中岡慎太の日記をじっくり読んでいきたいと思います。
お問い合せ・お申込みなどは、ここをご覧下さい。
なお、私の講座名が「坂本龍馬と丁卯日記」となっているのは、上記の理由から間違いです。お気をつけ下さい。

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【2010/09/15 13:20】 | てらこや
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少しお知らせが遅くなりました。
13日(月)は新聞休刊日のため、連載「さつま人国誌」は休載でした。
来週月曜日は掲載です。
「草莽の闘士・伊牟田尚平」(4)です。
お楽しみに。

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【2010/09/15 00:33】 | さつま人国誌
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第37回「龍馬の妻」

ドラマ進行時点は、慶応2年(1866)1月末~3月初旬

まず、今回のタイトルですが、龍馬とお龍はとっくに縁組しています。
もっとも、龍馬が姉乙女に宛てて寺田屋事件を知らせた書簡(慶応2年12月4日付)に、

「京のやしきに引取て後は小松、西郷などにも申し、(お龍を)私妻と知らせ候」

とあります。ドラマはこの記述に拠っているのでしょう。
これは寺田屋事件直後に、龍馬がお龍を妻だと小松や西郷に知らせただけで、このとき縁組したとは限らないでしょう。

今回は寺田屋事件のあとの混乱を描いていました。
でも、伏見の薩摩藩邸と京都の薩摩藩邸の区別がはっきりしませんでした。
前回を見逃したのですが、すでに京都の藩邸に移っていたのでしょうか?
お龍の回想によれば、伏見から京都に移るとき、負傷した龍馬は駕籠で、お龍は男装して小銃をもって兵士に扮装したとのこと。このあたりは再現すれば面白かったはずですが、前回描かれたのでしょうかね?

薩長同盟の裏書を苦労して書いている場面がありました。
木戸貫治の同盟内容を書いた長文の手紙をもってきたのは、木戸に同道していた薩摩藩士の村田新八でしたが、村田の登場もなかったですね。

この裏書、薩長の交渉に立ち合った証人である龍馬の自筆だということになっています。
証人である以上、直筆だと私も思いたいのですが、龍馬の字にしては多少達筆すぎないかという素朴な疑問はあります。
龍馬がこの裏書を書いた翌日(2月6日)、木戸に手紙を書いていますが、その筆致とも違う気がします。とくに「龍」の字のくずし方が違いますね。もっとも裏書のほうが公文書に準じるものですから、楷書に近い字で丁寧に書いたともいえますし、わずか1日で傷が劇的に治るとは思えませんから、6日付の手紙が龍馬の真筆なら、裏書もそうだともいえそうです。

同書簡には寺田屋事件の顛末も書かれていて、負傷した手は「ピストールを持ちし手を切られ」とあります。ふつうなら、右手でピストルを持っていたと思われますが、もしそうなら、字が書けたのかどうか。
あるいは、右手に刀、左手にピストルだったのでしょうか?
一方、兄権平に宛てた手紙には「左右の指に手を負ひ」とあり、左右の指を負傷してます。これならなおさら、字を書くのは難しそうですが、事件から2週間ほど経過していますから、字が書ける程度には回復していたと見てよいのでしょうね。

だいぶ回復した龍馬はお龍を連れて鹿児島に行きますが、途中、長崎に立ち寄りました。
これは史実どおりですね。
このときは薩摩藩蒸気船の三邦丸に乗船しています。西郷吉之助や小松帯刀も一緒でした。

舞台が長崎に移って、グラバー邸の屋根裏部屋に高杉晋作が潜んでいました。
これは若干事情が違いますね。
この時期、高杉は伊藤博文と一緒に薩摩に行こうとしていました。薩摩行きの目的は、英国公使パークスが薩摩を表敬訪問すると聞き込み、高杉も長州藩主の親書を持参して長州代表としてパークスに会おうというものでした。
高杉と伊藤に藩当局から薩摩行きの許可が出たのが2月27日です。その前日、高杉が木戸に宛てた書簡には「薩人英夷応接近々これある由にて、小松・西郷なども西行の由」と書いており、西郷と小松が京都から鹿児島に帰るという情報をつかんでいます。
ほかでもない、それが薩摩藩蒸気船の三邦丸で、これには西郷と小松だけでなく、龍馬とお龍も乗り込んでいました。

高杉は下関で三邦丸に乗ろうと思っていたようです。ところが、どういう理由からか乗れていません。高杉のことですから、下関で飲んだくれていたのかもしれません。

それで、高杉が下関から長崎に向かうのが3月21日です。許可が下りてから1カ月近くたっています。
高杉は大坂から長崎に向かうグラバーの船に乗っています。おそらく翌22日には長崎に着いたのではないでしょうか。

しかし、三邦丸が長崎に立ち寄ったのは、龍馬の「手帳摘要」によれば、3月8日です。鹿児島着は10日です。
どう考えても、すれ違いであり、高杉が長崎で龍馬に会えるはずがありません。
おいてけぼりの形になった高杉は長崎の薩摩藩留守居の市来六左衛門を訪ねますが、パークスの鹿児島来訪はまだ先であること、鹿児島には薩長同盟のことを知らない人々がいるので、高杉が鹿児島入りしたら、不測の事態が起こらないとも限らないと忠告されたため、高杉は鹿児島行きを諦めて藩主の親書を市来に手渡しています。
その後、高杉は長崎で軍艦を購入し、さらに清国行きを計画しますが、結局、第2次長州戦争勃発のため、それも取り止めました。

次回はいよいよ高千穂登山ですね。
初めて、薩摩が描かれます。おそらくこれっきりでしょう。

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【2010/09/12 23:47】 | 龍馬伝
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京都と伏見の薩摩藩邸
NAO4@吟遊詩人
こんにちは。

前回の「寺田屋騒動」では、伏見と京都の薩摩藩邸を描き分けていました。西郷が、伏見に兵と医者を使わすよう指示しておりまして、西郷がいる場所が暗に京都藩邸であることが分かるようになっていました。

前回は、龍馬が戸板で運び込まれたのはおりょうの待つ伏見藩邸でしたので、前回の連続からすると、今回の「龍馬の妻」で龍馬が静養していたのは、伏見の藩邸ではないかと思い込んでしまいました。

本当は、京都の藩邸であるべきだったのですね。伏見から京都へ移った過程は、従って無かったのではと思います。

よくわかりました
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

やはり前回、伏見から京都の藩邸に移っていたのですね。それで合点がいきました。

当時、伏見と京都は違う都市なので、本来はその違いを鮮明にしたほうがいいと思います。
移動の際のエピソードなどは面白いのに、使わなかったとはもったいないですね。



164go
やはりドラマを観て先生のお話を読ませていただくと、大変興味深い、いや、とても面白いです。

先日、『さつま人国誌』購入し読ませていただいております。
これまた面白い。
英雄もまた人、偉人たちの生きた様が生々しく伝わってくるようです。

面白ついでと言っては、失礼なのですが
偶然、私の知人が
「幕末以降の史実を学びたい」
と尋ねてきたので
先生のことを伝えたところ、とても喜んでくれました。

広島の片隅の者たちですが、ちょっと盛り上がってます。
ご縁がありましたこと、ありがたく思っております。

有難うございます
桐野
164goさん

拙著を読んでいただき、また友人の方にも勧めていただき、有難うございます。

これからもこのブログを読んでいただければ幸いです。

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「龍馬伝」36は「寺田屋騒動」でしたが、本放送は飛行機の上で見られず、本日の再放送も、珍しく仕事に熱中していたために、気づいたときには放映が終わってました(残念)。

ひとつだけ気がかりなのは、龍馬が高杉晋作からもらったピストルを発射したはずですが、もしかして幕吏に向けないで、天井に向けて威嚇射撃したか、わざと人に当たらないようにはずしたという設定ではなかったでしょうか?
もしそうだとしたら、いただけませんね。
「平和主義者」龍馬像(もともと虚像ですが)を描くために、明白な史実を枉げたことになります。


さて、今週はいろいろあったので、日次記にしました。

6日(月)
鹿児島から帰京後の残務処理に追われる。
鹿児島の方々からその後も電話やメールをいただく。講演の感想や激励などで有難い。

7日(火)
長野県の某館の企画展示につき、メールでの打ち合わせ。
何度も往復。

8日(水)
からからの天気から突然の豪雨となる。台風通過のせい。
豪雨のなか、某週刊誌記者より取材を受ける。
さて、どんな誌面なのか見当もつきません。
某社のムック記事、残りの1本を仕上げる。
ついでに関連写真も添付しておいた。

9日(木)
拙宅リフォームで、エアコン交換。
本や資料で溢れかえっている事務所を少し整理して、業者の作業が何とかできるようにする。
猛暑で需要がすごいらしく、室外機がなかなか届かず、結局、設置に半日以上かかる。
このエアコン、昨年漏電で何度もブレーカーが落ちた、いわく付きのもの。
取り替えて何とか安心。でも、まだ古いのが残っている。

夕方から新宿に出る。
某ホテル喫茶店で、某社の編集者と企画の打ち合わせ。
来年の大河ドラマ関連だ。
さて、どうなることやら。

10日(金)
某社のムック記事、先日来執筆中で、何とか終えたかったが、終わらなかった。
鹿児島の某館より図録など寄贈を受ける。
以前、姉妹館の方に協力したお返しか? いずれにせよ大変有難い。
先日の鹿児島シンポの余波まだ続く。
いろいろ郵便や贈り物をいただく。有難い限り。

11日(土)
前日の作業継続し、ようやく終了。
歯医者に行くのも忘れた(汗)。
近所にTSUTAYAの大型店がちょっと前にオープンしていた。たまたまそばを通りかかったので、冷やかしに行く。
すごい品ぞろえだ。
その影響だろうか、近くにある昔からお世話になったビデオ屋が閉店セールをやっていた。
資本の論理とはいえ、何か物悲しい。
お世話になった人々に発送作業。

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【2010/09/11 23:24】 | 日次記
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長尾敏博
桐野様 こんばんわ 私も「龍馬伝」再放送、見逃してしまいました。どうも気が入りませんね。(笑)史実が無視されるのは仕方がないかも知れませんが、ドラマとして全然面白くないです。大河は「伊達政宗」の頃がよかったです。
桐野さんの鹿児島でのシンポに参加した友人が、資料のコピーを送ってくれました。800人以上と盛況だったようですね。


石ころ
龍馬に危機を知らせに行く時お龍が全裸じゃありませんでしたけど、これは史実を枉げていないんですか?

はて
桐野
石ころさん

話題のレベルが違うと思うんですが。

ご質問の点、関連史料をあげておきます。
三吉慎蔵の日記
「坂本の妾二階下より走り上り」
風呂に入っていたとは書いていません。

お龍の回顧談「千里駒後日譚」
「袷を一枚引つかけ」
風呂に入っていたとは書いていますが、衣類は着しているようです。

兄権平宛て龍馬書簡
「勝手より馳せ来り」
龍馬によれば、お龍が風呂場ではなく勝手口から登ってきたとしていますから、少なくとも衣服は着していますよね。

関係当事者の3人の証言から、全裸説は分が悪いんじゃないでしょうか?

ありがとうございます
石ころ
なるほど、そうでしたか。
がっかり。

先ほど書き忘れましたが、ピストルは幕吏に向けて撃っていたと記憶しております。

ピストルの方向
NAO4@吟遊詩人
こんばんは。横レスすいません。

私が見る限り、ピストルは捕り方に向けては放たれていなかったように思えます。ピストルを撃つと、天井に釣ってあったものが落ちてきていましたから、捕り方の上方に向けていたのではないかと思います。

真実は、確か伏見奉行所側にピストルによる負傷者が出ていたように記憶しています。

ドラマでは、「わしゃ、人殺しは好かんきに」と口に出してはいないものの、平和主義者を演出しているのではないでしょうか。

そういえば、三吉慎蔵が捕り方を突破して伏見薩摩藩邸に向かう時も、本物の槍ではなく、竹竿を使っていました。これも龍馬方が血生臭くなるのを避けた演出なのかもしれません。

やっぱり
桐野
石ころさん、NAO4@吟遊詩人さん

やっぱり龍馬は幕吏に向かってピストルを発射しなかったのですね。

史実では明らかなのに、そこまでやるかという感じですね。
これも近江屋事件の伏線でしょう。


おや
石ころ
そうでしたか。
いい加減なこと言ってすいません。

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私がずっと続けている小学館アカデミー古文書特別講座「てらこや」の体験講座のお知らせです。

来る14日(火)19:00~20:30、東京神保町の教室で開講します。
体験講座ですので、1.000円にて受講できます。
カリキュラムやお問い合わせ・お申込などはここをご覧下さい。

お勤めの方も何とか受講できる時間帯ですので、興味のある方はご検討下さい。

なお、訂正があります。
上記サイトには、私の体験講座のタイトルが「坂本龍馬と丁卯日記」となっておりますが、これは前シリーズで一応終了しました。
そのため、今回は中岡慎太の日記を読みたいと思っています。
龍馬の盟友として知られる慎太の日記である「海西雑記」か「行行筆記」を読む予定です。
薩長の有志との交流がかなり詳しく描かれています。薩長側の史料とも突き合わせながら読みたいと考えています。

なお、体験講座ののちの本講座は10月12日(火)19:00から隔週5回です。
こちらもタイトルが「坂本龍馬と丁卯日記」となっていますが、引きつづき中岡の日記か、土佐脱藩士の土方久元の日記『回天実記』をやろうと思います。こちらも訂正ですみません。

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【2010/09/07 22:27】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第163回
―薩摩潜入するも、入説不発―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は伊牟田尚平の3回目です。
伊牟田と平野国臣の薩摩潜入とその不首尾について書きました。
もっとも、2人は大久保一蔵らに巧みにあしらわれたので、失敗だと思っていなかったかもしれません。
伊牟田は島津久光の率兵上京計画は知ったようですが、その日程や目的などは知らされていませんでした。

だから、有馬新七ら精忠組激派が必要以上に奮発してしまう結果になったかもしれません。
もちろん、有馬らも小松帯刀や大久保から詳しい話は聞いておりません。

微妙な行き違いがあとで大きな矛盾になってしまった感じですね。

なお、平野国臣の入薩は3回だったんですね。
私はてっきり2回だと思っていました。有名な「我胸の燃ゆる思ひにくらぶれば~」の一首も、伊牟田と一緒に入薩したとき詠んだのかと思っていましたが、前年の入薩のときだったんですね。不勉強でした。

次回は伊牟田の島流しについて書く予定です。

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【2010/09/07 14:55】 | さつま人国誌
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鹿児島から先ほど帰宅しました。

ひとつ前のエントリーでお知らせした鹿児島宝山ホールでのシンポ、成功裡のうちに終了しました。

私も珍しく所定時間どおりにピタリと終えられました。
シンポもいろいろ面白い質問が出ました。

多くの聴衆のみなさん、各パネリストのみなさん、素敵なピアノ演奏をしていただいたSさん、いろいろ奔走していただいた主催者のみなさんに厚く御礼申し上げます。

また、楽屋まで陣中見舞いに来ていただいた多くの方々にも御礼申し上げます。

夕方のNHKローカルニュースでも紹介され、小生の姿が映ったそうです(汗)。

帰りの鹿児島空港で、調所一郎氏(調所広郷子孫)とそのご家族に遭遇して、びっくり。

取り急ぎの報告でした。
また「龍馬伝」見ていません。本日は寺田屋事件だったと思いますが、また土曜日の再放送になりそうです。

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【2010/09/05 23:57】 | イベント
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龍馬シンポでご挨拶した者です
木之下まこと
龍馬シンポお疲れさまでした。
もう東京に着かれたんですね。
講演に参加して私も京都に行きたくなりました。

仕事の関係で作人さんの講演のみの参加でしたが、ご挨拶できて嬉しいでした!
少しの時間だったのですが、舞い上がってしまいました。サインをいただこうかと「島津退き口」の本も持参していたのですが、たくさんの方々がお待ちになっていたので諦めました。

調所一郎さんと同じ飛行機だったのでしょうか?
私も先日、友人の紹介でお会いしたところでした。調所さんの名刺には感動しました。

また、作人さんにお会いできる日を楽しみにしております。

お疲れ様でした
ずっちゃん
昨夜はお声かけ頂き有難うございました。ここ10日ほど一度横浜に戻った以外、講演、先祖の墓参り・掃除などで、ずっと鹿児島でした。せっかくのシンポジウムの時は指宿白水館で先約があり伺えず、申し訳ございません。今回は福昌寺跡の笑左の墓の管理名義が私と弟になっていることから、弟一家も連れて行った所でした。今後とも弟一家共々、宜しくお願い申し上げます。
調所一郎 拝

東京と鹿児島のシンポお疲様でした!
木脇祐秀 末裔 ひろみ
8/30の東京、そして9/5鹿児島でのシンポジウム大変にお疲れ様でした。私は東京に参加しましたが、桐野さんの薩摩サイドの切り口トークは、非常に興味深かったです。。毎週の「龍馬伝」を見ながら、追っての桐野さんのコメントが楽しみです。関ヶ原の木脇祐秀の幕末期子孫(私の5代前)は、長崎海軍伝習所に薩摩藩の第1期に御軍賦役の任について参加し、小松帯刀とも西洋砲術の専門家として交流していました。元治元年から慶応2年春まで摂海砲台築造のため大坂へ上っています。龍馬とニアミスをしていたかもしれません

御礼
桐野
木之下まことさん

講演会にご参加いただき、有難うございます。
内容などいかがだったでしょうか?
京都に行ってみたくなったというのは、画像のせいでしょうか?

サインもできずに失礼しました。



お疲れさまです
桐野
ずっちゃんさん

最近はそんなハンドルをお使いですか(笑)。
もう少しお話しできればよかったですね。
次回にでもまた。


摂海砲台築造
桐野
木脇祐秀 末裔 ひろみさん

ご声援有難うございます。
幕末期のご先祖は摂海砲台築造に加わってらしたのですか。
同砲台への薩摩藩の関わりは、私もよく知りません。そのうちまた教えていただければ幸いです。

取り急ぎ御礼まで。


次回お会いしたときにはサインお願いします(笑
木之下まこと
作人さんの講演で、龍馬と鹿児島の深い関係を知ることができました。鹿児島人であることに誇りさえ感じた次第です。土佐にも行きたいなぁ。

京都に行きたくなったのは、講演会資料2ページの「京都の近衛家 図録」での説明を受けたことで、行きたい気持ちになりました。小松邸の御花畑、ロマンチックというか真実が知りたいですね。

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しばらく不在通知です。
土日の2日間、鹿児島に帰ります。

5日(日)13:00から、鹿児島市宝山ホールにて、次のシンポがあります。

鹿児島おこしシンポジウム
「坂本龍馬と薩摩―龍馬の夢は薩摩が大きく育てた―」

詳しくはここです。

小生は、基調講演とパネルディスカッション参加です。

講演テーマは

「坂本龍馬と薩摩のきずな」

南九州方面の方々で参加される方とお会いできるのが楽しみです。
拙著のサイン会もありますので、お気軽に声をかけて下さい。

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【2010/09/03 22:22】 | イベント
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