歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
「雨の逃亡者」

お元の一件、そんな風に決着つけたんですねえ。
引っ張りましたねえ。横道に思い切りそれましたねえ。

お元は実在した可能性は高いですが、隠れキリシタンだったかどうかはわかりませんというか、おそらく創作でしょう。

このドラマが長崎での出来事で隠れキリシタンを扱おうとした発想は、ほとんどひとつの理由しかないと思います。
龍馬と親交の深かった土佐藩大目付の佐々木高行の日記『保古飛呂比』に、龍馬がキリシタン=「耶蘇教」に触れていることに想を得たのでしょう。

同日記慶応3年(1867)8月30日条
「夜に入り、才谷(龍馬)来る。終夜談話、止宿す。種々談話の末才谷曰く、此度の事若し成らずば、耶蘇教を以て人心を煽動し、幕府を倒さん。自分曰く、耶蘇教を以て幕府を倒す後害あらん。吾が国体を如何、吾は神道を基礎とし、儒道を輔翼とせんと。才谷曰く、今日かくのごとくにてとても事は成らずと」云々

「此度の事」というのは薩長との武力挙兵計画です。龍馬もそれに関与しているわけです。
そして、もしこの挙兵が失敗したら、「耶蘇教」を煽動してでも幕府を倒そうと龍馬が放言したと、佐々木は書き留めています。むろん、酒の上での戯れ言でしょう。しかし、龍馬が討幕にのめり込んでいた様子はよくわかります。

また、この記事から、龍馬がキリシタンに同情的で理解があったとは読み取れません。むしろ、潜在的な反幕勢力になりうるキリシタンを利用しようというご都合主義的な感じですね。

なお、龍馬が佐々木の役宅を訪ねたこの日、同日記には「風雨」とあります。お元が雨の中、船出したのはそれにちなんだものか。

なお、最後の龍馬紀行で、隠れキリシタンが大浦天主堂の神父に告白したことを紹介していましたが、その顛末を拙連載「さつま人国誌」で少し書いたことがあります。ここです。よかったら、読んで下さい。


龍馬がアーネスト・サトウに会っているのはたしかです。
それも、土佐と長崎で会っていますね。
サトウの著『一外交官の見た明治維新』や、上記佐々木の『保古飛呂比』に記事があります。
イカロス号事件の尋問は最初、土佐で行われ、らちが明かなかったため、その後、長崎に交渉の舞台を移しました。
しかも、土佐から長崎に船で移動するとき、龍馬と佐々木は夕顔丸(船中八策を発案したという)でサトウと同船しています。
サトウは同国人が殺され、しかも海援隊に嫌疑がかかっていたので、龍馬への印象は当然よくありませんでした。
海援隊に嫌疑がかかったのは、事件直後、偶然にも海援隊士が乗り込んだ土佐藩船が長崎港を急いで出航していたことが、怪しいと疑われたのが一番の理由だったような。

なお、ドラマではイギリス人水兵殺害の犯人が筑前福岡藩士だと海援隊の連中が突き止めていましたが、たしか犯人が判明し、すでに自害していたことが明らかになったのは明治になってからだと思います。

イカロス号事件は、龍馬にとっては消耗戦でした。
薩長との挙兵計画を進めなければならないのに、この事件のために2カ月ほど時間を浪費しています。
また長崎奉行所はイギリスの肩を持っていたので、龍馬の矛先は奉行所にも向けられていたと思います。
同年8月下旬頃とされる龍馬が佐々木高行に宛てた書簡(『龍馬の手紙』95号)には「戦争中」とか「戦死」という言葉が出てきます。むろん比喩で、イカロス号事件でイギリスや長崎奉行所を向こうに回して論戦することをたとえたものですが、実際、落命するかもしれないとどこかで思っていたかも知れません。

というのは、この龍馬書簡、遺書めいているのです。

「先ず、西郷(吉之助)、大久保越中(一翁)の事、戦争中にもかたほ(片頬)にかかり、一向わすれ申さず、若しや戦死をとげ候とも、上許の両人の自手にて唯一度の香花をたむけくれ候えば、必ず成仏致し候こと、既に決論の処なり」

もし自分が「戦死」したら、西郷と大久保一翁の二人だけには、自分の墓に香華を手向けてほしい。そうしてくれたら、自分は安心して成仏できるというわけです。
龍馬がイカロス号事件で相当のストレスを抱えていたことを、この書簡は示しています。
それと同時に、龍馬にとって、大久保一翁とともに西郷がどのような存在だったかもよくわかります。
自分の墓にこの人だけには参りに来てほしいとは、どのような意味か。自分の立場になって考えてみたらわかりますよね。あなたなら誰に来てもらいたいですか?

こうした龍馬の「肉声」をまのあたりにすれば、薩摩黒幕説や西郷黒幕説が何やら空々しく見えるのは私だけでしょうか?
あるいは、これは龍馬の片思いにすぎず、西郷の心情は別だよとでも反論されますかね。そうだとしたら、龍馬はよっぽどのお人好しですな(笑)。

イカロス号事件については、以前、小学館「てらこや」の講座でみっちりやったことがあるので、もう少し詳しく書けるのですが、忙しいので割愛します。

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【2010/10/31 22:58】 | 龍馬伝
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市川
桐野先生、こんばんは。

先生のコメントや龍馬を取り巻く周囲を調べると、改めて幕末の志士たちの偉大さを感じます。
同時に龍馬がもっと現実的な革命家であると思いました。
もし暗殺されなかったら、戊辰の役にも積極的に参加したのではないでしょうか。

せっかく出てきた大久保利通も、やはり暗いだけである意味イメージ通り。というか暗いと思います、薩摩藩は。辺境であるが故にそうさせるのか……。



辺境?
桐野
市川さん

ドラマのうえでは、大久保その他は暗いイメージで描かれていますが、史実とは別ニ考えたほうがいいと思います。

辺境とはいい条、ふつうの薩摩や薩摩人のイメージは南国特有の明るく陽気というものだと思いますが……。


市川
辺境とは失礼だったと思います。お詫びします。
いよいよ龍馬伝もクライマックスなので、製作者側の考えるラストを楽しみにしておこうと思います。

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大河ドラマ「龍馬伝」第43回「船中八策」

史実から遊離しすぎていて、もうあまり書きたくないのですが、「船中八策」に関してだけは遅ればせながら、少し触れておきます。

慶応3年(1867)6月、長崎を発して大坂に向かう土佐藩船「夕顔」の船上(船中?)で龍馬が発案し、それを長岡謙吉が書き留めたというのが、通説としての「船中八策」です。

しかし、龍馬の自筆はむろん、長岡が書いたものも残っていません。
というか、おそらくもともと存在しません。
なぜなら「船中八策」は明治中期以降になって創作されたからです。
研究者でも「船中八策」が史実だと信じている人がいるので、ドラマがそう描いてもしかたないと思っています。

ドラマでは、龍馬が大政奉還を主意とする八策を交流のあった師匠や友人から学んだものをまとめあげたという描き方をしておりました。
横井小楠はいいとしても、長州が木戸・久坂・高杉と3人もいるのに、薩摩は1人もなしです。
脚本家が長州出身ゆえの身びいきかどうか知りませんが、薩摩無視は相変わらずですし、ましてや大政奉還をおそらく最初に公にしたと思われる大久保一翁の名前すら出てきませんでしたね。

「船中八策」はそれほど独創的ではありませんし、実際、大政奉還は「船中八策」よりも前に西郷吉之助と大久保一蔵が唱えていることはほとんど知られていないと思うので、特記しておきます。

島津家のなかで、久光から始まる玉里島津家の一大史料集『玉里島津家史料五』1660号が西郷・大久保連名による建白書です。これは「丁卯五月」の朱書があり、西郷・大久保の筆ではありませんが、文面が四侯会議に臨むにあたっての心構えを久光に建言していることから、慶応3年5月に書かれたのは間違いありません。次のように書かれています。

「いづれ天下之政柄は 天朝え帰し奉り、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐し、天下の公議を以て所置を立て、外国の定約におひても 朝廷の御所置に相成候而」云々

龍馬の「船中八策」より1カ月早く、西郷・大久保は大政奉還(徳川家が諸侯の列に下ることや諸侯会議=公議政体)を主張しています。

さて、ドラマでは薩土盟約の場面で、突如としてミッチーの大久保一蔵が登場してきました。
予想以上にかっこよかったですが、でも龍馬をにらみつけたあと、「邪魔だ」とつぶやいていましたね。
近江屋事件への伏線だと誰でも思ったことでしょう。
没後130年たっても、相変わらずこのような描き方しかされないのかと思うと、甲東の孤高に同情を禁じえません。

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【2010/10/30 00:26】 | 龍馬伝
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にぃやん
ドラマなんだから
いいじゃないですか・・・

自己満足ですか?こんなブログ


通りすがり
失礼します。

見た限り長岡謙吉は存在すらしないという設定のようですね。龍馬とその近くの人物以外ほぼ悪役というのもある意味すっきりした感じではありますが、もはや花神にも翔ぶが如くにも遠く及ばなかったと結論出ちゃってますね。

船中八策についてですが木村幸比古さんの『龍馬暗殺の謎』という本を読んだところ、船中八策以外の箇条書き建白書で赤松小三郎の他、宮津藩士の嵯峨根良吉という人が書いたものもあったとのことでした。
ひょっとして当時箇条書きの建白書を書く事が流行っていたのではないかという気がしました。

>にぃやん
影響力の大きい映像メディアなのだから、製作陣は自らの影響力の大きさについてもっと責任感を持つべきではないでしょうか。


-
そもそも大河ドラマをノンフィクションとして観てる人はどれほどいるでしょう?

いちいちドラマの内容を事細かに挙げて事実だ、事実でない、と論ずるのはそれこそ自己満足と思います。

ま、本人のブログなんで何を書こうが勝手ですが。


私は助かっています。
NAO4@吟遊詩人
私は、大河ドラマも見放さずに楽しく見ておりますが、ちょっと辛口ですが史実を語ってくださる桐野先生のブログには感謝しております。

船中八策は、「龍馬のオリジナルではない。」ということは知っていても、それ自体存在しなかったとは意識しておりませんで、明言していただくと助かります。

教科書では、山内容堂が徳川慶喜に大政奉還を進言したことになっていたと思いますが、船中八策はどのように扱っていたか記憶になく、興味深いです。

幕末も「歴史」として勉強しなおす必要があると思っている次第です。

新政府綱領八策
NAO4@吟遊詩人
恥の上塗りになるかもしれませんが、NHK大河ドラマストーリー完結編を見ていたところ、

「新政府綱領八策」(下関市立長府博物館蔵)の写真が掲載されていました。

「慶應丁卯十一月 坂本直柔」と署名があり、本物なら、龍馬が、新政府のプランを持っていたように思えます。また「船中八策」のモデルになったものかなあと思いました。

勉強になります
卯月かいな
西郷・大久保が大政奉還を唱えていたとは知りませんでした。
そうなると、龍馬暗殺の薩摩黒幕説もないわけで……。
大久保ファンとしては、かっこよすぎるミッチー大久保は歓迎しつつも、分かりやすく悪役っぽくて、真の姿が描かれないことは残念ですね。


164go
「龍馬伝」についての解説、気が進まないとおっしゃっていた先生に
敢えて続けて欲しいとお願いしたのはわたしです。

お気に触る方もいらっしゃるとは意外でした。失礼いたしました。
しかし、私と同じように、史実を先生に伺いたい方がおられるのも事実です。

わたしの周囲にも、「水戸黄門」をフィクションと思っている方は多いけれど
NHKの大河ドラマですしフィクションないしはかなり史実に近いと思っている方も、
実は多いのですよ。
このサイトはそういった誤解を解くためにとても重宝しています。

テレビのそれぞれの番組でそれぞれの龍馬さんが登場するがごとく
ネットの中でもいろいろな龍馬さんがおられますよね。
それに
「今回の放送はこうだったけど、本当のところはどうなの?」
ってわたし個人も思ってしまうんです。

そんな稚拙なわたしたちのお勉強だとご理解いただいて、
寛容なお気持ちでお許し願えないでしょうか。


-
龍馬が八面六臂の大活躍で日本を変えていく方が一般受けするんですよね。
世間はかっこよく生きて嵐のように消えていった「英雄」を見たがっているんであって、「ただの一浪士」を見たいんじゃありません。
ノンフィクションの伝記ではなく、エンターテイメント性の高いドラマなんですし。

勿論、こういう「これ違うだろ?」という活動が間違ってるとか、やるべきではないとか言っているわけではありません。
ただ、間違いがあった所でしょうがないんじゃないか、一般向けの娯楽だし。と言いたいだけ。


-
わざわざ、他人のブログに来て捨て台詞を残されるようなことをやってるとは思えませんが。

私も幕末史が好きで、本当の史実がどうであったのかを知りたいので、専門家の桐野氏のこのブログはとても重宝していますね。

民放の娯楽時代劇とは違って大河ドラマに期待されるのは「本当の史実の『隙間』を創作」してほしいということですね。史実で知られていることがあっても、その史実の間にはやはり「飛び」がある、そこを創作してほしい、と。そして史実に創作をプラスして面白くしているのだったら、大河ドラマとして素晴らしいのですが。その創作が上手ければ、大袈裟に言えば、史実は変わらずとも、新しい見方を提示することができると思うのですが。「そういう解釈があったのか、そういう見方があったのか」と。
でも、史実を最初から無視して書き変えたり、歴史の時系列まで変えては「歴史上の人物にそんなに魅力がないのかな?」と突っ込みたくなりますね。

特に坂本龍馬については歴史の捏造が堂々とまかり通る風潮があるので、特に警戒しています。史実の坂本龍馬も十分魅力的であるが故に、真実の坂本龍馬がどうであったのかを知る機会を失うのは、すごく勿体ないですね。

これは、マスコミの責任も大きいのではないでしょうか。はっきり言って、日本のマスコミはかなりレベルが低いと思います。

新政府綱領八策
桐野
NAO4@吟遊詩人さん

「船中八策」と違って、「新政府綱領八策」は本物ですね。
2点現存していますが、少なくとも1点は龍馬自筆です。2点ともそうじゃないかと思いますが、断定しているかどうか、私もよく知りません。

同じものが少なくとも2点現存しているということは、もっとあった可能性もありますね。おそらく龍馬が各方面に配布したんでしょう。有名な○○○が誰なのかも問題ですね。

「新政府綱領八策」が混同されて「船中八策」と呼ばれたこともあります。
 おそらく当初「船中八策」を創作しようというとき、「新政府綱領八策」が出てきて、これだと飛びついて、「八策」の形式になったのだと考えられます。

ですから、仰せのように、「船中八策」のモデル(形式上の)になったといえそうです。


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織田信長の家臣団研究を飛躍的に発展させるきっかけとなった谷口克広氏の人名辞典の第2版をご恵贈いただいた。
谷口氏に感謝するとともに、刊行を喜びたい。

詳しくはここをご覧下さい。

初版が1995年だから、15年ぶりの改訂増補である。
この辞典が刊行されたときは衝撃的だった。ここまで詳しい人名辞典があるかと。
何より丁寧に出典が付けられているのが貴重だった。

初版が502頁で、今回の第2版が560頁だから、60頁近く増補された勘定になる。
帯には「信長政権を支えた家臣1458人を網羅」とうたっているので、1頁平均3人弱立項されていることになり、単純計算だと160人くらい増補されたことになるが、今回はあまり名前を知られていない家臣の増補が多いはずで、その情報量も多いとは思えないから、倍の300人くらいは増えているかもしれない。

そして、谷口氏がはしがきとあとがきで「強力な助っ人」と最大限の謝辞を呈しているのが、畏友の信長研究者、和田裕弘氏である。
私も和田氏との付き合いは長いが、全国の史料館や図書館などを自分の足で博捜した地道な努力に日頃から敬意を表していたし、谷口氏からも第2版編纂中から「和田さんのおかげだ」という言葉を何度も聞いていた。

かくして、満を持して上梓された第2版。
単なる改訂版ではない、濃厚な作業成果が詰まっていることを確信している。

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【2010/10/29 20:15】 | 新刊
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坂本龍馬関連の講演のご案内です。

来月5日(金)19:00から、鹿児島県日置市伊集院町で表題の講演を行います。

伊集院といえば、島津義弘ゆかりの地ですが、近年の市町村合併により日置市となり、日吉町とも一緒になった関係から、小松帯刀ゆかりの自治体にもなっております。

大河ドラマへの関心の高さもあり、同市から坂本龍馬と小松帯刀の関係について講演依頼を受けました。
2人の出会いや交流について、またそれが幕末維新にどのような影響を与えたのかといった話にしたいと思っております。
日置市はむろん、鹿児島で関心のある方は参加してみませんか。

ここを開けば、講演会の要領が書かれています。
また、そのなかに講演会チラシがPDFファイルになっていますので、さらに詳しくわかります。
一応、会員対象で入会金必要となっていますが、会員でない方も入会金程度で参加できるのではないかと思います。関心のある方はお問い合わせ下さい。

参考までに講演会の要領を下記に書いておきます。

日時:11月5日(金)19:00~
会場:日置市伊集院文化会館 場所・アクセスなどはここここを参照
演題:小松帯刀と龍馬
主催:日置地区「講演を聴く会」
問い合わせ先:日置市教育委員会社会教育課文化係
 電話:099-273-2111(内線)1433
 FAX:099-272-3145
 MAIL:bunkazai@city.hioki.lg.jp

なお、日置市が所蔵している未公開の小松帯刀文書も何点か当日展示される予定です。これらについても、少し解説するつもりです。
 
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【2010/10/27 13:02】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第169回
―商家に強盗、京都で処刑―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしたらご覧になれます。

伊牟田尚平シリーズも今回で最終回です。
想定外の9回になってしまいました。
キリのいい10回までとも思ったのですが、あまり引っ張ってもどうかと思い、今回で打ち止めにしました。

それにしても、伊牟田は突然の破断というか自滅ですね。
それ以前もかなり乱暴なことはしていますが、私利私欲ではなく、一応彼なりの大義名分、正義に基づいた行動でした。
でも、商家への押し込み強盗は弁解の余地がありませんし、書く立場からも擁護するのはなかなか難しいです。
たしかに江戸市中の攪乱工作では相当乱暴なことはしたのでしょう。
近江長浜の商家を襲ったのもその延長線上にあると、本人は思っていたのでしょうか?
しかし、江戸とは事情が異なりますね。
押し込みのあとは、仲間たちと金を山分けしており、曲がりなりにも北越出陣の「軍用金」に転用しようとした形跡も見られません。

たしかに、高杉晋作や後藤象二郎など、藩金を飲み食いその他で乱費してしまった者も少なくないですが、強盗殺人はさすがに他人の見る目が違ってきますね。

伊牟田のこの落差は一体何なのか、私はよくわかりません。魔が差したとしか書きようがなかったです。
伊牟田なりの攘夷活動の一環ではとも書きましたが、もはや文久時代ではないですからね。時代錯誤もいいところです。
伊牟田はみずから自分の人生を「強制終了」させたとしかいいようがありません。その深奥には何があったのか、何が起こったのでしょうか?
薩摩には珍しいタイプの人物だけに、その「自業自得」が惜しまれます。

なお、伊牟田については、のちに贈位内申書が明治政府に提出され、名誉回復が図られようとしました。
しかし、『贈位諸賢伝』や『殉難録稿』にも伊牟田は立項されておらず、おそらく贈位は見送られたのではないかと思います。やはり強盗殺人では、名誉回復も憚られたのではないかと憶測します。
でも、贈位の有無は確証がとれなかったため、この点は留保して書きませんでした。今後の課題にしたいと思います。もしご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。

次回から、近江屋事件=龍馬暗殺について書きます。
大河ドラマ観賞の参考にして下さい。

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【2010/10/25 21:11】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様

こんばんわ、鹿児島出張お疲れさまでした。鶴は飛んでいましたか。
伊牟田尚平、自暴自棄と言うべきか、すっきりしない最期ですね。彼は一匹狼的な感じがするのですが、仲間引き連れて押しこみ殺人ですか。あれだけ活躍しておきながら、幕末の志士としては今ひとつ人気がないのはそのせいですかね。捕まってから処刑まで約一年の間、誰も救いの手を差しのべなかったのでしょうか。
延べ9回に渡る連載お疲れさまでした。次回からもこれまた楽しみにしております。

はじめまして
伊勢吉
桐野様

はじめまして
草莽の闘志伊牟田尚平、興味深く拝見しました。
尚平の最後は謎が多いですね。
「京都府史料」の内容は信頼できるものなのでしょうか?御用となって1年以上たって処刑されるのは普通のことだったのでしょうか?拷問もおこなわれていると思います。尚平は新政府にとって好ましい存在ではなかったはずですし、抹殺されたのでは?とも思います。種子島で生涯を終えていた方が幸せだったのかもしれねいですね。 これかも何か新し発見があれば教えていただけることを楽しみにしています。


桐野
ながおさん

鶴は干拓地に見に行きました。
まとまった数を見たのは久しぶりでした。
すでに700羽ほど飛来しているとのことでした。
その写真もあるので、そのうち掲載したいと思います。

伊牟田についてはたしかに収監されていたのは1年ほどですね。
薩摩藩の誰かが救いの手を差し伸べなかったのか、たしかに気になりますが、罪状があまり同情の余地がないのと、政権を奪取したばかりで、依怙の沙汰はいかがかと評判を気にした可能性もありますね。
討幕に功のある伊牟田を西郷らが見捨てたという見方もあるかもしれませんが、西郷らは伊牟田らが暴走したと考えていたかもしれず、結果オーライだからといって、恩義を感じていたかどうかもよくわかりませんね。
相楽総三の一件も含めて、このあたりはたしかに難しいところです。

京都府史料
桐野
伊勢吉さん

コメント有難うございます。
「京都府史料」は信頼できると思います。
伊牟田だけでなく、上田務など容疑者の供述調書が多数収録されています。

あるいは、拷問による自白であって、任意の自白でないから信用できないのではという意味でしょうか?
拷問の有無はわかりませんが、供述内容はそれほどでっち上げとはいえないように思います。

伊牟田が抹殺されたのかどうかについては、個人的にはそうではないという感触がありますが、同様な疑問を述べられたながおさんへの私のコメントをご参照下さい。

はじめまして&こんばんは
yoshiko
ご多忙中誠に恐れ入ります。
時々拝読し歴史の勉強をさせていただいてます。
伊牟田尚平どんの最期についてですが、
某有名歴史家が「冤罪のまま最期を遂げたように思われます。」と書かれてある本が手元にあります。冤罪説を信じているので複雑な心境で読ませていただきました。
「さつま人国誌」を購入し只今勉強中です。
今後ともよろしくお願いします。


冤罪説
桐野
yoshikoさん

はじめまして。
冤罪説をどなたが唱えておられるか、存じませんが、その根拠はどこにあるのでしょうか?

伊牟田の供述書は京都府や国立公文書館に所蔵されています。また伊牟田だけでなく、仲間たち数人の供述調書もあり、ほぼ同様のことが書かれています。
事件そのものの実在は否定しようがありません。

冤罪だというには、①供述書が偽文書か、②事件そのものが拷問その他ででっち上げられたかのどちらかしかないでしょうね。

①はなかなか成り立たないと思います。
仮に②だとして、誰があるいはどんな勢力が伊牟田たちを陥れる必要があるのでしょうか?
まあ、こんなときの常識的な考えは、伊牟田は討幕維新の裏側を知りすぎていたから、その発覚を恐れる連中から抹殺されたという「謀略」説でしょうね。
だから、相楽総三も処刑され、益満休之助も戦死ということになっているけど、じつは殺害されたとか?

しかし、幕末維新の裏側(関東攪乱工作など)を知っている人間はほかにもいて健在です。しかも、いろいろな形で証言しています。秘密を守るためなら、全員抹殺しないといけないのですが、そうなっていません。
この説も成立しがたいのではないでしょうか?

伊牟田が襲撃後、すぐ越後に行き、奪った金を活動資金として活用したというのなら、まだ弁護の余地もありますが、越後にも行かず、京都周辺でうろうろして、金を浪費した挙句、捕縛されたのですから、なかなか弁護できませんね。
ふつうの強盗殺人犯とどこが違うのでしょうか?

そんなわけで、個人的には冤罪説には納得できません。


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本日夕刻、無事帰宅しました。

郷里出水市での講演もつつがなく終わりました。
親戚や知友も数多く参加してくれ、盛況のうちに終わりました。
渋谷市長や溝口教育長にも出席していただき、御礼申し上げます。

郷里に龍馬が足跡を残しているというわずかな史実から、その旅の目的は何だったかまで、かなり膨らませて話をしました。
龍馬が肥後への出国手続きをした津町の米ノ津は私の通った中学校の近くです。
また龍馬の世話をした「右下直右衛門」なる町役人については、別の解釈を示しました。
津口番所に勤務する藩の役人ではなく、また龍馬に付き添った児玉直右衛門でもなく、津町の顔役、つまり町人だろう、また「右下」は名字ではない(だいたいそんな名字は当地周辺に存在しないと思います)といった話もしました。

米ノ津を出国したのち、龍馬は太宰府を経由して下関に行き、桂小五郎と会見しています。
そのいきさつが書かれている史料を何気に読んでいて、別のことを思いつきました。まだ考えがまとまっていませんが……。

渋谷市長はじめ、教育部長のU村君(高校と部活の同級生)、今回イベントのきっかけを作ってくれた歴史民俗資料館のH岡君(高校と部活の同級生)やI上さん、出水市立図書館のM館長、K野次長、何度も送迎していただいたN村さんをはじめ、市役所関係のみなさんにもお礼申し上げます。

その後、鹿児島市まで戻り、仕事上の友人たちと宴席。
最近珍しく連日の酒宴で、肝臓がさぞや驚いたことでしょう。
焼酎が進みました。

本日午前中は雨の中、ホテルから黎明館まで歩く。
目当ては「甦る島津の遺宝」という特別展。
島津本家だけでなく、都城島津家をはじめとした分家、さらに島津家の子女(とくに重豪の)が養子に入ったり、嫁いだりした大名家(筑前黒田、八戸南部、岡山池田、中津奥平など)からの展示もあったことが新味で興味深かった。

個人的には、二本松の京都藩邸を相国寺から借用したときの約定書などが大変興味深かった。
当時の相国寺の境内や塔頭の分布などがわかり、そのうちのどこが藩邸の敷地として借用されたか朱書されていたので、よくわかった。

また大河ドラマがらみで、ミニ龍馬史料展示もあった。
出展されていたのはわずか2、3点だったが、いずれも龍馬の慶応元年(1865)4~5月の鹿児島から下関までの旅に関わる書簡。玉里島津家史料に収録されて一時期話題になった渋谷彦助書簡もあった。
ちょうど私が出水で話をしたことと関わっていて奇遇だった。

同館では、ほかにも南米シカンの秘宝展も開いていて、こちらは多くの観客がいた。
またお隣の市立美術館では、田中一村の大展示会をやっていたが、時間の関係で泣く泣く観賞を断念した。残念だった。

というわけで、充実した帰郷でした。

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【2010/10/24 21:59】 | イベント
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お知らせです。

郷里での講演のため、本日から鹿児島出張です。

滞在中、妙円寺参りも挙行されるのですが、時間的に見学できないのが残念です。


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【2010/10/22 07:59】 | 雑記
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石清水八幡宮や天王山、妙喜庵が近くにある京都府大山崎町の大山崎町歴史資料館で、「幕末・維新期の大山崎」と題した展示会が開かれています。

それに関連して、歴史講演会が3回開催されますが、そのうちの第2回で講師をつとめることになりました。
同館の案内はここです。

とりあえず、私の分に関して紹介しておきます。
ほかにも、馬部隆弘さん(上記サイトの「馬場~」は間違いですね)や中島三千男さんの講演もあります。

■ 第2回「淀川水運と幕末志士たち」

開催日:11月3日(水・祝)
講師:桐野 作人(歴史作家・歴史研究者)
会場:大山崎ふるさとセンター 3階ホール
時間:13:30~15:30
※事前申込不要、聴講無料(入館料は別途必要です)

幕末期の淀川水運のことは門外漢ですけれども、文久3年(1863)の八・一八政変以降、長州系の尊攘派の出入京を阻止するために、大坂の八軒家や伏見での取り締まりが強化された感があります。そうしたなかで、幕府側の京都守護職や新選組、大坂奉行所などの取り締まりの実態と、それをくぐり抜けようとする志士たちとの闘いの一端を紹介したいと思います。
あまり得意な分野ではないので、どこまでやれるかわかりませんが、関西方面で興味のある方はご参加下さいませ。

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【2010/10/19 19:21】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第168回
―相楽総三救出間に合わず―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

いよいよ赤報隊事件まで来ました。
今回は、伊牟田尚平が相楽総三の説得、救出に中山道を下ったことを書きました。
このことはほとんど知られていないと思います。
ちょうどこの時期、伊牟田が京都から下諏訪や上田まで来たことを示す史料が残っています。
今回はそれを使いました。ご教示いただいた西澤朱実さんに感謝です。

でも、伊牟田が下諏訪の東山道総督府本陣に着く直前に、相楽たち8人は斬首されてしまいます。
間一髪、伊牟田は間に合いませんでした。
もっとも、間に合ったからといって、伊牟田が相楽を救出できたかどうかはわかりません。それでも、少し異なった展開になった可能性はあるでしょう。
相楽の処刑について、その理由がおかしいことを、伊牟田はある程度気づいていたようです。

相楽総三らの非業の最期、いわゆる「偽官軍事件」については、かつて年貢半減令がその背景にあるとされていましたが、もうそれを乗り越える段階に立ち至っています。
とりあえずは、上記西澤さんが編纂した『相楽総三・赤報隊史料集』(マツノ書店、2008年)にかなり詳しい解説があります。現段階での到達点だと思います。今後、さらなる研究の進展が予想されます。

今回使用した写真は2年前、相楽たちの140年祭に参加したとき撮影した「魁塚」(さきがけづか)です。

次回が伊牟田シリーズの最終回になる予定です。

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【2010/10/18 17:19】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様

こんばんわ 相楽たちの処刑は草莽隊の末路を端的に示していると思います。彼らに主導権を握られたくなかったのでしょう。それにしても伊牟田がいたら機略を用いて、何とかしてくれたのではとつい期待してしまいます。彼は快男児ですね。ところでちょっと質問ですが「地雷火」とはどのような兵器でしょうか。地雷と同じ様なものでしょうか。「東京市史稿皇城篇第三」の中に例の江戸城二ノ丸炎上のことが載っているのですが、参考としてそれに対する流言飛語が紹介されていてその中に出てきます。

地雷火
桐野
ながおさん

地雷火はやはり地雷のことでしょう。
地面に火薬を埋めて、導火線か何かを使って爆発させるものでしょう。
大坂の陣でも使用例があります。

私が知っているかぎりで、幕末でも使用例があります。
慶応元年(1865)1月、長州藩内の内戦である大田・絵堂の戦いで、諸隊側の奇兵隊が地雷火を仕掛けていますが、どうやら不発だったようで、撤退せざるをえなかったという記事が『奇兵隊日記』に出てきます。

江戸城二の丸の場合も、畳の下から燃え出したわけですから、地雷火ではないかという噂が広まったのかもしれませんね。


説明不足
ながお
桐野様

返信ありがとうございます。地雷火の話は別件です。12月26日夜に江戸中に地雷火を仕掛け焼き払う計画があったことになっています。これは事前に発覚、そうしているうちに25日の幕府方の薩邸焼き討ちになった様です。説明不足ですみません。

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友人の研究者のお二人から、新刊を頂戴した。
お礼申し上げます。

中村武生『中村武生と歩く洛中洛外』
京都新聞出版センター、2010年10月刊
詳しくはここにあります。

昨年から京都新聞に毎週連載されていた人気コラムを一冊にまとめたもの。
京都といえば、平安京や郊外の寺社が有名だが、本書はあまり注目されていない近世・近代の京都の知られざる史跡や、知ってはいても別の見方ができる史跡などを中村武生流の歯切れのよい切り口で紹介してくれる。
担当記者との問答形式になっていて、とても読みやすい。また写真が凝っていて、これまたよい。
全頁カラーとなっており、版元の意気込みも感じられる。
京都市の11の区をまんべんなく回っており、歩く楽しみも教えてくれます。
歩く歴史地理史学者、中村武生さんの本領発揮です。


町田明広『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復―』
岩田書院、定価8.400円+税 2010年10月刊
まだ発売になっていないようで、版元サイトやアマゾンなどに本書の紹介記事はまだアップされていないようです。アップされたら改めて掲載します。

本書は町田さんの学位論文に大部の新稿(第五章)を加えた意欲作です。
章と節の目次を紹介しておきます。

序章
 第一節 本書の分析視角
 第二節 本書の構成

第一章 率兵上京と「皇政回復」
 はじめに
 第一節 久光の上京政略と「皇政回復」
 第二節 「皇政回復」とその位相
 第三節 率兵上京を巡る中央政局
 第四節 尊王志士と寺田屋事件
 小括

第二章 朝廷改革派の形成と「文久二年政変」
 はじめに
 第一節 大原勅使派遣および久光供奉運動
 第二節 朝廷人事改革と改革派廷臣の派生
 第三節 四奸二嬪排斥運動と近衛関白の動向
 小括

第三章 朔平門外の変―その背景と影響
 はじめに
 第一節 久光上京前後の中央政局
 第二節 事変の経緯と薩摩藩への嫌疑
 第三節 事変後の政局における中川宮
 第四節 事変の首謀者―滋野井公寿・西四辻公業の関与
 第五節 姉小路公知暗殺の事由―勝義邦との邂逅
 小括

第四章 八月十八日政変―中川宮と久光の連携
 はじめに
 第一節 久光召命問題と朔平門外の変
 第二節 薩英戦争後の久光上京政略
 第三節 政変諸相における高崎正風の動向
 第四節 久光名代としての中川宮
 小括

第五章 朝政参与と慶喜・久光の相克
 はじめに
 第一節 政変後の中央政局と久光の上京
 第二節 孝明天皇の諮問と政変前後の国体論
 第三節 朝政参与と薩摩藩の周旋
 第四節 朝政の転換と久光の挫折
 小括

終章
あとがき

う~ん、途中でやめようかと思うほど、タイピングが大変でした(爆)。
それくらい構成も緻密に練られています。
町田さんが文久政局を理解するキーワードとする久光の「皇政回復」は「天皇親政」ではなく、徳川公儀体制の容認を前提として、そのなかで自身の主導性を確保する試みだったと思われます。率兵上京もそれを実現するための示威的実力行使であり、やはり有馬新七や真木和泉らの天皇親政を目指す武力挙兵路線とは一線を引いたものだったと思われます。
文久以降の薩摩藩は久光を抜きに考えられません。久光の存在はもっと評価されてしかるべきだと感じます。
なお、今後の見通しとして、久光の「皇政回復」が「一会桑」勢力に敗北する元治政局へと転換していくことになるのでしょうか? 続編も楽しみにです。

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【2010/10/17 09:28】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第167回
―江戸藩邸焼き討ちされる―

月曜日が祭日だったため、連載の更新が火曜日にずれ込みました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

伊牟田尚平シリーズも7回目と、意外に長くなってしまいました。
ようやく薩邸焼き打ちまで来ました。
あと2回くらい書かないと終わりそうもありません。

薩邸焼き打ちは大きな事件ですし、鳥羽伏見の戦いの導火線にもなりましたから、書きたいことはたくさんあります。
たとえば、庄内藩など攻撃側がフランス軍人のブリュネ砲兵太尉から、四斤山砲の散弾と榴弾の使用法を伝授してもらい、実際、薩邸にこもる浪士たちの頭上で破裂させるなど効果的に使用したこととか。
でも、伊牟田からははずれてしまいますし、割愛せざるをえませんでした。

今回は薩摩藩船祥鳳丸のなかでの伊牟田の行動を、史談会速記録にある落合直亮の証言から明らかにできたことが新味かもしれません。落合は伊牟田の豪胆さというか、命知らずの破天荒さに半ば呆れながらも、驚いています。この辺が伊牟田の魅力でもありますが、その最期を考えるとあだになったともいえそうです。

また、祥鳳丸が藩邸内や島津家菩提寺の大円寺(当時、高輪にあった)に納められていた位牌や仏具などを積載して帰ったらしいというのは、調べていて初めてわかったことです。
以前、杉並に移転した大円寺を訪れたとき、住職から島津家が位牌などすべて鹿児島に持ち帰ったと教えてもらいましたが、おそらくこのときかなと合点がいきました。

なお、写真は鎌倉の妙法寺にある薩摩藩戦死者の供養墓の写真を掲載しました。
じつは、これは単体で書こうと思っていたネタです。
ほんとは、攻撃に参加した上ノ山藩の藩士の手記に載っていた、幕府側の芝・薩摩藩上屋敷の包囲図を使いたかったのですが、サイズの関係で断念しました。池があるなど藩邸内の様子がよくわかる地図です。上屋敷の様子はあまり知られていないので貴重ですね。

さて、ようやく京都に戻った伊牟田たちですが、西郷との会見がいつ、どこであったのかなど、一次史料がなくて正確につかめません。落合の手記もあまり詳しくありません。
通説では、西郷の密命どおり、鳥羽伏見の戦いのきっかけを作ってくれたことに、西郷が伊牟田たちに感謝したことになっていますが、どうもそんなうまい話ではないなという感触があります。
次回はそのあたりと、相楽総三の「偽官軍」一件になりそうです。
いよいよ大詰めです。

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【2010/10/14 00:59】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様
こんばんわ。供養塔が鎌倉にあったとは知りませんでした。写真で見る限りでは新しい感じがしますが、どのような縁があったのでしょうね。
篠崎彦十郎らのお墓は杉並の大円寺にありますね。見てきました。

本能寺の変
中の人
今回の話題とは関係ありませんが、
藤本正行氏の新刊で、「信長は謀略で殺されたのか」が俎上に上げられてますね。

篠崎彦十郎
桐野
ながおさん

大円寺に篠崎彦十郎の墓、たしかにありましたよね。私もだいたいの場所を覚えています。
その墓の後ろというか、裏に横山安武の墓があったような。

でも、撮影したデータに、それがありません(泣)。

拙著ですか?
桐野
中の人さん

『信長は謀略で殺されたのか』は藤本さんの共著ですが、自分の著書を俎上に上げたんですか?

思うに、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)のことではないでしょうか?

どんな形であれ、藤本さんに取り上げられるなら、光栄なことでしょう。

島津家の位牌諸々
ばんない
こんばんは。

本題から大きく外れる話ですが
確かに以前こちらのブログで大円寺にあった島津家関連の物は全部鹿児島に持って帰られてしまって、今は残っていない云々…という話が出てましたっけ。

持って帰られてしまった位牌とかも、結局は廃仏毀釈で全部焼かれてしまったんでしょうね…今回のお話から推測する限りでは、おそらく幕府側に位牌その他を取られるのを恐れて撤収したのでしょうが、結果だけを見ると、大円寺に置いてあった方がまだ残っていた可能性が高かったように思われますね。


中の人
>思うに、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)のことではないでしょうか?

失礼しました。
その通りです。


ながお
桐野様

返信ありがとうございました。篠崎らと同じ敷地内には横山安武の墓はなかったと思います。ずっと後ろの別の敷地ですかね。今度確認してみます。それから益満休之助の墓は合葬墓に名前が書いてあるだけでしたね。こういう有名人が多い墓地は案内図が欲しいところです。

大円寺
桐野
ばんないさん

そうですね。大円寺に残しておいたほうがよかったかも。たとえ大檀那が神道に宗旨替えしても、位牌などは寺側が残していてくれる可能性高いですよね。


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第41回「さらば高杉晋作」

高杉が他界したわけですが、長州ではなぜか高杉だけが龍馬の理解者です。
高杉の描き方についても、書きたいことがないわけではないですが、面倒なのでスルーです。

相変わらず、龍馬は大政奉還一本やりですねえ。
木戸孝允とも対立しているように描かれています。
しかし、木戸と龍馬はこの年、慶応3年(1867)9月まで、武力討幕でピタリと息を合わせていることが、その往復書簡で明らかなんですけどね。

とくに有名なのが、木戸が龍馬に宛てた9月4日付書簡。
武力討幕を「狂言」とか「芝居」と隠語で表現し、「乾頭取」(板垣退助)と「西吉座元」(西郷隆盛)とが「狂言喰ひ違ひ」がないよう息をぴったり合わせることが大事だ、つまり薩土の討幕派の連携が重要だと、龍馬に忠告しています。

一方の龍馬もその返信(9月20日付)で、「大芝居の一件」は面白くてよくわかった、自分も「憤発」すると答えています。そして、武力討幕のための小銃1000挺購入して土佐に運び込み、板垣らに引き渡すこと。それと同時に後藤象二郎を更迭させ、土佐か長崎に帰すことを告げています。さらに、「薩土及云云」(当年6月の西郷らと板垣・中岡らの薩土討幕密約)に従って、本国土佐を救うと述べています。
つまり、龍馬は木戸や西郷や板垣と協力する、バリバリの武力討幕派なのですよ。

龍馬のこの考えと行動の背後にあるのは、この頃、薩摩藩の主導で進行していた薩長芸三藩挙兵計画であり、龍馬は土佐もこれに乗り遅れてはいけないという危機意識から、小銃1000挺を購入して土佐に運び込むという行動に出たわけです。

これのどこを叩いたら、龍馬が大政奉還一本やりの不戦平和論者という評価になるのか、理解に苦しみますね。
余計なお世話かもしれませんが、これに限らず、基本的な史実無視や史実背反がドラマの流れに不自然さを生み、そのぎこちない龍馬像が視聴者に違和感を与え、視聴率低迷の一因になっているのではないかと憶測しているのですが、どうなんでしょうかね?

龍馬の理解者とされる高杉が死に、大政奉還の舞台には長州藩が直接関わることはできませんから、龍馬の考え方に反対する木戸も関与できない。となると、龍馬の大政奉還に反対する勢力ないし人物は誰か、もう決まったようなものですね。その線で近江屋事件になだれ込むのでしょう。ドラマ終盤になって、なぜ大久保利通が登場してくるかも、この文脈からよく理解できます。

以上のようなことについて、2回講座をやります。
「龍馬暗殺―近江屋事件の背景と真相―」と題したものです。
詳しくはここをご覧下さい。


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【2010/10/10 23:08】 | 龍馬伝
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忍っこ
桐野先生こんにちは
今年、龍馬伝が始まった時こんなことを言ってましたね
土佐藩の上士と下士の対立について、
福山龍馬は「憎しみからは何も生まれない」と
そしてなんと高杉晋作が大政奉還の理解者?
どれだけいい人なんでしょう
逆に憎しみ以外になにがあるのかと問いたいです。
あいも変わらず史実無視してますね


164go
龍馬さん、いい人すぎですよね。
いつも事件に巻き込まれ、その中心にいるけど、
それを運と実力で円満に解決してしまう。
黄門さまと同じ感じがしてきました。

大型娯楽時代劇『水戸黄門』と同じくして観るべきでしょうかね。


丸義
桐野先生、お早う御座います。
先生のブログが大変勉強になっております。

史実の龍馬とドラマの龍馬の、あまりにも大きな違い・・・
これでは、視聴者が違和感を持つのも仕方ないと思います。
龍馬の魅力が全く伝わってきません。
いくら「ドラマ」といえど、脚本に力が無さ過ぎて残念です。


憎しみだけでなく
桐野
忍っこさん

「憎しみからは何も生まれない」……ありましたねえ。
当時の時代世相を考えれば、迷文句でしょうね。

もっとも、明治維新は「憎しみ」だけでなく、「理念」や「ビジョン」もあったと思います。

高杉については、大政奉還より半年前に亡くなりますから、どうとでも描けるということでしょうね。
それは創作としてはありだと思いますが、それならば、木戸と高杉はそんなに意見が違うはずがないという反論もただちにできますけどね。

なお、前回のドラマでいえば、慶応3年はじめ、木戸などが明確に討幕を考えていたかどうかは不明です。そこまでの構想と決意はまだなかったと思います。
長州は何より藩主父子の復権と藩の名誉回復が最大の課題でしたから。

水戸黄門との違い
桐野
164goさん

「龍馬伝」と「水戸黄門」の対比ですか。
なかなかユニークなことをお考えになりますね。

でも、私は次の一点において、「龍馬伝」は「水戸黄門」と同じではないと思います。
それは時代考証の有無です。

ドラマ「水戸黄門」は、誰でも創作だという前提で見ています。ですから、時代考証も置いていません。

ところが、「龍馬伝」はじめ大河ドラマは時代考証がいます。
この点、むしろ反作用が大きいと思います。つまり、時代考証がいるから、ほとんど史実なんだろうと視聴者に思わせてしまいます。
その「刷り込み」の有無が大きいのではと思います。

史実以前の問題も
桐野
丸義さん

私も同じような感想をもちます。
今年のドラマは、史実と脚本家の創作が全然かみ合わず、不自然で流れが悪いですね。
要は史実どおりに作ったほうがなんぼかましだと思います。

まあ、史実といっても、解釈が分かれるところがありますから難しいのですが、それを踏まえながらも、納得できる筋書きをひねり出すのが脚本家の腕だと思いますけど、去年も今年もダメなんなんじゃないですか。

あの時代、武力なき不戦平和主義者がいるなんて、だいだい嘘くさいし、空々しい限りですよね。これは制作する側の見識や歴史観の問題です。私はその一点です。




猿山
 龍馬伝のノベライズ版が、すでにNHK出版から刊行されています。それで見る限り、「黒幕」は存在しなかったことにされています。龍馬は普通に、今井、佐々木らに暗殺される。ただそれだけです。

 その前段で、西郷が中岡に「坂本さんを生かしておいたのは間違いじゃった」などと語らせたり、用もないのに近藤勇が出てきて「坂本は生かしておけん」などと語らせたり、いかにも黒幕説につながりそうな、思わせぶりな布石を打っているのですが、最後まで読んでみたらまったくの拍子抜けです。
 もちろん、黒幕説を採らなきゃいけないわけではありませんし、安直な黒幕説は興ざめなだけですが、あれだけプロデューサだかなんだかが「黒幕説」をほのめかしておきながら、このザマです。
 視聴者は、あのプロデューサーに一杯くらわされたというわけですね。

 もちろん、収録の土壇場で脚本を変えてしまい、ドラマの本編は黒幕説で撮影した、という可能性はありますが、まあ常識的には考えられないでしょう。

 繰り替えしますが、龍馬伝の結末、黒幕説ではありあませんでした。

ゲタを預けた?
桐野
猿山さん

ノベライズの結末紹介有難うございます。
ネタバレ気味ですが(笑)。

もしノベライズに忠実にドラマが制作されるならと仮定しての話ですが、辛うじて「此岸」に踏み止まったといったところでしょうか。「彼岸」が何を意味するか、あえて申しませんが。

150年前の明治維新が、そして龍馬や西郷や木戸が、手厳しい歴史の評価に晒されるように、大河ドラマ「龍馬伝」も同様です。
10年後、20年後にどのように評価されるのか、語り継がれるだけのものを描けるのか、そのあたりに思いを致せば、興味本位の黒幕説はとれない、あえて見解を示さず、視聴者に判断のゲタを預けるという趣向でしょうか?


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本日9日(土)付の朝日新聞朝刊。
be」というカラー別刷り紙面があります。

その2面に「一度は訪ねたい城」という記事があり、少しコメントしています。
よかったら、ご覧下さい。

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【2010/10/09 07:46】 | 戦国織豊
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見ました!
びわこ
おはようございます。

世界遺産登録を目論んでいる彦根城としては、非常に微妙な順位だなぁ・・・と思いました。

「一度は訪れてみたい」ってことで、彦根城や安土城なんかは訪れやすい立地だからこういう結果になったのでしょうか。
(と、思いたいですね)

ひこにゃん
桐野
びわこさん

私は安土城が彦根城より順位が下だったのが少し意外でした。
まあ、安土城には天主がないですから、しかたがないのです。
それで、ひこにゃん人気じゃないですかねとコメントしたのですが、やはり軽薄だったのか、その部分は取り上げられなかったようです。

薩摩浪人梶原鉄之助について
菖蒲和弘
はじめまして。
『順天塾姓名録』に登場する「日州佐土原藩 梶原鉄之助」のことを検索していましたら、「高杉晋作の刀」のタイトルで「薩摩浪人梶原鉄之助」がヒットしました。
 おそらく、同名ですが、別人物の可能性が高いでしょう。しかし、何か気にかかってしまいました。佐土原藩の梶原鉄之助は、医学修業で佐倉・蘭学医塾「順天堂」で学んでいます。修業後、佐土原には戻らず、行方不明となっています。ひょっとしたら、、、。

情報御礼
桐野
菖蒲和弘さん

古いエントリーについてコメント有難うございます。

梶原鉄之助が佐土原藩出身の可能性もあるとのことですね。
ほかにも史料が見つかればよいですが。

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先日、お知らせした武蔵野大学生涯学習講座の特別講座。
正式に告知がありましたので、お知らせします。

主催者の案内サイトはここです。問い合わせや申し込みはこちらからできます。

講座の日時・場所やテーマ、具体的内容などはここをご覧下さい。

これまであまり知られていない史実も含めて、お話しします。
きっと納得してもらえる講座になると思います。
お時間のある方、ぜひご参加下さい。

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【2010/10/08 23:54】 | イベント
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先週30日、名古屋の中日文化センターに出講し、帰宅するまでの間に、どうやら太田牛一『信長公記』(角川文庫版)を紛失したようである。
当日携行のバッグだけでなく、拙宅事務所の机まわりをいくら探しても出てこない。教室の講師机まわりに忘れていなかったか、主催者に問い合わせたけど、何もなかったとのこと。

ほかに考えられるとすれば、帰りの新幹線のぞみの車中である。
棚の上にバッグを横に置いた。口が開いているヤツだったから、横にしていると振動などで外に飛び出した可能性がある。棚から下ろすとき、見えないしチェックしたわけでもないから、外に滑り落ちたのを気づかなかったかもしれない。

う~ん、惜しい。悔しい。
あれはもう20年以上使い込んだ年季もの。
刊行年は1980年代だったような。
これまでさんざんお世話になり、これを見ながら、多くの著書・論文・雑誌記事などを書いた。
愛着がありすぎる。

角川文庫版は絶版になって久しく、ほとんど古書市場にも出てこない。
幸い、もう1冊もっているから何とかなるが、これは10年ほど前、同書が絶版になった頃に買ったもの。
しかし、もともと同書は活版である。度重なる重版のために活字が摩耗していたり、活字の輪郭がシャープではない。その意味でも紛失した本がもったいない。あれはとてもクリアな版面だった。インクののりもちょうどよく見やすかった。

悔しいので、JR東海の遺失物係に連絡しようかな。

残りの1冊を紛失すれば、大変なことになるのに気づいた。てきめん仕事に差し障りが出るのだ。
室外に持ち出さなくても、拙宅の劣悪な蔵書環境では室内で紛失する可能性もあるのだ。
実際、紛失したこの本も一時行方不明になったことがあるほど。

そういえば、研究会仲間にはこの角川文庫版を10冊とか5冊とか持っているという人たちもいたな。
2冊しか持っていなかった自分の思い入れの薄さを思い知らされたが、いまとなっては紛失のリスク回避でもあったと思い知らされる。
仲間のみなさん、1冊分けて下さいませ(爆)。


先月末、新しいデスクトップPCがおでまし。
OSはWINDOWS7である。
前の機種はOSがXPだったが、昨年漏電で強制シャットダウンを繰り返す恐怖の一日から、どうも具合が悪くなり、最近は頻繁に画面がフリーズしたり、外付けHDDを認識しなかったりと、トラブルが多かった。とくにフリーズの多さには辟易させられ、急ぎの仕事のときには画面を叩きたい衝動にかられたほど(笑)。

これまでは、Vistaの芳しからぬ噂を聞いていたので、ずっとXPで通していた。
今回もまだXP搭載のPCがあると業者が教えてくれたので、よほどXPを選ぼうかと思ったが、WINDOWS7はVistaほどの悪評は聞かなかったのと、XPのサポート期間もほどなく終了するというので思い切る。
じつは、このエントリーは新しいPCで書いている。
キータッチにまだ違和感が残るが、何とかこなしている。
でも、全体の仕様やデスクトップ画面がXPより様変わりしているので、慣れるのにはまだ時間がかかりそう。

内蔵HDDも容量大きいし、画像データもかなり載せられそう。メモリもどっさりんこ装着してある。
いまのところ軽快である。
主要なデータ転送も終わり、メインのPCとしてようやく使えるほどにカスタマイズできた。
近々本格起動になりそうです。

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【2010/10/07 18:00】 | 日次記
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角川文庫版
千葉和彦
いつか図書館で読んだのですが、「信長を狙撃した男は、たぶん忍者じゃねーよ」と大変なことが当たり前のように注釈に書かれていてビックリした覚えがあります。

(これまで2回ばかりペンネームでコメントしましたが今回は本名で)


164go
わたしは

>悔しいので、JR東海の遺失物係に連絡しようかな。

に1票です。


忍者?
桐野
千葉和彦さん

おそらく杉谷善住坊のことだと思いますが、角川文庫版に彼が忍者じゃないという注釈があった記憶がないのですが、どうなんでしょうね?
「鉄炮の上手」とはありますが……。

話し中
桐野
164goさん

一票有難うございます。

と思いまして、私も遺失物係に電話しているのですが、ずっ~と話し中なんです(泣)。
かけた時間帯が悪いのでしょうかね?
先ほどもダメでした。

ダメでした
桐野
164goさん

さっきようやく電話がつながり、調べてもらいましたが、当日、「信長」の付く本の落とし物はなかったそうです(泣)。

角川文庫版(補足)
千葉和彦
あ、すみません、説明不足でした。
正確には角川文庫版を読んでいたら、杉谷善住坊への注記として、「伊勢菰野の杉谷城主・荻原善住坊であろう」(大意)と記されていたのです。

私はてっきり善住坊は「甲賀杉谷忍びで鉄砲の名手」だと思い込んでいましたので、「城主」と「忍者」の落差に面食らった次第です。
その後、角川文庫版以外の「信長公記」にもあたってみたのですが、こうした注記は角川文庫版だけのようでした。


残念でしたね
市野澤 永
こんばんわ。

手元に予備(角川ソフィア文庫)があるので、お分けすることができます。
しかし、複本があると伺い、安心しました。
出てくるといいですね。

私の経験上、遺失物へのTELは中々繋がりません。
また、「ありません」と返答されても、
日を置いてTELすると、「ありました」ということがありました。

私も通勤時に天野忠幸氏と町田明広氏の新著を読んでいるので、無くさないようにしないと。
熱中し過ぎて、降りなければいけない駅に慌てて気付くことがチラホラ・・・(苦笑)

9日は峰岸純夫氏の講演に行って参ります!

甲賀五十三家
桐野
千葉和彦さん

杉谷善住坊の後ろの索引にある記事のことでしたか。了解です。甲賀五十三家に杉谷氏がいるのはたしかですから、その一族の可能性はありますね。

『言継卿記』だったか、善住坊は4挺の鉄炮で狙撃したと書かれています。もし事実なら、一人では実行不可能ですから、仲間か配下がほかにもいたと考えられますね。


有難うございます
桐野
市野澤 永さん

先日はこちらのミスで失礼しました。

お気遣い有難うございます。
もし必要になったら、お願いするかもしれません。そのときは何か本か史料をお返しに用意します。



九州で催される企画展と「信長公記」
市野澤 永
こんにちわ。

下記の九州で開催され特別展示は桐野さんの守備範囲の範疇かと思い、ご連絡致します。

特別企画展「伊東義祐と佐土原」
場所 宮崎市佐土原歴史資料館
期間 平成22年9月11日(土)~10月31日(日)
詳しくは、こちら ↓

http://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/cul/rekisi/sadowara/index.html 

『中世薩摩の雄、澁谷氏の軌跡』(仮)
場所 薩摩川内市川内歴史資料館
期間 10月27日(水)~12月12日(日)
詳しくは、こちら ↓

http://rekishi.sendai-net.jp/index2.htm

先週の土曜日、千葉県佐倉市で催された峰岸純夫氏の講演「戦国動乱の開幕と千葉氏-享徳の乱を中心に-」、行って参りました。
今月、江戸東京博物館で開催されている「徳川御三卿」展にも行って来ようと考えています。

その後、「信長公記」は発見されたのでしょうか?
やはり、桐野さんが同書を1冊のみの所有では何かと不都合と思いまして、
まことに勝手ながら知り合いの古書店へお声掛けさせて頂きました。
もし、購入できれば、同書の表紙が長篠合戦図屏風に描写されている信長のタイプ。
1990年代に刷られたものだそうです(この辺りは不確か)。
価格は当時の定価の半額でよいとのことです。
今月中には結果が分かる筈です。

上記が不首尾になった際は私が所有している角川ソフィア版で宜しければ、お差し上げ致します。
前回も申し上げましたが、当方は同書の複本を所有しています。新人物往来社版も所有していますので、ご心配なされないようにお願い致します。

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日曜日の大河ドラマは地上波を見逃し、BSで見ようと思ったら、うたた寝してしまって、最後の10分程度、清風亭での龍馬と後藤象二郎の睨み合いを見ただけでした(残念)。
土曜日の再放送を見てみます。

さて、来月からの2回特別講座のご案内です。
以前からやっておりました武蔵野大学生涯学習講座で、急遽カリキュラムが組まれました。

大河ドラマ「龍馬伝」は史実から見たらどうなのか?
龍馬暗殺の真相はどれが本当か?


といった疑問をお持ちの方々に最適の講座です。

それで、現段階で以下のような予定です。

【タイトル】
龍馬暗殺―近江屋事件の背景と真相―

【講義概要】
坂本龍馬の死の真相はそれほど謎ではありません。にもかかわらず、なぜ諸説紛々としているのか。それはこの事件が自明すぎて、正面からの研究対象になってこなかったため、珍説や奇説が横行するようになったといえます。
当講座では、近江屋事件の政治的な背景をまず理解したうえで、龍馬の死の真相に迫ります。とくに「薩摩黒幕説」の誤りを再検討します。


【開講日と講義内容】
第1回 11月19日(金)13:00~14:30 龍馬は大政奉還派? 武力討幕派?
第2回 12月 3日(金)13:00~14:30 薩摩黒幕説の誤りはどこにあるのか?

【会場】
武蔵野大学三鷹サテライトキャンパス
(JR中央線三鷹駅北口前 HN28ビル6F)
アクセスなどここをご覧下さい。

【問い合わせ】
問い合わせ先はここですが、いま企画がほぼ固まった段階で、正式の告知はまだです。告知されてから、また詳しくご案内します。

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【2010/10/05 22:40】 | 武蔵野大学社会連携センター
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第166回
―江戸城二の丸に放火―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

伊牟田尚平シリーズも6回目になりました。
まだ薩邸焼き討ちまで進んでおりません。
今回は伊牟田による江戸城二の丸への放火一件です。

この事件もけっこう謎ですね。
いくら天璋院篤姫付きの女中たちの手引があったとしても、よく江戸城中、それも大奥近くまで入れたものだと思います。町人(出入り商人)に変装したとか、長持に隠れて運ばれたとか、何か工夫があったと思うのですが、よくわかりません。
当時、江戸城本丸は焼失しており、大奥は二の丸にありました。
この放火騒ぎで、篤姫も三の丸に避難する始末です。篤姫は真相を知っていたのでしょうかね?
また、伊牟田が放火にマッチを使ったという証言も面白いですね。おそらく横浜あたりに入ってきた輸入品でしょう。
この火事の規模ですが、「自証院日並要用記」には「御城二丸残らず炎上」とありますから、丸焼けになったみたいです。

この放火に徳川方が怒らないはずがありませんが、当初、薩摩藩もしくは伊牟田の仕業だとわからなかったのではないかという気がします。
放火事件は12月23日、薩邸焼き討ちは25日ですから、因果関係がありそうにもみえますが、詳しいことはわかりませんね。

あと、今回の胆は、伊牟田などの関東攪乱工作は西郷吉之助の密命を帯びたものという通説を批判したことです。
京都留守居役の吉井幸輔から、伊牟田と益満休之助に宛てて、自重を促す手紙が送られています。やはり大政奉還を契機に、薩摩藩も自重策に出ているのです。
また、西郷自身もこうした攪乱工作を知らなかった可能性が高いです。
そのあたりは次回にでも書きます。

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【2010/10/04 18:07】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様

こんばんわ。現場の暴走ですか。戦争に於いては往々にしてあることですが。それにしても江戸城に潜入するとは、よく脱出できましたね。江戸城の御金蔵破りをした盗賊の話はどこかで聞いたことがありますが、本当ならこの伊牟田という人物の何をしでかすかわからない底知れぬ大胆さを感じますね。
 それからあんなに徳川に尽くした篤姫がこの陰謀を知っていた筈はないと思いました。

すごいんです
桐野
ながおさん

伊牟田尚平の行動力はすごいですね。
神出鬼没ですから。
ご指摘のとおり、よく江戸城に入れたものだと思います。どうやって入ったのでしょうね?

もっとも、幕末慶応期でも、江戸城見学を天領の農民たちに解放したこともあったようです。
でも、慶応3年後半は政治的に緊迫していますから、さすがになかっただろうと思いますね。

篤姫はもちろん知らなかったと思います。
彼女はもう徳川の人で、ほとんど薩摩という意識はなかったと思います。


ながお
桐野様

ありがとうございました。神田祭り等の行列は入るのを許可されていましたが、江戸城を見学させるなんてそんな粋なことをやっていたのですね。

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一昨30日、名古屋の栄中日文化センターに出講。

他の仕事との折り合いがつかずに、レジュメの作成が前夜未明までずれ込み、就寝は午前3時過ぎ。
6時過ぎには起床で、内外のネコの世話をはじめ、あれこれ雑用が大変。

13:00からは「信長公記を読み解く」第3クールの3回目。
テーマは「志賀の陣と『勅命講和』

レジュメはB4で15枚。
どうだという感じですな(爆)。
当然、時間内に終わるかどうか懸念されたが、途中端折ったりしたので、10分程度の超過で終了。

目玉は、綸旨や御内書、起請文などが天皇・義昭(二条晴良)・信長・義景(長政)・延暦寺の5者でどのように取り交わされたのかということを図示した点である。
史料の現存状況に制約されているものの、その多くが延暦寺に宛てられていることから、この和睦交渉が延暦寺の和睦承諾に精力を使ったことがうかがえた。
そして、いわゆる「勅命講和」も信長・義景を対象にしたとは思えず、義昭・晴良の説得や信長の起請文が延暦寺に功を奏さなかったため、綸旨が発給されたのではないかと推測してみた。

また奥野高広氏が紹介した宛所が切断された信長条書は誰宛てだったのかという推理もしてみた。通説の浅井長政宛てでないという結論。
ただ、この条書の冒頭に「勅宣」とあるのは何を意味するのかよくわからなかった。条書の日付からして、信長や義景に宛てた綸旨(勅命講和)だとは思えない。両者に綸旨が発給されたなら、『信長記』はむろん、『御湯殿の上の日記』『言継卿記』などに何らかの証跡が残ると思うからである。


15:30より教室を変えて、「戦国の手紙を読み解く」の6回目。
この講座の最終回となり、豊臣秀吉を取り上げた。
テーマは「豊臣秀吉―山の奧、海は櫓櫂の続き候迄―

副題は有名な奥州仕置からとった一節(浅野家文書)。
秀吉の自敬表現、有名な三国国割構想、秀吉遺言覚書(浅野家文書)、そして北政所やおひろい(秀頼)宛ての消息を読む。
プライベート面では、秀吉が豪姫を可愛がっていたことを確認。
豪姫を「五もじ」と呼んでいる。「五」は「ごう」の一字をとってあてたからではないかと解釈したが、よかったか?

織田信長、上杉景勝、安国寺恵瓊、伊達政宗、千利休そして豊臣秀吉と半年間読んできました。
熱心に受講され、多くの質問をされた受講生のみなさんに感謝です。

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【2010/10/02 16:27】 | 中日文化センター
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「五もじ」に関して
舘鼻 誠
はじめまして

「五もじ」の件ですが、この言葉は、娘や女性をさす言葉として、毛利家文書などにも頻繁に登場しています(弘治3年の三子教訓状8条のほか543号、544号など)。
このためあえて豪の当て字として読む必要はないかと思われます。
ご参考までに。

ところで先日、ご著書の『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船』を拝見し、そのなかで能島村上の根城を伯方島の城に比定され、能島を出城に位置づけた文章に目がとまりました。
私も、海賊の拠点は海城の能島だけを見るのではなく、その対岸を含めて考察する必要があることをかつて書いたことがありますが(『戦国争乱を生きるー大名・村・女たち』NHKライブラリー)、現地でのフィールド調査をふまえて考えると、伯方側よりも、対岸の大島の存在のほうが本拠としてはふさわしいのではないかと考えています。
たとえば村上氏は、信仰のシンボルとして宝篋印塔を建立していますが、大島には南北朝期からの大型の宝篋印塔が存在するのに対し、伯方にはこのクラスの宝篋印塔が1基も存在せず、あるのは小型塔ばかりです。
また五輪塔の分布も、大島側に集中します。
これは造塔者に階層差があることを示唆するもので、本拠が大島側にあったことを示す一例ではないかと思います(もちろん伯方側の機能も否定はしませんが)。
こうした石塔の分布や形態は、本拠や信仰空間などを復元するうえで極めて有効な歴史資料になりますが、2005年から4年間かけて私が実施した小早川領とその周辺地域における石塔調査(科研調査)では、時間的な制約もあって、島嶼部の調査は細かくできませんでした。
このため、上記の内容も、なお検討の余地が残りますが、『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書ー石造物編』(愛媛県教育委員会)を見ても、同様の傾向が読み取れます。
ご参考になれば幸いです。

ご教示御礼
桐野
舘鼻 誠さん、はじめまして。

お名前は存じ上げております。
いろいろご教示有難うございます。

「五もじ」の件、私もじつは疑問に感じていたのですが、毛利元就の一女五竜も「五もじ」と呼ばれていること。また秀吉消息で北政所(おねorねい)も「ねもじ」と呼ばれていることから類推して、その一字をとって「~もじ」としているのかと思ってしまいました。不勉強でした。

また拙著もご覧いただいたようで恐縮です。
能島水軍の拠点が伯方島ではなく反対側の大島の可能性が高いとのこと。それも宝篋印塔の分布や格式での推定など、大変参考になりました。

以上、2点有難うございました。


舘鼻誠
こんにちは。
お返事ありがとうございます。

「五もじ」に関して二、三の補足です。
「もじ」という言葉は、「ある語の後半を省き、その代わりに添えて品よくいう語」(日本国語大辞典)として、名前の一文字を略して使われることが多いですね。
秀吉も、側室の三条に宛てた書状で「ともし」と記しています。
吉川元春の妻も、子息の広家を「ひもし」と呼び(吉川家文書1217)、輝元の姉(吉見広頼妻)と見られる女性(大日本古文書は尾崎局としますが内容から姉と推察/五條小枝子「中の丸(毛利元就継室)考」)が輝元に宛てた書状にも、おじいさまを「ちもし」(ぢもじ)、母を「かもし」と記しています(毛利家文書1325)。
ご指摘の秀吉の「ねもし」もそうですね。

ただ、こうした表記は、すべて、仮名文字+もじという特徴があります。
これに対し「五もじ」は、漢字の「五」+もじで、表記が異なります。
宍戸隆家の正室を「五もじ」と呼んでいるのはご指摘の通りですが、これも、表記が漢字です。
彼女が五竜城に嫁いだため、「五竜」の五+もじと考えることもできますが、たとえば、隆元に宛てた元就の書状では、「五龍の五もし」(毛利家文書543号)という表記もあり、「五竜」をわざわざ書く点から見て、「五もじ」が五竜の略字ではないことがうかがわれます。

小学館の『大日本国語辞典』の「ご文字」の項目にもありますが、漢字表記の「五もじ」は、「御寮人」を「五」と略して、「もじ」をつけたのではないかと思います。
御寮人を「五」と略す理由は、よくわかりませんが、同じく『大日本国語辞典』の「五文字」の項目に引用される「婦の五徳を備へしいはれなり」というあたりが、案外あたっているのではないかと思います。

秀吉も、松の丸にあてた書状で、彼女を「西の丸 五もし」と表記し、彼女の侍女の「おぐら」「おく」に宛てた書状でも、「西のまるお五」と表記しています。
おそらく名門、佐々木京極の娘であることに敬意をあらわして、「たもじ」ではなく、あえて「五もじ」と表記したのでしょう。
この点から、秀吉の側室のなかでも、淀殿と松の丸は、別格の扱いを受けていたのではないかと推察され、それを故に、醍醐の花見の盃争いのようことも生じただと思います。

なお、ご指摘の「ねもじ」も、「ね」の下にさらに文字が続くから、「ねもじ」と略されたのだと思われます。
最近は、すっかり「ねね」説が否定され、「おね」か「ねい」の表記にかわってしまいましたが、上記の理由から、私は「ねね」の可能性は、まだかなり高いのではないかと考えています。
「ね」説への反論として、角田文衛の『日本の女性名』(教育社歴史新書、国書刊行会から再刊されたようです)をあげておきます。
ほとんど注目されていないようですが、私も、角田氏の見解で良いのではないかと思います。

長くなりましたが、ご参考まで。


五文字
桐野
舘鼻誠さん

再度の詳しいご教示有難うございます。

うろ覚えではなく、ちゃんと日国を調べたらよかったと思います。
日国には「五文字」に娘、少女という意味がありますものね。

語源は「婦の五徳」から来たとのこと。勉強になりました。
信長長女で徳川信康に嫁いだ五徳も何かそのあたりと関わりありそうですね。

故・角田文衛さんのご本はたしか持っていたと思いますので、再読してみます。

御礼まで。

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