歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第173回
―情報通信の新時代開く―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

寺島宗則の続きで、メインのテーマである電信についての話です。
冒頭にも書いたように、大久保利通の曽孫・利泰氏からロンドン・タイムスの記事を見せてもらったのはもう数年前ですが、ずっと印象に残っていて、いつか記事にできないかと思っていました。

幸い、昨年の帰郷のとき、照国神社をうろうろしていたら、偶然、鶴丸城旧二の丸にあった探勝園跡の電信碑を見つけて撮影できたので、何とかなるなと思いました。
念じていると、何となく叶うというか、向こうからチャンスが接近してくるように感じます。
まあ、錯覚というか、単なる偶然でしょうが(笑)。

寺島宗則は私の郷里の出身なので、思い入れもあるからでしょうが、やはりすごい人だと思います。
本来は学者でありながら、政治家としてもすごい見識と実行力をもっていたと思います。
首相になってもおかしくないくらいだったと思いますが、薩英戦争で捕虜になった一件が瑕疵となり、薩閥では傍流の道を歩まざるをえなかったのだろうなと思います。五代友厚が実業界に転じたのも、寺島と同じ境遇だったからでしょうか?

薩摩藩の人材といえば、西郷に連なる軍人系統が注目され、それがまた「薩摩」のイメージを形づくっていますけれども、私は最近、寺島や五代をはじめ、中井弘、町田久成、野村盛秀、鮫島尚信、上野景範、重野安繹といった人々に興味があります。彼らをいちばん理解していて、その使い道を知っていたのは大久保利通だったかもしれませんが。

寺島といえば、亡命中の寺島を助けた清水卯三郎がいるのを思い出しました。薩英戦争のとき、英国艦隊の旗艦ユーライアス号に乗船しており、捕虜となった寺島を助けて匿った人です。

思い起こせば、30年ほど前の大河ドラマ「獅子の時代」がありましたが、その第1回が慶応3年(1867)のパリ万博から始まり、卯三郎こと瑞穂屋を児玉清が演じていましたね。懐かしい。

じつをいうと、卯三郎の墓は拙宅の近所の寺にあったのですが、数年前に卯三郎の郷里、埼玉県羽生市に改葬されてしまいました。
昨年だったか、私はそれを知らずに、地元の寺で一生懸命探し回ったことを思い出します。今度は羽生にも行かないといけないようで。
余談ながら、卯三郎は剣客でも知られる根岸友山の甥にあたるようですね。

次回は何を書くか、まだ決めていません。
このところ、眼前の仕事に追われて、ネタの仕込みを怠っていたので、そろそろ何とかしないといけません。

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【2010/11/29 23:38】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様 こんばんわ

 寺島宗則、阿久根出身だと思っていたら、出水だったのですね。脇本海岸、よく海水浴に行っていました。薩摩は文化的にも多彩な人物が多いですね。新選組の初期メンバー根岸友山の名前が出てくるとは。人のつながりは、面白いです。
 ところで私は出水の郷士伊藤祐徳にとても興味があります。西南戦争で官軍に寝返った後の彼の人生を知りたいです。戊辰戦争時の日記が出ていますね。時代はかなりさかのぼりますが、薩州家の島津忠辰を思わせます。祐徳は、この間原口先生達とのクルージングで話題になってましたよね。私も「歴史への招待」最終回観てました。いつか「さつま人国誌」で取り上げて下さい。

薩摩の人材
卯月かいな
こんにちは。

薩摩の人材は本当にいろいろいて、幅広いですよね。
私は前々から大久保との繋がりで五代に興味があり、最近は高橋新吉、畠山義成、前田正名などなどを調べつつあるのですが、いわば彼らの親玉(?)の寺島はまったくノーマークでした(汗)
そういったあたりを調べていくと、かなり面白そうな予感がします。

「さつま人国誌」には、そんないろいろな示唆をいただいております。今後の連載も楽しみにしています。

歴史ブログ始めました。村田新八について調べたことなどを書いてます。お暇な時にでものぞいていただけたら幸いです。

伊藤祐徳
桐野
ながおさん

寺島宗則の出身地脇本は現在、出水市ではなくて阿久根市ですね。当時は出水郷だったようです。

伊藤祐徳については、私の郷里の人でもありますから、個人的に興味をもっております。
ただ、現知事の先祖ですからね(笑)。

高橋新吉・前田正名
桐野
卯月かいなさん

高橋新吉や前田正名については、私も書きたいと思っています。
鹿児島県立図書館前に「薩摩辞書」の石碑が立っていますしね。

そういえば、以前、京都の東山を散策していたら、前田正名の史跡にぶつかりました。彼の農学についても書きたいですね。

ブログなどたまに拝見しております。
頑張って下さい。

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最終回のために、この雑文を書き綴ってきたようなものですが、感想を一言でいえば、あっけない終わり方でした。

岩崎弥太郎が近江屋事件直前に龍馬に会うはずがない。
中岡慎太郎が龍馬を斬りに来るはずがない。
大政奉還直後に小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵は帰国しており、京都にいるはずがない。
「新官制擬定書」は龍馬ではなく尾崎三良が起草し、そのなかに龍馬の名前が厳然と存在しますから、慎太郎の台詞はおかしい。

などなど、相変わらずのツッコミどころが散見されましたが、もういいでしょう。

どういうわけか、「黒幕」云々というトンデモ世界に踏み込まなかったですね。これまで散々思わせぶりのシーンを見せつけてきたのは何だったのか、その「因循」さには少し困惑しました。

いささか唐突でしたが、市川亀治郎演じる今井信郎に「徳川の恨み」と口走らせただけで十分です。
まさにこの台詞こそ、龍馬の死の背景と理由を暗示してあまりあります。

最後の一線で踏み止まったのは、ドラマ構成的には破綻というか失敗ですが、番組制作者の「見識」だったと思うことにします。
やはり「史実」の重みには敬意を払わざるを得なかったということでしょうか。

余談ですが、亀治郎と香川照之は従兄弟だけに、よく似てましたね。
2人がからむ場面で、頭の形とか顔のつくりがそっくりでした。

さて、来年の大河ドラマも私の守備範囲になりますが、どうしたものやら?

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【2010/11/28 21:49】 | 龍馬伝
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お疲れさまでした
武藤 臼
苦手な幕末の話について
一年間勉強させていただきました。
ありがとうございました。

来年はまあ・・・
だいぶ見えているようにも思いますが^^;

ここは!
というところだけでも有意な話を聞かせていただけると
また違う世界が見られる・・・と思っている人は
私だけではないと思います^^;

いろいろ御礼
桐野
武藤 臼さん

コメント有難うございます。
来年も無視するわけにはいかないと思いますが……。

この間、いろいろ有難うございました。


結構有意義でした。
NAO4@吟遊詩人
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で知った気になっていた私には桐野先生より、史実をお教えいただき、大変有意義でした。

ありがとうございました。

たかが浪人と過小評価する考えにも接したことはありますが、

つくづく考えますと、龍馬は、何でもかんでも龍馬の功績ではないにしろ、周旋の力を発揮した一人の革命児でではなかったかと思っています。


市野澤 永
こんばんわ。

お世話になります。

『龍馬伝』、最終回だけは見ました。

>あっけない終わり方でした

同感です。
まさにそのとおりでした。

>相変わらずのツッコミどころが散見されましたが、もういいでしょう

中村武生氏がブログの2010.11.22「龍馬伝紀行47話をみた」でも同様なコメントを残していらっしゃいますね。

》本編には何もいわない。きりがないから。

個人的には福山さんの龍馬より、今回は中岡役だった上川さんが以前にTBS系で演じられた龍馬の方が私には印象に残ったかな・・・

>来年の大河ドラマも私の守備範囲になりますが、どうしたものやら?

来年もできる限り、お願い致します。
例の講演のテーマとして、3つの候補の内の1つなのです。

前記した中村氏が同日のブログで

》「ほたえな」って、龍馬は本当に言ったのですか。なぜわかるのですか。
》言われた人は本当に部屋の外にいたのですか。出典は何かご存じですか。

というような、鋭いツッコミを来年も期待しております。

ブログを拝見していて、「風林火山」の時のように途中でお止めになりそうな感じがチラホラしていて、
気がかりでした。
一年間、お疲れ様でした。

藤本正行氏の新著、「本能寺の変」(洋泉社)を読了しました。
以前にお尋ねした鈴木眞哉氏が時折、引用している高瀬羽皐氏の翻訳ですが、
これって史料っていえるのでしょうか?原文にあたるべきように感じました。
藤本氏は桐野さんの見解に同感なされる点も述べられていましたが、反論もおありのようで。
これも以前に申しましたが、藤本氏の桐野さんへの桶狭間・長篠、本能寺の一連の反論は腹に落ちないです。

それでは失礼致します。




164go
桐野先生、ありがとうございました。

ブログにも書きましたが
先生と大河ドラマのおかげで
ようやく、ホントにようやく
フィクションの竜馬から
史実の龍馬へふっきれそうです。

そういう意味では
個人的には意義深い一年となりました。

1年間お疲れ様でした!
小林哲也
桐野先生1年間お疲れ様でした! このブログでの桐野先生の鋭い考察を参考にさせて頂いたおかげで(直接お話・質問させていただいたことも含めて)
自分も何とか1年間「龍馬伝」の感想を綴ることができました。ありがとうございました!

福山龍馬がなかなか薩摩へ行かないことや龍馬以外の人物たちのつくり込みの浅さ時系列の無視などなど不安・苛立ちを感じたことも多かった「龍馬伝」ですが最終回を迎えてよかったと思います。

1年を終えて自分が「龍馬ファン」・「幕末ファン」で良かったなあと改めて思いました。

また先生ともお会いできれば嬉しいです。

これからもよろしくお願い致します。

ありがとうございました
tsubu
桐野先生、こんにちは。

私も先生の感想で大変勉強させて頂きまして、ありがとうございました。
そしてお疲れさまでございました。

龍馬伝については、薩摩藩の扱いが粗略極まりないものになっていましたので、
最終回は黒幕関係でかなり心配していたのですが、ほんと案外な終わり方でしたね。
あんな終わり方をするのであれな、わざわざ終盤に大久保を登場させる必要もなかったと思うのですが……。
ともあれ、変な黒幕設定されずに良かったと一安心しております。

有難うございます
桐野
みなさん

激励のお言葉、有難うございます。
感想を書けたのはせいぜい6割程度ですが、読んでいただき感謝です。

来年はどうなるかわかりませんが、これからもご愛読のほどお願いします。

2011年NHK大河ドラマ特別展「江~姫たちの戦国~」
市野澤 永
>さて、来年の大河ドラマも私の守備範囲になりますが、どうしたものやら?

私の勤務する図書館へ江戸東京博物館において、開催される

2011年NHK大河ドラマ特別展「江~姫たちの戦国~」
期間 2011年1月2日(日)~2011年2月20日(日)

の広告が届きました。
私は行きます!桐野さんは行かれますか?

えどはくカルチャー「お市と浅井三姉妹の生涯」
2011年1月27日(木)14:00~16:00
講師は太田浩司氏です。対談は斎藤慎一氏です。

江戸東京博物館のHP ↓

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

情報多謝
桐野
市野澤さん

いろいろ情報を提供していただき、有難うございます。
太田浩司さんとは知り合いなので、見に行けたらと思いますが……。


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ビッグニュースですね。

薩摩藩の二本松藩邸の絵図面が見つかったようです。
ここです。

現在の同志社大学今出川キャンパスは、幕末期の文久3年(1863)以降、相国寺からの借地により、薩摩藩邸になりました。
「二本松」と呼ばれるのは、同大学の今出川通りに面したあたりが当時、相国寺の門前町として「二本松町」と呼ばれていたことにちなむものです。

桐野利秋『京在日記』にも、二本松藩邸の長屋に戻ったという記事があります。
藩主御座所や重役連の部屋もあったはずで、在京薩摩藩の内部体制や家格に応じた部屋割なども判明するかもしれませんね。

これは見に行かなくちゃ。

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【2010/11/25 22:15】 | 幕末維新
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まいたけ
 ステキな情報、ありがとうございます!

 同社大学のサイトを探してみたら、同志社大学今出川キャンパスでは、Neesima Room第38回企画展「幕末と同志社―薩摩藩邸址にあって―」が開催中のようです。この企画展の目玉展示のようですね。

 このコメントの「URL」参照。

 また、12月11日には、尚古集成館の田村省三氏の公開講演会「島津家と近衛家―京都から薩摩への文化伝承―」が催されるようです。

 来月上旬、上方へ行く用事があるので、時間的に行けそうなら見学してみたいです。

 それから、同志社大学では、発掘調査も行われているようで、「相国寺旧境内と薩摩藩邸跡の発掘調査速報」というサイトもありました。
 http://blogs.yahoo.co.jp/imadegawa2010/
 

情報御礼
桐野
まいたけさん

いろいろ情報提供、有難うございます。
今回は何とか会期中に上洛したいと思っています。


ぽん助
期間中においも見に行きもす。
どうせなら12/11がよさげ。。。

上洛
桐野
ぽん助さん

11日は尚古集成館の田村館長の講演があるようですね。この夏、鹿児島での龍馬シンポでご一緒しました。
でも、この日は無理そうです。
何とか期間中に行こうと思っています。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第172回
―先祖は甑島流罪の公家―

先週は休刊日でお休みでした。2週間ぶりの再開です。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば,ご覧になれます。

今回は寺島宗則を取り上げました。
以前から、この人は学者としても、政治家としてもすごい人だと思っていて、何とか書きたいと念願していました。
しかし、薩摩藩英国留学生については、多くの先行研究がありますので、今回はそれをはずしたエピソードに絞りました。
今回は学者としての彼のすごさと、数奇な出自について書きました。
彼の先祖が有名な「猪熊事件」に連坐した中御門宗信だというのはだいぶ前から知っていて、本来は薩摩に流罪になった宗信に焦点を当てて書こうと思っていたのですが、史料が少なく、写真もないために断念し、寺島の先祖という形での紹介に切り換えました。
(訂正:記事では「猪」「猪事件」とありますが、「猪」「猪事件」の間違いです。変換ミスに気づきませんでした)

科学者としての彼のすごさも書きたかったのですが、紙数の関係で割愛しましたので、ここで補足しておきます。
記事にも書いた観光丸の鹿児島来航のとき、乗り組んでいた長崎海軍伝習所の医師ポンペ(正式にはポンペ・ファン・メールデルフォール)が寺島のことを書いています。

それによれば、寺島がポンペたちを感動させた出来事があったとか。
それは、わずかの助言だけで、小さな蒸気船を設計・建造したことです。
わずか12馬力の小さな蒸気船で、機関部分に少し欠陥があって、十分馬力を発揮できなかったそうですが、それでも、ほとんど独力で蒸気船を作ってしまう寺島に、ポンペらは感嘆し、

「薩摩藩の発展は松木弘安(寺島)に負うところ極めて大である」

と書いています。

まさしく、寺島は幕末日本人を代表する優れた人材で、しかもその後の日本人の特質を併せもっていると思います。戦後の経済成長を実現し、わが国の先端技術を開発した日本人の原形ではないかと思います。
そんな古き良き日本や日本人が滅びかけている昨今ですが……。

次回は表題にある「電信長官」について書きたいと思います。

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【2010/11/22 18:00】 | さつま人国誌
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本日午後から、東京三鷹の武蔵野大学サテライト教室に出講。

同大学生涯学習講座の特別講座

「龍馬暗殺――近江屋事件の背景と真相」
の第1回目の講義。
詳細はここです。

今回のテーマは、

「龍馬は大政奉還派? 武力討幕派?」

昨夜遅くまでレジュメ作り。
B4で10枚の大作である。

受講者も大変多かった。そして熱心だった。
冒頭、「今日はガチです」と宣言。
史料にこだわることを伝える。

そして、大河ドラマで描かれる龍馬像(とくに慶応3年後半の)が最大公約数的な通説であり、同時に俗説であることを強調。
また武力討幕派とか大政奉還派といったレッテルを貼る前に、「討幕(倒幕)」とは何ぞやという、そもそも論が大事だとして、幕末の人々の「討幕」、研究者の「討幕」、現代の歴史ファンの「討幕」という異なる位相があることを伝える。その定義や区別が必要で、龍馬の位置づけについてもそれを踏まえた議論が必要と強調。

その後、本論に入り、大河ドラマの先週分、龍馬が土佐に帰ったのはなぜなのか、その目的、結末などを龍馬書簡や岡内俊太郎書簡などで検証。

大河ドラマなどで描かれる龍馬像が史実や史料と乖離したものだと、多くの受講者に理解してもらえたと信じている。

でも、やっぱりレジュメが多すぎて、最後の2枚が終わらずに次回まわし。
次回のテーマは、

「薩摩藩黒幕説の誤りはどこにあるのか?」

です。
この説がいつ頃から生まれたのか、どのような「根拠」があるのか、といったところから説き起こす予定です。


明後日は長野県上田市で講演。
レジュメはこれから作成。
それまでにいくつか片付けなければならない原稿あり。
また綱渡りの日々です。ああ(涙目)。

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【2010/11/19 21:28】 | 武蔵野大学社会連携センター
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今日は激しいくらいの熱心な講演をありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
坂本龍馬は決して平和主義者ではなく、寧ろ薩長と歩調を合わせた武力討幕論者であったというのは、日頃桐野先生のブログを拝見させていただいていたので、驚きではなかったのですが、後藤象二郎が推進し、山内容堂の大政奉還の建白書につながった土佐藩の大政奉還論と、坂本龍馬が今まで、あまりしっくり繋がってこなかったのですが、本日のお話で、大分見えてきました(そこは独立しているものだと)。

一般書を読むと、坂本龍馬は武力討幕派とは対立する大政奉還派と記述しているものも多数目にいたしまして、混乱することが多いのですが、本日史料を上げてご説明いただいて、大分納得がゆきました。恐らく学術研究としての幕末維新史は、こういった史料を使って一つ一つ掘り下げていくのだろうと思いました。

町田先生の専門書もいつしか拝読させていただこうかと考えております。次回講座も何とか都合をつけて参加いたしたく、宜しくお願いいたします。

知らない人に。
薬丸流
自宅のカーポートに木の束を積んだ軽トラックを置いているからでしょうか、あるいは時々稽古着を着ているのを見られていたからでしょうか、本日知らない人(近所の人らしい)に、
「龍馬暗殺は薩摩黒幕?なんですか?」と唐突に聞かれて驚きました。
歴史ものに関心のある初老のご婦人でした。
薬丸流も御存じだったのでまた驚きました。
桐野さんが実証されていることどもを語り、大河のドラマツルギーのおかしさを語りました。
彼女は熊本の人でした。
「なるほど~」
と言って去って行かましたが、さて…

映画やテレビの影響
千葉和彦
結局、御説の中で説かれているように、映画やテレビの影響、これに尽きるのだと思います。

それも、今の大河は追随者にすぎず、元凶(?)は『六人の暗殺者』と『龍馬暗殺』。この2本の映画がフィクションとしては傑作であり、あるがゆえに皆がバリエーションを作りたがる。

対抗策、としては、見廻組単独犯行説か会桑命令説に則った映画で、この2本に並び立つほどの傑作の出現を待つしかないのでしょうね…

御礼
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、薬丸流さん、千葉和彦さん

コメント有難うございます。
また返事が遅れてすみません。

みなさんのご指摘のとおりですね。
理解していただける方が少なからずおられることがわかって、心強い限りです。


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本日17日付の読売新聞朝刊文化面に、小生の寄稿記事が載っています。

「死目前 西郷隆盛の直筆 大警視・川路利良の玄孫保管」

というタイトルです。
全国版のようですので、よかったら、読んで下さい。

この西郷自筆回状発見のいきさつなどは記事に書いたとおりです。
西郷の直筆かどうかが重要でしたので、西郷書簡の写真版をいくつも見比べた結果、その書体の特徴から間違いないと思っています。

また紙数の関係で記事に書けず、写真に一部写っていますが、宛所となった北薩の8カ郷は次の通りです。

入来、樋脇、山崎、黒木、藺牟田、佐志、鶴田、宮之城

『鹿児島県庁日誌』『宮之城町史』などにもほぼ同文が収録されていると書きましたが、『~県庁日誌』は宛所の部分が収録されておらず、『宮之城~』は6カ郷しか書かれていません。他の史料も6カ郷です。
原文書の発見により、8カ郷だとわかりました。

またこれは宛所の各郷で回覧するための回状なので、末尾に回覧済みの郷のサインが入っています。
宮之城、佐志、黒木、藺牟田の順に、4カ郷で目を通したことがわかります。

川路がこれをいつ、どのような形で入手したのか興味は尽きません。
西南戦争のとき、川路は別働第3旅団長として、熊本から県境を突破して鹿児島に入っています。
そのルートが小生の郷里出水から宮之城方面で、ちょうどこの回状の宛所の8カ郷周辺を通過しています。
そのときに没収したか、西郷軍に従わなかった郷から提出されたのかとも思いましたが、川路がそのあたりを通過したのは、回状の2カ月ほど前のことなので、何らかの別の機会があったのでしょうね。

川路家所蔵文書は、この西郷回状のほかにも興味深いのがありました。
先週13日、同じ読売新聞社会面に、川路の鳥羽伏見の戦いでの陣中書簡が掲載されましたが、それもこの所蔵文書のひとつです。その全文を承知していますが、なかなか面白いです。

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【2010/11/17 09:19】 | 幕末維新
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拝読致しました
御座候
敵将の檄文を大事に保管していたというのは実に興味深いですね。


川路がこれをいつ、どのような形で入手したのかも確かに気になります。意外と戦争終結後に入手したのかもしれません。


大恩ある「大西郷」が自ら回状を書かねばならぬほど追い詰められ、しかもそれが絶筆になってしまったことを知った時、川路の胸にどのような思いが去来したのでしょうか。


まさに「事実は小説より奇なり」ですね。

入手時期
桐野
御座候さん

わざわざのコメント有難うございます。

仰せのとおり、入手時期は戦争が終わったあとでしょうね。
政府軍は鹿児島中から武器弾薬だけでなく、関係書類を没収したはずですから、そのなかに紛れていたのではないかと思います。
大警視の川路は職務上、取り調べの過程で見つけ出したのかもしれないですね。

また西郷自筆という点も興味深いです。
西郷軍が鹿児島に戻ってきたときはわずか300人足らずで、ほとんどが戦闘員か負傷者ですから、檄文作成などの実務ができるのは西郷本人しかいなかったのではないかという内情が想像できます。

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第46回「土佐の大勝負」

1日遅れの感想です。
もはや、ずれまくった軌道は修正しようもないのですが……。

龍馬が土佐に運び込んだ小銃1000挺の一件、まったくいただけませんね。

まず基本的なことですが、龍馬は山内容堂と会っていません。というか、会えません。
容堂を説得して大政奉還の建白書を書かせたのは、後藤象二郎の仕事です。大政奉還を龍馬の仕事にしようとしていますが、後藤の手柄を横取りしてはいけないでしょう。
ドラマでは、後藤が容堂に龍馬がねたましかったと告白させていましたが、いえいえ、後藤は薩土盟約といい、大政奉還建白書といい、立派な仕事をしています。

そして小銃1000挺をめぐる一件も、これまで何度か紹介したように、龍馬と木戸の間で合意が図られたものです。
龍馬宛ての木戸書簡(9月4日付)で「狂言」とか「大芝居」という隠語を使って、京都・大坂での薩長芸三藩の挙兵計画を語り、これに土佐藩も合流するようにと木戸が勧めています。
すなわち、「乾頭取」(板垣退助)と「西吉座元」(西郷隆盛)が「此の狂言喰ひ違ひ候ては世上の大笑らひと相成り候」と述べ、土佐藩討幕派の代表である板垣と薩摩藩の西郷がしっかりと手を結び、歩調を合わせることが大事だと述べています。

龍馬はこの木戸書簡と小銃1000挺をもって土佐に乗り込むわけです。木戸書簡はほかでもない、長州藩の態度表明であると同時に、龍馬が自分の立場も木戸書簡によって語らせ、土佐藩の藩論を薩長芸三藩と合流する方向に導こうとしたわけです。

木戸書簡が土佐藩家老の渡辺弥久馬(のち斎藤利行)や大目付の本山只一郎に披露されていることは、龍馬の理解者で、龍馬と共に土佐に帰ってきた岡内俊太郎が長崎駐在の佐々木高行に宛てた書簡(10月4日付)でわかります。渡辺も本山も板垣に近い立場のようです。

「長藩木戸準一郎に薩長間の事情又将来為さんとする処の方策に付き、一之芝居に組み立て、其の者などに薩の西郷吉之助を始め、土佐人をも其の者となすの組み合わせたる手紙を書きもらい、此の手紙に龍馬より添へ手紙を認め、これを渡辺弥久馬殿に宛て届んため、一封となし、これを私携へ弥久馬殿お宅へ参り」云々

とあり、木戸書簡と龍馬書簡を岡内が渡辺弥久馬に届けたことがわかります。その後、本山只一郎宅にも行ったとありますから、本山にも見せたことは間違いないでしょう。

そして、龍馬が前述の木戸孝允書簡に返信を書いています(9月20日付)。
それには、小銃1000挺を土佐に運び込むのは「急々本国(土佐)をすくわん事を欲し」たためだとあります。また、1000挺を自分の一存で購入したのは、薩摩藩の大久保一蔵が長州に来たこと(薩長芸三藩の挙兵計画の交渉が目的)を知ったからだと述べています。
つまり、龍馬は土佐藩も薩長芸三藩挙兵計画に合流させようとし、そのためには武器が必要だと判断したわけです。ドラマとは趣旨が全然違います。

さらに龍馬は土佐に帰ると、「乾退助に引き合わせ置き、それより上国に出候て」つまり、板垣退助に武器を引き渡したうえで上京すると述べ、さらに「後藤庄次郎(象二郎)を国(土佐)にかへすか、又は長崎へ出すかに仕りたく存じ申し候」と注目すべきことを述べています。
龍馬はこの時点で、後藤の大政奉還路線が薩長の支持を得られずに行き詰まったと判断し、後藤を京都から国許か長崎に戻すべきだと述べているわけです。つまり、龍馬は後藤が失脚せざるをえないと判断したわけです。ドラマとはえらい違いです。龍馬としては土佐藩の顔を後藤から板垣に変える、そして薩長芸三藩と合流するという方針で一貫しています。

このことは前述の岡内書簡でも確認できます。

「我が本藩因循もはや一日も油断相成らず、速やかに土佐に帰り、大いにこれらの事情を陳べ(のべ)、是非薩長と事を合するほかこれなし、速やかに土佐に行かんと決し」

なお、ドラマで龍馬が久しぶりに実家に帰っていましたが、これは史実です。
もっとも、岡内書簡には「夜中竊に(ひそかに)上町の自宅に参り、実兄権平にも久し振りにて面会」とあり、大ぴらに帰ったのではなく、夜陰に紛れてひそかに帰ったわけです。脱藩士ですから当然ですね。
このとき、龍馬に同行したのは海援隊の中島信行と戸田雅楽(三条実美家士、のち尾崎三良)、そして岡内の3人です。

また岡内書簡は、在京の後藤象二郎に対して「畢竟(ひっきょう)後藤象二郎殿に説き、薩長と反せぬ様相運ぶ事を主と致し候事情に御座候」と書いています。
これは龍馬の方針とほぼ合致しています。つまり、後藤に土佐藩も薩長(芸)に同調すべきだと説くというわけです。もし後藤がそれを拒絶するなら、龍馬書簡にあったように、後藤を国許か長崎に帰すという段取りだったのでしょう。
岡内がこのように書き、龍馬も後藤の送還をにおわせるほど強気なのは、土佐に帰国しての説得工作により、板垣はむろん、渡辺や本山の同意を得て藩内の討幕派の意志一致ができて薩長芸三藩に合流する道筋ができた(藩論がほぼまとまったかどうかは微妙ですが)という感触があったからでしょう。

大河ドラマの展開と上に述べた史実とはかなり隔たっていることは理解していただけると思います。それと同時に、ドラマの最終盤が史実と大いに乖離するであろうことも予感させます。

なお、上京した龍馬が一転して、後藤に協力し、大政奉還に奔走するのもまた史実です。それにはまた情勢が一転した別の事情が介在しています。それは次回にでも書くことになるでしょう。一言でいえば、薩長芸三藩挙兵計画が(主に薩摩藩のお家事情で)頓挫したからです。

もういまさら何もいいませぬ。
ただ、史実を対置するのみです。

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【2010/11/15 23:47】 | 龍馬伝
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これまで拙著『さつま人国誌 幕末・明治編』(南日本新聞社)などでも論じてきた問題です。
先月、西日本新聞で改めて記事が掲載されました。ここです。

鹿児島中央駅の正面ローターリーに建立されている「若き薩摩の群像」。
これは慶応元年(1865)、薩摩藩の若者たちが串木野羽島から国禁を冒して密航し、英国に留学した壮挙を顕彰したもの。

しかし、留学生は19人なのに、銅像は17人分しかありません。
新聞記事にもあるように、高見弥一(元・土佐藩士)と通詞をつとめた堀孝之(長崎出身)の2人が県外出身だという理由から除外されたままになっています。

これに対しては、島津家当主の修久氏はじめ、県内の有識者からも疑問の声が上がっており、2人の銅像を追加すべきだという意見書を鹿児島市に申し入れ、議会でも議論されたことがありますが、記事にあるように、鹿児島市の及び腰のまま現在に至っています。

私も2人の銅像建立を推進する「若き薩摩の群像を完成させる会」に関わり、サイトまで立ち上げましたが、現在、恥ずかしながら、休眠状態になっております。ここです。

この一件について、高見・堀両氏とも、史料によって留学当時、薩摩藩士(御小姓与)になっていることが確認できます。つまり、2人は藩外人ながら、れっきとした薩摩藩士だったわけですから、除外する理由はまったくありません。
よしんば、藩外人あるいは県外人だからといって除外するというのは、当時の留学生たちの壮図に冷や水をかける行為に等しい狭量といわざるをえません。

来年3月には九州新幹線が全面開通します。
鹿児島市の玄関口で県外の人々に対して恥をかかないよう、鹿児島市は早急な対応策をすべきでしょう。
鹿児島市は最近、億の金を使って合金像を何カ所も建立しましたが、そんな金と余裕があるなら、この問題に先に取り組むべきでしょう。

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【2010/11/12 18:24】 | 幕末維新
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群像といい、新幹線キャラクターといい、変ですね
坐忘
この件、ごもっともなことだと思います。
鹿児島の恥にしかならないことを何故放置しておくのか理解不能です。おそらく首長をはじめ市会議員たちの歴史感覚、道理感覚が麻痺しているのでしょう。問題だらけとはいえ龍馬伝で土佐に脚光が当たっている今年が最も修正しやすいのに残念ですね。
もうひとつ、新幹線のマスコットキャラクター「西郷どーん」のデザインもきわめておかしいです。公募なのかどこかに依頼したのか知りませんが、着物の左前事件だけでなく、糖尿病にかかった土佐犬のようなあの西郷像は、醜悪以外の何物でもありません。先日帰省の折、中央駅で大きなポスターを見たときは吐き気がしました。もっと寒色系できりっとした西郷さんに切り替えて欲しいと思っています。どこかで署名活動とかしていないでしょうかね。

仰せの通り
桐野
坐忘さん

仰せの通りですね。
西郷のキャラクター、左前だったという記事は読みましたが、たしか熊本に展示されたのでは?

かなり無神経ですよね。
熊本はその象徴ともいうべき熊本城天守閣や城下町が西南戦争で焼かれたわけで、西郷に決していい感情をもっていません。
鹿児島の人は西郷は日本の英雄だと思っているかも知れませんが、そう考えていない地域があることにもっと敏感にならないと。
若き薩摩の群像も鈍感な例だと思いますが。


賛同
大膳亮
おっしゃるとおり。市は金の使いどころを間違っていますな。

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このところ、講演と拙稿関係の記事しか掲載できませんでしたが、一段落したので、この間頂戴したものをご紹介します。

1.石田文一氏より
 佐藤孝之編『古文書の語る地方史』吉川弘文館 2010年
 
帯に「関ヶ原合戦、棟札、墓所探し、旗本陣屋、由緒書、美人局、狼狩、コレラ、戊辰戦争」とあるように、地方史の諸側面が取り上げられています。
 友人の石田氏は「中院家の墓所探し」を執筆、加賀で没した公家の記憶をたどっています。
 個人的には、見瀬和雄氏の「関ヶ原合戦前夜の北陸と前田利長」に注目。

2.天野忠幸氏より
 「戦国期の宗教秩序の変容と三好氏」『織豊期研究』12号 2010年
 
戦国三好氏の研究者である天野氏ですが、今回は戦国・織豊期の権力者の禅宗による葬礼の変容過程を明らかにします。とくに三好氏の葬礼と、秀吉が実施した信長や豊臣一族のそれが親近性があり、室町幕府の武家秩序が葬礼の面から相対化されたとしています。
 それにしても、私は織豊期研究会の会員なのですが、まだ当該会誌が送られてこないのはどうしてでしょうか?

3.福島克彦氏より
 「伏見城の機能とその破却について」『ヒストリア』222号 2010年
 
先日、大山崎の講演でお世話になり、頂戴しました。伏見城の変遷は近年、指月と木幡山で4期に分けられるようになりました。
 2期指月では、朝鮮使節を迎えるために、天守や御殿が造成されるなど、外国を意識した対外的な権威づけがなされたという点や、関ヶ原合戦後の4期木幡山では、徳川氏が豊臣氏曲輪名称を基本的に継承しながらも、西日本の「~丸」ではなく、東日本の「~曲輪」表現が導入され、東西両者の城郭呼称が併存している点を指摘しているのは興味深いです。

4.阿部哲人氏より
 米沢市上杉博物館の図録『図説 直江兼続―人と時代―』2010年、『直江兼続生誕450年 特別展上杉家家臣団』2010年

 同館の阿部氏より拙稿を参考にしたとのことで重厚で立派な図録をご恵贈いただき、かえって恐縮する。とくに前者には小島毅・中野等・山田邦明・八鍬友広の諸氏の論考も掲載されていて読み応えがあります。近年の上杉氏研究が大きく発展していることがよくわかります。

5.川戸貴史氏より
 「一六世紀後半京都における金貨の確立」 池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館 2010年

輪読会でご一緒している川戸さんから頂戴。近年意欲作を続々と発表しています。今回も一緒に輪読している『兼見卿記』からの成果が一部活かされています。とくに有名な割によくわからない天正大判について、従来、天正16年(1588)に鋳造が開始されたという教科書にも載っている定説を覆して、遅くとも前年の15年には鋳造されていたことを明らかにした点は興味深いですね。同じテキストを使った輪読会でも、私など及びもつかない経済史的な視点は勉強になります。

6.金子拓氏より
 『東京大学史料編纂所報』45号(2009年度) 2010年 東京大学史料編纂所
 
『信長記』科研でご一緒した金子氏より頂戴。科研の趣旨が東大史料編纂所の所蔵史料充実にも益すべしということで、その成果を反映させた報告「『信長記』諸本の史料学的研究」が含まれています。
 ほかにも興味深い研究報告が多数収録されています。

ご恵贈いただいた諸氏に感謝です。

ほかにもいただいた記憶があるのですが、机まわり混雑のため落ちていましたら、申し訳ありません。次の機会にまたご紹介することでお許し下さい。

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【2010/11/12 08:36】 | 新刊
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講演のご案内です。

信州上田市に「池波正太郎真田太平記館」があります。
現在、池波正太郎没後20年企画事業の一環として、「池波正太郎 人斬り半次郎の舞台を歩く」と題した展示会を開催しています(10月9日~翌年1月10日)。詳しくはここをご覧下さい。

そして今月21日、そこで講演をやることになりました。
上記案内には書かれていませんので、こちらでその要領をご紹介します。

演題:桐野利秋『京在日記』の魅力
講師:桐野作人
日時:11月21日(日)13:30~15:30(質疑応答、お茶の時間含む)
会場:池波正太郎真田太平記館


お問い合わせ:同館 ここに問い合わせ先があります。
 *アクセスはここです。

今回、なぜ上田で講演をするのかといえば、中村半次郎こと桐野利秋が信州上田藩士の赤松小三郎を殺害した事件が縁になっています。赤松は当時著名な洋式軍学者でした。
展示期間中、中村が赤松殺害を詳しく記した『京在日記』(写真版)も展示されています。
なぜこの事件が起きたのか、赤松の当時の動向や京都政局の背景などを中心に、『京在日記』の世界とその面白さについて語る予定です。

興味のある方はぜひご参加下さい。
上田は何といっても、真田氏ゆかりの地でもあります。上田城や真田館はじめ、真田氏関係の史跡もたくさんあります。温泉も別所温泉などたくさんありますので、講演の聴講ついでに堪能できます。

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【2010/11/09 17:25】 | イベント
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ぽん助
忙しくてたった今ブログを拝見してます。でこの講演めちゃめちゃ聴きに行きたいです。が・・・大阪から遠い、それと次の日が娘の誕生日で行けそうにないです。赤松小三郎関係にもめっちゃ興味あるし上田といえば三吉慎三関係も・・・ああ行きたい行きたい(泣)

う~ん
桐野
ぽん助さん

時間も距離も大変そうですね。
無理をしないで下さいませ。
またご縁があると思います。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第171回
―西郷たちの身代わりか―

連載が本日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしていただければご覧になれます。

今回は龍馬暗殺の2回目です。
この間、いろいろな媒体で紹介している大久保一蔵宛ての岩倉具視書簡(慶応3年10月16日付)を中心に、龍馬暗殺の背景に迫りました。

大河ドラマ「龍馬伝」と私見が異なるのは、龍馬は不戦平和主義者ではないこと(むしろ、いわゆる武力討幕派だったこと)と、薩摩藩は大政奉還に反対しておらず、むしろ支持し、それを骨抜きにされないように徹底する立場だったことです。
すなわち、龍馬と薩摩藩の間にはその政治的立場において基本的な対立はありえないと思っています。

常識的に考えればわかることですが、大政奉還の最大の反対勢力は会津藩を中心とした幕府内強硬派(新選組や見廻組を含む)です。彼らは幕府の存続を望んでいたので、大政奉還には大反対で、それを推進した土佐藩だけでなく、薩芸も含めた3藩の要人に政治テロを実行しようというところまで思い詰めていたわけです。

要は幕府を存続させるか否かが最大の政治課題であり、すなわち、「廃幕」派と「保幕」派の対立にこそ着目すべきです。
武力討幕派でもあり、大政奉還にも関わる龍馬を襲撃する政治的理由があるのは誰か、どの勢力なのか明らかでしょう。

今井信郎がのちに、龍馬のことを「海援隊の軍艦が討幕の先兵として江戸に攻めてくるから危険」(今井は海援隊が海軍の大組織だと思っていた)だとか、「土佐藩の藩論を(佐幕から大政奉還に)変えた男」だから襲撃したと述べています。
前者は誤解ですが、後者は当たっているでしょう。

薩摩藩黒幕説のおかしさは明らかだと思うのですが……。

もっと詳しくお知りになりたい方はここをご覧下さい。武蔵野大学市民講座で龍馬暗殺について考えます。

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【2010/11/08 14:23】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様 こんばんわ

大政奉還を推進する勢力の中で、龍馬が一番標的にしやすかったのでしょうね。西郷たちは帰国してしまったし、龍馬は薩摩にも土佐にも気兼ねして藩邸に入らず下宿をしていましたし、狙いやすかったのでは。また龍馬は危険を察知して新しい下宿を探していました。もし襲われたら戦って土佐藩邸へ入るとも言っていましたが、これは寺田屋で何とか切り抜けた体験があったからとも思われます。でも今度ばかりは敵の方が一枚上でした。いっそのことどこかに身をひそめてくれればよかったのに。

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一昨5日、鹿児島県日置市伊集院町での講演は無事終わりました。
どれくらいの方においでいただけるのか不安があったのですが、会場はほぼ満杯でした。

鹿児島空港まで、同市教育委員会のT田さんが迎えに来てくれる。
この間、会のあれこれでお世話になった人。
じつは、同市の公民館が所蔵していた小松帯刀書簡を事前に教えていただき、写真版も見せていただいた。
在京の小松が国許の家老桂久武に宛てたもので、年次は慶応3年(1867)5月15日。
ちょうど四侯が二条城に登営して将軍徳川慶喜と会見したことを詳しく報告したもの。
いわゆる四侯会議のいきさつは越前藩の『続再夢紀事』がいちばん詳しいと思うが、薩摩藩側からも新たに見つかったことになる。

この小松書簡を講演会直前に、南日本新聞が写真付きの大きな記事にしてくれたこともあり、市民の関心も高くなり、集客にもつながったかもしれない。
また、会当日、この小松書簡とほかの小松文書2点(和歌と礼状)も展示されていた。
私は小松書簡の日付(四侯会議より3カ月後の日付になっている)について疑問があり、写真版だけでは不明だったが、原文書を間近で見て疑問が氷解した。

演題は「小松帯刀と龍馬」。
あとで、「小松帯刀と坂本龍馬」と据わりのよいタイトルにすればよかったと少し後悔。
講演では、小松と龍馬の出会い、薩長同盟、寺田屋事件、霧島新婚旅行など2人の関わりと交流についてひととおり話したのち、薩長同盟が締結された可能性が高い、小松の京都屋敷「御花畑」の所在地についての探索結果、そして小松の闘病生活とその死がどのようなものだったのか、地元の人たちにはぜひ知っていただきたかったので、小松の墓所も含めて資料とパワーポイントを使ってかなり詳しくお話した。

講演会が始まる前、日置市長さんに挨拶し、拙著『関ヶ原 島津退き口』を贈呈。島津義弘の話で盛り上がる。
その後、T田さんから地元の史跡で行きたいところに連れて行くといわれたので、迷わず市来鶴丸城をリクエスト。
日置市は旧日置郡の伊集院、東市来、日吉、吹上の4町が合併したことにより、有名な史跡や観光名所をたくさんもっている。私がすぐ思いつくだけでも、

徳重神社(旧妙円寺、島津義弘菩提寺)
小松帯刀墓所、菩提寺清浄寺
美山(薩摩焼のふるさと)
伊作城(現・島津本家発祥の地)
日置島津家関係史跡(島津歳久や赤山靱負の墓など)
(有名人では、長渕剛、稲森いずみ、中島美嘉などの出身地)

市来鶴丸城もそのひとつ。
鶴丸城といえば、近世島津氏の居城となった鹿児島市のそれが有名だが、市来鶴丸城は中世の山城だから、こちらのほうが古い。
ここに行きたかったのは山城としての魅力もあるが、何といっても、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルとアルメイダが訪れたことがあること。
市来鶴丸城の城主は日新斎忠良の家老、新納康久。その家宰がザビエルに帰依して、ミゲルという洗礼名をもらった(実名は不明)。ミゲルが戦国期薩摩を代表するキリシタンである。ザビエルとアルメイダの布教とミゲルの顕彰も込めて、近年、同城の一角にザビエルとミゲルの銅像が立ったと聞いていたので、一度訪れてみたかった。
もう夕暮れだったため、写真が暗いですが、挙げておきます。

市来鶴丸城

講演終了後、15年前、関ヶ原の退き口踏破のとき、お世話になったI崎さん(現・県議)から宴席に招かれる。
そしてお会いしたのがK田さん。15年前の踏破行のときお会いし、この踏破行を始められたK田さんのご子息。父上のK田さんは数年前に他界された。
K田さんが始められたこの踏破行は今年までじつに50年以上も欠かさず毎年続けられている。私も15年前、在りし日のK田さんにお会いして、深い印象をもった。まさに薩摩隼人、薩摩兵児とはかくなる人かと思うほど、古武士然とされた方だった。
その息子さんとお会いできて、とてもよかった。15年前の踏破行のことなどで話が弾み、ついつい焼酎を飲み過ぎてしまった。

翌6日。
ホテルの朝食が奄美の鶏飯だった。
縁起がいいなと思った。奄美で花開いた画家、田中一村の展示を見に行くつもりだったからだ。
2週間前、郷里で講演をしたとき、時間の関係で見られなかったから、ようやく見ることができた。
会場は鹿児島市立美術館。終了1日前という幸運だった。
10年近く前にも一度鑑賞したことがあるが、そのときより点数も増え、さらに作品の考証や研究が一段と進んだようで、展示法が整然としていて、わかりやすかった。
とくにあまり知られていなかった千葉時代の20年の作品がたくさん展示されていた。奄美時代とはまた異なる画風で、南画というのか日本画的な色彩が強い。
それが、奄美に移ってから強烈な画風になる。やはり、「アダンの海辺」など一連の作品は圧巻である。今回、初めて間近(わずか10センチほどまで)で見ることができ、細部まで神経が行き届いた作品であることを納得。

ただ、会場には絵はがきや一筆箋などのグッズが置いてなかった。
あったのは重くて厚い図録のみ。著作権その他がからんでいるのかもしれないと思ったが、やや寂しかった。
以前、奄美大島の田中一村記念館で購入したものがなくなってしまっていたので買いたかったのだが……。

一村展を見終わってから、隣接する鹿児島県立図書館に行く。
ずっと懸案になっていた史料(おもに自治体史)を郷土史関係コーナーからいくつか探し出し、複写した。
同コーナーには拙著も置いてあった。有難うございます。

それから、空港行きのリムジン乗り場に向かったが、途中、最近できた像をいくつか見た。
鹿児島市が市内数カ所に一度に立てたもので、銅像ではなく、何かの合金でできている。
坂本龍馬とお龍の像もあるのを知っていたが、時間の関係で撮影できなかった。
撮影したのは、島津重豪と伊地知正治・吉井幸輔という渋い人選のもの。念のためにあげておきます。
アルミ像1

アルミ像2

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【2010/11/07 11:56】 | イベント
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質問です
岩剣石塁
 講演、とても面白かったです。
質問する時間がなかったのでこちらで。

 なぜ小松・西郷・大久保らは、治外法権の
京屋敷を出て、治安の悪い市街に居を構える
必要があったのでしょうか?
 当時の京屋敷の規模はわかりませんが、
藩士の宿泊施設くらいありそうなものですし、
ましてや命を狙われている家老クラスの人物。
保安上、問題がありそうです。
藩屋敷内に部屋くらい割り当てられなかったの
でしょうか?

家族、京都妻
桐野
岩剣石塁さん

先日の講演には、わざわざ遠いところから駆けつけていただき、有難うございました。

ご質問についてですが、一言でいえば、藩邸内では手狭とプライバシーの確保が難しいということでしょう。
藩邸にもちろん公務の部屋はあります。しかし、プライベートは別でして。
貧乏で若い下級武士は藩邸内の長屋に住むしかありませんが、小松帯刀など重役はほぼ例外なく私邸を別に用意していますね。
私が確認できたところでは、小松のほか、西郷、大久保、伊地知正治、吉井幸輔、内田仲之助などです。
小松は家老、西郷、大久保は側役、伊地知は軍役奉行、吉井と内田は京都留守居役で、それぞれ本禄とは別に役料が付きます。

家老は役料1000石
側役は役料90石+15人賄料
京都留守居は役料87石

といった具合です。時代によって上下します。
とくに幕末は在京勤務の場合、さらに手当が付いたと思われます。
また、小松・西郷・大久保クラスになると、国事周旋に関わるというので、別に交際費もあったと思われます。
それらを元手に藩邸近くの民家を借りるわけですね。小松の場合は家老ということで、格別に近衛家別邸を借用しています。

たしかに藩邸内にいるほうが治安面では安心ですが、私邸にも警固はいます。
たとえば、西郷ですと、弟の信吾(のち従道)、従弟の大山弥助などの親類、ほかに黒田清隆や村田新八まで同居していましたから、自然と彼らが西郷の警固にあたります。
大久保も、警固用の家宅に用心棒を入れていましたし、また品川弥二郎など長州藩士も住まわせていました。
小松の場合は大身の一所持ですから、自前の家臣団をもっています。京都にもおそらく10人以上の家来や郎党を連れてきているはずです。
ですから、逆にこれだけの大所帯を藩邸内に住まわせるのは大変です。

そんなわけで、藩邸ほどではないにしろ、少人数での襲撃には十分対処できたと思います。

あと、彼らが私邸を借りる一番の理由は家族、といいますか、京都妻と一緒に住むためでしょう。さすがに藩邸内に彼女たちを住まわせるわけにはいきませんから。
小松の場合、慶応年間に京都妻2人との間に4人(うち1人は夭逝)の子どもができていますから、もはや家族ですよね。
小松は講演でお話しした近衛家別邸「御花畑」のほか、もうひとつ別邸をもっていた可能性があります。おそらく2人の京都妻が住み分けしていたと思われます。
さすがに家老ともなると違いますね(笑)。

以上でよろしいでしょうか。

なるほど
岩剣石塁
 即答、ありがとうございます。
なるほど。西郷の警備に従道、大山弥助、
黒田清隆、村田新八なら蒼々たるメンバー
ですね。
 それと京都妻の存在。
確かに藩邸に住まわせるのはいろいろと
問題がおこりそうですね(笑)

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3日の大山崎町歴史資料館での講演は盛大のうちに終わりました。
熱心に拝聴していただき、また多くの質問もいただきました。
のっけから、龍馬暗殺の真相はどうなのかというご質問には、意表を突かれましたが(笑)。
同館の福島克彦さんはじめ、関係者の方々にもお礼申し上げます。


なお、本日から1泊にて鹿児島出張です。
日置市伊集院町で「小松帯刀と龍馬」と題した講演です。


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【2010/11/05 10:16】 | 雑記
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以前もご案内しましたが、東京・三鷹の武蔵野大学市民講座の開講日が近づいてきたので、再告知です。

大河ドラマも最後のクライマックスにさしかかっています。
龍馬暗殺の真相については、多くの方々が関心をお持ちです。
個人的には、大河ドラマのストーリーは危ういなと思っておりますので、私もちゃんとした形で、私見を明らかにしたいと考えました。
そこで、龍馬暗殺についての特別講座を表題のような形で、今月19日と12月3日の2回にわたって開催します。
あまり知られていない史料を含めて、多角的に検討できればと思っています。

平日の午後なので、お勤めの方は難しいかも知れませんが、関心とお時間のある方は受講してみませんか。

詳しい案内はここにあります。

お問い合わせや申し込み先も書いてあります。
ご参加をお待ちしています。

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【2010/11/03 07:34】 | 武蔵野大学社会連携センター
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申し込みました。
NAO4@吟遊詩人
当日、会社を休んで、拝聴しに参ります。歴史は幕末のみが好きな分けではないのですが、ちょっと龍馬の最後に踏み込んでみたくなりました。

よろしくお願いいたします。また、期待しております。

御礼
桐野
NAO4@吟遊詩人さん

お仕事を休んでまでの受講とは!
有難うございます。
頑張りますです。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第170回
―根拠ない薩摩藩黒幕説―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

この間、大河ドラマ「龍馬伝」の感想でも書いていますが、近江屋事件についての薩摩藩黒幕説がどう考えてもおかしいと思っていますので、新聞連載のほうでも2回にわたり、要点だけ書くことにしました。事件そのものより、事件が発生するに至る政治的な背景を重点に書いています。

今回は、龍馬と薩摩藩をめぐって、大政奉還か武力討幕かといった路線的な対立はなかったということを中心に書きました。
木戸孝允との往復書簡や佐々木高行『保古飛呂比』などを読むと、龍馬が慶応3年(1867)9月まで(最後の上洛まで)、いわゆる武力討幕派的な立場にいたことは明白です。
また龍馬はあくまで土佐藩は薩長と協調すべきだという持論をもっていました。

ところが、上洛してのち、龍馬は後藤象二郎の大政奉還建白を後押しするようになるのですが、それは薩摩と土佐の間で大政奉還を推進することで合意が成立したから、龍馬もそれに従っただけです。ですから、龍馬と薩摩藩が対立したわけではありません。薩摩藩も大政奉還建白を支持したことは『寺村左膳道成日記』などにはっきり書かれていますし、実際、小松帯刀が後藤象二郎以上にその線で動いています。

薩摩藩黒幕説を唱えたり、支持したりする人々は、龍馬が平和的、薩摩が武力的という形で対立していたとするわけですが、よくよく考えてみれば、両者とも幕府を廃止し、王政復古を実現することでは同じ立場です。何より龍馬も立ち会って賛成した薩土盟約にもはっきり書いてあります。

要は幕府を廃止するか否かが大きな問題であって、その手段は二次的な問題です。
一方、会津・桑名両藩や幕府強硬派(渋沢成一郎や新選組・見廻組を含む)はあくまで大政奉還に反対し、幕府を維持することを望み、そのためにいろいろ活動し、とくに慶喜の大政奉還を実力で阻止しようとしたり、それが無理だとわかると、骨抜きにしようとしてあれこれ画策しています。

幕府を廃止するか否かという大問題を前にして、どちらの対立が大きいか明らかでしょう。

龍馬にとって、武力的な手段か、平和的な手段かはさほど問題ではなく、あくまで土佐藩が薩長と一緒にやっていくことが重要だったといえます。龍馬の悲願は土佐が薩長に追いつくことにあったのですから。

なお、連載で龍馬が「武力討幕派」だったと書いていますが、これは龍馬に限らず、薩長両藩についても、そのように規定するのがよいのかどうかは再検討する余地があることを付言しておきます。そうした用語の定義の問題まで新聞連載では書けなかったので、一応通説的な見方に従っただけで、私個人としては留保しています。

そもそも「討幕」とは何かという定義をせずして、龍馬と薩摩藩が対立していたかどうかも論じられないでしょう。同時代の人で、慶応年間以降、「討幕」をきちんと定義したのは西郷吉之助のみです。西郷の定義する「討幕」は徳川追討の勅命と関東制圧が条件です。京都や大坂での武力決起は「討幕」ではないと、西郷は長州藩士に語っています。

世間一般で使われている「討幕」は、せいぜい西郷がいうところの京都(大坂も含む)での武力決起であり、天皇を戴いた京都政権の樹立を意味しているだろうと思います(関東政権の徳川氏はほとんど無傷)。しかも、これは武力行使とはいい条、戦争というよりクーデタ形式の可能性が高いでしょう。8・18政変的なクーデタ、12月9日の王政復古政変と似たようなものと考えていいと思われます。

そのような意味で、今回の記事では端折りましたが、「討幕」の定義をちゃんとしてから、この問題を語る必要があると思っています。

次回は大政奉還に反対する主要勢力だった会津藩などの動向を書きました。
龍馬と対立していたのは会津藩などの勢力ですよ。自明のはずですが、なぜか理解されないですね。

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【2010/11/01 17:13】 | 信長
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ながお
桐野様

こんにちは 龍馬の大政奉還運動は土佐藩を政局の前面に立たせるためのものだったのでしょうか。脱藩を繰り返しても土佐への思いはあったのでしょうね。薩長と出遅れた土佐という構図は後の自由民権運動あたりまでひきずっていると思います。

西郷
桐野
ながおさん

薩摩藩が大政奉還建白を支持したのは、土佐藩を前面に立てて、もう後退させないようにするという思惑もあったと思います。
そのような趣旨を書いた西郷の手紙が残っています。
要は、土佐を主役に祭り上げて、薩長との共同戦線から下りない担保にしようという面もあったでしょうね。
薩摩藩にとって、(長州藩が京都政局に登場できないため)土佐藩の存在はそれだけ重要だったということでしょう。

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