歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
いよいよ今年も終わりですね。

個人的には、昨年にも増して忙しい年でした。
何とかやり遂げた仕事や予想以上に好評だった仕事もあった一方で、不義理をして申し訳なかった仕事など、多々反省点もありました。
お世話になった方々、ご迷惑をかけた方々、お礼と共にお詫び申し上げます。

じつをいえば、来年に積み残した仕事もあり、またこの年末年始にやらないと追っつかない仕事もまだ残っており、現在も仕事中です。

来年は、大河ドラマ「江」関係で、新たに3本の講座が決まっており、ほかに書籍や講演など関連の仕事もあります。
連載も歴読「信長」が前半でいよいよ完結しますが、南日本新聞連載「さつま人国誌」はまだまだ続きます。
どこまでやれるのか不安で一杯ですが、頑張るしかありませぬ。
今後ともご声援のほどよろしくお願いします。ファイティン!!
どうかみなさんもよいお年を!!

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【2010/12/31 16:34】 | 雑記
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良いお年を
市野澤 永
こんばんわ。

今年もいよいよ僅かですね。

来年の講演、宜しくお願い致します。
年明けに内容などといった細かな手続きの話しをさせて頂きたいと思いますので、
私のスケジュールをお送りさせて頂きます。

個人的には1月から戦国史研究会と千葉歴史学会中世史部会の活動が始まります。
昨年は遅れていた部分を取り戻す時間に充てたので、来年から遂に始動です。

予定していたより遅れたスタートになってしまいましたが、
地道に頑張る所存です!

来年も宜しくお願い致します。

明けましておめでとうございます
小林 哲也
桐野 作人先生

明けましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になりありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

               小林 哲也

迎春
桐野
市野澤永さん、小林哲也さん

本年もよろしくお願いします。

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今年も歳も押し詰まってきました。

このところ、ご本や論文などをいくつか頂戴しました。
いつもいつも有難うございます。
ご紹介することで、御礼に代えたいと思います。

1.新名一仁氏より
『南九州の地域形成と境界性 ―都城からの歴史像―』
地方市研究評議会編/雄山閣/2010年
昨年秋、地方史研究会が宮崎県都城で開催されたのを記念して刊行された論文集。
12本の論文が収められている。
お送りいただいた新名一仁氏はみやざき歴史文化館の学芸員。
中世史が専門で、今回は「南北朝期島津奥州家の日向国進出―その過程と歴史的意義」という論文を書かれている。島津氏の日向進出は守護職を剥奪された状態で実行されており、守護公権に依拠せずに領国形成を行ったことを明らかにする。その論理は、薩隅日にまたがる「島津荘の支配者」の立場を標榜する独自のやり方だったとしている。今後、他地域や別の時代にも援用されるかもしれない注目すべき見解だと思う。
ほかにも、林匡、山下真一、大賀郁夫の諸氏の論文も興味深い。

2.和田博温氏より
『焼酎はおもしろい―人と酒をつむぐ45話―』
和田博温著/世界書院/2010年
薩摩出身の友人で、薬丸自顕流の達人でもある和田氏より頂戴した。
和田氏は広告マンで酒(とくに焼酎)の専門家・ライターでもある。
この本も鹿児島の焼酎の蔵元を訪ね、綿密な取材調査をもとにしたもの。
また焼酎を縁に、行きつけの飲み屋や焼酎にまつわる人々との楽しい交流が書かれている。
その人脈恐るべし。

3.藤田達生氏より
『信長革命―「安土幕府」の衝撃―』
藤田達生著/角川選書/2010年
織豊期の研究者である藤田達生氏より頂戴した。
精力的に新著を上梓されている。
今回は織田権力を「安土幕府」と規定して、足利義昭の「鞆幕府」と並立していたと説く。
藤田氏は足利将軍家が戦国期に二系統に分裂・並立した点を以前から注目していたから、今回もその延長上の議論であろうか。
織田権力を中近世移行期のなかで、どのように位置づけるかは大きな課題だと思う。それに果敢にチャレンジされているわけで、学ぶべき点がある。
ただ、素朴な疑問として浮かぶのは、それでは「幕府」って何? という点と、織田権力を「安土幕府」と規定すれば、結局、義昭と「鞆幕府」を相対的に高く評価することになるのだろうなという感触がある。果たして、両者は同等と位置づけてよいのだろうか?

4.大西泰正氏より
大西泰正「豪姫のこと」『岡山市地方市研究』122号/2010年
宇喜多氏の若手研究者である大西氏より頂戴した。
今回は宇喜多秀家夫人の豪姫について、その婚姻時期や秀吉消息の豪姫の名乗りなどの史料解釈について論説。
史料的限界があるのか、なかなか難しいらしい。

5.矢部健太郎氏より
矢部健太郎「中世武家権力の秩序形成と朝廷―近衛府の任官状況をめぐって―」『国史学』200号/2010年
研究会仲間の矢部さんからいただいた。
近衛府の官職とくに近衛大将の室町時代から豊臣期までの任官状況を明らかにするとともに、足利将軍と近衛大将はどのような関係にあったのか、近衛大将に任官した将軍と任官しなかった将軍とでは違いがあるのかなど興味深い論説がある。
家格が低かった足利将軍家が義満以来、近衛大将を兼官することにより家格を上昇させ、摂関家相当に位置づけられるようになったという見方はとても面白い。
欲をいえば、信長も近衛右大将に任官しているので、足利将軍家と比較した関説があればと感じた。
矢部氏にはほかに、参加されている研究会の会誌もいただいた。こちらもお礼申し上げる。

6.金子拓氏より
「『兼見卿記』天正十年正本・別本をめぐって―吉田兼見の記憶と日記執筆作法―」 中世史研究会12月例会レジュメ
研究会仲間の金子さんから報告されたばかりのレジュメをいただいた。
『兼見卿記』の天正10年分は正本と別本という2種あるのはよく知られている。
これが大きな話題となるのは、本能寺の変との関わりがあるからである。兼見は山崎合戦前日でいったん日記をやめ、新しく清書しなおしている。
これをどう評価するかについて、金子氏の興味深い見解が提示されている。
そのうち、会誌『年報中世史研究』に掲載されると思うので、詳しくは書きません。お楽しみに。

7.大阪龍馬会より
会誌『龍馬速報』118号/2010年
今夏、大阪龍馬会で講演をしたのを機に、会誌を送っていただいている。
当会には以前史跡探訪にも参加したことがあるが、そのハードスケジュールには舌を巻いた。
また大阪周辺の細かい史跡を史料をもとにチェックする地道な活動が当会の特徴でもある。
伏見や大阪ばかりか、鹿児島の史跡探訪記事があるのに驚く。
ほかにも近藤勇の愛妾とされる深雪大夫がいた大阪新町の「折屋」の所在地を古地図で明らかにし、その場所を訪ねている。その行動力には脱帽。

ほかにもいただいた気がするのですが、もし見落としがありましたら、机まわり混乱のため、申し訳ありません。

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【2010/12/29 22:27】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第176回
―嘉永朋党事件で筑前亡命―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、御覧になれます。

今回は、前回の小松帯刀の京都邸「御花畑」の関連記事です。
「御花畑」の所在地を明記した史料『薩藩維新秘史 葛城彦一伝』の当人である葛城彦一を取り上げました。

葛城は平田国学者で、しかも、平田篤胤じきじきの薫陶を受けています。
篤胤は没年が天保14年(1843)ですから、晩年にその教えを乞うには年輩でなければなりません。

また葛城は加治木島津家の家来でした。
つまり、藩主から見たら陪臣にあたります。
身分は低かったのですが、平田国学という流行思潮を会得していたたために、鹿児島城下士とも交流が生まれたわけですね。

その縁もあり、葛城は島津斉彬擁立運動、いわゆる嘉永朋党事件(高崎崩れ)に巻き込まれます。
この事件は「お由羅騒動」という名前のほうが人口に膾炙していますが、お由羅はほとんど関与しておらず、本来は嫡男斉彬襲封を認めない藩主斉興に向けられるはずの批判がご法度で、その代わり、側室のお由羅に向けられたため、奸女、悪女のイメージが形づくられました。その点、お由羅の方には同情すべき余地が多分にあります。

葛城への嫌疑のなかに、斉興側近の兵道者、牧仲太郎暗殺未遂があるのがまことに興味深いですね。
牧仲太郎といえば、直木三十五の『南国太平記』でも有名な人物。30年ほど前、『南国太平記』を原作としたNHKドラマ「風の隼人」が放映されましたが、これにも重要人物として登場します。当時は柳生博が演じていました。

この暗殺未遂事件に葛城が関わったと、伝記にはっきりと書かれていますが、果たして史実なんでしょうか?
確認する術を知りません。ご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。

葛城のことは1回で終わるつもりでしたが、やはり終わらず、結局、上下2回に分けることにしました。
(下)は年を越して、1月10日掲載になります。区切りが悪いのが少し心残りです。
まあ、何となく今年の私の仕事ぶりを象徴しているかも(爆)。

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【2010/12/27 20:24】 | さつま人国誌
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私の郷里は、シベリアから鶴が多数飛来するところで知られている。

しかし、数日前から鳥インフルエンザで数羽の鶴たちが死に、しかも、強毒性の鳥インフルだと判定された。

感染地域は鶴たちのねぐらになっている干拓地。
実家からすぐ近所で、子どもの頃、よく遊んだ所でもある。
干拓地の大きな用水路には、フナ、ナマズ、ウグイ、雷魚などの魚がたくさんいたし、夏はセミやカブトムシを採集に行った所。

ここから半径10キロ圏内に実家も入っている。
また養鶏農家も多く、500万羽も飼っているという。私の同級生や知り合いの家もある。
いま、地元の養鶏農家は水際作戦で徹底的な感染防止策をとっているが、戦々兢々だろう。もし一軒でも鳥インフルが検出されたらと思うと、同情を禁じえない。

干拓地は人の出入り禁止エリアとなり、この年末年始、市外や県外からの観光客をあてこんでいたのも全部ダメになった。養鶏業と観光はダブルパンチである。
昨年は地元に長くいた電機メーカーも撤退して、1000人を超える失業者を生んだ。
それに輪をかけた苦難である。

何とか、鳥インフルが拡大せずに、このまま沈静化するのを切望してやまない。

それにしても、やはり鶴の越冬地の一極集中の弊害が祟った感じがする。
私が小学生のとき、鶴はせいぜい1500羽しか飛来していなかった。
それが、ここ十数年、万羽鶴になっている。

専門家からは一極集中を危惧し、分散化を提案する声があったが、地元の観光振興のため、「万羽鶴」のキャッチフレーズが優先された。
今後、この方針も再検討せざるをえないだろう。

出水の鶴は、ナベヅルとマナヅルが多く、両種で100%近くを占める。
なかでも、黒っぽいナベヅルが多く、全体の95%はいるだろう。
ナベヅルより大きくて優雅なマナヅルは数百羽飛来する。

先々月、郷里で講演をしたとき、時間を割いて鶴の見学に行った。
飛来したばかりで、まだ数百羽しかいない時期だったが、そのとき撮影していた地元のカメラマンさんが講演に来られ、そのときの写真をいただいた。
その写真を紹介する。紙焼きでいただいたものをスキャナにかけたので、粗い画質になっていますが、実物はもっときれいです。

これがナベヅル。小さくて黒い。
出水の鶴01_640

マナヅル。白っぽくて眼のまわりが赤い。
出水の鶴02_640

青空を編隊飛行するナベヅル
鶴3

鶴の里がなくならないことを祈るばかりである。

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【2010/12/25 23:28】 | 雑記
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心配です
ながお
 桐野様 こんばんわ

久しぶりに出水の弟から連絡があって、歴史は興味がないと言っていたのに、10月の桐野さんの講演を聴きに行って、本にサインをしてもらい質問までしたと報告を受け、喜んでいた矢先のこの鳥インフルのニュースでした。弟も電機メーカーをリストラされ失業しています。被害がこれ以上拡大しないように祈るばかりです。



心配です
桐野
ながおさん

10月の講演会に弟さんも出席されたのですか。
弟さんも某電機メーカーをリストラされたのですか。大変ですね。
少しでも地元が元気になればいいですが……。

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日次記です。

17日(金)天晴れ
朝早く新幹線で京都へ。
ようやく時間がとれたので、同志社大学で開かれている「幕末と同志社」展を見に行く。

展示のサブタイトルが「薩摩藩邸址にあって」とあるように、同志社大学今出川キャンパスは二本松の薩摩藩邸跡にある。そして現在も発掘が進められている。その成果として、出土したばかりの丸十の家紋が付いた茶碗を展示してあった。

目玉は玉里島津家で発見された二本松藩邸の詳細な見取り図。
部屋割りが詳しくわかる。畳数や役職別の部屋割りが詳しく書かれている。家老、側用人、祐筆、目付などの部屋があった。
カラーで描かれており、まことに鮮やかである。

会場の係員さんから、先日の尚古集成館の田村館長の講演の様子をうかがう。
小松邸「御花畑」も話題になって、質問が多く出た由。
会場で、今夏、大阪龍馬会で講演したとき、参加されていたご夫婦から声をかけられる。
懇親会で私の前に座っておられ、詳しくお話しした方々だったことを思い出した。

その後、室町頭町に行く。
気になったことがあり、調査と撮影をした。

その後、黒谷に移動。
目的はもちろん、来年の大河ドラマの主人公お江の供養墓。徳川忠長や春日局の墓もある。
墓所の手前に蓮池と極楽橋があるが、これは春日局がお江の墓参拝のためにつくったと聞いた覚えがあるが、どうだったか?
来年に向けて、案内板もすでにできていた。お江の墓の金属プレートも真新しい。
またバスガイドらしき集団が30名ほどいた。どうやら来年に向けての研修を受けていたようである。
師走のあわただしさのなかに、来年への動きが感じられた。

案内板

江案内板

その後、永観堂などを見学した頃には暗くなり、日帰り探索を終えた。

19日(日)天晴れ
朝から世田谷奥沢の九品仏浄真寺に行く。
調所広郷の162年祭に出席のため。
広郷の直系子孫で友人の調所一郎さんのお招きを受けたもの。
今回は私の小話もしてほしいとのことだった。
以前の打ち合わせでは、大河ドラマ「龍馬伝」について話してほしいといわれていた。

当日19日は調所広郷の命日だが、奇しくも天璋院篤姫の誕生日でもある。
法要が終わり、懇親会のとき、少人数での和気藹々とした会なので、あまり堅苦しくてなじみのない話はどうかと思い、みなさんがご存じの人物、テーマにしようと、「龍馬・篤姫二題」と題して少し話をした。
資料も少し用意した。
出席者には、明治大学O合先生や友人の幕末維新研究者のM田さんもおられて緊張したが、何とか無事終了。

20日(月)天晴れ
年末進行のため、いつもの原稿締切が前倒しで早い。
この日は歴史読本の連載原稿の締切。いつも遅れがちなので、何とか締切に間に合うようにと頑張った。
が、夕方までに終わらず。結局、脱稿したのは22:00過ぎだった。
今回は信長の洛中馬揃えが中心。

21日(火)曇り
午後から品川の海晏寺に参拝。
友人のKさんの墓参にお付き合い。
ここは何といっても、幕末維新の有名人の墓が多い。
日頃はなかなか見られない区域にあるため、Kさんに同行していくつか見学させてもらった。

岩倉具視
寺島宗則
松平春嶽
由利公正
山尾庸三
松村淳蔵
児島惟謙


などを見学。
岩倉の墓域はさすがに広い。顕彰碑も大きい。

興味深かったのは薩摩藩英国留学生の寺島宗則と松村淳蔵、そして長州ファイブの一人、山尾庸三の墓が非常に近い場所にあったこと。幕末の英国組が3人も同じ場所に眠っているのは奇観である。
寺島宗則の墓は拙連載に間に合わせられなかったのが残念。

参拝後、Kさんと別れて青山墓地に行く。
前から気になっていた人物の墓を管理事務所で教えてもらった。
事務所のそばにあったから、すぐわかった。
写真撮影をする。
雨が降る前にすべてがうまく順調に運んだ。

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【2010/12/22 08:44】 | 日次記
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御礼など
調所
19日は本当に有り難うございました。皆様、目から鱗の話に大変喜んでました。私は翌20日から鹿児島で、今度は福昌寺跡墓地の笑左衛門(広郷)の墓掃除と黎明館の篤姫像を見て参りました。ところでその時、黎明館の方々から先月の特別企画展「甦る島津の遺宝」の説明をして頂けました。そして江戸時代二百六十年の間に島津家当主から密教の秘伝虎之巻を伝授され、起請文を出した31人の名前が出ました。虎之巻の内容は不明だそうです。実は、そのうちの一人が笑左なのですが私も家伝の密教系と思しき品を学芸課長の先生に見て頂きました。その31人が、どんな基準で選ばれ具体的に何をしたのか分かりません。島津家は護摩所も設けていたそうです。血のつながる我が先祖ながら薩摩絡みの怪しげな所には大抵名前が出てるなぁと思った次第です。

護摩所
桐野
調所さん

先日はお世話になりました。
調所家にはまだ遺品が残っているんですね。

島津家の護摩所といえば、やはり大乗院でしょうかね?


護摩所
調所
島津家の護摩所は鶴丸城北の、現在、薩摩義士碑のあるあたり裏だそうです。
城山に登って行く途中の、気のせいかチョットおどろな雰囲気の場所ですね。

護摩所
桐野
調所さん

『鹿児島城下絵図散歩』を見ると、現・薩摩義士の碑の右手(東)に何か施設があります。
字が小さくてよく読めないのですが、3文字で、末尾が「所」、何となく「護摩所」と読めそうです。
こんな所にあるなんて知りませんでした。
教えていただき、有難うございます。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第175回
―薩長同盟締結の舞台―

昨日、連載が更新になりました。

同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、御覧になれます。

今回も前回の続きです。
タイトルを、前回を上、今回を下とすればよかったかもしれません。うっかりしてました。

小松帯刀の京都邸「御花畑」が薩長同盟の交渉と締結の場所でもあったという話を書きました。
薩長同盟締結に関しては、有名な割に一次史料が少ないです。
龍馬の関与がどの程度だったかを示す決定的な史料もありませんし、結局、木戸孝允が龍馬に裏書を求めた有名な六カ条の書簡が根本史料になっています。

薩摩藩側もほとんどなくて、一次史料は『桂久武日記』だけです。
桂久武も交渉の積極的な当事者でもないし、また在京中、体調不良もあって、「御花畑」にもあまり顔を出していません。
主に桂の日記と、木戸孝允の伝記『松菊木戸公伝』や同行した品川弥二郎の述懐談などで推定するしかないのが現状です。

それらを総合的に判断すると、締結場所は「御花畑」しかないだろうというのがとりあえずの決論です。
締結前日まで木戸らが「御花畑」に滞在していることが確認できるからです。
最後の段階、つまり翌日に二本松の藩邸で締結された可能性も排除はできませんが、それを裏付ける積極的な証拠というか史料を欠いています。また、同盟の密約的な性格上、二本松藩邸では機密漏洩の可能性が大きくなるので、その点からも藩邸より閉鎖的な「御花畑」のほうがふさわしいかなと思っているところです。

次回は年内最後の連載ですが、写真の関係で何にしたらよいかまだ決めていません。

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【2010/12/21 10:57】 | さつま人国誌
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今月19日午前10時から、天璋院篤姫の銅像の除幕式が行われる。
ちなみに、12月19日は篤姫の誕生日でもある。

場所は鶴丸城跡にある鹿児島県資料センター黎明館前庭とのこと。

姿は椅子に腰かけた銅像らしい。

(以上、南日本新聞12月15日付記事より)

これは昨年から持ち上がり、建立場所をどこにするか、鹿児島で議論があり、生誕地(今和泉島津家の鹿児島屋敷跡、現・私有地)などさまざま検討された末に、当該地に落ち着いた次第。

鹿児島で議論しているから、県内建立は当たり前の前提なのかもしれないが、個人的には複雑な感慨がある。
その理由は3つほどある。

ひとつは、肝心の篤姫の気持ちに添っていないことである。
明治維新前後の篤姫の書簡などを見れば、婚家の徳川家を滅亡の縁に追い込んだ薩摩藩と実家の島津家に対して、相当の不信感をもち、「朝敵」云々といった激烈な言葉で非難しているほどである。
維新から明治における篤姫の気持ちを考えれば、実家の城跡に銅像を建てられるのを喜ぶかどうか。
むしろ、江戸城跡か、明治になってからの千駄ヶ谷の徳川家邸宅跡に建立してもらったほうが、篤姫は喜ぶのではないか。
もっとも、一方は皇居、他方は私有地だから実現困難ではあるが。

もうひとつは、鹿児島は銅像が多すぎることである。
今年だけで、篤姫像のほか、鹿児島市は龍馬・お龍像はじめ、6カ所だったか、あまり風格を感じさせない合金像を乱立させている。そして今回の篤姫銅像建立実行委員長も鹿児島市長である。

鹿児島市と同市長は、銅像といえば、もっと早期に解決しなければならない問題があるはずである。
それはいうまでもなく、鹿児島中央駅前の「若き維新の群像」である。
欠けている2人の銅像(高見弥一と堀孝之)を何とかすべきではないか。
薩摩藩英国留学生派遣という鹿児島の先見性と国際性を示すこの壮図に対して、県外出身だというだけで2人を除外した現代鹿児島の狭量と見識のなさは幕末維新の先人たちに比して、恥ずかしくないのだろうか。
来年3月には九州新幹線が全線開通するというのに、この問題を放置し続け、いつまでも鹿児島の恥をさらすつもりなのだろうか。

篤姫銅像からとは少し脱線しましたが、鹿児島の状況を見るにつけ、決して無関係ではないと思って書きました。
もっとも、銅像が立ったら立ったで、また見に行くでしょうが。

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【2010/12/16 11:59】 | 幕末維新
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はじめまして。
篤姫像は東京にあってこそ、生きると思います。
私的には上野公園の中のそれも坂の上か、皇居の周りに立って欲しいと思います。
江戸城が焼け落ちていたら、東京はなかったかもしれません。


わだ
現代鹿児島市長及び役人の狭量…まさしく優先すべきは御指摘のことでしょう。
市内に乱立する合金製の像、ちょっと辟易しています。


桐野
はじめまして。さん、わださん

篤姫はすっかり徳川家の人間になりきっていますから、銅像もそのゆかりの地に立てたほうが本人も喜ぶのではないかと思います。

上野もいいですね。
寛永寺墓地の近くもいいかもしれないですね。夫の家定も眠っていますから。


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昨14日夕方、小学館アカデミー古文書塾「てらこや」の講座に出講。

10月から開講していた「中岡慎太郎の日記を読む」の5回目(第1クール最終回)が終わった。

中岡慎太郎の日記「海西雑記」と「行行筆記」を中心に読んでいたが、昨日は「行行筆記」の慶応3年(1867)3月~4月だった。

中岡は鹿児島から長崎、大村、太宰府、下関、そして大坂、京都へと東奔西走の日々である。
日記に記されている人物だけでも、西郷、木戸、龍馬、大村藩の渡辺兄弟、海援隊の高松太郎・中島作太郎・菅野覚兵衛、そして京都では多くの公家とともに岩倉具視と初対面を果たしている。
この岩倉との会見がきっかけになって、中岡は岩倉と三条実美をつなぐ役割を果たすことになる。
まさしく周旋家としての中岡の面目躍如たるものがある。

ただ惜しむらくは、中岡の日記が簡潔すぎて周旋の内容が書かれていないこと。
中岡の同志で一緒に行動することが多い土方久元の『回天実記』で、中岡の行動や考えを推察できるが、土方が中岡と別行動をとっていると、とたんにわからなくなる。
もし中岡が土方並みに詳しく日記を付けていたら、中岡の評価はもっと高くなったのではないかという気がする。

来年1月からも、中岡の続きをやります。
「行行筆記」のほか「時勢論」も読みます。そのほか、中岡の面白そうな書簡も読む予定です。
中岡や土方久元、そしてその周辺の三条以下五卿、薩摩や長州に興味のある方は受講してみませんか。

来期の開講日は、以下の5回で、いずれも火曜日19:00からです。

1/18
2/1
2/15
3/1
3/15


会場は神田神保町交差点近くです。
問い合わせ・申し込みはこちらをご覧になって下さい。
資料を送ってくれると思います。

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【2010/12/15 20:40】 | てらこや
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本日10日発売の『中央公論』2011年1月号は、

戦国史を知るための100冊

という特集を組んでいます。

ここに同社サイトもありますが、まだ更新してないようです。

小生も、

「波瀾の九州」(5冊紹介)
「合戦の多様性」(10冊紹介)


の2本を書きました。
ほかに誰が書いているか、掲載誌が届くまで知らなかったのですが、

和田裕弘氏:織田信長
今谷明氏:畿内の実像
藤田達生氏:中国・四国の諸相
谷口克広氏:本能寺の変の真相に迫る

といったみなさんがそれぞれ書いています。

戦国ファンには興味深い特集だと思いますので、よかったら、読んで下さいませ。

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【2010/12/10 18:28】 | 戦国織豊
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確認させて頂きました
市野澤 永
こんばんわ。

お世話になります。

ブログで紹介頂けなければ、知ることができませんでした。
ありがとうございます。
図書館で記事、読ませて頂きました。

桐野さんがあげておられた『歴史群像シリーズ』で私もベストをあげろといえば、『戦国北条五代』です。
最新の研究成果を一般向けに読み易く、良心的な価格で提供する出版方針を同社には貫いて欲しいところです。
同社の『戦国セレクション』も良い内容が多くて、印象に残っています。

和田裕弘氏の織田信長に関しての著書は全て所有しておりました。
私の原点は岡田正人氏と市村高男氏の一連の研究だったので、信長関連は所有している訳です。
以前に桐野さんへ別冊や月刊の『歴史読本』で連載されていた岡田氏の「天下布武」が中断になっていて、残念だったとお話ししましたが、和田氏も同意見を述べられておいでで非常に嬉しかったです。
ちなみに本書には和田氏のプロフィールが掲載されていて、初めてお歳を知ることができました。

桐野さんはあげておられませんでしたが、
私の守備範囲では斎藤慎一氏の執筆があったのは嬉しい限りでした。

最後に企画展の情報です。

長野市立博物館
企画展 ものがたり「川中島の戦い」 
期間 平成22年12月23日(木)~平成23年2月20日(日)
長野市立博物館が収蔵する資料から、
川中島の戦いの実体に触れるとともに、
江戸時代以降の大衆文学のなかで作られた、
ものがたりとしての「川中島の戦い」を復元します。

http://www.city.nagano.nagano.jp/museum/index.html



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先月下旬分の続きです。

11月25日(木)
朝、新幹線に乗り、名古屋へ。
いつもの栄・中日文化センターでの講座。
「『信長公記』を読み解く」も第3クールの5回目となった。
今回のテーマは「小谷封じ込めと異見十七カ条」。
長い元亀争乱において、信長と浅井・朝倉方のパワーバランスが大きく傾いた時期を取り上げた。
織田軍は浅井領の奥座敷まで侵入し、小谷城の正面、虎御前山に付城を築くまでになった。
『大日本史料』10編からいろいろな史料を紹介したせいか、「異見十七カ条」の検討は駆け足になり、すべての条文を読むことができなかったのが心残り。
終了後、また多くの質問が出る。受講者のみなさんは相変わらず熱心である。今後もどしどし質問して下さい。なるべくご希望に添うようにします。
次回はいよいよ武田信玄の登場、三方ヶ原合戦です。

11月27日(土)
午後から、鹿児島県出身者の交流の場になっている三州倶楽部にて講演。
主催は鹿児島市関東交友会青年委員会。
鹿児島県ではなく、鹿児島市出身者の方々の県人会の青年部が中心。
だいぶ前から打ち合わせをしており、大河ドラマ「龍馬伝」の最終回前日というタイミングから、「薩摩と龍馬」の絆について話すことになっていた。

パワーポイントを使って、主に京都の史跡を紹介する。
二本松の薩摩藩邸、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の京都邸跡なども紹介。
龍馬については、小松帯刀書簡や龍馬本人の書簡から、薩摩との強い関係があったことを改めて強調した。
最後に龍馬暗殺についての見方、とくに史料の見方について少し話をした。

講演終了後、懇親会となり、老若男女が集っての賑やかな集まりになった。
多くの方々から次々と挨拶していただき、名刺を切らしてしまうという不手際もすみませんでした。
ソニー龍馬会や有馬新七の子孫などもお見えで、いろいろ楽しい出会いがありました。

11月30日(火)
夕方から神保町に行く。
小学館「てらこや」の講座に出講。
「中岡慎太郎の日記を読む」の4回目。
慶応3年(1867)の初めを読む。
土方久元『回天実記』も併読。
西郷隆盛が土佐や宇和島に行き、山内容堂や伊達宗城と会見して上京を促す周旋活動を他の史料で読む。
中岡が太宰府の五卿のそばにあって、何を考え、何をしたか、よくわかった。とにかく勉強熱心で、中国の古典を中心に読書に励んでいる。またそれらの講義が頻繁に開かれているが、中岡が講師なのか、あるいは受講しているのか日記ではよくわからなかった。五卿の誰かが講師ではないかと憶測を述べてみたが、よくわからない。
また中岡も「万国公法」を読み、福沢諭吉の「西洋事情」に関心を示していることがわかった。これに「英国策論」を加えて、当時の周旋家には必読文献だったのではないか。

12月3日(金)
午後から武蔵野大学生涯学習講座に出講。
三鷹のサテライトキャンパスに行く。

「龍馬暗殺――近江屋事件の背景と真相」の2回目。
今回は「薩摩黒幕説の誤りはどこにあるのか?」というテーマで話す。
例によって、レジュメ多し。
とても全部こなしきれないと思い、かなり飛ばしたが、それでも2枚終わらなかった。
とくに、大久保利通と岩倉具視が近江屋事件で悲嘆し、憤慨した往復書簡を読めなかったのが心残り。
日頃日記や手紙に感情をほとんど表さない大久保が怒っている様子がわかる貴重な書簡である。
薩摩黒幕説のなかでも、大久保黒幕説が目立つが、そのような妄説を一刀両断する史料である。
薩摩黒幕説や大久保黒幕説を支持する人々は、この数通の往復書簡が偽文書であるか、あるいは2人の「粉飾」「偽造」であり、中身が信用できないことを証明する責務があるはずだが、ついぞお目にかかったことがない。

終了後、多くの質問に接する。
受講者の関心が奈辺にあるかよくわかった。
少し尻切れトンボでしたが、多数受講していただき、感謝です。

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【2010/12/08 13:40】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第174回
―室町頭町の近衛家別邸―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

小松帯刀の京都邸が「御花畑」といったことはだいぶ知られるようになってきたと思います。
ただ、「御花畑」がどこにあったのかは未確定のままでした。
この件に関しては、『歴史読本』2010年3月号で「薩長同盟はどこで結ばれたのか--小松帯刀の京都邸「御花畑」を探す」いう記事で書いたことがありますが、鹿児島の読者に対しては書いていなかったので、改めて書いた次第です。

御花畑」の所在地が町名まで特定できたのは、やはり『薩藩維新秘史 葛城彦一伝』のおかげです。
この本は葛城彦一の伝記なのですが、本文中に葛城の日記をぶつ切りにして分載してあります。
当時は伝記と日記をあえて区別する意識がなかったのが幸いしました。伝記ながら、日記という一次史料まで読むことができるからです。

葛城本人も波瀾万丈の生涯なので、今後何とか書けたらと思っています。
出身地の加治木に墓などの史跡が遺っているようですが、日記などの史料は現存していないのでしょうか? 子孫がいらっしゃるのかどうかも気になるところです。葛城の盟友である相良藤次などももっと知りたいですね。

なお、次週13日(月)は新聞休刊日で、当連載も休載です。
次回掲載日は20日で、「御花畑」が薩長同盟の締結場所だったかどうかについて論じる予定です。

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【2010/12/06 17:37】 | さつま人国誌
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ぽん助
11日に「島津家と近衛家」を聞きに行ってきますので、室町頭町あたりもぶらっと見てきます。
現地に何があるわけでもないですが「御花畑」の雰囲気だけでも感じれたら。
また今後の新たなる発見に期待しております。

11日講演
桐野
ぽん助さん

講演はいかがだったでしょうか?
別の方からも報告のメールをいただきましたが、「御花畑」の話題も出たそうですね。

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本日中に100万アクセスを突破したようです。

ブログを開始したのが2006年11月でしたから、4年ほどで到達したことになります。

これもひとえに読んでいただいたみなさんのおかげです。
私の偏った趣味と仕事の雑文にすぎませんが、今後ともご愛読のほどを。


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【2010/12/05 22:52】 | 雑記
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とらさん
すごいですね。
今後のご活躍心より願っております。

そういえば中日新聞に、竜馬暗殺の実行犯とされた今井の石碑を訪れる人が増えている、という記事が載っていました。
一時的なものなのかどうか、竜馬自身の人気が高まってるところなので少し興味があるところです。

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この半月ばかり、講演と原稿締切が交互にやってくる状態で忙しく、なかなか更新もままなりませんでした。

先月分から書きますと、

11月21日(土)
午前中、上越新幹線で、信州上田まで。東京からだと、わずか80分程度で着く。
午後から、池波正太郎真田太平記館で講演あり。
当館は以前も訪れたことがある。
毎年、池波正太郎の作品にちなんだ企画展をやっているが、今回は池波氏没後20周年事業の一環で、「池波正太郎『人斬り半次郎』の舞台を歩く」が開催され、それに伴い、小生に声がかかった次第。

演題は「桐野利秋『京在日記』の魅力」。
同館1Fの開放型ホールが会場となった。
上田市と桐野利秋の縁といえば、何といっても、桐野による上田藩士、赤松小三郎暗殺に尽きる。
当然、『京在日記』の記事をもとにその話をするつもりで、項目としては9つ用意していて、赤松一件はその1番目だった。
案の定というべきか、赤松一件だけで、1時間以上しゃべってしまい、残りの8項目を駆け足でといういつもながらのパターンに陥る(汗)。
結局、20分ほどオーバーして終了。

終了後、東京方面から来てくれた人たち数人とお茶。
夜は青木村の田沢温泉の老舗旅館「ますや」に宿泊。島崎藤村ゆかりの温泉宿のようである。
レトロな旅館だったが、誤算は温泉の湯温がぬるいこと。おそらく35度程度だったのではないか。
かけ流しも善し悪しだと思った。
体が温まらずに早めに就寝。

翌日、真田太平記館のT屋館長が迎えに来てくれ、市内の名所旧跡をいくつか案内してくれた。
田沢温泉近くの大法寺に行く。ここは鎌倉末期の三重塔が国宝になっている。正慶2年(1333)、まさに北条得宗家が滅亡した年に建立されている。
正法寺

そのあと、上田市内に戻り、上田城に赤松小三郎の顕彰碑を見に行く。
講演終了後、この碑について質問があって、私は未見だったので、何とも答えようがなかったから気になっていた。
碑文を読んでみたが、質問にあった「會刺客」云々は会津の刺客ではなくて、私が答えたように、明らかに「會」は「たまたま」と読むべきだろう。また東郷平八郎が同郷の桐野の名前を先頭に出しているから、謝罪の気持ちがあったのか云々についても、答えようもない。
だいたい、この碑は上田史談会が建立したもので、当然、文責も同会にある。東郷の撰文ではない。その証拠に、碑文中に「東郷大将」云々という文字がある。東郷本人なら、自分をそう呼ぶはずがない。おそらく同会が東郷から聞いた話をまとめたものだろう。
碑文中に赤松の教えを受けた薩摩藩士の名前が出ており、「桐野、篠原、樺山」云々とあった。桐野以外は篠原国幹、樺山資紀だろう。桐野の名前が先頭にあるのは明治陸軍の階級順、先任順にすぎないだろう。
赤松暗殺一件で、それほど頭を悩ませるような碑文だとは思えないが……。
赤松小三郎


上田城に行きながら、戦国関係は一切関係なしというのも珍しい。
上田城内に入った頃から雨が降り出してきたので、市内の月窓寺に行き、赤松の遺髪墓を見学。

その後、郊外の信濃国分寺跡に行く。
ここを希望したのは、関ヶ原合戦の前哨戦となった上田城の攻防直前、真田昌幸と東軍に属した長男信幸や本多忠政との開城交渉の舞台になったところだったから。以前、何度か上田を訪れたが、ここは来たことがなかった。
国分寺は現在現役のお寺があり、こちらも三重塔があった。
国分寺三重塔

国分寺跡には現在、資料館がある。
そこで館長さんにご挨拶。軽食をいただいたうえに図録まで頂戴した。
雨のなか、国分寺跡を見学。講堂の礎石群などを見る。国分尼寺跡は線路の向こう側のようだ。JRの線路で分断されたようで。
国分寺講堂


昼食時になり、そばが食べたいとリクエストしたら、T屋館長が「刀屋」に連れて行ってくれた。
池波正太郎が愛した蕎麦屋。2Fの座敷でゆっくりいただいた。
「並」を注文したのに、山のように盛ったのが出てきて驚く。とにかくすごい量が出てくる。隣の若いお客たちが「特大」を注文しているのを見、さらにあっという間に完食したのに目を丸くした。
刀屋

その後、上田駅まで送ってもらう。
T屋館長にはお世話になりました。

ほかのイベントも書くつもりでしたが、長くなったのでいったんこれで切ります。

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【2010/12/05 09:45】 | イベント
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拝聴しました。
中村太郎
講演会では、いろいろ変な質問を致しまして、失礼申し上げました。
「赤松の碑文」の件ですが、私の言い方がまずくて済みませんでした。
おっしゃるように、上田史談会の撰文で、しかも東郷亡きあとの碑の建立ですのに、あの碑文をまるで東郷(or薩摩藩)が贖罪で書いたと勘違いしている地元の人とか某作家の方がおられる、ということを言いたかったのです。
前提が違ってるのですから、東郷に贖罪の気持ちがあったかどうかは論外です。それをお聞きしたかったわけではないのです。
桐野氏が碑について、はっきり書いてくださったので、とてもすっきりしました。
「會」は勉強になりました。有難うございました。

例の写真の件
桐野
中村太郎さん

わざわざ上田まで出席いただき、有難うございました。
桐野の若い頃の写真ですが、奈良迫ミチさんの論文を読み返してみたら、隣の女性は村田家の長女カツだとしていますね。迂濶でした。
奈良迫さんが子孫の方から得られた情報なのかどうか未確認ですが、仮に子孫の話だとしても、鵜呑みにはできないのではないかと思っています。
というのは、例の写真の撮影場所が大阪だという説もあり、まったくの別人の可能性もあるからです。
この件については、今後の課題だと思います。

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