歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

歴史読本に「信長――狂乱と冷徹の軍事カリスマ」を連載しています。
今回ですでに39回目。いま発売中です。

今回のテーマは「洛中馬揃えと左大臣推任」です。
ようやく天正9年(1581)にたどり着きました。

洛中馬揃えは、信長の朝廷圧迫のための軍事的示威という見方がありましたが、近年はそういう見方も下火になっています。何より安土での馬揃えの評判を知って所望したのが朝廷であり、実際の洛中馬揃えを見学した正親町天皇も誠仁親王も大変喜び、2回目をリクエストしているほどです。
信長も律儀で天皇や親王が喜ぶならと、リクエストに応じているのです。

これを軍事的示威とみるのはかなり無理がありますね。軍事的示威をするなら、何もこんなに手の込んだことをしなくても、もっと手っ取り早いやり方があるはずです。
また左大臣推任も、信長の馬揃えに対する嘉賞として朝廷が要請したものです。
でも、信長はもはや現役大臣に還任する気はなく、「金神」という陰陽道の凶悪神を口実にして婉曲的に断っています。
馬揃えはこの左大臣推任を引き出すための示威だという見方もありましたが、だったら、なぜ信長は任官しないのか不思議ですね。

あと、『兼見卿記』に記された誠仁親王と信長の「腹立」の一件。
「腹立」したのは誰なのか、従来の見方(といっても自分ですが)と違う解釈をしてみました。


残すはあと3回。
約2年分ですが、信長の最晩年だけに濃密な2年間で、出来事が多いです。
同10年だけでも甲州出陣、三職推任、本能寺の変などをすべて盛り込まないといけません。
さて、どうするか。
現在、第40回分を執筆中です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

スポンサーサイト

【2011/01/29 10:40】 | 信長
トラックバック(0) |

こんにちわ
とらさん
決して反論とかではないのですが、この時期にある程度の両者が緊張関係にあったとした場合ですが、最初に朝廷がリクエストしたのも信長に対するお世辞というような解釈はどうでしょうか。

2回目のリクエストもそうでしょうし信長がそれに応じたのも一種の社交辞令そして1回目の盛大さはやはり権勢誇示の意味合いが強いようにも思います。

お世辞であると共に左大臣推任はやはり朝廷から見て自らの規定内に納めたかった、そして信長が受けなかったのもあくまで右大臣辞退のようにその規定外にいようとした、という解釈なのですが。
もちろん信長は義昭の副将軍辞退からずっと共通した意識があるように思います。

最初の仮定の緊張状態というのが問題になりますが、これも圧倒的な軍事力、そして1579には安土城完成、親王二条城移転など直接朝廷に関わる出来事も増えてきます。

軍事パレードとはさすがに申しませんが、最初にどうしてリクエストしたのか、から考えた場合に「喜んだ」というのをそのまま受け取るのも、二大実力者が並存する状況において少し疑問に思っておりました。

お江と連載とが丁度同じタイミング、恐れ多いのですがせっかくの機会かと・・失礼しました・・

コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第179回
―旗本の善意 逆恨みされる―

一昨日、連載が更新になりました。
告知が遅れました。

同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回はちょっと変わった出来事を扱いました。
以前、江戸時代の武士道やエロスに詳しい氏家幹人氏が週刊誌のコラムに紹介されていたのを読んだのがきっかけで、少し調べてみようと思い立ちました。

前回の伊集院金次郎の戦死と同様、今回も薩摩武士の悲哀をテーマにしたものといってよいかもしれません。
しかも、今回のは理不尽というか、残酷というか、やりきれませんね。

それで、この事件の関係者が誰なのか、ほぼ完全に特定できますので、補足的に書いておきます。

まず、切腹を止めようとした旗本の酒井隠岐守です。
事件を記録した「天保雑記」に中奥小姓という役職が記されています。
幕府の役職を記録した『柳営補任』に、次のような人物がいます。

天保七年(1836)九月四日 中奥御小性ヨリ
同八酉八月八日西丸御小性組番頭    酒井隠岐守忠大(丈)


大円寺での事件が天保5年8月ですから、酒井隠岐守忠大はその時点で中奥小姓だった可能性が高いですね。
この人物で、ほぼ決まりでしょう。

次に切腹と介錯人の薩摩藩士は誰でしょうか。
これもほぼ確定できます。大円寺の過去帳が残っていて、『薩陽過去帳』(鹿児島県史料集ⅩⅣ)として刊行されています。その天保5年8月に3人の俗名・戒名が掲載されています。1人は童女なので除外でき、残りの2人が該当するのではと思います。

八月朔日 御広敷足軽 櫛原喜十郎事
 孤月秋天居士

八月廿日 芝御広敷御用人 大山彦八殿事
 源正院覚道良順居士


このうち、切腹したのが櫛原喜十郎で、介錯人が上司にあたる大山彦八でしょう。
足軽という軽輩ゆえ、門限に遅れただけで切腹させられたのでしょうね。薩摩藩の身分制の厳しさを思い知らされます。
2人とも、江戸の上屋敷の広敷に勤務していたということですから、藩主島津斉興の奥向き御用をしていたようですね。となると、切腹命令を出したのは斉興なんでしょうか?

なお、注目すべきは介錯人の「大山彦八」です。
幕末にこれと同じ名前の人物が登場します。
ほかでもない、寺田屋事件で襲撃されて負傷した坂本龍馬を救出した薩摩藩の伏見藩邸留守居の大山彦八(大山巌の兄)です。
そうなんです。介錯人でのちに連坐して切腹させられた大山彦八は幕末の彦八(成美)と弥介(巌)兄弟の祖父にあたります。『元帥公爵大山巌』所収の大山家系図でも確認がとれました。
調べていくと、意外な人物に突きあたりました。これだから、史料調べはやめられません。

この一件は続編を書くべきだと思いました。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/01/26 13:24】 | てらこや
トラックバック(0) |


ながお
桐野様

こんばんわ。旗本と薩摩の武士道に対する見解の違いみたいなものを感じますし、やはり藩主の酷な性格が反映されるのでしょうか。門限が遅れたから、切腹を遅らせたから、そんな理由で死ななくてならないとは。命がいくつあっても足りません。彦八の子孫の巌たちは祖父の死をどう受け止めていたのでしょうね。

見解の相違?
桐野
ながおさん

武士道の見解の相違というのもありそうですが、どうも家中の決定に他家(それも旗本)から介入されたのが気に入らないだけかもしれないですね。
居直って処分を強行したのでしょうね。


大山彦八が介錯人
大膳太夫
いろいろ言いたいことがあるが、武士じゃない足軽が武士の名誉である切腹をするのだろうか。天保の事例があるなら出すべきだろう。
普通、介錯は親族か親族に以来された剣術家がするもので、上司がした事例を知らないので実証で有名な桐野氏にその実例があれば出してもらいたい。
切腹は大罪であり、普通は罪人の息子や娘婿がその名跡を相続できず、家老でもなかなかないが、それが出来る上に直触の特権である添地が剥奪になっていない中級武士の大山に出来る了見は何故か?。
そもそも幕府直臣だが中奥小姓の旗本と当時は親藩と同じ大廊下の薩摩藩の家中の求められるモラル基準が同じかという問題があり、仙台藩や加賀藩の事例を出さずに考えるのはいかがなものか?。門限違反処罰は武士のモラルに関わる問題で薩摩藩では門限違反して遊郭に行ったために家老をも含めた大処罰事件が竹姫の時に起こっている。

大山彦八
大膳太夫
きついコメントを先に書いたが、大山彦八の年齢が分かったのには感謝している。郡元墓地にあった大山家の墓が東京に移転して困っていたので、大山彦八綱毅の享年がわからずに困っていた。

自身は大山家を調べていた。残すは大山宗之丞の享年だけとなった。その点については感謝している。

いやはや
桐野
大膳太夫さん

人の家に土足で乗り込み、大声で騒ぐようなコメントに答える筋合いはありませんが。

私は切腹した2人について、『薩陽過去帳』に記載された2人が該当するのではないかと推定しただけで、断定はしていません。
それは南日本新聞連載のタイトルに「大山巌の祖父か」と疑問形で書き、断定を避けていることでも明らかでしょう。

しかし、この2人以外考えられないと思いますけどね。

あと、足軽が武士でないというのは他藩はいざ知らず、薩摩藩の身分制に照らしてどうですかね?
薩摩藩での足軽とはかつての道具衆の流れを引いており、末端ながら武士身分ではないですか。
足軽は江戸後期、同心と改称されていることもあり、武士でないというのは違和感ありますね。

また座付の与力と同様、足軽は諸役座の附属で、広敷もそのひとつですね。また扶持も小禄(3石余)ながら給付されています。

薩摩藩の藩政を詳述した「島津家列朝制度」巻29(『藩法集』8 鹿児島藩上)でも、足軽は島津一門以下の身分序列の最末端に書かれており、武士身分のくくりだと思います。

あと、介錯人が大山彦八綱毅だったのではないかと推定できるのは、その一女競子と西郷家から養子縁組した彦八綱昌が浪人だった可能性があることです。
『元帥西郷従道伝』の付録系図によれば、競子と綱昌が縁組した時期を天保6年6月19日としており、彦八綱毅が他界してのちです。このことは、おそらく綱毅で大山家は一時断絶した可能性を示唆しています。

『元帥公爵大山巌伝』の「大山氏系図」によれば、彦八綱毅の父綱道、祖父綱栄ともに一代小番と家格が御小姓組よりひとつ上で、小納戸役や喜界島代官、百引や串木野の地頭などを歴任するなど、もともとが御小姓組の家柄にしては相当の役職についています。
綱毅も広敷御用人と出世しています。

それに引き替え、綱毅養子の綱昌については同系図に「其の生涯を砲術研究に委ぬ」と書かれているのみで、仕官した形跡がありません。
つまり、無役か浪人だった可能性があります。綱毅が切腹したと考えれば、綱昌の不遇もよく理解できますが、いかがでしょうか?

また大山巌の伝記は分厚い大冊なのに、父綱昌のことを何も書いてないのも不自然です。書くのを憚ることがあったからだと考えたほうが理解しやすいですね。

大山家のことを長年調べておられて私より相当お詳しいはずですから、そのあたりはご存じではないのでしょうか。

なお、薩摩の過酷な武士道については、個人的な感想を述べただけで、他人にあれこれ言われる筋合いはありません。

切腹した奴どこの誰?
大膳亮
『薩陽過去帳』の凡例を見れば分かるが、これ自体が原本でなく実は後年に補修のために編集したものらしく、抜けがあることが指摘されており、天保5年で大山と足軽以外に童女がいるわけだが、実はこの童女の俗名が早川環の家来となっていのはご存知のこと。普通に考えれば早川の家来の娘とも考えられるが、凡例を考慮早川の家来と童女との間に抜けがある可能性はないものか。

薩摩藩は後年、江戸幕府を模範にして身分制を整えているので、少なくとも天保では制度上は江戸幕府に準じている可能性が高い。足軽は直臣卒族で直臣士分最下位は与力。但し薩摩藩の序列では足軽は最下位でなく、一門家家臣と諸家家臣(つまり陪臣)があるので足軽が士分に見えるのも納得ですが、宗門改めにおいて足軽以下(主家の特権により一門家と旧大身分の家臣)は年付けという差別があったはず。

綱毅が死亡したのが江戸だけに大山綱昌の家督相続が一年遅れたのは断絶としても切腹でなく一時的な無嗣断絶だったのでは?。でも無嗣断絶や切腹だと屋敷と添え地は没収のはずで、さほどというか全く出世していない大山綱昌が仮に名跡相続したとすると屋敷はともかく藩の拝領物の添地をもつというのもおかしい話。本当は鮫島家から養子に入った名越彦太夫やその孫の篠崎彦十郎みたく無高無屋敷からのスタートのはず(鹿児島城下絵図散歩など)

西郷隆盛の祖父の竜右衛門は兄の吉左衛門が江戸で切腹になったために村山家から戻されて西郷家の嗣子になったわけだが(つまり西郷隆盛が西郷とほぼ確定した事件。でなかったら村山だった)吉左衛門も『薩陽過去帳』にあるが、病死扱いでも切腹扱いでもない。

加えて最初の切腹が天保5年8月で間違いないとして2回目も天保5年8月かは疑問。桐野氏説でいくと2回目は1回目から20日かかったわけだが、大山を1回目とすると2回目の介錯人は9月。そもそも藤田殿は2回とも8月と言った?。

確かに門限破りで切腹は過酷で、幕府側用人の水野忠成の目付が門限破りで謹慎だったのを考えると確かに門限破りで切腹は過酷だが、あの慰安旅行事件を考えるとこの厳しさは分からなくもなかったりする。

訂正
大膳亮
足軽以下には年付けという差別があったが、一門家と旧大身分の家臣には主家の特権で年付はないと書こうとしたら間違えた。

自身は東京に行けないので、見ることが出来ない大山彦八の享年を掲載していただいたことには本当に感謝しておりますし、おまけに改葬後の死亡年まで記載していただき、いたれりつくせりです。江戸で埋葬、国元の参り墓、一日ずれる。西郷吉左衛門、五郎左衛門だけでなく、大山も一日ずれているとは収穫です。

門限で切腹という厳しさは加賀藩などの大廊下級大名家では普通だったかもしれない(斉宣、斉興時代は大廊下)ので、門限違反処罰や薩摩藩の足軽の切腹の事例収集をお勧めいたします。



管理人のみ閲覧できます
-


管理人のみ閲覧できます
-


大山彦八綱毅
大膳亮
ヤベエ、また訂正。西郷吉左衛門でなく覚左衛門だわ。吉左衛門は旧名。

因みに婿養子大山綱昌は確かに無役でした。但し、不遇だったようには思えません。(大山家にとってはある意味残念な人でした)。因みに天保段階で水引の板垣と知り合いだったりする(西郷マニアなら大抵知ってるあの金持ち)。

コメントを閉じる▲
大河ドラマ「江」第3回「信長の秘密」

何かもったいぶったタイトルでしたが、要はありもしない江の好奇心をかき立てただけ。江というより、むしろ脚本家の好奇心ではないかと思う。
だって、江はドラマ進行時点でわずか7歳か8歳ですよ。
子どもだから恐い者知らずで何でも聞けるという演出もありかもしれんけど、それなら、大人の上野樹里より、子役の芦田愛菜ちゃんのほうが実年齢ぴったりだし、効果的だったんじゃないの?
もっとも、7~8歳の女の子が、信康事件の真相を知ろうなんて考えないけどね、ふつう。

それで、今回の隠しテーマは信康事件です。
前回のコメント補足でも少し書きました。ここです。

もう一度、整理しておきます。
ドラマは信長が築山殿の殺害と信康の切腹を命じたという通説に従い、さらにその理由として、信康が信忠よりも優秀だったからではないかと、お市の方に述べさせておりました。

はっきりと強調しておきますが、この通説は後世の徳川史観です。
家康に都合がよいように、信長に事件の責任を転嫁したもので、結果として信康の「逆心」(後述)も曖昧化し、救済する意図が込められています。つまりは史実から乖離したフィクションだということです。

この事件の基本史料は、徳川方だと『家忠日記』、織田方だと太田牛一『信長記』の異本「安土日記」です。
太田牛一が著述したいわゆる『信長記』(『信長公記』と呼ばれることが多いですが)は自筆本と写本を含めて、数十点あります。
そのなかで信康事件を記したものと、記さないものがあります。また記したものでも、内容が微妙に違っています。
記されたものは成立が古く、記されていないものは成立が比較的新しいです。
なぜこのような違いが生じるかというと、太田牛一が『信長記』諸本を著述した時期が文禄年間(天正年間まで遡る可能性大)から慶長年間で、豊臣から徳川への政権移行期にあたっているからです。
つまり、徳川政権にとって父子相剋というデリケートな問題である信康事件を記述するのか否か、徳川政権が強固になるにつれて、太田牛一はこの問題に触れるのを次第に遠慮するようになったからです。

したがって、『信長記』諸本のうち、成立の古いものほど、この事件の真相に近いということになります。
その諸本のうち、写本ながら成立が古いとされるのが、加賀前田家の尊経閣文庫が所蔵している「安土日記」です。これは全巻揃っておらず、信康事件前後の天正6年と7年のみが残っています。有名な九鬼水軍の鉄張船についても貴重な記述があります。
そのなかで、信康事件が何と書かれているかというと、

去る程に三州岡崎三郎殿(信康)逆心の雑説申し候、家康ならびに年寄衆上様に対し申し、勿体なきお心持ちしかるべからざるの旨異見候て、八月四日に三郎殿を国端へ追い出し申し候、

意訳すると、

そうこうするうちに、信康殿が謀叛の心があると噂が流れ、家康と家老衆が上様(信長)に対して不届きな心持ちはよくないと(信康に)異見をし、八月四日に国端に追放した。

一方、徳川方の『家忠日記』天正7年(1579)6月(5日か)条に次のような記事があります。

家康浜松より信康御○○○○の中なをしに越され候、○○○○時○○○家康御屋敷へ○○○○御渡し候て、ふかうすかへり(深溝帰り)候、

○○は虫損です(字数は不明)。虫損が多くて大意が取りにくいです。この前後の日記でこれだけの虫損があるのはこの個所だけです。微妙な内容なので、虫損ではなく抹消されたのかもしれません。

このなかに、家康が浜松から(岡崎の)信康のところにやってきた目的が「中なをし」(仲直し)、つまり仲直りのために来たとあります。
この一件は信康の追放、切腹の2カ月前のことです。これではっきりするのは家康と信康が不仲であること。それも単に父子の不仲にとどまらず、浜松と岡崎の対立にほかならず、つまり徳川家中の深刻な対立だと考えて間違いありません。

信康が非業の死を遂げるのは、信長の命令があったからでなく、徳川家中の対立を解消するために、家康が自分の嫡男を犠牲にせざるをえなかったというのが真相に近いでしょう。
信康が父に反抗したのには、築山殿が殺害されていることから、彼女の使嗾というか働きかけがあった可能性は高いですね。それが今川家出身としての恨みなのか、あるいは甲斐武田氏との内通のゆえなのかは不明です。

嫡男の処断を決断した家康ですが、やはり人の親ですから、信康に切腹を命じるのは忍びなく、一命は助けようとして一度は追放処分にしたのだと思います。

以上からわかるように、信康事件の本質は父子相剋、徳川家中の深刻な内紛にあります。また『信長記』と『家忠日記』を見るかぎりでは、信長が関与したかどうかは不明です。ここを見失ってはいけません。

もっとも、大久保忠教の『三河物語』には、信長が信康の切腹を命じたとありますが、それもどこまで信じてよいかわかりません。仮に信長が関与したとしても、積極的なものではなく、あくまで徳川家からの報告に対応したにすぎないという副次的なものでしょう。

そのことを裏付けるのが、もうひとつの徳川方の編纂記録『当代記』です。そのの記述はまことに興味深いです。

(天正7年)八月五日岡崎三郎信康主[家康公一男]牢人せしめ給ふ、是信長の聟たりといえども、父家康公の命を常に違背し、信長公をも軽んじ奉られ、被官以下に情けなく非道を行わるるの間かくのごとし、(後略)

徳川方の記録にも、信康が家康の命令にいつも背き、家来たちに非道な行いがあったと書かれています。また信康の所行をひそかに信長に報告したのは家老の酒井忠次で、『三河物語』が信康夫人五徳(信長長女)とするのと異なります。忠次の報告に対して、信長は「是非に及ばず、家康存分次第の由返答あり」とも書かれており、信長は徳川家中の問題には立ち入らず、あくまで家康の判断に任せると答えています。
これこそ信康事件の本質を示しており、上の『信長記』や『家忠日記』と内容が一致しています。

家康と信康の対立、徳川家中の対立ならば、大名当主である家康が自分で自主的に処置すればよいことです。それが『信長記』にある「上様」(信長)に対して不届きだという記述とも関連するのでしょうが、信長がこの一件に関与した可能性をうかがわせるのは、ひとえに信康が信長の女婿だからでしょう。家康も嫡男とはいえ、信長の聟を自分の一存だけで処断できず、信長にお伺いを立てたのかもしれません。

後世、徳川政権が確固たるものになると、信康事件はデリケートなものになり、嫡男を殺した家康というマイナスイメージが広がることをカモフラージュするとともに、信長に責任転嫁する言説が徳川方から登場するようになりました。私が徳川史観だというのはそれゆえです。

それに伴い、太田牛一の『信長記』諸本も時代が下るごとに、内容が希薄になり、ついには記事そのものが消滅してしまいます。その流れを追うと、


「逆心」 → 「不慮に狂乱」 → 記事消滅

「不慮に狂乱」とは、精神的な疾患を意味し、あくまで信康個人の性格の問題に限定しようとする意図があり、「逆心」を本質とする徳川家中の内紛を覆い隠す効果があります。

ところで、江の所作はあれでいいですか?
とくに歩き方というより走り方は「のだめ」そのものですね。
だいたい、姫があんなはしたない所作はしないでしょう。
もう完全に時代劇を捨てているとしか思えません。
原作・脚本家の思い描く超時代的なファンタジーなんでしょうね。そう考えれば納得できます。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/01/24 12:27】 |
トラックバック(1) |

光秀の振る舞い
平八
私が疑問に思ったのは、光秀が主君の弟である
信包を、片手で制すような所作をした部分です。
これってアリなのでしょうか。

民放の歴史ドキュメントの再現ドラマ
みたいに見えてしまいます・・・。




市野澤 永
こんばんわ。

お世話になります。

今回の書き込みは一般誌に掲載されても遜色がない内容ですね。

>信康が信忠よりも優秀

高柳光寿氏には珍しく実証を欠いた見解です。
高柳氏の影響の強さというよりも、
谷口克広氏の研究成果を読んでいないですね。

>甲斐武田氏との内通

大須賀絡みで述べられたりしますが、どうなんでしょうね?

>非道

信康・忠輝・忠直と徳川一門は、この手の逸話が多いですね。

>「のだめ」そのもの

キャストが決定する前にユーチューブで「のだめ」キャストを主軸に作成された『江』のOPには笑いました。
私が動画を見た際には、主要キャストが決定していたので、余計に笑えました。
今でも見れるのかな?



言葉遣いが…
三位中将
詳細な解説をありがとうございます。

信忠贔屓としては忸怩たる思いですが、ドラマ中で信康事件の直接の原因を信忠にされなかったことが唯一の救いです。
しかし理由を聞かれて「分からん」と言う信長もどうかと思いましたが(苦笑)

所作や言葉遣いに関しては最初から半ば諦めてはいましたが…それにしてももう少し何とかできないものかと。
個人的には言葉遣いが気になって仕方ありません。

いやはや
桐野
みなさま

時代考証的にはいろいろ疑問がありますね。
もっとも、制作側は時代劇の約束事を承知の上でスルーしている感じですね。

大河ドラマがそれでいいのかという議論もあるでしょうし、お子ちゃま向けにするなら、再定義が必要かもしれないですね。



HI
当代記には確か、後略部分に信長も軽んじたという記述があったはずですが…

コメントを閉じる▲
本日は新暦で、島津義久(1533~1611)の命日(旧暦換算だと3月5日)。
しかも400年忌です。

義久は慶長16年(1611)1月21日、国分(現・霧島市国分)の居館(舞鶴城)で息を引き取りました。
臨終の刻限は「申刻」(午後4時頃)と「加治木御日記」(島津義弘側近の日記)にあります。享年79。当時としては相当の長命でした。
義久は戦国島津氏最盛期の当主です。天正14年(1586)には九州のほぼ全域を占領するまでになりましたが、豊臣秀吉の襲来により、頓挫のやむなきに至りました。

その後、豊臣政権からの圧力や干渉、自身の後継者不在という苦悩が、義久を屈折させました。
とくに後継者問題は義久を最後まで悩ませ、嫡女亀寿の行く末を案じながらの最期だったのではないでしょうか。
このあたりの事情について興味のある方は、拙著『島津義久』(PHP文庫)や『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)をご覧下さい。

この年、義久は元旦に連歌と思われる発句を詠んでいます。

朝戸あけの袂か
梅のうすかほり


まだ重篤ではなかったようですが、上記日記によれば、義久に「虫気」の症状がたびたびあらわれたことが書かれています。虫気は腹痛など腹部の病気の総称ですが、胃ガンだったのかもしれませんね。

臨終の床には、弟の義弘や甥で養子の家久も駆けつけています。
なお、上記日記では、義久の他界は正月二十日条に書かれています。

義久の辞世は、

世間のよね(米)と水とをのミつくし つくしてのちは天津大そら

なお、殉死者が15人もいました。
最年少は市来清左衛門の26歳、最年長は新原藤左衛門の69歳。

義久の死は、薩摩と島津氏の戦国が最終的に終焉した出来事で、これを機に島津氏は近世の新時代に入ったといっても過言ではありません。

しかし、義久の400年忌といっても、鹿児島ではほとんど話題にならないでしょうな。
国分では慰霊祭があるんでしょうかね?


余談ながら、本日は新暦ですが、薩長同盟が締結された日(諸説あり)でもありますね。
慶応2年(1866)のことですから、145年前のことです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/01/21 14:49】 | 戦国島津
トラックバック(0) |

まさに戦国大名
市川
戦国乱世を生き抜き、とにもかくにも島津氏の土台を支え続けた島津義久公に改めて敬意を表します。
義久や義弘など、島津氏の当主は長命な人が多いですね。お家を守り通す秘訣なのかもしれません。



長命
桐野
市川さん

仰せのとおり、長生きがお家存続の秘訣という面はありますね。

江戸時代初期、多くの大名が改易されていますが、ほとんど無嗣子で、藩主が短命のケースが多いですね。

もっとも、島津家の場合、亡くなる順番が義弘が先だったら、その後の島津家はどのように変わったかという議論もありますね。


管理人のみ閲覧できます
-


低評価
ばんない
こんばんは。

>義久の400年忌といっても、鹿児島ではほとんど話題にならないでしょうな。
web版南日本新聞の1/21記事を見ましたが、全く話題になってませんでした(涙)
地元の人しか確認できない地方版には、何か載っているのかも知れませんが…

テレビ神奈川他独立UHF系局で放送されている『戦国鍋TV』という番組の「活躍の割に知名度の低い武将」のコーナーでもついに取り上げられてしまったし、この低評価は当分続きそうですね(号泣)

400年忌
桐野
ばんないさん

私は一日遅れで、南日本新聞を読んでいるのですが、まったく記事はありませんでした。

それで、拙連載で少し書くことにしました。
島津最盛期の当主の400年忌がまったく知られないままで過ぎ去るのは口惜しいですからね。



ばんない
こんばんは。
地元紙でも全く無視の扱いでしたか…悲しいですね。

>拙連載
2月23日前後の「さつま人国記」にこう御期待下さい!
…ということでしょうか?(汗)
義久公も草葉の陰でお喜びになるのでは無かろうかと思います。

ところで揚げ足を取るようで非常に心苦しいのですが、慶長16年1月21日は西暦換算すると1611年3月5日になりませんか?



3月5日
桐野
ばんないさん

新暦と旧暦の換算、ご指摘を受けて調べてみたら、やっぱり3月5日でした(汗)。
エントリーのほうも訂正しておきました。

義久命日は新暦では過ぎてしまいましたが、旧暦ではまだ1カ月以上ありますので、早めに告知したいと思います。

危うく間違った日にちを書くところでした。
ご指摘感謝です。

コメントを閉じる▲
昨夜、小学館アカデミー古文書講座「てらこや」に出講。
今年初めての講座である。

今回の演題は「薩土盟約と中岡慎太郎」。
今回は中岡の日記『行行筆記』から、慶応3年(1867)4月~5月あたりを読む。
ちょうど四侯会議の時期にあたっており、中岡が藩内外の要人や知友と頻繁に会って周旋活動をしていることがわかる。ただ、その中身はよくわからない。中岡の日記はその点が惜しい。もしその活動内容をもう少し詳しく書いていたら、中岡の評価がもっと高くなるはずだが、残念である。

今回はとくに人物比定に苦労した。
中岡はもっぱら、片名字、片諱の表記を多用している。坂本龍馬を「坂龍」と省略して表記する類。なかには片名字だけの表記もあり、誰だかよくわからない。たとえば、「田」と書いてあってもねえ。

今回の講座のキモは、中岡が江戸から上ってきた乾退助(のち板垣退助)を薩摩藩の小松帯刀や西郷吉之助などに引き合わせる場面。
じつをいうと、これも日記にはただ集まって会ったとしか書いてない。
そうかといって、当事者たちの記録や日記などにも何も書かれておらず、ほとんど唯一の記録は板垣が後世回顧したものだけ。それもけっこういい加減で、ほとんど中身がない。「小松・西郷らと討幕攘夷で合意した」と証言しているが、どこまで信じていいのやら。
だから、会見の中身より、両者が会見したこと自体に意義があったのではないかという話をする。
この会見が薩土の密約とか、討幕の盟約と呼ばれているけど、過大評価だと思う、という話もした。

あと、前回までで太宰府の五卿がらみの話が終わってしまったが、拙宅の書庫を整理していたら、『三条実美公年譜』という格好の史料が出てきたが、あとの祭り。でも、悔しかったから、連載「さつま人国誌」の最新記事にも書いた伊集院金次郎の「酔狂」一件(ここです)が記されたあたりを受講者に配布した。

あと、中岡が大極丸の運航に関する金銭的なトラブルを処理するため、小松帯刀に掛け合っているのが興味深かった。なぜ中岡があたっているのかわからない。
また「破船」という記述があり、いろは丸沈没事件だろうと受講生に教えていただいた。時期的にたしかにそうである。中岡もこの事件を知っていたことがわかる。

次回はおそらく「行行筆記」の最終回だと思う。
あと「時勢論」なども詳しく読みたい。楽しみである。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/01/19 22:32】 | てらこや
トラックバック(0) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第178回
―太宰府での失態を恥じて―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回はあまり知られていない人物を取り上げました。
桐野利秋の知友として、名前だけは私も知っていましたが、彼が鳥羽伏見の戦いで戦死するに至るいきさつというか遠因までは知らずにいました。

たまたま昨年の小学館アカデミー講座「てらこや」で、中岡慎太郎の日記を読んでいたとき、参考史料として,土方久元『回天実記』と、五卿の一人、東久世通禧の日記を読んだら、伊集院金次郎の失態が具体的に書かれていて、非常に興味が惹かれました。それで、当連載で書いてみようという気になりました。

彼の戦死の記録は、京都相国寺塔頭の林光院墓所にある薩摩藩戦死者の石碑に刻まれています。また『忠義公史料』にも戦死公報のような記事があります。

ところが、彼がどのようにして戦死したのか、斬られたのか、突かれたのか、射たれたのかといった情報も見つけられませんでした。彼は小銃一番隊の小頭見習で、桐野利秋と同役、同僚です。しかし、戊辰戦争に従軍した薩摩藩諸隊の戦闘報告をまとめた『薩藩出軍戦状』のなかの小銃一番隊の報告にも彼の名前すら出てきません。
あとは活字化されていない史料にあたるしかないかなと思っているところです。

でも、ある程度推測はつきます。
彼が鳥羽伏見の戦いが開戦した正月3日に戦死していること。また戦死した場所が伏見奉行所近辺だとわかっていますから、おそらく開戦直後に会津藩や新選組との近接戦闘で戦死したのでしょう。おそらく開戦してそれほど時間が経っていないうちだと思います。
彼が例の不始末を胸に刻んで、いざ開戦となれば、まっ先に戦死する覚悟でいたのではないかと推定されます。
なんというか、武士の哀しさを感じさせますし、いかにも薩摩兵児だという気もします。
伏見での戦いといえば、都城隊の悲劇もありましたね。

次回も薩摩武士の哀しさをテーマにしようと思っています。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/01/17 22:59】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


ぽん助
半次郎と仲の良かった伊集院金次郎は僕も気になっていましたが取り上げて頂いて嬉しいです。
次回も楽しみにしています。

どうも
桐野
ぽん助さん

コメント有難うございます。

伊集院金次郎は名前が知られていないだけで、史料を探せば、いろいろ出てくるかもしれませんね。それにしても、彼の最期の様子を具体的に記した記録がないのが残念です。

コメントを閉じる▲
もうひとつ書き忘れておりました。

お市や三姉妹が憎悪していた浅井長政らの薄濃(はくだみ)のことです。

これは『信長公記』巻7,天正2年(1574)正月元旦の年賀での宴席で登場します。場所は岐阜城の居館でしょう。
ひととおりの年賀の挨拶が済んだのち、馬廻衆だけ残って宴席が開かれました。
そこで、「古今承り及ばざる珍奇の御肴」が出てきて酒宴になりました。

以下読み下しを掲げますと、

朝倉左京大夫義景首(こうべ)
浅井下野(久政)首
浅井備前(長政)首

已上(以上)、三ツ薄濃にして公卿に居ゑ置き、御肴に出され候て御酒宴。各御謡御遊興、千々万々目出度御存分に任せられ御悦びなり。


「薄濃」とはドクロを漆で固めてから金泥などで彩色したものだそうです。
これを読む限り、長政ら3人の薄濃は「公卿」(折敷の台)の上に載せて飾られており、盃にされたわけではないようです。ドラマで信長が釈明していたとおりですね。

これが何に基づいた趣向なのかよくわかりません。宗教的あるいは習俗的な背景などがあるのか不勉強で知りませんが、これまでそのような解説は見たこともありません。
身近な馬廻たちだけを集めて元亀争乱の苦労をともにねぎらうために、その引き出物(苦労・苦戦した成果)として供されたようにも思えます。
ドラマでは、信長が合戦の勝ち負けは世の常で、長政らもねぎらったのだと話していましたが、さてそこまで深読みできるのかどうかわかりません。

取り急ぎ補足でした。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング




【2011/01/17 00:13】 |
トラックバック(0) |


ハンク
いつも勉強させてもらっています。薄濃の件ですが、「中世に大流行した真言立川流の秘儀」という解説があります。『織田信長 石山本願寺合戦全史』112頁、武田鏡村著。

真言立川流
桐野
ハンクさん

その著書と真言立川流については、このブログでもすでに触れております。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-200.html

しかし、信長が真言立川流を知っていた、あるいは信じていたとは思えないのですが……。


こんにちわ
とらさん
お江の話題ですね。

市と長政はどちらも役者が23歳サバを読んだようで、このあたりは整合性がありますね・・?

家康もやけにフケてましたが、家康なら23歳でもあのぐらいフケて貫禄があってもおかしくない・・?

髑髏の話ですが、正月の正装を「倒した相手への敬意」みたいに表現するのは上手だな、と。ここだけは感心しました。
しかし、あの髑髏は少し現代人すぎる形みたいで、まぁたくさんヌリヌリしてるうちにあのようになった、といえばそうなんですが。

秀吉が家康にお酒をつぐシーンも、いくら年下でも提携先の社長なんですから、ちょっと違和感が・・

そういえば第一回の秀吉の紋は豊臣拝領時のものらしくて、ちょっとタイムスリップしてしまったのでしょかね。

これからも楽しみ?ではあります。

秀吉の家紋
桐野
とらさん

秀吉の家紋、旗指物でしょうか?
見逃してしまいました。
もしかして桐紋だったのでしょうか?
それなら、たしかに問題ですね(笑)。
このドラマにそのあたりの考証を期待しても詮ないかもしれませんね。

秀吉の桐紋
平八
いつも拝読させていただいております。

「江」の秀吉の桐紋の件は私も質問しようと
思っていたところでした。

姉川合戦時?が小谷攻め時に黄地に黒で
桐紋(五三の桐だったと思いますが)の
旗指物が見受けられました。

秀吉の桐紋は、信長からの拝領と、後に
天皇から下賜される(こちらだけと私は
思っておりました)のと
2回あったのでしょうか?


とらさん
自分もあまり詳しくはないですし、録画消してしまったので確認できませんが、小谷の旗指物が五
七紋だった、というのをどこかで見かけもので。

第二回冒頭時の潮干狩りシーン、これは桂浜では、というのも面白かったですね。

「あざい」というのも普通に使われてますが、これはどうなんでしょうね。
今後が楽しみです。


市野澤 永
桐野さん、こんばんわ。

家紋の間違いは多いですね。

私の守備範囲だと、下総結城氏の紋が向きが違ったり、
結城白川氏は伊達家の紋をずっと使用していたような間違いがあります。

桐紋
桐野
みなさん

秀吉家紋についてコメント有難うございます。

家紋については、私は門外漢ですが、秀吉が桐紋をもらったのは信長からではなく、朝廷からではないでしょうかね。
関白宣下のときか、豊臣受姓がきっかけのような気がしますが。

薄濃の件
takara_tuka2000
はじめまして。いつも興味深く拝見しております。

薄濃の件ですが、藤巻一保氏が「第六天魔王信長」という本で真言立川流との関係について論じておられます。

要約すると、
・髑髏法は真言立川流のオリジナルではなく、密教外法として天台でも真言でも使われた修法である。
・髑髏法における真の本尊は、人の魂魄を食らい死を支配すると信じられた外法最大の神・荼枳尼天である。
・一方、かのフロイスが信忠について「愛宕と称せられる山にある悪魔に二千五百クルザードを献納した。なおその悪魔への深い信心から、それに捧げる一種の犠牲の業として、自らの邸で裸となって全身に雪をかぶる苦行をした」と記録している。この愛宕信仰とは、即ち荼枳尼天信仰である。
・信長自身も本願寺に提出した起請文において、わざわざ「愛宕」を書き足している。信長と髑髏法を結びつけたのは、愛宕を通じた荼枳尼天信仰ではないか。
・見寺の開基は津島牛頭天王社の記録によると、尭照という無名の真言僧。信長に髑髏法を教えたのはこの尭照ではないか。牛頭天王も荼枳尼天と同じく密教における外法にあたり、それを扱うにはそれのプロの助けが必要なので。

・・・となります。

もちろん直接的な証拠は何もないので状況証拠を積み重ねているだけですが、非常にユニークな視点だと思いました。

情報御礼
桐野
takara_tuka2000さん

「薄濃」についての情報提供、有難うございます。

かなりうがった意見ですね。面白いですが、どこまで信じていいのか迷いますね。



コメントを閉じる▲
「江」第2回

史実よりも何よりも、天正7年(1579)に安土城天主落成の祝いに赴いたお市と三姉妹。
元亀4年(天正元年、1573)生まれのお江はわずか7歳なのですが(笑)。
小学校1年生程度で信長とあんな会話ができるとは!!
前回、茶々の子ども時代を演じた噂の名子役芦田愛菜ちゃんは満6歳(数え7歳か)とのこと。ちょうど本日のドラマでの江と同じ実年齢です。違和感ありすぎですね。

あと、これは「利家とまつ」などでも非常に違和感を覚えたのですが、信長の呼称。
家来が「御屋形様」と呼んでいましたが、「上様」と呼ぶべきです。
「御屋形様」はせいぜい守護程度の呼称、信長は天下人ですぞ。

安土城天主での出来事は、『信長公記』巻12、天正7年5月11日にある、信長が天主に移徙(わたまし)した直後でしょうね。

でも、天主は信長の生活空間であり、その許しなく勝手に上れません。
のち秀吉が他界する直前の慶長3年(1598)、遺書を残していますが、それには徳川家康に伏見城天守に上ることを許すと書かれています(『浅野家文書』)。秀吉時代は天守閣が日常的な生活空間ではなかったと思われますが、信長時代はなおさらのことです。
天主・天守閣は主人のもので、通常、家来や他人は上ることはできませんでした。お江は許可を得ていたとは思えませんが。許可を得たなら、信長が襖越しに鑓で突いたりしないでしょう。

あと、安土城に、信忠・信雄・信孝の三兄弟はじめ、柴田勝家や徳川家康、明智光秀までおり、あとから羽柴秀吉も来ました。
でも、どうでしょうかね?
この頃、織田軍は全力を挙げて荒木村重のこもる摂津有岡城を包囲しています。とくに信忠はその総司令官ですから、安土に行けたか。また勝家はじめ越前衆は有岡城攻めから越前帰国を命じられています。
光秀は同様に波多野氏がこもる丹波八上城を囲んでいます。
秀吉も播磨三木城主の別所長治の支城を攻めています。
ですから、主だった武将たちが安土にいるとは思えませんね。

家康が嫡男信康を同行していたのも微妙です。
というのは、安土城天主の落成からわずか3カ月後の8月に、信康は「逆心」の廉で家康の命で岡崎城から追放されているのですよ。
ドラマでは、追放から3カ月前だから、安土城に親子で行ってもよいと解釈しているのでしょうが、親が嫡男を追放するというのはよほど根深い対立や確執が推定されるわけで、3カ月前は仲がよかったとは常識的に考えられませんね。実際、前年の同6年9月、武田方との戦いで、信康は馬が病気になったことを理由に勝手に陣払いしており、すでに家康との関係が良好だとは思えません。
ですから、安土城天主が完成した頃はすでに家康と信康・築山殿は不仲どころか、浜松城と岡崎城で対立している状況だったはずです。だから、打ち揃って安土に来られるような親子関係ではなかったと思われます。信康夫人五徳(信長長女)と築山殿が不仲だと家康がなぜか暴露していましたが、むしろ、家康と信康が対立していたと見るべきでしょう。

ほかにもいろいろありますが、しゃべりや所作がほとんどのだめ江なので、先行きが心配ですね。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/01/16 21:52】 |
トラックバック(1) |


市野澤 永
こんばんわ。

>御屋形様

竹中直人さん主演『秀吉』もそうでした。
凄い違和感ありました。

>信康

私が先日、新宿でお話した点と類似する問題と考えているのですが、
信康は徳川姓ではなく、文書では松平・もしくは岡崎姓なんですよね。
桐野さんは、この点は如何思われますか?


「御屋形様」問題
千葉和彦
>「御屋形様」

「武田信玄」の脚本家が、「秀吉」も書いたときに錯覚したのでしょうね。
信玄は死ぬまで「御屋形様」でいいのですが、信長が「御屋形様」であった(かもしれない)のはほんの一時期とは思ってもいなかった。
困るのは他の脚本家まで右ならえしていることで…それ以前の大河ドラマでは信長は「上様」で統一されていたはずです。

ただ…「御屋形様」のほうが「上様」より上位である場合もあるようなので??なのですが。ウィキぺディアの「屋形」の項で『北条幻庵覚書』を紹介しているのですが、幻庵は甥氏康の娘に『舅吉良頼康は「おやかた様」…夫は「上様」と尊称するように説いた』とあります。

上様
桐野
千葉和彦さん

「北条幻庵覚書」のご紹介有難うございます。
ここでは、御屋形様と上様が逆の関係になっていますね(笑)。ただ、この場合も「御屋形様」はせいぜい吉良頼康レベルの領主にすぎず、大名でさえありません。
このようなある家での特殊事例を全体に敷衍するのはどうかと思います。

「上様」については、じつは毛利元就や上杉景勝も家中からそのように呼ばれています。
ただ、これらの事例は天下人とか将軍の「上様」とはレベルの違う話で、その家中での決まり事であり、外部で通用するものではありません。守護や大名への例外的な敬称だと思います。

その点、信長は織田家中はむろん、他の大名や領主、寺社、商人など幅広い層から「上様」と呼ばれています。
やはり、実態と対応した呼称がよいように思います。

信康
桐野
市野澤さん

信康の名字は徳川だったのではないでしょうか。
証明しろといわれても難しいですが、松平呼称は徳川幕府が成立してからの位置づけでしょう。
信康は家康の嫡男だけではなく、信長から一字拝領した女婿にもあたります。これ以上ない徳川家の正統なる後継者のはずでした。だから、名字は徳川以外考えられないと思いますが。
逆に同時代史料で松平信康と呼ぶ史料はあるのでしょうか?

「岡崎」云々は信康の居城というか居所の地名を冠しただけで、それほど深い意味はないと思います。
信長が岐阜殿とか、茶々が淀殿と呼ばれているのと同様かと。


コメントを閉じる▲
昨夜、表題の新年会に参加。

お台場のフジテレビのレストランで開催となる。
お台場はほとんど行ったことがなく、しかも夜暗くて、ちゃんと目的地にたどり着けるか心細かったが、参加者の一人の方(フジテレビ系にお勤め)と出会ったので、連れて行ってもらった。

薩摩の会は、鹿児島の加治木島津家の当主・島津義秀氏が上京されたときに開催している。
今回は少し特別な事情があった。
宝塚歌劇団月組の新人(95期生、娘役)で、鹿児島出身の美里夢乃さんを囲み、応援しようという会だった。
鹿児島出身のタカラジェンヌといえば、先輩に愛華みれさんがいる。彼女は男役だが、美里さんにも彼女のようにトップスターになってもらいたいものである。
今回は彼女を親代わりで応援しているお台場のTV局社員のK村さんが主催だったが、急病にて欠席。ご本人の痛恨はいかばかりか、病室からメールやツイッターで何度も問い合わせがあった。

それにしても、中年男性ばかりのなかに、彼女が混じるとまさに「掃き○○に鶴」という感じで、ひときわオーラが光り輝いていた。
宝塚で頑張っている様子をいろいろうかがう。
個人的には、芸名の付け方とか教えてもらった。
彼女は小さいときからクラシックバレーで鍛えていたそうで、座っていても、背筋がピンと伸びていて、その凛とした姿はいかにもタカラジェンヌである。

オヤジたちで、彼女が出演する4月の月組公演を観劇しようと盛り上がった。
彼女のサイン付きブロマイドもいただいた。

また世話役の某社編集長と編集者もおいで。
何年か前から原稿を依頼されたまま不義理をしていたが、半分ほど原稿をお渡しする。
このところ、不義理のため顔向けできず、こちらからちゃんと話ができずにいたが、かなり話し合うことができて、ホッとする。

また義秀さんとも、島津義弘の評価(とくに島津家当主であるか否か)について少し突っ込んだ話をする。島津義弘研究で有名な某先生とも議論されたそうで、意見が合わなかったらしい。
私は最近、ひそかに温めていた考えを少し披露した。義久と義弘の関係をどうとらえるかという点についてである。

それにしても、拙宅からお台場は遠い。
りんかい線に初めて乗るなど、いろいろ経験できた。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/01/15 16:00】 | 雑記
トラックバック(0) |


鹿屋市民
桐野先生のブログ いつも楽しく
興味深く読んでます。

宝塚の人の名前を読んで 焼酎の銘柄を連想する私は のんべいの駄目な人でしょうw。

鹿屋市の小鹿酒造に 美里じゃなかった
美し里 という 銘柄があります。しが余計ですが&読みも違いますが
なんか 良くありません
小鹿酒造の人 美里夢乃さんの事知っているかなァ?宝塚の人の名前なんて知らないですよね
知らないなら教えたいなあ。
彼女が メジャーになる前に 両方つながりできたらいいかなーと
思う 私でした。

美し里
桐野
鹿屋市民さん、はじめまして。

コメント有難うございます。

「美し里」は「うましさと」とでも読むのでしょうか? 素敵なネーミングですね。
美里夢乃さんとのコラボもできるかも。小鹿酒造さんによろしくお伝え下さい。


ばんない
こんばんは。

>また義秀さんとも、島津義弘の評価(とく
>に島津家当主であるか否か)について少し
>突っ込んだ話をする。島津義弘研究で有名
>な某先生とも議論されたそうで、意見が合
>わなかったらしい。
M先生のことでしょうか?もしそうなら、議論は平行線だったんだろうなあ、と容易に想像できます…。義秀氏はやはり加治木島津家当主としてのお立場もあるでしょうし。

>最近、ひそかに温めていた考え
たぶん、桐野さんの考えと義秀氏の考えも一致しなかったんだろうなあ、と予想されるのですが(汗)
この時話されたという桐野さんの説に非常に興味津々なのですが、このブログで近日公開されることは…たぶん無いのでしょうね…。

話は変わりますが、宝塚音楽学校に入るための予備校が当県の地元には存在します。そこまで頑張ってヅカジェンヌになってもトップの座につくのは大変なわけで、厳しい世界みたいですねえ。また、ヅカジェンヌたるもの廊下を直角に曲がらなくてはいけないという規則があったのですが、いまでもそうなんでしょうか、ちょっと気になります(苦笑)
男性集団で応援に行かれるご予定のようですが、観客の中で浮かないように頑張って下さいね。

宝塚
桐野
ばんないさん

宝塚観劇へのアドバイス有難うございます。
考えてみれば、地元に近いですね。

プレゼントのしかたとか、ほかの方からもアドバイスいただいてます。



ばんない
こんばんは。

確かに当方の住んでいるところ、地元と言えば地元なんですが、生まれてこの方一度もタカラヅカを生で見たことがないことに気が付きました(汗)。ある意味かなり特殊な演劇ですから。
観客の方にもいろいろ要求されることが多いとか言う話は聞いたことがあります(例えば差し入れのサンドイッチは宝塚市のこの店!と決まっているとか)。
いろいろ既にアドバイスをもらってられるご様子、経験者や上級者のアドバイスに従われるのが一番無難かと思います。

蛇足になりますが、タカラヅカは競争の厳しい世界ですので、郷土関係の方の応援はすごく励みになるのではと思います。回りの観客からの視線がちょっと?気になるかも知れませんが、楽しんできて下さいませ。

ちなみに、結構日本史ネタも多いような気がします、タカラヅカの持ちネタ。坂本龍馬もネタになっていたような。しかし、誰が西郷役を務めていたのか気になります(苦笑)

コメントを閉じる▲
来週18日から、小学館アカデミー古文書塾「てらこや」の講座が始まります。

表題のように、中岡慎太郎の日記「行行筆記」などを読みます。ほかにも「時勢論」や中岡の面白い手紙などを読む予定です。中岡の人となりや考え方、また周辺の関係人物たちの史料も読みながら、中岡の軌跡をたどります。

関心のある方は受講してみませんか。
お勤めの人も何とか受講できる夜の時間帯です。

日程:隔週火曜日19:00~20:30
   今回は1/18 2/1 2/15 3/1 3/15 の5回です。
会場:神田神保町2-14SP神保町ビル5F
    交通:都営地下鉄または東京メトロ半蔵門線「神保町駅」徒歩約2分
       JR「水道橋駅」 徒歩約12分
    案内図はここです。
お問い合わせ・申し込み:ここです。
*受講料(13.650円)と資料代(500円)が必要です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/01/14 09:00】 | てらこや
トラックバック(0) |
相互リンクのお知らせです。

薩摩藩英国留学生が出航した串木野羽島(現・いちき串木野市)に建設される薩摩藩英国留学生記念館(準備室)のブログとリンクを張りました。
右のリンク欄か、ここをクリックすれば、ご覧になれます。

薩摩藩英国留学生については、このブログでも何度か書いてきました。
19名の留学生たちはまさしくわが国の近代化、国際化のさきがけといってよいと思います。
その事績を後世に残そうという施設なので、今後とも応援していきたいと思います。
興味のある方はのぞいてみて下さい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/01/12 21:11】 | 雑記
トラックバック(0) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第177回
―終生、近衛家の執事として―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

葛城彦一の2回目です。
加治木島津家の家臣だった葛城が亡命先の筑前から帰国すると、御小姓与(おこしょうぐみ)へと昇進しました。
御小姓与は最下級とはいえ、城下士です。陪臣から直臣への家格上昇はかなりの名誉で、葛城も光栄に感じたと思われます。

以後、葛城は上京して、近衛家で貞姫付きの用人として働きます。
私が小松帯刀の京都邸「御花畑」の場所について、葛城の日記の信頼性が高いと判断したのも、葛城と近衛家の密接な関係にあります。

在京時代の葛城の仕事で興味深いのは、尹宮朝彦親王と島津家の「姫君」の縁組のためにひそかに動いていたことです。これは先行研究でも指摘されていなかったと思います。
島津家が縁組まで考えていたということは、両者の関係が相当親密だったことを意味します。島津家としては、近衛家と朝彦親王を姻戚関係に取り込めば、朝廷との関係で幕府より優位に立てるという計算もあったのでしょうね。

同時に、この縁組がなぜ実現しなかったのか、その背景や理由も気になります。
葛城がこの縁組の下準備のために帰郷したのが元治元年(1864)3月下旬から4月です。
この時期は一会桑権力の成立時期ともされており、参預会議が解体し、雄藩諸侯を排除して幕権強化が図られた時期でもあります。薩摩藩は幕府離れを示し、「禁裏御守衛」第一主義へと転じた時期でもあります。

あくまで推測ですが、朝彦親王は一会桑に接近し、その分、薩摩藩との関係が疎遠になったのではないかと思います。それが縁組が沙汰止みになった理由かもしれません。もう少し検証が必要ですが、元治期薩摩藩の動向を考えるうえで、興味深い一件だと思います。

なお、朝彦親王の読みに関して、葛城の伝記には「あさよし」とルビが振ってありました。これも留意すべき点かと思います。

ほかにも、この時期、近衛家や朝彦親王に仕えるようになったのは、葛城はじめ、村山斎助・藤井良節・井上石見など嘉永朋党事件での筑前亡命組が関わっています。また嘉永朋党事件で弾圧された高崎温恭の一子、高崎佐太郎(正風)も朝彦親王付きというか家来になっています。
このグループの果たした役割も重要だと思います。

次回は、伊集院金次郎という鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩藩士について書く予定です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング



【2011/01/11 18:09】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


ばんない
こんばんは。地味な人物のお話ですが、興味深く拝見致しました。

>尹宮朝彦親王と島津家の「姫君」の縁組のためにひそかに動いていた
これが後に、久邇宮邦彦親王(中川宮朝彦親王の息子)と島津倶子(島津忠義の娘)の結婚の伏線になったんでしょうか?とすると、後の「宮中某重大事件」にもつながる話になってくるわけですが…。


宮中某大事件
桐野
ばんないさん

面白い見方ですが、この事件とは直接の関係はないのではないでしょうか。
それに朝彦親王は明治初年、一度謀叛の嫌疑で広島に拘禁されていますね。明治以降、薩摩や島津家との縁がそれほど強かったとは思えないのですが。
もっとも、この事件は薩摩VS長州の対決と面白がられたのもたしかですね。

余談ですが、広島に朝彦親王が拘禁されたとき、薩摩藩の京都留守居役だった内田仲之助が大久保一蔵宛ての手紙で「猫宮はこれほどの馬鹿とは」と痛罵しています。
朝彦親王は「尹宮」ですから、鹿児島弁で「いぬ」は「いん」(尹)ですから、さらにひねって「ねこ」に掛けているのが面白いです。

時代は違いますが、南北朝時代も「院御所」に対して「いん(犬)」というか」と矢を射かけたバサラを想起します。

コメントを閉じる▲
昨日の感想はあっさり書きすぎたので、少し補足しておきます。
というか、正面から感想を書いたら、そのスタイルとクオリティを維持しなければならなくなるので、本音をいうと、あっさり流したスタイルにしたいのです。聞くところによれば、ドラマでは家康の伊賀越えに江が同行するそうです。脱力するしかありません。ですから、いちいち目くじらを立てていたら、きりがありませんので。

読者の方からも疑問、質問があったので、いくつか補足しておきます。
お市がらみです。

まずお市の出自というか,信長との系譜的な関係について。
確実な一次史料はなく、編纂史料によるものですが。

以貴小伝
信長のいとこだったが、長政には妹として披露した

織田系図
信長のいとこの娘

浅井三代記
「信長卿の御妹おいち(市)殿を娘分になされ」

このあたりは拙稿「お市と濃姫」(『信長公記を読む』堀新編、吉川弘文館、2009年)でも少し書きました。

このように史料では、お市の方が信長の妹だったかどうか、見解が分かれていますが、注目すべきはやはり婚家の家伝『浅井三代記』でしょうね。
信長は妹のお市の方を養女として、浅井長政に嫁がせたとあります。
これが確実だとすれば、信長は長政の舅になるわけで、その力関係は明らかです。織田と浅井の関係はこの婚姻を媒介にして、浅井方の従属的な同盟として結ばれたと見てよいでしょう。
それなのに、浅井が信長から離反し、朝倉方に付いたのは、やはり浅井家中で構造変化が起きたのでしょうね。長政の地位低下か心変わりか、久政の復権か、家中で親朝倉派の勢力が増大したか、いろいろ考えられそうですね。

なお、福田千鶴さんの『江の生涯』(中公新書)には、信長の妹のお市を「娘分」として嫁がせたと書かれ、その出典を『信長公記』としていますが、何か勘違いではないでしょうか。上記で見たように、『浅井三代記』です。

次にお市と長政の婚姻時期ですが、これは難しいですね。
古くは、奥野高廣氏が永禄10年(1567)末か、翌11年初めとして通説になっていました。信長の上洛戦に伴う浅井氏との同盟という見方です。
近年、小和田哲男氏も奥野説を踏襲しています。

一方、宮島敬一氏は近年、永禄2年(1559)以降で、遅くとも同6年を下らないという説を明らかにしています(人物叢書『浅井氏三代』)。これも興味深いですね。上限が同2年というのは、長政(当時、賢政)が六角義賢方から娶った先妻を離縁しているのが理由でしょう。
とくに永禄4年がポイントかもしれません。この年、長政は賢政名乗りを捨てて、長政と改名します。これは信長からの一字拝領ではないかという見方を最初に示したのは『東浅井郡志』です。信長が舅だとすれば、ありうる話ですね。
友人で長浜歴史博物館の太田浩司氏も宮島説とほぼ同様で、永禄4年説をとっています。

なお、付け加えると、長政は改名後(永禄4年、6年、7年と諸説あり)、美濃に侵攻し、斎藤義龍と戦っています。これは信長の要請があった可能性が考えられます。つまり、この時点ですでに織田と浅井の同盟が成立しており、その媒介はお市の輿入れとも考えられます。

このように、お市の輿入れを、永禄10~11年とするか、同4年前後とするかで、まったく同盟の性格が変わってきます。
これは同時に、長政の子どもたちの生母が誰かとも関わるでしょう。
三姉妹はお市が生母ですが、秀吉によって処刑された万福丸の生母は誰かということにもなります。
ドラマはお市と長政の「純愛」を描いたため、三姉妹の兄にあたる万福丸が出てきませんでした。これは脚本家というか、時代考証担当の小和田さんが万福丸は側室の子どもだと考えているのが反映されたからでしょう。
(ちなみに、昔の大河では万福丸の処刑場面とかありましたけどね。歴史のリアリティへの感度が低くなっていると感じるのは私だけでしょうか?)

でも、永禄4年前後説をとれば、万福丸がお市の子どもだった可能性も排除できなくなりますね。
このあたりの解釈は、史料不足もあって難しいです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/01/10 12:52】 |
トラックバック(0) |

トラバ星人@コバンザメ
ぶるぼん
桐野先生
「青春18」のオマヌケ旅行で更新が遅くなりましたが、
今年もコバンザメ商法でしつこくトラバ貼らせていただきます。
本当、本が売れない時代に突入してしまいましたが、
少しでも宣伝になればと思います。
本年もよろしくお願いします。

トラックバック
桐野
ぶるぼんさん

トラックバックでまたお付き合いですね。
本というかムックもなかなか売れませんか。
今回は少し責任を感じています……。


忍っこ
桐野先生今年もよろしくお願いします
大河ドラマ「江」始まりましたね
ドラマなんだから史実から外れてもいい云々
という意見もあるようですが
私はそうは思わないんですね
たとえば子供たちが見て間違った知識が頭に
入ってしまうと言うことですよね
昨年の例を言いますと
龍馬が容堂公と面会している場面を見たら
信じてしまう子供たちもいるでしょう
私はドラマ冒頭にフィクションも含まれています
と入れるべきかと思います。
ここ数年の大河は史実無視のやりたい放題で
桐野先生のブログでのご教示
大変ありがたく思います。

フィクションのさじ加減
桐野
忍っこさん

ご丁寧なコメント痛み入ります。
最近の大河ドラマは、民放が年末年始にやっている予算をかけた長時間の時代劇とほとんど同じテイストになっていますね。薄味です(笑)。

とにかく史実の基本線だけでも堅持してくれたらいいですが、今年もまたダメでしょうね。
昔の大河ドラマが懐かしいです。







コメントを閉じる▲
いよいよ始まりましたね。

配役陣を見ると、80年代にワープしたような役者さんばかりで(笑)。
噂の子役芦田愛菜ちゃんも見ました。
家康が信長よりはるかに年上に見えました(笑)。

今回に限っては、主役はお市の方の鈴木保奈美のようでした。
鈴木保奈美といえば、個人的には「カンチ」じゃなくて、「おんな風林火山」での於松御料人ですね。
彼女をイメージして書いた拙著もあるくらいです。
その意味では懐かしかったです。

永禄11年(1568)から天正元年(1573)まで、元亀争乱を一気にまとめてやりましたね。
金ヶ崎の退き口での有名な小豆袋の逸話は支度されたのに,信長には届けられませんでした。
「朝倉家記」では届けたことになっていますが。もっとも、軍記物の逸話なので、どう作ってもいいと思います。

比叡山の焼き打ちで、明智光秀が目に涙を浮かべている感じでしたが、これは相変わらずの俗説の伏線のようですな。このとき、光秀ほど積極的に信長の意を体した者はいかなったと思いますが。

細かいところでは、史実も不明な点がいくつかあります。

お市が嫁いだ時期は永禄11年でいいのか?

江が生まれたのは小谷城でいいのか?

小谷城攻めで、信長の床几への座り方はあれでよかった?

まあ、あまり細かい点にこだわってもしかたないですね。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/01/09 22:27】 |
トラックバック(1) |

感想
市野澤 永
こんばんわ。

>「おんな風林火山」

キャストは大映ドラマ陣でしたが、
従来描かれることがなかった織田信忠・信房兄弟や信玄の子息・子女がクローズアップされていて、
好きな番組でした。
裏番組の「独眼龍政宗」の煽りを受けて、
当初の予定より大分早い終了だったのが惜しまれます。
私の記憶では東京・千葉での再放送はない筈です。
私は信長役といえば、高橋幸治さん・隆大介さんがベストと思っているので、
『影武者』に引き続き同番組で信長を演じた隆大介さんの信長をもう一度見てみたいです。
無理な話ですが、松田優作さんの信長役は見たかったなぁ・・・

>比叡山の焼き打ち

信長に匹敵する、または類似した同タイプの光秀って、
そんなに描くの難しいですかね?
信長への怨恨が謀反の動機ではない本能寺の変は視聴者に違和感を与えると考えているのかな?
そういった意味でも『炎立つ』以来の大河ドラマ出演となる
豊川悦司さんにはフロイスの「日本史」で書かれている光秀を演じて欲しかったくらいでして・・・
トヨエツの信長って、池上遼一氏の『信長』に風貌が類似している気がしました。

>史実も不明な点

この番組は、以前にも増して創作の部分が増えるでしょうね。
そして、主人公があらゆる場面に顔を出すのでしょうね(笑)。

万福丸は?
三位中将
はじめまして。
常々拝読させていただいていましたが、初めてコメントさせていただきます。

ドラマの雰囲気は事前に予想していたとおりでしたが、まさか万福丸が出てこないとは思いませんでした。
母が市ではないという説もあると聞きましたが、そのせいなのでしょうか。それともこれ以上信長に悪印象を与えないためなのか…。
どうも意図が分かりません。

あとはドラマの雰囲気が天地人までと逆戻りした感がありますね。
映像、演出、カメラワーク…龍馬伝が異質だったのかもしれませんが、個人的にはそこも残念でした。

松田優作
桐野
市野澤さん

大介の信長はかっこよかったですね。
肖像画にも近いと思います。

松田優作の信長は想像もつきませんでした。信長どころか、時代劇はあまり似合わないという先入観がありました。
昔、「龍馬暗殺」という映画がありました。松田優作が龍馬を付け狙う刺客を演じていましたが、ズラが似合いませんでしたね(笑)。


三位中将!
桐野
三位中将さん

はじめまして。

万福丸については、少しブログで補足しておきました。ご覧下さい。

ハンドルは信忠から採られたのでしょうか?
信忠を主役とした拙著(ただし絶版)もありますので、よかったら古書ででも読んで下さいませ。

3巻を…
三位中将
補足を読ませていただきました。

万福丸を側室の子として登場させないような作りであるならば、江の伊賀越えに同行などは勘弁してほしいものです(笑)

三位中将というのはご指摘のとおり信忠のことで、『織田武神伝』はリアルタイムで拝読させていただきました。

この作品で桐野先生の著作を読み漁るようになり、戦国時代の知識を増やすきっかけとなった私には思い入れの深い作品です。

『覇戦 関ヶ原』の上巻で書かれていたようにフィクション系の著作はしばらく刊行されないのかもしれませんが、個人的には首を長くして『信長帝王伝』の第3巻を待っております(笑)


市野澤 永
>大介の信長

未見ですが、隆さんは堺屋太一氏の『鬼と人と』の舞台でも信長役を好演されていたそうです。
隆さんは大友宗麟・陶晴賢・柴田勝家・明智光秀・浅野長矩といった実在の武将や大名を演じていますが、
私が信長役と共に記憶に残る役は『武蔵坊弁慶』の平知盛役と『翔ぶが如く』での江藤新平役です。
桐野さんもブログで度々お触れになられていますが、
『翔ぶが如く』は良かったですね。

>『龍馬暗殺』
原田芳雄さんの近眼のばっちい感じの龍馬ですね。
ビデオを所有しています。

ご購読御礼
桐野
三位中将さん

古い拙著をリアルタイムでお読みとは、有難うございます。

「信長帝王伝」はおおまかなストーリーはラストまで出来ていたのですが、個人的事情でなかなかやりにくくなってしまいました。何らかの形で表現できればいいのですが……。
なかなかご期待に添えず申し訳ありません。

あけましておめでとうございます
ばんない
本年もよろしくお願いします。ここにコメント書いている暇あるなら自分のHPをどうにかしろと言われそうですが(苦笑)

>北大路欣也の家康
第1話だけは我慢してみたのですが、あまりの進行の早さと家康の貫禄ぶりに、1話終了時点で家康が将軍就任するのでは、と思ってしまいました。
おととしの『天地人』でも家康一人だけ「いつでも関ヶ原の合戦スタンバイOK状態」といわんばかりの貫禄がありましたし、何でこういうキャスティングになるんでしょうね。

ギャップ
桐野
ばんないさん

本年もよろしく。
姉川合戦のときの家康は28歳ですから、北大路欣也とは40歳くらいの開きがありますね。

江だって、次回は信長とのからみのようですが、せいぜい10歳かそこらですが、上野樹里は20代半ばですよね(笑)。

「天地人」は中後半はほとんど見なかったので、だれが徳川家康を演じたかも忘れてしまいました。

今年の大河もいつまで見るかわかりませんね。

コメントを閉じる▲
明日に向けて、大河ドラマ「江」のカテゴリーを新たにつくりました。

その関連記事です。

徳川家の菩提寺のひとつ、芝の増上寺の徳川家墓所が4月から11月まで通年公開(有料)されることになったそうです。詳しくはここをご覧下さい。

増上寺は徳川将軍とその御台所の墓がいくつかあります。
2代秀忠と江(崇源院)のほか、14代家茂と和宮(静寛院)の墓もあります。
墓所配置図はここです。
初代家康と3代家光(ともに日光東照宮)、15代慶喜(谷中墓地)を除いた残りの将軍墓所は上野の寛永寺にありますね。

私も3年前の大河ドラマ「篤姫」のとき、この墓所を参拝しました。家茂と和宮のお墓だけでなく、秀忠と江のお墓も拝観しました。秀忠のお墓は戦争中に焼失したそうで、現在は江のお墓に合葬されています。
3年前は、この合葬墓の前に大きな木の枝が覆い被さっていて、写真を撮るのに苦労しました(下の写真参照)。今回の記事の写真を見ると、きれいに伐採されて化粧直ししたみたいですね。左右の灯籠も移動したか?
江


有料とはいえ、一般公開は有難いことです。
きっと参拝者が多くなることでしょう。

大河ドラマは明日からですが、あまり過剰な期待はしないで見ることにします。

余談
左のカウンターがおかしい。数字が逆戻りしてる。
どうしたんだろ?

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/01/08 10:18】 |
トラックバック(0) |
信長に関する講演のご案内です。

来る2月20日(日)、信長の生誕地ともされる尾張勝幡城がある愛知県稲沢市での開催です。

イベント名は、

~信長生誕を育む会シンポジウム~
戦国の革命児 織田信長のふるさと勝幡城

私が基調講演で、演題は

「信長の革命性と人間性」

と大きく出ました。
主に軍事面における信長の特質について述べたいと思っています。
地元の学芸員である石田泰弘氏の講演もあります。

まだ正式の告知やチラシなどが送られてきていませんが、主催者(NPO法人信長生誕を育む会)のブログに告知記事がありますので、ご参照下さい。
ここです。

有料ですが、会場も大きいですので、市外、県外の方々でもお気軽に参加して下さい。
お問い合わせ先は、

事務局(070-5580-9348)
Fax:0567-46-1076 mail:info@ooutsuke.jp
HP:http://ooutsuke.jp

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング



【2011/01/06 11:17】 | 信長
トラックバック(0) |


K2
桐野様
こっそり、見に行くかもしれません。
桐野さんが思う、信長の人間性は聞いてみたいです。


恥ずかしいです
桐野
K2さん

本年もよろしく。
K2さんに来られると恥ずかしいですね(笑)。
もしおいでになったら、終了後、声をかけて下さいませ。

こんばんは^^
うつけ隊
お世話になります。信長生誕を育む会
うつけ隊ですv-7
当日は、バタバタしてゆっくりとご挨拶出来ないかも知れませんが、先生の講演を楽しみにしています。

当日よろしく
桐野
うつけ隊さん

コメント有難うございます。
来月お世話になりますが、よろしくお願いします。



コメントを閉じる▲
慶応元年(1865)、薩摩藩英国留学生たちは串木野羽島の港から密航して、イギリスに旅立ちました。
彼らのなかには、寺島宗則・五代友厚・町田久成・森有礼・吉田清成など多くの人材が含まれていました。

その出航の地に、2年ほど前からだったか、記念館建設計画が持ち上がっていたが、かなり事業が具体化しつつあるようだ。南日本新聞サイトのここを参照して下さい。

ここでは、鹿児島中央駅前の「若き維新の群像」では除外された高見弥一と堀孝之の2人もちゃんと取り上げられるとのこと。この記念館が充実したものになることを祈っているところです。

私も現地に行ったことがありますので、参考までに写真を載せておきます。
渡航の記念碑と、留学生たちが実際にグラバーの船に乗船したとされる磯のあたりの写真です。
留学生記念碑
留学生磯

なお、この事業を広く発信するために専用のブログも立ち上がったようです。
ここです。
地元ならではの情報が掲載されています。
私もお気に入りに登録しようと思っています。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/01/04 10:58】 | 幕末維新
トラックバック(0) |

串木野潜伏始末
高橋信一
串木野潜伏中に、藩士の一人に変事が起こり死んだため、イギリスで行けなかった人物がいたはずです。そのこともきちんと検証して、追悼する形になることを願います。

町田猛彦?
桐野
高橋信一さん

お久しぶりです。
古いエントリーにコメント有難うございます。
英国留学生で死去したという人物は町田猛彦(久成の弟)のことでしょうか?

彼についてはたしかに変死説もあるのですが、猛彦の弟で英国に渡った町田清次郎(のち財部実行)が猛彦は罹病して留学を免ぜられたと証言しており、生存の形跡もあります。

変死説は再検討されるべきかと存じます。


コメントを閉じる▲
今年もよろしくお願いします。

東京は穏やかな晴天ですが、九州や中国地方は大変ですね。

昨年、身内に不幸あり、年賀の挨拶は欠礼しました。

元日から原稿書き。
珍しく三国志の原稿。
おそらく5年以上書いたことがなく、しかも演義ベース。
慣れ親しんだ正史のほうが楽ですが。
いま、頭の中を諸葛孔明が駆け巡っております。
もうすぐレッドクリフにさしかかります。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/01/02 13:59】 | 雑記
トラックバック(0) |


市野澤 永
桐野 様

お世話になります。

>昨年、身内に不幸あり、
>年賀の挨拶は欠礼しました。

それは大変失礼致しました。
お聞きしてから、年賀状をお出しすべきでした。


謹賀新年
森重和雄
謹賀新年

明けましておめでとうございます!
昨年中は大変お世話になりました。
改めましてお礼申し上げます。

本年も引き続きいろいろとご指導、ご教授くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

敬具



管理人のみ閲覧できます
-



桐野
市野澤さま、森重さま

新年のご挨拶有難うございます。
本年もよろしくお願いします。

コメントを閉じる▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。