歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第183回
―屈折と勇猛、毒殺される―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きで、垂水家の島津信久(旧名:忠仍)が家督争いに敗れたのち、どのような生涯を送ったかを書きました。サブタイトルでもおわかりのように、けっこう衝撃的な結末です。

信久は義久の家督を継げず、家久に屈伏せざるをえなかった悲劇の人、不運の人というイメージがありますが、実際はライバル家久とよく似た「暴君」タイプだったようで皮肉です。

分量の関係で書ききれなかったことがありましたので、ついでに触れておきます。

まず、信久の名乗りです。
だいぶ前に信久のことを連載で少し書いたとき、読者から「久信」ではないかという問い合わせが何件か寄せられました。それには同紙文化部を通じて回答していただきましたが、もう少し詳しく書いておきます。というのは、諱の二文字が逆転しただけですが、意外と重要な問題を含んでいると思うからです。

一般には「久信」名乗りのほうが優勢だと思います。自治体史にもそのように書かれているようですし、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺』の校訂者も文書や記録史料に「信久」とあっても、わざわざ「久信」と傍注を付しております。
そして島津庶家の公式系図集である「新編島津氏世録支流系図」のひとつで、垂水家の「忠将一流」にも「久信」と表記されています。

その一方で、「信久」と記されたものもあります。
「薩陽武鑑」所載の垂水家系図や、垂水家の庶家・新城家の末裔所蔵の「末川家文書 家譜」などがそうです。

いずれも後世の編纂史料なので、どちらが妥当か即断できません。
しかし、確実なことはいえます。それは一次史料での本人の名乗りです。「新城島津家文書」には信久の書状が何点か収録されていますが、いずれも「信久」と署名しています(37~40号など)。その後改名した形跡もないので、「信久」が正しいといえます。

それではなぜ、逆に読む「久信」名乗りが優勢なのかですが、これには歴史的な背景があるように思います。
島津氏初代はよく知られているように忠久です。その始祖にあやかって、「忠」と「久」の二字は島津家の通字、島津家でいうところの「御家之字」になりました。

この二字が時代が下るにつれて、島津氏諸分家で無秩序に氾濫するようになりました。
それを見かねた島津本宗家=藩庁記録所が使用制限・統制に乗り出したのが江戸時代中期の正徳3年(1713)前後です。このとき、実名だけでなく、家紋・島津名字・通称・官名も含めて大がかりな規制措置がとられました。
「新編島津氏世録支流系図」はその所産にほかなりません。

この規制については、林匡氏「島津氏『支流系図』に関する考察―名字・実名字規制及び家格と記録所を中心に―」(『黎明館調査研究報告』19集、2006年)によって明らかにされています。

たとえば、垂水島津家を例にとると、一門家・本宗家二男家であることから、二男まで「久」字許可。垂水家の二男家の新城家は「嫡子」まで「久」字許可、庶家はいずれも「将」字(初代忠将にちなむ)を使用すると決められました。

それで、上記林論文では触れられていないと思いますが、「御家之字」の「久」を実名の上に付けるか、下に付けるかの規制は具体的ではありません。
これは成文化せずとも暗黙の了解だったのでしょうか。つまり、本宗家は忠久以来、貞久、貴久、義久、家久、光久などと実名の下に「久」を用いており、上に付ける事例はまずないと思われます。

ところが、中世後期から江戸時代初期までは、分家・庶家でもけっこう「久」を下に付ける事例が多いです。たとえば、薩州家の実久、宮之城家初代の尚久、佐土原家の家久(中務大輔)、豊州家の朝久と枚挙にいとまがありません。
この「久」を下に付ける慣習もいつ頃からか不明ですが規制されるようになり、島津名字の家では本宗家以外はまず使用例がなくなると思います。

そこで、「信久」か「久信」かですが、おそらく正徳3年あたりを境目にして、「信久」名乗りは本宗家の規制に抵触し、しかも、信久が家久と家督争いをした人物であることから、藩庁側の圧力か、垂水家側の自主規制か、どちらかで「久信」と表記されるようになったというのが真相に近いのではないかと思います。

「信久」と「久信」が混在している理由・背景はだいたいご理解いただけるのではないでしょうか。

もうひとつは、信久の官名「相模守」です。
相模守家=相州家といえば、もともと伊作家に生まれた日新斎忠良の生母常磐が本宗家に近い相州家2代運久(よきひさ)に再嫁したことにより、日新斎が本宗家に近い相州家となって地位が上昇し、その嫡男貴久の15代守護職相続をもたらしました。
貴久以来の本宗家にとって、相州家、つまり相模守は縁起のよい大事な名乗りです。
しかし、貴久が本宗家を相続したために、相州家は本宗家に吸収される形になり、なくなってしまいました。
その後、相模守を名乗るのは信久だけです。

それを信久がいつから名乗り出したのかわかりませんが、信久は垂水家当主であると同時に、相州家を再興したのでしょうか? もっとも、信久以降は相模守名乗りは消えてしまいます。
この件については、現・新城島津家の方からご教示いただきました。有難うございます。

ちょっと横道にそれすぎましたので、この辺で。

次回はまた幕末に戻ろうかと思っているところです。

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【2011/02/28 14:26】 | さつま人国誌
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執念の男・忠恒
市川
今回の信久関連の話は興味深く拝読させていただきました。忠恒と家督問題を起こした人物の最期……仰る通り衝撃的ですね。
事件の真相は不明なのでしょうが、犯人が忠恒(もしくは周辺)ならば死期が迫る中での計画であり、不適切かもしれませんがまさに執念です。

忠恒の妥協しない性格と危険な「粛清」を繰り返して結果的に成功した強運。晩年の義久公や信久には申し訳ありませんが、やはり相手が悪すぎたと思います。

最後に、信久の猛々しさを示す話の件で息子の久章が出てきますが、彼も彼で……。

次回を楽しみにしております。

「久信」の件
ばんない
こんばんは。

「信久」と「久信」の件、具体的な資料を明示しての説明でよく分かりました。ありがとうございました。生存中は「信久」を名乗っていたとみてよさそうですね。

また信久が「相模守」を名乗っていた件、実は私も以前から気になっていました。

(2011/03/02追記)
>信久は義久の家督を継げず、家久に屈伏せざるをえなかった悲劇の人、不運の人というイメージがありますが、実際はライバル家久とよく似た「暴君」タイプだったようで皮肉です。
どうもこの世代、「暴君」タイプが多いみたいですね。北郷忠能も家老を排斥したことがあったような。しかも島津忠恒がそれをたしなめる書状を送っていたというのがなんとも。

真相
桐野
市川さん

垂水家信久の毒殺の真相はよくわかりませんね。
市川さんのご推測は私も一応考えてはおりますが、何せ、史料不足というか、事件の性質上、まず史料が残りませんからね。

あと、垂水家の家中抗争も背景にあるかもしれませんね。

相模守
桐野
ばんないさん

信久の相模守名乗りは事情がよくわかりませんね。
せめて、名乗り始めた時期でもわかれば、手がかりになるかもしれませんが。

個人的には、慶長7年(1602)、義久が正八幡宮の鬮引きで忠恒(家久)を家督に決めたのに伴い、不満をもつ信久への慰撫策の一環として、垂水家よりも、本家と一体の相州家の当主に擬して、家督候補の「補欠」と位置づけたのでは、と妄想したりしております。
義久隠居領6万石とセットかもとか。


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今週、立て続けに愛知詣で。
どちらも信長がらみ。まあ、ご当地ですから。

ひとつは20日(日)、愛知県稲沢市で信長についての講演。
稲沢市には信長生誕の地である勝幡(しょばた)城があります(隣接の愛西市にまたがる)。

地元で、勝幡城を盛り上げて、町おこしにもつなげようという企画趣旨。
会場は市民会館だったが、これが広い広い。悠々2000人近くは入れそうな大ホールだった。
広すぎたせいか、参加者は6、7割程度だったか。それでもけっこうな人数である。

私は基調講演を担当。
信長の革命性と人間性」というすごいタイトルでの話でした。
主に太田牛一『信長記』から信長の面白そうなエピソードを抜粋して紹介。いくつかのカテゴリーに分けて、信長の人間性をかいま見ようという試みでした。
私は面白いエピソードだと思ったけど、参加者にそう思っていただけたかは定かでない。

あとで、メールをいただいたり、いくつかのブログを拝見し、けっこう知り合いの方々がおいでだったことがわかった。私が講演後も奥にいたので、接する機会がなかったのが残念である。


24日(木)は栄・中日文化センターでいつもの「信長公記を読み解く」講座に出講。
行きの電車が人身事故のため遅れて徐行運転だったので、少し焦る。

この講座も第4クールの2回目(通算20回目)になる。
テーマは「朝倉義景・浅井長政の滅亡
いよいよ元亀争乱の終幕でした。

今回は、長政の絶筆と思われる最後の感状(片桐且元の父孫右衛門尉宛て)を紹介したかった。
これこそ元亀争乱の幕引きだと思ったからである。非常に切ない感状だけれども。

もうひとつは本題から少しはずれるが、菅九郎信重こと、のちの三位中将信忠が小谷城正面の虎御前山の陣所から「御方」に宛てた書状(小川文書、8月17日付)。

問題は「御方」の人物比定。

引用元の『大日本史料』の編者は「生駒氏」と傍注している。信長の側室で信忠たちの生母生駒氏(『武功夜話』は吉乃とする)のこと。

しかし、生駒氏は天正元年(1573)時点ですでに他界しているはずで、これは別人だろうと推定。
もっとも、生駒氏の永禄9年(1566)他界説の典拠などはよく知らず、岡田正人氏の著書から拝借した。おそらく『武功夜話』か『織田家雑録』か。あるいは生駒氏の菩提寺の過去帳に記事があるのか。

永禄9年他界説がたしかなら、「御方」は生駒氏ではない。
私は帰蝶(濃姫)だと考える。
まず「御方」という呼び名じたい、北の方、正室、廉中を指していると思われること。

次に書中にさりげなく「同美濃之辰起(龍興)頸討捕候」とあり、斎藤龍興の討死を知らせていること。
敵味方になったとはいえ、龍興は帰蝶の甥にあたるから、信忠は身内の死を帰蝶に伝えたかったのではないか。

もうひとつは、信忠が帰蝶の養子になった節があること(『勢州軍記』)。
やはり正室の地位は高く、長男とはいえ、庶子である信忠を帰蝶が養子にすることで、信忠の家督継承者としての権威づけが行われたことを推定させる。また帰蝶も信忠の嫡母となることで、織田家中での地位を維持できる面もあったのではないか。

だから、信忠は養母の帰蝶に戦陣から書状を出して自身の身辺情報を伝えるともに、帰陣したら積もる話がしたいと述べて、母を慕う息子として振る舞っているのではないか。

もっとも、生駒氏の没年が天正元年以降に下るようだと、拙説は見当違いになるかもしれません。

終了後、いくつか質問を受けた。
そのうち、手もとに史料がないのでよくわからないから宿題にさせて下さいと答えたのがあったが、どんな質問だったかメモを紛失してしまった(汗)。受講者でご存じの方がおいででしたら、教えて下さいませ。

次回(3月)は「天正改元と譲位の申沙汰」と予告しておりましたが、今回、うっかり天正改元をやってしまいました(汗)。ですから、次回は少し内容が変わります。


新書や雑誌、連載などの原稿が重なり、さらに次の講演などの準備もせねばならず、なかなか一息つけません。

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【2011/02/26 12:12】 | 信長
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宿題について
尾山
こんにちは。

先日は、講座終了後に質問のお時間を頂きありがとうございました。

失念された宿題というのは別口かも知れませんが、質問者の方が淀城攻略の秀吉の調略に触れ、

『山本山城主・阿閉貞征の寝返りは誰が調略したのか、秀吉は関係するのか』という件ではないでしょうか。

質問時間で、宿題と言われたのはこの件だったと思います。たぶん(汗)。
以上、一受講者のあやふやな記憶です。




御礼
桐野
尾山さん

ご教示有難うございます。
そうそう、阿閉の一件でした。
取り急ぎ御礼まで。

基調講演
サイト
桐野先生、こんにちは!
ちょっと時間が経過してしまいましたが,先日の稲沢での基調講演を拝聴させていただきました。
強調されていた鉄砲の有用性のお話が印象に残りました。鳶ヶ巣砦への援軍に持たせた鉄砲500丁,鉄砲奉行衆に使用させた1000丁以外に織田軍が鉄砲を所持していなかったとは考えにくいとのことでしたが,列挙されている奉行衆の面々が赤母衣衆や黒母衣衆などの側近であったものばかりである点からも他の部将達の部隊の所持している鉄砲は,この1000丁には含まれない,説得力があると思いました。
わたし自身は,専門の研究者でなく今のところ単なる歴史好き(信長大好きです。)ですが,このブログに記載される内容は興味深いものが多くよくチェックさせていただいています。
「信長公記を読み解く」講座なんかはとても受講してみたい内容ですが,働いているとなかなか・・
しかし,機会を見つけて先生の講演には是非また参加したいと思います。
遅ればせながらの感想でした。

「お方」について
ハンク
こんばんは。いつも勉強させてもらっています。
「お方」の比定、興味深く拝読させていただきました。一つ素朴な疑問なのですが、女性宛の場合、かな消息になるようにも思うのですが、問題ないのでしょうか。
大日本史料の生駒氏の比定は、伝「吉乃」を指してのことでしょうが、「永」(前田利長室)の母親も、信忠にも縁のありそうな「生駒氏」だったと思います。
永禄9年没については、生駒家、織田家、久昌寺の記録などもそうなっているので史実ではないかと思います。月日には異説もありますが…。

鉄炮
桐野
サイトさん、はじめまして。

コメント有難うございます。
また、先日の講演にもご参加いただき、有難うございます。

長篠合戦の鉄炮について、ご意見拝見。
拙説も少しは説得力があるのかなと思った次第です。

今後も機会があれば、ご参加下さい。

かな消息
桐野
ハンクさん

信忠書状、かな消息ではなくて、ふつうの男性向けの書状です。
ご指摘のとおり、たしかに女性向けなら、やや不自然ですね。

ただ「御方」は生駒氏であれ、帰蝶であれ、女性と考えるほかないと思われ、いずれにしても、通常の書状形式の文書が読める女性だったということでしょうかね?

あるいは、男性で該当者が考えられるでしょうか?
お気づきの点がありましたら、またご意見お聞かせ下さい。

「御方」の人物比定について
ハンク
ご回答ありがとうございます。
ご存知のことと思いますが、渡辺江美子さんは、出典の「小川文書」には信雄に関係する文書が多いこともあり、「御方」を信雄に比定していますね(「古文書研究」24号80頁の表註№4)。
他の信忠の「御方」宛、「御茶筅」宛との比較、および文面の分析が必要かも知れませんね。
信雄は北畠氏の養子となっても、この頃は岐阜にいた可能性もありそうですね。また、信長・信忠が出陣した時には、岐阜城で一時的に留守居していたのかも知れませんね。
今回取り上げられた信忠の書状は、内容をみると、なんとなく目下相手のような印象を持っています。何か不満を信忠に訴えてきたような感じです。出陣中に些細なことは言ってこないと思いますので、一緒に出陣したかったとこぼしたのかも知れませんね。「御方」が信雄かとうかも含めて、課題のままです。

御本所
桐野
ハンクさん

ご指摘有難うございます。
渡辺江美子さんの論文は所持していたのに、すっかり忘れておりました(汗)。

別の方からも、信雄ではないかというご指摘がありました。

考えてみれば、伊勢国司の北畠家を継いだ信雄は「御本所様」、多芸御所ですものね。
「御所」を名乗れる資格があるので、「御方」もありかなと思います。


信長
山ちゃん
信長の説は結構難しい物がありそうですね!これには、載っていませんが、ねねさんは、どんな人物だったのでしょうか?

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第182回
―家督候補、家久に屈服―

連載が更新になりました。
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今回は島津義久の死の波紋として、その外孫で垂水島津家の忠仍(のち信久)について書きました。
要は、義久死後の島津家の家督問題をめぐる暗闘です。

義久が一応、甥で婿の忠恒(のち家久)を後継者に認定しているにもかかわらず、なぜ家督問題が生じるのかという点が、むしろいちばんの難問かもしれません。
その答えはとても難しくて、私には明確にできっこありませんが、いくつか考えられることはあります。

ひとつは、義久と忠恒の仲です。一応、家督に指名したのですから、それなりに関係は良好のはずですが、どうもそうではなかった節があります。よくいわれているのは、義久が忠恒の大名、武将としての器量に疑問をもっていたことです。
それもあるかもしれませんが、私はやはり忠恒が夫人の亀寿との間に男子をもうけられなかったことがいちばん大きいと思っています。2人の間に男子が誕生すれば、義久にとっては嫡孫といってもよいので、もはやその健やかな成人を見守ること以外、心残りはほとんどなかったろうと思います。
義久が忠恒を家督に指名した条件は、男孫の誕生だったのではないかと思います。その条件を忠恒が満たせなかったため、義久との関係がぎくしゃくして、晩年の義久の苦悩が深まったのではという気がします。

義久も人の子で、やはり自分の血を引く孫がほしかったのでしょう。
そこで次善の策として、三女亀寿ではなく、二女新城には男子、すなわち忠仍がいたことが、義久の迷いを増幅させたのではないでしょうか。

しかし、忠恒は豊臣、徳川の両政権から義久の後継者として公式に承認され、官位も四位少将という公家成(国持大名の格式)を遂げ、しかも家康から「家」の一字を拝領して家久に改名するほど、徳川政権から厚遇を受けています。
対外的には、忠恒=家久は文句の付けようがない跡取りです。にもかかわらず、なぜ島津家中で家督問題がくすぶるのか。

それには、戦国以来の島津家中の独自性、自律性が横たわっているようにみえます。
つまり、忠恒の豊臣大名、幕藩制大名としての公的な地位・格式に対して、島津家中の身分・家格秩序が別の論理で動いているからだろうと思われます。端的にいえば、島津本宗家の家長はあくまで義久であり、義久との血統の遠近に価値を見い出し、それが家督問題にとって重要な条件だという意識が家中にまだ濃厚に存在していたからではないかと思われます。

そう考えれば、島津家の内と外をめぐる矛盾、齟齬を何となく理解できるような気がします。

今回の記事も、そうした点を背景として読んでいただければわかりやすいかもしれません。

次回は忠仍=信久の非業の死を書きたいと思います。
一度は義久の家督候補に擬せられた人物が毒殺されるというのは、いやがうえにも興味をそそられます。

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【2011/02/21 18:09】 | さつま人国誌
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「家久の娘」
ばんない
こんばんは。興味深く拝読させて頂きました。後編も楽しみにしております。全然”楽しい”内容じゃないのは知っているのですが…

ところで
>忠仍は義久の隠居領相続も反故〔ほご〕に
>されたばかりか、家久の娘と縁組させら
>れ、その家督は家久の血を引く男子に譲る
>ことになった。
この「縁組」の「家久の娘」とは誰のことでしょうか。御教示お待ちしてます。

家久違い
桐野
ばんないさん

ご指摘の点、うっかりしてました。
家久でも中務大輔のほうでした。えらい間違いです(汗)。



ばんない
こんばんは。

しかし、忠仍の息子・久章の妻は家久(忠恒)の娘ですから、広義で言えば確かに縁組みしてますので、いいことにしましょう(汗)
…それもこれも、忠恒が「家久」なんかに改名してしまったのが諸悪の根源なんですよ。

結論、やっぱり忠恒は悪い!(苦笑)

しかし、普通将軍から偏諱をもらうと「康久」になるはずなんですが、上の文字を拝領したと言うことは、やはり家康にとっても忠恒は利用しがいがあった、ということなんでしょうか。

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この間、著書・論文や資料などをいただきました。
いつもながら、謹んで御礼申し上げます。

都城島津邸より
最近、島津氏一門のなかで、もっとも活発な発信をしているのが都城島津家です。もともと一門中、3万5千~4万石という大名並みの最大の知行高を誇る家です。
その屋敷である都城島津邸が江戸時代のまま保存されています。
近年、都城島津氏現当主の島津久厚氏がこの屋敷と邸内の都城島津伝承館を都城市に寄贈され、昨年3月、改めて都城島津邸としてオープンしました。
詳しくはここ

都城島津氏はもともと北郷(ほんごう)氏といい、島津氏異姓分家ながら、隅日にまたがる版図をもつ独立領主でした。しかも、都城など庄内一帯はかつての島津荘とも重なっており、島津名字発祥の地としても知られています。
秀吉の九州侵攻のときにもっとも激しく抵抗した家だったこともあり、北郷氏は薩摩国祁答院(けどういん)に転封されました。
伊集院忠真による庄内の乱後、ふたたび都城に復帰しましたが、もはや独立性を失ってしまい、島津本宗家の一門、都城島津家として近世を過ごします。
なお、秀吉時代の当主北郷一雲の三男・加賀守三久が別家を立てて、北郷氏を名乗り、薩摩国平佐(現・薩摩川内市)を領し、8000石ほどの一所持となりました。
その子孫の北郷さんと南日本新聞連載がきっかけに懇意にしていただき、今回資料を送っていただいた次第です。
送っていただいたのは、都城島津邸の学芸員の米澤英昭さんです。米澤さんのお書きになった論文には拙著『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)でもお世話になったので、有難かったです。
いただいた図録類は、

案内書『都城島津邸』
図録『都城島津の至宝―実物史料でみる都城と島津の世界―』 2010年10月
図録『都城に島津あり』 2011年1月
冊子『島津発祥と都城島津』 2010年2月

など多数。

鈴木徳臣氏より

『軍事史学』183号 2010年12月
―特集 維新の戦乱―


昨年知り合った鈴木さんは幕末から近代の軍事に詳しい人。
近年、鹿児島・熊本・宮崎で西南戦争戦跡の調査や発掘が活発で、かなり成果を出している。
とくに熊本では田原坂の対面である二俣台地上で政府軍砲台に据えられた四斤山砲と思われる大砲の轍跡が発見されるなど興味深い成果がある。
鈴木さんはそれらの発掘調査にも関わっている。
いただいたのは上記誌所収の史料紹介で、

「西南戦役における薩軍小隊名簿」

当該小隊は薩軍の五番大隊(大隊長:池上四郎)の五番小隊(小隊長:園田武一)で、鹿児島城下を初め、旧薩摩藩領各地の士族から成る。総勢234人(うち戦兵176人)の名簿である。
西南戦争での薩軍側の軍事力編成を示す貴重な史料である。


長浜み~な協会より
今年の大河ドラマのご当地、滋賀県長浜市の地域誌「みーな」109号(2011年1月発行)。
以前、同誌に巻頭エッセイを書いてから、毎号送ってもらっている。
今号の特集は「親鸞さんのおかげさん―宗祖親鸞聖人750回御遠忌記念―」。
長浜を含む江北一帯は浄土真宗寺院が多く、戦国時代は一向一揆が浅井長政と結んで、信長や秀吉と戦った歴史をもっている。
本誌は浅井氏や小谷城、お市の方・三姉妹についての特集など興味深いテーマを何度も扱っている。
詳しくはここ


サンライズ出版より
石田三成や井伊氏ゆかりの滋賀県彦根市にある出版社。
以前、木之本で講演したとき、知り合った編集者さんから送ってもらった。

豊島昭彦『湖北残照―戦国武将と浅井三姉妹―』 2010年12月刊 定価1.600円+税
著者は横浜在住の現役ビジネスマン。
以前も井伊直弼についての本をいただいたことがある。

今回はタイトルのとおり、大河ドラマとも深く関わる江北の史跡や古戦場の探訪記録。
私も先月に回ったところが多いので、面白く拝見。


平山優氏より
武田氏研究者としてよく知られている方である。
現在、山梨県立博物館に勤務。
今回、下記の著書を贈っていただいた。

『天正壬午の乱 ―本能寺の変と東国戦国史―』
学研パブリッシング2011年刊 定価2.300円+税


この「壬午」は天正10年(1582)の干支。すなわち、本能寺の変があった年である。
信長の死が東国、とくに徳川、北条、上杉の接点にあたる甲斐・信州にどのような影響を与えたかを詳細に分析している。この地域の動向については、従来エアポケットのようなもので、著者も認めているように、本格的な研究がなかっただけに、私のような者には待望の本である。
とくに家康の甲斐・信濃進出についての分析が面白い。この地域での勢力拡大では家康が勝者に見えるが、必ずしもそうとはいえず、マイナスの副産物も伴っていたこと(たとえば真田昌幸など)が明らかにされている。
家康や東国の戦国ファンにはまことに時宜を得た一冊だといえる。
詳しくはここ

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【2011/02/18 19:48】 | 雑記
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一週間後の講演のご案内です。

名古屋市の北西に位置する愛知県稲沢市に勝幡城という織田家ゆかりの城址があります。
勝幡城は織田信長が誕生した場所だという説が有力です。

それにちなんだ地元の団体「信長生誕を育む会」が主催する講演・シンポジウムです。
私は基調講演で「信長の革命性と人間性」という演題で話をすることになっています。
少しオーバーなタイトルですが、信長の軍事カリスマという一面を、彼の軍事政策や人間性に見てみたいと思っています。
会の要領は以下の通りです。
詳しい案内はここにもあります。こちらのほうがカラーなのでみやすいかもしれません。

日時:2月20日(日)12:50開演(開場は12:20)
会場:稲沢市民会館大ホール(名鉄国府宮駅下車南へ徒歩10分)
入場料:500円(中学生以下無料)
問い合わせ:事務局 090-8333-4629
後援:中日新聞、稲沢市、稲沢市教育委員会、稲沢市観光協会、稲沢市社会福祉協議会、愛西市など

      
私の講演のほかに、地元の愛西市の学芸員石田泰弘氏の勝幡城についての講演(演題:織田信長と勝幡城)もあります。ほかにも、演舞や転輪太鼓「風雲児」という太鼓のうまいグループもスペシャルゲストで登場するようです。
大ホールで相当の収容力があるそうですから、名古屋・東海方面で興味のある方は参加してみませんか。

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【2011/02/14 09:47】 | 信長
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お知らせ

本日は新聞休刊日のため、南日本新聞連載はお休みです。

次週は掲載があります。

【2011/02/14 08:49】 | さつま人国誌
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日次記です。

10日(木)
早起きして羽田に向かう。
早起きしすぎたためか、2時間近くも待ち時間があった。

鹿児島空港に着くと、県庁の方(青少年男女共同参画課)がお出迎えで恐縮する。
車で鹿児島県資料センター黎明館まで送迎してもらう。

イベントは「かごしま地域塾推進大会」というもので、地域で活動している諸団体の報告や実演などがあった。
私の講演はイベントの最後に組まれていた。
演題は「幕末薩摩の人々に学ぶ」というもの。
主催者が青少年教育の担当部署だが、もともと教育寄りの話はできないので、歴史上の出来事や人物から教訓をくみ取るというスタンスでお話しさせてほしいとお断りした。

事前にお話をいただいたときには、郷中教育にも触れてもらいたいとのことだったので、新納忠元が制定したとされる「二才咄格式定目」(にせばなしきゃくしきじょうもく)について、その成立背景や目的・趣旨などを簡単に説明し、そのなかに盛り込まれている「穿儀」という言葉に注目すべきだろうという話をした。

郷中教育は前近代の産物で、忠孝の倫理と武士道の実践を眼目にしているだけに、現代では受け入れがたい面があるのを踏まえつつ、「山坂達者」(山岳歩行による鍛錬)などの体育面と、「僉議」(詮議)という横のつながり(相互批判による判断力涵養)は今日的に読み替え可能ではといった趣旨である。

あと、幕末薩摩の人々として、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通の3人の逸話を紹介した。3人とも超有名人だが、どれもあまり知られていない逸話を披露したので、少しは意外性があったかもしれない。

夜は加治木家の当主島津義秀氏のお招きで、薩摩ISHIN祭の方々との懇親会に参加。
黒豚しゃぶしゃぶを堪能しながら懇談した。
とくに島津義弘の評価、第17代当主なのか否かについて私見を述べる。納得していただいたかどうかはわからない。

そうそう、参加のお一人から「天吹」(てんぷく)という薩摩独特の笛を頂戴した。私のためにわざわざ作っていただいたそうで、感謝することしきりである。
尺八を短くしたもので、穿穴の数も少ない。唇に上面をあてて吹くものらしい。実演をしていただいたが、帰宅してから吹いてみたけど、さっぱり音が出ない(汗)。何せ音を出すだけで3カ月かかるというから、どうしたものか。

3次会まであって、アルコールに弱い私は大変でした。でも、最後にいただいた赤ワインはおいしかったです。

11日(金)
翌朝、弟家族の車で出水の実家に帰省。
母の一周忌の法事をおこなった。
親戚や友人の方々をお招きして小規模な懇親会。
最近、親戚とも冠婚葬祭でしか会わないなと思う。

法事終了後、母のあとに亡くなった伯母に焼香のため、いとこの家に行く。
県境を越えて水俣にある。
懇親会で、そのいとこに徳富蘇峰・蘆花兄弟の生家はどの辺なのか、たまたま尋ねていたため、いとこがわざわざ兄弟の生家に連れて行ってくれた。
私は郊外にあるのかと思っていたら、町中にあるのがわかって少し意外だった。
兄弟の生家はもともと豪農だったが、回船業と造り酒屋で財をなしたらしい。
生家もほぼそのまま建物や内庭が残っていて、内部は見学可能な展示スペースになっていた。
兄弟の父一敬(かずたか、淇水と号す)は横井小楠の高弟にして相婿。
坂本龍馬が慶応元年(1865)に薩摩から北上して熊本の小楠を訪ねたとき、一敬も居合わせ、龍馬の様子を書き記している。色の浅黒い大男で、琉球絣を着して薩摩拵の大小を差しており、どれも大久保一蔵から用意してもらったと龍馬が語ったという。龍馬が薩摩武士に扮していたことがわかる貴重な手記である。

残念だったのはカメラを持参しなかったこと。
先月、名古屋での講座のあとに知多半島の大野城跡を見学したとき、手持ちのコンパクトデジカメが不調でシャッターが押せなくなった。おそらくおシャカになったと思う。思えば、2年ほど前一眼レフ故障のときに応急で買ったものだが、初期不良でまったく作動せず、あとで交換してもらった、いわくつきのカメラ。手ぶれも多かったし、まったく未練はない。
まあ、天下のニコンの名が泣く粗悪品だわな。金輪際ニコン製品は購入しないことにした。
かといって、一眼レフを持参するのは大げさだったので、カメラを持って行かなかったのである。
再訪の機会があるかどうかわからないので、唯一の心残りである。

その後、いとこの家で焼香。
子どもの頃、よく遊んだ家で懐かしかった。

それからリムジンで空港に向かう。
21時過ぎに羽田着。

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【2011/02/13 12:43】 | 日次記
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リンクさせていただきました
古瀬 徹
初めて失礼します。

先日の南日本新聞の貴稿拝読し、「島津義久」読みました。

このことを
拙ブログ「大隅国高山郷の歴史」K0138に書きました。

今日は、貴ブログのことをtwitterで知り
ランクさせていただきました。K0144

鹿児島へは5年前に来ました。
4月で70歳です。
歴史はまったくの素人です。


上川路 直光
先日の夜は貴重なお話ありがとうございました。
天吹は音が出るまで苦労しますが、
どうぞ鹿児島の文化を堪能されてください。

またお会いできることを楽しみにしております。

なんと
岩剣石塁
講演があったこと、今知りました(泣)


164go
出水に帰郷されておられたのですね。
武本、それから熊本水俣には
従兄弟がおります。

徳富蘇峰の生家、機会があれば
行ってみたいと思います。


すみません
桐野
岩剣石塁さん

お久しぶりです。
講演の告知ができず、すみません。
おそらく関係者だけの会でしたので、外部には告知できなかったと思います。

すでに予定されているのでは、今年9月25日(日)、宝山ホールでの講演があります。
ぜひご参加下さいませ。

ブログ拝見
桐野
古瀬 徹さん

はじめまして。
ご紹介有難うございます。
ブログも拝見しました。
拙著読んでいただき、有難うございました。
今後ともよろしく。


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お知らせです。

10、11の両日、鹿児島に帰ります。

10日は黎明館で講演があります。
「幕末薩摩の人々に学ぶ」というテーマです。

11日は実家で法事です。

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【2011/02/09 22:00】 | 雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第181回
―戦国島津氏の終焉を象徴―

連載が昨日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

当ブログでも、島津義久の400年目の命日についてはすでに書きましたが、連載コラムでも書いてみました。
鹿児島ではまったく話題になっていません。島津家では内々に法事があったかもしれませんが。
これが8年後の義弘の400年忌だったら、鹿児島では盛大な行事が行われるのでしょうね。
この差は一体何なのでしょうか?

今回の記事では、義久の歴史的評価について、少し私見を述べました。
紙数の関係で詳しく展開できませんでしたが、補足すれば、義久はさほど領土的野心がなかったことも付け加えておきたいと思います。
戦国大名ですから、平和主義者だというつもりはまったくありませんが、九州制覇についても、義久は消極的で、むしろ積極的だったのは弟の義弘と家久ですね。義久は三州統一あたりが島津氏の分限で、それ以上は望んでいなかったと思います。それは豊臣政権と正面対決することのリスクをよく認識していたからともいえます。

また、琉球侵攻に関しても、強硬派の婿養子家久の奄美侵略計画をいったんは潰しました。しかし、家久が徳川幕府を背景にゴリ押しすると、それを制止しきれませんでした。

琉球を含めた周辺諸国とはあまり摩擦を起こさないで、なるべく善隣関係を築きたいという義久の外交姿勢は個人的には好感がもてます。しかし、統一権力の前には太刀打ちできませんでした。
それを義久の敗北と見るべきかもしれませんが、それだけでは評しきれない余地があると思っています。

余談ですが、義久の辞世、どう解釈したらいいのか。
記事には開き直っているのではと憶測しましたが、最近、三国志の原稿を書いたこともあり、ふと思いつきました。
米と水を飲み尽くして天に昇るといっています。それって、諸葛孔明の代名詞、伏竜とか臥龍では?
龍は土中にあって水を得て天に昇るといいます。つまり、義久の出家名=龍伯の一字と関係があるのか、また同時に自分が天に昇るという意味なんでしょうかね?

次回は義久の死の波紋として、家督候補に挙げられた垂水家の忠仍(のち信久)のことを書きたいと思います。思えば、この人も義久の血を引いた外孫だったことが不運だったかもしれません。
平田増宗・宗親兄弟も書きたいですけどね。

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【2011/02/08 00:23】 | さつま人国誌
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余り語られないのはなぜ?
nick
当地、霧島市国分でも
娘の御上様(持明院)にしてもしかりです。
どうも好く判りません。


なぜか?
桐野
私もよくわかりませんが、江戸時代以降の島津家が、義久の系統でないことが一番の理由じゃないのかという気がしています。

庄内の乱
nick
おはようございます。
早速のご回答ありがとうございます。
確かに、その線が濃厚でしょうか。
「庄内の乱」以降、伊集院氏にしても
さっぱり掴めません。。

今日は、これから、志布志市安楽・山宮神社の春祭り2日目の見物です。
バスで行きますので、全部は見れませんが


前日11日の「潮嶽神社」の春祭りの
「神舞」も
霧島六所権現信仰の台詞が多数登場し
堪能しました。
お昼のシシ鍋も美味しかった。

南国は、新燃岳や桜島の降灰、
それに黄砂、、、そして賑やかな春祭りの
オンパレードです。


ばんない
こんばんは。
感想が今頃になってしまいました…。

Googleで島津義久の400回忌を検索してみたら、意外にも4つもの(!)ブログでネタにされていました。そのうちの1つがこのブログでもう一つが拙ブログだったりするのですが(苦笑)。
4つの内のお一方は、別エントリのコメントにお越しになられていましたね。

>余談ですが、義久の辞世、どう解釈したらいいのか。
義久が亡くなるときにはかなり心残りがあったのではと推察されますが、辞世の一首はえらくすがすがしいこのギャップ、どう解釈したらいいんでしょう?
ところで義久は元々の出家名は「龍伯」ではなかったですよね。何かのきっかけで変えた物と思っているのですが、桐野さんは何かご存じですか。

>垂水家の忠仍(のち信久)
この人の名前も史料によっては「久信」だったりします。単なる記入の間違いなのか、それともある時期から変えた物なのでしょうか。

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本能寺の変でした。
トヨエツ信長の退場は思ったより早かったですね。

江が生霊となって本能寺に現れたり、伊賀越えに同行するなんて、ナンセンスもいいところで脱力感いっぱいです。

光秀が天正10年(1582)5月20日に安土で信長に会ってました。
そんなことはないでしょう。光秀は15日から17日までの3日間、安土で家康の接待役をつとめ、17日に信長から接待役を免じられて、中国出陣を命じられたので、20日はその支度のため坂本城にいるはずです。
また、丹波と近江滋賀郡の所領没収を信長に言わせていましたが、またかという感じでもういい加減お腹いっぱいですね。そんなはずないでしょう。

ひとつ新味があったのが、信忠が在京しているのを確認してから、光秀が謀叛に踏み切ったこと。
堺に行く予定だった信忠が、信長上京を知って、京都で出迎えると決めたのが5月27日。
信忠が森乱宛てに同日書状を送っています。
信長・信忠父子ともに討ち果たすのが謀叛の要諦だったとした点は買えますね。従来そんな風に描いたドラマはなかったと思いますから。

余談ながら、信忠が堺下向を中止(延期)したのを知って、「(堺衆が)力を失い、茶湯の面目を失った」と嘆いたのが千宗易です。宗易にとっては、江よりも信忠のほうが大事な人物でした。

さらに余談ですが、江と宗易の交流を描いてしまった以上、宗易=利休の秀吉との確執やその最期についても、江が余計なお世話をするのではないかというイヤな予感が……。

最後の江紀行で、信忠が自害した二条御所跡(旧龍池小学校跡)の石碑が登場しました。
これも珍しいかも。もっとも碑銘のとおり、「二条殿跡」と呼んでいましたが、当時の呼ばれ方だった「二条御所跡」(あるいは下御所)と呼んでほしかったですね。

もう感想を書くのも今回限りかもしれません。

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【2011/02/07 00:33】 |
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とらさん
愛宕でくじを引いたりするシーンはあまり重要視されないのでしょうかね。例の発句も出てこなかったですし。
それと、謀反を勧めたのが信長自身、というのが今後いろいろ引用されるような気もします。
信長自滅説の誕生?

信忠が京にいたことを知っていたなら同時に妙覚寺を包囲しそうな感じですけど、昨日の放送ではうまく?触れないようにしてましたね。
京にいたことは知ってたが、どこにいたかは知らなかった、とすれば史実にも整合性がありますし。

お江は生霊か幽体離脱かテレポートか、とSF方面でも話題になってたり・・

次回も本能寺の謎??にお江がせまります。ご覧になって頂きたいですね・・

お姫様戦国紀行
市川
時代考証を担当する先生方の存在などもはや必要ないのではと思ってしまうのが今年の大河の感想です。
これほど主人公のやることなすことがまかり通る世界なら、歴史的見解など必要ないと思います。
桐野先生を含め、他の大河サイトの真面目な評論を読んでも、虚無感が漂います。

周囲の人物像も真新しいことはなく、みんなが知っている信長や光秀の悪い意味でイメージ通り。
特に光秀は扱いが雑です。理不尽に殴られいじめ抜かれた人物だったとしかもう認識できません。

このまま1年間、お姫様はどこまで首を突っ込み続けるのか……。




とらさん
次の清盛の考証を担当される先生もNHK批判?をされてますし、ここ数回の大河はさすがに行きすぎなのでしょうか。
あくまでドラマであるというのも理解はできるのですが・・

歴史認識のズレ
惟宗
桐野さん、一連のお仕事、ブログ、いつも拝見しております。いつぞやは、ブログにての質問に懇切丁寧に御回答下さり、改めてお礼申し上げます。ブログでの大河ドラマに対する桐野さんの危惧や皆さんのコメントを拝見していると、よく言われていることですが、歴史研究者【=学界】の認識と一般の方の認識のズレが大きすぎるという問題がありますね。特に歴史学はそれが顕著だと思われます。歴史がその存在理由を問われている現在だからこそ、桐野さんの危惧は当然でしょうし、大河ドラマ=史実と思い込まれる視聴者に対する懸念もまた当然だと思います。大河ドラマに歴史を身近に感じて興味を喚起する装置としての役割があるにしても、フィクションとしてのドラマを史実と視聴者が認識すると、さらに史実としての歴史との乖離が加速してしまいますし、歴史研究者として、一般の方に学界の最新の動向を解りやすく解説して興味を喚起する必要をさらに強く感じてしまいました。←口で言うのは簡単ですが…。無味乾燥で、つまらないと思われがちな歴史学の危機が大河ドラマに象徴されているとさえ、感じてしまいます。

乖離
桐野
研究者と一般人、史実と物語の乖離はいつの時代でもあることですから、あれこれいっても仕方ないのかもしれません。

たとえていえば、赤穂浪士の討ち入りは明らかに実在した史実ですが、それを翻案した「仮名手本忠臣蔵」はフィクションですね。
最近の大河ドラマは後者の役割を果たしています。
問題は時代考証を置いていることかもしれないですね。時代考証を置かずにつくれば、あれこれいう筋合いでもないんですけどね。

また歴史研究者もその乖離をどう見るか、もっと積極的な発言があってもいいような気もしますね。



市野澤 永
昨日、仕事の関係から下記の書籍の出版を知りました。

書名 天正壬午の乱
   本能寺の変と東国戦国史
著者 平山 優
価格 \2,415(税込)
出版 学研パブリッシング
ISBN 978-4-05-404840-9
発行 2011年3月

本日、丸島和洋氏がご自身のH.Pでご紹介をなされていましたが、益々読みたくなりました。

ご存知でしたら、申し訳ありません。





忍っこ
桐野先生こんにちは
「江」は大河ドラマ50作という記念すべき作品
なのに、またやっちゃってます。
新聞の番組紹介欄に上野樹理が7歳の「江」を
演じるのはムリがあると書いてありました。
私も時代考証は必要ないと思います。
作家の田渕久美子さんの過去の作品はれきしの
「れ」の字も出てきません
そういう方が作った「江」ですから
史実はもちろんご存じでないと思います。



平山優氏
桐野
市野澤さん

平山優さんの新著紹介、有難うございます。

じつは平山さんからご恵贈していただきました。
そのうち、当ブログでも紹介したいと思います。



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南日本新聞連載「さつま人国誌」第180回
―介錯人は大山巌の祖父か―

連載が更新になりました。
このところ、外出など多くて遅くなりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きで、大円寺で起きた切腹騒動の人物比定を中心に書きました。
当ブログでもすでに少し書いておきましたが、大円寺の過去帳から、門限破りだけで切腹した武士は広敷足軽の櫛原喜十郎、介錯人でのちに巻き添えで切腹した武士は広敷御用人の大山彦八ではないかと推定しました。彦八は、幕末の大山兄弟(彦八成美・弥助巌・誠之助)の祖父にあたります。

先日、この連載記事の続きを書くために、杉並の大円寺を再訪しました。
裏手に無縁となった墓石がたくさんあるのを知っていましたので、その墓石に上記の2人がいないか、ひとつずつ確認しました。藪のなかにあったり、倒れていたり、折れていたりしたのも見られるかぎり確認しました。また墓所の片隅に無縁塚として集められている墓石もチェックしましたが、天保5年のものは見出せませんでした。

無駄骨だったかと諦めかけ、表側にある墓所を見ていたら、大山彦八の墓を偶然見出しました。
正面には院号・戒名しか刻んでなかったですが、『薩陽過去帳』でそれを承知していたので、すぐ気づきました。
その一帯は大山彦八の孫彦八成美と誠之助の家の墓所でした。

彦八の墓石の右側面には次のように刻まれていました。

薩州大山彦八源綱毅
天保五甲午八月十
九日歿享年五十六歳


『薩陽過去帳』には8月20日と書かれており、日にちが1日ずれています。切腹したのが同19日で、届け出が20日ということかもしれません。
巌の次弟誠之助の墓もあったので、驚きました。
誠之助は西南戦争で西郷軍に加わって従軍し、日向延岡で西郷軍が解隊したとき、いとこの西郷菊次郎(西郷隆盛庶長子)とともに政府軍に投降しました。

次回は島津義久の400年忌にちなんだ記事にしたいと思います。

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【2011/02/03 13:00】 | さつま人国誌
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大膳太夫
大山の墓石を見る桐野さんの背後に切腹した大山彦八綱昌の父方伯父の墓石が・・・なんて落ちはなし?。

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大河ドラマ「江」第4回「本能寺へ」

今度は馬揃えを見に行ったのですね。

信長の天正9年(1581)洛中馬揃えを正面から、かなり手間暇かけて復元してみせたのは、数ある大河ドラマで初めてだと思います。

その意欲は買いますが、予算の関係もあるのでしょうか、ちょっと静的、悪くいえばのんびりでしたね。
太田牛一『信長記』巻14の馬揃えのくだりを読むと、あんなのどかな感じではありません。
その前に、安土でも馬揃えをやっていますが、かなり激しいものです。左義長(どんど焼き)の爆竹がはじけるなかを馬で乗り回すという勇壮なものでした。

洛中ではさすがにそこまで激しくなかったと思いますが、南北約500メートル、東西約150メートル(諸説あり)の広大な馬場を、15騎ずつが単位になって、次々と入れ違いに駆け回っています。引用すると、

「初めは一与(一組)に十五騎づつと仰せ出だされ候へども、ひろき御馬場にて、三与四くみづつ一手になり、入りちがへ/\透き間なく、馬に行き当て候はぬ様に、埒(らち、馬の柵)を右から左へ乗りまはし、辰の刻より未の刻までめさせられ」云々

最初は15騎ずつだったのが、数が多いので、45騎~60騎が一緒になって馬場を駆けめぐっています。あまりに騎馬の数が多いので、ぶつからないようにするのが大変だったとも書かれています。馬揃えをした時間も午前8時から午後2時までの6時間という長きにわたっていますね。

なお、信長が椅子を引かせ、座ってみせました。
これはイエズス会関係の史料に記述があります。イエズス会のアジアの総責任者であるヴァリニャーノ(東インド巡察師)がちょうど来日しており、あの椅子はヴァリニャーノからの信長へのプレゼントです。
史料には「ビロード製の椅子」とあります。ドラマでは、椅子の表にビロード状のものが付いていました。
私はソファーのような感じかなと思っていましたが、どうなんでしょうね?
ドラマでは信長が椅子に座って見せましたが、史料には高く掲げてみせたとあります。

あと、馬揃えの目的・狙いについて、江が恐れ多いというほど信長に反発していましたね。
はっきりとは描いていなかったですけど、何となく、信長が朝廷を威嚇する狙いを込めているように描いていました。相変わらずですねえ。

この馬揃えは、安土でのそれの評判を聞いた正親町天皇がじきじきに見たいと京都所司代の村井貞勝を通じて依頼してきたので、信長がそのリクエストにこたえて挙行されました。信長が無理やり強行したのではないのです。宮廷女官の日記『御湯殿の上の日記』には次のように書かれています(仮名が多いので漢字を増やしてます)。

「都にて左義長あらば、御覧まいられたき由、信長に申し候へと御使にて仰せられ候へば」云々

主語がないですが、宮廷女官が書いているのと、「御覧」「仰せ」といった敬語から、主語は天皇だとわかります。

信長の馬揃えが朝廷に対する軍事的な示威だという見方はまだ根強いですが、違うと思いますね。
また洛中馬揃えはこれが初めてではありません。
元亀元年(1570)、信長が朝倉攻めをするとき、京都に諸大名を集めましたが、そのとき、徳川家康が洛中で馬揃えを行い、多くの群集がつめかけて喜んだと『言継卿記』にあります。
家康も天皇か将軍義昭を軍事的に脅したということになるのでしょうか?

このような先例を見ると、馬揃えは朝廷はじめ京都の民衆を喜ばせる一大イベント以上ではないと思います。

たまたま、私が歴史読本誌に連載している「信長」の先月末発売号(3月号)でちょうど馬揃えのことを書いて居ます。興味のある方はお読み下さい。

次回はいよいよ本能寺の変ですね。

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【2011/02/02 08:38】 |
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とらさん
こんにちわ。
馬揃えは期待していましたが確かに小規模?でしたね。群集も何万人ですとか勝家も相当な大人数だったとは思いましたが、やはり女優さんの衣装とかに予算が・・
ただ信長の背中に梅の花が刺してあったので、細かいところには気配りしてあるのだなとやはり予算が気になったり・・

家康の馬揃えですが、戦に行く前というのはそれなりの緊張感、絶対に勝つとは限りませんし殺し合いに行くわけですからね、そういった状況の元でのパレードですので、戦の予定があるとは知らない?群集が喜ぶのはともかく、行ってる方にはそんなに余裕があったのでしょうかな、とも少し思います。つまり見る方と行動する方とはまた違った思惑があったのかな、とか
決して軍事的な威嚇という意味があったとは思いませんが、少なくとも「もし無事に勝利して帰ってきた時は」京に名を示すような武将である、というような顕示ぐらいの思惑はあったのかな、とか。
あくまで私見ですのですいませんです・・

ところで、この先家康の京入りは天正十年のあの堺遊覧後、まで無かったのですかね。
大河ですと妙に安土までは気楽に?来てる様な感じがしてしまって・・

家康の馬揃え
桐野
とらさん

家康の馬揃えは、仰せのような三河武士の存在感を示すという狙いはあったでしょうね。
もっとも、家康が朝廷を威嚇する理由はないし、将軍義昭も信長と蜜月時代ですから、これまた理由がありません。
いずれにせよ、誰かを脅す軍事的示威とは考えにくいですね。
麾下の綱紀維持、士気高揚あたりが目的でしょう。


とらさん
お返事ありがとうございます。
細かいですけど、姉川の時点では義昭ー信長は少し複雑になってませんかね。
殿中御掟の後義昭がそれを無視するように御内書連発、そして十月に不仲ー天皇仲介、さらに翌年追加七条、金ヶ崎とこのような時系列でしたかね。
信長というよりは義昭の態度に大きな変化があった時期で、このあたりは「御父」あたりの蜜月時代とは正反対の関係、とすら思えてしまいます。

もちろんこれが家康の馬揃えに与える影響は個別に検証されるべきでしょうが、もし信長ー義昭不仲、が背景にあるとしたなら、それもまた考慮に入れてもいいのでは、とも思えてしまって・・
また信長の馬揃えの背景もですが・・

決して反論とか論争とか言うのではなく、以前から少しこのあたりは不明に思っていた点で、雑誌の連載もずっと楽しみに拝見しておりましたので。失礼しました。

石清水行幸
Tm.
とらさん、横レスにて失礼します。Tm.と申します。
そして桐野先生にはお久しぶりになります。

ご指摘の点は以前から自分も事あるごとに述べさせて頂いているのですが、信長と朝廷の関係について、両者の融和・協調路線を主張される方に言えることとして、本能寺の変における黒幕説に通じることを強く否定する余りか、殊更、両者の対立を過小評価というか矮小化し過ぎているのではないかと思っています(義昭との関係においても然り)。

歴読3月号の小論においても、今回、桐野先生は、馬揃えに対する天皇方の反響として『信長記』のそれを紹介されていますが、如何せん信長贔屓(時としてですが)の記述でもあり、特に2回目のそれについては、当の天皇方の記録である『御湯殿の上の日記』の記述は、

   むまそろへひんかしにてあり

と感想もなく素っ気ないものであることは、かつて桐野先生も指摘されていますね。
何より2回目のそれは、1回目とは打って変って軍事色の濃いものでした。

ある意味それは本来の馬揃え=左義長に近いものですが、天皇方がリクエストしたのは、むしろ1回目の仮装行列としての面であったと思います。ですから、『御湯殿』のそれも当然のことと言えるのではないでしょか。
果たして信長は、天皇方のそうした要望を理解していなかったのでしょうかね。

それを単に信長と天皇方との認識の違いとだけで片付けて良いものでしょうか。
そのことが、正に『御湯殿』の「むまそろへひんかしにてあり」という記述に表されており、過去に御所の西で行われたというそれに対比されているのではないかと思われます。



とらさん
>Tm.さま
お返事ありがとうございます。
公武関係において、史料から判明することは先生の述べられているように「喜ばす以上のものではない」ということでしょうね。
ただ自分のような立場のシロウトさん?ですと、もう少しふみこんで「人間学としての歴史」という面を強調したく思います。
これは「過去に学び未来に活かす」という学問の目的にもあてはまるでしょうし。

また、黒幕説の否定と共に極論としてのトンデモ説を否定せんがための「史料主義」が重視されているようにも感じます。

あくまで例えですが、同僚の娘さんがピアノ習ってれば「聞きたい」というのがエチケットでしょうし聞いたら「上手」「また聞かせてね」というのもエチケットでしょう。
そしてこれは、それ以上のもの、ではありません。
同僚とはライバル関係かもしれませんし、友好的である、と断定できるものではないでしょう。

公武関係においてもそうで、実のところ、はもう少し幅広く検証したほうがいいのでは、と思うわけです。

自分は対立とは思いませんが朝廷から見て信長は、決して理解の範疇にあるもの、と言い切るのも難しいと思いますし、そこにはなんらかの緊張状態があったのではないか、とような認識ではいます。
ここから先は事実を基にした推論になってしまうのですけどね。
失礼しました。

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