歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
先日もお伝えした新刊拙著、発売になりました。

版元の告知はここです。

Amazonの案内はここです。


関東圏は今日あたりから、関西圏は週末あたりには店頭に並ぶと思います。
新書で定価も比較的リーズナブルですし、内容も私が書いたものにしては、読みやすい部類だと思います(笑)。
よかったら、読んで下さいませ。

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【2011/04/27 00:19】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第191回
―調伏の矢を射、針埋める―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きで、豊後攻めでの義久の縁起かつぎを書きました。
島津方が実際に豊後攻めを開始するまで、紆余曲折があります。
その根本原因は義久の逡巡、迷いですが、決して優柔不断というわけではないと思っています。
豊臣政権と正面から対決する決断は、誰だろうとなかなかつきにくいはずですから。

義久は当初豊後攻めを回避し、豊臣政権との和睦をめざしていたように思いますが、秀吉が強硬な九州国分案を要求したため、ついに家中の主戦論に押し切られたといったところでしょうか。

縁起かつぎも義久の逡巡の表れだと思います。
しかし、敵領に針を埋める「封じ物」はとても面白いですね。
民俗学的あるいは文化人類学的なテーマでしょうか?

次回は前回に書いた義久とイエズス会の関係をもう少し詰めてみたいと思っています。

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【2011/04/25 22:39】 | さつま人国誌
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「うわいさとかぬ」
ばんない
こんばんは。前後編興味深く拝読しました。

ところで、「上井覚兼」に「うわいさとかぬ」とルビが振られていますが、「うわいさとかね」の間違いじゃないのでしょうか?

あと、「上井」は「おわい」と読むというはなしもどこかで見たような記憶があります(出典は失念)。

さとかぬ
桐野
ばんないさん

誤植ではなく、「さとかぬ」とルビ振りました。
何かで見た覚えがあったのですが、心当たりがある本や史料を数点あたったのですが見つからず、少し焦っているところです。

私も当初は「さとかね」だと思っていたら、違うんだと感じた覚えがあります。

探した資料のなかに、「あきかね」と読んでいるのもありました(笑)。

さて、どれが正しいのか、私もたしかに見た覚えがあるので、何とか出典を探してみます。

よみ
ばんない
早速のご返事ありがとうございます。
まあ、私も「上井」を「おわい」と読む出典を未だに思い出せないので(汗)
>「あきかね」
うーむ、そういうのもあったんですか。

昔の人の名前の読みは難しいですね。ルビが振られてないのすらありますし、みんなが「この読みが正しい!」と思っていたら、実は間違いでした、とか、こういう読みもありますよ、とか言う事例はいとまがありませんし。
今思いつくだけでも
・滝川一益
・織田信雄
・護良親王(あ、この人は戦国時代と関係ないか)
などなど。

拙HPの関係では、当初、島津義弘の次女の名前は「ちづる」だと思っていたのですが、義弘の書状(「薩藩先公貴翰」208など)で「せんつる」と読むことを知りました。後でHP修正するのが大変でした(苦笑)

「護良親王」は今では「もりよししんのう」と入れないとちゃんと変換されませんね。しかし私が学校で習ったときには…年齢がばれるから黙っておきます(爆)

をわい
桐野
ばんないさん

上井を「をわい」と読むのは、おそらく『本藩人物誌』で「を(遠)」に立項してあるのも大きいですね。

「をわい」読みは鹿児島方言読みだと解釈して、私は一応「うわい」でも可としています。


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そろそろ発売されているはずの歴史読本誌6月号。

小生の連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」が42回目にして最終回を迎えました。
じつに3年半の長きにわたってご愛読いただき、有難うございました。

最終回はもちろん、本能寺の変と信長の最期です。
限られた枚数で目一杯書いてみました。
読んでいただければ有難いです。

なお、今月号の特集は「大研究! 幕末の諸隊と組織」です。
幕末に叢生したいろいろな団体が登場します。

ちなみに、歴史読本来月号(7月号)は久々の本能寺の変特集です。
今月号の巻末に予告が出ておりますが、あらゆる論点を網羅したうえ、自分も執筆者なのに手前味噌で恐縮ですが、考えうる最適の執筆者をそろえています。読み応えがあると思います。次号も注目です。

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【2011/04/24 11:19】 | 信長
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連載お疲れ様でした。
惟宗
桐野さん、「信長」連載お疲れ様でした。単行本化が楽しみです。
 私の問題関心なのですが、来月の『歴読』特集「本能寺の変」での桐野さんの論稿が注目です。

来月号
桐野
惟宗さん

来月号は私も楽しみにしております。
おそらく、これまでの本能寺の変をテーマにした雑誌企画では、もっとも充実したものではないかと思っています。

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今夕、拙著見本を入手。

ここに新刊案内があります。

まだ見本段階なので、版元の告知もまだのようです。

発売は25日です。
よろしくお願いします。

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【2011/04/21 23:22】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第190回
―南蛮僧、南蛮犬を避ける―
昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回から2回にわたり、島津義久の縁起かつぎについて書く予定です。
義久の鬮取りや縁起かつぎは有名ですが、今回は「南蛮」がらみです。
斎木一馬氏の著作にトピック的に取り上げられていますが、それに少しひねりを効かせました。

義久が「南蛮僧」=イエズス会宣教師を持病にかこつけて忌避したのは政治的な理由があったのではないかという見込みを書きました。ちょうどその時期に、在鹿の宣教師(厳密には修道士か)が排斥されている事情があります。

それにしても、ザビエルと貴久の会見ののち、キリシタンはご禁制になったはずなのに、義久はイエズス会の教会を鹿児島城下に建てることを許し、山川港を通じて南蛮貿易をしようとしていたのですから、とても大胆だと思います。
しかし、それが日本の神仏を信奉する勢力から排斥され、義久もそれに抗する術がなかったということでしょう。
有名な宣教師アルメイダの暗殺計画もあったほどですから。

鹿児島城下に建てられたというイエズス会の教会。
果たしてどこにあったのでしょうかね?
文書では見たことがないような。
伝承とか地名で残っていないでしょうか?
ほとんど知られていない史実だけに、とても興味があります。

次回は、豊後攻めにおける義久の縁起かつぎを紹介する予定です。

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【2011/04/19 23:53】 | さつま人国誌
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最近やっていた新書の仕事の関係で、戦国時代の連歌師宗長の日記を見ていた(岩波文庫版)。
そしたら、伊勢に大津波があったという記事を見つけた。

大永2年(1522)、宗長は尾張から船で伊勢大湊に渡り、伊勢神宮を参拝したのち、安濃津(あのつ)に向かった。
現在の三重県津市である。安濃津は「日本三津」(あとは博多と坊津)のひとつに数えられるほど有名な湊だった。そこで見た光景を宗長は次のように書いている。

「此の津、十余年前以来荒野となりて、四・五千間(軒)の家・堂塔あとのみ。浅茅・よもぎが杣、まことに鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり」

安濃津は10年ほど前(の津波)以来、荒野となったままで、当時4000~5000軒もあった家や寺院の跡だけが残り、荒れ果てている。鶏や犬も見えず、カラスさえ鳴くのも稀である、というのである。

大津波から10余年たっても、まったく復旧していないことがわかる。また、安濃津が津波の前は殷賑を極めた湊町だったこともわかる。4000~5000軒の町といえば、人口は2万人を超すだろうから、当時としてはかなり大きな町である。比較する材料としてあげると、信長時代の岐阜城下は人口1万人だったと、ルイス・フロイスは書いているから、当時の安濃津は岐阜よりもはるかに大きな町だったことがわかる。

それで、10余年前の大津波とはどんなものだったのか?
調べる手段が思いつかないが、手許の『日本史総合年表』(吉川弘文館)によれば、

まず24年前の明応7年(1498)8月25日、東海地方で大地震があり、津波のため、浜名湖が遠州灘とつながったという(『後法興院政家記』)。これが今切のこと?

さらに12年前の永正7年(1510)には、まず8月8日に近畿で大地震があり(『実隆公記』)、同27日、津波で今切が崩壊し、浜名湖に海水が満ち、橋本などが水没したという(『皇年代略記』)。

宗長がいう10余年前の津波は厳密に解釈すれば後者だろうか。あるいは両方の複合的な結果でもあるだろう。
たしか、中近世の天災年表のような本があったと思うが、残念ながら所持していないので、これ以上はわからない。

今の静岡県西部から三重県の沿岸部が、大津波によって10年以上たっても復旧できないほどの大変な被害を受けたことがわかる。
しかも、わずか10年ほどの間に2回も大規模な地震と津波に見舞われていることがわかる。
今回の大震災は貞観以来といわれるが、地域こそ違え、もっと近い時代に大津波が来ていることがわかる。ほかにももっと多くの事例があることだろう。

この東海地方での頻繁な地震と津波の襲来で思い浮かべるのは、浜岡原発のこと。まさに上記2回で被災した地域にあたる。

歴史の教訓はあるのだから、「想定外」はありえないと思うのは私だけではないだろう。

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【2011/04/16 21:29】 | 雑記
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明応の大地震
NAO4@吟遊詩人
>桐野先生
こんにちは。ご無沙汰いたしております。たまたま、先日「県立金沢文庫」の展示「もう一つの鎌倉文化 -龍華寺の聖教と秘宝-」を見ておりまして、この地震のことが触れられていました。(注)

参考資料として、「安濃津」という雑誌のこの地震について触れた部分を紹介しておりまして、多分↓ではないかと思います。

http://www.searchnavi.com/~hp/z/anotsukou.htm

明言はしていませんが、安濃津の壊滅は、1498年明応の大地震のときのような解釈ですね。

(注)地震に触れた理由と言うのは、龍華寺という寺の成立が、先行する2寺院が津波の被害で併合したことによるためなのですが。また、鎌倉の大仏殿が流されたのも、この時の津波によるようです。


松裕堂
「三津七湊の一、安濃津がこれで機能的にほぼ壊滅した」とかいう話しですから、地形変動なんかも激しかったんでしょうかね。

>中近世の天災年表のような本があったと思うが、残念ながら所持していないので、これ以上はわからない。
すでに御存知でしたらお目汚しですが、
 【[古代・中世] 地震・噴火史料データベース (β版)】
  http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/
など便利かと思います。

ご参考まで。

データベース
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、松裕堂さん

ご教示有難うございます。
宗長日記に従えば、やはり永正7年の地震と津波が重要かなという気がします。
松裕堂さんに教えてもらったデータベースによれば、いろいろ史料が載っていて、すさまじい津波だったことがわかりますね。
しかも、遠江の浜名湖付近が相当被害がひどかったことがわかりました。

(B)〔皇年代略記〕○群書類従
《七年》{(永正)}八廿七遠州今切崩出云々、

(B)〔足利季世記〕○新訂増補史籍集覧
《八月》{(永正七年)}廿七日、廿八日兩日ノ間ニ遠江國ヱ大浪オヒタヽシク來リ、陸地忽ニ海トナル、今ノ今切ノ渡ト申ハ是也、 (注:(○續皇朝史 | 略之ニ從フ、) )

(B)〔重編応仁記〕○新訂増補史籍集覧
《八月》{(永正七年)}廿七日、同廿八日ニ遠州ノ海邊夥ク波打來テ、數千ノ在家ヲ流シ捨テ、死亡スル者數ヲ不知、陸地三十餘町、悉海ト成テ、旅人俄ニ船ヲ設テ往行ス、其レヨリ此所ヲ今《切》{ギ}レノ渡リト名付ケリ、誠ニ亂世末代ト云ナカラ、類稀ナル災變也、

(B)〔丙辰紀行〕○大日本史料九-二
遠州荒井の濱より奥の山五里ばかり海となりて、大船も出入る、むかしは山につゞきたる陸地なりしが、中比山よりほらの貝おびたゞしくぬけ出で、海へ入ける、其跡かくの如く海となりて、今切と名づくるよし、古老いひつたへたり、



そうですね。
NAO4@吟遊詩人
壊滅した安濃津について書かれた文書が、宗長のものしかなく、宗長がそう言っている以上、それを尊重するのが道理ですね。

どうも、お騒がせしてしまい申し訳ありませんでした。

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講座のご案内です。

講座名「お江の生涯 ―信長・秀吉・家康の時代とともに―」

これまで何度か開催した武蔵野大学生涯学習講座のひとつです。
会場は、JR三鷹駅前のサテライト教室です。
テーマは大河ドラマに合わせた企画です。

第1回は、5月18日(水)13:00から始まります。
毎月1回の全5回です。

詳しい講座内容は、ここにあります。

問い合わせやお申し込みなどは、ここにあります。

大河ドラマとは少し異なる江の履歴や姿を提示するつもりです。
同時に、江と同時代の信長・秀吉・家康との関わり合いにも触れるつもりです。

興味ある方は受講してみませんか。

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【2011/04/15 19:59】 | 武蔵野大学社会連携センター
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お詫びとお知らせです。

明後日15日に予定されていた表題の第1回講座。

ご存じのような諸般の事情により中止になりました。
直前のことで、申し訳ありません。


5月、6月分は開催予定です。
大河ドラマ「江」に関連する講座です。
興味のある方は参加しませんか。
詳しくは、ここにあります。

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【2011/04/13 23:06】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第189回
―代官所の拷問に村人怒る―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回書いた、京都で客死した徳嶋仲祐の父、琉仲為の日記『仲為日記』に記事がある徳之島犬田布での一揆について書きました。

一揆の概要は記事のとおりです。
あえて補足すれば、この事件の発端は、藩庁から黒糖上納の大幅な増額を指示された代官がそれを果たすために、密売の嫌疑を口実にして、上納を達成できなかった百姓を懲罰することで一罰百戒の見せしめとし、所期の目的を達しようとしたのでしょう。
もっとも、その意図は百姓たちの思わぬ反撃に遭って頓挫してしまったというわけです。

なお、遠島処分を受けた人々は10年以上の刑期をつとめさせられました。

記事の最後に書いたように、犬田布一揆は「百姓一揆」と規定すべきだと思います。
もう少し類型化すれば、黒糖上納高減免を要求する強訴型一揆でしょう。

なお、この犬田布一揆は、わが国の百姓一揆を集成した『百姓一揆総合年表』(青木虹二、三一書房)にも立項されています。
その評価として、「砂糖総買入反対」が目的で、結果は「不成功」としていますが、どうでしょうか?
砂糖の総買入政策はだいぶ前から実施されており、問題はむしろ、この時期の上納高の大幅増額ではないかと思うのですが。また一概に不成功ともいえないような。実際、上納の割り当ては減免されていますから。

次回は何にするか決めていませんが、この流れから、別の百姓一揆を書こうかなと思案しているところです。
ただ、史料が集められるかどうか?

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【2011/04/11 22:41】 | さつま人国誌
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昨夜、HDD内の写真データなどを整理していたとき、某所が所蔵する幕末薩摩藩関係の書簡の写真版をなにげに見ていたら、そのうちの何点かが重要な書簡であることが判明。

とくに、西郷吉之助に宛てた小松帯刀書簡である。
何と、慶応3年(1867)の薩摩藩と土佐藩のいわゆる討幕密約に関するものではないか。

いま、小学館の講座「てらこや」で中岡慎太郎の日記を読んでいるが、それと関連するものだ。
討幕密約のところはもう終わってしまったけど、来週は最終回だから紹介しよう。

興味深いのは、小松が西郷のことを「南洲先生」と書いていること。
南洲号は明治になってからだと思っていたが、遅くとも慶応末年にはすでに使っていたんだ。どこまで遡るのだろうか?

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【2011/04/10 23:05】 | 幕末維新
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南洲先生
NAO4@吟遊詩人
>桐野先生
こんにちは。浅学にてすいません。小松は西郷の上司のはずですが、「南洲先生」と「先生」という敬称で呼んでいたということなのでしょうか。

だとすると、小松の西郷に対する態度、気持ちが分かって面白いのですが。

甲東先生、大久保閣下
桐野
宛所に「~先生」と付けるのは、小松に限らずありますね。
これは自分の師や大御所の学者でなくてもよくあることで、私たちもややジョークめいて使うこともありますね。感覚的には近いかも。

明治初年ですが、小松は大久保に対しても、「甲東先生」とか、果ては「大久保閣下」と書いている書簡もあります。


どうもありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
>桐野先生
どうもありがとうございました。身分制社会にあっても、小松と西郷・大久保の関係が分かるようで面白いです。上司と部下と言うより、同志という感じでしょうか。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第188回
―徳之島出身、京都で客死―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

2年前、徳之島で島津氏の琉球侵攻400年のシンポジウムがあり、参加した。そのとき、地元の職員さんの案内で、闘牛大会のほか、いくつか史跡を回った。
戦艦大和の慰霊地なども訪ねたが、個人的には犬田布一揆の記念碑を訪れられたのが印象深かった。
幕末に起きたこの一揆を書き留めた一次史料が「仲為日記」で、記主の琉仲為は今回の連載で取り上げた徳嶋仲祐の父親である。

西郷に連れられて上京した仲祐が病死し、西郷はその死を悼んで、相国寺塔頭林光院に葬ると共に、鹿児島の自分の家の墓所にも供養墓を建立した。西郷の哀悼の気持ちがよく表れている。
今回は、以前撮影していた西郷家墓所にある仲祐の供養墓写真を掲載しました。

墓誌銘に「徳嶋仲祐」と刻んだところを見ると、仲祐は京都では出身地をとって徳嶋もしくは徳之島という名字で呼ばれていたものか。

ところで、仲祐は病死ではなく、新選組、それも土方歳三に斬殺されたという説があるようである。
しかも、西郷の護衛をしていて、体格などが西郷と似ていたため、間違って斬られたと具体的に書かれているのを見たことがある。
しかし、寡聞にしてその典拠を知らない。ご存じの方がおいでなら、教えていただきたい。
少なくとも新選組関係の信頼できる史料にはそのような記述はないと思うし、薩摩側も同様である。

仲祐が亡くなった慶応2年(1866)12月26日は奇しくも孝明天皇崩御の翌日であり、京都では激震が走った時期。
また、この時期、薩摩藩と幕府は幕長戦争をめぐって対立関係にあるが、新選組が薩摩藩要人を襲撃するような情勢ではない。
そうした点からも、新選組による斬殺は考えにくい。

次回は、仲祐の父仲為の日記から犬田布一揆を考えてみたいと思います。

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【2011/04/04 16:26】 | さつま人国誌
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徳之島
調所
一昨年は奄美取材にお誘い下さいまして有り難うございました。先日、徳之島出身の徳田毅議員と飲みまして大変楽しい時を過ごさせて頂きました。近いうちに徳之島へ参る機会があると良いなと思っております。

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久しぶりに心地よい脱力感を味わっている。

表題の月刊誌連載の最終回(第42回)をようやく脱稿した。
掲載は今月25日頃で、まだ校正が残っているものの、それなりの達成感を覚えている。

2008年正月号から3年半の長きにわたる連載だった。締切は月末だったが、別の原稿締切や講座などが立て込んでいるせいもあって、毎回のように脱稿が遅くなった。

思い起こせば、同誌編集長のSさんに何か連載してみる気はないかと声を掛けられたとき、すかさず「信長で」と答えた覚えがある。
「信長」は一応「表芸」ではあるのだが、そのじつ、本能寺の変など信長の晩年が中心で、その全生涯をカバーしていなかった。とくにその青年時代、尾張時代はほとんど白紙状態で、むしろ苦手だったといったほうがよい。

だから、連載当初から手探り状態だった。その間、多くの人々に教示を得ながら何とか継続することができた。

当初、S編集長からは2年間でと期限を切られたが、とても終わるはずがなく、2年目が終わった第24回はまだ元亀2年(1571)の比叡山焼き打ちまでしか進んでいないという体たらくだった。

見かねたS編集長がさらに1年連載を延長してくれたが、それでもまだ終わらず、さらに半年延ばしてもらい、しかも、最後の3回は規定枚数をだいぶオーバーしてもよいという特別の配慮をいただき、ようやく本日を迎えた次第である。

もっとも、最後の半年はかなり駆け足になっており、私自身もやや消化不良だった感は否めない。

本日、S編集長(現在は部長さんか)からねぎらいの言葉をいただくと同時に、さっそく単行本化の打ち合わせをしたい旨の話があった。
しかし、これにはだいぶ手がかかるかもと思っている。しかも、全42回の原稿総枚数は優に800枚を超えていると思われ、単行本にすると、500頁を超す「大作」になるのは間違いない。
今から膨大な推敲や校正作業などが待っていることを考えると、めまいがしそうだ。


さて、同時進行していた新書原稿も先週脱稿した。
2月末からかかっていたが、尻叩きの厳しい編集者のYさんのおかげで、私にしては珍しく早めに脱稿した。
執筆途中で大震災があり、数日間ずっと気が重くて落ち着かない状態で書いていた。

内容は大河ドラマ関連の歴史紀行である。
これまたお江や信長・秀吉に詳しい畏友たちに恵まれて、新ネタや貴重な写真を盛り込むことができた。
お名前は拙著に記すつもりだが、この場を借りて御礼申し上げる。

はやくも今月下旬発売予定です。

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【2011/04/01 22:41】 | 信長
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市野澤 永
こんばんわ。

お世話になっております。

月刊『歴史読本』の連載が
最終回脱稿とお聞きしました。
おめでとうございます!
書籍になるのが、待ち遠しいですね。

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