歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第196回
―島津久光の国葬の斎主―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きを書きました。
記事にも書いたように、いろいろ反響があり、それらの情報を参考にさせていただき、田上藤七=田中藤八=田中頼庸について補足しました。
情報を提供していただいた方々に感謝します。

今回の特徴は、やはり高崎正風との関わりですね。
高崎の日記に田中頼庸が登場し、しかも歌や風流を通じた友人関係でもあるようです。

そして、島津久光の国葬において、高崎が庶務全般の責任者、田中が祭祀の斎主という形で主導します。
福昌寺跡墓所に久光の墓がありますが、前面に鳥居が立っており、神式墓地だということがわかります。
田中と高崎の仕切りで葬儀が行われたわけですね。

それにしても興味深いのは、田中の斎主、高崎の御用掛長という辞令が久光の死の当日に出ていることです。
これは鹿児島から東京に電信で知らされ、即刻、葬儀の態勢がとられたことを示しています。あるいは、久光の危篤があらかじめ東京にも知らされていて、ある程度の準備ができていたのでしょうか?

写真は少し小さくなってしまいましたが、10年近く前に玉里邸を訪れたときに撮影したものです。
いまでも当時の庭園や池が残っています。
鹿児島女子高校のキャンパスの中というか、隣接してあります。
拝観の許可を得るために、同校の事務室に行こうとしたとき、校庭を掃除していた女子高生たちがみな明るく丁重に挨拶してくれたことを思い出します。礼儀作法がよくできた高校だと感じ入りました。
参考までに、玉里邸の庭園の写真を載せておきます。
久光やお由羅の方が見たのは確実です。

玉里邸

記事写真の黒門から続く道は国葬道路と呼ばれていて、ここから出た久光の葬列が福昌寺跡墓所まで続いたといわれています。

次回も高崎正風を書いてみようかと思っているところです。

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【2011/05/31 17:33】 | さつま人国誌
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樺山三円
山本栄一郎
桐野様

しつこくてもうしわけありませんが、樺山三円について。
樺山三円が、明治後の史料に出てくる資之と同一人物であるということに、いまいち確信が持てませんでしたので、言い出せませんでしたが、実は、明治五年から七年まで、北条県(現岡山県)七等出仕に樺山資之という人物が在籍しています。
これは、私が岡山県立図書館に確認しましたので確実です。
あの樺山三円が、地方の七等出仕に甘んじているというのが、どうにも解せなかったのです。
ただし、北条県といえば、たしか高崎猪太郎(五六)が赴任していませんでしたでしょうか?
非西郷派は、中央官吏につけず、地方にまわされたとみていいのでしょうか。
ちなみに、樺山資之は明治七年に茨城県に転出している(茨城県立図書館からは回答なし)ので、その途中に、先日お話した木戸孝允を訪問したとすれば符号は合うのですが。
もし桐野先生がご関心がございましたら、また「薩摩人国史」等でご紹介いただければ、と思います。
桐野先生は、お行儀の悪いI氏やK氏とは違うと信じておりますので・・・。

七等出仕
桐野
山本栄一郎さん

新たな情報提供、有難うございます。

ご指摘のように、三円なら七等出仕は不審ですね。三円クラスなら、悪くても知事でしょう。

う~ん、同姓同名の別人がいるのでしょうか?
あるいは息子でしょうかね?

断定せずに調べたほうがよさそうですね。


資之
山本栄一郎
桐野様

恐縮ですが、さらに樺山三円について。
もうしわけございませんが、御教示ください。

私が当初から思っている疑問なのですが、
樺山三円の諱が資之というのは、よく人名事典で見るのですが、最初の出典史料は、何なのでしょうか。

そこから調べてみようと思います。
教えていただければ幸いです。



資之
桐野
山本栄一郎さん

「資之」名乗りの初出かどうかわかりませんが、本人の日記の署名があるので確実ではないかと思います。

東大史料編纂所のデータベースに「樺山資之日記」と入力すれば、日記が表示され、その影印を見ることができます。

樺山資夫氏(おそらく資之の子孫でしょう)所蔵の日記を忠実に写した謄写本です。

その冒頭に「樺山資之日記」という題箋があり、どれから2,3枚めくれば、

樺山瀬吉郎藤原朝臣資之

という署名があります。
そこから、樺山資之、通称は瀬吉郎、氏は藤原ということが確認できると思います。




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この間、またご高著をいくつか頂戴しました。
記して御礼申し上げます。

平山 優氏より
『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』 戎光祥出版 2011年6月

平山氏は著名な甲斐武田氏研究者。
つい先日も『天正壬午の乱』(学研パブリッシング)を上梓されて頂戴したばかり。
前著は取り扱う対象がほぼ信長が死んだ天正10年(1582)に限定されていたが、本著はさらに小田原合戦まで視野を見通すとともに、視点が異なる。信濃や上野といった地域の領主たちを重視し、彼らの動向が家康、景勝そして秀吉の勢力拡大を下から規制していく様子を描いている。
前著ととともに読めば、なお理解が深まると思われる。


高澤 等氏より
『新・信長公記―信長の生涯を再考する―』 ブイツーソリューション 2011年5月

高澤さんは家紋の研究者(日本家紋研究会会長)。
歴史読本に信長を連載していた時期に、同誌面に家紋のことを連載されていた。書簡などで少しやりとりしたことがある。
今回は『信長公記』にチャレンジされた。
同書を再解釈して、新たな信長像を提示しようと試みている。
一信長好きで「論文的手法」をとっていないとされるが、なかなか興味深い独自の解釈がいくつか見られて、参考になった。たとえば、
・信長は桶狭間合戦で鉄炮を使ったか否か。
・金ヶ崎の退き口を記した『継芥記』の筆者の推定。
・地方に在国した近衛前久が非難する「佞人」の比定。←これには異論がある
・長篠合戦で戦闘があったのは3カ所だけではないか。
などなど。
小生の問題関心と重なっている部分もあるので、参考にさせてもらおう。


大阪龍馬会より
『大坂の史跡探訪~龍馬の足跡~』 長谷吉治著 大阪龍馬会 2011年5月

大阪龍馬会は非常にコアで玄人好みの史蹟探訪で知られる。
私も以前参加したが、あまりの強行軍に根をあげた覚えがある(笑)。
そうした活動の成果、とりわけ坂本龍馬と大坂の関わりを中心にまとめた冊子である。
龍馬が主宰する土佐海援隊の大坂詰所「薩万」がどこにあったか、当時の水帳などから特定しているところなどは貴重な仕事だと思う。
そういえば、9月4日に昨年につづき、大阪龍馬会での講演を予定しています。
「龍馬暗殺再論」というテーマです。興味のある方はご参加下さい。

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【2011/05/30 23:07】 | 新刊
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東京にある幕末史研究会での講演のお知らせです。
3月予定だったのが、震災のために延期になっていましたが、改めて6月11日(土)に開催となりました。

テーマは龍馬暗殺、近江屋事件です。
薩摩藩側から見た同事件をとらえます。
同事件について、とくに薩摩藩側の基本的な史実が共有されていないことが、薩摩藩黒幕説というミスリードを生み出す根源となっています。そのあたりの誤解を解明する趣旨でもあります。

日時・会場・テーマなど詳しくは、同会ブログのここをご覧下さい。

第186回例会
日時:2011年6月11日(土) 午後2時 ~ 4時
会場:武蔵野商工会館 4階 JR中央線吉祥寺駅北口徒歩5分
講師:桐野 作人 氏 歴史作家
テーマ:「薩摩藩から見た龍馬暗殺」
内容:龍馬暗殺について薩摩藩黒幕説が根強いが、ほとんど根拠がない。薩摩藩が龍馬暗殺にどのように対処したか、一次史料をもとに明らかにする。


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【2011/05/29 18:31】 | イベント
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こんなニュースがありました。ここです。

公家で京都吉田社の神主、吉田兼見の日記『兼見卿記』に日本海側で大津波があったという記事です。兼見は信長や秀吉と同時代の人です。

同日記の輪読会をかれこれ10年くらいやっていますが、その該当部分、8年前に私が担当したところでした。調べてみて思い出しました(汗)。
(該当部分は『大日本史料』第11編23冊に活字化されています。ネットでも東京大学史料編纂所のデータベースで年月日を入力して検索すれば、見ることができます)

日本海側で津波があったのは、天正13年(1585)11月29日条です。同年は秀吉が関白になった年です。
当該条は2カ所書かれていて、1回目は地震直後、2回目はある程度事態が判明してから追加情報を書いたものです。

地震が起きたのは同日子の刻(深夜零時頃)です。
兼見の自宅も長く揺れて、しばらく止まなかったようです。
地妖凶事如何(いかが)」と兼見は地震の不気味さを日記に書いています。
翌30日、兼見が吉田社の境内を見て回ったら、神壇の石垣の多くが崩れ、文庫の二階の北側の軒が一間(2メートル近く)欠け落ちていたことを発見します。そしてこの日も「地動今日に至るも止まず、切々地動しおわんぬ」と書いており、余震が止まなかったことがわかります。

そして、その後判明したことを書き加えています。
京都では壬生の堂塔が倒壊し、あちこちの民家が壊れており、「数多(あまた)」の死者が出たと書いています。
さらに、日本海側その他の被害として、

「丹後・若州・越州、浦辺波を打ち上げ、在家ことごとく押し流す、人死ぬ事数知らずと云々、江州・勢州もってのほか人死ぬと云々」

日本海側の丹後・若狭・越前(現在の京都府から福井県)に津波が押し寄せ、沿岸部の民家をすべて押し流し、数え切れないほどの死者が出たとあります。また近江や伊勢でも死者が出たと書いています。

さらに12月に入ると、越前の丹羽長秀に仕えていた兼見の妻の兄佐竹出羽守からの知らせで、地震で家が倒壊して兼見の妻の妹が圧死したとも書かれています。兼見の親戚からも死者が出ています。

余震の記事は、その後も12月1日、3日にもあります。
朝廷では、地震が終息することを願って祈祷することを決定し、兼見に7日間の祈祷が命じられたと書かれています。


『兼見卿記』は織豊時代の研究では非常に重要な一次史料で、学界においても信頼性が高いものです。その記述はかなり正確だと考えてよいです。
しかも、兼見は丹後田辺城主細川幽斎・忠興父子と親戚です(兼見の息子兼治の妻は幽斎の娘)。その関係から、日本海側の情報を入手して日記に追記したと思われます。

日本海側の大津波だけでなく、近江や京都、さらに東海地方の伊勢方面まで被害が広範囲に広がっていることから、相当大きな地震だったと推定されます。

たまたま目にしたニュースになじみのある身近な史料が触れられていたので、書いてみました。
大震災の教訓として、何らかの参考になれば幸いです。

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【2011/05/28 00:42】 | 雑記
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テレビニュースで見ました
坐忘
数日前にこのニュースに接したとき、桐野さんを思い出しました。
で今日来てみると、直接言及しておられて面白く拝読しました。

テレビニュースで言うには、関西電力はこの記録を無視した上で、
津波の想定高さをたった3メートルとしていたそうです。

九電の川内原発の想定高さもその程度だったと思いますが、
恐るべき怠慢、無責任、虚言、捏造体質と言わなければなりませんね。

確度の高い史料調査は、巨大インフラ構築の際には絶対避けて通れない、
重要なものだということがよく分かった事例でした。

天正の大地震調べておく必要がありそうですね。
NAO4@吟遊詩人
「兼見卿記」や「ルイスフロイスの日本史」のような信頼できる記録を、信憑性がないとして無視したことは電力会社の大きなミスというか、やってはいけないご都合主義と言えるでしょうか。

それにしても、太平洋側はプレートのずれによる津波の直接的な影響を受けますが、日本海側はどういうメカニズムで津波が起きるのか興味があります。

太平洋側の津波が日本海側に回り込むことは考えられますが、天正大地震は、震源は岐阜県付近とする内陸型と言われる(新聞記事より)ことから、どうして津波が起きたのか不思議です。

内陸の地震に呼応して海底の断層とかが大規模に動いたんですかね。

タイムリーなブログありがとうございます。

コメント御礼
桐野
坐忘さん

川内原発も不安ですよね。
鹿児島も決して地震が少ないわけではないですから。それに活火山がたくさんありますし。
原発のないもっと別の道を追求したほうがいいと思いますね。
もし何かあったら、観光も産業も交通・物流も生活もすべてダメになってしまうという想像力も働かせておかないといけないと思います。そのときに悔いてもはじまりませんから。
亜熱帯に近くて火山が多い鹿児島こそ、太陽光や地熱発電など潜在的な資源はたくさんあると思いますけどね。


NAO4@吟遊詩人さん

天正13年地震の震源地が内陸型とする根拠を知らないので何ともいえません。
ただ、もしそうなら、内陸からの震動が日本海に波及してユーラシア大陸にぶつかって戻ってきたというか、逆流してきたということはないのでしょうか?
太平洋と違い、日本海は狭いですから。
あくまで素人考えですけど。




天正地震について
悠々火山
ここ10年くらい天正地震を含めて古地震を調査してきた者です。
兼見卿記やフロイス日本史の津波のことは古地震の研究者なら知らない人はいない位で明治初期から指摘されていました。

兼見卿記の津波記述は明快なので,これから科学的に実証しなければならないと思います。ただ,天正地震は内陸の複数の活断層による地震で津波は起こりません。海底が地殻変動しないと津波は発生しませんので,地震波が大陸に反射しても津波は発生しません。もし津波が発生したのなら,天正地震ではなく別の海洋の地震を疑うことになります。当時ロシア方面で地震があったのかどうか。

参考までにフロイス日本史では若狭の長浜で地震後数日後に大きな波,という記述でした。ここに二つの曖昧さが残ります。一つは長浜は小浜と解釈されていること,あとは数日後に津波です。津波は地震直後なのでちょっと違和感があるのです。今後の調査課題です。

震源地?
桐野
悠々火山さん

初めまして。
ご教示有難うございます。
詳しく調べていらっしゃるのですね。

ただ、天正地震の震源地が内陸部だとする根拠が改めてよくわかりません。
当時の文献史料には表れないはずですが、地質的な調査などで判明しているのでしょうか?



Tm.
天正地震といえば有名なのは帰雲城ですね。

そんな天正地震については、寒川旭・著『秀吉を襲った大地震-地震考古学で戦国史を読む-』(平凡社新書)が、巻末の参考文献共々ご参考になるかと思います。

ただ同書では津波の件については触れられていないようですが、『兼見卿記』の記述からは、やはり津波は地震の直後のことのようであり、天正地震では内陸の活断層のみならず、問題の丹後・若狭・越前近辺の海底の活断層も連動して活動していたのではないでしょうか。

今回の東日本大震災を思うに、その様には考えられないでしょうか。


震源地は未だ不明です
悠々火山
この地震の震源地は未だに特定されていません。ここ30年来多くの研究者(地震学,地質学,地形学など)によってようやく,内陸の養老・桑名・四日市断層帯,荘川断層帯,阿寺断層帯の3つが候補に挙がってきましたが,そのどれかが動いたのか連動したのはまだ不明なようです。

内陸が震源である可能性は,斜面崩壊が岐阜県白川村周辺で多いこと(古文書の記録と伝承),液状化が濃尾平野の西部と富山平野の西部に集中していること(遺跡の調査),それと活断層調査(トレンチ,地形調査)で上記3つの活断層帯がどうやらこの付近の時代に活動した可能性が高いことが分かってきました。
日本海の海洋の地震なら濃尾平野まで液状化はしませんし(距離が遠いので),石川などでも液状化があると思います。また斜面崩壊も広範囲で起きるでしょう。

Tmさんご指摘の福井沖の活断層の可能性もありますが,地質学的には存在が分かっていません。仮に日本海で活断層が連動したなら新潟,富山,石川など広範囲に津波は襲来するでしょうから記録がよりどころになりますが,そのような古記録は見出されていないようです。

それと,気になっているのが兼見卿記の津波の記述の日が11月30日になっていることです。地震後わずか1日にして被害が京都に伝わってその日のうちに日記に記されたことになりますが,ちょっと信じられない感じです。

帰雲城
桐野
Tm.さん
お久しぶりです。

そうか、埋蔵金伝説でも知られる飛騨帰雲城がありましたね。
以前、帰雲城の記事を書いたことがあったのですが、すっかり失念しておりました。

関連書籍のご紹介も有難うございます。


兼見の日記の書き方
桐野
悠々火山さん

震源地推定についての詳しいご紹介、有難うございます。
場所を厳密に特定はできなくても、内陸部の活断層が動いたのはほぼ確実のようですね。ならば、なぜ津波が発生したのか、今後の調査や研究を待ちたいと思います。

あと、兼見卿記の書き方について。
中近世の日記全般、とくに公家の日記にいえることですが、記主は日記をその日か翌日あたりにつけると思われがちですが、そうではなく、メモ風なものを書き留めておき、あとでまとめて推敲ないし浄書する形が多いです。

兼見も同様で、たとえば、1か月分をまとめてつけたりしています。ですから、あとからの情報が当該日に書かれているケースも少なくありません。

この地震に関しても、ブログでも書きましたが、地震のあった11月29日が2つに分けて書かれています。最初のは当日かその翌日あたりに入手した情報。2回目はその後相当日にちが経ってから知り得た情報を追記したと思われます。
ですから、日本海や近江、伊勢の情報まで含まれているわけですね。
そう考えれば、決して不思議ではありません。


他の古記録や地質学的証拠
NAO4@吟遊詩人
>悠々火山さま
>桐野先生
>Tmさま
色々お教えくださり、ありがとうございました。天正大地震で本当に津波があったかどうか検証が待ち遠しいです。

恐らく、
地質学的に津波の痕跡(海底砂の層)が見られるかどうか、

丹後・若狭・越前の寺社などの古記録に天正地震の津波について記録がないかどうか

などがポイントになりそうですが。

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いま発売中の表題の歴史雑誌。

今回は本能寺の変特集です。

本能寺の変の真相や位置づけをめぐっては諸説ありますが、その諸説を代表する筆者が書いています。天正10年(1582)前後の政治状況も含めて、最新研究の現状がよくわかる特集です。
とくにイエズス会の動向についての記事(高橋裕史氏)と、島津義久についての記事(黒嶋敏氏)が個人的には面白かったです。
また、岐阜城、本能寺、二条御所の発掘報告も興味深いですね。

また友人の金子拓、谷口克広、和田裕弘、永田恭教の諸氏も書いています。

小生も2本書いています。

①「四国問題と斎藤利三の動向」
②「信長起請文に見る志賀の陣 和睦の真相」


よかったら、読んで下さいませ。

①はこれまでも拙著、拙稿で述べてきたことですが、明智光秀が安土城で徳川家康の接待役をしていた時期(5月中旬~17日までの間)、信長による光秀への折檻事件があったことを、フロイス『日本史』と『稲葉家譜』が期せずして書き留めています。まったく没交渉で性格が異なる両史料にほぼ同様のことが書かれているのは偶然ではなく、この折檻事件が事実であったことを示しています。両史料への史料批判もあるでしょうが、大筋では十分それに耐えうるのではないかと考えています。
そうであれば、この折檻事件がその直後の本能寺の変と無関係だと考えるほうに無理があります。この事件こそが本能寺の変の真因だと考えてよいと思います。

ただ、私の校正不足で誤植があります。

①について
122頁下段、小見出し「明智家中の親長宗我部派」の文中、5行目
×「光秀の兄頼辰」 → ○「利三の兄頼辰」

②について
197頁下段1~2行目
×「元亀元年十月」 → ○「元亀元年十一月」

以上2点、お詫びして訂正します。

なお、②については、誤植のあった信長朱印状の位置づけが難しいですね。この文書はいわく付きだとも噂されていますが、今後、その評価が定まるのを待ちたいと思います。
②の執筆にあたっては、畏友の和田裕弘氏より格別の教示をいただきました。本文中では紙数の関係で謝意を書けなかったので、この場を借りてお礼申し上げます。

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【2011/05/27 18:31】 | 新刊
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いろいろ勉強になりました
戦国おやじ
 『歴史読本』掲載の玉稿を拝読いたしました。大変勉強になりました。ところで、②論文のP196の箇所ですが、小泉義博氏の指摘つまり「仍執達如件」の書止文言を持つ長政の禁制を奉書と捉えて、長政が朝倉氏の配下にあったとされています。ところが、「仍執達如件」の書止文言を持つ文書については、古くは相田二郎氏、最近では宮島敬一氏が指摘するように、奉書文言ではありません。むしろ、その前段に「~之由候」とあることが奉書であることを示しています。長政はこの時期に「仍執達如件」の書止文言を持つ大量の禁制を発給しますが、すべて直状と捉えるべきで、先の小泉氏の見解は既に宮島氏によって否定されています。実は、浅井氏に限らず、「仍執達如件」の書止文言=「奉書」と考える人は、案外多いものです。そうなると、誰の意を奉じているのかが問題となり、解釈が変異なることもあるようです。今川氏親も「仍執達如件」の書止文言を持つ文書を発給していますが、この場合は足利将軍の意を奉じていたとされていました。これも、今は否定されています。長々とつまらんことを書きました。すみませんでした。

仍執達如件
桐野
戦国おやじさん
はじめましてでしょうか?

貴重なご指摘、有難うございます。
そういえば、「仍執達如件」は直状だという指摘を以前読んだ記憶がありました。肝心なときに忘れておりました。先行研究の不勉強で汗顔の至りです。

釈明させていただければ、浅井長政の地位や立場どのようなものだったのかという私の愚考を補強するために傍証として取り上げたものです。
まあ、傍証がなくても自説として主張すればよいかなと改めて思った次第です。

ご指摘感謝です。




ありがとうございます
戦国おやじ
 わざわざありがとうござました。『歴史読本』連載の単行本化を楽しみにしています。ますますのご活躍を祈念申し上げます。

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先日の日曜日、22日午後から江戸川区の東葛西図書館での講演に出講。

震災で一度延期になっていた。

応募状況もよかったらしく、すぐ定員に達したという。
有難いかぎり。

テーマは「お江と信長・秀吉」。
家康がないのは、時間の関係で触れられないと思ったから。

江の出生場所と3度の結婚を中心に話した。
伏見城にいる江が秀忠が心配で江戸に帰りたいと家康に嘆願したという史料も紹介した。

受講のみなさんには熱心に聴いていただいたが、このところ、喉が痛くて声がおかしくて申し訳なかった。

当日、いろいろお世話いただいた東葛西の図書館の職員のみなさんにお礼申し上げます。また、企画立案段階から打ち合わせや連絡でお世話になった市野澤さんにもお礼申し上げます。
同図書館は新しい建物で、明るくて広く、蔵書数も多そうだった。区立中央図書館ではないのに、かなりの充実ぶりである。拙宅の最寄りの区立図書館とはくらべものにならないと感じた。

終了後、何人かの方から挨拶される。
私が選考委員をしている文芸賞の受賞者の方とか、昨夏、京王プラザホテルであった「龍馬シンポ」の参加者の方も覚えていて下さり、受講されたとか。有難いかぎりである。

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【2011/05/25 17:29】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第195回
―薩長土密議と偽金造り?―

連載が更新になりました。
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萩の松下村塾近くにある「薩長土連合密議之處」という石碑に刻まれている薩摩藩士・田上藤七とは誰なのかという疑問を記事にしました。

記事にも紹介した山口県防府市在住の研究者・山本栄一郎さんがこの田上を追っており、薩摩側に彼の史料がないかという質問を以前受けたことがありました。
私も不勉強で、田上が明治になり、田中頼庸と名乗り、廃仏毀釈を推進した神道界の大物だという以外知らないと回答するしかありませんでした。
それから、山本さんから地元紙掲載の記事を送ってもらいました。それには「田上藤七」は実在せず、久坂玄瑞が日記に誤記したもので、本当は「田中藤八」だと指摘されていました。その典拠が野村靖(入江九一の弟)の回想録『追懐録』の記述だということもわかり、山本さんの調査研究に驚いたものです。

その後、史料をめくっていたら、たまたま『道島家記』(記主:道島正亮、寺田屋で有馬新七と一緒に串刺しになった道島五郎兵衛の兄)に、その田中藤八という人物を見つけました。しかも「銅銭札」という贋札づくりに関わった嫌疑をかけられていると書かれていて驚きました。

この贋札造りの田中藤八は萩を訪れた田中藤八と同姓同名ですが、同一人物なのかどうかは断定できません。
どうもこの贋札造りは町人の仕業ではないかという気もしますので。でも、名字がありますから、武士でなければ、名主・庄屋クラスなんでしょうか?

余談ながら、「銅銭札」って、銅銭ではなく紙幣ですよね?
天保通宝のことかと思いましたが、「雁札」(贋札)としているところを見ると、紙幣かなとも思います。藩札の一種なのでしょうか?
でも銭でもある紙幣ってどんなものなのか、不勉強で想像がつきません。
もしご存じの方がおいでなら教えて下さいませ。

また岸信介揮毫の石碑もだいぶ昔、長州の取材に行ったときに何気なく撮影していたものです。
本当は「田上藤七」の部分をアップにしたカットがあればよかったのですが、当時はそんな問題意識はありませんでしたからしかたありません。撮影していただけでも御の字というものです。
ポジフィルムをスキャナにかけたので、やや画質が落ちた点はご容赦を。

記事を書くきっかけを与えてくれた山本さんには感謝です。
田上藤七が田中藤八だったと教えていただいていなければ、偽金造りの田中藤八にも気づかなかったと思います。

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【2011/05/23 17:26】 | さつま人国誌
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ありがとうございます
山本栄一郎
桐野様
ご紹介していただき、ありがとうございました。
現在は、楫取素彦顕彰会委員として、薩摩研究は放置状態になっていますが、一段落したら、樺山三円に挑戦したいと思っています。
しかし、「木戸孝允日記」に登場する樺山資之は、三円とは同姓同名の別人なのでしょうか?


樺山資之
桐野
山本栄一郎さん

返事が遅くなり、すみません。

『木戸孝允日記』はたしか明治元年から始まっていましたよね。
私は詳しく見ていないのですが、「樺山資之」で登場するなら、明らかに樺山三円のことだと思います。
樺山は明治になってからの消息がよくわかりません。もっと調べるべきだと思いますが……。

ちなみに、資之は実名で、三円は坊主名です。
薩摩藩の下級藩士は貧乏で、職を得るために鶴丸城内の茶坊主として出仕して、なにがしかの給金を得ている者もいました。坊主ですから、一応出家しないといけません。
だから、三円ですね。

ほかにも、

大山格之助綱良 正円
西郷信吾従道  竜庵
永山弥一郎盛弘 万斎

という具合に、茶坊主をつとめた人は少なくないです。
樺山も明治になると、藩政時代の三円を使わなくなり、実名を使ったということではないかと思います。


山本栄一郎
桐野様

樺山資之は、「木戸孝允日記」明治七年二月二十七日付、黒田清隆あて書簡に登場します。

樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。
折柄留守中なとに而、面会も不得仕。
元司法省出仕之樺山(註。資綱)とは相違候哉。
自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。

というものです。
木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が、何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。
もし樺山資之が幕末の三円と同一人物ならば、木戸は、久坂玄瑞と親しかった樺山三円を知らなかったのだろうかという疑問を、桐野先生にお尋ねした次第です。
これ、三円なのでしょうか?


三円の可能性あり
桐野
山本栄一郎さん

木戸日記のご紹介、有難うございます。
ただ、木戸文書のほうですね。

見てみましたが、頭注は一応三円だとしています。それほど誤りではないと思います。

というのは、木戸は樺山資之が訪ねてきても、いつも留守のようですから、じかに会っていませんね。
木戸は文久以来、三円は知っていても、資之名乗りは知らなかった可能性が高いのではと思います。
資之も三円を名乗ったほうがよかったかもしれませんが、現名乗りである資之を名乗ったから、木戸が誰だかわからなかったのではないかと思います。

ついでに、木戸関係文書三の黒田清隆のところを見てみましたが、残念ながら、黒田からの返信は現存していないようですね。

木戸が資之が誰だかわからなかったということは、三円はずっと鹿児島にいて表舞台に登場していなかったことを示しているのでしょうね。
資之がどこで何をしていたのか興味あります。

とりあえずは頭注に従ってよいのではという気がします。

じつは神田神保町の古書店主が樺山の子孫です。一度お会いしたことがあります。
たしか日記も所蔵されていたような。ただ、明治期のものがあるかどうかは不明です。

東大史料編纂所には「樺山資之日記」の謄写本が架蔵されていますが、文久4年=元治元年までしかないようですね。



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この間、また論著や資料などを頂戴しました。
有難うございます。
ご紹介することで、お礼に代えたいと思います。

谷口克広氏より
『信長関係文献目録』 責任編集:谷口克広、編集:信長資料集編集委員会/岐阜市歴史博物館 岐阜市歴史博物館発行 2011年3月

以前から谷口さんが信長関係の文献を多数収集し、その目録を作成されていたのは存じ上げていた。
それも研究者の著書や論文だけでなく、商業雑誌や同人誌など広範な媒体記事まで含んでおり、その広範で詳細な収集歴に驚いた覚えがある。また、その目録旧版をかつて頂戴したこともあった。

今回はその後の収集分も含めての編纂となったものである。
編纂方針は著筆者を50音順に配列して、その仕事(論著など)を年代順に並べたもの。
A4サイズで本文が300頁近く。ほかに歴史系雑誌目録や詳細な目録索引まで付してある。とくにテーマごとの索引もあり、先行研究を調べるのにとても重宝する。

なお、私の書いたものも掲載されていたが、これまでどれくらい書いたか意識することがなかったが、改めて自分の仕事を俯瞰することができた。なかには抹消したい仕事もあるのだが(汗)。


金子 拓氏より
①「肥後加藤家旧蔵豊臣秀吉・秀次朱印状について」 『東京大学史料編纂所紀要』21号 2011年3月
②「鳥居強右衛門の虚像と実像」 「iichiko」2011年春号 特集 武士制の文化学

研究仲間の金子さんより論文2編頂戴した。
①は加藤清正受給文書の伝来経緯の考察と史料紹介である。
周知のように、加藤家は2代忠広の代で改易されたため、その家文書は散逸・消失していたと考えられていたが、宇土細川家文書のなかに「阿部氏家蔵豊太閤朱印写」という写本2冊があり、清正宛ての秀吉朱印状の写し100点近くが収録されていたことを紹介している。そのほか、加藤家旧蔵文書が各種機関や個人蔵として伝来している状況を報告している。

②は長篠合戦での鳥居強右衛門の有名なエピソードについて考証したもの。
強右衛門が武田方に捕縛されたのち、その最期に至るまで種々の軍記物により、後世、その最期の悲劇性、英雄性が高められた過程を跡づけている。また有名な強右衛門の磔刑の絵を描いた落合左平次の指物(背旗)について、逆さ磔か否か論争があったが、その研究史を整理するとともに、逆さ磔ではなかったと結論している。この絵は現在、軸装されていて上下がわからなくなっているが、明治5年(1872)に当時のままで撮影された写真が現存しており、上下が判明するという。
この論文でもうひとつ面白かったのは、明治の評論家志賀重昂(しが・しげたか)がアメリカのアラモ砦の戦いで砦を脱出して援軍を要請したジェームス・ボナムと強右衛門をアナロジーして、わざわざアラモ砦跡を訪ね、その後、岡崎城内に「アラモの碑」を立てたという話。長篠城とアラモ砦を同列に論ずる発想はなかなかユニークである。
以前、岡崎城に行こうとして時間切れで行けなかったことがあるが、この碑は見に行きたいものだ。
志賀は岡崎藩の藩儒の倅だったというのも知らなかった。また木曽川や犬山城あたりを指す日本ラインの命名も志賀だったというのも知らなかった。 


石田文一氏より
「戦国期の加賀国白山本宮惣長吏について―系譜と在職年代をめぐって―」 『國學院雑誌』112巻3号 2011年3月

石川県在住の研究者石田さんよりいただいた。
ニフティ関係からかれこれ20年近い友人である。
この論文は加賀国の有力寺社である白山本宮(白山寺)のトップ、惣長吏(そうちょうり)の戦国時代の6代について、その系譜や事跡について考証したもの。恥ずかしながら、惣長吏という言葉は初めて知りました(汗)。
加賀といえば、一向一揆の本場だが、白山寺も同国の寺社勢力として有力な存在だったことがわかった。また公家の山科家や勧修寺家との系譜関係も新鮮で面白かった。
歴代惣長吏が本願寺とも関係があり、加賀一向一揆にも主体的に関わっていたことなども知らなかった。大変勉強になりました。

鈴木徳臣氏より
発掘報告書『田原坂―西南戦争遺跡・田原坂第1次調査―』 熊本市教育委員会 2011年

若手の西南戦争研究者の鈴木さんよりいただいた。
彼とは昨年知り合ったが、西南戦争や軍事学についての該博な知識・知見に驚かされた。不肖、私も西南戦争については一家言あると思っていたが、上には上がいるものだと思い知らされた次第。
西南戦争でいちばん有名な戦跡は何といっても田原坂だが、現在発掘調査が行われている。資料館のある周辺も調査が進んでいる。
昨年は田原坂と谷を隔てた二俣台地の官軍側陣地跡(二俣瓜生田砲台跡)で野戦砲(四斤山砲か)の轍跡や摩擦管(砲弾着火装置)などが発掘された。
この報告書でも、田原坂周辺の地形図に銃弾その他の出土状況が詳細に記されていて、当時の激戦の様子を知ることができる。西南戦争研究も文献だけでなく、発掘調査を進める段階になっていることを痛感。
なお、田原坂周辺に多い行き会い弾(敵味方の銃弾が空中で衝突してくっついたもの)はフィクションかもという話もある。
併せて、植木・玉東戦跡ガイドマップ『西南戦争』(植木町・玉東町西南戦争遺跡群連携保存活用協議会)もいただきました。

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【2011/05/19 10:54】 | 新刊
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加藤清正
市野澤 永
こんばんわ。

>『信長関係文献目録』

岐阜市歴史博物館のホームページで確認しました。
価格も1500円と良心的なので購入しようと思います。
お知らせ頂き、ありがとうございます。

岐阜市歴史博物館
http://www.rekihaku.gifu.gifu.jp/

>加藤清正

少し先の企画ですが、以下の催しがあります。

【会場】名古屋市蓬左文庫
【企画】没後四〇〇年 加藤清正の時代
【期間】7月27日~9月19日

名古屋市蓬左文庫
http://housa.city.nagoya.jp/index.html







情報御礼
桐野
市野澤さん

また情報提供、有難うございます。
名古屋には毎月行く機会があるので、一度のぞいてみようかと思います。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第194回
―義久側近の暗殺と退去―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

イエズス会宣教師アルメイダの3回目です。
今回はアルメイダが鹿児島から退去することになった暗殺事件を中心に書きました。

島津義久の側近、それも御使役という奏者の野村是綱という人物はアルメイダに好意を示し、義久との会見をはじめ、何かと取り計らってくれました。
それが反キリシタン勢力には気に入らなかったようで、野村の暗殺事件へと発展します。
しかも、黒幕が義久の古参老中、村田経平だというから、驚きです。
義久自身はイエズス会との友好関係を築いて南蛮貿易をやろうとしていましたから、太守の方針を老中が真っ向から否定したばかりか、側近暗殺という強硬手段をとりました。

さすがの義久も怒り、島原に逃亡した下手人を追わせますが、この追っ手も共犯者だったのですから、いやはやです。

義久も家中の反キリシタンの気運の強さに負けて、結局、アルメイダに退去を勧めました。
義久の太守権も家中の大勢には抗すべきもなかったというべきでしょうか。

以降、島津家は一貫して反キリシタン方針を貫くことになります。

次回も戦国関係を考えています。

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【2011/05/16 22:18】 | さつま人国誌
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ばんない
3回にわたる連載、興味深く拝読させて頂きました。

この話自体は以前何かの本で読んであらましは知っていたのですが、今回初めて知る話も多く、驚かされました。
>「国王の兄弟二人の大いに権勢のある者」がアルメイダに好意を示したという
これは興味深いですね。『日本切支丹宗門史』で”反キリスト教の大元”と名指しされた義弘はたぶん無いと私は思いましたが、この当時唯一側室を抱えていた歳久がキリスト教関係者に好意を示すかなあ、という気もしますし。でもキリスト教そのものじゃなくて、貿易とかに興味があるなら又話は別なのか。

>野村民部少輔是綱
『本藩人物誌』を改めてみたら2行ぐらいしか記述のない人で、全く印象無かったです。
>村田経平
『本藩人物誌』を読むと、この人も最後は妙な死に方をしてますね。村田氏も経平死後は家老になった人物がでなくて、パッとしなかった印象を受けますが。

しかし、重臣連中のキリスト教に対する妨害はすさまじいですね。単に仏教勢力を代表して利害関係から妨害したと言うより、生理的に受け付けなくて排除したという印象を受けます。

アルメイダ
桐野
ばんないさん

3回とも読んでいただき、有難うございます。
これらの一連の事件について、島津側にもう少し史料があればと思いますね。

島津氏がキリシタン禁制を正式に定めたのはいつの時期だったのでしょうね?
上井日記には天正11年以前に貴久が「いましめとして」とありますが、その後も交渉をもっていますから、果たしてどの程度の拘束力があったのか、よくわかりません。

また野村暗殺は、義久の太守権力の限界も見えるようで。義久の地位は、家中の諸勢力の均衡の上に成り立っており、それらの諸利害の調整が「公儀」としての役割だったような気がします。


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昨日は、甲東こと大久保利通の133度めの祥月命日でした。

午後から東京・青山墓地の甲東の墓所で、恒例の甲東祭が開催されました。私は少し遅れて出席。

今年は例年の墓前祭よりも参列者が倍近く多かったです。
初めての方や若い方が多かったのが特徴的でした。

甲東祭2

また大震災の影響で、灯籠が倒壊したり、ずれていたりしているのが散見されました。

慰霊祭終了後、近くの茶屋で、これまた恒例の直会(なおらい)。
参列者が多かったので、いつもの座敷はギュウギュウ詰めでした。
そのため、自己紹介も長くなり、1時間半ほどかかったか?

被災地の宮城・福島からも参列者がおいで。
安積疎水や野蒜築港の関係者の方々である。
身辺が大変な時期に参列されたことに、深い感慨を覚えた。
これも甲東の遺徳か。

直会終了後、いつものメンバーで場所を変えて二次会。
京王線沿線の沖縄料理屋です。
以前からの共通の友人がこのお店の主人と結婚したので、お祝いも兼ねて押しかける。
予定より少し人数が多かったせいか、少し窮屈だったが、沖縄料理と三線で盛り上がった。

直会の終了後、いつも二次会をご一緒する大久保利通の研究者、勝田政治氏(国士舘大学教授)が他用で参加されなかったが、論文抜き刷りをいただいた。感謝。

「征韓論政変と大久保利通」 『国士舘史学』15号 2011年3月

大久保日記にある有名な「一の秘策」とは何だったのか解明したものである。
よく知られた征韓論政変についても、基礎的な史実がまだ確定していない部分があると感じた。

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【2011/05/15 23:56】 | イベント
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講座のご案内です。
いよいよ一週間後に迫りましたので、再度お知らせします。

講座名「お江の生涯 ―信長・秀吉・家康の時代とともに―」

これまで何度か開催した武蔵野大学生涯学習講座のひとつです。
会場は、JR三鷹駅前のサテライト教室です。
テーマは大河ドラマに合わせた企画です。

第1回は、5月18日(水)13:00から始まります。
毎月1回の全5回です。

詳しい講座内容は、ここにあります。

問い合わせやお申し込みなどは、ここにあります。

大河ドラマとは少し異なる江の履歴や姿を提示するつもりです。
同時に、江と同時代の信長・秀吉・家康との関わり合いにも触れるつもりです。

興味ある方は受講してみませんか。

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【2011/05/11 19:36】 | 武蔵野大学社会連携センター
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どうでもいい話題ですが。

昨夜放映の「JIN~仁~」

薩長同盟の交渉が描かれていましたが、薩摩藩邸が錦小路藩邸というテロップが出ていました。
もともとフィクションなので、あれこれ言いたくないですが、薩長交渉は小松帯刀邸「御花畑」で行われています。せめて二本松藩邸(現・同志社大学今出川校舎)にしてほしかったですね。
錦小路藩邸は手狭で、この頃、ほとんど使われておりません。
間違ったテロップを出すくらいなら、単に「薩摩藩邸」とか「京都の薩摩藩邸」にしてほしかったですね。

あと、大久保が長州に先に頭を下げるべきだと主張していましたが、役者といい、いかにもステレオタイプの大久保でした。
大久保は龍馬を使者にして長州に行ってもらうほど、薩長同盟には積極的でした。龍馬が長州に持参した書状は「非義の勅命は勅命にあらず」という有名な文言が含まれているやつです。
ですから、大久保は長州に対しても丁重だったと思いますけどね。

タイムスリップドラマでも、基本的な史実は踏まえていただきたいと。
ほかにも突っ込みたいところはたくさんあったのですが、多くは言いますまい。

そうそう、時代劇に珍しく緒川たまきが出ていましたね。
彼女の名字は本名なんでしょうか?
知多半島の緒川と関係は?

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【2011/05/09 17:06】 | 雑記
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おがわたまき
ばんない
こんばんは。

緒川たまきさんの本名は「小林(旧姓「佐川」)典子」だそうです。ちなみに、「緒川たまき」になる前に「杉井麻里子」という芸名も使っていた時期があるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E5%B7%9D%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8D

時代劇への出演としては、1996年の『龍馬におまかせ!』がありますね。最もこのドラマを時代劇と言うかどうか、かなり微妙ですが(爆)。
また、あのある意味伝説の大河ドラマ『武蔵-musashi』にも出演されていたようですが、これは全然記憶がありませんでした。

緒川たまき
桐野
ばんないさん

緒川たまきのデータ有難うございます。
やはり本名ではなかったのですね。
「竜馬におまかせ」で凛とした千葉佐那を演じてから気になっていましたが、その後、本人の心境の変化か、事務所の方針転換かわかりませんが、森ガール風の「知性派タレント」へと転身しましたね。

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この間、多くの方々からご論著を頂戴した。
改めて御礼申し上げます。

いただいてから、だいぶ日にちが経ったものもあります。
ひとえに私の怠慢ゆえ、お許し下さい。

堀 新氏より
『織豊期王権論』 校倉書房 2011年2月

研究会仲間の畏友、堀さんがこれまで公表していた専論を体系的にまとめたもの。堀さんの研究の軌跡や問題意識がより一層明確になっており、個人的にも待望の新著である。
とくに序論の研究史整理は信長研究には必須の前提であり、私も折に触れ、読み返してみたい内容である。

タイトルにもなっている「織豊期王権」という概念提起は堀さんの研究活動のひとつの到達点だと感じている。
「王権論」は研究者の間では「超歴史的」とか非歴史学系の研究分野の概念だと考えられており不人気だが、堀さんはこれまでの研究史を踏まえつつ、中世・近世を貫く国家構造を「王権」論で把握することはそれほど唐突ではなく、むしろ「公武結合王権」としてとらえるほうが実態に即していることを強調している。
中近世における国家構造を何でも公武対立でとらえる傾向が依然強い。私はそれを実証を伴わない不毛な史観だと考えているので、その意味でも「王権論」はそうした傾向を克服する有力な概念装置ではないかと思われる。
堀さんはもちろん、「王権」概念についても緻密で高度な議論を展開しているが、小生の不勉強で咀嚼中である。

また、信長と官位、京都馬揃えと三職推任、勅命講和論、絹衣相論、平家物語と源平交替思想など、信長について必ず話題になる論点についても、個別の専論で実証的に論じており、興味深い。信長に関心を持ち始めた人は、これらの専論から入ればいいかもしれない。

ともあれ、織豊期研究の現状に一石を投じた意欲的な書である。


大西泰正氏より
「富川達安をめぐって―豊臣期宇喜多氏権力の一断面―」 『倉敷の歴史』2011年3月号
「花房秀成の来歴一端」 『戦国史研究』61号 2011年2月

近年、活況を呈する宇喜多氏研究の中心で活躍されている大西氏より論文2点頂戴した。
豊臣期宇喜多氏といえば、慶長4年(1599)の宇喜多騒動が有名で、それが秀家の権力のありようや豊臣政権との関係など多様な論点を含んでいる。
とりわけ、秀家と対立した一門や譜代重臣の動向も注目であり、大西氏は宇喜多氏権力の全容をとらえるためにも、これら一門・重臣たちの各論へと対象を広げつつあるように感じた。


天野忠幸氏より
①「戦国期における三好氏の堺支配をめぐって」 『堺市博物館報』30号 2011年3月
②史料紹介「荒木村重と織田政権」 『地域研究いたみ』40号 2011年3月
③「蜂須賀家政の徳島城築城をめぐって」 『戦国史研究』61号 2011年2月

三好氏研究で知られる天野氏より3点頂戴した。
①は、これまで堺=自治都市論が有名だったが、もはや過去の議論となりつつある。本稿では、環濠・堺代官(武家)・豪商など自治都市堺の表象ともいえるテーマに取り組んでいる。とくに三好氏の堺支配については詳しく論じており、新知見にも触れることができた。
②は荒木村重に関する史料紹介だが、尼崎城の位置づけが面白かった。しかも村重時代だけでなく、近世においても尼崎城の特殊な役割が感じられた。
③蜂須賀家政がなぜ徳島城を築いたかがわかる。


松田好史氏より
「大正期の常侍補弼と内大臣―新帝補弼から元老内大臣兼任方式へ―」 早稲田大学史学会編『史観』163冊 2010年

昨年暮れにいただいていたものです。紹介遅れてすみません。
松田さんは近代から昭和初期の天皇側近、とくに内大臣の役割などについて詳しく研究されている方。
昨年の甲東祭で知り合いました。先日も大久保利泰氏の講演会でおめにかかった。
まったくの専門外なので、論評する資格はないが、大正天皇期の補弼にあたる内大臣制度が実力のない公家から大山巌や松方正義などの元老クラスが任官したことにより、侍従長ほどの権限だった内大臣が無視できない政治力を発揮するようになる過程を跡づけている。
ポストはその任についた人によって権限が大きくもなり、小さくもなるということか。
これは当該期だけでなく、現代においても同様だろう。


川口素生氏より
『島津一族』 新紀元社 2011年4月

友人の作家川口氏より頂戴した。
タイトルのとおり、島津一族の名鑑的な本だが、鎌倉時代から明治維新後まで、主要な人物や家を網羅してある。支族(異姓分家)まで目配りしてあるのは好感がもてる。もっとも、個人的な好みだが、左からの横書きは読みにくいのが難。


吉満庄司氏より
『薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考』 沖縄大学地域研究所編 芙蓉書房出版 2011年2月

吉満さんは以前、鹿児島県資料センター黎明館の学芸員だった人。
その後、異動で徳之島に赴任された。
一昨年、同島で表題のシンポジウムが開催され、吉満さんはシンポの司会を担当、私も参加し、久しぶりにお会いした。
そのときのシンポをまとめたものが本になり、お送りいただいた。
奄美在住の弓削政己が基調講演をされ、原口泉、金城正篤、高良倉吉、幸多勝弘といった徳之島、沖縄、鹿児島本土の著名な研究者がパネリストをつとめられた。
私のコメントも少しだけ入っている。
吉満さんは近年、鹿児島市に戻っており、また新しい交流ができそうな感じである。


西田 茂氏より
『北の遺跡、南の遺跡(1)』 私家版

高校時代のサークルの先輩である。
私は高校時代、部活が考古学部だった。当時、高校としては珍しい部だったと思う。
西田さんは私より4学年上で、夏休みの地元での発掘調査に大学生として参加し、いろいろ教えてもらった。
私は初心というか原点から道がはずれてしまったが、西田さんはずっと考古学一筋で、鹿児島から北海道に移り、財)北海道埋蔵文化財センターに長らく勤務。近年定年退職された。
本書は高校時代から定年まで40年以上の考古学人生を振り返ったもの。
当然、私の足跡と一部重なっているが、同じものを見たり聞いたりしたはずなのに、だいぶ思いは違っていたり、私が事実誤認している点があって、微笑ましかった。

ほかにもまだありますが、長くなったので、今日はこの辺で。

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【2011/05/08 20:31】 | 新刊
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おつかれさまでした
市野澤 永
こんばんわ。

お世話になります。
昨日は江戸川区立東葛西図書館での講演、お疲れ様でした。

昨日、お話しました
高槻市しろあと歴史館
春季特別展
「城下町高槻のはじまり-信長・秀吉・家康の戦略-」
会期:平成23年3月19日(土)~5月15日(日) 

図録は現金書留、もしくは定額小為替で500円(送料は切手で210円)でお願いしています。
カラーで26・27頁に掲載されています。
釈文は43頁です。
同展示の関連講座である5月11日に催された「特別展の古文書を読む」でも利用されています。
天正十三年九月でした・・・

高槻市しろあと歴史館のホームページ
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/shiroato/index.html

こちらは、読もうと思っています↓

【書名】消された秀吉の真実-徳川史観を越え-て
【著者】山本 博文・堀 新・曽根 勇二編
【価格】\2,940(税込)
【出版】柏書房
【ISBN】978-4-7601-3994-1
【発行】2011年6月

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講演のお知らせです。

江戸川区東葛西図書館で、今月22日(日)14:00から催されます。
区外の方も申し込めるそうですので、お知らせしておきます。

詳しくは同区サイトのここをご覧下さい。

本日6日12:00より電話などでの申し込みを受け付けるそうです。

念のため、概要を下記に書いておきます。
興味のある方は参加してみませんか。

演題:歴史作家講演会「お江と信長・秀吉」
日時:2011年5月22日(日) 14:00~16:00
会場:東葛西コミュニティ会館 2階 集会室1・2
出演:桐野 作人 氏
対象:一般
先着50名
参加方法:5月6日(金)12:00~1階カウンター・電話にて受付。
定員になり次第、締め切ります。
[主催・お問合せ先]東葛西図書館 TEL:03-5658-4008


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【2011/05/06 12:33】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第192回
―市来鶴丸城と会堂建設―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回までの島津義久の縁起かつぎと関連があるテーマです。
ザビエルの薩摩訪問はよく知られていますが、その後、イエズス会がたびたび入薩していますが、あまり知られていません。その主役となったのが宣教師アルメイダです。彼の特徴は医者だったことでしょう。そのことが布教にも役立ったように思います。

アルメイダの入薩は20年余の間に3度に及んでおります。
一般には、島津貴久がキリシタン禁制を実施したといわれますが、その貴久さえアルメイダと会見し、布教を許可しています。

今回は、アルメイダの市来鶴丸城訪問で、島津義弘の家老として知られる新納旅庵も受洗した可能性を指摘しました。
城主康久の子どもで名前が判明しているのは長男の又八郎と三男長住(のち旅庵)だと書きましたが、たしか二男は久饒(ひさとも)だったことを付け加えておきます。
彼らのうち、ザビエルが上の2人、アルメイダがその下の2人を受洗させたという風にイエズス会の史料では読めます。そうだとすると、又八郎と久饒はザビエルが、三男長住はアルメイダがそれぞれ入信させたということでしょうか?

いずれにせよ、長住の入信は確実なところだと思われます。
もちろん、義弘の家老となった旅庵ですから、島津関係史料ではキリシタンだったという経歴は表に表れません。『本藩人物誌』には「幼少より出家いたし長住と号す」とあります。
長住は出家名ですから、「ながずみ」ではなく「ちょうじゅう」と読むべきなんでしょうね。
もっとも、仏教の出家だと思われがちですが、これがキリシタン入信のことを暗示しているのではないかとも憶測しているところです。「長住」も洗礼名に漢字をあてたのかもと考えましたが、適当な洗礼名が思い浮かびません。だから、私の憶測にすぎないかもしれないですね(笑)。

市来鶴丸城は、昨秋、日置市伊集院町で講演したとき、主催者の方に無理をいって連れて行ってもらいました。
立派な山城でした。もう夕暮れで、本丸曲輪にたどり着いた頃はだいぶ暗くなっており、いい写真が撮れませんでした。
そのため、今回は城の麓で少し明るいうちに撮影したザビエル像を掲載しました。
機会があれば、再アタックしてみたいものです。

次回はアルメイダの坊津行きや悪魔祓いを書く予定です。

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【2011/05/03 11:09】 | さつま人国誌
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長住
桐野
自己レスです。

新納旅庵の初名「長住」。
キリシタンの洗礼名の漢字表現だとすると、たとえば、ジョージのスペイン・ポルトガル語読みは何というのでしょうか?
「ジョルジュ」はフランス語か?


ジョージ
ばんない
こんばんは。

wikipedia情報なのでご参考程度に。
「ジョージ」はスペイン語読みでは「ホルヘ」になるそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8

もしかしたら
Holy
Joachimヨアキムというキリシタン名も割と近いかも?
「じょうちん」
「じょうち」
などになるようです。

クイズみたいですね(笑)。

洗礼名一覧
桐野
ばんないさん、Holyさん

ジョージはホルヘですか。全然違いますね(笑)。

ヨアヒムは何語なんでしょうね?

調べて見たら、ネットに洗礼名一覧がありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

平山常陳も
Holy
実はこのヨアキム=じょうちん に相当します。
神父さん達にとってはヨアキム平山だけど、
日本人向けに仮名表記・発音だとじょうちん。
長住。ちょうじゅう。苦しいですか(笑)。

なおヨアキムそのものはギリシャ語で、
ヘブライ語のエホヤキムが語源です。
マリア様のお父さんの名前です。
スペイン語化するとホアキン、
ポルトガル語化するとジョアキンになります。

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このところ更新がままなりません。
ご恵贈いただいた論著もたまっています。早く紹介してお礼を述べないと。

簡単に日次を。

4月21日(木)
新出の西郷隆盛書簡を某古書店より購入。
『西郷隆盛全集』にも収録されていないし、西郷の生涯でも重要な転機となった一件に関わるものだけに貴重な史料だと思う。
もっとも、大した散財でございました、はい。
そのうち公表したいと思うが、なかなか読みづらい(汗)。

夕刻、新刊拙著『江の生涯を歩く』(ベスト新書)の見本届く。
編集担当者のYさんとささやかな一献。

4月23日(土)
11:00から目白の学習院大学で、大久保利泰氏(利通曽孫)の講演を拝聴。
同大学講座主催だったにもかかわらず、多くの受講者。そのために、教室が変更になったほど。
とくに、甲東が明治初年に政府の揺るがぬ方針を厳守する建白三カ条草案の写真版を初めて見た。甲東の筆は読みやすい(西郷と比べるととくに)。また先日の展示で見損ねた明治20年代の甲東の墓(青山墓地)の古写真も拝見。ほんとに洋風な神式墓地である。

終了後、利泰さんにご挨拶。
その後、新旧の研究者仲間とお茶。古写真研究の大家である石黒敬章氏もお見えで、ご挨拶。

4月26日(火)
午前中に佐倉の歴史民俗博物館に木戸孝允家写真の展示会を見学。
相変わらず佐倉は遠い。

4月28日(木)
午前中、新幹線で名古屋へ。
午後から中日文化センターの講座「信長公記を読み解く」に出講。
もう第4クールの4回目。つまり、22回目である。
相変わらず多くの受講者がおいでで感謝するばかり。

今回は薄濃と蘭奢待と賀茂競馬について。
とくに信長の蘭奢待切り取りに時間をかけた。
蘭奢待については、近年の金子拓氏の研究がある。
それに拠りながら、傍若無人な信長、天皇を圧迫する信長という従来のイメージがいかに史料に基づかないフィクションであるかを強調。
とくに金子氏が「内侍宣」と名づけた宮廷女官の文書を詳しく読み解く。
正親町天皇の非難が信長ではなく、藤氏長者の関白二条晴良に向けられていることを確認。

終了後、上洛。
友人の研究者中村武生氏の紹介により、京都新聞のS記者とお会いする。
新刊拙著について取材を受ける。有難い。

その後、中村氏の研究室に行き、彼のグループの方々と懇談、宴会。
スーちゃん追悼のため、キャンディーズの曲が流れるなか、夜が更けた。

29日(金)
これまで積み残していた史跡や新たにめぐりたい史跡を終日見て回る。
京都の友人に貴重な情報を教えてもらって、某寺址で豊臣秀次・秀勝兄弟の父、三好吉房の墓発見。松永久秀もあった。
また某寺某塔頭の見事な宝筐印塔群を参拝。
おそらく豊臣完子(江の一女)の正式の墓はここにある。
鳥羽伏見の戦いで戦死した長州藩兵士の墓も見学した。
おそらく10キロ以上歩いたはず。とくにアップダウンが多くてつらかった。おかげで、足が棒のようになり、ふくらはぎに乳酸が溜まりました。
帰りの新幹線は爆睡でした(笑)。

4月30日(土)
南日本新聞「さつま人国誌」の原稿執筆。
当初考えていたテーマを形を変えて書くことに方針変更。
正しい判断だと思うが、その代わり、作業量が増えてあたふた。
その間、出入りもあり集中できず、ようやく夕方に送稿。

5月1日(日)
朝、身内の法事のため、埼玉県某市斎場へ。
以前行ったときはすごく遠かった記憶があるが、湘南新宿ラインのおかげですぐ着いた。
久しぶりに甥と姪に会う。
雑誌記事の校正はかどらず。
マツノ書店より新刊復刻の『回天艦長甲賀源吾伝』『維新史料編纂会講演速記録』一~三をご恵贈いただく。感謝。
詳しくは同店サイトのここをご覧下さい。関心のある方はお問い合わせ下さい。

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【2011/05/02 09:51】 | 日次記
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