歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

先週の23日(木)は恒例の月一の名古屋中日文化センターの講座でした。

信長公記を読み解く」の講座もいよいよ佳境に入ってきました。
今回は「長篠合戦①」でした。
決戦に至るまでの経緯を、信長方、家康方、勝頼方それぞれの史料を使って確認しました。

おそらくこの講座では初めてだったと思いますが、プロジェクターを使って長篠古戦場跡の写真を20枚ほど見てもらいました。
とくに、鳶ノ巣砦から長篠城を見下ろすアングルは、受講生のみなさんの反応もよかったように感じました。
あの地点に立てば、長篠城は人の動きまで丸見えです。
太田牛一が『信長公記』巻八で、「勝頼があそこ(鳶ノ巣山)に陣取れば、(さすがの信長も)どうしようもなかったのに」と述懐していますが、まさにその通りの要害ポイントだと思います。

今回もレジュメの枚数が多く、最後の3枚は読み切れませんでしたので、次回まわしです。
次回は「長篠合戦②」で、7月28日(木)開催です。いよいよ決戦になります。
史料も迫真の場面がいくつも書かれています。

興味のある方は7月から改めて始まる講座「信長公記を読み解く」(毎月題木曜日、6回)に参加してみませんか。
詳しくは中日文化センターサイトのここにあります。

問い合わせや申し込みは同サイトのここをご参照下さい。


講座終了後、名鉄名古屋駅に急いだ。
知多半島の南端、野間大坊に行くためである。
以前から行きたいと思っていながら、ようやく実現した。
特急に乗ったら、1時間足らずで野間駅に着いた。

野間大坊(大御堂寺)という古刹には、源義朝と織田信孝(信長三男)の墓がある。
義朝だからといって、来年の大河ドラマの取材ではありません(笑)。
むしろ、信孝の墓を前から見てみたいと思っていたからです。
義朝の墓があるだけに、子の頼朝や鎌倉幕府から大事にされたお寺だということがよくわかります。
いくつか写真を紹介します。

野間大坊大門
源頼朝が寄進した野間大坊大門

義朝墓
源義朝の墓

太田平右衛門
織田信孝の墓前にあった寄進石碑

何と「太田和泉□□十二世□(孫か) 太田平右衛門」と読み取れました。
おそらく『信長公記』の筆者太田牛一の12代目の子孫でしょう。時代はもう明治のようです。
不明2文字は摩耗が激しくてよくわからないのですが、「牧蔭」と読める気もします。「牧」には地方長官という意味がありますから、「和泉守」の意でしょうか? 詳しい方がおいでならご教示下さいませ。

安養院
信孝が兄信雄の命で自害したのが、野間大坊のすぐ近くにある安養院だとか。自刃の間が再建されており、自刃の脇差などを同院が所蔵しているそうです。信孝の辞世といえば、

「昔より主を討つ身の野間なれば 報いを待てや羽柴筑前」

があまりにも有名です。
「討つ身」がご当地の「内海」にかけてあり、内海野間は平治の乱で敗れた源義朝が落ち延びてきて、長田忠致父子に湯殿で謀殺されたいわくつきの場所。
その地で信孝も自刃に追い込まれるわけで、自分を義朝、秀吉を長田父子になぞらえているのでしょう。
ただ、信孝自害は信雄の意向が強い気がしますが……。

それで、近くの丘陵に、その長田父子が頼朝によって処刑されたという「磔の松」がありました。
もっとも、すでに枯れていて切り株があるだけでした。

磔松

こちらも処刑された長田忠致の辞世が書かれていました。

「ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまはり」

長田は官途が壱岐守だったようです。最後に「壱岐」より大きい「美濃尾張」という大国を賜ったというわけですが、「壱岐」は「生き」か「息」、「美濃尾張」は「身の終わり」にかけられているようです。なかなか秀逸ですね。

とにかく暑い一日でした。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

スポンサーサイト

【2011/06/28 19:46】 | 信長
トラックバック(0) |

太田平右衛門について
ハンク
こんにちは。太田平右衛門について。よくは知らないのですが、同人は、織田信孝の家臣、太田監物の子孫のようです。代々平右衛門を襲名し、刈谷の御用達です。殖産興業家です。屋号は和泉屋のようですので、太田牛一とは関係ないのかもしれません。

屋号
桐野
ハンクさん

貴重な情報有難うございます。
信孝の家臣の子孫なら十分あり得ますね。
考えてみれば、太田牛一は信孝と直接の主従関係にありませんから、寄進する理由はふつうないですね。
それにしても、名字が同じだけでなく、屋号も和泉屋とは! 牛一の官途名との偶然の一致に驚くと共に、見事に惑わされてしまいました(汗)。


寄進石碑の件
ヨクロー
はじめまして
K2さんのブログからやってきました。

前出の方のおっしゃるとおりで、太田監物の子孫です。

「信孝公秘史」によれば野間まで落ちてきた時は太田姓を名乗る25人が奉仕しており、自刃に際して介錯の役を勤めたのも太田新右衛門源吉家であった…と野間史にあります。
その25人の中に太田和泉守牧陰という人物がおり、牧陰はその後一族と共に、信孝の墓守をしていました。
牧陰の孫の徳右衛門が承応4年(1655年)刈谷の地に移り住んで「和泉屋」の看板を掲げ、酒造業をはじめました。宝永5年(1708年)酒造業をやめ、商売に転じ、米、木綿など色々な物を取り扱いました。そして現在、大田商事(http://www.ota-shoji.co.jp/index.html)としてあらゆる分野で商売の発展を遂げ、ご活躍されています。
やはり、寄進石碑も当時の和泉守牧陰の子孫の方によるものだと思います。

御礼
桐野
ヨクローさん

K2さんのところで、よくお名前は拝見しております。
この度は刈谷の太田家の由緒などをご教示いただき、有難うございます。
信孝の家来たちのその後はまったく知らなかった話でした。


コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第199回
―義久の家督問題に関与―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回から2回にわたり、平田増宗を書きます。
平田増宗といえば、島津義久の晩年の老中です。その頃には老中制は崩壊したともいえますが、一番の側近だったことは間違いありません。
これまでも増宗について何度か触れていますが、単独で正面から書いたことはありませんでした。戦国島津氏と近世島津氏の移行期のはざまで埋もれてしまい、忘れ去られてしまった人なので、ちゃんと書いておこうと思いました。

記事に載せた写真ですが、東山の今熊野観音寺で、「平田太郎左衛門尉」という文字を見たときには驚いた覚えがあります。「おおっ、ここに増宗の痕跡が残っていた」という感慨がわき起こりました。
それを見てからもう数年たちましたが、ようやく記事にできました。

ちなみに、増宗の平田家は平田氏の嫡流でしたが、弟宗親も自害を命じられ、一族みな滅んでいます。
木曽川の普請で有名な平田靱負は同じ平田氏の分家のほうで生き残った子孫です。

次回はいよいよ記念すべき200回ですね。
増宗の暗殺場面を書く予定です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング



【2011/06/27 20:10】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
鹿児島市の黎明館で現在、表題の展示会を開催しています。
期間は8月21日までです。

詳しくはここです。

かなり意欲的な企画展なので、すごく観てみたいです。
8月25日に帰鹿する予定があるのですが、間に合いませんね。
7月2日13:30から同館学芸専門員の新福大健さんの解説講座があるようですが、私も別の講演と重なっているのでいけません。
となると、来月か再来月に何か用をつくるか。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/06/25 00:17】 | イベント
トラックバック(0) |

鹿児島行き
調所
新福先生は先日、展示物の件などでお会いしましたが、ものすごく真面目で熱心な方でした。些細な要望もすぐに対処して下さり大変信頼しております。

コメントを閉じる▲
が綾瀬はるかになりましたね。
民放の人気番組の主役を使うというのが、最近のNHKの流儀のようです。

じつは一昨日の私の講座のあとの二次会で、はるかちゃん主役のニュースが流れる前、だれが八重を演じるのがいいかで話が盛り上がり、結論は「松たか子」だったのですが、見事に外れました。
松たか子は「篤姫」のときも有力候補だったように記憶していますが、大河とは子役以来、相性が悪いのでしょうか?

せっかくなので、実在の新島八重のお墓の写真を載せておきます。
京都東山の若王子山にある同志社墓地に、夫新島襄と並んで立っています。襄の墓の揮毫は勝海舟です。

新島八重

再来年はこの墓所詣でで賑わうことでしょうね。
しかし、墓所までは相当登らないといけません。1時間ほどだったでしょうか。しかも、この一帯は猪が出没します。私が登ったときも地面のあちこちに猪が掘り返した痕跡を見つけました。

なお、この墓所の片隅には、中村半次郎(桐野利秋)の京都時代の恋人だった村田さとの墓もあります。
以前、連載の記事にしたことがあります。ここです。
さとは新島夫妻から洗礼を受けてキリスト者になり、同志社に勤務しました。
ドラマにはぜひ彼女を、ついでに半次郎も登場させれば面白いですけどね。
戊辰戦争で処刑されそうになる八重の兄、山本覚馬を助ける役にしたらどうかと思いますが……。
何より半次郎は鶴ヶ城開城、松平容保降伏を差配した軍監で、会津との縁は浅からぬ人ですけどね。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/06/24 00:06】 | 雑記
トラックバック(0) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第198回
―追分戦争で行方不明に―

先週は休刊日だったのでお休みでしたが、連載が本日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回はおそらくほとんど知られていない薩摩藩士を書きました。
しかし、赤報隊と深く関係した人物だと思われます。おそらく焼き打ちに遭った江戸の薩摩藩邸にいた人物です。

友人の研究者西澤朱実さんの『相楽総三・赤報隊史料集』(マツノ書店刊)の編纂に協力していた頃から注目していた人物です。
もう少し情報がないか、ずっと留意していたのですが、不勉強もあってそれ以上の史料を見出せません。
相楽たちとの思想的紐帯といえば、平田国学門下かと思いましたが、門人帳に名前はありませんでした。
幕末維新期の殉難者を集成した『殉難録稿』にも立項されていません。

また鹿児島側の史料では、天保13年(1842)の『薩藩沿革地図』や安政6年(1859)の『旧薩摩藩御城下絵図』に記載されている人名を収録した『鹿児島城下絵図散歩』(塩満郁夫/友野春久編、高城書房刊)があります。
巻末に戸主の人名一覧があり、それを見ると、竹内名字は意外と多く、鹿児島城下に14戸(13名)記載されていますが、健介は見当たりません。
もっとも、竹内健介は若者で、まだ家督を継いでいない可能性がありますから、この14戸のどれかの家に属しているかもしれません。もしご存じの方がおいでならご教示いただけると有難いです。

記事にも書いたように、西澤さんは赤報隊が抹殺された理由は「年貢半減令」よりも追分戦争が深く関わっていると推定されています。
相楽たち赤報隊は中山道を進む薩摩藩に配属され、しかも竹内が隊内にいたのですから、「偽官軍」の噂が立っても大丈夫だと楽観していた面もあるかもしれません。それほど薩摩藩の後ろ盾が大きかったからでしょう。

しかし、追分戦争が起きてみると、小諸藩など中山道諸藩は東山道総督府が出した「偽官軍」の回章に従って行動したわけで、総督府としてもその処置に苦慮することになり、ついには赤報隊にすべて責任転嫁する決断をどこかで下したのだと思われます。
そのあたりは、西澤さんが今後明らかにしてくれることを期待しております。

その追分戦争で竹内は行方不明になりました。捕虜になったのならば、薩摩藩士だと名乗れば、小諸藩なども手が出せないでしょうから、釈放されたはずです。おそらく戦闘に巻き込まれて戦死、もしくは戦傷死したのではないでしょうか。
いつ、どこで生まれ、どのような経歴をもった薩摩人だったのか、明らかにできないことが残念です。

次回はいくつか候補があるのですが、一長一短で、どうするか迷っているところです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/06/20 22:28】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |

赤報隊志士名簿
ながお
桐野様 こんにちは

ご存知だとは思いますが、私の手元にある「赤報隊志士名簿」(愛知県愛知郡の秦荘町歴史文化資料館 平成7年度秋期特別展図録のコピー)によれば、竹内健介は、「辰正20 京都薩邸より赤報隊に加わる。辰2・17 北信分遣隊大砲方長、追分で討死。」となっています。この名簿は高木俊輔著「明治維新草莽運動史」が基になっています。

竹内健介
桐野
ながおさん

高木俊輔さんのは見ておりますが、竹内健介が戦死したかどうかは史料では確認できないと思います。
まあ、戦死したのはほぼ間違いないとは思いますが。

コメントを閉じる▲
講演のお知らせです。

来る7月2日(土)13:30より、愛知県知多市立中央図書館にて、江をテーマにした講演を行います。
詳しくは同館の「図書館だより」のここに告知のPDFがありますので、ご覧下さい。

知多半島といえば、江の最初の夫、佐治一成(大野城主)の地元ですね。
それにふさわしいタイトルにしました。
佐治氏はあまり知られていませんが、なかなかの名族です。
また一成は徳川系史料に「(秀吉の)相聟にふさわしからず」という一節があることから、ダメ夫にされていますが、どうもそうではない気がします。江の最初の縁組は再検討する必要があるのではと最近思っています。そのような思いを語るにふさわしい場所だと思っています。
興味のある方はご参加下さい。

念のために、概要を書いておきます。

歴史講演会

演題:「江」と尾張・美濃 ―佐治氏と信長・秀吉・家康―
講師:桐野作人
内容:今年の大河ドラマの主人公「江」を中心に、佐治氏、織田・豊臣・徳川の縁について考えます。

日時:7月2日(土)13:30~15:00
場所:知多市立中央図書館 2F 視聴覚学習室
MAPはここです。名鉄常滑線古見駅下車、バスがあるようです。
募集人員:120人(申し込み順)
募集期間:6月11日~26日
参加費:無料
問い合わせ:知多市立中央図書館(0562-55-4349)


よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング



【2011/06/19 17:10】 | イベント
トラックバック(0) |
先週末、幕末関係のイベントをこなした。

11日(土)は午後から吉祥寺で開かれた幕末史研究会で講演。
テーマは「薩摩藩から見た龍馬暗殺」。
多くの参加者あり、感謝。お久しぶりにお会いする方々もおいでだった。
レジュメがB4で11枚だから、90分でおさまるはずがなく、案の定、120分かかった(汗)。
それも最後は駆け足で、読み飛ばした史料もあり。相変わらずである。
それでも、終了後は認識を新たにしたという感想もいただき安堵。
懇親会でも盛り上がった。

12日(日)午前中、浦安に出かける。
明治維新史学会の大会に出席するため。
新浦安の駅でMさんと合流。
最初の報告の途中から入場。
結局、4本の報告をほとんど拝聴できた。
とくに最後は明治初期の要人の葬儀についての報告で、大久保利通の国葬に準じる葬儀によって国家儀礼としての国葬体制が成立したという指摘は興味深く聴いた。また伊藤博文を中心にわずか3日間ほどで急ぎ準備し、欧州の国葬事例を調べるなどあわただしい舞台裏もよくわかった。
国葬に準じるとはいえ、葬儀を取り仕切った人々の半数近くは旧薩摩藩出身者だったこともわかった。とくに中井弘が仕出し弁当の手配係で、思わず笑ってしまう。1000人以上の参列者があったから、仕出しの手配も大変だったろうと思う。

この報告の前に、利通曽孫の利泰さん父子が会場にお見えになって驚く。
じつは大会のちょっと前に、この報告があることをお知らせしておいたが、まさか出席されるとは思わなかった。
利泰さんは以前から利通の葬儀のあり方について関心をお持ちで、大久保家所蔵の葬儀要領の史料を見せていただいたこともあったから、遠方でもおいでになったのだと思う。

終了後、友人の方々と懇親会。
ただ、ある出版情報を教えてもらい、大変ショックを受けた。自分の怠慢を悔いることしきりだった。

浦安は震災でかなり被害を受けた所。町中のあちこちに液状化によって吹き出した砂がたくさん残っていた。かなり修復されたはずだが、街灯が傾いていたり、段差があちこちにあって、被害の痕跡が痛々しかった。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/06/16 23:41】 | イベント
トラックバック(0) |

自分の怠慢を悔いるショックとは?
ノブ
>ある出版情報を教えてもらい、大変ショックを受けた。自分の怠慢を悔いることしきりだった。

と、述べられておりますが、桐野様が、おおきなショックを受けたとは、とても気になりました。
 何か、その後、公表もないので、やや心配もしております。
 どのような事件か、分る範囲でお教え下さい。


何というか
桐野
ノブさま

やりたいと思っていたテーマ、先を越されたということです。お察し下さいませ。

コメントを閉じる▲
JIN、前シリーズはヒューマニズムにあふれていてとてもよかった。

それにひきかえ、今シリーズは中谷美紀の熱演でもっているものの、近江屋事件が近づくにつれて、どんどんひどくなる。

もともとタイムスリップドラマだから、細部のフィクションの設定はかまわない。
しかし、史実の骨格を守らないと台無しだよ。
それこそ歴史を安易に修正すれば、仁先生のように頭痛がするくらい痛い目に遭うよ。

大久保一蔵が見廻組の連中に龍馬の居場所を知らせるなんざ、5年ほど前の大河「新選組」で、西郷吉之助が佐々木只三郎に龍馬の居場所を耳打ちするシーンと同工異曲で、陳腐で俗っぽくて、噴飯ものだ。

そもそも、近江屋事件までのほぼ一カ月、大久保も西郷も鹿児島に帰国している。
近江屋事件の当日夜、大久保はようやく上京、西郷に至ってはまだ玄界灘の海の上だよ。
一体どうやって、大久保が見廻組に知らせられるんだい。
こんな絶対的な史実さえ無視して興ざめだねえ。

さらにいえば、大久保は事件直後、岩倉具視との往復書簡のなかで、龍馬と中岡の死を悼み、「遺憾」の意を表し、「慨すべし、惜しむべし」と述べている。これはたしかな一次史料に書かれており、大久保の使嗾説を採るなら、それを偽文書とするか、内容がウソだとする論証が必要である。

タイムスリップものは、逆説的だが、史実の骨格を守るなかで一条のフィクションを差し挟んでこそスリリングで緊張感が出て感銘を与えられると思う。フィクションにフィクションを混ぜてもねえ。
こんな安易で不勉強な作り方では、前シリーズの感動が台無しになってしまったねえ。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング



【2011/06/14 23:03】 | 信長
トラックバック(0) |

同感です
ながお
桐野様 こんにちは

「JIN」は最初の頃は観ていましたが、もうやめました(笑)。家人が好きなので、毎回あらすじは教えてくれくれるのですが、龍馬のことを聞いて「大河」と同パターンだなと思っていました。TBSは他のドラマでも歴史を軽視することがあって、憤慨しているところです。

無念
市川
ドラマ「JIN」は都合上見れないのですが、昨今の大河と同じでやっちまいましたか。
どうしても幕末の薩摩と龍馬は相容れない関係にしないと気が済まないようですね。
このようなものが主流として流布されていると思うと、大久保や西郷にとっては龍馬以上に無念でしょう。

同じ思いです。
さくら
桐野先生はじめまして。

仁は原作の漫画のファンで、ドラマも見ていたのですが今期からは見なくなってしまいました。
その一番の原因は、漫画の原作をあまりに変えてしまったドラマのシナリオにあります。

龍馬暗殺の件についても同様で、伊東甲子太郎が新撰組や見廻組、長州や薩摩にも坂本を斬るべしと主張する連中がいる、と述べるにとどまっているだけです。
このような原作の改変は本当に止めて欲しい、と心から願ってやみません。


桐野
ながおさん、市川さん、さくらさん

みなさん、同じ思いのようですね。
せっかくいいドラマだと思ったのですが、竜頭蛇尾というか、終盤がお粗末で残念です。

コメントを閉じる▲
お知らせが遅くなりましたが、

13日(月)は新聞休刊日で、「さつま人国誌」はお休みでした。

次回は20日(月)掲載です。
まずほとんど知られていない某薩摩藩士が戊辰戦争中の某重大事件に関わっていたことを書きました。
お楽しみに。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/06/13 23:28】 | 信長
トラックバック(0) |
来月講演のお知らせです。

坂本龍馬の友人だった三吉慎蔵の子孫がお住まいの長野県上田市に「米熊・慎蔵・龍馬会」という団体があります。「米熊」は慎蔵の息子のことです。

この団体から講演の依頼がありました。
じつは昨年、同じ上田市の池波正太郎真田太平記館で講演を行いましたが、そのときのご縁です。
要領は下記のとおりです。

日時:7月9日(土)14:00~から同会総会
   講演は15:10~16:00 
会場:上田商工会議所5F会議室
   MAPはここをご参照下さい。
演題:「赤松小三郎そして中村半次郎(桐野利秋)」(仮題)


なお、申し込み先、申し込み方法は後日ご連絡します。

上田は幕末の洋式軍学者赤松小三郎の郷里であり、中村半次郎こと桐野利秋に暗殺されました。私が薩摩産で桐野という名字であるのも何かの縁で招かれた一因でしょう。
講演会終了後、懇親会もあるそうです。
興味のある方はご参加下さい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/06/10 21:05】 | イベント
トラックバック(0) |
再度のお知らせです。
今週末の11日(土)に迫った講演です。
主催は幕末史研究会です。

テーマは龍馬暗殺、近江屋事件です。
薩摩藩側から見た同事件をとらえます。
同事件について、とくに薩摩藩側の基本的な史実が共有されていないことが、薩摩藩黒幕説というミスリードを生み出す根源となっています。そのあたりの誤解を解明する趣旨でもあります。

日時・会場・テーマなど詳しくは、同会ブログのここをご覧下さい。

第186回例会
日時:2011年6月11日(土) 午後2時 ~ 4時
会場:武蔵野商工会館 4階 JR中央線吉祥寺駅北口徒歩5分
講師:桐野 作人 氏 歴史作家
テーマ:「薩摩藩から見た龍馬暗殺」
内容:龍馬暗殺について薩摩藩黒幕説が根強いが、ほとんど根拠がない。薩摩藩が龍馬暗殺にどのように対処したか、一次史料をもとに明らかにする。


よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/06/08 15:48】 | イベント
トラックバック(0) |


おな
おなです。
講演を拝聴しました。資料を用いて分かりやすく聴きました。なるほどと納得しました。

龍馬が現代のヒーローだけに、龍馬暗殺をミステリアスに扱う結果が、薩摩藩黒幕説に拍車をかけているのでしょう。
推理小説風な犯人追求「誰が得したか」も、結果論での推測が根拠でしかないのですが、そのあたりの検証も、次回に聴いてみたいものです。



コメント御礼
桐野
おなさん

わざわざご挨拶痛み入ります。

近江屋事件については、ご想像のとおりかもしれませんね。
でも、それは下手をすると、歴史をもてあそんで逆効果になる場合もありそうです。

単に推理云々というより、時代の歴史観や価値観がなにがしか反映しているようにも感じています。


残念です
卯月かいな
こんにちは。
非常に興味があるところなので、講演ぜひとも拝聴したかったです。地方はこういう時つらいですね。残念です。
「JIN」の記事も同感です。薩摩黒幕説はなかなか払拭されませんね(苦笑)

Mさん
桐野
卯月かいなさん

東京にはちょくちょく来れませんものね。
ご友人のMさんはおいででした。
いつか機会がありましたら、おいで下さい。

コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第197回
―小松帯刀折伏はどちらか―

昨日連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回も高崎正風の日記を取り上げましたが、今回は正風とそのいとこにあたる五六について書きました。
2人は慶応年間に興味深い動きをしています。幕末薩摩藩の当該期の動向を語る場合、無視できない存在だと思いますが、討幕史観の影響が強いせいか、あまり注目されません。

私が個人的に感慨を覚えたのは、青山墓地にある両高崎の墓を参拝したとき、2人の墓が同じ区画にあったことです。正風の墓は個人墓で、ちゃんと名前が刻んでありましたが、五六のほうは家名しか刻んでなく、脇の墓碑に小さく名前があるだけでした(記事写真をご参照下さい)。
紙面には載せられませんでしたので、正風の墓の写真を載せておきます。

高崎正風

今回は、2人の動向のなかで、もっとも重要な政治活動だった小松帯刀説得工作について書きました。
工作といっても、具体的に小松との間にどのような話がなされたか不明です。

今回は、この小松を説得した高崎は、正風なのか、五六なのかという点にも触れました。
五六の日記や手紙が残っていないなか、正風の日記に当日、小松邸を訪れたと書かれているので、正風だと私も思っていました。
しかし、寺村左膳の日記をよく読むと、五六だったのではないかと思われます。その日記には「高崎伊太郎(猪太郎)」と書かれているからです。寺村が両高崎を混同していないとすれば、五六の可能性が高いのではないでしょうか。

この一件について、土佐藩参政の寺村左膳の手記に、高崎の度重なる説得に堪えかねた「小松が妾宅に逃げ込んだ」という記事があまりに印象が強いために、近年、小松が両高崎に説得されて「討幕派」から脱落したという評価もあります。

しかし、そうした評価を下すにはもう少し史料的な裏付けがほしいと思います。また史料を額面通りに読むだけでいいのかという面もあります。史料に当事者の本音や真意が示されているとは必ずしもいえないからです。とくに慶応3年(1867)後半の政局は複雑で、小松たちの言動も巧妙かつ政治的になされていますから、なかなか難しいところだと思います。

個人的には、小松・西郷・大久保のトリオの結束は堅い一方、役割分担があったのではないかと考えています。小松は対土佐担当のため、後藤らに宥和的な態度をとったり、また公家たちにもそのような応対をしている可能性があります。そのあたりの見極めが重要ではないかと思われます。

次回は何にするか、まだ思案中です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング





【2011/06/07 10:15】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
本日6日の読売新聞夕刊の大きな記事。
ここです。

京都発の記事です。
狩野永徳が描いたとされ、大徳寺が所蔵する信長肖像画。
数ある信長の肖像画のなかで、もっともリアルだといわれています。

その肖像画を調査したところ、その下地に別の信長肖像画が描かれていることが判明しました。
記事にあるとおり、派手な衣装で大刀も帯びている信長です。

じつは、この肖像画を分析した論文へのコメントを担当記者から求められました。
しかし、残念ながら上記のネット版記事では省略されています。
大阪版、東京版の紙面にはちゃんと掲載されているようです。

私のコメント部分の前後のみを抜粋しますと、

秀吉が書き直しを命じたとすれば、どんな意図があったのか。
歴史作家の桐野作人さんは「天皇から桐紋を賜った秀吉が、信長の桐紋を目立たなくすることで、自分の権力を誇示したのでは」と推測する。


口頭でしゃべり、要点は2点だったのですが、長い話だったせいか、紙数の関係で1点は削除されたようです。
補足しておきますと、

書き直される契機があるとすれば、やはり秀吉の天正寺建立に向けたものではないのか。
秀吉は大徳寺総見院の造作が気に入らず、立て直すことを考えます。それが大徳寺から独立した天正寺構想です。
信長の三回忌当日、秀吉から古渓宗陳に宛て、天正寺建立のため多量の金銀・米が与えられています。それに合わせて、秀吉が描き直しを命じたのかもしれません。
なお、天正寺は構想のみで、建立されませんでした。

あと、私のコメントで桐紋について触れました。
最初の肖像画では、桐紋は大きく目立つように描かれているのに対し、書き直されたものは地味で目立たなくなっています。
その違いをコメントのように解釈したわけですが、前提条件が省かれていますので、補足しておきます。
ひとつは、秀吉への桐紋授与がいつ、誰からなのか不明なこと。
もうひとつは、新たに見つかった肖像画の桐紋を実見していないので、あくまで個人的な印象として語ったということです。

いずれにせよ、興味深い事実が浮上してきましたね。
展示があれば、ぜひ見に行きたいと思います。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング




【2011/06/07 00:31】 | 信長
トラックバック(0) |


市野澤 永
こんばんわ。
お世話になります。

本件の肖像画ですが、以前から頭頂部が気になっていました。
総髪とは思えませんが・・・

常在寺の道三像には髷らしきものが見えますし、肖像画も奥が深いですね。

下記の報道も興味深いですね。

信長祖先墓か、石造に「親眞」銘 越前町・法楽寺、町教委が調査へ
(「福井新聞」)
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/28540.html

頭頂部
桐野
市野澤さん

信長の頭頂部は考えたこともなかったですが、よく見ると、たしかに薄いというか、月代が広いですね(笑)。

光秀が附髪を着けていたという話もありますから、意外と面白い問題かもしれません。

また情報提供も有難うございます。




三楽堂
なにか信長の考古・美術関係記事が続きますね。

国内城郭で最古 小牧山城石材に「佐久間」墨書
http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/110609_3.htm


佐久間?
桐野
三楽堂さん

小牧山城の墨書文字ですが、「佐久間」読みは再検討の余地ありそうですね。

石垣墨書
三楽堂
石垣、一般公開があるようですが・・・
こちらでは、やや大きな写真がございますね。

http://www.city.komaki.aichi.jp/contents/10000259.html

http://www.yomiuri.co.jp/photonews/article.htm?ge=614&id=113770

あ、HNでおじゃましてしまいましたが、今福ですどうも(^^ゞ



桐野
三楽堂さん

墨書文字、反響が大きいだけに、いろいろ波紋がありそうですね。

例の原稿はいま思案中です(汗)。


コメントを閉じる▲
国会内外の騒動は一時、総選挙近しと思わせました。

結局空騒ぎに終わりましたが、政界ではなく芸能界では近々「総選挙」があるそうですね、何とか48というグループの。

私はよく知らないのですが、このグループ名の48の由来は何なのでしょうか?
語呂が良いからとか、忠臣蔵の47士をなぞったとか、あるんでしょうかね?

先日、私の某講座の2次会で48といえば、かの結社があるじゃないかと話題になりました。

それが表題のSCG48です。

何だかわかります?

ヒントは幕末薩摩藩の政治結社といえば、もうおわかりでしょう。

そう、精忠組(誠忠組とも)のイニシャルです。

この初期メンバーが列挙されている安政6年(1859)の「薩藩同志者姓名録」を数えると、ちょうど48名です。以下、書き上げてみます。[ ]内の数字は人数。

[大島渡海01]
菊池源吾(西郷隆盛)

[在藩34]
堀仲左衛門(伊地知貞馨)、岩下佐次右衛門(方平)、大久保正助(利通)、有村俊斎(海江田信義)、有馬新七、吉井仁左衛門(友実)、奈良原喜左衛門、伊地知龍右衛門(正治)、鈴木勇右衛門、税所喜三左衛門(篤)、樺山三円、中原猶助、山口金之進、本田弥右衛門(親雄)、高橋新八(村田新八)、森山棠園、森山新五左衛門、江夏仲左衛門、奈良原喜八郎(繁)、永山万斎(弥一郎)、野津七左衛門(鎮雄)、道島五郎兵衛、大山彦助、坂本喜左衛門、大山角右衛門、野本林八、山之内一郎、有村如水(国彦)、野津七次(道貫)、高橋清右衛門、中原喜十郎、鈴木源右衛門、鈴木昌之助、西郷龍庵(従道)

[在江戸06]
有村雄助、有村次左衛門、山口三斎、田中直之進(謙助)、高崎猪太郎(五六)、益山東碩

[旅行04]
仁礼源之丞(景範)、平山龍雪、鵜木孫兵衛、赤塚源六

[在伊集院02]
坂本六郎(坂木六郎)、坂木藤十郎

[京都詰01]
徳田喜兵衛

ふう~、疲れました。たしかに48名ですね。

こうしてみると、とくに寺田屋事件、西南戦争で同志たちが敵味方に別れて多くが亡くなっています。
知らない人もいます。茶坊主だったと思われる人も多いです(俊斎、三円、万斎、如水、龍庵、三斎、龍雪など)。
『大久保利通文書』一から抜き出しましたが、けっこう誤植もありそうな。
「大山彦助」は薩英戦争でのスイカ売り決死隊か何かにいたような気もしますが、そうでなければ、大山彦八か?
「大山角右衛門」は大山格之助(綱良)か?

けっこう多士済々ですねえ。
「総選挙」をしたら、どんな順番になるのでしょうか?

ついでながら、拙ブログのランキングもよろしく。
よかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2011/06/05 23:14】 | 雑記
トラックバック(0) |

なるほど
秘剣
リスト化、ご苦労様です。
半数以上(確定的ではないですが)が当流の門人だということにあらためて感嘆いたしました。


中の人
>渡海

言い得て妙、なのですか?

何とか48の出身地
戸崎
あわてて、かのチームのデータベースにあたってみましたが、鹿児島出身は一人だけだそうです。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~mwpage/akb/birthplace.html

お久しぶりです
ながお
桐野様 こんにちは、お久しぶりです。話題がそれるかもしれませんが、スイカ売り決死隊の中に江夏喜蔵という人物がいます。この人明治17年に起きた「秩父事件」の時の埼玉県警部長の江夏喜蔵と同一人物だと思われますが、以前鹿児島県立図書館に問い合わせましたところわかりませんでした。SCG48の中にはいない様ですし、もし何かご存知でしたら。

自顕流
桐野
秘剣さん

返事遅くなり、すみません。
半数以上も門弟がいますか。すごいですね。
でも、寺田屋事件を考えると、胸が痛みますね。

言い得て妙?
桐野
中の人さん

ちょっと意味がよくわからないのですが。
もしかして、何とか48のランキング一位の大島Y子と、「大島渡海」の西郷が最上位なのとが掛けられている?

一人だけ
桐野
戸崎さん

鹿児島県出身者がいるというのは知っていました。
故・坂本九夫人に似た名前の子ですよね?


江夏喜蔵
桐野
ながおさん

お久しぶりです。

さて、江夏喜蔵ですが、たしかにスイカ売り決死隊のメンバーにいますね。

ただ、秩父事件は詳しくないので、調べないとわかりません。申し訳ありません。

総選挙速報
戸崎
昨日発表されましたが、「故・坂本九夫人に似た名前の子」は三位になりました!
大躍進ですが、もともと組織票前提の「総選挙」ですからねえ。

ところで……「私はよく知らないのですが」とおっしゃってるわりに、「一人だけ鹿児島県出身者がいるというのは知っていました」とは、ちと怪しく聞こえます。

「総選挙」に参加して、何票か投じられたのではないでしょうね……!?

いえいえ
桐野
戸崎さん

何とか48はあまり知りません。
せいぜい男前な宮○佐○がいいなと思うくらいで。
それより、もっぱらK-POPのSNSDですよ。

私の先輩に戸崎さんと同じ名字の方がおいでですけど、違いますよね?


コメントを閉じる▲
昨日2日の京都新聞朝刊に新刊拙著『江の生涯を歩く』(ベスト新書)の紹介記事が掲載されたようです。

GW中に取材されたものです。震災記事が多かったため、掲載が遅れると聞いていましたが、昨日載せていただきました。昨日は洛中にいたのに新聞見ませんでした。不覚でした(苦笑)。
帰宅してから、担当記者さんからのメールで知りました。

私の写真も写っています。恥ずかしいです。
それでも、ご覧になれる方はご覧下さいませ。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/06/03 10:02】 | 新刊
トラックバック(0) |

そういえば
NAO4@吟遊詩人
京都新聞は拝見できないのですが、そのベスト新書『江の生涯を歩く』のカバー裏面にも、桐野先生のお写真付いてますね。

もちろん、購入させていただきました。

御礼
桐野
NAO4@吟遊詩人さん

拙著お買い上げいただき、有難うございます。
比較的読みやすくなっていると思います。


コメントを閉じる▲
本日は信長の祥月命日(新暦ですが)。

昨日から上洛しておりました。
一番の所用は、霊山歴史館の木村幸比古さんを訪ねることでした。
大警視川路利良のご子孫を紹介するためです。

霊山歴史館には、川路利良の建白書全5巻を所蔵しており、それを拝見する目的もありました。
太巻きの巻子仕立ての建白書は圧巻でした。
とくに西南戦争についてのそれは、なかなかの力作に見えました。

歓談はつつがなく終わり、館内の展示も見せていただきました。
新選組の展示でした。

本日2日。
天気予報が見事に外れ、そぼ降る雨のなか、寺町の阿弥陀寺へ。
同寺の開山、清玉上人は信長の友人。その関係から本能寺の変の戦死者を供養した。
数ある信長の墓のうち、おそらく最初に建立されたものである。

阿弥陀寺

本能寺の変当日に在京しているのはおそらく初めてではないかと思う。
京都の史跡に詳しい友人のHさんと合流して参拝。
まず法要の前に墓所に行く。前回参拝したときとは景観が変わっていた。新たに整備されていた。森乱三兄弟の墓石の位置も微妙に変わっていた。

阿弥陀寺では信長・信忠はじめ、本能寺の変の死者の法要が厳かに執りおこなわれた。
同寺の関係者のほか、地域の檀家や一般参拝者まで、本堂は人であふれかえった。

法要が始まる前に、信長・信忠・信広の木像や位牌、
同寺所蔵の古文書類などを展示してあったので拝見。
光秀や秀吉が京都で奉行人をしていた頃の連署状があった。
とくに光秀の菱形の印判を初めて実見した。

写真撮影も外部に公表しないという条件で許可していただいたので、たくさん撮影しました。
もちろん、ここに掲載するわけにはいきません。
名古屋の中日文化センターの受講生の方もお見えで驚く。

興味深かったのは、信長の庶兄信広の木像や位牌もあったことです。
信広は伊勢長島の一向一揆との合戦で討死していますが、なぜ阿弥陀寺で供養されているのか、よく知りません。
法要には織田家の方々もお見えでしたが、どうやら信広の子孫のようでした。

その後、北野天満宮や等持院などの寺社・史跡を見学。
幕末薩摩藩関係の某史跡の周辺も何とか探し出せた。

最後、京都駅に戻ったら、友人の信長研究者和田裕弘氏とばったり出会う。
やはり、6月2日の縁なのかと思うことしきりだった。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2011/06/02 23:42】 | 信長
トラックバック(0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。