歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
講演のお知らせです。

大阪龍馬会より、昨年に続いてのお招きです。
龍馬大学校の一環として開催されます。

演題:龍馬暗殺再論 ―薩摩黒幕説批判と龍馬の死の影響―
日時:9月4日(日)13:00~
会場:アネックスパル法円坂
大阪市中央区法円坂1-1-35、電話06-6943-5021
   最寄駅:JR環状線森ノ宮駅/地下鉄森ノ宮駅/地下鉄谷町四丁目駅
   MAPはここです。

昨年も龍馬暗殺について語りましたが、3時間でも語りきれなかったので、その死後の波紋も含めて、もう一度考えてみます。
これまであまり知られていない史料もいくつか紹介します。乞うご期待。
関西方面で興味のある方は参加してみませんか。

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【2011/07/29 19:27】 | イベント
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最近また、ご高著をいただいた。
記して御礼申し上げます。

堀 新さんより
『消された秀吉の真実―徳川史観を越えて―』
山本博文・堀新・曽根勇二編 柏書房 2011年 定価2.800円+税

詳しくはここをご覧下さい。
だいぶ前に頂戴していたのに紹介が遅くなり申し訳ありません。
これは通称「豊臣研」の研究成果をまとめたもの。
「取次」「刀狩令」「人掃令」「豊臣賜姓」「秀吉と秀次」などを論じています。
いずれも豊臣政権論の重要な論点であり、ホットな論争が展開されているテーマもあります。

全体の文章が「です、ます」調になっていて、高度な内容の論文であるにもかかわらず読みやすいです。
これは史学の論文や著書は読みやすくすべきだという編著者の姿勢が色濃く反映されています。
その評価はさまざまでしょうが、個人的には好感がもてました。

編著者の一人である堀新さんは「豊臣秀吉と『豊臣』家康」というテーマで書いています。
豊臣政権のなかで、家康のみを特別視する傾向が研究者のなかに根強いことへの反論でもあります。
家康が秀次事件後に呈した起請文で「羽柴武蔵大納言」と書いており、豊臣姓だったことは容易に推定されましたが、それは案文であり、根拠がやや薄弱であることから、実際に「羽柴江戸大納言殿」と書かれた秀吉朱印状(家康の上方賄領についての知行方目録)の原文書を発掘したうえでの論考です。
家康特殊論を相対化し、豊臣政権における家康の地位や立場の再検討を促す重要な論証だと思われます。


谷口克広さんより
『信長・秀吉と家臣たち』 
学研新書 2011年 定価840円+税

詳しくはここです。
著名な信長研究者である谷口さんから頂戴した。
これは10年ほど前のNHKラジオ放送番組のテキストを新書化したものです。
そのテキストは私ももっていて、折に触れて参照させてもらったことがあります。
ラジオ番組の回ごとに一章分があてられているので、構成が非常によくできています。
また内容もそれほど古びていません。
信長・秀吉に関心のある人には恰好の入門書だといえます。
入門書ながら、著者の永年の研究成果が凝縮されています。
何かと興味本位のトンデモ系があふれていますが、このような史実に忠実な良書こそ読まれてほしいものです。



植松三十里さんより
『千姫 おんなの城』 
PHP文芸文庫 2011年 定価619円+税

詳しくはここです。
友人の作家、植松さんから頂戴した。
彼女は最近、相次いで文芸賞を受賞するなど、乗りに乗っています。
今回のは、大河ドラマを意識したものでしょうか。
お江の長女、千姫の悲劇的な生涯を描いています。

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【2011/07/27 23:12】 | 雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第202回
―「日本一の兵」、頴娃に墓?―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回の豊臣秀頼に続き、今回は真田幸村です。
幸村の薩摩落ちについては、秀頼ほどには知られていないかもしれません。
しかも、墓についてはなおさらだと思います。

幸村の薩摩落ちについては、江戸後期から幕末にかけての松代藩主真田幸貫(老中にも就任)が、松浦静山に伝え、それが『甲子夜話』という形で刊行されたことが、一番影響を与えたかもしれないと思っているところです。

なぜその地が頴娃(「えい」と読みます)なのか、その理由もよくわかりません。頴娃の位置は、薩摩半島の南部で、指宿の北のあたりといえば、わかりやすいでしょうか。
頴娃といえば、古代中世には頴娃郡があり、つい最近まで頴娃町が存在しましたが、市町村合併によって町名としても消えてしまいました。由緒あるばかりか、ユニークな難字で知られた地名だけに残念です。

次回は何にしようか迷っているところです。

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【2011/07/25 19:28】 | さつま人国誌
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ここまでくれば真方も?
坐忘
幸村を山伏としているところに何かありそうですね。
家康=願人坊主説、隠れ念仏の毛坊主の存在とか、いろいろ想像がふくらみます。
伊集院の真方衆の伝説もさらに強烈ですね。
伊集院といえば、長渕剛が福島の学童20人を鹿児島に招待し、
一週間ほど自然と歴史を体験してもらうようです。
この情熱と実行力には脱帽です。
頴娃とか可愛とか「え」のつく文字が多いですね。
吉野も「えの」と読めるかもという話もあるようです。

山伏
桐野
坐忘さん

幸村は,秀頼のようにヤマイモホイにはできなかったのでしょうね。
山伏はいかにも真田だという設定ですね。


無題
さくら
桐野先生こんにちは。

山伏の落人話といえば、弁慶と義経一行の奥州落ちの話とどこか似てるなあ、と思って読ませて戴きました。
誰かが秀頼探索においてまっさらな調査報告書を読み上げたのではと思うとロマンを誘います(笑)

鹿児島への落人さんと言えば、足利義昭の子とされている義在も連想しますね。
秀吉の世になって、何故父の元へ帰らなかったのか、実際何者だったのか不思議な人物です。


永山義在
桐野
さくらさん

秀頼と幸村の薩摩落ちは勧進帳の影響もあるかも知れませんね。

永山義在については、前から関心はあったのですが、なかなか材料が少なくて書けずにおりました。
ただ、落胤説はどうなんでしょうかね? いまいち信用できなくて。

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甲子園の鹿児島県予選で、名門鹿児島実業を破って堂々の決勝進出。

聞き慣れない高校だけど、私立の新設校かと思ったら、宮之城高校と宮之城農業が統合したらしい。
私の故郷の近くである。

それにしても選抜ベスト8の強敵を破ったのは見事。
この勢いで決勝も勝ってもらいたい。
鹿児島では地方校の甲子園出場はほとんどないから。

決勝進出のもう一校は神村学園。こちらも私立の有名校。
惜しくも敗れたのは大隅の鹿屋中央。

薩摩中央といい、鹿屋中央といい、地方校の活躍はうれしい。

ちなみに、私の母校の野球部は50年近く前、県大会で優勝したが、甲子園には出場できなかった。当時は県大会を勝ち抜いても、宮崎県代表との南九州大会で勝たないと出場できなかったから。
そのときの母校のエースが外木場義郎。若い人にはなじみがないだろうが、のちに広島カープのエースとなり、プロ初勝利がノーヒットノーランというすごさ。現役時代に完全試合1回とノーヒットノーラン2回を達成した名投手。この記録はいまも破られていない。甲子園でその雄姿を見たかったなあ。

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【2011/07/23 10:22】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第201回
―背後に判官びいき感情―

連載が昨日、更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は少し趣向を変えて、豊臣秀頼の薩摩落ち伝説について書きました。
これはよく知られている逸話ですが、調べてみると、幕府側、薩摩藩側、真田氏側などはむろん、外国人や軍記物から松浦静山の『甲子夜話続篇』まで、さまざまな記録があります。
この種の「伝説」は源義経や西郷隆盛などありますが、そのなかでも記録の豊富さでは群を抜いているような気がします。それだけネームバリューと悲劇性があるのでしょうね。加えて、貴種流離譚の一種という見方もできるかもしれません。

鹿児島では、この宝塔の調査も行なれており、鎌倉時代中期のものだという結論が出ています。当然、秀頼の墓ではありません。また「伝説」もあくまで「伝説」であり、史実ではありません。しかし、この「伝説」を生み出す人々の膨大な感情が背景にあるのでしょう。

次回は、秀頼を「加護嶋」に連れてきたとされる「鬼のやうなる真田」の墓についても書いてみたいと思います。
秀頼の墓は有名ですが、幸村のそれは鹿児島でもあまり知られていないと思います。お楽しみに。

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【2011/07/19 15:00】 | さつま人国誌
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膨大な感情が背景に
坐忘
> 伝説を生み出す人々の膨大な感情が背景にある

いいですねぇ、これぞ歴史を覗くダイナミズムですね。さまざまな立場の人が生きるうえで何を仮託したのか、興味が尽きません。
真田伝説は頴娃の別府あたりに生々しく残っているようですね。次回もとても楽しみです。


ばんない
いつかはやるかと思ってましたが、終に秀頼伝説が来ましたか…次が真田“幸村”伝説と言うことは、その次は安徳天皇伝説ですね!(勝手に決めてどうする)

秀頼伝説はある種の判官贔屓であることには同意するのですが、一方で「料金踏み倒し伝説」(今回のコラムでは触れられてませんでしたが)もあり、義経伝説や隆盛伝説に比べて悪意というか揶揄するような気分も込められているようにも思えます。

ちなみに、京都の清涼寺に「秀頼の遺骨の改装墓」なる物がありますが、それについては如何お考えでしょうか。差し支えがなければお考えをお伺いしたいのですが。

膨大な感情
桐野
坐忘さん

秀吉は意外と庶民に人気あったみたいですね。
ほとんど大坂城にこもりきりでしたが、二条城での家康との対面に上京してきたとき、沿道や洛中では太閤の遺児を見ようと黒山の人だかりだったそうです。

だからこその薩摩落ち伝説が雨後の竹の子のごとく叢生したのでしょうかね。

清涼寺
桐野
ばんないさん

清涼寺は名前だけは承知しておりますが、まだ未訪で、秀頼の墓は調べたことありません。
今後、考えてみたいと思います。


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7月15、16日

上洛した。
いつもはこの時期、酷暑の洛中に行くのは避けているのだが、今回は目的があった。
以前、大久保利通寓居跡近くに「紙商西村」という薩摩藩とゆかりの商家があり、建物とともに子孫の方も現存されていることを紹介したことがある。ここの2階には黒田清隆が下宿し、坂本龍馬も訪ねてきたという面白い所。
しかも、その方、中川さんは私の講座を受講されている。

「紙商西村」は禁門の変で焼失したが、すぐさま再建され、そのまま母屋や土蔵が現存している。
すぐ近くの同志社大学が幕末の京都の町屋を活用しようと、「でまち家」という同志社セミナーハウスに変身した。
ここの土蔵には幕末前後の古文書がかなり眠っており、中川さんが独力で整理されている。
今回、その披露があり、中川さんのお誘いで同志社大学の関係者とともに閲覧の栄に浴した。

丹波屋という屋号をもっていた同家は界隈の町人たちとともに、天皇の行幸の鳳輦を担う駕輿丁(かよちょう)という特別な役をつとめていた。
その関係の史料が残っている。
とくに幕末になると、孝明天皇や明治天皇が遠方に行幸するようになる。
明治元年の大坂行幸、そして江戸行幸である。
その道中日記も残っており驚いた。街道筋の宿泊の様子がよくわかる。駕輿丁の目から見た行幸というのも興味深い。
ほかにも官務の小槻家の手になる駕輿丁の補任状とか、商家らしく大福帳や算用帳、証文の類が多数あった。
同志社大学のほうで、この古文書の活用を検討するそうである。

「でまち屋」では同大学の歴史資料館や文化史学科の先生、職員、院生の方々にご挨拶した。
とくに、中川さんのお勧めで、浜中邦弘さん、小枝弘和さんと宴席を囲み、懇談して多くの示唆や情報を得た。有難い限りである。
また小枝さんからは北海道の有名なクラーク博士についての研究書『William Smith Clarkの教育思想の研究』(思文閣出版、2010年)を頂戴した。記して御礼申し上げます。

翌日、いくつか史跡めぐりをしたが、洛中は祇園祭りの宵山で、四条通り界隈はすごい人出だった。
あちこちに山鉾があり、壮観な眺めだった。
祇園祭、宵山の時期に在洛していたのは、じつに大学時代以来だと記憶している。だから、初めてではなかったが、とても新鮮だった。代表的な鉾である舩鉾と長刀鉾の写真を載せておきます。

舩鉾

長刀鉾

その後、寺町の京都市歴史資料館に、ある古絵図の閲覧に出かけたが、あいにく土曜日は閲覧は不可とのことで残念。もう少し事前に調べておくべきだった。
その代わり、当日からテーマ展「二条城 -そのはじまりと周辺-」が開催されており、拝観した。聚楽第図なども展示されていて、これまた面白く拝観した。

それから寺町通りを下ると、同志社の創立者、新島襄記念館があるのを覚えていたので見学。
二階建ての瀟洒な洋館である。新島襄・八重夫妻の写真や襄の書斎などがあった。
さすがに再来年の大河ドラマだけに、見学者が多かった。

新島襄記念館

暑さのため、史跡見学は早めに切り上げて帰ることにした。

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【2011/07/18 19:47】 | 日次記
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この間、またいろいろな刊行物や論考を頂戴しました。
記して御礼申し上げます。

松尾千歳氏(尚古集成館副館長)より
松尾さんからは以前から、いろいろご教示をいただいている。
今回、ご本人の論考3点と尚古集成館の展示図録2点を頂戴した。
論考は、

①「島津斉彬の写真研究に関する一考察」 『尚古集成館紀要』9号 2010年3月
②「嘉永四亥年斉彬公御家督初而御入部其他留」 『尚古集成館紀要』10号
③「鹿児島の歴史・文化再考」 『想林』創刊号 鹿児島純心女子短期大学江角学びの交流センター 2010年


このうち、①はとくに興味深い。島津斉彬と写真技術については有名だが、それを支えたのは斉彬側近のうち、高木市助・宇宿彦右衛門・伊地知次郎八が中心だったという。
高木市助は有名な嘉永朋党事件(高崎崩れ)のとき、お由羅派の呪詛に対して呪詛返しの呪法を行った兵道家だったというのが面白かった。
②は家督を継いだ斉彬が藩主として初めて入部したときの記録を翻刻し、解説を付したもの。
興味深いのは鶴丸城入城後、最初に御目見を許したのは島津周防(のち久光)、島津安芸(篤姫実父)、種子島弾正など弟や叔父たちで近しい親族だったこと。また城中大奥に入ってからも、最初の御目見は叔母の松寿院(種子島久道室)だった。一門家・家老などの御目見よりも親族が優先されているのが面白い。

図録は、

『海洋国家薩摩~海がは育んだ薩摩の文化~』 2010年
『薩摩とイギリス~海が結んだ絆~』 2011年

いずれも、興味深い写真や図版がたくさん収録されている。


古城春樹氏(下関市立長府博物館館長)より
この間、いろいろお世話になっている古城さんからまたいただいた。有難いと同時に恐縮する。

『長州維新維新の道』下・萩往還 九州長州文化図録撰書9 図書出版のぶ工房編 2011年

刊行されたばかりで、まだネットでは探せませんが、同書上巻はここにあります。

このなかで、古城さんが「長府藩士三吉慎蔵龍馬非護衛説について」という論考をお書きになっている。
これは以前少しお話を聞いたことがあるが、寺田屋事件に至るまで、三吉慎蔵が坂本龍馬の護衛役として同行したと評されてきたことに対して、異論を唱えた内容である。三吉の日記鈔録には、

「御内命を以て当時勢探索の為め~」

と書かれており、藩命により上方情勢の探索のために上京したことがわかる。
古城さんは、長府藩の内情を詳しく解説しながら、慎蔵の使命が何だったかについて通説の誤解を糺していて、なかなか説得的である。
また当時、長州藩が龍馬を薩摩藩士だと認識していたことなどを紹介している。
また同館学芸員の田中洋一氏の「長州各藩の教育概論」という論考も掲載されている。
長州藩といえば、一般に本藩の立場や視点に偏りがちだが、3つの支藩や岩国吉川家の動向もとくに幕末期には重要で、独自の動きを示していることはもっと広く知られていいと思う。今後の情報発信を期待したい。

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【2011/07/17 14:46】 | 信長
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一昨13日、武蔵野大学の三鷹サテライトキャンパスで、講座「お江の生涯」第3回を行いました。

そのなかで、拙著『江の生涯を歩く』(ベスト新書、ここです)で紹介した、毛利秀元宛て毛利輝元書状を読みました。
これは、お江が秀忠と伏見と江戸に別れて生活しているなかで、側室に子どもが生まれることをやきもきしているから、江戸に帰してほしいという訴えを舅の家康が聞き届け、淀殿にお江の帰国を要請している内容です。
一応、自治体史に収録されて活字になっていた史料ですが、「中納言殿女中」という表記がお江と結びつけられて理解されていなかったため、これまでスルーされていたと思われます。

今回、下関市の長府博物館がこの輝元書状を展示しているそうなので、ご紹介します。
同館のサイトのここに、展示情報があります。そのなかに、


ミニコーナー「長府毛利家と徳川家」

という項目がありますが、これがその展示です。
この輝元書状も原文書が写真版で掲載されています。

お江の人となりや想いが伝わる史料が数少ないなかで、この史料はとても貴重だと思っています。
近場で興味のある方はぜひ本物をご覧になって下さいませ。

同館館長の古城春樹さんには、史料の所在についてご教示いただき、有難うございました。

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【2011/07/15 08:02】 | イベント
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江戸下向
武江
桐野様
はじめまして。k2さんのブログから参りました武江と申します。
貴重な情報有難うございます。写真であっても原本を目にする事が出来感激です(解説の日付、9月3日では無く、13日付け書状ですが)。
子ゝ姫の誕生との兼ね合いもあり、江の下向時期には、以前より大変興味を持っています。中央図書館で書状の原文コピーもとりましたが、江下向願いに関する部分の後半の正確な解読に悩んでいるところです。茶々は、既に承諾したのか。この事に関する輝元の存念はどうなのか。「妨」は、家康にとって良い計らいなのか、文字通り邪魔するような事なのか。というあたりについてです(袖の返し書きからは、後者のように思いますが)。
桑田忠親氏は、昭和49年に著した『石田三成』で、大坂城入り後の家康について、「秀吉の遺制をやぶり、その子秀忠の夫人を、勝手に、江戸に帰らせたり、自由気儘を働いている。」としています。「勝手に」としている事から、一応許可を求めた事が分かる、重陽の面会の際の話の内容は、今回の発見までは知られていなかったものでしょうが、既に40年近くも前に下向時期が周知の事であるかの如く記されていたのは、ショックでした。今の歴史家は、かつて常識だった事を、忘れてしまっているという事でしょうか。
Tm.さんが講座の件を教えてくださいましたが、参加出来なかったのが残念です。


再び感激
武江
桐野様
本日再び展示情報を拝見したところ、日付の件に対応頂いた上、公開の写真も1枚付け足して頂き、江戸下向に関する部分が、全てカバーされています。長府博物館様の粋な計らいに、感激一入です。
関ヶ原前の、家康の言動や、西軍総大将になる事となる輝元の、この時点での生の声が記されている、という点から見ても、この書状は、本当に貴重なものだと思います。


輝元書状
桐野
武江さん

輝元書状の解釈はなかなか難しいですね。
問題の第一条ですが、家康がお江の江戸下りを淀殿に要請した以降の部分について。

これは家康のセリフで、「多分淀殿はこの件についてはご分別されていたはずなのに、どうしたことか、この頃江戸下りはならぬとの御意につき、家康はじつのところ、面白くない次第です。内々に(家康の申し出を)妨げている仁がいると承っていますが、ぜひ(その仁から)理由をお聞きになるようにと、忝なくご存分を申されたそうである」とでも訳すべきでしょうか。

以上から、淀殿は家康の申し出を(妨げる仁の進言によるものか)承諾していなかったと思われ、さらに大坂に下って直接諫言に及んだということでしょうか(実際は淀殿への圧力でしょうね)。
この「仁」は三奉行あたりでしょうかね?(三成はすでに失脚してます)。

輝元書状にある三カ条は、お江の件を含めて、「太閤様御置目」や「太閤様被仰置」を相対化というか、無効にしたいという家康の意向が感じられますね。

1.お江の江戸下りについては、たとえ人質政策についての「太閤様御置目」があったとしても、(お江の姉である)淀殿の「御分別」を示せば例外として処理できるはず。

2.後陽成天皇の譲位による次の天皇即位については、「太閤様被仰置」よりも「勅諚」が優先すべき。

3.諸大名の人質政策については、東国大名は大坂城に、西国大名は伏見城にという「太閤御置目」があるのに、豊臣一門の宇喜多秀家がすでにこの原則を破っているではないかというクレーム。

全体として、秀吉の置目や遺言を無効にしようという家康の意図が透けて見えます。

輝元が家康のやり方をどのように見ているのかは定かではありませんが、それなりに警戒しているようですね。末尾に養子の秀元に少々のことは捨て置いて、早めに国許から上ってきたほうがよい、しかも派手なやり方はしないようにと忠告していますね。
このあたり、輝元は家康に付け入る隙を与えないように慎重な態度をとっているように見えます。

長府博物館のサイトがさらに充実したのは私も確認しました。武江さんの書き込みのせいでしょうか。




六ヶ敷書状
武江
桐野様
ご教示有難うございます。度々のコメント申し訳ありません。
やはりk2さんのブログにリンクしている、紀伊さんの「萩の御前」というサイトのブログで、桐野様の御著書が紹介されています。そこに、まさに「六ヶ敷書状」と題して、書状解釈のコメントを入れていますが、大枠は、桐野様の解釈と同じで、少し安心しました。
私は、前半の部分が、「家康被申事候つる」で切れた後、「多分」から「何と共候哉」までを輝元の考えと解していました。
それから、折角七将等を自らの味方に付け、三成を佐和山に蟄居させたのに、太閤の置目を軽んじている姿勢を見せるのは、戦略的に拙いのではないでしょうか。この段階では、違背した事にも理由がある、又他にも違背している者が居るのに自分だけ責められるのはおかしい、という「言い訳」をして、淀殿を立てる姿勢を見せているように思います。関ヶ原の時点でさえ、反豊臣の戦いでは無い事が大義となっていたわけですから、そこまでは、置目に沿って動いている姿勢を見せておく必要があったはずです。江の下向が、「勝手に」行われたので無かったのも、そういう事ではないでしょうか。その為に、姉である淀殿が承諾するであろう様な下向の動機を、わざわざ持ち出した、というように解釈しています。


家康の真意
桐野
武江さん

再びご意見有難うございます。
ご紹介の紀伊さんのブログをのぞいてみました。
「外実無曲」の部分、武江さんの「(家康には)底意がない」という解釈のほうがピタリとしていいですね。

ご指摘のように、家康が「太閤置目」をないがしろにするような態度を、とくに淀殿の前で表面上は示さないと思いますので、あくまで淀殿の「御分別」に頼って、お江の江戸下りを実現したいということでしょうね。
そのための材料として、新天皇を誰にするか、人質政策の実態などを引き合いに出して、「太閤置目」「太閤遺言」をないがしろにするのではなく、あくまで柔軟に対処してほしいということになるのでしょうね。

また、桑田忠親氏の『石田三成』にも、この輝元書状を念頭に置いたと思われる記述があったとのこと。先行研究はあだやおろそかにできない好例ですね。

貴重なご指摘、有難うございました。


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小学館アカデミー「てらこや」特別講座のご案内です。

前期から表題の講座を開催しています。
佐佐木高行は、土佐藩士で、慶応末年には大目付という重役であり、長崎に駐在して坂本龍馬や海援隊のよき理解者、協力者でした。
その佐佐木の日記を読んでいます。
前期は慶応2年(1866)5~6月頃で、第2次長州戦争の開戦前夜を読みました。
今期はいよいよ開戦から停戦までや、土佐藩の内情などについて読みたいと思います。
土佐藩や龍馬、また幕末の終末期に関心のある方は受講してみませんか。

【講座内容】
幕末の土佐藩士(大目付)だった佐佐木高行(1830~1910)の日記『保古飛呂比』を読みます。この日記は佐佐木の生誕から明治中期まで書かれていますが、幕末の激動期、坂本龍馬や後藤象二郎などとの交流が詳しい慶応2年(1866)から読んでいます。京都や長崎を中心とした幕末政局の裏側が赤裸々に書かれており、主に薩長土の側面史としてもまことに興味深い内容です。


原則として隔週火曜日19:00からの開催で、今期のスケジュールは、

7月19日
8月2日
8月23日
9月6日
9月20日

問い合わせや申し込みなどについては、同アカデミーのサイト(ここ)をご覧下さい。
会場は神田神保町の交差点近くにあり、アクセスも至便です。19:00開始ですので、お勤めのる方もなんとか受講できる時間帯です。

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【2011/07/12 22:18】 | てらこや
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昨日、信州上田で講演をしました。
ご当地の「米熊・慎蔵・龍馬会」からのお招きです。

論題:赤松小三郎そして中村半次郎(桐野利秋)

昨秋、ご当地の池波正太郎真田太平記館でもほぼ同様のテーマでお話したことがあります。
まったく同じ話では芸がないので、少し変えました。別の史料もいくつか紹介しました。薩摩藩側には意外と史料があるものです。

とくに、新納嘉藤二(薩摩藩江戸留守居役)が吉井幸輔(京都留守居役)にあてた書簡(慶応2年10月)は、薩摩藩が英式軍学者をスカウトしようと、幕府側の講武所や下曽根家にいる人材にあれこれ食指を伸ばしている様子がうかがえます。
講武所が英式を嫌い、蘭式にこだわっていたため、疎外されている英式軍学者の平元良蔵や赤松小三郎に薩摩藩は目をつけたようです。
とくに第一候補は赤松ではなく、平元良蔵だったようです。
じつは、不勉強でこの人がどんな人なのか、よく知りません。
明治2年(1869)に「英式尾栓銃号令詞」という翻訳本を刊行していることがわかり、英式軍学者であるのは間違いないようですが、生没年や出身藩、略歴などがわかりません。もしご存じの方がおいでならご教示下さいませ。

それで、平元は下曽根家の当主金三郎(信敦)と不和になっていたようで、薩摩藩はだから平元引き抜きのチャンスだと考えたようですが、野津七次(のち道貫)の報告によれば、平元が下曽根家と和解して幕府側に残ることになり、赤松も平元に従うようだという観測が書かれています。
その後、赤松は薩摩藩にスカウトされていますから、上記書簡からまた紆余曲折があったと思われます。

ところで、薩摩藩がなぜ英式軍学にこだわったのかという点が重要ですね。じつは私も不勉強で、よく知りません。
薩摩藩の援助で、赤松は「重訂英国歩兵練法」を刊行しており、これは薩摩藩の軍制の基礎になったものと思われ、ひいては戊辰戦争で勝利する遠因にもなったといえそうです。
薩摩藩が蘭式でも仏式でもなく英式だったのは、仏式を採用した幕府の軍制改革への対抗だったのでしょうか?
あるいは、薩藩英国留学生から英式が他国よりも優秀だという情報が入っていたのかもしれません。
不勉強なのでよくわかりませんが、いろいろ考えられるところです。

また、講演のキモとしては、中村半次郎たちの赤松暗殺は、中村グループの跳ね上がりなのか、藩命なのかという点について少し触れました。
これについては、赤松暗殺の時期が重要で、薩摩藩が土佐藩との薩土盟約をいったん破棄し、長州藩(と芸州藩)との挙兵路線に傾いた時期と重なっていることがポイントだろうという話をしました。

薩摩藩のなかでも、高崎正風など土佐藩に近いグループは赤松暗殺の下手人が自藩人だと知らなかったように思われます。だから、赤松追悼の碑文も高崎グループが手がけ、田中幸助(中井弘)か田中頼庸が起草したようです。

四侯会議に薩摩藩が敗北したのち、島津久光と小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵などごく一握りの間で、いわゆる「討幕挙兵」計画が練られます(個人的には武力挙兵ではあっても、討幕ではないと思っていますが)。この首脳部と中村グループが通じていると考えられそうですね。だから、同じ藩内でも真相を知らない者が相当いたということでしょう。
講演ではもう少し突っ込んで話しましたが、とりあえずそのよう趣旨を結論としました。

講演の前後では、同会の三吉治敬さん(三吉慎蔵子孫)や事務局の中曽根孝一さんたちと旧交を温め、幕末上田藩についての貴重な情報もいただきました。厚く御礼申し上げます。

じつは前日から上田入りしており、真田氏関連の史跡や塩田平の中世・戦国史跡を見学して、とても得るところが多かったです。そのうち、ご紹介します。

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【2011/07/10 12:55】 | 信長
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明日月曜日の南日本新聞連載「さつま人国誌」。

新聞休刊日のため、お休みです。

あらかじめお知らせしておきます。

再来週の記事をお楽しみに。

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【2011/07/10 12:52】 | 信長
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ニュースによれば、私の郷里である鹿児島県出水市などの北薩や熊本県南部が大雨で、かなり被害が出ている様子。

地元メディアのこことかここ

TVのニュースにも映っていたが、私が通った中学校の近くにある米ノ津川が氾濫したようだ。
また避難勧告は私の郷里だけで5000人以上にのぼっている。

この川はかなり立派な堤防があるのに、10年ほど前も氾濫したことがある。
私が郷里にいた頃は一度もなかったのに。

親戚や知人も少なくないので心配である。

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【2011/07/06 20:26】 | 信長
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ながお
桐野様 こんばんわ

川沿いの人は心配ですね。実家は西出水なのでそばに大きな川がなく大丈夫でした。5年前にも帰省の直前に大雨があり、高尾野川沿いの流された田んぼの跡を見て唖然としたことがあります。

鹿児島
桐野
ながおさん

返事遅くなりました。
その後、被害はどうだったのでしょうかね?
出水も含めて、最近は水害が多いですね。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第200回
―入来峠で狙撃され絶命―

連載が更新されました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は記念すべき200回目でした。
4年以上、よく書き連ねられたものです。感無量ですね。

今回は前回の続編です。
平田増宗の最期について書きました。
ほんとは増宗の事跡などをもう少し書きたかったです。
たとえば、関ヶ原合戦のとき、大坂の留守居役として、陰で義弘を助けたこと。あるいは島津氏の琉球侵攻では、義久と同様、侵攻には消極的だったこと、それでも副将として出陣し、主将の樺山久高を牽制したために、おそらく義弘―家久ラインの恨みを買っただろうこと、などなど。

また、増宗の暗殺に関しては、『入来町誌』に刺客押川強兵衛の子孫が所蔵する家伝が収録されており、そのなかに強兵衛の動向がかなり詳しく書かれていて興味深いのですが、紙数の関係で紹介できませんでした。

なお、増宗が暗殺された現場は土瀬戸越という場所ですが、現在は太郎左衛門坂と増宗の通称で呼ばれているようです。事件の痕跡が地名という形で残っているのも興味深いものです。

記事の最後に書きましたが、増宗暗殺から四半世紀あとに、琉球勝連で増宗の出家した息子が薩摩藩当局によって殺害されています。「上命」とありますから、明らかに家久の命令ですね。
増宗の嫡男も日向野尻で鉄砲で狙撃されて落命、もう一人の息子は出家にもかかわらず、琉球で殺害されるという徹底ぶりには、島津家中の暗闘の根深さに改めて驚かされます。

次回からまた一から始める気持ちでやっていきたいと思います。
今後ともご愛読のほど、よろしくお願いします。

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【2011/07/04 18:50】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。
連載200回おめでとうございます

が、記念すべき200回目のネタ、かなり陰惨なめでたかる内容でしたが、これでよかったんでしょうか?(苦笑)
私は興味のある人物だったので、興味深く読ませて頂きましたが。

増宗の次男の話は、私のつたない記憶では『本藩人物誌』には採録されていなかったように思います。出家したのに、遠隔地に逃亡?したのに、しかもかなりの年月が経っているのに、殺害されたという経緯は、足利幕府の大覚寺義昭を思い起こさせる物があります。奇しくも大覚寺義昭も島津家と縁のある人物ですが。

増宗の息子
桐野
ばんないさん

琉球で殺害された増宗の息子(二男なのかどうかわかりませんが)記事は『本藩人物誌』にはありませんが、『旧記雑録後編五』の「家久公御譜中」と、琉球在番奉行の町田久則の書状にはっきりと書かれています(715号)。

増宗の息子には乳母と小者一人が付いていたと町田書状にあります。乳母が付いていたということは、おそらく増宗・宗親が誅された頃はまだ幼児だったのでしょうね。

なお、記事には逃亡したのかとも書きましたが、町田の書状には「琉球の内勝連と申す嶋に召し置かれ候」とありますから、幼児だったので、どうやら流罪になっていたのでしょうね。
それで、20代半ばくらいに成人していたのを思い出して、改めて処刑の命令を下したということでしょうか。


悲劇の家系にひかりが
坐忘
平田靱負が分家の子孫だったことといい、平田家にはあまりに悲劇が多いですね。
平田家は桓武平氏の流れなんでしょうか、なんとなくその血筋や優秀さ故の悲劇のように感じました。
京都のお寺で増宗の痕跡を見つけられたのが桐野さんで本当に良かった気がします。
200回の連載が平田家の事跡で飾られたのも、その悲劇の家系に対する最大の御供養となっているように感じました。
これからもご健筆のほど、よろしくお願い申し上げます。

桓武平氏
桐野
坐忘さん

平田氏はご想像どおり、桓武平氏のようです。
平宗盛三男の系統だとか。

平田増宗が200回目というのは偶然ですが、坐忘さんのようにとらえていただいて光栄です。
今後ともご愛読、ご指導のほどよろしく。



ばんない
>『旧記雑録後編五』の「家久公御譜中」と、琉球在番奉行の町田久則の書状にはっきりと書かれています(715号)
5-715文書はコピーもとっておらず、よって全くのノーマークでした。御教示ありがとうございました。

町田久則という人物についても全く関心がなかったのですが、今回初めて『本藩人物誌』に載っている彼の記事を読んでみました。なんと島津の退き口の生き残りだったんですね。その後の経歴も興味深かったです。ただ琉球在番奉行だったことは書かれていませんでした。やっぱり暗殺に関わったとなると経歴の汚点と思われたからなんでしょうか。

町田久則
桐野
ばんないさん

町田久則は退き口でのはぐれ組ですね。
大和の大神神社に潜んでいたグループの一人です。
その縁もあってか、義弘-忠恒側だったのでしょう。

止上文書
今井より
こんにちわ。
なかなか明けない梅雨ですがお元気?

初心に戻って、平田増宗に思いを馳せています。
5000円の高価な地元の郷土史を開いて

平田増宗は宮内で切腹して、、

目に飛び込んできた記事に驚いたからです。
近侍の五十嵐氏は
ひょっとして、同級生は子孫?

興味をひかれあちこち読み漁ったのを
懐かしく思い出しています。
澤家預けになってるので、あるいは史資料にと
11年隼人町作成の最寄り古文書をみましたが
この頃の記事はありませんでした。

また、所持している図会にもありますが
慶長11年に琉球に。。
彼が切腹したのは慶長10年、、

果たして??
廻ってます。。

一応、歴史探訪、戦国時代に掲載しました。
少しずつ追記予定です。


コメント御礼
桐野作人
今井よりさん

古い記事にコメント有難うございます。

平田増宗、いろいろ研究されているのでしょうか。
また教えて下さい。

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新潟日報紙の本日3日付。

表題の著書についての書評を書きました。
同紙の文化欄だと思いますが、「にいがたの一冊」というコーナーがあり、地元にまつわる書籍を紹介・書評するものです。

過去には、こんな本が紹介されているようです。さっそく拙稿も載っておりました。ここです。

地方紙なので、地元の方以外は読むのが難しいかもしれません。
担当記者によれば、同紙電子版にも掲載されるということでしたが、残念ながら見つけ出せていません。

今福さんは、かつて『直江兼続』(新人物往来社刊)を上梓された。
これは兼続の伝記として、出色のものだと思っている。

そして今回がその続編とも位置づけられる『上杉景虎』です。
版元の案内はここ

上杉景虎といえば、上杉謙信の家督問題や御館の乱での動向に尽きます。私も当ブログで何度か触れたことがありますが、今福さんはこの問題について、先行研究を踏まえながら、かなり明快な回答を提示しています。
なかなか興味深い着眼が随所に見受けられます。

当ブログを読まれる方の多くが関心をもたれるテーマ、著書ではないかと思います。

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【2011/07/03 19:00】 | 戦国織豊
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御礼
三楽堂
桐野様、拙著への書評ありがとうございます。「新潟日報」は都立中央図書館で所蔵していましたので、近々行って拝読してまいります。それにしても、新潟県立図書館の情報アップは速いですね!



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本日は愛知県知多市で講演です。
これから出かけます。

多くのお申し込みをいただきながら、定員の関係で受講できない方がかなりおいでだと聞きました。
まことに申し訳ありません。
その分も頑張ってお話しするつもりです。

昨日は本日の出張のために、あれこれこなさない仕事があって、けっこう綱渡りでした。

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【2011/07/02 08:04】 | イベント
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