歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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27日の西郷南洲顕彰館での講話は何とか無事こなしました。
いろいろご意見いただき、感謝です。

終了後、参加者の方から古文書の写真を見せられる。
何と、小松帯刀の書簡。
しかも、慶応3年4月のもの。四侯会議の頃である。
ざっと読んでみたら、小松自身が「御花畑」と書いていた。
これは島津久光が「御花畑」を訪れたときのことである。
いやあ、小松自身の書簡で「御花畑」と書いているとは思わなかった。
感動しました。
しかも、写真版も拝借させていただきました。

翌28日は、友人で郷土史に詳しい山口純一郎さんと史跡見学。
長丁場になりそうだったので、朝早くホテルに迎えにきていただく。
今回は忙しくて探索の予定を組む余裕がなく、大まかに回りたい所をお伝えして、細かいスケジュールは全部山口さんにお任せした。とてもよくできたコース設定で、120%回れました。
鹿児島市内のほか、姶良、帖佐、山田、富隈、国分、加治木、栗野などです。

途中で、行きたい人物の墓を次々と思い出し、あちこちに寄り道していただいた。山口さんは大変だったと思うが、個人的には収穫大でした。

とくに今回は山城の遠景が期せずしてテーマになった。

岩剣城、建昌城、富隈城、国分舞鶴城、姫木城、栗野城

などである。
建昌城から見た岩剣城とか、浜之市から見た富隈城とか、いろいろ面白い写真が撮れました。
おっと、国分清水城に行くのを忘れていた(汗)。

あと、墓も

新納旅庵、木脇祐秀、本田助之丞・勝吉父子、膝付栗毛(義弘愛馬)、伊集院忠真、豊州家の島津季久、同朝久、その夫人御屋地、島津忠清(義弘四男)

など多数。
なかでも、伊集院忠真の墓を撮影できたのは望外の収穫でした。
御屋地については、このブログをのぞいてくれているはずの某さんには垂涎だと思うので、国分舞鶴城の遠景とともに写真載せておきます。

御屋地
義弘長女の御屋地

国分舞鶴城
国分舞鶴城は面白い形をしています。

あと、どうしても行きたかった建昌城に行けました。念願が実現しました。
本丸はじめ、諸曲輪の壮大さ、堀切の深さに驚き。
家久の見果てぬ夢のほどが少しはわかりました。

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【2011/08/30 00:10】 | イベント
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地元なのに・・・
山口
 私も随分地元で知らない場所があったので、
いい勉強になりました。
 次回は富隈城から見た浜の市港も
撮り直しですね。稲荷山をあんな風に
使われるとは、義弘公もさぞびっくりされている
ことでしょう(笑)

お詫び申し上げます。
中村太郎
失礼なことを申し上げ、大変申し訳ございませんでした。
桐野の偽手紙が頭にあったものですから、後先考えず、あのようなことを言ってしまいました。
反省しております。お許しください。


ばんない
こんばんは。鹿児島では酷暑の中、かなりハードスケジュールだったご様子ですね。

興味深い写真拝見させて頂きました。御屋地の墓は某HPで一度写真を見たことがあったのですが、すさまじい荒れっぷりで驚愕したことがありました。今回はその時よりはちょっとマシになっている様子ですが…。

国分舞鶴城は朱門のあるあのお城でしょうか?朱門の写真はよく見かけますが、遠景の写真とは珍しい。あの詰めの城は古代の隼人の山城跡とも言われていたような記憶があります。

伊集院忠真の墓は後世に建てられた供養墓でしたっけ。で、父の忠棟の墓が出てきたら島津義久の肖像レベルの「世紀の大発見」?なのではと思いますが…まあ発見される可能性は0でしょうね、たぶん。

国分清水城
桐野
山口さん

先日はお世話になりました。
国分清水城に行くのを忘れていました。
またの機会にでも。

御礼
桐野
中村太郎さん

わざわざ遠方からおいでいただき、有難うございました。
ご指摘の点も検討してみたいと思います。

伊集院忠真の墓
桐野
ばんないさん

忠真の墓はご指摘のとおり、元禄時代の供養墓でした。縁者か家来筋の人が建てたのでしょうかね。
御屋地の墓の現況をお知らせできてよかったです。

re:伊集院忠真の墓
ばんない
こんばんは。本日(9/4)は大阪で講演だったようですが、台風12号襲来の中無事終了したのでしょうか。もっとも京阪神はたいしたことありませんでしたが…。

さて、伊集院忠真の供養墓に訪問されたと言うことですが、私はてっきり野尻にある例の供養墓かと思っていたのですが、上記の記事をもう一度読み直すと宮崎県には流石に越境されてられないご様子、もしかして別にお墓があったと言うことでしょうか?

加治木です
桐野
ばんないさん

お気づきのとおり、私が見たのは加治木にあります。義弘の地元にあるのが奇縁でしょうか? あるいは夫人於下の縁でしょうか?

野尻は未踏です。一度行きたいと思っています。


ばんない
こんばんは。
実は先ほど久しぶりにある本を読んでいたら、偶然この話が載っていまして自己解決してしまいました。で、質問削除しようとしたら、すでに回答がありました…本当にすみませんでした。

もし、「さつま人国記」などで紹介されることがあったら、ネットで紹介されるのはおそらく初めてになるかも知れません>忠真墓加治木バージョン HP等で紹介されているのはたいがい野尻にある方なので。

忠真室・島津御下はどうも忠真の菩提寺を建てたらしいので、加治木に供養墓があってもおかしくはないのですが…元禄時代の物みたいですしねえ。さて。

ご苦労様でした。
nick
今回は残念ながらお伺いできませんでしたが今月もあるとか、ぜひ拝聴したいものです。

山口先生、富隈城や浜の市は
地元の植山先生が調査中です。
小字は終わったようです。

この週末は、また姶良市の無料観光バスツアー参加です。


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昨日の名古屋の中日文化センターの講座「信長公記を読む」。
何とか出講できましたが、大変でした。

朝、東京駅に着いてみると、黒山の人だかり。
お盆休みは終わったし、何かイベントでもあるのかと思ったら、伊豆のあたりで集中豪雨があって、東海道新幹線が全線停まっているとのアナウンス。足止めを食った乗客が改札口付近にあふれていたのです。

この講座、無遅刻無欠席だったけど、初めての欠席になるのかと覚悟した。
一応、座席の予約をしてあったが、とにかく早い電車に立ってでもいいから乗ろうと思って、15分くらいしてドアが開いたので、自由席に飛び込む。
予約したのより10本以上前の電車だったが、何とか出発してくれて一安心。
でも、前が詰まっているから徐行運転するんじゃないかと別の心配も。
最終的に、いつもより15分程度の遅れだけで名古屋駅に着いた。
ほっと安堵です。

講座も長篠合戦のスライドをたくさん見てもらいました。
武田勝頼の敗走路をかなり詳しくやったのは珍しいかも。

で、明日から一泊で鹿児島です。
西郷南洲顕彰館の月例報告会で話をします。
演題その他はここにあります。
鹿児島周辺の方で興味のある方はどうぞ。
2日目は島津氏関係の史跡見学の予定。
天気がもってくれればいいけど。

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【2011/08/26 22:44】 | イベント
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本日は、日帰りで名古屋出張です。
中日文化センターでの講座「信長公記を読む」に出講です。

やりかけの仕事が終わらないで、それを放り投げていきます。
仕事の管理が悪いのか能力の問題なのか、他の仕事があるなかでのレジュメづくりもなかなかしんどいものがあります。今回はまたパワーポイント使用予定。

抱えきれない仕事の現状は頭が痛いです。
というか、実際にこめかみあたりが痛いです。
夏風邪だろうか?

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【2011/08/25 08:34】 | 中日文化センター
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第205回
―公家との交際、特殊な役割―

昨日、新聞連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

岡崎藩邸、小松原調練場と来て、錦小路藩邸の番になりました。
本来は他の二つより先に書くべきだったかもしれませんが。

今回は錦小路藩邸の前史とその成り立ちに絞りました。
とくに興味深いのは、錦小路藩邸に先行して、もうひとつ藩邸があったことです。
場所は室町四条下ルです。出典は地誌「京羽二重」です。
その存在は前から知っていたのですが、錦小路藩邸と混同しているのではないかと軽く考えたままでした。

ところが、今回の執筆にあたり調べてみると、やはり別の藩邸であることがわかりました。
ただ、いつ頃出来たのかまでは、史料不足というより時間不足で突き止められませんでした。
とりあえず、遅くとも貞享2年(1685)にはすでに存在しており、どこまで遡るかですね。
『旧記雑録追録』などを精査してみると、何か出てくるかもしれません。
本来はこの藩邸にも名前を付けないといけないですね。
記事にも書きましたが、錦小路藩邸にあやかれば(東西の通りを冠する)、四条藩邸か綾小路藩邸でしょうか?

あと、錦小路藩邸もいつ成立したか、力不足でわかりませんでした。
藩政史料と京都側の史料の双方を突き合わせるべきかもしれません。
これも今後の課題です。

次回はその下で、幕末の錦小路藩邸の動き、安政の大獄や僧月照の都落ち、鍵屋の話などになるでしょうか。

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【2011/08/23 01:54】 | さつま人国誌
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原田芳雄が亡くなったので、CS放送で追悼を兼ねた映画特集をやっている。昨日、たまたま表題の映画を放映していた。
原田の出演映画では一番人気。たしかに原田の男臭さが画面いっぱいにあふれている。

制作年は1974年。
私が学生時代で、場末の映画館でオールナイト何本立てかの一本として観た記憶がある。

モノクロ画像で、なかなか不気味な雰囲気が漂っていた。
とくに原田芳雄、石橋蓮司、松田優作が白粉を塗って「ええじゃないか」踊りに紛れ込むあたりは気色が悪かった覚えがある。
ただ、もう30年以上も前で、しかも深夜のオールナイトで半分寝ていたせいか、記憶がまだらになっている。
覚えているのは、中村半次郎を演じた役者が不気味だったこと。
よくわからなかったのは、龍馬と慎太郎を暗殺したのが誰だったかということ。中村配下の浪人や密偵だったようにも見えたが、中村自身は襲撃が空振りに終わっており、よくわからなかった。

そして今回改めてよく観てみたが、私のリテラシーの問題か、単に役者の顔を覚えられないだけの問題か、暗殺の実行犯たちが誰なのかまたわからなかった。

中村を演じていたのは外波山文明という渋い役者さんだというのはわかった。
またまったく記憶になかったが、大久保利通が出ていて、田村兄弟の末弟亮が演じており、ちょっとすがすがしい二枚目の大久保だった(笑)。ほかにも山谷初男が少し軽薄な岩倉具視を演じていたのも印象的。

改めて観てみて、70年代半ばという時代の空気を濃厚に感じた。
一時の高揚と熱気が去ったあとの気だるく白けた雰囲気が漂っていた。
それが龍馬自身を革命=討幕を懐疑し、ネグレクトする立場に立たせていたのだろう。

もっとも、龍馬暗殺の仕掛けは薩摩藩黒幕説の陳腐でありふれたもの。武力討幕を進める薩摩藩が大政奉還に肩入れする龍馬が邪魔になったので、密偵や浪人たちを使って付け狙う。
薩摩藩はあくまで黒幕だから、大久保もそのことを直接匂わさず、ただ、わざとらしいそぶりやニヒルな口許でそれを暗示させていた。
また慎太郎や陸援隊の連中も龍馬を付け狙うという設定も、あざとくて嘆息するばかり。

小道具では、やたら龍馬のブーツが強調され、護身用のピストルも銃身がやたら長いピースメーカーと思わせるもの。これって幕末期にはまだなかったはずだが……。

映画そのものはモノクロ画像を効果的に使って、これまでにない龍馬像を描いたという評価もあるが、史実寄りに観たら、故人には申し訳ないが、いささか鑑賞に堪えない。もっとも、黒木なら、自分が描きたい龍馬を描いたんだ、史実や時代考証なんてくそ食らえだというだろうけどね。

問題は、黒木和雄にそのような映画を撮らせ、またそのような龍馬像を造形させたものは何だったかということだ。
ひとつは明らかに「権力」や「革命」に食傷し否定的な時代風潮だが、もうひとつは薩摩黒幕説という陳腐で矛盾だらけのフィクションが多くの人々の脳裏に無意識に浸透していて、黒木も例外ではなく、逆にその布教者、煽動者になっているということだろう。

龍馬暗殺の真相は単純なはずなのに、一世紀近くかけて、なにゆえ小難しく複雑な深層にされてしまったのかなと感じる。
妄言多謝。

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【2011/08/20 18:15】 | 雑記
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南日本新聞の昨8月16日の記事。

奄美の龍郷町にある「西郷松」が枯れてしまったとのこと。記事はここです。無残な姿ですね。

龍郷町は奄美大島の北端にあります。
安政6年(1859)、僧月照と入水して蘇生した西郷は奄美に流されます(もっとも、これは流罪ではなく、幕府の追及を逃れるため、西郷が死んだことにしての潜伏だとされます)。
それが龍郷村(当時)でした。

3年前の2008年、調所広郷の子孫である一郎さんと一緒に奄美を訪れたとき、龍郷町の西郷流謫地にも立ち寄りました。そのとき、撮影した写真では、まだ「西郷松」は健在で、このように元気でした。枝を刈り取られた記事写真とくらべて下さい。

西郷松1

なぜ「西郷松」と呼ばれるのかというと、西郷を乗せてきた船のとも綱をこの松に結んだという伝承があります。
この松の根元に記念碑があります。
西郷松案内板


なお、このあたりは前が海で、とても風光明媚なところです。
西郷松2

西郷が棲んだという屋敷跡(復元)もあります。
流謫地

樹齢250年だったとのことですが、残念ですね。
せめて元気な頃の写真を撮影していてよかったです。

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【2011/08/17 11:09】 | 幕末維新
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9月の講演のお知らせです。

近年、鹿児島市の宝山ホール(旧・県文化センター)で講演をしていますが、今年も25日(日)にやることになりました。
チラシの最終校正が終わりましたので、表裏2面を載せておきます。
表紙はなかなかかっこいいです。
表はここ
義久と義弘

裏はここ
義久と義弘2
です。

2008年は大河ドラマ「篤姫」にちなんで、小松帯刀。
昨年は同じく「龍馬伝」にちなんで、「坂本龍馬と薩摩の絆」

と題して講演してきました。

今年は、

義久と義弘

サブタイトルが「波乱に満ちた戦国島津兄弟の闘い」です。

主催者側からは「義弘」でという依頼でしたが、義弘だけでは戦国島津氏はわからない、義久も入れたほうがよいのではと提案したところ、ご理解いただき、義久をタイトルにいれてもらいました。

1000人以上の規模の会場で、義久をメインにしたお話が鹿児島でできるのは画期的なことではないかと思っています。
また大河ドラマとは関係ないですが、義久の3人の娘(於平・新城・亀寿)=島津三姉妹についても語る予定でいます。とりわけ、亀寿の存在が重要です。

これまでの講演では、大河ドラマの波及効果のおかげで多くの方々においでいただきました。
ところが、今年は大河ドラマとはまったく関係ありません。これまで高いゲタを履かせてもらっていたわけで、今年こそ真価が問われそうです。

したがいまして、鹿児島にお住まいの方はもちろん、県外からもご参加をいただければうれしいです。
ちなみに、入場無料です。
問い合わせや申し込みは上記チラシをご参照下さい。
往復ハガキでのお申し込みとなります。

念のため、概要だけ書いておきます。

日時:9月25日(日)12:30開場、13:00開演
会場:宝山ホール(サイトはここです)
   住所:鹿児島市山下町5-3
   電話:099-223-4221
   アクセスはここです
演題:歴史作家 桐野作人講演会
   「義久と義弘~波乱に満ちた戦国島津兄弟の戦い~」
主催:(財)鹿児島県文化振興財団

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【2011/08/15 17:10】 | イベント
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ばんない
お久しぶりです。

>主催者側からは「義弘」でという依頼
地元でもそうですか…何か切ないです…。
>義久の3人の娘(於平・新城・亀寿)=島津三姉妹についても語る予定
地元でも知られてなさそうなので、この機会に認知度が上がるとうれしいです。が、浅井三姉妹に比べるとかなり救いがないのが島津三姉妹なので…聴衆者のみなさんが重さに耐えきれるかどうか。

最後になりましたが、講演を非常に聞きに行きたいのですが、諸般の事情で身動きが取れないのが残念です。盛況になりますよう願っております。

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お知らせです。

15日(月)の「さつま人国誌」は新聞休刊日のため、お休みです。
次回は22日(月)になります。

お知らせが遅くなりました。

ただいま、超多忙につき、更新も滞りがちです。
あしからずご了承下さい。

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【2011/08/13 22:26】 | 雑記
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武蔵野大学生涯学習講座のため、三鷹のサテライトキャンパスに出講。

この講座も4回目。

今回は、大坂の両陣を中心に、淀殿と初(常高院)の話をする。
話しながら、もう少し史料を揃えたらよかったと感じた。
時間的には十分の内容だったが。

次回は今シリーズの最終回。
お江の子どもたちのことや、お江の死について語る予定。

それと、秋からの講座日程が決まり、チラシも出来ました。

テーマ「『信長公記』を読む」

10月から毎月1回で、原則として第3金曜日13:00から開催です。
以下の6回です。

10/21 11/18 12/16 
01/20 02/17 03/16
 
詳しくは、ここをご参照下さい。
受講をお待ちしております。

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【2011/08/11 10:41】 | 武蔵野大学社会連携センター
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第204回
―島津珍彦指揮で軍事演習―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回は東の岡崎でしたが、今回は西の小松原です。
岡崎と同様、これを藩邸といっていいのかもしれませんが、その性格がはっきり表れている調練場としました。
記事にもあるように、『桂久武日記』で慶応2年(1866)1月に、小松帯刀・島津伊勢・桂久武などの家老や西郷吉之助・吉井幸輔などの在京重役の協議により、調練場建設が決定したと思われます。
すでに岡崎にも調練場があるのですが、なぜ小松原にもつくったのか、理由がよくわかりません。

今回、使用した写真は京都・霊山歴史館所蔵の弾薬庫の古写真を提供していただきました。
現地にも足を運び、そのよすがを感じさせる写真も撮影しておりますが、今回掲載できなかったので、ここで載せておきます。「小松原児童公園」周辺が該当するのではないかと思います。大まかな位置は平野神社と立命館大学衣笠キャンパスの中間です。

小松原

場所の特定については、少し気になっている点もあります。
『京都の歴史』7・維新の激動(学芸書林)に付属する歴史地図には、等持院のすぐ南に「薩摩島津屋敷」というポイントがあります。これは小松原調練場を意味しているのかなと思いますが、今回の比定地より少し西になります。何を典拠にしたのか不明ですが、今回は採用しませんでした。今後の検討課題にしたいと思います。

今回印象に残ったのは、記事にも書いた久光三男の島津備後(重富家当主島津珍彦)のことです。彼は西郷や大久保と親しく、兄である図書久治と異なり、いわゆる武力討幕派に属しています。小松と一緒に写った写真もあります。
前回書いた岡崎での軍事演習でも総指揮をとったのは彼です。そして、小松原でも備後の指揮する薩摩藩兵が調練場から外に出て北野天満宮でも行軍して、近在の人々を驚かしています。
尾張藩留守居役の尾崎忠征などは備後を「豪傑」と評しています。慶応3年(1867)で弱冠24歳の御曹子ですが、久光の兄弟のなかではかなり出来がよかったのではないでしょうか。彼の事跡ももう少し知られてよいかもしれません。
この慶応3年9月の軍事演習は記事にも書いたように、差し迫った三藩挙兵計画に沿ったもので、かなり重要な出来事だったと思います。もし実現していたら、備後が総大将になり、西郷が補佐するという体制になった可能性が高いですね。

岡崎、小松原ときたので、次回は錦小路の藩邸について書きたいと思います。
時代は少し遡って、安政年間が中心になりそうです。

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【2011/08/08 20:01】 | さつま人国誌
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日次記です。

1日(月)
雑誌連載の単行本化にあたり、入稿のため拙稿の構成変更や大幅な手直しを何とか終了して送稿。
でも、これからがまだ大変なのだ。何せ初校ゲラが出てくるのはこれからなんだから。

2日(火)
夕方、神保町へ。
小学館の古文書特別講座「てらこや」に出講。

佐佐木高行の『保古飛呂比』の7回目。
今回は、佐佐木がまとめた長文の土佐藩幕末前史を読む。
「おこぜ組」や「新おこぜ組」、「五十人組」などをおさらい。
土佐藩の内部抗争史を見ていると、主義主張というよりは、門閥派と藩主の後押しを得た「改革派」(どちらかといえば、門地家柄が低い)の対立で、前者が後者を押しつぶすことがくり返されているような印象。

とくに「おこぜ組」の首領、馬淵嘉平の「心学」を軸とした結社の秘密性、閉鎖性が党派としての台頭をもたらす要因になると同時に、門閥派や反対派から「伴天連」などとレッテルを張られて攻撃されるきっかけも与えたように思われる。
馬淵の「心学」とは果たしてどんなものだったのだろうか? 石田梅岩の「石門心学」と違うのか否か? 馬淵が「心学」に独自の工夫をしたと佐佐木が書いているから、だいぶ違うものだったのだろうな。不勉強で知らないが、先行研究はあるのだろうか?
幕末のトンデモ本に「フリーメーソン」ネタがあるけど、馬淵の「心学」こそそんな風に見えるけどなあ。

3日(水)
一昨日送稿したはずの拙稿、編集部からwordファイルがおかしいとの連絡。
改行などの処理がすべて吹っ飛んでいて、テキストデータみたいになっているとのこと。
一太郎文書をword文書にコピーしたせいかと思ったが、いままでそんなトラブルはなかった。
あるいは、wordのヴァージョン違いではないかと思ったら、どうやら当たりだった。

4日(木)
南日本新聞の連載原稿の単行本の初校ゲラ校正を先週からやっているが、なかなか終わらない。
ようやく参考文献の注記が終わった。
前作の反省点として、参考文献の注記が中途半端だったので、なるべく多く付けようと思い、やりはじめたら大変だった。机まわりは史料本が山積みになってしまって、通行もままならない(笑)。
連載56回分を一冊にまとめたが、1回につき、平均して5個程度の参考文献があるので、全部で200以上になる。
出典を忘れていたり、史料番号の確認などに手間どったが、これだけはようやく終わった。
小見出し付けと本文校正はこれから。

5日(金)
午後から新宿で某社の編集長、編プロさんと打ち合わせ。
前回大まかに打ち合わせ済みだったが、正式な決定だとか。
また締切を切られてしまい、今年はじめと同じように、また自分の首を絞めそうな予感。

6日(土)
午前中、南日本新聞の連載原稿を何とか仕上げる。
午後から半蔵門の日本カメラ博物館と併設のJCIIフォトサロンでのトークショーを拝聴。
古写真研究者の石黒敬章さんと井桜直美さんが「幕末・明治維新を生き抜いた人々」について語るというもの。
開始の直前に行くと、会場は満員だった。
井桜さんは古写真に写る人間(とくに日本人)の顔色がなぜ黒っぽいのかを多くの古写真を比較しながら追求された。黒く写るのは室内で素顔のせい、戸外だったり、白粉を塗ると白く写るそうで、男性も白粉を塗って撮影した可能性大という話だった。
最初にあったジョセフ彦など漂流漁民の写真がとくに面白かった。

石黒さんは秘蔵写真から、龍馬、勝海舟、西郷隆盛などの写真・肖像画の解析。
とくに興味深かったのは、松木弘安こと寺島宗則の若い頃の坊主頭の写真。はじめて見た。寺島がまだ医者だった頃に撮影したものだろうか。
石黒さんがあんなにダジャレを飛ばす方だとは知らなかった(笑)。

会場には、M川さん、M重さん、K持さん、S木さんなど知り合いの方々もおいで。
釣洋一さんにも久しぶりにお会いした。お元気そうで何より。
終了後、近くの喫茶店でM重さんが入手した某薩摩藩士の古写真と古文書を見せてもらう。古写真は注目すべきものだった。そのうち、ご本人が何らかの形で公表されることだろう。
新聞連載のゲラ校正が残っていたので、早めに失礼した。

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【2011/08/07 21:05】 | 日次記
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松木弘安の写真
森重和雄
桐野さま

先日はまたいろいろとご教授くださいまして、どうもありがとうございました。
お礼申し上げます。

さて、先日、桐野さんが日本カメラ博物館でご覧になった松木弘安の写真は、一番古い写真の一枚で、松木が蕃書調所教授手伝に復職後の、文久元年(1861年)12月の第一回幕府遣欧使節で、傭医師兼翻訳方の資格で随行した際にで撮影された有名な写真です。
撮影者はディッキンソンという写真師です。


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山崎合戦で、明智光秀が本陣を置いた「御坊塚」の場所を特定できるような発掘調査がありました。

ここここです。

写真で見るかぎり、かなり立派な空堀ですね。もし光秀本陣だとすると、堅固な陣城になっていたことがわかります。

「御坊塚」の候補はこの恵解山古墳近くと、もう1カ所の境野1号墳の2カ所あるそうです。
古墳に手を入れて、陣城にするのは戦国時代よく見られる現象ですね。

秋には現地説明会があるそうですから、ぜひ参加したいものです。

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【2011/08/05 12:45】 | 信長
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講演(講話)のお知らせです。

鹿児島市の南洲顕彰館のお招きにより、話をすることになりました。
「南洲遺訓学習会」というイベントです。

どういうテーマにするか迷ったのですが、折よく新出の西郷隆盛書簡を入手する機会があったので、紹介を兼ねながら、やってみることにしました。
おそらく2点とも明治期、それも新政府から下野したあとのものではないかと推定されます。
1点は吉井幸輔宛て、もう1点は桐野利秋宛てです。

鹿児島開催なので、参加できる方は限られるかと思いますが、近隣で関心のある方は参加してみませんか。
また同館は最近、リニューアルされて展示品や展示方法も一新されたと聞いています。

詳しくは同館サイトのここをご覧下さい。

念のため、概要を載せておきます。
お問い合わせやアクセスはここをご覧下さい。


第256回 南洲遺訓学習会のお知らせ
○2011年8月27日(土) 午後2時~4時
○西郷南洲顕彰館 別館
○講話 「西郷隆盛新出書簡2点について」
     講師 桐野 作人氏

○詩吟 当会会員 中西 寛治  ○遺訓 当会理事長 桂 久昭

※今月の講師、桐野作人氏の略歴をご紹介いたします。
桐野作人(きりの・さくじん)
1954年鹿児島県出水市生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係の出版社編集長を経て独立。戦国・織豊期や幕末維新期を中心に執筆・講演活動を行う。主な著書に『さつま人国誌 幕末・明治編』(南日本新聞 社)、『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)、『島津義久』(PHP研究所)など多数。現在、南日本新聞で「さつま人国誌」を連載中。

※当日は混雑が予想されます。当日は可能な限りご対応させていただきますが、座席には限りがございますので、何卒ご了承ください。

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【2011/08/04 22:19】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第203回
―会津藩邸近くで軍事調練―

連載が更新になりました。
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今回は、おそらくほとんど知られていない薩摩藩の京都岡崎藩邸について書きました。
元治大火図」に岡崎藩邸(「薩州ヤシキ」)が載っているのを知っていたので、先日、同志社大学の歴史資料館の先生方とお会いしたとき、お尋ねしてみたら、同館が所蔵していると教えてもらい、借用することができました。いろいろお骨折りいただき、感謝します。

この岡崎藩邸がいつ、どういうきっかけでできたのか。また敷地の広さや施設などは何があったのか、私の不勉強もあってよくわかりません。島津家には何か史料が残っているかもしれませんが。
洛外という立地もあって、主に軍事教練に使用していたことがわかります。

ともあれ、ほとんど知られていない藩邸のひとつを紹介するだけでも意義があったと思っています。


次回は、東の岡崎と反対の西にある小松原の藩邸について書きたいと思います。
こちらも軍事調練に利用され、弾薬庫、番所などがあったようです。

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【2011/08/01 21:03】 | さつま人国誌
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