歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
もうすぐ除夜の鐘も聞こえそうです。
今年は3・11をはじめ自然災害が多い多難の年でした。

そんななか、個人的な思い出は、秋に訪れた南日向の旅です。
何より、戦国島津氏のゆかりの地でもあります。
島津四兄弟の末弟家久が一説によれば、豊臣秀長から毒を盛られたという野尻、同じく伊集院忠真が島津忠恒に謀殺された場所でもあります。
伊東氏の居城都於郡(とのこおり)城も行きました。想像以上の規模で、深くて鋭角的な堀切や空堀、5メートルはあるかという高い土塁など、その遺構の素晴らしさに驚きました。
そして、私が現在もっとも興味をもっている島津家久の墓にも詣でることができました。以前、佐土原には西南戦争の取材のときに立ち寄ったことはあるのですが、取材のテーマの関係上、家久関係は回れなかったので、ようやく念願が果たせました。家久の墓には祈り事をしてきました。
ほかにも高岡郷や去川関なども行きました。

都於郡と佐土原だけでも十分だったのですが、せっかくなのでと思い切って飫肥にも足を伸ばしました。
飫肥は日向国南端で伊東氏の城下町。
南九州の小京都として観光名所にもなっています。

隣県ながら、いままだ一度も訪れる機会がなく、これまた念願がかないました。折から小雨模様でしたが、拝観したときは雨は止みました。
あちこちにNHKの数年前の朝の連ドラ「わかば」の古びたポスターが貼ってあった。飫肥が舞台だったんですな。知らなかった。しかも、ポスターの主が誰かと思ったら原田夏希じゃないの。大河「篤姫」で小松帯刀の京都妻お琴を演じた人。

飫肥は明治後期の外務大臣小村寿太郎の出身地でもあります。
ドラマ「坂の上の雲」でも登場しましたね。
小村はポーツマス講和条約での日本側全権としてもよく知られていますが、やはり安政条約以来の条約改正に尽力した人としても記憶されるべきで、今日のわが国のTPP加盟の動きを、小村なら何と言うだろうかという気がしています。先人の努力だけは無にしたくないもの。
飫肥にとって、小村は地元の英雄のようで、生誕地、墓地、記念館、銅像と何でもありました。そのうちのいくつかを紹介しておきます。
生誕地
小村寿太郎生誕地
小村墓
小村寿太郎と小村家の墓所
小村銅像
小村寿太郎銅像

飫肥城もよかったですね。伊東氏は5万石ほどの小大名ですが、城郭はとても立派で、鶴丸城の比ではありません。しかも、保存状態がいいです。それでも江戸時代には3度の大きな震災に遭ったそうです。
飫肥城
飫肥城

お城をめぐったあと、お腹がすいたので、城内のお店で腹ごしらえ。
飫肥は飫肥天が有名。じつは城めぐりのときも、飫肥天を買い食いしたくらいです。
飫肥天、要は鹿児島だと薩摩揚げ、つけあげとほぼ一緒です。味は薩摩揚げをさらに甘くした感じで、昔は子どものおやつには最適だったと思います。
それで、食べたのは飫肥天定食でした。左上が飫肥天です。
飫肥天
飫肥天定食

四半的
四半的を射る私とY口さん

腹ごしらえをした頃にはもう閉門に近く、飫肥まで来たならば、やはり名物の四半的(しはんてき)をしないと甲斐がないと、大手門外にあった射場で四半的を実射しました。
四半的というのは、的(標的)までの距離が四間半(約8・2メートル)、矢の長さが4尺半(約1・36メートル)、的の直径が4寸半(約13・6センチ)と、すべて四半でそろえてある飫肥独特の弓道です。地元では老若男女が楽しんでいます。
通常の弓道とくらべて、矢が異様に長く的がほんとに小さいです。
時間の関係で5本しか射てなかったですけど、1本も刺さりませんでした。1本だけ的の縁に当たったのですが、弾き飛んで刺さらなかったのが残念です。
同行したY口さんは高校時代、弓道をしていたそうですが、その彼でさえ1本も当たりませんでした。
矢が長くてしなるため、狙いがつけにくいでした。
次回こそはと思いますが、その機会があるかどうか。

小倉処平
小倉処平の墓

最後に訪れたのが小倉処平の墓。
旅行直前に、飫肥を訪れた友人から小倉処平の墓があると聞き、ぜひ訪れたいと思っていました。
小倉は海外留学経験もあり、明治政府の官僚でした。そのまま何事もなければ、大臣クラスになっていたでしょう。後輩の小村寿太郎を薫陶したことでも知られます。
小倉は佐賀の乱で敗れた江藤新平を匿ったこともあり、西南戦争では西郷軍に与し、飫肥隊300名を率いて従軍、各地を転戦した末、延岡の和田越の戦闘で自刃しました。
小高い岡の上に、飫肥隊の戦死者の墓所がありました。訪れる人とてほとんどおらず、かなりさびれ荒れておりました。そのなかから、小倉の墓をようやく見つけて祈りを捧げました。飫肥隊からは有為な人材が数多くなくなったのが、その墓標の多さから実感しました。

南日向訪問は思い出深い旅となりました。

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【2011/12/31 22:34】 | 歴史紀行
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二中
Y口
 四半的、私は今回で3回目でしたが、
まだ二中しかしていません(^^;)
 昨日の南日本新聞11面の地震の記事で、
清武川南岸のあたりまで飫肥藩の領地だった
ことを知りました。石高の割には領地が
意外と広かったことに驚きでした。

 

良いお年をお迎え下さい
市野澤 永
本年は講演依頼をお受け下さり、
ありがとうございました。

新書のお手伝いをさせて頂いたことは貴重な経験でした。
感謝致しております。

来年も宜しくお願い致します。

明けましておめでとうございます。
小林 哲也
桐野先生

明けましておめでとうございます!
どうぞ、本年もよろしくお願いいたします。
            小林 哲也

御礼
桐野
小林哲也さん

本年もよろしく。
ご本有難うございました。
よく出来ていますね。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第219回
―知られざる薩軍戦死者―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は少し趣向を変えて、箱館戦争の一環である宮古湾海戦を取り上げました。同海戦は榎本海軍の回天艦によるなぐり込み=アボルダージュが有名です。TVドラマなどでも取り上げられたことがあり、主役はいつも土方歳三であり、またガトリング砲が登場します。

この海戦がどのようなものであったのか。とくに明治政府軍の一員であった薩摩藩側はどうだったのかという視点から書いてみました。

それというのも、同湾の高台にある本照寺の奥に官軍墓地があり、訪れる人もほとんどいないのですが、そこにある墓石に4名の戒名が刻まれているのがずっと気になっていました。この4名が誰なのか、武士か水夫・軍属か、武士ならば、どの藩の人か興味があったからです。

また、箱館戦争に従軍した薩摩藩兵のこともほとんど知られていません。
箱館攻めの参謀黒田清隆、軍艦春日に乗船していた東郷平八郎、あるいは榎本軍との和平交渉にあたった村橋直衛(サッポロビールの祖)などは知られていますが、一般兵士は知られていないと思います。
従軍していたのは、薩摩藩の身分制でいえば、兵具方(ひょうぐかた)と呼ばれる足軽たちで編成された兵具三番隊です。この一番隊はのちの大警視、川路利良が隊長で、鳥羽伏見の戦いや彰義隊との上野戦争で奮戦しています。三番隊(200名ほどか)は少し後から編成され、箱館に出陣すべく、芸州藩の豊安丸と阿波藩の戊辰丸に分乗していました。

両軍戦死者については、『復古記』の「蝦夷戦記」所収の諸藩史料がいちばん詳しいと思います。そのなかで輸送船の戊辰丸から戦死者3名、行方不明者3名が出ていますが、4名の戒名と数が合いません。
戊辰丸の死傷者はほとんど阿波藩蜂須賀家の人々で、1名だけ英国料理人(マッケンジー)が含まれます。薩摩藩兵はいません。

一方、薩摩藩側の諸隊の戦闘報告を収めた『薩藩出軍戦状』下の兵具三番隊の記録を見ると、豊安丸に乗船していた兵具方三番隊から戦死者1名、負傷者2名が出たことが記載されていました。この記録は「蝦夷戦記」には含まれていません。

よって、この戦死者1名(嶋田市次郎)と戊辰丸の戦死者3名の合わせて4名が墓石に刻まれた戒名に該当するのではないかと推定してみました。

なお、戊辰丸の行方不明者3名が気になりますが、これは戦闘中、海に転落した人たちだと思われます。その後、救出されたか、あるいは外洋に流れ出て遺体が見つからなかったのかなとも思っていますが、戒名4名に含まれている可能性も排除できません。

なお、宮古湾の近くに戦死した新選組の野村利三郎や幕軍無名戦死者の墓がありましたが、先の大津波で流されてしまったかもしれませんね。無事であればよいのですが。

それと、この海戦で甲鉄艦からガトリング砲が発せられたことはよく知られています。
私はそれを史料で確認したことがなく、本当なのだろうかと思っていましたが、ある史料(回天搭乗従軍者の記録)に「ガツテリングガン」で撃たれたと記載されていました。

薩軍戦死者の嶋田市次郎はどのような人なのか、よくわかりません。
有名になった宮古湾海戦ですが、薩摩藩側にも死傷者が出ていたことも記憶してもらえたらと思って、今回書きました。

【追記】
戦死者の嶋田市次郎についてですが、京都の東福寺塔頭即宗院に西郷隆盛が揮毫した戊辰戦争での薩軍戦死者墓碑銘があります。そのなかに嶋田がいないかどうか、過去の写真を見てみたら、ちゃんと記載されていました。
島田市次郎周次
とあり、実名も載っており、少し個人情報が増えました。
なお、兵具三番隊の隊長、恒吉休右衛門も戦死したようですが、これは箱館の戦いでしょうね。

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【2011/12/27 10:27】 | さつま人国誌
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またご論著いただきました。
記して御礼申し上げます。

金子拓さんより
『記憶の歴史学―史料に見る戦国―』 講談社選書メチエ 2011年12月 定価1.800円+税

共同研究や輪読会などでご一緒している金子さんの新著。
何といっても、タイトルが目を引く。
歴史学やその研究者は「史料」があってはじめて成立するが、「記憶」が果たして「史料」になりうるかという意表を突いたテーマです。
「史料」は客観的に見えて、少なくない錯誤や主観が入り込むのは避けられないわけで、もともと「記憶」との境界もあいまいなのかもしれないなと感じた。氏の豊かな着眼に改めて感じ入った。
とくに細川ガラシャ(明智玉子or惟任玉子)の自害一件の真相追求が、太田牛一の記録を手がかりに、細川家の史料を博捜したもので面白かった。
余談ながら、本書のなかで『兼見卿記』天正10年分が2種(別本と正本)あるのも取り上げられている。記録の改変と記憶の関わりの素材として用いられている。しかも、20年前の古い拙著が俎上に上げられているのは忸怩たるものがあった。できれば焚書したい本だからだ。一度公表してしまうとずっとあとに残ることになると改めて痛感した次第。

大西泰正さんより
「明石掃部の基礎的考察」 『岡山地方史研究』125号 岡山地方史研究会 2011年12月

宇喜多氏の研究者である大西さんから拝受。
キリシタン武将でも知られる明石掃部(実名は守重が正しいらしい)はいわば謎の武将だが、史料的な制約があるなかで、できうる限りの史料を収集・動員して、その基礎的な史実の確定につとめている。
掃部については、その出自から家督継承時期、キリシタン入信時期、秀家との関係、宇喜多家中での地位、その後の消息など不明な点が多すぎるが、それらにかなり肉薄したものになっている。
キリシタンに入信した時期はかなり遅かったことがわかるし、黒田長政との交流なども興味深い。関ヶ原合戦後、一時長政に仕えたらしいことなども興味深い。
福岡藩の分限帳には「明石道斎」とあり、「明石掃部全誉」のことだと書かれている。掃部の実名を「全登」としたものがあり、私も疑問に思いながら使用したこともあったが、「全誉」を誤読したものなのかとも思った。なお、「全誉」は「オシトウ」と読むらしい。
謎の多い人物だけに大変勉強になりました。

ほかにも頂戴したものがありますが、また紹介します。

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【2011/12/25 13:50】 | 新刊
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ありがとうございました
zeigen
桐野さま

お世話になっております。大西です。
拙稿について過分の褒詞をたまわり感謝にたえません。
至らぬ点、検討課題ばかりでお恥ずかしい限りですが、
今後とも宜しくご指導のほどお願いいたします。
年末ご多忙のところ本当にありがとうございました。

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表題拙著が重版になり、先月下旬には完成しております。
誤植や私の勘違いなどもありましたが、だいぶ修正と加筆ができました。

まだお買い求めておられない方はぜひ重版分をご購入下さい。

詳しくはここです。いろんなネット書店で購入もできます。

昨日、名古屋の中日文化センターでの講座「信長公記を読み解く」で、今年の講演・講座はすべて終了しました。
今年は拙著公刊により、永年の信長との関わりにも一区切りつけられたような気がしています。
太田牛一『信長記』の研究はこれからも続けるつもりです。来年はその共著も刊行される予定です。

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【2011/12/23 16:44】 | 信長
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中の人
一刷購入者です。
出版社のサイト等から、正誤表をダウンロードできると助かるのですが。

そういえば『退き口』も、重版時に訂正や加筆が入っていると、おっしゃってましたね。

誤植の件
桐野
中の人さん

拙著お買い上げ有難うございます。

重版での直しについて、ご意見有難うございます。版元にも相談してみます(ご期待に沿えるかどうかは保証できませんが)。

ただ、基本的には「てにおは」やルビの直しが多く、文意を大きく変えるものではありません。ですから、初版でもさほど意味を取り違えることはないと思います。もちろん、ミスしたことでご迷惑をかけていますが。

1カ所だけ少し大きく付け加えたのは、元亀争乱での志賀の陣の和睦のところです。
298頁になりますが、形勢有利のはずだった信長がなぜ浅井・朝倉との和睦に応じたのかという点。
同頁末尾に以下の3行を付け加えました。
「信長はあくまで浅井・朝倉両軍を攻め潰すつもりだったから、両軍の和睦申し入れも拒絶してきた。両軍の退路を絶つ堅田城攻略がその決定打になるはずだった。その作戦が失敗したため、信長は和睦に転じたと思われる」

初版よりも、堅田城攻めの意味・重要性をより大きく評価しなおしました。
信長は堅田城を攻略・確保して、浅井・朝倉軍を包囲殱滅するつもりだったと思われます。
しかし、堅田城攻めに失敗し、両軍の退路を断つことが不可能になったことを悟って、長滞陣には意味がないと悟り、和睦に転じたのではないかと考えました。
従来、あまり指摘されていないのではないかと思っています。

以上です。

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*後記
下記の件、本日18:00現在、下記サイトに無事掲載されました。


昨日アップしたエントリー「新発見の小松帯刀書簡」。
南日本新聞サイトのここですが、まだ正式にアップされていないようです。

私が昨日17:00頃にのぞいたときにはたしかに一度アップされていました。それを確認してからエントリーを書いたのですが、その後、何らかの事情で取り下げられています。何か技術的な手違いがあったのではないかと思います。

これまでも似たようなことはあったので、今日1日静観して、それでもアップされない場合は先方に問い合わせてみます。

記事に期待されていた方もおいでではないかと思いますが、お詫びします。
もうしばらくお待ち下さい。

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【2011/12/20 09:44】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第218回
―京都邸「御花畑」に触れる―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしたらご覧になれます。

今回は予告したとおり、新出の小松帯刀書簡の紹介です。
年次は慶応3年(1867)で間違いないと思います。
ちょうど四侯会議の頃です。

記事にも書いていますが、この時期、英国公使パークス一行が大坂から伏見を経由して越前敦賀まで旅行します。その目的はよくわかりませんが、越前藩などは敦賀も開港させるつもりかと警戒したようです。
問題は一行が伏見を通過したことです。
京都は天皇が住まうところなので、外国人の入京は堅く禁じられていました。そしてすぐ近くの伏見を通過したことさえ、攘夷派によって問題視されました。

発端は土佐脱藩士が攘夷派公家の鷲尾隆聚(のち高野山挙兵のリーダー)や滋野井実在・公寿父子に働きかけ、彼らが二条摂政を突き上げたところ、二条はあっけなく武家伝奏と議奏をすべて罷免してしまいます。
これにより、この両職にどういう政治的立場の公家を任命するかで、薩摩藩と幕府の間で激しい駆け引きがくり広げられます。

この一連の事件をパークスの伏見通過から意図的に仕組んだのが小松帯刀だと、会津藩の秋月悌次郎などは強く主張しています。小松がその直前、大坂でパークスと会見しているのがその証左だというわけです。
となると、土佐脱藩士の背後で糸を引いていたのも薩摩藩ないしは小松ということになりますね。また会津藩が薩摩藩の要人の行動をよく把握していて、その情報収集能力にも驚かされます。

この土佐脱藩士が誰なのかよくわかりませんが、中岡慎太郎の日記『行行筆記』によれば、鷲尾・滋野井らが二条摂政に抗議する前日、中岡は正親町邸で鷲尾・滋野井らと会っていることがわかります。したがって、土佐脱藩士のなかに中岡が含まれることはほぼ確実だろうと思います。そうであれば、中岡がそのリーダーだった可能性が高いですね。

中岡と薩摩藩の間にひそかな連携があったか否かですが、中岡は正親町邸での会合と同日に吉井幸輔と会っていることは日記で確認できます。吉井は小松に同行してパークスにも会っていますから、中岡と小松が直接ではないにせよ、つながっていた可能性もないとはいえません。

一方、今回の小松書簡には、小松自身がこの一件の事情がよくわからず、あとからわかったと書いています。この言葉を信じるなら、小松の画策ではないし、中岡たちとの共謀の可能性もぐっと低くなります。

宛所が国許の家老桂久武なので、ウソを書くとも思えないという気はします。もし小松がひそかに画策したのなら、むしろ、この一件には沈黙を守るのではないかと思います。

あと、私がずっと関心をもっていた小松の京都邸「御花畑」について、小松自身がこの書簡で触れていました。久光の「御成」に感激したと書きとめています。
「御花畑」が小松の京都邸だったことは、ほかの史料ですでに判明していますが、小松自身が言及したことがとても感慨深いものがあります。

かなり長文なので、全文を紹介できないのが残念ですが、この書簡の閲覧・撮影と発表を許可していただいた所蔵者の方に厚く御礼申し上げます。

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【2011/12/19 17:11】 | さつま人国誌
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不思議
桐野
19:45現在、同紙サイトに記事が載っていません。
17:00頃には一度掲載されていたのを見たのですが、その後、消えています。何かトラブルがあったのでしょうか? 不思議です。

先日の「ファミリーヒストリー」
ばんない
こんにちは。

先週金曜日の昼に再放送されていた物を偶然拝見していて、桐野さんが出演されていたので驚きました。

普段は有名人のご先祖捜しをする番組ですが、その日はたまたま素人さん特集で、カナダ人男性がご先祖を探しに来るというコーナーで「田尻務」と言う人物が紹介されましたが、この人物は別名「田尻種賢」ともいい、赤山靭負・桂久武の兄弟で、また子孫は外国に渡航して客死までしていたというのも初めて知り興味深かったです。
しかし、子孫も3代経ると容貌には全く日本人の痕跡も残ってませんでしたね(^^;)

個人的にはご近所関係のご先祖も登場していて興味深かったです。そちらも祖母が外国人と言うことなんですが、やっぱり孫になると全く日本人顔ですね。

田尻という名字はどこかで見た記憶だけはあったんですが、意外にも桐野さんのブログでも取り上げていなかったので兄弟の桂久武が登場していたこの記事にコメントさせてもらいました。

田尻務
桐野作人
ファミリーヒストリーの再放送をご覧になったのですね。
田尻務については、一応、前から知ってはいたのですが、新聞連載にまとめるだけのネタがないと思っていました。
今回、依頼があっていろいろ調べましたら、屋敷の場所とか、霧島神宮宮司罷免の理由などがわかりました。放映はされていないですけど。
罷免のほうは、西南戦争直前、県令大山綱良が西郷上京を各方面に知らせるため、県庁の役人などを派遣していて、田尻もその一員となり、おそらく東京に派遣されたと思います。田尻は慶応年間、久光の側役をつとめており、大久保利通の書状を久光に取り次いだりしていて大久保と交流があったので、その縁からの派遣だと思います。ただ、上京の様子が史料でよく確認できません。
また、田尻がこの任務を嫌がっており、再三固辞したようですが、大山に無理矢理引き受けさせられたことは史料で確認できました。
そのせいもあって、戦後、田尻は拘束されましたが、罪には問われず釈放されています。もっとも、宮司は罷免させられましたけど。
その史料を番組にも出ていた子孫の方(鹿児島市在住)に制作会社通じて渡してもらったら、西南戦争加担の一件で肩身の狭い思いをしていたけど、少し楽になったと喜ばれたようです。


田尻務
ばんない
御返事ありがとうございました。

田尻は兄弟関係から西南戦争に絡んで、その結果宮司罷免になったのかと思ったのですが、そうではなかったのですね。

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昨日、西千葉の千葉大学まで出かけました。
千葉史学会の例会で友人の市野澤永さんの報告があったためです。
下総結城氏のある人物が誰なのかというテーマでした。
史料不足のなかで、いろいろな方法により類推するというもので、なかなか面白かったです。

さて、市野澤さんから以前、講演会の告知を頼まれておりました。
私が以前、江戸川区でお江の講演をしたとき、いくつかの歴史系サイトでご紹介いただいたこともあり、今回はそのお返しです。
細川重男さんは北条氏の研究者として著名で、近刊は非常に好評だったと聞いております。
来年の大河ドラマということもあり、源頼朝の武士団について講演があります。関心のある方はご参加下さい。
概要は以下の通りです。


『頼朝の武士団』
平家一門を打倒し、鎌倉に新たな政権を樹立した源頼朝が率いる東国武士団の実像を、
江戸川区在住の研究者・細川重男氏が分かりやすく解説してくれます。
平成24年の大河ドラマ「平清盛」がより一層楽しめますよ。

開催日時  平成24年1月8日(日)14:00~15:30 (13:30開場)
講師  細川 重男
会場  西葛西図書館3階 会議室
対象  中学1年生以上
 ※乳幼児をお連れでのご入場はご遠慮ください
定員  50名 程度
参加費  無料
申込方法  12月11日(日)9:00~ 電話・窓口にて受付開始
 なお、定員になり次第受付を終了いたします。
[主催・お問合せ先]西葛西図書館 TEL:03-5658-0751

江戸川区立図書館のホームページはここです。

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【2011/12/18 09:45】 | イベント
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昨日はありがとうございました
市野澤 永
ご多忙の中、昨日は私の報告を聞きに来て頂き、ありがとうございました。

自身でも論証の甘さを痛感しております。
それにしても、緊張しました。
皆様から頂戴したご指摘を踏まえて、
練り直したいです。

細川さんの講演の告知、ありがとうございます!

恐らく
みなみ
かなり前に満員でキャンセル待ちかと。

満員御礼
市野澤 永
桐野さん、おかげさまで本日満員御礼になりました。
誠にありがとうございました。

告知して頂きましたので、お知らせさせて頂きました。


市野澤 永
お陰さまで無事に終了しました。

貴ブログで告知して頂き、
誠にありがとうございました。

ご報告まで。

よかったですね
桐野
市野澤永さん

講演会つつがなく終了したようで重畳です。

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先日ご紹介した金子拓さんからお知らせがありました。

明日、12月13日(火)19:00~19:54

の時間帯に、BS日テレで「新説 歴史法廷 本能寺の変に異議あり!」が放映されるそうです。
光秀謀反の真因は何だったのかを、金子さんが小和田哲男さんと「対決」されるとか。

番組案内はここです。

また蘭奢待についての話もあるそうです。

関心のある方はぜひご覧下さい。

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【2011/12/12 13:20】 | 信長
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南日本新聞の連載「さつま人国誌」。

本日、新聞休刊日のため休載です。
お知らせしておきます。

来週19日は従来どおり掲載します。
お楽しみに。

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【2011/12/12 10:33】 | さつま人国誌
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読売新聞に載っていたこの記事

この書状は日付から見て、おそらく「森川文書」で、蘭奢待切り取りの関連史料として『大日本史料』10-21に収録されている。

せっかく貴重な史料なのに、見出しの付け方が扇情的で先入観を招きますな。「所業」って、あまりいいイメージでないことは明らか。

書状にも書かれているように、信長はただ蘭奢待を見たいと申し入れただけじゃないの。しかも、書状中に「叡慮別儀なく候」とある。つまり、正親町天皇が切り取りOKだと言っているのです。
それのどこが「所業」になるのかな? もう少し勉強してほしいな。蘭奢待切り取りの一件、やはり先入観が強いね。

記事中にある書状の差出人「実澄」を東大寺の僧侶と推定しているが、これは明らかに公家の三条西実澄(権大納言)だと思うよ。実澄は信長の蘭奢待切り取りがあった天正2年(1574)3月から10カ月後の12月に実枝(さねき)に改名している。こちらの名前のほうが有名。したがって、この書状の年次は天正2年だとわかる。

宛所は東大寺の西室院。史料写真にある「小童 千世保丸」というのが実澄の子どもで、この時期、西室院に入部していた。尚々書冒頭にある「別当幼少」を指している。これは東大寺の別当が当時空席だったけれど、蘭奢待切り取りという一大イベントを執りおこなうためにはやはり東大寺の代表である別当が必要なので、便宜的に千世保丸が別当に補任されたことを示している。

なお、尚々書にある「飛鳥羽林」は飛鳥井雅敦ですね。天正2年時点で28歳。正四位下で近衛左中将。「羽林」は近衛府の唐名なので、近衛左中将はピタリである。

すでに『大日本史料』に収録されている史料だけど、原文書の所有者が名乗り出たということのようです。

余計なことかもしれませんが、記事末尾に鳩居堂の屋上から、信長が最期を遂げた本能寺の境内が見えたと書いてあるけど、寺町から見えるのは現・本能寺ですよね。しかも、信長が自刃した本能寺は跡だけで境内はないし。ちょっと寒いかも。

信長の蘭奢待切り取りの一件で、現在、もっともすぐれた論文は、

金子拓「織田信長の東大寺正倉院開封と朝廷」 『国史学』196号 2008年

だと思います。関心のある方は参照して下さい。

ちなみに、拙著『織田信長』(新人物往来社)でも、蘭奢待一件を少し詳しく解説しています。ここです。最後は宣伝でした(笑)。

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【2011/12/09 23:21】 | 信長
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ありがとうございました
金子拓
桐野様
このたびは拙稿をご紹介いただきありがとうございました。いつもお世話になっています(笑)。ところで、記事のこと初めて知り、驚きました。あの文書の原本が見つかったということはもちろん驚きなのですが、発給者が僧侶ですか…(苦笑)。自分の論文はともかく、『大日本史料』という史料集の存在をもっともっと宣伝しなければならないですね。まだまだそのあたり力不足です。ついでながら、新聞記者さんにも、もっと勉強してほしいと思います。

原文書
桐野
金子拓さん

コメント有難うございます。
「森川文書」はおそらく所蔵者の名前ですよね。記事によると、どうも所蔵者が移っているようですね。
原文書が不明だったとは知りませんでした。ぜひ金子さんのほうで撮影して下さいませ。鳩居堂は有名な老舗だけに、ほかにも古文書所有していそうですね。

そうそう、新刊刊行おめでとうございます。



のの
金子先生の論文を以前から拝見したいの思ってますが機会がなくて・・。
一つ不明な点があるのですが「天正二年~」に櫃の鍵があかなくて壊してまた修理した、という記事がありますが、これは多聞城に運ばれてからのことなんでしょうか。それとも東大寺直封倉での出来事なんでしょうか。
前者だと信長の行動になりますが後者だとまた別の第三者の行動ということになります。このあたりどうなんでしょうか・・。

金子先生の信長公記についての調査結果、再来年には出版予定でしょうか、とても楽しみにしております。


金子拓
ののさん、こんばんは。
桐野さんのお許しを得て、この場をお借りしてご質問にお答えします。
信長は多聞山城で蘭奢待が運ばれてくるのを待っていたことになりますから、それを運び出すため正倉院を開封しようとしたら…ということなのではないでしょうか。したがって鍵のことは東大寺側の僧侶たちの行動だと思っています。
信長記についての調査結果とのことですが、一端は一昨年出した拙著『織田信長という歴史』に書いております。桐野さんも含めた共同研究メンバーによる論集は、現在鋭意編集中です。近いうちに刊行することを目指しています。またそのときはよろしくお願いします。


のの
金子先生、お忙しい中お返事ありがとうございました。鍵の件ですが、信長から最初に話があった時点で鍵を探しておくのが普通かなとも思い四日後にまだ鍵が見つからなかったのか朝廷が管理していたのが届かなかったのか、少しのんびりしているな、とも感じまして。推測がすぎるかもしれませんが東大寺側にはそこまで性急に信長が要求してくるとは思ってなかったようにも感じられて少し気になっているやりとりだったのですよね。
いったん断って安心してしまっていたといいますか。
テレビ出演を拝見した後にお返事に気づいて少々びっくりでした。
論集を鋭意編集中とのこと、楽しみにしております。

桐野先生、場所をお借りしてしました、どうもありがとうございました。

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最近、またいだだきものがありました。
謹んで御礼申し上げます。

中村武生さんより
『池田屋事件の研究』 講談社現代新書 2011年 1.200円+税

中村さんはご存じの方も多いと思います。私のリンク先でもあります。
先日、ご本人からじかにうかがったことですが、池田屋事件は中学生のときからのテーマだったとか。
私なぞと違って思い入れの深さが違いますね。それは、新書にもかかわらず、400頁以上という分量にも表れています。

その思い入れの深さから、感情移入を徹底的にそぎ落とし、史料批判という理性的な方法で、新たな池田屋事件像を紡ぎ出しています。主に長州からの視点ということもありますが、従来の池田屋事件の通説と異なる世界を描き出しています。とくに古高俊太郎とは何者なのかという追究は新出史料を発掘しての、一種の謎解きの趣きがあり、引き込まれるように読みました。毛利一族の人なんですねえ。
今後の幕末史研究に一石を投じた著作だと思います。


太田浩司さんより
『浅井長政と姉川合戦』 サンライズ出版 2011年 1.200円+税

太田さんは長浜市の長浜城歴史博物館の学芸員です。
同館主催の講演会に招いていただいたり、史料をご教示いただいたり、お世話になっています。いつぞやは種子島で一緒にシンポに参加したこともありました。
今年の大河ドラマの地元のひとつで、しかも、大河ドラマの時代考証にも関わっておられたので、だいぶお忙しかったようです。そのため、本書の刊行も遅れたようです。
内容は題名のとおりのものですが、「あざい」か「あさい」かについても、小生の示した史料についても触れられています。当該史料所蔵先の徳勝寺には、別の写しも残っていること(それは「あさい」とあるとか)を指摘されており、地元ならではの発見が興味深いです。
とくに注目したのは、小谷城についての詳細な解説です。たとえば、浅井長政が自刃した場所が赤尾屋敷かどうか、確実な史料では確かめられないとか、秀吉が攻め上った水之手口とか、地元の強みが存分に活かされています。
姉川合戦についてのとらえ方は私とは少々異なっていますが、浅井氏や元亀争乱の好個の著作だといえるでしょう。


柴辻俊六さんより
講演「史料編纂と古文書研究」 『日本史攷究』35号 2011年

早稲田大学教育・総合科学学術院の研究誌に掲載された講演録です。
柴辻さんは甲斐武田氏・真田氏の研究者として著名。古稀を迎えて早稲田大学を来年3月退職されるそうで、それを記念した講演をまとめたものです。
とくに原本と偽文書の区別についての部分に興味を引かれました。最近、個人的にも悩んでいるところだったので。
巻末に柴辻さんの年譜と著作目録が付してあります。膨大なお仕事に改めて敬意を表します。

お三方、有難うございました。

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【2011/12/08 21:26】 | 新刊
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御礼
中村武生
中村武生です。過分のご紹介、感謝しております。が、不備な点も少なくないはずですので、お気づきの点、ぜひお聞かせ願います。すでに見落とした史料や、書き落とした学説に気づき、赤面しています。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第217回
―土佐で二分金贋造を企図―

昨日、連載が更新になっていたのをうっかりしていました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

このところ、島津義弘関連ばかりだったので、少し気分転換して幕末期、それもよく知られた坂本龍馬にしました。
といっても、龍馬が薩摩藩の偽金に関心を示していたことはそれほど知られていないと思います。

龍馬が薩摩藩の偽金のことを知っていて、それを土佐藩でも贋造しようという意向を示したのは佐佐木高行の『保古飛呂比』に出てきます。

鹿児島側では、近年、徳永和喜氏の研究により、幕末薩摩藩の偽金づくりの実態がかなりの程度判明しています。
それまで調所広郷が偽金をつくっていたといった俗説もありえないと否定されています。また島津斉彬の時代にも偽金はつくられていません。

薩摩藩が幕府から琉球貿易の決済通貨として鋳造を許可されていた「琉球通宝」を、刻銘だけ「天保通宝」にした偽金をつくり出したのは文久年間、すなわち久光の時代からです。

龍馬が目をつけた「二分金」の偽金は慶応元年(1865)頃からつくられています。
薩摩藩の偽金についての研究から、龍馬の偽金への着眼もその背景や意図がよくわかるようになりました。
いわゆる新婚旅行のときに、龍馬は二分金の偽金を知ったのではないかと書きましたが、龍馬の一回目の入薩は慶応元年ですから、このときに知った可能性もあります。
もっとも、このときは滞在期間が短く、また薩摩藩との関係もそれほど深くない時期ですので、新婚旅行のときのほうが可能性が高いのではと推測してみました。むろん、一回目の入薩時も排除するものではありません。
そのあたり、紙数の関係で詳しく書けなかったので、補足しておきます。

次回は久しぶりに小松帯刀の話題にしてみようかなと思っています。

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【2011/12/06 18:52】 | さつま人国誌
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今年になって、表題の本が刊行されました。
うっかり気づかなかったので、あわてて購入しました。
万を超える値段かと思っていましたが、そこまではいきませんでした。

この大日本古文書シリーズは大日本史料と並ぶ、東大史料編纂所の重要な仕事です。
同シリーズの家わけ16である島津家文書はその三が刊行されたのがだいぶ前(調べてみたら1966年でした)でしたから、もう打ち止めだと思っていたのですが、何と、45年ぶりの続編刊行です。現在進行形だったのですね。

収録文書は1547号から1827号までの281点。
江戸期の島津家久・光久のものもありますが、大部分が天正・文禄・慶長期のものです。
おそらく『旧記雑録』と重複していると思いますが、それでも原文書からの翻刻ですから貴重です。『旧記雑録』の写しミスなどがないか、対校作業もするべきかもしれませんね。
何といっても、国宝ですからねえ。

先行の一~三が活版印刷だったのとくらべると、味わいが少し異なりますが、傍注は大きく鮮明で見やすいです。巻末に収録してある差出人の花押・印判一覧(一部カラー)もうれしいです。
今後の研究に役立てたいものです。

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【2011/12/04 22:43】 | 戦国島津
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ばんない
ご無沙汰しております

史料編纂所はデータベースでの公開に重きを置いて、もう本では出さないんだろうと思い込んでました(爆)。
しかしこれだけスパンが空いたら、早く続刊が出ないかと願いつつ、あの世に召された方も多いような。

歳月
桐野
ばんないさん

たしかに45年というのは長いですよね。
なぜそんなに長く止まっていたのでしょうかね。人手不足でしょうか。
島津家文書も国宝指定され、編纂所が所蔵しているだけに、今後はコンスタントに刊行してもらえたらと思います。
旧記雑録がカバーしてはいるのですが、やはり写しですからね。

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