歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第223回
―老中・阿部正弘を説得―

連載が昨日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は先日亡くなった芳即正(かんばし・のりまさ)さんの追悼の意味を込めて書きました。
芳さんの数多い業績のなかで、やはり調所広郷の再評価が大きな仕事だったと個人的に思っています。
鹿児島では、調所は「名君」島津斉彬に敵対し、西郷隆盛から恨みを買った「悪家老」にされていますが、芳さんはその「汚名」を雪ぐだけでなく、たしかな史実に基づいて、調所を藩政史のなかに位置づけ直しました。

そのなかでも、調所の琉球での対仏貿易の企てはほとんど知られていないので、ぜひ紹介しようと思いました。
ペリー艦隊の来航に先立ち、琉球に何度か来航した仏船が修好・貿易さらにキリスト教の布教まで要求したことは、幕府の「鎖国」体制を揺るがす一大事件でした。
琉球は当時、清国と薩摩藩に両属しています。フランスはアヘン戦争に敗北したばかりの清国に強請して、琉球との貿易権を得るオプションをもっていました。そんななか、幕府の「鎖国」体制を守りつつ、薩摩藩の琉球支配(とくに唐物貿易)を貫徹するのは至難の業です。

調所はフランスとの戦争になれば、すべてが終わりになるという危機感から、琉球において対仏貿易を一部認めることで、この危機は乗り切れると判断し、老中阿部正弘との会談に臨みます。結果は調所の勝利でした。
阿部は老中、調所は陪臣の家老という立場ながら、調所にとって三回り年齢が下の阿部を説き伏せるのは造作もなかったことでしょう。薩摩藩が琉球を通じて得た外交や貿易の経験が優っていたからだと思います。

サブタイトルを「老中・阿部正弘を説得」としましたが、当初、「説得」を「籠絡」としておりました。調所が阿部を丸め込んだという意味で使いました。しかし、「籠絡」は難しいかなと思って「説得」に変更したのですが、やはり語感的には「籠絡」のほうがよかったですね。

あと、紙数の関係で書けませんでしたが、当時の琉球王府の力量や交渉力もなかなかのものです。
既得権確保にやっきになる薩摩藩に対して、両属関係を巧みに活用して薩摩藩に次々と譲歩を迫るやり方はある種の凄みがあります。
調所が阿部から黙許された対仏貿易も、結局、琉球王府が潰してしまいます。フランスとの貿易を認めたら、他の欧米列強からも要求され拒絶できなくなる、薩摩はそれでいいのか、やるなら中国でやってくれと切り返されると、調所も引き下がらざるをえませんでした。
老中阿部には勝った調所も琉球王府には敗北しています。薩摩藩に一方的に支配・抑圧されている琉球というイメージも、幕末に関しては通用しないようです。

調所については、いろいろ書きたいこともあるのですが、中途半端なままでは取り組めない対象だなと思っていました。やはり幕末薩摩の巨人です。芳さんの死去という区切りに、ようやくその一部を紹介できました。

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【2012/01/31 10:08】 | さつま人国誌
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日次記です。

24日(火)
19:00から日比谷で「てらこや」講座に出講。
今回は「保古飛呂比」14回目。
テーマは「兵庫開港問題とパークス一行伏見通過事件」。
英国公使パークス一行が伏見を通過したのをきっかけに、朝廷で議奏・武家伝奏4名が罷免された一件はこれまであまり検討されていないのではないだろうか。
『中山忠能日記』『続再夢紀事』などから、この事件を少し詳しく見た。
とくに会津藩・秋月悌次郎はこの事件を画策したのは小松帯刀だと、越前藩に訴えている。
これについては、連載「さつま人国誌」第218回(ここです)で、ちょうどこの事件を報告した小松書簡を紹介したことがある。
パークスにはパークスの思惑があり、一方で小松も四侯会議を前に、朝廷人事刷新を訴えているという微妙な関係にある。上記書簡では、小松はこの事件の事情はよく知らず、あとからわかった」と釈明している。さて、真相はいかに?

25日(水)
午前中は国会図書館に史料閲覧・複写に行く。
新システムになってから初めて。
慣れていないせいもあるが、やはり何となく使いづらい感じ。
PC端末での蔵書検索・閲覧申し込みもちょっと具合が悪かった。
利用者再登録を早くやらないと、以前の登録が取り消されてしまうみたいだ。それと、利用者登録するとしないとでは利用条件が雲泥の差になるようだ。登録しないで当日の臨時カードで入館すると、閲覧はできるが、複写などのサービスは不可のようだ。要注意です。
いずれにしろ、従来より規制が強化された感じだ。同館では以前、利用者の閲覧履歴をよそに提供した過去もあるからな。


午後から霞会館に行く。
時間が押していたので、地下鉄永田町駅から赤坂見附駅までの地下連絡通路を歩いたら、長い長い。寒いのに一汗かいてしまった。
大久保利泰氏(利通曽孫)を訪ねる。
用件は霞会館の関連団体である尚友倶楽部からの講演依頼についての打ち合わせ。
大久保さんは尚友倶楽部の世話人もされている由。担当者Uさんを紹介される。何と、水野勝成のご子孫とか。
演題は「龍馬暗殺―薩摩黒幕説の背景―」となる。日にちは来月14日。
尚友倶楽部は、旧伯爵・子爵と旧貴族院の勅選議員が会員とか。
当会は明治~昭和期のいい史料集を刊行している。
いろいろ見せていただいた。個人的には『山県有朋関係文書』『品川弥二郎文書』が興味深かった。

26日(木)
午前中、東京駅から新幹線に乗る。
名古屋の中日文化センターで講座「信長公記を読み解く」に出講。
今回は第6クールの第1回。通回だと、31回目か。
今回のテーマは「雑賀攻めと松永久秀の滅亡」
ようやく天正5年(1577)に入りました。
雑賀衆とは何ぞやという話をしました。フロイスの有名な記録や武内善信さんの論文などを紹介。
雑賀一揆(惣郷集団)と雑賀一向宗は組織原理が異なり、分けて考えたほうがよいことを話す。
あと、雑賀には本願寺門徒だけでなく、浄土宗(鎮西派と西山派)、新義真言宗など諸宗派が混在していることも話す。
結局、また盛り込みすぎで、松永久秀の最期については次回まわしとなりました。

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【2012/01/28 20:33】 | 日次記
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南日本新聞零細「さつま人国誌」第222回
―日新斎の娘、珍しい肖像画―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は文化面がカラー頁になるのに合わせて掲載しました。
近世初期と思われる珍しい彩色の肖像画を紹介したかったためです。
この時代のもので、夫婦像で女性をきちんと描いた肖像画は鹿児島では非常に珍しいと思います。

この女性は御隅といいます。この時代の女性で名前が判明するのは珍しいです。ひとえに膨大な量がある「樺山文書」のおかげです。
彼女は日新斎こと島津忠良の二女です。玄佐こと樺山善久に嫁いだわけですが、日新斎の娘という家柄の高さゆえに、夫婦像で描かれたと思います。

この肖像画が描かれた時期については、私は門外漢なので何ともいえませんが、ひとつ手がかりになるのは、彼女の甥にあたる島津義久が彼女の死に際して書いた追悼文です(『旧記雑録後編二』713号)。
そのなかに、嫡男忠副が戦死したのをきっかけに彼女が出家し、「法華八軸」を朝夕読誦する毎日だったとあります。
どうやら、この肖像画は義久の追悼文をモチーフにして作成されたのではないかという気がしております。事実、肖像画にある御隅の膝元の脇息の上に巻物7巻が置かれ、彼女が開いている1巻と合わせると8巻あります。これが「法華八軸」だと思われ、偶然の一致とはいえない気がしています。
出家といえば、夫の樺山善久ももしかしたら御隅同様、嫡男忠副の死をきっかけに出家し、玄佐と号したかもしれません。

今回はこの貴重な肖像画を紹介したかったのと、御隅という女性を知ってもらいたいことが目的でした。
肖像画の彼女はおだやかで可愛い感じに描かれていますが、実際は15、6の頃、玄佐のもとに嫁ぐとき、乳母と3人だけで敵地を潜行し、馬に乗って玄佐の生別府城に入ったと『樺山玄佐自記』に書かれているほどで、日新斎の娘らしく、剛毅な女性でもあったようです。

今回の記事を書くにあたり、貴重な樺山家文書を閲覧・撮影させていただいたご当主の樺山久孝さんに厚く御礼申し上げます。
また、戦国期薩摩の女性のデータを信頼できる史料から収集・記録している「戦国島津女系図」のサイト主、ばんないさんにも御礼申し上げます。同サイトの記事が導きの糸になりました(とくに御隅出家の理由)。なお、同サイトはリンク先に登録されています。

追記
樺山さんにうかがったところによれば、史料のなかに島津家からの借用書が紛れ込んでおり、同家が借り出した史料は樺山家に返却されていないようです。それが何かといえば、おそらく島津家文書に収録されている「傳家亀鏡」などの樺山文書だろうと思います。借り出したのは明治になってから創設された東京・袖ヶ崎の島津家編輯所でしょうかね? 島津家文書は国宝に指定されてしまったので、元の持ち主に返ってくる可能性は少ないのでしょうね。

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【2012/01/23 16:44】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。

拙サイトのご紹介、誠にありがとうございました。こちらこそ御礼申し上げます。アクセス数もちょっと上がってきているようです(汗)

それにしても発色が鮮やかですね。

記事を拝見して、気になる点を。
1)御隅が頭巾?て言うのでしょうか、普通尼さんがかぶっている例の布をまとっていないのが珍しいです。初(京極高次夫人常高院)像やおね(ねね、豊臣秀吉夫人高台院)像はかぶってますし。
2)この肖像画、御隅の生年月日を明記した史料としても初出ではないかと思います。拙HPに書いた御隅の生年は史料に書いてある没年月日から没年を引いて逆算した物です。
3)他にも肖像があるとのことですが、戦国時代~安土桃山時代の当主の肖像は樺山善久だけでしょうか?
4)亀寿の肖像画紛失の謎については、「資料紹介 諸神社明細」(『尚古集成館紀要』3所収)をご参照下さい。

おまけですが
>史料のなかに島津家からの借用書が紛れ込んでおり、同家が借り出した史料は樺山家に返却されていないようです。
これは悪い話ですねえ(苦笑)そういう史料多そうですが…。

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一昨日20日、武蔵野大学生涯学習講座のため、三鷹のサテライトキャンパスに出講。
「信長公記を読む」の4回目。
折からの雪に凍える。

フロイスと山科言継の岐阜訪問」というテーマ。

今回は『信長公記』は使用せず(記述がないため)、主に『フロイス日本史』と『言継卿記』を読んだ。
視覚的にも理解してもらうために、パワーポイントでいくつか写真や史料を見てもらった。

岐阜城の居館跡は現在発掘がだいぶ進んでいる。フロイスも4階建て居館の1Fでも眺めがよかったと書いていることから、山麓というより山腹にあったのだろうか。いつぞや岐阜城天守に上がるロープウェイに乗ったとき、眼下に発掘現場があったが、明らかに山腹だった。

この2人は信長に愛された数少ない人たちだが、フロイスが外国人ゆえか興味津々で、岐阜城のことをかなり詳細に述べているのに対して、言継は自分の用事のことだけで、長期滞在した割には岐阜城については何ひとつ書いてくれていない。
これは言継に限らず、貴族には一般的な傾向のような気がする。貴族にとって城郭や城下町は世界が違ってあまり興味がない対象なのかなと思ってしまう。言継より後輩の勧修寺晴豊や山科言経も安土城に何度か行っているが、ほとんど城のことは書いていない。
吉田兼見が明智光秀の坂本城の天主(小天主も含む)のことを少し書いてくれているのはむしろ例外的か。そういえば、本能寺の変後、安土城天主が焼けたことを書いているのも兼見だったな。

いつぞや、友人の和田裕弘さんが安土城天主倒壊の可能性を指摘した論文を公表したとき、これほどの大事件なら、ほかの史料にも書かれるはずだという批判があったが、どう考えても納得いかない。安土城天主が焼失しても、ほとんど記録に残らない事実からもそれは明らかだろう。

おっと、話が横道にそれてしまったので、この辺で。

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【2012/01/22 22:58】 | 武蔵野大学社会連携センター
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のの
今の岐阜城でもかなり眺めはよいのですが当時の澄んだ空気だったら相当に彼方まで見通せたでしょうね。これを見て信長が「天下」という単語を使用したかと思うと限定的な地理の先にも視点が向いていたのかとも思います。
現在の岐阜城下には火葬場がいっぱい出来て少し変な感じが・・今でもお爺ちゃんで1日1回歩いて登ってる人がいる、なんて話もありますし馬なんかじゃ登れない、とか苦労して?登ると景色も一段ときれいだったでしょうか。
言継も風情がないですが、フロイスのように住むところにも苦労すると住居にも関心がいくのでしょうね。城郭に興味が無い、というよりは恵まれた暮らしの人に共通する無関心さ、というとこでしょうか。

山科言継
桐野
ののさん、ご意見有難うございます。

岐阜城天守はたしかに眺めがいいですね。
信長が頂上に住んでいた理由もよくわかります。
ただ、山科言継が恵まれていたというのはどうかと。かなり貧乏だったと思います。
むしろ、武家と公家の価値観の違いのほうが大きい気がします。


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最近、またいただきました。
記して御礼申し上げます。

石田文一さんより
「七尾市の中世」 『新修 七尾市史』14 通史編Ⅰ 七尾市 2011年

自治体史の抜き刷りですが、なんと400頁以上もあります。こんな厚い抜き刷りは初めてかも。
要は市史の中世編ですが、第1~3章立て、10節に分かれています。
そのうち、石田さんは第3章2節の1、同3節の1.2を担当されています。
16世紀前半から中期の越中で、守護畠山氏の動向が中心の論考です。
そのなかに、「畠山七人衆」のことが書かれています。私でも一応名前だけは知っていましたが、その位置づけがある程度理解できました。守護畠山氏の統治機構が弱体化もしくは変質することにより、守護畠山氏の没落と七人衆の微妙なバランスによる分権的な領国支配体制を結果したようです。
温井とか、長、遊佐といった有力者の名前は、のちの上杉謙信の加賀・能登侵攻のときにも登場しますね。
ほかにも、上杉謙信の能登侵攻の節もあり、よく知られた手取川合戦や七尾城攻防戦のことも書かれています。


谷口克広さんより
『信長と家康―清須同盟の実体―』 学研新書 2012年 840円+税

新年早々の新刊です。
谷口さんは信長研究ではあまりにも有名な人です。
昨年、同新書で『信長・秀吉と家臣たち』を刊行されましたが、その続編のようです。
副題が「清須同盟の実体」となっていますが、これは永禄初年の同盟だけではなく、その後、天正10年(1582)の信長の死まで20年間という長いスパンでの同盟関係について論じたものです。
武田信玄との戦い、長篠合戦、信康事件、甲州陣など、有名な出来事が取り上げられています。
同盟関係も当初の盟友から最終的には家康が織田家の一大名という君臣関係へと変化していくプロセスが述べられています。
平易な文章で書かれており、非常にわかりやすいです。信長や家康の前半生についての優れた入門書といえそうです。

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【2012/01/21 21:54】 | 新刊
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昨年6月2日(本能寺の変の日)、京都・阿弥陀寺の慰霊祭に参加したとき、同寺所蔵の古文書を拝見した。
そのなかに、明智光秀・島田秀満・塙直政らが連署した下知状があった。たしか元亀2年(1571)のものだった。

奉行人の光秀たちが花押の代わりに印判を捺していたのが印象的だった。
なぜ印判なのかという点について、この連署状、京都の寺社に同文が多数(数百枚だったか)発給されたため、いちいち花押を書くのが面倒なので印判で済ませたという説を読んだ。
現存する光秀文書ではこの印判は1点だけという理由が納得できたので、よく覚えている。

つい最近読んだにもかかわらず、その本か論文をすっかり忘れてしまった(汗)。

物忘れが激しくてどうしようもない。
はて、何に書いてあったかな?

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【2012/01/18 22:39】 | 信長
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その本か論文
水野青鷺
桐野作人先生、ずいぶん前に一度コメントして以降、貴サイトをずっと「見たきり老人」状態となっております。
さて、「その本か論文」とのことですが、もしかして 立花京子「信長天下布武印と光秀菱形印」(有光友學編『戦国期印章・印判状の研究』磐田書院)ではないのでしょうか。違っていたらごめんなさい。

御礼
桐野
水野青鷺さん

ご教示感謝です。
立花さんの論文でないことだけはたしかです。
でも、その論文の注にヒントがあるかもしれません。助かりました。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第221回
―大隅出身、最盛期の学僧―

連載が本日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、おそらく鹿児島でもほとんど知られていない人物です。
栃木県足利市にある足利学校は中世を通して、わが国の学問の殿堂といってよいところでした。
天文~天正前期年間にかけて、その七代目の校長(同校では庠主と呼ぶ)が九華です。
かれは臨済宗の僧侶で、玉崗瑞よ(王へん+與)いう僧名をもっていますが、九華は同校での学徒名です。
彼が庠主だったとき、学徒数は3000人に達したともいわれ、同校の全盛期でした。

九華が大隅の伊集院氏の出身であることまではわかりますが、それ以上はさっぱりです。何せ、伊集院氏は多くの系統があり、系図関係に弱い私にはお手上げです。もし詳しい方がおいでで、何かご存じならご教示いただければ幸いです。

足利学校の特徴としてはまず、一口に儒学といっても、宋の朱熹(朱子学の祖)登場以前の「古注」(漢や唐の時代の解釈)を採用していることです(新注の書物もないわけではない)。この点については、「新注」派から時代遅れと批判されているようです。
しかし、本家中国では清代からは逆に古注が再評価されるようになったとか(菅原正子『占いと中世人』講談社現代新書、2010年)。

もうひとつの特徴は易・占いなど占筮の学問を重視していたことで、とくに易経が基本テキストになっていたようです。九華の伝授した占筮の文書も数点残っているとか。

九華と北条氏康・氏政との出会いもなかなか印象深いですね。
永禄3年(1560)段階で、北条氏が下野を支配下に置いていたかどうかわかりませんが、北条氏にとって、足利学校は金沢文庫とともに重要な「知」の施設だったのではないかと思われます。
北条父子の引き留めにより、九華は帰国を断念してしまったわけですが、帰国していたら、おそらく島津義久の政治顧問になったのではないでしょうか。
また帰国しなかったために、その履歴や系譜が鹿児島では忘れ去られてしまったのではないかと思われます。
不勉強ゆえ、記事のことくらいしか書けませんでしたが、鹿児島のどこかに九華に関する史料が存在しているかも知れません。

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【2012/01/16 19:43】 | さつま人国誌
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足利学校
ばんない
こんばんは。私も伊集院氏の系図を見てみましたが、そのものずばりの人物は見あたりませんでした。怪しそうな人は何人かいましたが…。

島津氏で足利学校に関係した(し損ねた?)人物と言えば、島津運久の庶子・忠貞(長徳軒)がいますね。ついでに北条氏親に引き留められたという点も似ています。

長徳軒
桐野
ばんないさん

やはり九華はどの伊集院氏なのか見当たりませんか。ばんないさんが見つけられなかったら、私では到底ダメです。

長徳軒のことは知りませんでした。ご教示感謝です。

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鹿児島の歴史研究者の重鎮、芳即正(かんばし・のりまさ)さんが13日にお亡くなりになりました。
96歳とのこと。

記事はここにあります。

芳さんは県立図書館や尚古集成館の館長もつとめられ、鹿児島県史料の編纂にも尽力されました。
著述においては、とくに人物叢書の『島津重豪』『島津斉彬』『調所広郷』の3部作は、すでに鹿児島の近世史・幕末維新史の古典といっても過言ではありません。

近作の『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年)、『鹿児島史話』(高城書房、2006年)なども良書で、学恩を蒙りました。
『鹿児島史話』などは遺作のつもりで上梓されたようですが、その後も『権力に抗った薩摩人』1,2(ともに南方新社、2009、2010年)を刊行されるなど、最晩年まで精力的な研究活動をつづけられました。

残念ながら、お会いしたことはありませんでしたが、拙著をお送りしたら、丁寧な礼状をいただいたことがあります。
謹んで学恩に感謝し、ご冥福をお祈りします。
合掌

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【2012/01/15 13:42】 | 雑記
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午後から一応幽霊会員として所属している表題の例会におそらく2年ぶりくらいに参加した。

テーマは「天正前期の阿波と諸勢力」。
報告者はわざわざ伊予国からお見えになった若手研究者の中平景介さん。

織田権力と長宗我部氏、あるいは阿波三好氏について、新史料や新解釈などがあるかなと軽い気持ちで出かけたところ、何と、拙著2点が先行研究として俎上に挙げられていてビックリ。
拙著、とくにPHP新書『だれが信長を殺したのか』は自分では力入れて書いたつもりだったが、スルーされることが多かったから、たとえ批判の対象でも、取り上げてもらったことに感謝、感謝。
阿波国の元亀~天正前半の15年間ほどの情勢変化、諸勢力の動向が史料不足のなかでも、かなりよく整理されていて勉強になった。
とくに阿波守護家の細川真之や三好存保の動向が興味深かった。結論については、なるほどと思ったけれでも、別の疑問が生じているようにも感じた。

私は四国東半の政治状況について、不勉強なせいもあり、これまでほとんど信長サイドからしか見てこなかったが、まず基礎的な作業として、地元の阿波の国情をなるべく一次史料で立ち上げて検討していこうという姿勢がうかがえた報告だった。
それでも、阿波国の中世史料については一次史料の不足は覆いがたい。『元親記』『昔阿波物語』などの軍記物への依存は避けがたいのだろうな。それを突破する方法がなかなか見つからないと感じた。

それにしても、会場の駒澤大学深沢キャンパスは駅から遠い。おかげで体が温まった(笑)。

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【2012/01/14 23:59】 | イベント
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ありがとうございました
中平景介
先日はお忙しい中お運びいただきありがとうございました。
今回の報告の契機の一つは『だれが信長を殺したのか』を読んだことにあります。
管見の限り、それまで信長と阿波との関係にあそこまで論及したものはなく、当時興奮して読み進めた想い出があります。その後、四国政策問題で他の論でも阿波が取り上げられるようになったものの、それぞれ阿波三好氏の位置づけがバラバラで整理がつかず、今回自分で整理を試みたものです。
仰るように、阿波国の一次史料は極めて少なく、今回も軍記物の記述を一次史料で若干裏付けるといったものにならざるをえませんでした。
阿波については全国での悉皆的な調査が行われているわけではありませんので、まだまだ史料は眠っている気がしています。これは今後の課題です。

ご質問いただきました例の信長朱印状について、再確認しましたので、補足を申し上げます。
報告では「本知」と記憶違いしており、失礼いたしました。
「讃岐国之儀、其方任本領之旨申談候、全可有領知候」の文言は、讃岐国内における本領を領知せよ、という意味に解釈しております。
そのため、天正八年頃から織田・長宗我部方への与同が確認できる安富氏を宛所候補者として想定しました。
宛所が安富氏だとすると、香川氏関係者が入手して宛所を切り取ったという行為もありうるかと想像しています。

それから、三好康長と三好式部少輔の関係ですが、あの時は忘れていたのですが、軍記物では式部少輔が徳太郎ともされることを考えると、孫七郎・山城守しか名乗りが確認できない康長と親子関係を想定することも難しいとも捉えております。とはいえ、会場でも申し上げましたように、軍記物が親子と記述していることも無碍にはしがたいという思いです。
親子でなければ、康長の本拠を岩倉城に想定する必要がなくなり、私的には論を進めやすいのですが。

最後に、四国政策転換問題の捉え方を変えた場合のご疑問についてですが、私自身も感じておりました。
この辺りは『元親記』以外に史料がないのが厳しいところです。ただ、五月の国分案(信孝を讃岐、康長を阿波)は、四国政策転換前からの方針ではなく、元親との断交を受けて出てきた案と捉えております。

長々と失礼いたしました。あらためてありがとうございました。

近年忩劇
桐野
中平景介さん

わざわざコメント有難うございます。
先日はお疲れ様でした。
阿波の情勢については、史料が少ないうえに情報が錯綜していて、私の頭のなかが混乱しているのが現状です。
そんななか、年次別にきちんと整理して提示していただき、大変勉強になりました。

それで、三好康長が香宗我部親泰に宛てた副状(史料28)の年次比定ですが、まず康長が康慶と改名した時期は信長に服属した天正3年だと思われます。康長の一字が信長の下の字なので使用を憚ったと思われます。
したがって、同年以降であることは確実と思われます。そのなかでキーワードは「殊更近年就忩劇」かと存じます。そのことを先日、お話しするのを忘れておりました。
「近年忩劇」が何を意味するかですが、まず考えられるとすれば、三好長治の死(天正4年)です。となると、「近年」ですから、それから時間がさほど離れていない時期ということで、桑名洋一さんのお説に説得力がありそうですね。

私は長宗我部氏と関わる事件ととらえて、拙著では岩倉落城ではないかと考えました。同城落城は天正7年12月と考えてよさそうなので、翌8年かなとした次第です。

ほかにも三好存保の勝瑞城から讃岐出奔なども候補になるのかもしれません。

取り急ぎ感じた点のみ。

「近年忩劇」について
中平景介
度々失礼いたします。
「近年忩劇」ですが、三好長治の死から阿波国内はずっと戦乱が継続していますので、そのような状態そのものを表わしているのかな、と考えております。天正6・7年説であれば、天正6年に式部少輔が元親に服属していますので、それに先立つ同年の重清城の攻防あたりが具体的には考えられそうです。
内乱や長宗我部氏の侵攻による周辺の戦乱にまきこまれ「無力之仕立」になっていたのかといまのところ解釈しています。

「阿波の鉄砲~鉄砲からみた阿波史~」
市野澤 永
桐野 様

こんばんわ。

年明けから桐野さんと戦国史で、
ご一緒できて良かったです。
帰り道では、貴重なお話の数々ありがとうございました。

阿波に関する企画展なので、
こちらへ書き込みました↓

徳島城博物館
冬の企画展
「阿波の鉄砲~鉄砲からみた阿波史~」
平成23年11月26日(土曜)~平成24年1月29日(日曜)

講演会「徳島藩鉄砲の社会史」
平成23年12月23日(祝日)13:30~15:00
講師 根津寿夫氏(徳島城博物館学芸員)

講演会「阿波の火縄銃」
平成24年1月14日(土曜)13:30~15:00
講師 坂本憲一氏(阿波市文化財保護審議委員)

徳島城博物館のホームページ
http://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/

情報御礼
桐野
市野澤さん

先日はお疲れ様でした。

また徳島県の企画についての情報提供有難うございます。
行くのは難しいですが、図録があれば何とかと思います。
取り急ぎ御礼まで。

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新年さっそくご論考をいただきました。
謹んで御礼申し上げます。

柴辻俊六さんより
「元亀・天正初年間の武田・織田氏関係について」 『織豊期研究』13号 2010年10月

現在、武田・織田関係史において、もっともホットな論争になっているところです。
その一方の当事者である柴辻さんから頂戴しました。
これまで武田氏研究の観点から通説形成を主導した一人である柴辻さんの説に対して、近年、鴨川達夫さんや柴裕之さんから批判が加えられ、それに対して柴辻さんも反批判を展開するという状況です。
とくに重要な論点のひとつだった元亀2年(1571)の武田信玄による三河・遠江侵攻。その典拠となる文書の年次比定について、従来の元亀2年説は否定されたようですが、それでは天正2年か翌3年かで、また意見が分かれています。ほかにも武田勝頼の進行路など論点が多いです。
天正3年の長篠合戦に至るまで、関連文書の年次比定という基礎研究から再検討という状況のようです。
柴辻さんの反批判論文を精読して、さらに勉強してみます。


天野忠幸さんより
「松永久秀と滝山城」 『歴史と神戸』50巻6号(通巻289号) 2011年12月

天野さんは三好氏の研究で知られています。
最近は松永久秀やその家臣団にも研究の翼を延ばしておられるようです。
今回いただいたのもその一環のようですが、論文のタイトルを見て、関東の滝山城と松永久秀はどんな関わりがあるのかと首をひねったほど、不勉強な私です(笑)。
もちろん、この滝山城は関西(現・神戸市中央区)にあり、久秀の城でした。もっとも、久秀は常駐しておらず、主君三好長慶のいる芥川城に近侍していることが多かったようです。
滝山城の様子や久秀家臣団の一端がよくわかります。とりわけ、楠正虎(当時、大饗姓)の記事が興味深かった。この人、のちに信長の右筆となる楠長諳です。
正虎は久秀の家来として重用され滝山城にいたこと。正虎の先祖楠正成の名誉回復(逆賊指定の解除)のため正親町天皇の勅許を得てくれたのは久秀だったこと。それにより、正虎は以後、堂々と楠姓を名乗ったことなど。
大変勉強になりました。

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【2012/01/13 21:03】 | 新刊
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今晩、今年初めての講座に出講。
小学館「てらこや」特別講座「保古飛呂比を読む」です。

今回は「佐佐木三四郎の兵庫開港不可の意見書」と題してやりました。
主な内容として、

①佐佐木三四郎の意見書
四侯会議に山内容堂が臨むにあたり、なかなかユニークな主張です。
幕府の兵庫開港を糾弾しつつ、薩長の兵庫開港容認の「条理論」に対しても「先帝の遺志」に背く、「一時の権道」だと反対しています。

②山内兵庫豊誉(容堂の弟)の死去。
豊誉は武市瑞山の理解者、擁護者として知られていますが、土佐勤王党への弾圧後、落胆して逼塞し、ついに27歳の若さで死去します。
興味深かったのは、その喪に服するため、高知城下と4か村で15日間の鳴物停止の藩命が出たことです。
藩主ならわからないでもありませんが、藩主一門への鳴物停止の事例ってあるのでしょうか?
また、豊誉の死後発見された建白書草案の文言が、容堂の大政奉還建白書にほとんどそのまま引用されていることを確認。豊誉は王政復古を待望してようです。
なお、豊誉の読みは諸説あるようですが、一応、平尾道雄説に従い、「とよなり」としてみました。「とよたか」という説もあるようですね。

③後藤象二郎と坂本龍馬の清風亭会談
有名な話ですが、この一件の1次史料は龍馬書簡2点しかないような。『維新土佐勤王史』や『伯爵後藤象二郎』の編纂物から補足。
どちらにも、長崎の芸妓、お元のことが書かれている。お元が登場するのはほかにも史料があるのだろうか?

④将軍慶喜とロッシュの会見
『淀稲葉家文書』から、ロッシュの意見を確認。
余談として、大坂でも慶喜が通常のお膳を食せず、牛肉や豚肉ばかり食べているので、係の者たちが困惑し、気味悪がっている記録を読む。あと、慶喜が曲彔=椅子を好んだという記述もあり。

ほかにも、有力譜代藩である松山藩が幕府に断りなく、勝手に長州藩と和睦を結んだことを佐佐木に知らせた大洲藩士の武田亀五郎書簡を読む。第2次長州戦争に勝利した長州藩の実力を隣接諸藩が恐れている様子がわかる。

それで、武田亀五郎は五稜郭を設計した武田斐三郎の縁者ではないのかという質問があった。
ちょっと想定外だったので宿題にさせてもらったが、ビンゴだった。
大洲藩の藩儒、武田亀五郎敬孝(1820~86)は五稜郭を設計した武田斐三郎成章(1827~80)の兄でした(明治維新人名辞典より)。
なかなか鋭いご質問でした。

というわけで、今年初めての講座ながら、なかなか充実した内容でした。

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【2012/01/10 23:55】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第220回
―斥候中の負傷で破傷風―


先週は休刊日でお休みでしたが、本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は益満休之助の死について書きました。
益満が隠密活動に従事していたために(薩摩藩の裏を知りすぎていたので)、その死については、西郷らによる謀殺説までありますが、負傷自体は大したことはなく、直接の死因は破傷風ですから、噴飯ものとしかいいようがないですね。
また西郷が益満の負傷を心配して、早く横浜に移送するようにと命令を出した書簡が残っています。
伊牟田尚平や相楽総三などの非業の死もすべて西郷の謀略によるものだという俗説にも困ったものです。

益満が破傷風がもとで亡くなったことについて、上野に近い加賀藩邸(現在の東京大学本郷キャンパス)周辺は以前から「祟り」による不審死が多いという風聞が根強く、その祟りを鎮めるために富士浅間社が建立されたほどです。また明治以降、同大学農学部で飼育している家畜が頻繁に破傷風で死亡するので、調べてみたところ、破傷風菌が周囲の土壌から検出されたそうで、益満の負傷推定地一帯は破傷風菌によって汚染されていたことが細菌学的に判明しているとか。
上野戦争では、政府軍のなかで益満のほか、もう一人破傷風で死亡した兵士がいるそうです。

記事からは少し離れますが、益満について以前から少し気になっていたことがあります。
益満の通称についてです。一般に休之助ですが、一説によれば、それ以前に新八郎と名乗っていたのではないかともいわれています。私もいつぞや幕末維新研究者のM地M人さんから、新八郎と休之助は同一人物なのかと尋ねられたことがあったほど。
そのときは答えに窮して、益満家の系図が載った論考を送ってお茶を濁しましたが、じつのところ、今もってよくわかりません。

管見のかぎりですが、休之助と新八郎が同一人物であることを示す一次史料を見出せないでおります。
ところが、たとえば、益満の小伝をまとめた故・川畑利久氏は「新八郎は通称でのち休之助(諱)行武といい」と断言しています。しかし、典拠は示されていません(『鹿児島歴史研究』3号、1998年)。ご存命なら、典拠を尋ねることもできたのですが……。

そうかと思えば、故・村野守治氏は益満家の子孫から提供された系譜を載せていますが、それには通称休之助しか記されていません。その一方で、休之助の三弟邦介についての解説では「新八郎」と書いています(『敬天愛人』5号、1987年)。
でも、上記川畑氏は邦介について「新七郎」という通称を付記しています。兄弟で同じ通称を同時期に名乗ることは考えにくいので、新八郎は誤記か誤植で、邦介は新七郎ではないかと思われます。

となると、その兄の休之助が新八郎というのもやや不自然な名乗りではありますね。
いずれにせよ、一次史料で確認できないので、何ともいいようがないというところで、M地さんからの問い合わせ以降、まったく進展がないという体たらくです。
もし何かご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

益満については、攘夷派としての薩邸焼き打ちまでの足跡も書きたかったのですが、紙数の関係で断念しました。次の機会にでも。

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【2012/01/09 16:04】 | さつま人国誌
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納得です
ながお
桐野様

こんばんわ。今年もよろしくお願いします。

益満休之助の死因、とても科学的な説明で納得です。
破傷風は私の住んでいる地域でも昔流行ったそうです。関東は多いのでしょうか。

破傷風
桐野
ながおさん

破傷風はどの地域に多いのかはよく知りません。
ただ、以前、湘南か鎌倉だったか、海水浴で足を負傷したとき、病院で傷口の状態がよくないからと、破傷風の予防接種をしたことがありました。
そのときは海中にあった鉄筋での裂傷でした。
意外と多いのかも知れませんね。

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昨年末にいただいたご論著です。
年末のドタバタに取り紛れ、紹介できなくて申し訳ありません。
記して御礼申し上げます。

千葉歴史学会中世史部会の12月例会に参加したとき、いただいたものです。

佐藤博信さんより
佐藤さんは千葉大学文学部の教授で、よく知られているように東国中世史がご専門。以下のようにたくさんいただきました。

佐藤博信編『中世東国史の総合的研究』 千葉大学大学院人文社会科学研究科 2011年
佐藤博信編『玉縄北条氏関係史料』 千葉大学文学部佐藤研究室 2010年
佐藤博信・坂井法曄「安房妙本寺文書の古文書学的研究―特に無記名文書の筆者特定について―」 『千葉大学人文社会科学研究』23号 2011年
「安房妙本寺門流の展開と日向―特に細島妙谷寺・本要寺をめぐって―」 記念特集『興風』23号 2011年
「安房妙本寺日我と蔵書―「曾我物語」「八雲抄」などをめぐって―」 千葉大学『人文研究』40号 2011年

たくさんいただいたなかで、法華宗関係は門外漢すぎてコメントできないが、冒頭の『中世東国史の総合的研究』所収の佐藤論文「古河公方文書に関する覚書―特に闕字・平出・台頭をめぐって―」に注目した。副題にもあるように、対象への敬意を表する闕字・平出・台頭が、既刊の諸史料集においてその差異を区別せず、せいぜい平出(敬意を表すべき言葉を改行して行冒頭にもってくること)も闕字処理して事足れりとしている現状に警告を発している。平出は闕字より厚礼であることから、両者を混同して表記することは要らぬ誤解、誤読を招きかねないと。
中世が重層的な身分制社会であることを考えると、当然の指摘であるが、従来、この点に関する研究者の問題意識が希薄であることを個人的にも感じていた。
私が遭遇した事例では、信長文書を集大成した『増訂織田信長文書の研究』がある。同書では平出・台頭どころか、闕字さえも無視しているのが現状である。こうしたやり方は信長に対して少なからぬ誤解を生む恐れがあると感じていた。
たとえば、よく知られた将軍義昭に対する信長の五カ条の条書は、同書釈文では闕字をすべて無視している。しかし、その写真版を見れば、実際は「公儀」「上意」「禁中」などに信長はちゃんと闕字を用いている。
この条書は信長による将軍権力の制限・義昭への圧迫と評されているが、釈文に闕字が表記されないことが、そうした評価を増幅している面はないのかと危惧している。
余談ながら、同条書についてはそうした評価を必ずしも否定するわけではないが、義昭と信長の連合政権において確認された一種の「契約」という面があり、両者の不仲や信長の圧力を強調するだけでは一面的ではないかと考えている。
同書は信長研究の必須文献だけに、こうした敬意表現が無視されているのはとても残念に思っている。


石渡洋平さんより
「戦国期香取社と地域権力―特に国分氏を中心に―」 『駒澤大学大学院史学論集』40号 2010年

石渡さんは駒澤大学禅文化博物館に勤務されている。
上記例会でお会いして、このご論考をいただいた。
下総一宮である香取社と千葉六党のひとつ国分氏との関係が戦国時代、どのように変化したかを考察したもの。とりわけ国分氏が惣領家で上位権力である千葉氏から一定の独自性、自律性をもった地域権力だと結論している。
関東の国人についてはまったく門外漢で、国分氏のこともほとんど知らなかったので拝読しただけだが、当論文の射程が文明から永禄期あたりなので、今後は天正期の後北条氏と国分氏の関わりを検討されるのだろうか。


宮島孝男さんより
『どげんする? 鹿児島』 南方新社 2011年

宮島さんは元地元TV局勤務のジャーナリストで、前の鹿児島県会議員。昨年惜しくも落選の憂き目にあったが、本書は再起をめざすべく、伊藤県政を厳しくチェックするとともに、自身の政治理念やビジョンを明らかにしたもの。
詳しくは版元のサイトであるここの新刊案内をご覧下さい。
宮島さんとは東京勤務時代からの付き合い。同年齢ということもあってウマが合い、また内輪の親睦会である「薩摩の会」でもよくご一緒した。
本書で注目したのは農業振興とともに文化振興についてだった。とくに人材育成や、県民に開かれた公共機関にするために、黎明館などの施設の開館時間の延長(とくに金・土)を他県の事例を取り上げながら提案しているのはもっともだと思った。
また西郷隆盛だけでなく、大久保利通を軸にした歴史文化観光メニューの考案を提起しているのも興味深く賛成である。大久保利通を歴史や観光の目玉にと主張する県内有識者はほとんどいないだけに貴重である。
宮島さんは以前から離島振興に熱心だった。その点、奄美諸島や種子屋久地方の章立てがなかったのが少し残念だった。
次回選挙は頑張って下さい。

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【2012/01/05 15:16】 | 信長
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滝野川
>たとえば、よく知られた将軍義昭に対する信長の五カ条の条書は・・(中略)・・両者の不仲や信長の圧力を強調するだけでは一面的ではないかと考えている。

こうした指摘がもっと一般読者の目に触れるようになれば、旧来の信長像も更に見直されるのでしょうね。

固定観念
桐野
滝野川さん

信長の評価に対しては、研究者にも抜きがたい固定観念がありますからね。一般の歴史ファンは推して知るべしです。
認識の変化はなかなか難しいでしょうね。

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みなさま、本年もよろしくお願いします。

昨年は更新が滞りがちでしたが、今年は何とか頑張っていきたいと思います。
また仕事でも、今年は単行本をなるべく多く書くつもりです。

本年もよろしく。

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【2012/01/02 19:42】 | 雑記
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