歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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24、25の両日、帰鹿した。

24日は黎明館を訪問。学芸員の新福さんにお会いする。
夜は調所一郎さん(広郷子孫)や南日本新聞のI松部長と宴席。

25日早朝、大隅取材に出発。
ホテルにY口さんが迎えに来てくれる。彼には前回もお世話になった。
今回も詳細なスケジュール表を作成してくれて、とても有難かった。
菜の花
もう春めいていました。花岡島津家墓所にて
足湯
垂水の道の駅で足湯に浸かる。奥に桜島の山影が
桜勘昼食
海潟漁港にある垂水漁協組合加工工場にある食堂「桜勘」で昼食。カンパチを堪能

回った史跡は20カ所以上。
当初予定になかった桜島一周も敢行。これまでは鹿児島市方面からしか行ったことがなかったが、垂水方面から行ったのは初めての経験だった。有名な桜島の大正大噴火で埋まった黒神の鳥居とか、島津義弘が関ヶ原合戦直後、蟄居した藤崎邸とか、林芙美子の歌碑などを見学できた。
今回も天気予報はいまいちだったが、晴れ男の異名は健在だった。しかも、今年になって連日爆発をくり返している桜島さえ、おとなしかった。これも日頃の行いがよいせいだろう。
黒神鳥居
黒神の火山灰で埋もれた鳥居

桜島
おとなしい桜島

訪れた主だった史跡は以下の通り。

樺山家墓地
国分清水城跡:本田薫親、島津忠将などが城主
島津義久後室種子島氏の墓
島津御平の墓
敷根火薬製造所跡
敷根火薬工場
西南戦争のとき、元薩摩藩軍艦の「春日」の艦砲射撃で破壊される

牛根の宇喜多秀家寓居跡:平野屋敷
宇喜多秀家謫居跡
平野屋敷にある碑。まわりには梅・ソテツ・キンカン

入船城・笠塚・早崎陣・散花平:島津家久の奮戦の舞台
伝・安徳天皇陵:もちろん伝説です。
安徳天皇墓

島津越前守忠栄墓:薩州島津家准二男家の祖、島津御平の息子
牛根造船所跡
海潟漁港:高倉健主演の映画「ホタル」の舞台になった所。水揚げされた魚にトンビ・ウミネコ・サギなどが多数やってきていた
垂水から見た桜島
海潟漁港から見た桜島

垂水城跡
垂水島津家墓所:島津忠恒のライバル島津信久(久信)の墓もようやく訪問
垂水家墓地

垂水本城跡:伊地知氏の居城
垂水本城鉄炮窓
鉄炮窓:初めて見た城郭施設。この穴に狙撃手がこもっていたというが本当なのか?

新城島津家・末川家墓所:念願だった島津新城(義久二女)の墓にも行けた。
島津新城

旧国鉄大隅線新城駅跡
大隅線新城駅
昭和末期、わずか15年で廃線になった鉄道。鉄ちゃんには垂涎かも

鹿屋城:別名一谷城、伊集院幸侃の居城

花岡島津家墓所:島津八家のひとつ
花岡家墓所

肝付兼続の墓
大慈寺:大隅屈指の寺院、廃仏毀釈の破壊をある程度免れていた
大慈寺
山門左右の石像が健在。島津旧領では珍しい

志布志城:シラス台地を深く堀切した大規模なすごい山城。でも、暗くなっていたので写真があまり撮れていない。
サンフラワー号
同城本丸跡から見た志布志港。大阪に向かうサンフラワー号が停泊

一日の走行距離290キロ、攻めた山城は6城という強行軍でした。
これだけ回りきったのはY口さんのおかげです。厚く御礼申し上げます。

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【2012/02/28 22:35】 | 歴史紀行
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コース
Y口
 今回は史跡の立地関係上、錦江湾をグルッと
半周するコースでしたが、次、大隅方面に行く
時には桜島フェリーでうどんを食べながら
時間短縮しましょうか。


弾丸トラベラー
ばんない
こんばんは。

今回回られたコースを地図で見るとすさまじいですね。しかも前日には宴会、当日も温泉(足だけだけど)、おいしい昼食、そして今年の大河関連地?と、名物は外さないところがさすがです(苦笑)

回られた中にはいくつか興味深いところがあります。今後の「さつま人国記」のネタになるのでしょうか、期待しています。



メール
桐野
ばんないさん

コメント有難うございます。
もちろん、連載のネタもいくつかあります。

昨日、メールをお送りしたのですが、ご指定のアドレスに届いていますか?
前便が添付ファイルがあったせいかなと思い、今回は添付ファイル抜きだったのですけど。


ショートカット
桐野
Y口さん

いろいろお世話になりました。
次回は桜島経由のショートカットがいいかもしれませんね。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第226回
―島津重豪が鎌倉に建立―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。
当日中とはいえ、更新が遅かったです。おそらく、大学入試や県下一週駅伝などの取材で大変だったのではないかと思います。

さて、今回は先日ニュースになった鎌倉の源頼朝の石塔が破損された一件を書きました。
書いたあとで何ですが、被害の程度(塔頂部が叩き落とされた)からは「破壊」より「破損」のほうが適切だっただろうか? 

今回の肝ないし疑問は2点ほど。
まず、島津重豪は本当に石塔(墓石や供養塔と称するもの)を建てたのかどうかという点。これまた書いたあとで何ですが、疑問が湧いてきました。
『旧記雑録追録』所収の重豪譜には、玉垣、石灯籠、石盥盤、「神道の石」の4点セットと、石垣の外に石碑と目録石を建立したとある。
このうち、玉垣、石灯籠、石盥盤、石碑、目録石は現存している。
しかし、石塔を建立したとは書いてないのに、石塔もなぜか存在している。ここを参照。
だから、消去法で「神道の石」が石塔かなと推測したんだけど、果たしてどうなのか? あるいは石塔だけは重豪以前にもあったから建立しなかったのか? それにしては新しい気がするが。
また石塔を含めた墓所全体は神道式といえるのか? 仏教の要素もある気がするけど……。

重豪が石塔を建立したとするのがそもそも思い込みで問題なのかも?
重豪が建立したときには、五輪塔か何か頼朝の墓らしきものがまだあったのではないか?
あるいは、重豪から100年後、島津久光が奈良原繁や有村国彦に命じて、この墓所の再建、修築をしたとき、改めて現存する石塔を建立した可能性もあるのでは?
何かの史料に重豪以前には小さな五輪塔があっただけという一節を読んだことがあったが、それが頼朝のもともとの墓だったのだろうか? もしご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。

もうひとつは、やはり島津氏初代忠久を頼朝の庶長子とする島津家の「伝承」について。
これについては、研究上、完全に否定されているといってよい。
先行研究の到達点が奈辺にあるのかきちんと調べているわけではないが、記事にも書いた野口実氏の「惟宗忠康」説がもっとも最新の成果か。官職や名前の一字が共通していることから、「惟宗広言」説よりも信憑性が高い気がする。

いずれにせよ、「伝承」と「史実」は混同せず峻別する態度が肝要かと。

さて、次回はどうしようか?
いくつか腹案があるが、どれも帯に短し襷も短しという状態だ(笑)。

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【2012/02/27 23:36】 | てらこや
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お帰りなさい
市野澤 永
おはようございます。

下総結城氏にも頼朝御落胤伝説があります。
いつか書きたいですね。

現在、PCが壊れています。
先月のような、ご依頼がございましたら、携帯へご連絡下さい。

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本日から一泊で鹿児島に行きます。
ある打ち合わせや史跡調査などが目的です。
今回は大隅方面を広範囲に回ることになりそうです。


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【2012/02/24 01:50】 | 雑記
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ありゃ。
今福
一日違いです~。私、所用で明日、鹿児島日帰りです。


ばんない
こんばんは。

大隅半島の広域取材とのこと、如何でしたでしょうか。あの辺は交通が不便な印象があります。取材ネタは肝付とか禰寝辺りでしょうか?それとも両方とか。それともそれとも両方共全く関係無しとか(汗)

そういえば、今日地元のローカル局で放送していた旅番組がかなり珍しい大隅半島特集だったのですが、出演者が国生さゆりでした…あの方鹿屋市出身だそうで。不覚にも今まで知りませんでした。



いろいろでした
桐野
ばんないさん

取材は多岐にわたりました。
ご推測のうちでは、肝付氏関係では兼続の墓は行きました。禰寝氏も間接的に関係あります。

ほかには、於平、新城の墓、垂水島津家の墓などです。
山城も4カ所くらい攻めました。
ほかに桜島一周もしました。

一日にしては濃密でした。

すれ違いで残念でした
桐野
今福さん

お互い関東に住んでいるのに、鹿児島でニアミスするなんて、めったにないことだと思いますが、お会いできずに残念でした。
またの機会には是非。


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昨夜、小学館アカデミー「てらこや」に出講。

講座『佐佐木高行 保古飛呂比』を読むの第16回。
慶応3年(1867)6月分を読む。

主に2点について検討する。
ひとつは、四侯会議で挫折を味わった薩摩藩がいわゆる「討幕」を決意したされる点。
『修訂防長回天史』の一節を読む。小松帯刀が山県狂介・品川弥二郎に「尋常の尽力にては迚も挽回の期あるましき」とか「長薩連合同心戮力致す」という有名な文言を確認。
個人的には、これを「討幕」論といってよいか疑問あり。武力行使も辞せずではあると思うが。

もうひとつは、その一方で成立した薩土盟約を『寺村左膳道成日記』『玉里島津家史料補遺』などで確認。

薩摩藩がいわゆる「討幕」を決意しながら、それからわずか数日後に薩土盟約に乗り換えた背景や理由をあれこれ述べる。核心は将軍辞職(=幕府解体)を獲得することだろうとか。その手段は問わず、しかも、土佐藩が前面に立ってくれればなおよい(佐佐木言:土佐を主人とする)とか。

この間、同日記を読み進めているうち、佐佐木が使う言葉の意味や幕末土佐藩の内情で不明な点が多々あったが、受講者の方から『勤王祕史佐佐木老侯昔日談』に解説があると教えてもらう。じつは同書を所蔵していたのに、これまで使っていなかった。
たまたま受講者が同書を持参されており、ちょっと見せてもらったが、四侯会議で山内容堂が脱落して帰国した事情について、大変興味深いことが書かれていた。表向きには容堂の病気ということになっているが、そうではない。「昔日談」はやはり面白い。

なお、会場になっている千代田区立日比谷図書文化館が刊行している図録「文化都市千代田―江戸の中心から東京の中心へ―」を開講直前に購入。400円と廉価だが、図版や古写真が豊富でお買い得だった。

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【2012/02/22 15:35】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第225回
―古今伝授の歌人、自記残す―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きで、樺山玄佐の歌人としての面を中心に書きました。
玄佐は天文20年(1551)に上洛を果たしています。記事にも書いたように、古今伝授が主な目的だったと思います。
しかし、目当てとした准后・近衛稙家は在京していませんでした。おそらく将軍義輝とともに近江坂本にいたと思われますが、さすがに坂本まで下向するわけにはいかなかったのでしょう。三好長慶との抗争に巻き込まれてしまい、在京もできなくなる可能性がありますから。
近衛稙家からの書状に京都で会えずに残念だった趣旨が書いてあるのがそのことを物語っていると思います。

在京できないほどの稙家でしたから、経済的にも窮乏していたと思われます。玄佐は古今伝授に対する謝礼として、稙家に金70両を贈っていることが確認できます。もっとも、そのうち20両は家宰の進藤氏の取次料だったようですが。

紙数の関係で書きませんでしたが、日新斎忠良の「いろは歌」を近衛稙家が添削したというのもおそらくこの時期で、玄佐が近衛家に持参した可能性もありますが、確認できませんでした。
この時期、一番頼りになる史料は山科言継の『言継卿記』なのですが、残念ながら同年分は一部しか残っておらず、玄佐が在京していた9月前後は記事がありません。

次回は先日このブログでも書いた鎌倉の源頼朝の供養墓について書こうかと思っています。

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【2012/02/20 21:15】 | さつま人国誌
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少し前に、日本画家の北郷萌祥さんからいただいたもの。
おしゃれなデザインの4合瓶なので、もったいなくてまだ呑んでいない。
北郷

北郷さんは島津氏の異姓分家である北郷氏の子孫。
北郷氏は秀吉の時代、当主の忠虎が朝鮮で病没し、隠居の一雲入道こと時久も他界したため、幼い忠能が当主となったが、忠虎の弟三久が後見した。三久は猛将として知られる。
忠能の本家は江戸時代になって島津に復姓し、都城島津家となった。

一方、三久は独立して新たに北郷家を興した。薩摩国平佐(現・薩摩川内市)を領したので平佐北郷氏と呼ばれ、江戸時代は一所持として、8200余石を領した大身の私領主である。北郷さんはこの平佐北郷氏の子孫。

この焼酎は北郷さんが蔵元に特注してつくられたもの。
なぜかといえば、ひとえに「北郷」「ほんごう」と読むことを周知したいとのこと。
北郷さんの思いのほどを、このブログでお伝えしておきます。

なお、 北郷は日向国諸県郡三俣院(現・宮崎県都城市高城町)にある地名です。

これからはぜひ、「ほんごう」と読んで下さいませ。

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【2012/02/18 20:06】 | 雑記
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「萌」
ばんない
HP作成の時に「北郷」と入力するときには「きたさと」と打って変換していた私が呼ばれたようなので、遅ばせながら参上しました(汗)
関西の人間で読むのに迷う鹿児島の地名と言えば「垂水」とかもそうでしょうか。

話は変わりますが、北郷さんのお名前は苗字よりも読み方が分かりません(汗)そのまま音読みでしょうか。



ほうしょう
桐野
だと思います。

ネットで検索すると、サイトをお持ちのようです。

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午後から武蔵野大学サテライトキャンパス(三鷹)に出講。

信長公記を読む」第5回講座。
今回のテーマは「五カ条の条書と足利義昭」。

有名な条書が出された理由や背景を検討。
条書の第5条「禁中の儀、御油断あるべからず」について、通説とは別に、禁裏大工惣官職の人事をめぐって正親町天皇と将軍義昭が対立しており、天皇が義昭の措置に怒って「くせ事」(曲事)と書いた女房奉書を発給したという一件があり、このことが条書にも反映しているのではないかと述べ、それについて少し詳しく検討した。

その関連史料として『御湯殿の上の日記』を読んだが、禁裏惣官職の人事にからんで「ふけ(武家)よりてうのはしめ(始め)をのへられ候」という一節を理解できなかったが、あとで受講生の方から、鍬始めのことではないかと指摘を受けて、なるほどと思った。この人事が正親町天皇と将軍義昭との間で紛糾しているため、禁裏御所修築の鍬始めが延期になったと解するのがおそらく妥当だと思われた。

もっとも、「てうのはしめ」の「てう」にどんな漢字をあてたらいいのかわからなったので、帰宅してから調べたら、「鍬」の音読みは「しゅう」だけでなく「しょう」もあった。「鍬の始め」でいいのでは。
ご指摘、感謝です。また受講生の方に教えられました。

終了後、同大学の別の講座(単発)の依頼あり。
どうやら秀吉の小田原城攻めがテーマになりそう。

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【2012/02/18 00:38】 | 武蔵野大学社会連携センター
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てうのはしめ
武江
桐野様
「釿(てうな)始め」という事はないでしょうか?
「譜略」などで、城郭造営の最初には、こちらが出て来ますが。


加木
御所修繕は建築=作事であった。土木=普請ではないから、「釿(てうな)始め」ではありませんか。

ご教示多謝
桐野
武江さん、加木さん

ご指摘有難うございます。

「手斧」は一応考えたのですが、「釿(てうな)」もあるのですね。
また、普請と作事の違いについても納得です。

釿始
武江
桐野様
こんばんは。
「ちょうな・の」が詰まったか、「ちょうな」を内裏で「ちょう」と呼んでいたか、と言う事でしょうか。
正解かは判りませんが、一応「譜略」の「東照大権現宮」の項の使用例をご紹介しておきます。

慶長七年壬寅
○二月朔日鎌倉鶴岡八幡宮建立釿始

慶長十五年庚戌
○閏二月尾州名護屋築城之儀諸大名エ被 仰付之
○六月三日名護屋釿始


事例紹介御礼
桐野
武江さん

有難うございます。

おそらく京言葉か女房言葉なんでしょうね。


釿始式
武江
桐野様
明けましておめでとうございます
こちらの記事から随分月日も経っていますので、既にご存知の事とは思いますが…。
例年1月5日に各地の神社で、「釿始式」が執り行われていて、京都の城南宮や山口の防府天満宮では、「釿始」は、ずばり「ちょうのはじめ」と読まれているそうです(「ちょんなはじめ」と読む地方もある由)。昨年の防府天満宮での式の様子を、ネットの日テレNEWS24で視る事ができます。ニュース記事では、「ておの→てうの→ちょうの」の転訛としていますが、「てうの」は「ちょうの」の旧仮名遣い表記ではないかと思います。「ておの→ちょうの(てうの)→ちょうな(てうな)」の転訛の途中が残ったという事でしょうか。あるいは、「ちょうの」が本来はスタンダードで、「ちょうな」は江戸辺りの方言だったものが、立場が逆転してしまったという事かも知れません。
「快元僧都記」の天文三年に、鶴岡八幡宮の再建の為に北条氏綱が呼び寄せた奈良大工の、現代の仕事始めに当る「木屋入」が正月五日だった事が記されています。これに対し鎌倉番匠は十一日に「依旧規木屋入」とあります。大工の仕事始めは畿内ルールが今に残ったようです。



ご教示御礼
桐野
「ちょうのはじめ」といういう行事がちゃんとあるのですね。
有難うございます。

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午後、打ち合わせのため、待ち合わせ場所の新宿・紀伊國屋書店に行く。

いつ頃置かれたのか知らないが、入り口前のエスカレータ下に二宮金次郎君を発見。
なぜと思ったら、ベンチに腰掛けて、読んでいるのが電子bookではないか。
やられたという感じ。
携帯で撮影したので、画質が悪いのはお許し下さい(写真をクリックすれば拡大されます)。

で、打ち合わせは今年9月の宝山ホールでの講演について。
テーマは、来年が薩英戦争150年なので、それを中心に、今年がちょうど150年になる寺田屋事件や生麦事件をからめた話になりそう。
とりあえずの予定です。
二宮金次郎

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【2012/02/15 19:54】 | 雑記
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ご無沙汰いたしております。
NAO4@吟遊詩人
本当に、やられましたね。
御見事です。

御講演、御講座の方は、なかなか伺えておりませんが、ブログは日々拝見しております。

マフラー
桐野
NAO4@吟遊詩人さん
ご無沙汰しています。
像には首にマフラーがかけられていました。誰がしたのか知りませんが、やさしい心遣いですね。

吉祥寺
末川
 ご無沙汰しております。15日には夫婦で吉祥寺に行き、二宮金次郎の墓にもおまいりしました。島津久敏と町田久幸の墓には、お酒が上がっていました。連絡もせずに突然訪れましたのに、ご住職自らが、久敏と久幸の追善供養のお経を本堂で上げて下さいました。家内はお経を上げてもらい清々しい気持ちになったと申しました。
 あとで神保町の岩波ビルの書店で新書『博物館の誕生』を見ておりましたら、町田久成は官を辞したあと、吉祥寺近くの禅寺に住んだと記述してありました。
 吉祥寺の事務の方が、帰り際にもっと久敏と久幸のことを詳しく知りたいと云われました。私の方からも手紙を差し上げるつもりですが、もし良かったら、お暇な折にお寺に行かれまして、二人や久成について説明して頂けないでしょうか。よろしくお願いします。

吉祥寺
桐野
末川さん

上京されるのでしたら、一度お会いしたかったです。
吉祥寺は以前一度訪れたことがあります。
たしか榎本武揚の墓があり、その法要に参加しました。
私も島津久敏と町田久幸の墓にお参りしようとおもいます。
ご住職によろしくお伝え下さい。


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本日午後、小雨のなか、尚友倶楽部での講演に出かける。
尚友倶楽部は霞ヶ関の霞会館の裏手にある。

同倶楽部は旧伯爵・子爵や旧貴族院議員の親睦団体。
そこの近代史研究会からお招きを受けた。
龍馬暗殺は近代史というより幕末維新期で少し時代がずれているが、いつもと少し毛色の変わった講師を呼びたいという主催者側の意向もあったようだ。

世話人が大久保利泰さん(利通曽孫)で、進行役をされた。会場はかなり大きな会議室で、コの字型にテーブルが並べられた。会員の方はほとんど私より年輩の方々である。

話の内容はこれまで話したこととさほど大差はないが、映像や小説でこの事件がどんな風に描かれていたかを話したことが目新しい点か。
史料レジュメが多すぎて、やはりいくつか読めずに時間切れになったのは、いつもながらのことで残念。

講演中、かなり大きな地震が来てびっくりした。

参加された方は、元お公家さん、元大名などよく知られたお名前が多かった。
時節柄、船中八策について質問が出た。明治になってからの創作だろうとお答えした。

一応、大役を果たせてホッとした。

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【2012/02/14 23:47】 | イベント
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歴史学者だった近衛通隆氏が死去されたらしい。90歳とか。
ここです。

通隆氏は戦前の首相近衛文麿の二男。兄の文隆氏はシベリアで死去している。東大史料編纂所教授もつとめられた。

幕末期の近衛家の本邸・別邸の数や場所を調べるのに、氏の論文「近衛第趾に就いて」(『歴史地理』86-2、1956年)にお世話になった。小松帯刀の京都邸「御花畑」を調べる起点になったのもこの論文だった気がする。

ご冥福をお祈りする。

追記
上の記事に、通隆氏は近衛家当主とあるが、旧公爵近衛家なら間違いだと思う。兄文隆氏には子供がなかったが、細川家から養子に迎えた忠氏が当主かと(『昭和新修華族家系大成』上より)。

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【2012/02/13 15:38】 | 雑記
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ご冥福をお祈りします
木脇noひろみ
芳即正先生、近衛通隆先生の訃報を貴サイトで知り大変に驚きそして残念でなりません。
両先生の生前のご功績を忍び、
ご冥福をお祈りします。

今日15日は、東大史料編纂所で近衛家家司の日記(写真帳)を閲覧してきたばかりです。
享保時代の薩摩藩留守居役の木脇賀左衛門祐盛が藩命で近衛家と接点をもった仕事の裏付けを
近衛基熈公の日記から発見。
昨年春、近衛通隆先生に陽明文庫へお手紙を出させていただきました。
また芳先生の各種のご著書を参考にさせていただいており、
島津斉彬公と幕末の木脇権一兵衛(=賀左衛門)の仕事を記してくださっており、
是非お目にかかりたいと思っておりました。
関ヶ原の「薩州の今弁慶・木脇刑部左衛門祐秀」から幕末の子孫「木脇権一兵衛」までを調査しておりますが、
多くの先生方の地道な研究のご功績があって進めていけることを実感し感謝して、手をあわせる次第です。

桐野さん、いつも貴重な情報をご提供くださり、有難うございます。
本当に助かります。




近衛基煕
桐野
木脇noひろみさん

コメント有難うございます。
近衛通隆さんともご縁がおありだったのですね。
史料編纂所、陽明文庫と、調査がますます本格的ですね。近衛基煕日記まで調べられるとはすごい。この人は島津家との縁が深い人ですね。
よい成果をお祈りします。

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お知らせです。

本日は新聞休刊日なので、表題のとおり、連載は休載です。
次週20日はいつものとおり、掲載されます。
よろしくお願いします。

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【2012/02/13 11:23】 | 信長
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鎌倉にある源頼朝の墓が破壊されたという記事が。ここです。

単なる不届き者の仕業なのか、今年の大河ドラマと関連があるのか?

平清盛の熱烈なファンで、頼朝は清盛に助命されたのに平家を滅ぼした恩知らずだとか?
ドラマのナレーションを頼朝がやっているが、下手で聞いていられなかったとか?

頼朝の墓は江戸時代後期、薩摩藩主島津重豪によって建立されました。
亡くなってから600年もたってからなので、まあ、供養墓なんですけど。
造主の島津家としても由々しき事態ですね。

記事には頼朝の墓の写真が掲載されていなかったので、破壊前の写真を載せておきます。6年ほど前に撮影したものです。
頼朝墓

ついでに、じつは鹿児島にも頼朝の墓があるので紹介しておきます。あまり知られていないと思いますので。
仙巌園と尚古集成館の近くにある鶴峯神社の境内にあります。鎌倉の墓塔と様式は似てますね。少し暗くてすみません。
鎌倉、鹿児島とも島津家が関わっているのは、もちろん、島津家始祖の忠久が頼朝の庶長子だという「伝承」によるものです。あくまで伝承ですから。
頼朝墓2

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【2012/02/11 22:00】 | 雑記
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松裕堂
>ドラマのナレーションを頼朝がやっているが、下手で聞いていられなかったとか?
久しぶりに書き込んどいてなんですが、不覚にもこの部分で笑いました。シレっと毒が。

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昨日、国会図書館に行く。今年2回目。
日差しもあって、けっこう暖かい日だった。

今回は資料の閲覧・複写というより、登録カードの更新が主な目的。
10年以上前、登録はしていたのだけど、入館のためのカードは作成していなかった。
その更新期限が今月14日までだと、前回入館したとき脅されていたので、出かけた次第。

せっかく入館したので、それだけではもったいなくて、4点ほど複写申請をした。ところが、そのうち2点も作業中で借り出せず。
どうも、最近、20世紀の雑誌(80年代、90年代)が軒並み作業中のようだ。経年により全般的に痛んでいるだろうから、全面的な補修作業中らしい。
もっとも、こちとらは不運というしかない。ちょっと仕事で使いたい論文だったのにな。

新システムになって感じた点。
メリットとしては、貸し出し点数が大幅に多くなった。10点ほどは借り出せるようだ。その分、複写回数も制限がだいぶ緩和された。

デメリットというか不慣れな点。
端末の表示スピードがとろい。まあ、巨大なシステムなんだろうけど、せっかく最新鋭のシステムのはずなんだから、もっと早く表示できないのか。イラッとすること多し。
あと、私はまだ経験がないが、検索機能は前のシステムよりも低下したというもっぱらの噂。たとえば、ここ


あと、複写申請のとき、専用端末で入力して登録したのち、入館カードをいったん抜き、別のプリンターに差し込んで申請用紙をプリントするというのが何とも。なぜ前のシステムのように端末とプリンターをつながないのだろうか? 二度手間で面倒この上なし。

というわけで、利用者にはさらに負担をかけながら、システムは退化しているという有様で、相変わらずストレスがたまる所です。

あと、個人情報保護法(もっといえば、思想・信条の自由)との関連でいえば、利用者の閲覧図書履歴の外部(まあ、警察関係でしょうか)への提供はどんな法的根拠や手続きに基づいて行われるのか、不勉強でよく知らないが、何となく不安だ。

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【2012/02/10 17:42】 | 雑記
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こんばんは。
中村太郎
国会図書館の検索の不便なのは、私だけの感想ではなかったのですね。PCに弱く、私の検索の仕方がまずいのかとも、思っていました。
図書はいいとしても、雑誌の検索が本当に不便です。
作業中で閲覧できないのは致し方ないですが、デジタル化は有難いです。
ただ、デジタル資料の昔の雑誌の複写となると、いままでは同寸大のコピーが一回り小さくなり、又コピーが薄くて、読むのに一苦労です。(眼が悪いうえ、老眼)
30ン数年前の図書を探すのにも、複写依頼にも四苦八苦した身としては、贅沢は言えませんが。

NDLのOPAC
今福
元図書館司書です。システムの入れ替えで「not検索」ができない候補を3つほど却下した過去があります。
データベース検索については、図書館システムの要なんですけどね。
ただ、群書類従などは収録史料から検索できる点がいいです。都立中央(ここも最近システム刷新)はできないのでいつも困ります。
検索の結果、表示される書誌事項についても、たとえば「鹿苑日録」なども一冊ずつ収録されている時期が確認できるとうれしいのですが。

発注に問題?
桐野
どうもシステムの発注の際、よく吟味しないで決めた感じがしますね。現場の事情をよく知っている専門家が関与していなかったのか?
ほかに裏事情があるのかもしれませんが。

逡巡中
武江
桐野様、こんばんは。
そんなに、厄介でストレスが溜まるんですか?
中央図書館にも置いてない史料があって、来週中にでも行ってみようかな、と考えていた所だったのですが、何か猛烈に気が引けて来ました。
言われてみれば、中央図書館の検索も、以前の方が明らかに使い易かったです。


すみません
桐野
武江さん

利用の要領・手順さえ覚えておけば、多少の資料閲覧・複写は大したことはないと思います。
引かせてしまったら、ごめんなさい。

あと、正式な登録をしないで当日の臨時カードだけだと閲覧だけで複写サービスは受けられないなどの制限が設けられました(これも腹立ちますけどね)。たしか今月後半からだったか?
ですから、まだお持ちでなかったら、正式の登録カードを作成したほうがいいと思います。その際、身分証明書が必要です。

有難うございます
武江
桐野様
アドバイスを心して、行って参りたいと思います。
有難うございました。


滝野川
こうしたシステム多くは入札であり、初期仕様は好い加減な物が殆どです。
実際には発注部署とシステムメーカーの担当者同士が決めてしまうわけですね。

・・・以上、一般論。


Tm.
自分の会社では、社長の一存で導入したシステムが実際にそれを端末で操作させられる社員に不評です。
業者が入力した作業ダイヤが全く出鱈目で、修正中だとのことですが、現場の人間で意見を求められたという話も聞かれずでどう修正できるのやら。納入時のチェックなどしていないに等しいようです。
初期投資にウン億、年間維持にもウン億とかかり、その一方でコスト削減を要求するのですから本末転倒も甚だしい所業だといわざるを得ません。

国会図書館も都立中央図書館もここ数年訪れていませんでしたが、色々と様変わりしているのですね。


ありえますね
桐野
みなさま
ご指摘のように、発注側と受注側に、なれあいがあるのはお役所仕事の常道ですよね。


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昨夜、小学館アカデミー特別講座「てらこや」に出講のため日比谷へ。

佐佐木高行の日記『保古飛呂比』の慶応3年(1867)5月分を読んだ。
佐佐木がこの月、大目付に就任し、軍事御用も兼帯した記事がメイン。
藩政批判派で攘夷勤王派といってよい佐佐木が重職の大目付に就任したことは藩内情勢の風向きが変わったことを示している。藩当局に脱佐幕傾向の人物が相対的に増えたのと、下級藩士層の圧力によるものだろう。

あと、山内容堂の上京と病気帰国の記事もあった。
容堂の上京はいわゆる四侯会議のため。

その関連史料として、西郷吉之助の島津久光への建言書2点と、徳川慶喜と四侯(実際は容堂を除く三侯)の対決を詳しく書いた越前藩の『続再夢紀事』の長い記事を読む。
西郷は幕府や諸藩のなかで長州寛典反対の声が高いようだと、実力行使を匂わせている。また、すでにこの時点で、徳川家の諸侯の列への降下と大政奉還を眼目に据えている。
禁裏御所仮建所虎の間での朝廷・幕府・諸侯会議のいきさつはとても面白かった。
四侯のうち、唯一出席した松平春嶽の逡巡と公卿たちの因循の様子がうかがえ、久光の欠席もあり、結果として慶喜の強行突破を許してしまう。

そのいきさつが詳細に書かれており、受講者からも笑い声が起こるほど面白かった。史料の醍醐味が味わえた一日だった。

次回は薩土盟約あたりか。

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【2012/02/08 22:43】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第224回
―大力剛腕、日新斎の娘婿―

本日、連載が更新になりました。いつもは夕方に更新されることが多いのですが、朝早くの更新に驚いています。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前々回の続きです。
島津日新斎の二女御隅の夫、樺山玄佐を上・下2回にわたって書くことにしました。
玄佐は出家名で、実名は善久、官途名は安芸守です。
彼は自記を遺していて、『樺山玄佐自記』として活字化もされています。樺山氏の略史であるとともに、戦国の南九州史を叙述したもので、貴重な史料です。個人的な関心でいえば、薩州家島津実久が守護職を襲ったことを事実上認めている点でしょうか。これは日新斎以降の(相州家)島津氏の「正史」では抹殺されている事柄です。

それで、(上)は玄佐の武将としての側面を書きました。
前々回、貴重な玄佐・御隅肖像画を紹介したとき、気になっていたのは、玄佐の右脇に立つ抜き身の大刀でした。今回、子孫の樺山久孝さんからの聞き取りなどもして、ある程度謎解きができたかなと思っています。記事でも紹介したように、玄佐が五尺の大太刀を使っていたという「薩藩旧伝集」の驚くべき伝承と、樺山氏四代孝久が大覚寺義昭(六代将軍義教の弟)を日向櫛間で討ったときに、将軍義教から拝領した銘刀「備前国宗」の存在。この2つから造形されたのではないかと感じました。
肖像画でも、この大刀は坐っている玄佐の倍ほどの長さがあり、150センチ以上あるように思われます(ただ、柄が異常に長いですが)。
なお、この備前国宗は玄佐から島津義久に献上されたのち、明治以降、島津家から照国神社に所蔵が移り、現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄託されています。戦後の混乱の一時期、行方不明になっていましたが、アメリカのコレクターが発見して返還され、1964年に国宝指定されました(文化庁の国指定文化財等データベースより)。
もっとも、その全長は81センチ余で、五尺はありません。

(下)では、玄佐の歌人としての側面とその死を取り上げたいと思います。

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【2012/02/06 10:44】 | さつま人国誌
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先日の兼見卿記輪読会。
金子拓さんよりいただきました。
御礼申し上げます。

「落合家所蔵の旗指物と「落合左平次道次背旗」」 『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』56号、2012年1月

有名な磔刑像を意匠にした落合左平次の背旗。
その強烈な絵柄で有名です。
長篠合戦のとき、鳥居強右衛門の磔刑を意匠にしたといわれています。
これについては、逆さ磔説があり、論議を呼んでいましたが、結論が出たようです。
逆さか否かの決定的な証拠は、四半という旗指物の竿を通す乳と呼ばれる筒状の縫合部分が向かって左側と上側に付いていることです。その状態では絵柄は逆さにならず、通常の形になります。
なお、所蔵元の落合家には当該背旗のほか、4点の旗指物があり、いずれも磔刑の絵が描かれていますが、どれも絵柄が少しずつ違います。
ほかにも、この背旗の成立事情についての詳しい考察があります。
像主については鳥居強右衛門だと断定するのは慎重でありたいという記述にも留意したいものです。

また同誌には、

神田高士「ロシア国立軍事史博物館所在の子砲式後装砲について」

という別の論考も収録されており、個人的には非常に興味深く拝読しました。
同館所蔵の後装砲(有名な「国崩」と同様の仏郎機)が大友宗麟によってライセンス生産された、要は国産であることが明らかになったことです。
しかも、製造年代の上限が天正9年(1581)であるとのこと。つまり、信長の存命中です。
私はほぼ同時期に信長も仏郎機を製造したと考えているので、とても興味深く読みました。
もっとも、この後装砲はヨーロッパではすでに時代遅れだったようですね。

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【2012/02/05 19:26】 | 信長
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表題の見本が本日届きました。

今回はアスキー新書です。
詳しくは版元のここです。目次まで載っています。
アマゾンの案内はここです。

12年前の前著『真説関ヶ原合戦』を改訂したものです。
その後の研究成果も取り入れています。

ただ、まえがきにさっそく誤植を見つけてショック(泣)。
「将帥」がなぜか「将師」になっている。しかも、ご丁寧に3カ所も。
これは分量の関係であとから追加した部分。手書きのうえ校正もしていません。ちゃんとデジタルデータで渡すべきだったと「憔悴」してます。

それはともあれ、写真や図版も多く、私にしては比較的読みやすく仕上がっていると思いますので、よかったらお買い求め下さい。
書店発売は今月10日です。

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【2012/02/04 15:44】 | 新刊
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昨日から読んでます
今福
改訂部分に取り上げてくださり、ありがとうございます~

御礼
桐野
今福さま

お買い上げいただき、有難うございます。
御著を参考にさせていただいたので、お送りしようと思っていたのですが。



滝野川
私も今読み進めているところです。前田系史料からの引用が多かった印象がありました。

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