歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
拙稿の紹介です。

『歴史街道』5月号に記事を書きました。
特集が「本能寺と光秀の謎」です。
よくある本能寺の変の真相諸説ですが、私の記事タイトルは、

斎藤利三介在説:長宗我部問題と重臣処分、そして折檻の屈辱により

です。
これまで何度か書いたことがありますが、斎藤利三の存在と役割をさらに強調したものになっています。
典拠として、フロイス『日本史』と『稲葉家譜』を挙げています。
後者については、もっと再評価が進むべきだろうと思っています。

同誌サイトはまだ更新されていないようです。
書店で発売されているかどうかは確認していませんが、関東はだいたい月末だったように記憶しています。
よかったら読んで下さい。

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【2012/03/31 23:33】 | 信長
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本日、『鹿児島県史料』の新刊2点が届く。
いつも鹿児島市の春苑堂書店から新刊が出るたびに送ってもらっている。

①『旧記雑録拾遺記録所史料一』
②『名越時敏史料二』


①は藩政史料を明治になってから編纂・整理したもの。
記録所は藩の記録所で、今回は享保から明和までの数十年間分。
薩摩藩は藩政史料が少ないといわれるが、思ったより残存しているんだなと意外の感あり。

②は奄美の民俗を描いた『南島雑話』の作者名越左源太の日記。
名越は高崎崩れ(お由羅騒動)に連座して奄美大島に遠流となった。
幕末の日記なので興味深い。
「名越時敏日史」といい、元治元年正月から慶応三年四月までの3年以上分あり。
薩摩藩内には郷(外城)が100以上あるが、お互いに剣術の交流などをやっていることがわかる。幕末薩摩藩といえば、京都政局ばかりが注目されるが、国許でどのようなことがあったのか、その一端がわかる日記である。

個人的に興味深かったのは、小林の居地頭だった名越が管轄の野尻に武術検分で出張したとき、庄内の乱の伊集院源次郎(忠真)と平田増宗の一子新四郎の墓を見物していること。新四郎は野尻で島津忠恒の狙撃手から誤射されている。
私も昨秋、おそらく同じ場所に行ったが、伊集院忠真の墓はあったが平田新四郎の墓は現存していなかった。あるいは別の場所にあるのか?

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【2012/03/29 20:55】 | 新刊
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日の本一可哀想な戦国武将!
薩摩隼人
鬼、島津義弘の息子は、もっと鬼!!だった!

島津忠恒に、父親の伊集院忠棟が首を斬られ、息子、嫡男の伊集院忠真は、父の仇討ちも実らず、撃ち殺されてしまう!

近年、死人に口無し、
実は、伊集院家は、平和を愛する心優しい一族という事が解ってきた!

弱肉強食の戦国ならでは、
島津忠恒に、食べられてしまった!

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第229回
―逃亡から鹿籠金山へ、赦免―

連載が本日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は前回の続きで、謎の浮世草子作者・都の錦のその後です。
彼は山ヶ野金山を脱走したのち捕縛され、今度は南薩の鹿籠(かご)金山に送られます。現在の枕崎市です。
その後、4年間ほどの服役の末、赦免されたと思われる。

彼には2度の幸運が訪れた。
1度目は、山ヶ野金山を脱走して捕縛され、牢獄で取調の名の下、そのまま衰弱死してもおかしくなかったのに、藩主島津吉貴の襲封による恩赦で、鹿籠金山送りとなった。
そして鹿籠金山でも、将軍家宣の就任に伴う恩赦で赦免されることになったようである。
彼が『捨小舟』『播磨椙原』という作品を残せたのも、ひとえにこの2度の幸運の賜物である。

まことに波瀾万丈の面白く、かつ謎めいた人物である。

都の錦については、ほかに『武家不断枕』(読みは確認できないが、「ぶけふだんちん」か)という作品があり、その写本に奇妙なことが書かれているので、続編として取り上げてみたい。
もっとも、掲載写真の関係で次回になるかは微妙。
次回、これが無理なら、敷根火薬庫を書く予定。

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【2012/03/26 17:46】 | さつま人国誌
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都の錦興味深いです。
NAO4@吟遊詩人
桐野先生御無沙汰いたしております。

赦免されたと考えられる1709年に、都の錦は34歳(満)ということは、まだ若そうですね。

するとまだまだ何か書いているような気がしますが、何か作品が出てくると面白そうですね。

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滋賀県彦根市のサンライズ出版から表題の新刊を頂戴しました。
記して御礼申し上げます。

古くからの三成研究会であるオンライン三成会の編集執筆によるものです。
主なメンバーのなかで、中井俊一郎さんや田附清子さんなどとは交流があります。石田世一さんとはお会いしていませんが、非常に緻密な三成論をまとめている方で、以前からよく拝読していました。
詳しくは版元のサイトのここをご覧下さい。

初版は2009年ですが、重版にあたり、だいぶ増改訂されたようです。
会員のみなさんが分担執筆するという体裁をとっています。
石田三成について知りたいことはほとんど全部触れられているといっても過言ではありません。構成は以下の通り。

第一陣:三成の生涯を追って
第二陣:三成をめぐる人々

第一陣では、三成の足跡が豊富な写真付きで紹介され解説も付されていて、非常に親切な編集です。
第二陣では、三成の娘辰姫など知らないことも多く参考になりました。

私は三成については門外漢ですが、あえてひとつ注文を付けるとすれば、島左近の出自になるでしょうか。
それについて本書では、大和・近江・対馬・尾張の4説を紹介しています。諸説をバランスよく取り上げるのは読者にとって親切な態度で入門書・概説書としては当然ですが、やはり大和説、筒井順慶・定次の重臣だったのではないかと思います。

たとえば、筒井順慶が他界したとき、その「葬送次第目録」に五番目として「嶋左近」の名前が見えます。これは一次史料なので、ほぼ決定的ではないかという気がします。
ほかには二次的な編纂物ですが、『陰徳太平記』『松平記』『根来焼討太田責細記』などにも島左近は登場し、いずれも順慶・定次父子の家来として描かれています。これらの軍記物は比較的良質な部類だと思います。
『松平記』によれば、遅くとも天正初年には順慶の家来になっているようです。生まれと仕官は別だった可能性もあるでしょうが、「(筒井家の)家子」という記述もあり、古くからの被官だったのではないでしょうか。

以上、感じた点でした。
非常にコンパクトにまとめられた三成伝であり、関心のある方にはお勧めです。

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【2012/03/25 09:44】 | 信長
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ご高評ありがとうございます
サンライズ出版 矢島
中井さんの左近論は冷静ななかに思い入れが見え隠れして印象深いですね。本全体をとおして「史実」と「伝説」をバランスよく(節操なく?)散りばめているのがミソだと自負しております。

あ、このあと勇気を出してフェイスブックの友達申請させていただきます!

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講座のご案内です。
武蔵野大学で続けている講座「『信長公記』を読む」が元亀争乱に突入します。
関東方面で関心のある方は受講してみませんか。

4月20日(金)を皮切りに、月一で第三金曜日に開催します。全6回(有料)です。

講座内容の確認や問い合わせ・申し込みはここをご覧下さい。

念のため、半年のスケジュールと内容をお知らせしておきます。

4/20 姉川合戦の再検討
5/18 野田・福島の陣と本願寺挙兵
6/15 志賀の陣と「勅命講和」
7/20 比叡山焼き打ちと明智光秀
8/24 小谷封じ込めと異見十七カ条
9/21 武田信玄の西上と三方ヶ原合戦

よろしくお願いします。

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【2012/03/24 20:22】 | 武蔵野大学社会連携センター
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小学館アカデミー古文書宿「てらこや」。
年度替わりで、体験講座を実施します。
テーマは船中八策はあったのかです。

坂本龍馬の代名詞といってもよい「船中八策」ですが、じつは同時代の確実な史料は存在しません。船中八策は史実なのかフィクションなのかを、詳しく追求します。
関心のある方、受講してみませんか。
体験講座は以下の要領で行います。

日時:4月3日(火)19:00~20:30
演題:「船中八策はあったのか」
会場:千代田区立日比谷図書文化館4Fセミナールーム
    MAPはここです。
受講料:有料(1.000円程度)
問い合わせ・申し込み:小学館アカデミー(ここです)

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【2012/03/22 23:25】 | 信長
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今秋9月30日(日)、鹿児島市宝山ホールにて講演をすることが内定しています。

昨年の私の講演のとき、日曜日は運動会が多いから参加できない、土曜日開催にしてほしいという要望が多くて、主催者側としては、できれば前日の29日にしたかったそうですが、スケジュールの都合がつかず、致し方なく今年も日曜日開催となりました。

それで、演題をどうするか、この間、主催者側と打ち合わせを重ねてきました。
当初は来年が薩英戦争150年なので、寺田屋事件や生麦事件(両事件は今年が150年)から薩英戦争へと至る道のりについて話すということになっていました。
その後、いろいろ意見が出て、結局、

戦国島津四兄弟

について語るということに決まりました。

昨年、「義久と義弘」をテーマに講演しており、重複する部分もあるのですが、少し趣向を変えようと思っています。
とくに末弟の家久をクローズアップしようと思っています。

現段階では正式の演題は決定していませんが、私見として、

島津四兄弟と秀吉襲来

でやろうと思っています。

まだ先の話ですが、関心ある方のご参加をお待ちしております。

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【2012/03/20 19:12】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第228回
―無宿人から山ヶ野金山へ―

本日連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回のタイトルですが、サイト記事(おそらく新聞記事も)に(上)が抜けています。原稿には(上)を付けていたのですが、校正の段階で私もうっかりしてました。したがって、次回が(下)です。

前回、忠臣蔵がらみで吉良上野介の長女が島津綱貴の後妻になった話を書きましたが、今回も忠臣蔵がらみといってもよいかもしれません。意図したものではなく、単なる偶然ですが。

以前から薩摩藩内には山ヶ野など金山が多いので、これを何とかこの連載で書けないかと思い、いろいろ調べているうち、鉱山史・貨幣史の大家として知られる小葉田淳氏の古い論文「金山と流人―山ヶ野金山流人証文留を中心に―」(『古文書研究』7・8号、1975)を見つけ、都の錦についての記述があるのを知ったことが執筆のきっかけです。

「都の錦」というペンネームの浮世草子作者。近世国文学に通じた方でないと知らない人物かもしれません。
京・大坂で生まれ育ち、浮世草子作家として名を挙げだしたのに、江戸に出て無宿人となり、薩摩藩領の大隅国山ヶ野金山に遠流されるという波瀾の生涯を送った人物です。
今回の(上)はここまでですが、まだ続きがあります。

都の錦は山ヶ野金山で流人たちのいじめに遭い、それに耐えかねてついに脱走します。そして肥薩国境の関所で見つかって捕縛され、今度は南薩の鹿籠(かご)金山に送り込まれます。
流人として金山での苛酷な労役をしながら、文筆活動も行い、『播磨椙原』『捨小舟』など、やはり忠臣蔵関連の作品を著しています。これは原本が現存し、鹿籠金山があった枕崎市の文化財に指定されています。

二度の金山送りも耐え抜き、幸運にも赦免となり、さらに文筆活動を続けたようです。もっとも、没年とその場所は不明のようです。

このような浮き沈みの激しい人物で、しかも、逆境や苛酷な環境に耐え抜いた強靱な精神力には脱帽させられます。専門外でしたが、ぜひ取り上げてみたい人物でした。
次回は鹿籠金山での出来事を中心に書きます。お楽しみに。

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【2012/03/19 16:30】 | さつま人国誌
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本日、午後から武蔵野大学生涯学習講座のため、三鷹のサテライトキャンパスに出講。

信長公記を読む」も第6回で、今期の最後になる。
テーマは「金ヶ崎の退き口と元亀争乱の幕開け」

信長の越前出陣は私戦ではなく、幕府軍としての出陣であり、朝廷の支援(戦勝祈願)も受けていたことを説明。
信長の出陣を記した宮廷女官の『御湯殿の上の日記』に興味深い記事あり。

「のふなかの御ちこ」(信長の御稚児)が禁裏御所の庭を見学し、大典侍(おおすけ)、新大典侍(しんおおすけ)、長橋局(ながはしのつぼね)などに礼を述べたとある。

「御稚児」は「御」が付いているから、信長の息子と考えるべきだろうと話す。
このとき、二男信雄が上京していることは確認できる。
信雄(13歳)が該当するか? 
あるいは長男信忠(14歳)も含まれるか?

その他、有名なお市の方の小豆袋の逸話も紹介した。

珍しくちょうど時間内に講座は終わったのだが、終了後、質問がたくさん出たため、後ろの講座に少し迷惑かけてしまった。すみません。

信忠で思い出した。
余談だが、武田氏研究者の丸島和洋さんが、穴山信君の諱の読みが「のぶきみ」ではなく「のぶただ」だと紹介していて、のけぞった。人名の読みは難しい。

次回からは新年度で、「信長公記を読む」を継続します。
6回とも元亀争乱まっただなかのテーマになります。
詳しくはまた告知しますが、興味のある方はご参加下さいませ。

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【2012/03/16 23:17】 | 武蔵野大学社会連携センター
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ハンク
いつも勉強になります。
「のふなかの御ちこ」云々は、信長の御乳(養徳院)が小御所の庭を見物したのだと思っていました。

御ちこ
桐野
ハンクさん

「御ちこ」はたしかに解釈が悩ましいですね。
御乳人の可能性もないとはいえませんね。その場合、「御乳御」となるんでしょうか? 「母御」みたいな感じで。
私は忠実に読んで「御稚児」かなと思ったものですから。
もっとも、14、5歳の男子を「稚児」と呼ぶかどうか。もう元服の頃ですからね。


A
桐野先生こんばんわ。
北国新聞のホームページの13日のニュース、「信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社」にある画像の、信長の座っている畳のふちが気になっています。
これって繧繝縁(うんげんべり)でしょうか?
拡大してみるとちょっと違うようにも見えますが。
『泉野菅原神社はもともと、加賀藩2代藩主前田利長の正室永姫(玉泉院)の父である織田信長を徳川幕府時代にひそかにまつっていた珍しい神社』という点と合わせて真相が気になるところです。

茶筅か
桐野
「御ちこ」の件ですが、養徳院でないとすれば、やはり茶筅こと信雄かもしれないですね。

茶筅の元服は元亀3年(1572)1月ですから、記事の時点では、まだ元服前の前髪です。「御稚児」でもおかしくないかと。

それに、茶筅は伊勢国司家、村上源氏の名門北畠氏の跡取りですから、禁裏御所内に入ってもおかしくありません。

その点、奇妙こと信忠は兄とはいえ、公家ではないですから、茶筅より少しハードル高いですし、このとき在京しているかどうか確認できません。

繧繝縁?
桐野
Aさん

お尋ねの繧繝縁の件ですが、私にはよくわかりません。すみません。

前田利長は細川忠興とともに、信長から信忠の側近として期待されていたと思いますし、何より永姫を通じて信長の女婿ですからね。前田家に信長像を祀る神社があってもおかしくないと思います。
徳川時代、秀吉は別として、信長崇拝はそれほど問題視されなかったのではないでしょうか。

そういえば、細川家の永青文庫からも、信長木像が出てきたそうですよ。これまで門外不出だったようです。
忠興こそ、有名な信長の自筆感状もあり、熱烈な信長崇拝者ですからね。たしか信長の50回忌にも老体にむち打って大徳寺に参詣しています。



御ちこ
ハンク
「御ちこ」=茶筅、ご教示ありがとうございました。私は「御ち こ御所の庭」を「御乳、小御所の庭」と解釈していました。翌21日の「のふなか御ち」も「信長御乳」と理解していました。失礼しました。

御乳
桐野
ハンクさん

たびたびすみません。
私が講座で使ったテキストは、大日本史料所載の『御湯殿~』でした。信長の越前出陣の部分を使ったとき、ついでに読んだのですが、ご指摘を受けて『御湯殿~』を改めて見てみると、「御ち」に「乳」という傍注が付いていますね。
傍注が必ずしも正しいというわけではないですが、翌日条にも「御ち」(「御ちこ」ではなく)が登場し、「こ御所」も「小御所」と読めることを考えると、ご指摘どおりかもしれません。
ちょっと早とちりしたようです。
ご指摘有難うございました。


A
ありがとうございました。

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先週末の3月10日、板橋区立郷土資料館で「当世具足」展を観る。

地下鉄成増駅下車なので、拙宅からは遠いのかと思ったら、地下鉄副都心線を使えば、乗り換えも少なくて意外と早く着いた。副都心線に乗ったのは初めてかも。

ご一緒したのは、知り合いの調所一郎さん(広郷子孫)、徳川家広さん(徳川宗家世子)や小説家、ライターさんなど数人。だいたい、調所さんや徳川さんの飲み友達のようである。

近世の当世具足がたくさん並んでいた。時代的には江戸後期か幕末のものが多い。
中世具足研究者の豊田勝彦さんに詳しく説明していただく。
豊田さんは近世の甲冑はわからないといいながら、とても熱心に解説してもらった。
個人的に興味を引いたのは、北関東野州の黒羽藩の江戸後期の藩主大関増業の具足と一連の著書。彼は他家からの養子で、藩政改革をめざしたものの、失敗して家臣たちに押し込められた。
黒羽藩はもともと小藩だが、当時、とても困窮していたらしい。増業の改革によりさらに貧乏になるとして反発、ついに主君押し込めに至る。豊田さん曰く「失敗した上杉鷹山」には笑ったが、その長すぎる余生が哀しい。

大関増業は、甲冑に強い関心があったらしく、暇に任せて実に精密な甲冑の図面を描き遺している。しかも、等身大の切り抜いたパーツ図もあった。

薩摩藩だと同時期に島津斉宣がいるのを思い出した。「蘭癖大名」の異名をもつ父重豪の逆鱗に触れ、ついに押し込められてしまう。彼も趣味人だったな。

受付で高島秋帆や砲術関係、板橋宿関係の図録を購入。格安で有難かった。

一次会は赤塚駅付近の餃子店、二次会は赤坂だった。
最近すっかり呑めなくなったので、アルコールはビール一杯と紹興酒だけ。

徳川家広さんとお会いするのは2度目だが、ほんとに面白い人である。
徳川秘史というべき秘話もうかがったが、どこまで裏付けられるのか興味深い。

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【2012/03/15 22:25】 | 雑記
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10日の件
調所
当日は、お忙しい中、朝から有り難うございました。豊田さんは自身の母校・早稲田大学で甲冑の授業を担当してます。私と徳川さんの母校・慶應では刀や甲冑の授業とか考えられず、さすが個性派輩出の早稲田だと感心しました。

甲冑の授業
桐野
調所さん

先日はお疲れ様でした。
豊田さんは早稲田で甲冑の講義をされているとは驚きです。
たしかに大学の授業としては珍しいですね。

調所さんもどこかで刀剣や拵えの講座をもたれてはいかがですか?

そうそう、甲東祭は5月19日になりました。

私も行きます!
木脇noひろみ
「当世具足」展、見逃すところでした。展示中に行ってきます。
時代によってそのスタイルは異なりますが、史料では戦国時代の木脇刑部左衛門祐秀の甲冑は黒糸と記され、その手がかりを得る勉強のため同展に行ってきます。

板橋区立郷土資料館には、数年前より小西館長をお尋ねしご教授いただいております。幕末先祖・木脇権一兵衛(=賀左衛門)の元治元年文書史料を読み解くため西洋砲術についてお教えいただいております。木脇権一兵衛は高島秋帆の孫弟子にあたり、島津斉彬公の命で隊長になり藩士の西洋砲術(=御流儀)トレーニングに努め、その後軍賦役として長崎海軍伝習所に薩摩藩筆頭で参加。そこで勝海舟と出会い、元治元年には摂海砲台築造で兵庫、大坂、京都に幕府サイドとの仕事をすすめる中で勝と再会。その関連史料も少しづつ集めております。

いつも、桐野さんのブログを目にすると、私に必要な情報を得ることができます。感謝!

高島秋帆
桐野
木脇noひろみさん

お久しぶりです。

板橋の資料館ともご縁があったのですね。
ご先祖が高島秋帆の孫弟子とは存じ上げませんでした。
そのうち、お話を伺いたいものです。

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昨夜、小学館アカデミー講座「てらこや」に出講。

「『佐佐木高行 保古飛呂比』を読む」の18回目。
今回は「イカロス号事件勃発と浦上キリシタン事件」と題し、慶応3年(1867)7月あたりを読む。
土佐藩の慶応3年軍制改革の記事が断片的にあった。同藩大目付クラスの名による触書で、銃隊編成にするとか、弓は編成からはずすといった趣旨。乾退助も署名者に名を連ねているのが注目か。手続き上、この前段として、藩主もしくは家老クラス連署の達しのような文書が存在するのではないかと思われるが、不勉強なのでよくわからない。
なお、大目付から軍役関係の命令が出ているのは、佐佐木が日記に大鑑察(大目付)は武者奉行を兼ねると書いていることと相応するか。
幕末土佐藩の軍制改革について専論はないのだろうか?

佐佐木や中岡慎太郎の様子を見ると、薩摩藩と薩土盟約を交わして帰国した後藤象二郎が山内容堂を説得し、藩兵2大隊を引き連れて上京してくるのを既定方針として、いろいろ準備したり、心構えを説いたりしている。慎太郎に至っては「天下の大戦争」必至なので、容堂公は上京しない方がいい(土佐藩兵は兵が少ないので、容堂警固の兵を戦闘要員に回したいから)とまで言い切っている。
薩土盟約に賭ける気持ちは土佐も薩摩も一緒だったのだなと感じる。ほどなく頓挫して失望に変わるけど。

イカロス号事件については、発端のところだけをやる。
土佐や長崎での対英・対幕交渉は次回まわしにした。
薩摩藩の西郷が佐佐木たちに藩船を貸与するなど、涙ぐましい側面支援をしている。
それにしても、イカロス号事件は下手すれば土佐藩の存亡に関わり、土英戦争に発展したかもしれないのに、あまり注目されていないと感じる。とくに国史大辞典にも立項されていないのは残念だ。

もうひとつ、長崎での浦上くずれ、浦上キリシタン事件についても少し触れ、この問題が明治まで尾を引くことを話す。また龍馬が佐佐木に「耶蘇教を利用して挙兵」と放言するのも、この事件が念頭にあったからだろう。

次回は4月3日(火)午後7時~8時30分で、体験講座を予定しています。
幕末の薩摩や土佐に関心をおもちの方の受講をお待ちしております。
それで、今回は「船中八策はあったのか」というテーマでやりたいと思っています。
船中八策といえば、龍馬の代名詞のように語られますが、史料的には大きな疑問があり、史実認定するには慎重でなくてはなりません。そのあたりをまとめて検討したいと思っています。

お問い合わせ・お申し込みは小学館アカデミーのここをご参照下さい。
体験講座は1回だけでも受講でき、受講料も1000円程度とリーズナブルです。
会場は千代田区立日比谷図書文化館(日比谷公園内)です。MAP・アクセスはここです。

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【2012/03/14 09:18】 | てらこや
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記事とは関係ないのですが・・・
こんにちは。
記事とは関係のない件での書き込み、
大変失礼いたします。

昨年夏に初めて鹿児島に行き、
大久保利通さんに興味を持ち、私淑しております。
帰京して、青山霊園にある、
大久保さんの墓所にお墓参りに行きましたが、
大久保さん関連の慰霊祭?で、
「甲東祭」というものがあると聞きました。
インターネットで「甲東祭」検索したところ、
貴ブログにたどり着いた次第です。

前置きが長くなりましたが、
この「甲東祭」には、
一般の有志の参加は可能なのでしょうか?
また、もし参加が可能な場合は、
どちらに問い合わせをさせていただくのが
よいのでしょうか?
何かもしご存じでしたら、
お教えいただけますと大変ありがたいです。

飛び込み、かつこのような形での、
突然の問い合わせ、申し訳ありません。
お忙しいところ、お手数をおかけいたしますが、
ご回答いただけましたら幸いです。



今年は5月19日です
桐野
六さん

はじめまして。
今年の甲東祭は表題の日の午後1時頃から青山霊園の甲東の墓所で墓前祭があります。
参加資格は甲東に関心がある、好きであるという以外、とくにありません。
飛び込みでも可です。
墓前祭では神式の祭礼があり、列席者もお参りします。
墓前祭終了後、近くの茶店で直会があり、飲食します。こちらも参加されるなら、なにがしかの寸志があったほうがいいでしょう。
服装はとくに喪服である必要はありません。男性だとネクタイはされていたほうがいいかと。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第227回
―吉良上野介の不幸な娘―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

明後日の3月14日は旧暦だと、松の廊下刃傷事件の日です。
それにちなんだ記事を書きました。

吉良上野介義央の長女鶴姫が(米沢藩上杉家の養女として)薩摩藩3代藩主・島津綱貴の継室(後妻)になったことはほとんど知られていません。
3月14日に関連する出来事だったので、今回書いた次第です。
もっとも、彼女の情報は非常に少ないです。生没年や結婚、離婚の日くらいしかわかりません。
それだけでは、まことに不十分なので、その頃の島津氏をめぐる状況など背景を述べることで補足しました。

未見ですが、本記事で引用した論文の筆者がこの一件を最近の論文で再論した由、鹿児島の研究者から教えてもらいました。そちらには鶴姫についてもう少し詳しい情報があったようです。不勉強で残念でした。

それはともあれ、綱貴と鶴姫の結婚生活が長続きしなかったことは、2人にとっては不幸だったかもしれませんが、薩摩藩にとっては結果的に幸運だったかも。
離婚から20年後に松の廊下刃傷事件と赤穂浪士の吉良邸討ち入りが起こります。吉良義央の姻戚である島津氏としてはある程度の助力をしなければならなかったかもしれません。

仮定の話ですが、たとえば、吉良家から加勢の要請があり、島津家中から20人ほどが助勢していたとしたら、堀部安兵衛と薬丸自顕流の対決があったりとか、あるいは薩摩藩士たちの抗戦により赤穂浪士の討ち入りはあのようにうまくいかず、もしかしたら失敗していたかもとか想像がふくらみますが、その一方で、江戸市中での私闘に関与したとして罪に問われるかもしれないとか、面倒なことになったかもしれませんね。

いささか不謹慎な妄想ですが、歴史の綾や縁を感じた次第です。

【追記】
南日本新聞サイトの記事で、貝原益軒の言葉に触れた部分がありますが、「封建習慣」は間違いで「封建慣習」が正しいです。訂正しておきます。

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【2012/03/12 16:48】 | さつま人国誌
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先日、帰鹿した折、黎明館に所用で立ち寄った。
そのとき、喫茶室に置いてあった刊行物を数点購入した。
そのなかに地元研究者たちによる『鹿児島地域史研究』を数号分見つけて購入した。
とくに近年の号はもっていなかったので、購入できてよかった。

いくつか興味深い論文が収録されていたが、とくに、

岩川拓夫「中近世移行期における島津氏の京都外交―道正庵と南九州―」 『鹿児島地域史研究』5号 2009年

に注目した。
岩川さんは尚古集成館の学芸員である。

以前、島津の退き口の史料を見ていたとき、副題にある道正庵という寺院・僧侶に気づき、その寺院もしくは彼(道正庵宗固、同休甫)が退き口で島津義弘とは別行動をとって京都に逃げ込んだ連中と何らかの関わりがありそうだというところまではわかったのだが、道正庵のことがよくわからず、時間の関係でそれ以上調べなかった。

岩川さんはそれをかなり詳しく追究している。しかも、退き口時期だけでなく、永禄~慶長期までを調べ、道正庵が島津氏の京都外交の拠点であることを明らかにし、さらに京都と南九州の都鄙交流まで展望していたので、大変勉強になった。
とくに、島津氏による信長への鷹献上が元亀2年(1571)まで遡るという指摘は驚いた。もっとも、この鷹献上は将軍義昭に対するもので、義昭から信長に下賜されたものかもしれない。

ほかにも、天正14年の豊臣政権と島津氏の交渉や、宗固が島津義久の政治顧問でもあったこと、関ヶ原合戦後の島津と徳川の和平交渉などにも宗固・休甫が深く関わっていたことがわかった。

これほどの重要な役割を果たした道正庵について何も知らなかったことは不覚だった。
岩川さんの研究をさらに熟読して勉強してみたい。

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【2012/03/10 12:30】 | 戦国島津
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道正庵
ばんない
こんばんは。

興味深い論文のご紹介ありがとうございます。取り寄せようかな、と思って国立国会図書館のカードID入力したら、使わないまま期限切れ(爆)他にも気になる論文があるので、めんどくさい再々発行をするかどうか検討中です(汗)。連絡と支払いの面倒さえ我慢したら鹿児島県立図書館の方が早いかも。

今拙ブログでやっている島津義久天正18年日記でも、道正庵宗固は時々登場していました。当方、知らなかったので上田宗箇と勘違いしてました(滝汗)。ありがとうございます。

道正庵自体は明治の初頭に寺勢が衰微して(ご子孫の回想録がネットにありました)、現在は廃絶したのか地図に見あたらないですね。残念。

不覚でしたね
桐野
ばんないさん

国会図書館のIDカード、私も先月、ギリギリで更新に行きました。
鹿児島県立図書館も郵便振替にしてくれたらいいんですけどね。下手すれば、コピー代50円に現金書留代500円というばからしさですから。
いつぞや、郵便振替にしてくれと要望したんですけど、ダメでした。
今後のこともあるので、やはり国会のIDカード作り直したほうがいいかもしれませんね。


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6日(火)夜、小学館アカデミー講座「てらこや」に出講。

佐佐木高行の『保古飛呂比』も17回目。
今回は慶応3年(1867)7月あたりを読む。
上京した佐佐木は薩土盟約に立ち合い、後藤象二郎の帰国を見送る。
薩土盟約について、佐佐木は「薩の智略」に感心している。薩摩藩は土佐藩に先手を取らせ、二本目は自分たちで取るつもりだと。すなわち、土佐藩を前面に押し出して引っ込みがつかないようにするつもりだと。

前回、佐佐木の回想録『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』を受講生の方に少し見せていただき、この日記の立派な注釈本だとわかったので(記主の回想録だから当然、気づくのが遅すぎた)、四侯会議のあたりを中心に少し読んだ。テキストの背景というか行間がわかりやすい。
だいぶ以前に購入した本だったのに宝の持ち腐れだったなと反省。
日記で面白かった点をいくつか。 

①薩摩藩士の黒田了介と永山弥一郎が土佐藩邸を訪ね、才谷梅太郎=坂本龍馬に面会を求めていたこと。
 これにより、黒田と龍馬がある程度知り合いであることが判明する。以前、大久保利武(利通三男)の聞書に龍馬が黒田の下宿を訪ねてきたという一節があったが、それを裏付ける記事かもしれないと思った。

②薩土盟約を山内容堂が承認すれば、在京重役たちは土佐藩兵(佐佐木の目算では2個大隊程度)を上京させる手はずを考えていた。問題はその収容先である。事前に準備しておく必要がある。在京重役たちは最近購入した白川藩邸を想定していたが、佐佐木は白川藩邸は辺鄙な所にあり、いざというとき間に合わないと考え、「大仏」(智積院とする)のほうが便利な「要所」だから、その借り上げを継続すべきだと主張して認めさせている。智積院は土佐藩が借り上げて賃料を払っていたようだ。

③この頃、一会桑権力とくに慶喜はその軍事力強化のため、幕府歩兵隊(慶応の軍制改革によるもの)を多数在京させていたが、彼らの風紀が悪く、洛中で乱暴狼藉が目立ったようである。そのため、町人たちは自衛策として、家の入り口に「薩州下宿」「土州下宿」という札を掛けていたという。幕府歩兵も薩摩と土佐には手が出せないと読んだ町人たちの巧みな知恵に感心した。

そのほか、今回のテーマを「四侯会議の後始末」と題した関係上、『続再夢紀事』を参考に読む。山内容堂に続き、松平春嶽も帰国すると言い出したので、焦った薩摩側では小松帯刀が春嶽説得のため、何度も越前藩邸に足を運んだ様子がわかる。
結局、小松は春嶽を説得できずに終わる。薩摩藩は四侯会議の提案者だけに、何らかの成果を得ないまま、四侯がバラバラになることに危機感を抱いていた。そして、その唯一期待した「成果」が何だったかが、伊達宗城の証言のなかにあったことを確認。
こののち、薩摩藩がなぜ後藤に失望したかがよくわかった。この点では、高橋秀直説は見直すべきだろうと感じた(佐々木克説が妥当か)。

次回は8月あたりをやることになる。
イカロス号事件だなあ。でも、本題からはずれるなあ。思案のしどころ。

次回講座日程:3月13日(火)
祭日と重なるため、次回は13日です。ご注意下さい。

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【2012/03/08 19:41】 | てらこや
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高橋秀直説の土佐
つばめ
 もう亡くなられたので余り言いたくないですが、高橋氏の”「公議政体派」と薩摩倒幕派”などは大政奉還当時の土佐藩、後藤象二郎や容堂については甘いというか、間違いも多いかもしれません。
 当時の土佐藩の動きは分かっているようでいなかったのですが、最近出た龍馬本に土佐藩の動きが面白く描かれていると思いますが、どうなんでしょうか。
 

最近出た龍馬本?
桐野
つばめさん

コメント有難うございます。
高橋秀直さんの著書、たしかに強引だったり、検証不足だったりする点がありますね。
それでも、パラダイム転換といってよいほどの衝撃も受けました。

それで、その龍馬本ってどなたが書いたものでしょうか?

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この間、またいただきました。
御礼申し上げます。

先日お会いした戦史研究者の長南政義氏より
『坂の上の雲 5つの疑問』
ゲームジャーナル編集部編 並木書房 2011年

昨年暮れに放映されたNHKドラマ「坂の上の雲」の批判本といってよいでしょうか。
司馬遼太郎氏の日露戦争論、とくに第三軍と旅順戦については、一方的な論難ではないかと私も思っていましたが、それを実証的に述べたものです。
共著本ですが、長南氏が主要部分を執筆しています。長南氏は若手の気鋭研究者で、この間、日露戦の参謀たちの日記など一級史料を意欲的に発掘・紹介しており、研究史上の貢献も大きいです。本著でもそうした成果に基づいて執筆しているので、なかなか説得力があります。
とくに旅順戦については、第三軍よりも大本営の過信や判断の甘さ(敵戦力の過小評価)が重大で、乃木や伊地知はそのしわ寄せを受けたといえそうです。
近年、日本史では時代を問わず、戦争の研究が盛んになっていますね。

山口純一郎さんより
金柑の甘露漬けをいただきました。自家製です。
山口さんには先日の大隅取材で大変お世話になりました。
鹿児島でたくさん採れる金柑。私も子供の頃によく食べましたし、郷里からもよく送ってもらいました。
とても甘くて懐かしい味です。
金柑漬け

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【2012/03/07 10:32】 | 雑記
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お知らせです。
今日は掲載曜日ですが、南日本新聞の紙面構成の都合だと思いますが(あるいは休刊日?)、休載になりました。

次回は一週間後の3月12日です。
吉良上野介義央が浅野内匠頭長矩に江戸城本丸松の廊下で斬りつけられたのが3月14日(旧暦)です。
掲載日と近いので、その関連の記事を書く予定です。
お楽しみに。

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【2012/03/05 10:49】 | 信長
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昨夜、上京中のマツノ書店松村さんのお招きにより会食。

お仲間のN澤さんやC南さんも同席。

読者の復刻希望、東高西低の傾向は相変わらずのようだ。
数点はかなり有望だと感じた。
ほかにも復刻候補について、あれこれ意見交換する。
最大の懸案は、S談会速記録だろうな。
何せ全冊揃えると幅2メートル以上になるらしい。

雑談ではまたたわいもない話をした気がする。
最近、アルコールを飲み慣れていないので、すぐ酔っ払った。

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【2012/03/03 10:56】 | 雑記
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お疲れの中
みなみ
メールいただきありがとうございました。
また連絡します。

先日はありがとうございました
C南
桐野先生

先日はいろいろと楽しいお話をお伺いできましてとても愉快な一夕を過ごすことができました。どうもありがとうございます。

御専門外の日露戦争の本で恐縮でございますが、ぜひ今度、拙著のご感想をお聞かせいただけましたら幸いに存じます。

今後ともご指導賜れますようよろしくお願い申し上げます。

信長公記
みなみ
神保町にて文庫見かけました。

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先日、帰鹿したとき、調所一郎さん(広郷子孫)とご一緒したが、記念につくったという焼酎をいただいた。
えっと、何の記念だったっけ?
焼酎笑左衛門

銘柄はそのものズバリ、「笑左衛門」。
幕末の薩摩藩家老、調所広郷の通称である。

一見、白ワインのような風情である。
銘柄の題字を書いたのは、友人で書家・薩摩琵琶弾奏家でもある上川路直光さんだ。
上川路さんは篤姫の実家、今和泉島津家の縁者ではなかったっけ?
そういえば、篤姫の父・島津安芸忠剛は調所広郷の援助を受けていたな。まさかその関係ではないだろうけど。

稀少でプレミア的な特注品だから、封を切るのがためらわれる。

先日は、北郷萌祥さんからも特注の焼酎をいただいたことをこのブログでも紹介した。
鹿児島では、少量の特注焼酎が流行っているのだろうか?

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【2012/03/01 14:00】 | 雑記
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