歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第236回
―箱館戦争で縦横の活躍―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックして下さい。

春日と赤塚源六のテーマも最終回です。
今回は箱館戦争がメインです。
春日と榎本艦隊との激闘をほんのさわりだけ紹介しました。
榎本艦隊の千代田形を鹵獲、蟠龍を撃沈と活躍しています。まあ、政府艦隊には沈没した開陽を上回る甲鉄艦がいたので優勢ではあったのですが。

『薩藩海軍史』の箱館戦争の部分を読むと、榎本艦隊もさることながら、弁天台場が予想以上の奮戦をみせたという印象です。
春日も同台場からの砲撃により、喫水線に被弾し、あわや沈没かという状況になったほどです。

面白いのは、賞典禄が人間だけでなく、軍艦にも与えられていることです。
春日の3.300石という賞典禄は破格ですね。

赤塚源六は明治4年(1871)、海軍大佐まで昇進しました。現場のたたき上げとしては異例の昇進です。
そのままいけば、赤塚は日清・日露の両戦役などでも活躍し、海軍大将、元帥も夢ではなかったかもしれません。部下の東郷平八郎が連合艦隊司令長官になったほどですから。

しかし、ほどなく「肺疾」を発病し、退役のやむなきに至ります。おそらく肺結核でしょうね。
記事には紙数の関係で書きませんでしたが、病床の赤塚に明治天皇から侍医が派遣され、菓子を贈られています。

赤塚は熱海で療養しましたが、そのとき、和歌を数首詠んでおり、「赤塚真成履歴」に収録されています。
軍艦乗りにしては風雅のたしなみもあったようです。多くは望郷の歌です。自分がもう帰郷できないことを覚悟していたのでしょうか。いずれの歌も死の少し前だと思います。

=故郷を思ふ折不如帰鳴き渡る=
心あらばしばしとまれよほととぎす わがふるさとに言つけやせん

墓は東京・白金台の海軍埋葬地に葬られたと「赤塚真成墓誌」にあります。この墓誌は伊地知正治と仁礼景範が書いたようです。
白金台の海軍埋葬地は明治学院大学構内に現存しています。そこに赤塚が眠っているはずですが、確認できていません。
記事に載せた赤塚の墓は鹿児島の南林寺由緒墓地にあるものです。遺族が鹿児島にも分骨したか、供養墓として建てたものだと思われますが、詳しいことは不明です。

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【2012/05/28 18:32】 | 信長
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今週も忙しいというより、あわただしかったです。

22日(火)は小学館古文書講座「てらこや」で『保古飛呂比』を読みました。
イカロス号事件の長崎談判をやりました。

24日(木)は名古屋に出張し、中日文化センター講座「信長公記を読み解く」に出講。
「安土城天主は倒壊したか」と題してやりました。
「アツチ之天主倒れおわんぬ」と書かれた新史料をもとにした和田裕弘さんのお説を紹介しました。
天正6年(1578)5月12日条に安土城天主が倒壊したとある記事です。
安土と奈良という距離感を考えると、もし倒壊したとすれば、前日の11日ではないかとも思います。
やはり、同年正月、天王寺屋宗及の他会記に安土で天主を見学したという記事があるのが決定的ではないかと思っています。
すでに安土城天主は同5年中に完成していたと考えるのが自然でしょう。となると、同7年5月11日という「吉日」に信長が天主に「移徙」したという信長公記の記事との整合性がつきません。あのせっかちな性格の信長が1年半以上も前に完成している天守に入らないというのは考えにくいです。
その間に初代天主が倒壊したために天主再建に時間がとられたとすれば、無理なく辻褄が合うのですけど、なかなか認知されませんね(笑)。

そして26日本日、午後から武蔵野大学でオムニバス名城講座「城を攻める」の第1回「小田原城と秀吉襲来」に出講です。
他の原稿と重なって、資料づくりが大変でした。月曜日にお送りするといいながら、送れたのは昨金曜日午後でした(汗)。

では、頑張ってきます。

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【2012/05/26 09:41】 | 雑記
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武蔵野大学が主催するオムニバス名城講座の最終案内です。

来る26日(土)、同大学武蔵野キャンパスにて【城を攻める】シリーズの第1回講座として、表題の講座が開かれます。講師は不肖、私です。

詳しくは、ここをご覧下さい。

日時:5月26日(土)13:00~14:30
会場:武蔵野キャンパス いつもの三鷹サテライトキャンパスではありませんのでご注意を。
交通アクセス:ここです。
定員:100名
受講料:2.000円

興味のある方はぜひご参加下さい。お待ちしております。

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【2012/05/23 01:23】 | 武蔵野大学社会連携センター
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第235回
―阿波沖で開陽と激戦―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

軍艦春日と艦長の赤塚源六の2回目です。
今回は、鳥羽伏見の戦いの渦中、大坂湾で起こった幕府海軍と薩摩海軍の海戦を書きました。
幕府海軍が誇る開陽に、春日が挑んだ戦いです。
排水量は半分以下、積載砲は26門に対してわずか6門。
ふつうなら、とても太刀打ちできないのですが、春日はその快速によって開陽を翻弄しました。

戦闘が中途半端で終わったのは、開陽が大坂の戦況を気にしたためと思われます。
一説によると、榎本武揚は春日を薩摩まで追いかけようと主張したのに対し、松平太郎がこれに反対し、大坂湾の防衛や将軍慶喜の安危のほうが重要だと反論して、榎本が折れたといわれます。

なお、春日が曳航していた祥鳳丸は阿波の海岸に擱座、自沈しています。

次回は箱館戦争がメインですが、北越戦争にも春日が出動していることも書ければと思います。

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【2012/05/22 08:37】 | さつま人国誌
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5月19日、東京・青山墓地の大久保利通墓所で、恒例の甲東祭が開かれた。

甲東とは大久保の号。今年は134年祭。

例年のように、40名以上の参加あり。
折からの晴天に恵まれたが、炎天といってよい暑さだった。

今年は薩摩琵琶の奉納があった。
甲東祭の50年近い歴史でも初めてとのこと。
曲目は「金剛石」とか。写真は甲東の墓石の前での演弾の様子。
12年甲東祭


大久保さんご一族もお元気で何より。
最近、甲東について書いた短文を収録した共著書を贈呈した。

友人のM川さん、H田さん(今回初めて)、常連のY田さん、U木さんにも久しぶりにお会いした。
私の小学館の講座から、K賀さんとN川さんも出席された。
明治維新史学会のK田さん、M間さん、M田さんにもお会いし、二次会、三次会にもお付き合いした。
二次会は新宿の居酒屋で。仙台からの友人S藤さんも含めて10人で楽しく盛り上がる。

来年は135年祭で、霞会館で大きなイベントになりそうだ。

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【2012/05/21 09:18】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第234回
―薩摩藩待望の超高速船―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は知られざる海軍軍人の赤塚源六と彼が艦長をつとめた軍艦春日について書きました。
以前、鹿児島市の南林寺由緒墓地を訪れたとき、彼の墓を見つけたので、いつか書けたらと思っていました。
彼は同艦の艦長として、阿波沖海戦、北越戦争、宮古湾海戦、箱館戦争とわずか1年ほどの間に主要な海戦をほとんど経験しています。
とくに阿波沖海戦では、幕府海軍が誇る開陽丸とほぼ互角に戦っています。

赤塚は東郷平八郎など部下と一緒に撮影した貴重な集合写真が残っています。次回はそれを掲載できればと思っています。

彼は惜しくも明治初年に他界しています。もしその後も健在だったなら、明治海軍の重鎮になったことは間違いないと思われます。

次回は阿波沖海戦を中心に書く予定です。

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【2012/05/14 21:39】 | さつま人国誌
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有難うございました。
中村太郎
お陰さまで、神風連資料館で図録を買い、種田政明の写真が見られました。種田邸跡、徳富記念館も行き、時間的に無理だと思っていた花岡山へも行くことができ、官軍墓地、薩軍砲座の跡も見学できました。
今回、南林寺由緒墓地も行ったのですが、美玉三平のお墓はわかったものの、赤塚源六のお墓には気がつきませんでした。桐野様の記事より前に帰京したので、仕方ないのですが、残念です。

赤塚源六の墓
桐野作人
中村太郎さん

熊本や鹿児島に行かれたのですね。

赤塚源六の墓は実名の赤塚真成の名で彫ってあるので気づきにくかったのかもしれません。

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新人物往来社の文庫で、最近2点立て続けに拙稿掲載分が刊行されたのでご紹介しておきます。

1.『日本史有名人 男の生き方』 
 歴史読本編集部編 新人物文庫 2012年5月刊 定価714円+税

江戸時代以降の日本人♂68人の小伝。
私は西郷隆盛と大久保利通を担当しました。
西郷は1回目の奄美行きについての心境を。大久保は征韓論において、西郷との対決を控えたとき、息子2人に宛てた遺書について、それぞれ書いています。

2.『ここまでわかった! 本能寺の変』 
 歴史読本編集部編 新人物文庫 2012年5月刊 定価714円+税

本能寺の変には多くの歴史ファンの興味をそそるものがあります。
本書は昨年の歴史読本7月号の特集を再編集したものです。
執筆者は13人。ほとんどが研究者で、短いながらも中身の濃い議論になっています。
拙稿は「四国問題と斎藤利三の動向」というテーマで書いています。
天正10年5月中旬、安土城中であった信長と光秀の確執こそ、本能寺の変の最大の要因だとにらんでいます。

関心のある方は読んで下さいませ。

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【2012/05/08 16:06】 | 新刊
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本日、新聞休刊日のため、「さつま人国誌」は休載です。
次週をお楽しみに。


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【2012/05/07 09:03】 | さつま人国誌
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昨日、埼玉県行田市の忍城などに行ってきました。
久しぶりの好天で暑く、すっかり日焼けしました。

忍城は成田氏の城で、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、石田三成をはじめとする豊臣軍に攻められます。忍城は水攻めにされたことでも有名です。
その痕跡を探しに、友人のIさんと行きました。
午前9時過ぎ、行田駅前でレンタサイクルを借りようとすると、すでに1台を残してなくなっており、しかたなくタクシーを使って行田市郷土博物館に行きました。

同館は忍城跡にあり、現在、模擬天守が建っています。
まず、情報収集をする。受付に『行田市史』近世編、近現代編が並んでいたので、忍城攻めの史料があるはずの中世編を買おうとしたら、まだ未刊との由で残念。おそらく古代中世編という形で編纂されており、さきたま古墳群があるので刊行に手間取っているのかと憶測。
館内では忍城、とくに近世の忍城の展示を見学。
忍城模擬天守

同館でレンタサイクルを借りて、次に石田三成が本陣を置いたとされる丸墓山古墳に行きました。
この古墳はさきたま古墳群の一角にある。
古墳はほとんど前方後円墳だが、これだけは円墳。円墳ではわが国最大の大きさだという。
丸墓山古墳

頂上まで登ると、360度視界が開け、忍城の模擬天守も遠望された(写真中央奥)。ここに石田三成や浅野長吉などが立ったのかと感慨に浸る。
丸墓山古墳からの眺望

隣には有名な稲荷山古墳の雄姿が見える。
「ワカタケル」こと、雄略天皇の名を刻んだ鉄剣が発掘されたことでも有名。
稲荷山

その後、石田堤を探しに行く。石田堤は忍城水攻めのときに築かれた土堤の一部が現存しているもの。城の南方にある。
途中、道を間違えたりして、ようやく当該場所付近にたどり着いたが、なかなか見つからない。現在、史跡公園になっているというので、それらしき場所を探したが、見当たらない。
地元の人に尋ねたりして、ようやくたどり着いたが、何と、最初に来た場所だった。史跡公園というよりも駐車場か児童公園という感じ。
すぐ近くに土堤がつづいている。全長200メートルほど断続的に遺っていた。高いところは4メートル近くはありそうだった。
また上越新幹線の高架下には、土堤の断面を示してあった。土堤の断面をそのまま保存し、地層の重なり具合を原寸大でボードに示してあった。
石田堤案内板
石田堤
石田堤断面

秀吉のいくつかの水攻めのうち、忍城攻めは最大規模のものである。忍城は行田市だが、石田堤は隣接する鴻巣市にある。その規模の大きさがわかる。
レンタサイクルでめぐってみて、お尻が痛くなるほど、それを実感できた。

心残りは行田名物のゼリーフライを食べられなかったこと。残念。

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【2012/05/06 09:46】 | 歴史紀行
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第233回
―幼い徳富蘆花の恐怖体験―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は先々週の熊本・福岡取材の成果のひとつです。
種田政明関係の史跡は以前から一度訪ねてみたいところでした。

熊本市大江町の徳富蘇峰・蘆花兄弟の家から数十メートルしか離れていません。
その二階から蘆花は事件を目撃しました。正確には神風連の熊本鎮台襲撃の放火を目撃し、種田邸の悲鳴を聞いたというべきか。

種田政明はあまり知られていませんが、幕末薩摩藩では、桐野利秋や篠原国幹クラスの軍人です。征韓論ののち、陸軍に残ったためか、さほど知名度がありません。

記事には紙数の関係で書けませんでしたが、種田は慶応4年(1868)の東征では、東山道総督府の下参謀をつとめ、伊地知正治の側近だったと記憶しています。
さらに、明治5年(1872)の陸軍省内の汚職事件、山城屋和助事件では、陸軍省の会計監督という職責からこの事件を調査し、陸軍大輔の山縣有朋の関与疑惑を追及し、近衛都督の辞任に追い込んでいます。
征韓論後、陸軍少将に昇進し、東京鎮台司令長官から熊本鎮台司令長官に異動となりますが、一説によれば、これは山縣を追及しすぎたための左遷人事だったともいわれます。
熊本鎮台での赴任期間はわずか4カ月で終わってしまいますが、種田は何となくやる気がないようにも見え、左遷人事への鬱屈があったのかなという気もします。

それにしても、あっけない最期でした。

先々週の取材のとき、神風連資料館を見学し、収蔵品図録を購入しましたが、そのなかに種田の貴重な写真が掲載されています。太い眉で苦み走ったなかなかいい男です。
記事にこの写真が載せられないかと考えたのですが、所蔵先が明記してなく、掲載許可を得るのに時間がかかりそうだと判断して断念しました。

種田邸跡は神風連関係史跡として、熊本市か熊本県により場所を特定し、標柱を立ててありました。
ただ、民家のコンクリート塀の凹みに立てられており、目立ちにくいうえに、撮影に苦労しました。狭い道なので場所をとるわけにもいかない事情もあるのでしょう。

徳富家との距離感などは実際に行ってみないとわからないものです。
少年だった蘆花の恐怖感がよくわかる近さでした。

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【2012/05/01 12:50】 | さつま人国誌
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花の左門様
中村太郎
こんにちは。
来週、熊本・鹿児島へ行きます。
桐野様の熊本のご旅行記事で、種田邸跡のことを初めて知りました。
熊本は主人の実家があったので、種田邸跡の近くのダイエーには何回か行っており、「えー、そうだったの」と驚きました。
花岡山の「花の左門様」のお墓参りもしたいですが、ちょっと無理そうです。なので、種田邸跡だけは行くつもりです。
「花の左門様」は花柳界では桐野利秋とライバル(笑)だったようなので、顔が見たいものの、写真が残っていないものと思っていました。
なんとか「神風連資料館」まで行って、収録品図録を購入するべく頑張ります。

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種田の写真
桐野作人
中村太郎さん

種田の写真は図録のほか、神風連資料館にも大きく引き伸ばして展示してあったような記憶が。
花岡山は車で頂上まで行けますよ。

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