歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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伊那市教育委員会により、表題の陣城の発掘調査が行われた。
そして、巨大な空堀などが見つかったという。
もっとも、それ以前は古い居館跡だったらしく再利用である。
空堀も織田軍が新規に掘ったのか、あるいは旧居館のものを拡張したのかどうかは不明。

ソースの長野日報の記事はここ

地元では、信忠が一夜にして築き、「一夜の城」と呼ばれていたという。
秀吉の石垣一夜城より8年前のことになる。

信忠率いる織田軍が仁科盛信らがこもる高遠城に攻め寄せたのは天正10年(1582)3月1日。
翌2日には総攻めし、わずか1日で城は陥落している。
結果として「一夜限りの城」になったのはたしか。

なお、信忠の布陣場所だが、『信長記』巻15によれば、3月1日、信忠は高遠城と川(峰川か)を挟んだ「高山」に登って、高遠城を視察したのち、「かいぬま原」に陣取りしたとある。
「かいぬま原」が発掘場所となった伊那市富県貝沼だろう。もっとも、貝沼は高遠城から西へ4キロほど離れている。その間に高尾山(標高911メートル)ともうひとつ山名不明の標高1019メートルの山がある。高遠城を見下ろすには高尾山のほうが幸便か。あるいはもう少し高遠城寄りに山田城という山城跡があり、その山頂は937メートルある。『信長記』の「高山」はそのどれかだろう。

貝沼は陣城なので、高遠城のすぐ近くかと思ったが、少し離れていたのが意外だった。やはり総大将の本陣だからだろうか。

いずれにせよ、高遠城攻めの実態がある程度明らかになりそうだ。
来月中に観に行きたいものだ。

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【2012/06/26 12:23】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第239回
―原文に近い「丁丑日誌」―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は前回の続きで、川路家に保存されていた西郷隆盛の回文の内容を少し検討したものです。
この回文を収録しているのは、私が見つけただけで4点あります。ほかにもまだあるかもしれません。

1.「鹿児島県庁日誌」 『鹿児島県史料 西南戦争』第3巻所収
2.『宮之城町史』(新版) 宮之城町
3.加治木常樹『薩南血涙史』 青潮社復刻版
4.『丁丑日誌』下 鹿児島県史料集Ⅱ


少なくともこれだけの資史料に収録されているのですから、当時からある程度知られた回文だったことは間違いありません。
じつは『宮之城町史』には別の西郷回文(9月5日付)が写真付きで紹介されています。これも明らかに西郷直筆です。この回文もいくつかの史料本に転載されています。

今回、この回文が西郷直筆だったことを明らかにできたことが何よりの成果でしょう。
城山にこもったわずかな西郷軍で書記的な役割を果たせるのは戦闘員とはいえない西郷しかいなかったという事情もあったでしょうし、西郷直筆により西郷の健在を広く知らしめ、地方の郷士たちの再決起を有利に進めるという目的もあったかもしれません。
ただ、事ここに及んでも、西郷はまだ大勢挽回を諦めていなかったのかと少し悲しくなりますけどね。

西郷回文の写し4点には内容上の異同があることを記事にも書きました。要は原文に忠実に写されていないのです。なぜそうなったのか、また写し同士は互いにどのような関係にあるのか、いくつか疑問があったので、記事は考証的になってしまい、少し面白くなかったかもしれません。
また紙幅の関係で考証も十分に展開できませんでした。とくに『薩南血涙史』の著者加治木常樹はいつ、どこでこの回文(かそれを写した史料)を見たのかがよくわかりません。原文が川路家にあったとすれば、『丁丑日誌』からかなと思いましたが、これも鹿児島県令だった岩村通俊の子孫が大事に保管していたので考えにくいです。

一方、原文にほぼ忠実な写しは『丁丑日記』です。
これは岩村が鹿児島県令だった関係から、西郷回文の原文を知り得て転写できる立場にあったからだと思います。一部の字句を除いて、追而書(追伸)も正確に写し、あて先の8カ郷の数と順番も正確、回覧済みの4カ郷の署名も正確です。
おそらく川路が入手する前に鹿児島で写されたのでしょう。
ほかにも、この回文を写した人がいた可能性がありますが、それが不正確だったか、あるいは二次的に写した人が不正確に写したかして、『薩南血涙史』などの不正確な写本が残されたのだと思います。

あと、川路がいつ、どこでこの回文を入手したかは不明ですが、おそらく東京ではないかと思います。西郷軍からの鹵獲品が東京に運ばれ、その中に紛れていたのを川路かその関係者が発見したのかもしれませんが、あくまで憶測です。

以上、記事の補足をしてみました。

次回は川路の禁門の変や鳥羽伏見の戦いでの奮戦を書くか、別の題材にしようか迷っているところです。

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【2012/06/25 16:59】 | さつま人国誌
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この間、いただいたものです。記して御礼申し上げます。

矢部健太郎氏より
『豊臣政権の支配秩序と朝廷』 吉川弘文館 2011年12月刊

輪読会仲間の矢部さんの初著作。
本書は学位請求論文をまとめた7本の既発表論文と3本の新稿から成る。
とりわけ、第二部第一章の「豊臣「武家清華」の創出」は出色の論文で、「武家清華」の発見は豊臣政権の権力編成についての研究を大いに進展させたといえる。10年前、この論文が出たとき、大きな驚きだったことをよく覚えている。豊臣政権が賜姓・羽柴名字授与、武家官位のほか、家格によって編成されていたことを明らかにしたのである。
先日の国学院大学の国史学会でも、矢部さんは刀狩令についての新しい仮説を提唱した。これも従来無視されがちな史料群を活用しての論証で、今後、学界で話題になるだろう。成稿が待たれる。


堀 新氏より
「織豊期王権の成立と東アジア」 『歴史評論』746号 2012年6月

輪読会仲間の堀さんからいただいた。
堀さんについては、織豊期政治史に関する数々の論著で知られており、私がもっとも学ばせていただいた研究者である。
堀さんの目下の関心が「王権」論にあるのは種々の論著で明らか。その概念規定をあいまいにせずに、果敢に切り込んでいる。とくに中世後期から近世までの長い射程を「公武結合王権」という枠組みでとらえようとしている。私は理論的に咀嚼するのはなかなか難しいが、実感としては首肯できる点が多い。
たとえば、「織豊期の政治史は、徳川史観と公武対立史観によって歪められており、これを克服することが必要」という指摘などは激しく同意する。
また織豊期は「公武結合王権」が極大化し、王権を主導する武家の天下人が<日本国王>から<中華皇帝>へと飛躍しようとしていたとして、その背景に東アジア世界の大変動、明帝国の衰亡=「華夷変態」があったという指摘も、秀吉の朝鮮出兵の目的に照らしても納得できる。
秀吉の「三国国割構想」については、尊経閣文庫所蔵の関白秀次宛ての秀吉覚書が有名で、私も同文庫で実見したことがある。大型の大高檀紙で、それは立派なものだった。
堀さんはこれが軽視されていることについて、秀吉の妄想であるのはたしかだが、本人は真剣に考えており、無視してはならないと強調する。
この構想の典拠は秀吉覚書だけだと思っていたが、ほかにも秀吉の右筆、山中長俊が北政所側近の東殿(大谷吉継生母)に宛てた17カ条の仮名書があることを紹介していた。内容も秀吉覚書に近い。不勉強で知らなかったが、『福井県史』資料編に収録されているらしい。
今回のは大会報告であるため、個別実証が省略されているが、他の論著と合わせて読むと、さらに有用な知見が得られると思われる。

なお、堀さんからは同時に、韓国の研究者、李敏雄氏論文「忠武公李舜臣の生涯と研究史料一瞥」も頂戴した。李氏は韓国海軍士官学校の国史教官とのこと。豊臣秀吉関係文書研究会に招かれて今年5月に報告されたもの。李舜臣と朝鮮出兵の韓国側史料を俯瞰できる。李氏は『壬辰倭乱海戦史』という研究書を刊行されているようだが、日本語訳本が刊行されたらいいなと思う。


遠藤珠紀氏より
『古記録の史料学的な研究にもとづく室町文化の基層の解明』東京大学史料編纂所研究成果報告2011-4 榎原雅治編 2012年3月

研究会仲間の遠藤さんから頂戴した。
2008年から4年間にわたる科研費基盤研究の成果。
室町期の古記録研究を網羅した貴重な成果だと思われるが、まったくの専門外で論評できないので、目次を紹介します。

はじめに
 『兼宣公記』『碧山日録』『日記残闕』(国立歴史民俗博物館所蔵)『綱光公記』『宗賢卿記』『親長卿記』などの古記録研究
「兼宣公記」応永二十九年記の錯簡について 榎原雅治
中山家・花山院家における先例の継承について 本郷恵子
国立歴史民俗博物館所蔵「中原師胤記」及びいわゆる「師郷記」について 榎原雅治
藤堂家始祖「三河守景盛」の素顔 榎原雅治
飛鳥井雅親の美濃下向日記 末柄 豊
宮内庁書陵部所蔵三条西本『宗賢卿記』 榎原雅治・遠藤珠紀・大塚未来・小瀬玄士・末柄 豊・丸山裕之

ご恵贈いただいた遠藤さんは最後の『宗賢卿記』の考証・翻刻に関わっておられる。
記主は清原宗賢(1431~1503)。儒学研究に任じる明経博士の家柄である。宗賢は後柏原天皇の侍読をつとめていたという。宗賢の養子が宣賢で吉田兼倶の3男。兼見卿記には清原枝賢がよく登場するが、清原氏と吉田家の関係はここから始まったのかと納得。
日記は朝廷の儀礼関係の記事が多い。応仁・文明の乱を挟んでいることから、乱前後の朝廷の変化をうかがうにも貴重な史料なのかもしれない。

以上、有難うございました。

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【2012/06/20 12:38】 | 雑記
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「豊臣政権の支配秩序と朝廷」を読んで
aegean
矢部健太郎「豊臣政権の支配秩序と朝廷」吉川弘文館を読みました。
今まで色々な論文を読んできましたが、
この書は読み辛く、疲れ果ててしまった。
文章表現や体裁に一工夫してほしかった。
一方、同じ、吉川弘文館発行の木下聡「中世武家官位の研究」は
表などを多く織り込みながら読み易く、著者の調査好きが伝わってきます。
調査好きといえば、あの美和信夫「江戸幕府職制の基礎的研究」を思い出しました。


Re: 「豊臣政権の支配秩序と朝廷」を読んで
桐野作人
aegeanさん

コメント有難うございます。
私も木下聡さんの著書もっていますが、まだ一部しか読んでいません。なかなかの力作ですね。




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南日本新聞連載「さつま人国誌」第238回
―西郷直筆、川路家が保存―

本日、連載が更新になりました。同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は大警視・川路利良の子孫宅に秘蔵されていた西郷隆盛の回文についての紹介と考察を上・下2回に分けて書きます。
この回文は西南戦争最末期のものです。これまでいくつかの史料本には収録されていましたが、西郷の直筆だと判明していませんでした。
これを初めて目にしたときはさすがに驚きました。と同時に、西郷直筆だと直感しました。

何といっても、西郷から見ると仇敵ともいえる川路利良の家に保管されていたのですから、まさに数奇な運命を辿った文書だといえるでしょう。
この回文、一昨年11月他紙でも少し紹介しましたが、紙幅の関係で詳しく書けませんでした。今回は前回書けなかったことを書きたいと思っています。

『鹿児島県庁日誌』などいくつかの史料本に収録されていますが、ほぼ同文であるものの、少なからぬ異同があります。大きく分けて、①あて先の違い、②追而書(追伸)の有無、③本文の字句の異同です。なぜそのような違いが生じたのかという点について、次回考察したいと思っています。

末尾ながら、西郷回文の写真版掲載を許可していただいた川路利永氏に感謝します。

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【2012/06/18 18:50】 | さつま人国誌
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このところ、多くのご論著をいただいているのに多忙と怠惰のため、御礼もご紹介もままならず、申し訳ありません。
そのうちから、いただいた順にご紹介し、御礼に代えたいと思います。

大西泰正氏より
『「大老」宇喜多秀家とその家臣団』 岩田書院 2012年

宇喜多秀家論、宇喜多家中論を精力的に研究している大西さんから頂戴しました。
今回とくに興味深かったのは、「第二章 豪姫のことども」と「第三章 富川達安をめぐって」である。
前者は秀家夫人で秀吉の養女でありながら、史料が少ない豪姫について、ある程度体系的に叙述され、豪姫の輪郭が少し明らかになったように思える。
後者は戸川達安(あるいは逵安)でも知られ、宇喜多家中の有力者。関ヶ原合戦直前の宇喜多騒動により家中を離脱し、家康に庇護されている。富川らの離反の理由がどこにあったについて、豊臣政権による大名権力の強化に対する不満がその一因に挙げられていたのは、他の大名家でも見られることで納得できた。


天野忠幸氏より
「松永久秀を取り巻く人々と堺の文化」 『堺市博物館研究報告』31号 2012年3月

三好政権論を研究している天野さんから頂戴した。
近年、精力的に論著を発表されている。
今回は、三好長慶の側近で、織田政権の大名ととなった松永久秀の身内や周辺について、多くの知見が紹介されている。
これまで、久秀の母や妻については考えたこともなかったが、妻は公家の広橋国光の妹(保子)である。国光が在京しないで、奈良に在国している理由もこれでわかった。妻保子は長慶の本拠、芥川城に居住しており、来客から礼物を受け取っているなど、三好政権下でもそれなりの地位にあったことがわかる。
また母と妻の墓は堺・南宗寺内にあったという。久秀にとって、やはり堺は格別の場所であったことがわかった。

家来・被官については、竹内秀勝、楠正虎(のち長諳)、結城忠正、清原枝賢、柳生宗厳(石舟斎)など、学者や剣術家と多彩である。結城忠正と清原枝賢はキリシタンでもある。忠正は『フロイス日本史』にもよく登場する人物だが、柳生石舟斎の剣術指南もしていたというのは初めて知った。

また信長が久秀から得たり学んだものが多いという指摘も新鮮だった。
楠正虎を右筆として取り上げたほか、茶器・多聞山城・側近を奪い取り、さらに「思想」まで継承したというのは興味深い。

以上、いろいろ知見を得、学ばせてもらいました。
遅ればせながら、御礼申し上げます。

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【2012/06/16 20:59】 | 新刊
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お知らせ。

明日19:30からの表題の番組に出演しているはずです。

先日出かけた明治村の西郷従道邸の案内人として出ています。
もうひとつ、上野池之端の岩崎邸も登場するようです。こちらの案内人は存じ上げません。

よかったら、見て下さい。

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【2012/06/12 21:41】 | 信長
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美の壺
ばんない
お久しぶりです。

番組拝見致しました。
「華族の洋館は天皇御幸のために建てられた」というのが番組に出演されていた内田青蔵氏の説ですが、もし、西郷隆盛が生きていたら洋館建ててたのでしょうか。それよりなにより爵位を受けたのかなあと言う気もしますが。

島津家の袖ヶ崎邸も出てましたね。

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あなたからこのブログ経由でいただいたメール(先祖の墓探し)に3度も返信したのですが、戻ってきました。
添付ファイルが邪魔したかと思って、それを外して送っても戻ってきました。

ですから、正確なアドレスを示してもらえない限り、こちらからは返事をする手段がありません。
私はちゃんと調べて返信をしたことをここに明記しておきます。


【2012/06/11 11:52】 | 雑記
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桐野作人
この件、先方から再メールあり、解決しました。お騒がせしました。

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お知らせです。

今日は「さつま人国誌」の掲載曜日ですが、本日南日本新聞休刊日のため休載です。
次回は来週18日に掲載します。

このところ、仕事が立て込んでいてなかなか更新ができません。
いただいたご論著がたくさんあり、順次紹介していくつもりです。

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【2012/06/11 11:33】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第237回
―江戸藩邸焼き打ちを急報―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は江戸時代最後の横綱、陣幕久五郎について書きました。
この人を知ったのは、鹿児島県日置市日吉の園林寺跡にある小松帯刀の墓に石灯籠があるのを見たのが最初だったと思います。のちに、この石灯籠、大阪市夕陽ヶ丘に最初に建てられた小松の墓が改葬されて、鹿児島に移されたときに一緒に移転されたものだとわかりました。

陣幕は薩摩藩お抱えでしたが、なかなかの勤王精神の持ち主だったようです。今回は相撲の話よりも、どちらかといえば、彼の政治向きの話がメインです。
相撲のほうも、阿波藩から薩摩藩にお抱えが代わったとき、阿波藩お抱えの力士たちとの間に遺恨が生じて、あわや闇討ちされそうだったのですが、辛うじて危機を脱するということもあったようです。

今回は陣幕の自伝について、M川さんから多大な教示を得ました。記して御礼申し上げます。

薩摩藩お抱えの力士といえば、大坂にもいたはずです。
以前、鹿児島市の黎明館所蔵の小松帯刀書簡(慶応3年8月頃)を閲覧させてもらったとき、小松が島津久光に随行して大坂で相撲見物をしていることが書かれており、薩摩藩お抱えの力士を応援した旨書かれていたのを記憶していますが、残念ながら、力士名までは覚えていません(汗)。

次回は、大警視川路利良について書こうかと思っています。

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【2012/06/04 22:54】 | さつま人国誌
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