歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第244回
―居城死守と島津勢退却―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は前回の岩屋城攻防からの流れで、立花宗茂の立花山城攻防について書きました。
立花宗茂は当時、統虎と名乗っていますが、よく知られた名前を使っています。

立花山城の攻防について基本史料は『上井覚兼日記』です。
ただ、覚兼は岩屋城攻めで負傷して肥後八代の本営まで後退したため、記事は伝聞であるのと時間があまりよくわかりません。

同日記によれば、立花方から内通者が出て、宗茂を謀殺してもよいと申し出たことが書かれています。その実効性はどの程度だったか不明ですが、島津方は内通者を利用して城攻めを強行しませんでした。
ひとつは、岩屋城攻めでの損害が大きかったのと、すでに攻勢終末点を迎えていたからでしょう。また島津家中からは冬になる前に豊後攻めを急ぐべきだという意見も強かったようです。

秋月種実の献策により島津方は撤退しますが、あっという間に宗茂が盛り返しに成功し、岩屋・宝満の両城も奪回しています。島津方にとっては元の木阿弥になりました。
また前哨戦で、勝尾城主の筑紫広門を捕虜にしていましたが、これにも逃亡されてしまうという体たらくでした。

島津軍北上作戦は事実上、失敗に終わったといってよいでしょう。

今回、立花宗茂を書くにあたり、以前お世話になった柳川の立花家史料館所蔵の宗茂肖像画を掲載しました。
同館の史料室長植野かおりさんに大変お世話になりました。記して御礼申し上げます。

次回は関ヶ原合戦における立花宗茂と島津義弘の交流を書く予定です。

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【2012/07/30 19:12】 | さつま人国誌
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ばんない
ごぶさたしております

この辺の話は『島津義弘の賭け』にも載っていたような気がするし、古い本ですが三木靖氏の『薩摩島津氏』でも見たはずなのですが、今ひとつ時系列が分かりにくくて…川上忠堅シリーズからの流れで分かりやすかったです。

しかし、誰かが指摘していましたが、本当に九州北部まで破竹の進撃していた集団とは思えない程ぐだぐだですね。

あと、以前島津義久のくじか何かの話をされていたときに、秀吉との正面衝突を避けるために豊後攻めの意見を退けて筑紫方面を攻撃した、という話が出てきたように記憶しているのですが、今回の連載で、宗茂が「すでに秀吉から命令を受けているし苗字までもらった」という話をしていたのが興味深かったです。結果論ですが、作戦方面を変えても秀吉に逆らう形になったのは一緒だったんだなあ、と。

難しいですね
桐野作人
ばんないさん

なかなか難しい問題ですね。
筑前は大友氏の属国扱いですが、島津方はあくまで緩衝地帯だという認識ではないでしょうか。
たとえ立花宗茂が秀吉直臣だと主張しても、まだ国境の紛争として釈明できると考えていたかもしれませんね。

もっとも、これ以前に秀吉が島津方に示した九州国割案では、筑前は秀吉直轄にするという趣旨でしたから、国境の紛争という言い訳は秀吉には通用しなかったでしょうね。


直轄地
ばんない
こんばんは。返答ありがとうございます。

>秀吉が島津方に示した九州国割案では、筑前は秀吉直轄にするという趣旨
つまり、その国割り案を出した時点で、すでに秀吉の頭の中では朝鮮出兵の計画が出来てた、ということなんでしょうね。
実際に筑前を領したのは、確か小早川隆景だったように記憶していますが。

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最近、拙著の新刊を出しました。
三国志ものです。かつてはよく書いていましたが、近年は遠ざかっていた世界です。

本書は10年前の単行本を文庫化したものです。
単行本当時も重版になるなど、比較的売れた本だったのを、編集者の小出文彦さんが見出してくれ、廣済堂出版さんが取り上げて、上梓の運びとなりました。
文庫化にあたって、修正加筆をだいぶしました。また図版をかなり精細にしました。図版が多いせいもあって、拙著にしてはかなりわかりやすく読みやすい本に仕上がったと思います。とくに戦争については詳しく述べています。

また表紙カバーのイラストは、人気イラストレーターの諏訪原寛幸さんに描いていただきました。とても引き立つ表紙になったと思います。諏訪原さん、有難うございました。

章見出しだけあげておきます。

はじめに――三国志世界への誘い
第一章 三国志の前史と社会背景
第二章 群雄の政略と軍略
第三章 三国志を彩る戦争Ⅰ
第四章 諸葛孔明の登場と戦い
第五章 三国志を彩る戦争Ⅱ
第六章 三国志きらめく軍師列伝
第七章 三国鼎立の最終勝利者は誰か

詳しい案内は、
版元のここや、Amazonのここをご覧下さい。

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【2012/07/25 10:16】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第243回
―敵の奮戦に惨憺たる勝利―

本日、連載が更新になりました。
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今回は前回の続きで、岩屋城の攻防を書きました。
もっとも、島津方からの視点のためと紙幅の関係で、城方の奮戦の様子はあまり詳しく書いていません。

記事以外でもいくつか書きたかったことがあります。最後の総攻撃に移る前の出来事2つです。
ひとつは、島津方が「下栫」(惣構のようなものか)を破り、本丸など主要曲輪だけ残った時点で、城方に対して降伏勧告していることです。このとき、高橋紹運は降伏するが、城をそのままもたせてくれという条件を出しています。当然、島津方はそれでは降伏にならないと判断して拒絶しました。この開城交渉はあまり知られていないと思います。
もうひとつは、城方が本丸のみとなったとき、島津方の総大将島津忠長が単騎、岩屋城に近づいて再び降伏勧告しました。そのとき、城方から城門を開けて打って出た武者がおり、忠長めがけて斬りかかりました。忠長は手鑓で応戦しましたが、強い打撃のため、手鑓をへし折られます。
総大将危うしというとき、忠長の被官永長長助が合力し、二人で合力して敵を討ち取るという一幕もありました。ちなみに、主人を助けた永長も戦死したと思われます。城方も敵の総大将を討ち取れるチャンスだと思ったのでしょう。最後まで敢闘精神を捨てていなかったのですね。

史料の問題として、高橋紹運の伝記「高橋記」をどの程度信用してよいかという点がありましたが、ほかに代替できる史料もなく一部活用しました。

写真をいくつか載せておきます。
岩屋城の石碑は有名ですが、ここは格好のハイキングコースでもあるようです。私たちが登ったときも小学生の一団が訪れていました。
岩屋城石碑

石碑の裏には建立者と石匠の名前が刻んでありました。1955年建立ですから、50数年前に立てられたのですね。石匠は太田三次郎という人です。この石碑は柳川立花家の関係者が立てたとされていますが、そうなのでしょうか?
石碑裏

岩屋城の東には宝満山城があり、紹運の二男高橋統増がこもっていました。宝満山は岩屋城よりかなり高い山ですね。中央奥の山で頂上付近に雲がかかっているのが宝満山です。城はどこあたりに築かれたのでしょうか?
宝満山

次回は岩屋城攻防の続きとして、立花宗茂の立花山城の攻防を書く予定です。宗茂は2回に分けて書くつもりです。

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【2012/07/23 17:34】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第242回
―家中不一致のまま強行―

本日、連載が更新になりました。
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なお、サイトのタイトルが表題と違っていますが、こちらが正しいです。

今回は前回からの流れで、岩屋城の攻防です。
高橋紹運の強靱な籠城戦として知られ、島津軍は落城させたものの、じつに3000人の損害を出すという苦戦でもありました。
今回はまず、島津軍が岩屋城を攻めるまでのいきさつを中心に述べました。
じつは島津家中では、主戦派と避戦派という大きな意見対立があり、しかも、一門の四兄弟が対立していました。そのいきさつは簡単に記事に書きました。
紙幅の関係で書けなかったこともあります。それは、日向守護代の島津家久を中心とした日向衆による独断での豊後侵攻計画です。家久は長兄の太守義久が豊後侵攻に消極的なのを見て取るや、独断で豊後に侵攻しようとしました.その際、同じ主戦派の兄義弘にも同調を求めましたが、義弘が色よい返事をしなかったため、この計画は頓挫したと思われます。のちに家久の死には大きな謎が残りますが、それを予感させるような出来事だったかもしれません。

記事にも書いたように、日向衆が筑前に未着のため、岩屋城攻めははじめ、日向衆抜きで開始されました。
島津方は多大な犠牲者を出して勝利したわけですが、結局、その後、豊後侵攻へと再度方針転換を図ることになります。どうせ豊後侵攻を始めるなら、家久の主張どおり半年早く始めていたら、局面は島津方に有利に展開した可能性があります。

記事には載せられませんでしたが、岩屋城攻めの島津軍の本陣となった観世音寺の写真を載せておきます。
ここには、島津忠長や伊集院忠棟が在陣していたと思われます。太宰府天満宮にほど近い場所です。
観世音寺

次回は、「嗚呼壮烈岩屋城址」という石碑の刻文のとおり、激戦の様子を書く予定です。

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【2012/07/16 17:50】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第241回
-一騎打ちの後、絶命-

本日、連載が更新になりました。
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毎月第2月曜は通常、休刊日なのですが、今回は鹿児島県知事選の報道と重なり発刊日となりました。
今回は前回の続きです。龍造寺隆信を討った川上忠堅は2年後の筑紫広門攻めで敵将筑紫春門との一騎打ちの末、絶命してしまいます。
先々月、初めて両者の一騎打ちの伝承地と忠堅の墓を訪れることができました。その取材ができたので、今回記事が書けました。Y口さんの協力のおかげです。

記事を書くにあたり、いくつかの勘違いや疑問に気づきました。
まず勘違いから。一騎打ちがあったとされる筑紫広門方の勝尾城や鷹取城。私はてっきり筑後国だと思っていたのですが、実際は鳥栖市、つまり肥前国(東端ですが)になるんですね。筑紫の名字に幻惑されました(笑)。

次に疑問①ですが、『旧記雑録後編』をはじめ、『島津国史』『西藩野史』など島津関係の史料を見ても、一騎打ちがあった場所が支城の鷹取城なのか、本城の勝尾城なのか、情報が錯綜していてよくわかりませんでした。

疑問②。両雄の一騎打ち、どちらが勝ったかですが、相打ちというのが通説ですけど、どうもそんな感じじゃないですね。『本藩人物誌』の忠堅の項にも、忠堅が春門を斬ったけど(部位不明)、忠堅も春門から右腕を斬られるという痛手を受けています。
それだけなら相打ちかもしれませんが、忠堅の与力、鹿屋三左衛門が退却する春門を追って討ち取っています。忠堅自身は追い打ちをかけるだけの体力がなかったようです。疲労と右腕の負傷のせいでしょう。それから数時間後に忠堅は絶命していますから、春門に斬られた時点で、忠堅は瀕死の重傷だったと思われます。春門が逃げおおせたら、春門の勝ちという裁定になったことでしょう。相打ち説にはやや疑問ありです。

疑問③。これがもっとも大事ですが、忠堅が龍造寺隆信を討ったのち、家中から嫉視とともに冷ややかな視線を浴びて追いつめられていたのかという問題。
私は以前何かを読んだ記憶から、そうだろうと思い込んでいたのですが、島津方の史料からそれらしき記述を見出せませんでした。
逆に、龍造寺方の「基肆養父御領中略記」なる史料に、島津義久が討つべき鍋島弾正(直茂か)を討たず、生け捕りにすべき隆信を殺したのは不届きとして蟄居されられ、その後牢人して、この戦いに死に場所を求めていた」とあるそうな。未見だが、いかにも後世に創作された内容である。
結局、忠堅が追いつめられていたかどうかは裏がとれずじまいだった。その点で記事が少し竜頭蛇尾になってしまったのが反省材料。何かで見た覚えがあるのだが……。

ほかに余談だが、忠堅の供養墓を建てたのが、なぜか侯爵鍋島家であること。建立は1929年(昭和4)と新しい。
この合戦に無関係なのに、また隆信を討った忠堅は鍋島家にとっても仇筋なのになぜなのだろうか。
うがった一説によれば、忠堅が隆信を討ってくれたために鍋島家は大名になれたので、恩義ある忠堅の供養をしたというもの。どうなんでしょうね? 写真あげときます。
川上忠堅墓案内板鍋島家供養碑

記事には紹介できなかったが、一騎打ち伝承地にも忠堅と春門の供養碑があります。左が忠堅、右が春門(手前左の円形石の左方)。
川上忠堅供養碑筑紫春門供養碑

鷹取城や勝尾城に登れたらと思ったが、時間がなかったのと、以下のような山だったので断念。
勝尾城遠景

島津軍は筑紫広門攻めのあと、有名な高橋紹運の岩屋城を攻めます。せっかくなので、次回は岩屋城攻めを書きます。島津軍の難戦、苦戦でした。

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【2012/07/09 18:32】 | さつま人国誌
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先月28日、名古屋・中日文化センターでの講座のとき、表題の遺構が発掘されたと知り、講座終了後、その足で京都に飛んだ。

記事はここです。

発掘現場は高いフェンスがあったため撮影困難で、フェンスの上から撮影しました。写真載せときます。手前の測量器がある掘り下げた部分が内堀です。この地点は二条第の内堀の北西角(やや南)にあたるところです。
内堀の右(内側)に隣接する浅く掘られた平面が犬走(いぬばしり)とのこと。
二条第内堀

その後、現地説明会があり、その資料を友人からいただきましたが、フロイス『日本史』の記事を引用してありました。
フロイスの報告はそのほかに『耶蘇会士日本通信』上(31号、1569年6月1日附)にもあり、『日本史』の記事と微妙に違いますので、参考までに引用しておきます。

「外には甚だ大なる堀を造り、之に水を満し、家鴨及び諸種の鳥を入れ、釣橋を架し、壁の高さ六七ブラザ、厚さは各所建築の必要に応じ六七八ブラザなり。三ヶ所に甚だ大なる門を設け、石堡を以て之を防禦し、其内に少しく狭き堀を造り、又遊歩場を設け、日本に在る一切を備へたり内部の整備巧妙にして美麗なることは言語に絶せり」

これによると、二条第には外堀(水濠)と内堀(赤字部分)があることがわかります。内堀はもともと将軍義輝の武衛陣の堀を再利用したものかもしれません。
今回、発掘された内堀には石垣がまったくなかったそうです。上記記事には外堀は大規模で石垣があったことがわかりますが、内堀に石垣があったとは書かれておりませんから、遺構と矛盾しません。

上記記事によると、外堀には「壁」(石塁か土塁)が付属していたことがわかりますが、内堀はどうだったのでしょうか?
一般的には堀と土塁(もしくは石塁)はセットのはずで、今回は犬走も発掘されているので、通常なら、その内側(右側)に土塁もしくは石塁があるはずです。写真右端にやや高い帯状の土盛が見られますが、これが土塁の底部跡で、上部は近世以降、削平されたのでしょうか?
なお、上記記事には「遊歩場」(青字部分)があったとあります。これは『日本史』にある庭園風の施設を指しているのでしょうか? まさか犬走が文字どおり遊歩道だったわけではないでしょうが。

取り急ぎ報告と感想まで。

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【2012/07/05 00:03】 | 信長
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遊歩道
k2
桐野様
こんばんは。
私も現説聞いてきました。
土塁は確かあったと説明されていたと思います。
その高さがどれだけあったかは、不明ですがという説明だったと思います。
 遊歩道は、犬走りと考えてよさそうに思いますが、どうなんでしょう。
 手前に江戸時代の火事跡も出てるのですが、禁門の変の時かな?と憶測してました。

感銘と感謝と
NAO4@吟遊詩人
桐野先生、御無沙汰いたしております。

レポート拝見させていただき、

学者以上(何か語弊がありましたら、深謝いたします。)の御見識を御持ちでいながら、フットワークの軽さに、驚き感銘いたします。

また、ブログでレポートいただき、現場を至近で拝見するようで、歴史ファンとして深く感謝いたします。ありがとうございました。

土塁
桐野作人
k2さん

お久しぶりです。
やはり現説行かれたんですね。
内堀の土塁があったとの由。犬走りの右側の土盛りでしょうかね?
二条第ばかり気を取られて禁門の変の痕跡は思いつきませんでした。考えてみれば、そうですね。この付近も延焼したはずですから。


NAO4@吟遊詩人さん

多少はお役に立てて何よりです。





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南日本新聞連載「さつま人国誌」第240回
―大言壮語して功名あげる―


昨日、連載が更新になりました。
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前から書きたかった川上左京亮忠堅について、今回と次回の2回に分けて書きます。
忠堅は戦国島津氏の九州制覇の立役者の一人といってよい人物。ほかでもない、肥前佐嘉の龍造寺隆信を討った人です。
しかし、もともと大言壮語する性癖があり、しかも、肥前島原で僚将の新納忠堯(忠元の嫡男)を無用に挑発して戦死に至らしめてもおり、家中では嫉妬とともに敬遠されるか、憎悪さえされていたと思います。

そして、島津氏がいよいよ有名な筑前岩屋城攻めを始めたとき、その前哨戦となった鷹取城攻めのとき、城将筑紫晴門と一騎打ちを演じて、ともに討死を遂げました。
忠堅は家中の憎悪と反感により追いつめられ、それがこういう結果を招いたといえるかもしれません。
島津家中でも際立った武勇の持ち主でしたが、「口は災いの元」としかいいようがありません。

この鷹取城の一騎打ちを書かないと、忠堅を書いたことになりません。しかし、それに関連する史跡写真をもっていなかったため、これまで書けずにおりました。
ところが、この4月の熊本・福岡取材のとき、忠堅と晴門の一騎打ちの場所(おそらく伝でしょうが)や忠堅の墓を訪れることができました。
ですから、ようやく書けるようになったわけです。

次回もお楽しみに。

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【2012/07/03 01:20】 | さつま人国誌
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ミス?、削除可能
みなみ
岩屋城は筑前では?



筑前
桐野作人
みなみさん

ご指摘のとおりです。
本文修正しました。

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