歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第248回
―リチャードソンの落命―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

前回に引き続いて、生麦事件がテーマです。
島津久光の行列に乱入する形になった4人の英国人のうち、奈良原喜左衛門に斬られて重傷を負ったリチャードソンのその後について少し詳しく書きました。

リチャードソンは馬首を返して懸命に逃げます。
その途中で、鉄砲組徒士の久木村利休(利久とも)に再び斬られ、臓腑を落としたともいわれています。
それからほどなく、痛手にたえられずに落馬したところを追いかけてきた海江田武次によって止めを刺されたとされています。

これは薩摩側の史料によるいきさつですが、果たして真相を正しく反映しているのかといえば、多少疑問があります。
というのは、事件当日、早くも神奈川奉行所の定廻の役人が生麦村にやってきて、実況見分をし、事件を目撃した村人に聞き取り調査を実施した記録が残っています。
とくに、リチャードソンの負傷部位を見てみると、薩摩側の記録と合致しない点があります。久木村は本当にリチャードソンを斬ったのか、斬ったとすれば、その部位はどこか。また海江田が止めを刺したとされますが、村人の証言によれば、6人の薩摩藩士が落馬したリチャードソンに最後の斬撃を加えており、その受傷は海江田だけではなかった可能性もあります。
今回、英国側の記録を確認していないので、それらを見ると、さらに食い違いなどが明らかになるかもしれません。

次回は、生麦事件を引き起こしたあと、久光主従はどのような対応を示したのかを中心に見ていきたいと思います。

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【2012/08/28 09:52】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様

こんにちは。

生麦事件も奈良原喜八郎下手人説といい謎が多いですね。
6人で斬り殺したとなると武士の情けとはちょっと言いがたいような気がします。この念の入れ方は何でしょうか。たまたま6人が追いついてよってたかってやったのかもしれませんね。
 最初行列が乱された時、久光が籠から「斬れ」と指令を出したという説もあるようですが、彼はどこまで承知していたのでしょうか。家来が起こしたこれらの行為は現場の判断に委ねられていたのでしょうか。
 幕府に対して届けは出していましたが、殺傷した相手がイギリス人で自藩の取引先とは思い及ばなかったのでしょうかね。


久木村の名前
中村太郎
こんばんは。

以前、知人が生麦事件を調べました流れから、知人たちと横浜に宿泊して「生麦ツアー」を致しました。

久木村の名前は書物によって、いろいろ名前が違っていますが、知人は一応「治休」としています。
桐野様が紹介された2008年正月の朝日新聞鹿児島版では、ご子孫が「久木村治休」の名で紹介されています。
http://mytown.asahi.com/kagoshima/news.php?k_id=47000280801120001

奈良原喜八郎
桐野作人
奈良原喜八郎繁については、海江田武次と一緒にしたグループに含まれていた可能性ありますね。


治休
桐野作人
治休も承知していましたが、一応、薩藩海軍史の記述に従いました。

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武蔵野大学が新たに千代田サテライト教室を開講したのに合わせて、講座2本をやることになりました。

織田信長と坂本龍馬の死の真相とその意味を考えます。
2人は時代こそ違え、悲劇的な最期を遂げたことと、後世、黒幕がいるだのいないだの、あれこれ憶測が流れている点も共通しています。本当のところはどうなのか、じっくり検討しようという趣旨です。
詳しい内容はそれぞれのチラシ写真をご覧下さい。クリックすれば拡大します。

第1回
演題:日本史二大英雄の死(1)本能寺の変
   ―信長と光秀に何があったのか?―
日時:10月24日(土)13:00~14:30
本能寺の変

第2回
演題:日本史二大英雄の死(2)龍馬暗殺
   ―薩摩黒幕説の誤りを糺す―
日時:11月10日(土)13:00~14:30
龍馬暗殺

受講料はそれぞれ1.000円。
会場はともに武蔵野大学千代田サテライト教室。
千代田女学園中学・高等学校内
 住所:東京都千代田区四番町11
 マップ
千代田サテライト教室地図

問い合わせ先:武蔵野大学社会連携センター
電話:042-468-3222
FAX:042-468-3211

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【2012/08/25 16:18】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第247回
―東海道での不幸な惨劇―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

タイトルのとおり、今年は文久2年(1862)の寺田屋事件や生麦事件からちょうど150年になります。
同年8月21日、新暦だと9月14日が生麦事件が起きた日です。
いずれも島津久光の率兵上京に伴う副産物です。副産物という言葉では軽いくらい大きな事件であり、さらに翌3年7月の薩英戦争まで惹起してしまいます。

先日、友人たちと生麦事件の現場となった東海道旧生麦村や犠牲になったリチャードソンの墓がある横浜外国人墓地に出かけました。
もっとも、生麦にある生麦事件参考館の館長、浅海武夫さんからお話をうかがったが、話が長すぎて外が暗くなってしまい、肝心の写真撮影ができなかったため、先週末ふたたび出かけて撮影した。今回はそのときの写真を載せています。

生麦事件は不幸な事件でした。久光主従も好んで外国人殺傷をしたわけではありません。しかし、大名行列(厳密にいえば久光は大名ではありませんが)に(不可抗力とはいえ)外国人が乱入してくれば、国内法と大名としての誇りから、これを撃退する行動に出るのは当然です。
一方、リチャードソンなど英国人4人は上海や香港から来日したばかりの2人を含めて、大名行列への対処のしかたなどに無知で、いわば、郷に入りては郷に従えという慣習を軽視していたというしかなく、それが災難に直結しました。幕府も各国公使館を介して、外国人に国内法の遵守を申し入れていたはずですが、行き渡っていなかったかもしれません。

リチャードソンは死亡、他の2人の男性も重傷という結果は悲惨でしたが、翌年、薩摩藩も薩英戦争で大きな代価を支払わされる結果となりました。

記事に載せられなかった写真を2点載せておきます。
左は、リチャードソンが奈良原喜左衛門に斬りつけられた場所。左手の垣根に事件の案内板あり。当時は現在の道幅より狭かったと思われます。右はいったん馬で逃走した彼が落馬して海江田信義にとどめを刺されて落命した場所です。慰霊碑は明治16年(1883)、鶴見の黒川荘三が建立、撰文は中村敬宇。
生麦現場慰霊碑

次回は続きです。(中)になるか(下)になるか思案中。

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【2012/08/20 18:43】 | さつま人国誌
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講演の案内です。

石田三成や井伊直政ゆかりの彦根市にある「ひこね市文化プラザ」で、歴史手習塾seminar13と題して、3週連続の関ヶ原合戦講座を開催します。
滋賀県周辺限定ですが、関心のある方は参加してみませんか。

講座タイトル:「謎解き 関ヶ原合戦」

第1回 10/4(木)「関ヶ原合戦はなぜ起こったのか」
第2回 10/11(木)「石田三成の動向」
第3回 10/18(木)「井伊直政と島津の退き口」

いずれも19:00開講です。
お問い合わせ、受講要領など詳しくは、ここをご参照下さい。

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【2012/08/19 09:27】 | イベント
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びわこ
桐野さん
この度はいろいろとお世話になります。
10月の連続講座、今からとても楽しみです。


よろしく
桐野作人
びわこさん

10月はよろしくです。
どこまでご期待に添えるかわかりませんが。
受講者は増えているでしょうか?

小松帯刀について
三島良子
桐野先生
 
 ご高著を拝読させていただいております。私が同居しております花子さんの母は林サトと申しましたが、実家は大分で渡辺と申しました。母サト(明治16年2月生まれ)の母親はかめのともうし、小松帯刀さんとかめの母親【祇園の芸子)の子どもだったと聞かされておりました。サトの話によると確か薩摩の白木屋とかいう、材木商だったと思いますが、その方の舟に乗って大阪の五代友厚さんのところに身を寄せ、渡辺さんとかめのは結婚したとのことです。そのときに脇差と守り本尊を証としてもらったとのことです。守り本尊の行方は不明ですが、脇差は確かに戦前まで納屋に隠してあり、それを見つけた花子の兄八郎が牧割に使用して刃をボロボロにして捨ててしまったと八郎の記憶にありました。サトの話しかなにも証はなく、公には琴さんの二人の子どもさんが五代友厚の世話になっており寿美さんと話がだぶり、聞いてる方も分からなくなります。ただ花子の父親は大阪商業(今の市立大学)出身で一回生のような写真が残っており、そのころサトと大阪で出会い、サトは五代友厚の大阪の家で行儀見習いをしておりで出会いはそのあたりらしい話をしておりました。花子も90歳となりサトも45年前に亡くなり、サトの話をきいたのも昔のこととなりました。系図には第三番目の女性も載っており、その他にも女性がいたのかとも思います。有名人だからそのように語もあるのだと一蹴されることも覚悟の上でご連絡いたしました。
 先生のご活躍をお祈りいたしております。三島



 。



びわこ
桐野さん
受講生は90人を超えています!
3回分のチケットをセット販売ですから、すごい好評を得てます。

お忙しい中、彦根に来ていただけてうれしいです。

明後日行きます
桐野作人
びわこさん

90人というのは多いのでしょうか?
鹿児島行きや台風の欠航などあり、担当のMさんさんにご迷惑かけましたが、ようやく資料レジュメもできました。

それでは、お会いできるのを楽しみに。



びわこ
日付も変わってますので、いよいよ本日です。
Mさんからの連絡では、100名を超えたそうです。
この人数は、手習塾では、すごい数字です。
販売図書も僭越ながら、私がお薦めコメントを書かせていただきました。

明日(いえ、本日)、米原にお迎えにあがります。

では。

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講演の案内です。

9月14日13:45から鹿児島市の城山観光ホテルで表題の講演会あります。
主催は鹿児島県福祉施設士会。

演題「西郷隆盛と坂本龍馬」

原則、会員さん対象ですが、一般参加者も先着100名まで可能です。
参加料500円、まだ参加枠残っているそうです。
応募方法は往復ハガキです。
関心のある方は下記をご覧下さい。
記事をクリックすれば拡大できます。

西郷隆盛と坂本龍馬

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【2012/08/17 16:41】 | イベント
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西郷の黒幕の話などですか?
杏里
最近、原口泉編『坂本龍馬スペシャル』(徳間書房)で、薩摩藩が坂本の暗殺の黒幕というものが、出ていましたが、新しい内容などが含まれていますか?

はて
桐野作人
杏里さん

その本は読んでいませんが、私は薩摩黒幕説には反対です。
今回はむしろ、西郷と龍馬の友情と信頼関係を話すつもりです。

ありがとうございます
杏里
ムック本です。そうですか。原口泉さんの編纂というので、
御存じかと思い。佐賀県ですので、参加は考えてみます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第246回
―周防大島で再会を喜ぶ―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をご覧下さい。

今回は宗茂と義弘の友情の最終回です。
大名同士の友情というのは、政治的な思惑もからみ、なかなか成立しがたいものです。
関ヶ原合戦における石田三成と大谷吉継の関係も友情なのかどうかは一次史料では確認できないです。
あと、加藤清正と浅野幸長などは比較的懇意ですね。

さて、宗茂と義弘ですが、これはどちらかといえば、宗茂が義弘により好意を抱いている感じですね。
関ヶ原合戦で大坂方の敗戦後、義弘討死の噂が流れたとき、宗茂は島津忠恒夫人亀寿を国許まで送り届けたいと申し出、その細かい打ち合わせをしているほどです。宗茂も義弘が討死したと思い、島津家に友情の証しを示したかったのでしょう。

宗茂が大津城開城ののち、大坂に向かい、毛利輝元に籠城を進言したというのは有名な話ですが、一次史料では確認できないのが難です。
宗茂の伝記「立斎旧聞記」には、その間のいきさつが詳しく書かれています。宗茂は大津開城ののち、大坂に向かう前に京都に立ち寄っています。そのとき、三条寺町に布陣して、木下肥後守(小早川秀秋の実父家定)に使者を送り、大坂下向に同道するよう要求します。すると、家定は周章狼狽してしてしまいます。
このとき、家定は姉にあたる北政所とともに、公家の大炊御門家にいたそうです。宗茂の使者の口上を聞いた北政所もうろたえます。

「北政所、此の使いを聞き玉ひ、以ての外に仰天まし/\、かちはだし(歩行裸足)の躰にて禁中へ逃げこもり玉へば、それより京中騒ぎ立」

北政所が東軍寄り、家康寄りだったという通説とは食い違う記事です。もっとも、北政所は宗茂が洛中に布陣したのに驚き、さらに宗茂が無理やり大坂城に連行していくのではないかと恐れ、大坂城で担ぎ上げられるのはゴメンとばかりに禁裏御所に避難したとも考えられます。そうだとすれば、必ずしも西軍寄り、大坂寄りとは言い切れないかもしれません。
逆にいえば、宗茂は北政所を大坂城に入れて旗印に戴こうとしたのかもしれませんね。そうだとしたら、まことに興味深いです。
北政所が禁裏御所に避難したという記事は、公家の西洞院時慶の日記『時慶記』の記事とも合致します。同記には、北政所は准后御方(勧修寺晴子、後陽成天皇の生母)の所に避難したとあります。ですから、「立斎旧聞記」の記事は案外信用できそうです。
以上は、紙数の関係で記事には書けませんでしたので、補足しておきます。

その後、宗茂は大坂に向かうことになります。そして、今回のサブタイトルにもあった周防大島での再会ということになります。二人は西宮沖からともに船団を組んで出航しますが、その時点では再会していなかった感じです。ようやく虎口を脱し、国許が近くなった周防大島で両雄会見となった模様です。

周防大島はかつて屋代島と呼ばれていました。こちらのほうが通りがいいかもしれません。
非常に大きな島ですが、その東北端に日向泊という港があります。ここに停泊しているときに会見しています。
現在も非常に小さな港です。おそらく風待ち、潮待ちの港だったのでしょう。
今回、地元自治体の商工観光課の担当者がわざわざ現地まで写真撮影に行かれ、そのデータを送っていただきました。まことに有難いことです。現地の方もこの逸話はご存じなかったようです。
「惟新公関原御合戦記」にわずかに記事があるだけなので当然かも知れません。
せっかくなので、掲載した以外の写真も載せておきます。港の外側と俯瞰の写真です。
日向泊外側日向泊俯瞰

ほかにも大きなパノラマの航空写真もいただきましたが、あまりに容量が大きいので載せきれません。

なお、この再会のとき、宗茂が義弘に「善悪ともに御下に参る儀」を誓約しているのは、あまり知られていないと思います。宗茂は九州の西軍方で、義弘を盟主に仰いで結束しようとしたのかもしれません。もっとも、九州情勢は西軍方に圧倒的に不利でしたが。

次回の予定ですが、8月21日(旧暦)が生麦事件150年であることから、同事件を何回かに分けて書く予定です。

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【2012/08/13 18:02】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。
世間で知られている巷説以外の話も書いてあり、興味深く読みました。

>亀寿
ああ、立花宗茂とのデートのチャンスが(冗談)
もしかしたら柳川経由で帰国していたのかも知れませんね。

本文
>宗茂と義弘の船は西宮沖を発し、瀬戸内を西に進んだ。ともに五十余艘〔そう〕の船団だった。
義弘も50隻ぐらい船を調達できたという事なのでしょうか。「惟新公関原御合戦記」では黒田官兵衛軍に襲撃されたとき台所船2隻と義弘の船1隻で計3隻と認識していたのですが…。

>北政所
最初避難した先が大炊御門家、次避難したところが勧修寺晴子というのは興味深いです。木下家定ですか?…まあ予想通りの行動ですな(爆)

船団
桐野作人
ばんないさん

船団の数ですが、「惟新公関原御合戦記」にある記述に従っています。
立花勢は2000人以上の軍勢ですから、50艘でもおかしくないですが、島津勢はせいぜい100人程度ではなかったかと思われます。その根拠は、富隈に到着した義弘主従が30数名、豊後沖で戦死した人数が30数名、捕虜が10名ほど。ただ、戦死数には軽輩身分が含まれていない可能性あり、実数はもう少し多いかと。
島津勢の50艘には注記しようと思いながら、失念しました(爆)。
ただ、3艘よりは多いと思っています。
豊後沖で黒田水軍に捕捉されたのが3艘で、その中には義弘御座船は含まれていませんから、少なくとも4艘以上あったと思います。
捕捉された3艘のなかに義弘夫人宰相殿の御座船があったと思われ、残りの2艘がその御座船の退避を援護しつつ、海戦に及んだものと考えています。

夫婦同船せず
ばんない
即答ありがとうございました。50隻よりは少ないが、4隻は越えているという事ですね。

>捕捉された3艘のなかに義弘夫人宰相殿の御座船があったと思われ、
これ、不思議に思ったのですが、夫婦なのに同じ船じゃなかったのですね。この時代、いろいろと危険が伴うので、どちらかの船がアウトになってもどちらかが助かるようにという考えによる物でしょうか。

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表裏

講演の案内です。

9月30日(日)14:00から鹿児島市宝山ホールで開催。
演題は「戦国島津四兄弟と秀吉襲来」

入場は無料。往復ハガキでの申し込みです(詳しくは冒頭チラシ裏面)。

会場のアクセスはここです。

チラシが出来ましたので冒頭に載せておきます。

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【2012/08/13 12:24】 | 信長
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ポスター
ばんない
こんばんは。毎度ながら凝ったポスターですね。

いくつか質問があります。ネタバレしない範囲で御回答下されば幸いです。
(1)カラー版の右上にある鎧は誰の物ですか?
(2)同じくカラー版の中上にある合戦図はなんというものでしょうか。

「秀吉襲来」といえば、10年ほど前に横浜の歴史博物館での公演が確か「後北条氏と秀吉襲来」というタイトルだったような気がします。関西出身の私から見たら、目から鱗のタイトルでした。

チラシ
桐野作人
ばんないさん

お尋ねの件ですが、私は制作にノータッチなので、すべてを知る立場にはないのですが、

(1)見た感じ、いつぞや黎明館の展示で見た島津斉彬の甲冑ではないかと。集成館事業により鍬形を金メッキで製作したものではないかと思います。時代が違いますが、あくまで雰囲気優先ではないかと(笑)。

(2)この合戦図、おそらく「倭文麻環」(しずのおだまき)所載のものだと思います。

以上。

「~襲来」はその展示がヒントです。先日、某所では「小田原城と秀吉襲来」というタイトルで講演しました(笑)。


ちらし
ばんない
こんばんは。即答ありがとうございました。

チラシは主催者の好みで作るんですね。講演者の意向もある程度入れるのかと思っていたので意外でした。

>甲冑
斉彬のですか_| ̄|○ これが義久のとか義弘のだったら世紀の大発見?なのに…。確かに全体的な作り見てると新しそうですね…。

>「倭文麻環」
まじめな方の「しずのおだまき」ですね(苦笑)近代デジタルライブラリにも登録されています(URL参照)が、白黒版のみのようです。

「秀吉襲来」はあの講演がネタ元でしたか。あのタイトルを見た時のショックはかなりすごかったです。それ以後、個人的には「四国征伐」とか「九州征伐」とか使わないようにしてます。


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講演のご案内です。

東京都江戸川区西葛西図書館で、

連続講演『「のぼうの城」の世界を知る』

と題して3回講演があります。
そのうち、私は3回目で、演題は以下の通りです。

第3回「忍城水攻めと石田三成」
日時:10月21日(日)14:00~15:30(13:30開場)
住所・最寄り駅・MAPなどは、ここをご覧下さい。
[主催・お問合せ先]西葛西図書館 TEL:03-5658-0751

私以外の2回の講演・講師は以下の通りです。
第1回「戦国期領主成田氏とその時代」
   講師:新井浩文(埼玉県立文書館) 
   9月17日(月・祝)

 第2回「豊臣秀吉の関東制圧と葛西地域」
   講師:戸谷穂高(東京大学史科編纂所)
   10月7日(日)

詳しくは同館サイトのここをご覧下さい。

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【2012/08/11 16:03】 | イベント
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宜しくお願い致します
市野澤 永
西葛西図書館の市野澤と申します。
弊館主催の連続講演「『のぼうの城』の世界を知る」の申し込みは、
8月21日(火)9:00から開始です。
宜しくお願い申し上げます。

桐野さん、新井さんや戸谷さんの講演告知もして頂き、誠にありがとうございます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第245回
―戦友意識か、親密な両雄―

本日、連載が更新になりました。
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このテーマでは上・下で書く予定でしたが、どうしても2回では収まりきれず、上・中・下の3回に分けて書くことにしました。
今回は朝鮮陣、庄内の乱、関ヶ原合戦(大津城攻防)について書きました。
3回に分けても、じつはまだ分量が足らず、朝鮮陣、慶長の役最終盤の順天城救援から始まった露梁津海戦については触れることができませんでした。
このとき、宗茂と島津義弘・忠恒父子は一緒に小西行長などを救出しています。このことも含めて朝鮮半島でともに苦戦したことが戦友意識を培ったのではないかと思います。

その親密な関係がよく表れたのが忠恒の伊集院幸侃手打ち事件と庄内の乱です。
宗茂は一貫して忠恒の味方をしています。それは朝鮮陣での戦友意識のなせる業かもしれません。もっとも、朝鮮陣には庄内の乱を起こした伊集院忠真も出征しています。
となりますと、やはり、筆頭老中とはいえ、被官が主人を上回る権勢をもつのは許さないという大名領主特有の身分意識を共有していたのでしょうか。

もうひとつ、この一件の評価について、高雄に謹慎した忠恒に対して、前田・増田・長束の三奉行が談合し、その指示を受けてか、宗茂や小西行長、寺沢正成が救出・護送していることから、徳川家康が島津氏を味方につけるために忠恒の謹慎解除を命じたという従来の説はあたらず、三成など反家康の奉行衆に主導権があったという新説もあるが、どうでしょうか。
というのは、その後、庄内の乱が勃発したとき、宗茂は義弘・忠恒に味方したばかりか、みずから出陣して加勢することまで申し出ていますが、もっとも重要なのは、宗茂があくまで家康の指示に従うよう義弘・忠恒に勧めている点です。宗茂は家康を中心とする豊臣「公儀」の意向や命令に従おうとしているのです。
また三奉行も三成と親しいとはいえ、三成寄りだと判断するよりも、豊臣「公儀」としての判断だと考えたほうがいいのではないか。その証拠に、三成は忠恒の暴走に激怒して処罰を匂わせており、三奉行とは態度が異なっています。

宗茂・行長・正成と義弘・忠恒父子の結束を、反家康的立場としてくくるより、朝鮮陣での戦友意識の延長線として、あくまで九州大名同士という地域的な結合により、秀吉死後の豊臣政権の混乱を乗り切っていこうという行動ではないでしょうか。
その点では、関ヶ原合戦での東西両軍の色分けなど、多くはその時点での情勢や成り行きに規定された便宜的、応急的なものだったように思われます。
宗茂の西軍参加も家康憎しという感情があったとはとても思えません。あえてその行動基準を求めるとすれば、毛利輝元への与力意識によるものではないでしょうのか。

宗茂と義弘との関係で注目すべきは、記事の最後にも書きましたが、関ヶ原本戦前に美濃垂井で同陣していたという説です。中野等氏『立花宗茂』(人物叢書)にも少し紹介してあったので、調べてみると、出典は『伊達家文書』であることがわかりました。これは井伊直政が本多正信などに宛てた書状の写し。なぜ伊達家に伝わったかわかりませんが、伊達家の京都留守居あたりが写し取ったものか。
この直政書状は伝聞情報だからどこまで事実か確証がありませんが、宗茂は当初、伊勢口へ出陣することになっていたはずです。それが何らかの事情があって美濃方面に転出したものでしょうか。そして京極高次の変心があったために、急遽引き返して大津城攻めにあたったのでしょうか。この点はもう少し他の史料で詰められたらと思っています。
以上の点は、分量の関係と趣旨からはずれるため記事には書けませんでしたので、補足しておきます。

次回は宗茂の大坂城退去と義弘との感動的な再会を書く予定です。

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【2012/08/06 18:39】 | さつま人国誌
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