歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第51回
―東京国立博物館の創設―

24日(月)に連載が更新になりましたが、お知らせが遅くなりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、町田のライフワークといってよい上野の博物館創設までのいきさつを簡単に書きました。
当時の名称は、ただの博物館で、その後、帝国博物館、帝室博物館と改称するようです。
また所管もよく変わり、町田自身も大学(文部省)から内務省へと異動になっています。

ところで、今回は紙数の関係で削除した部分がありました。
それは町田が英国留学から帰国したのちの動向です。とりわけ、慶応3年(1867)後半、大政奉還から王政復古政変に至る時期、町田がどんな考えをもっていたかという点です。
土佐藩の在京重役寺村左膳の手記によれば、町田が倒幕挙兵には「不同意の者」で「西郷の挙動は児戯に等し」と述べたと伝えています。町田が武力発動には慎重で、土佐藩の立場に近かったことがうかがえます。
ただ、寺村が自分たちに都合よく解釈した可能性もあるので、多少割り引いて考える必要があるかもしれません。町田は一所持という門閥出身で大目付という重職にあることから、そのような考えを抱いたのでしょうか。

つまり、町田の立場は西郷や大久保とは異なっていた可能性が高いわけですが、維新政府が発足すると、町田はすぐさま三職のひとつ、参与に任命されています。この時点では、小松・西郷・大久保と同等の地位にあったわけです。維新政府がいわゆる「倒幕派」と「公議政体派」の連合政権だったといわれますが、そうした実情を反映したものだったのでしょうか。
その後、同等だったはずの地位が他の3人とかなり開いてしまいます。町田は外国事務局(要は外務省です)の次官相当である小松の部下になります。町田と同役は、五代友厚・寺島宗則・後藤象二郎・井上馨・大隈重信といった、錚々たるメンバーです。

それでも、結局、町田は彼らの後塵も拝してしまいます。
維新政府の中核である薩摩藩の門閥出身で、小松と叔父甥の関係という立場にありながら、政治家としての町田はあまりパッとせず、その後は文部・内務官僚の道を歩むことになりました。
町田がなぜ出世コースからはずれたのか、幕末慶応期の政治的な立場が影響しているのかどうか不明ですが、いまもってよくわかりません。

次回は、町田がなぜか出家し、遁世の道を歩んだことを書きます。

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【2012/09/27 08:10】 | さつま人国誌
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感想など
ばんない
こんばんは。
前回の記事にも書きましたが、全3回の連載、興味深く拝見しました。

久成の母親が学問に熱心だったというのは、興味深かったです。しかもこの当時余り女が触れるべからずと思われていた漢籍というのが面白かったです。島津斉彬の母も学者並みの人で有名だったようですね。この当時流行だったのでしょうか。

ところで、小松帯刀の養子になったものの、後に追われるように小松家を去った弟・申四郎の行方はやっぱり分からなかったのでしょうか。

明治維新後は、階級闘争に加え藩閥の闘争にも巻き込まれて、最後は政務に嫌気が差していたような雰囲気も伺えます。
島津久光の死後3年後に出家したという所に、古風な価値観を持っていた人のようにも思われます。

お墓、写真で見る限りでは寒々しいですね。

町田申四郎
桐野作人
ばんないさん

町田申四郎のその後についてですが、宮崎県高岡町(幕末期だと日向国穆佐郷あたりで薩藩領)に住んでいたようで、同町に墓があるそうです。墓石には「町田棟」と彫ってあるそうです。

そのことについては、いちき串木野市の英国留学生記念館のサイトに記事があったのですが、一度中断したこともあり、現在見られるかどうかわかりません。
私はそのURLを保存していましたが、見られませんでした。


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町田棟
ばんない
こんばんは。御教示ありがとうございます。

町田棟の墓の件ですが、この記事でしょうか(URL参照)。
写真もくっきり映ってます。

しかし、別記事に寄りますと、留学後ここに至るまでの過程はやはり謎のようです。


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今月末の講演の最終案内です。

来る9月30日(日)、鹿児島市宝山ホールで講演会を催します。
昨年の前回は「義久と義弘」でした。家督継承問題などを中心にお話ししました。
今回は前回にはなかった3男歳久、4男家久を加えました。この下の弟2人、とくにその最期についても詳しく語る予定です。
多くの方々のご来場をお待ちしております。

以下の要領です。

演題:戦国島津四兄弟と秀吉襲来
 ―義久・義弘・歳久・家久、それぞれの去就―

日時:9月30日(日)13:30開場、14:00開演
開場:宝山ホール 099-223-4221
問い合わせ・申し込み 同ホールのサイト(ここ
往復ハガキやネットから申し込めます。
入場無料です。

ご参考までにチラシ写真(表・裏)を載せておきます。ダブルクリックすれば拡大します。
戦国島津表戦国島津裏

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【2012/09/23 10:22】 | イベント
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島津歳久
ながお
桐野様

こんばんわ。島津四兄弟の講演、楽しみですね。残念ながら帰省したばかりなのでとても行けません(笑)。四兄弟皆好きなのですけど、特にと言われれば、やはり歳久ですかね。彼の辞世「晴蓑めが~」はとても気に入ってます。
薩州家からは忠隣が養子に行っていますが、両家の関係は良好だったのでしょうか。歳久は秀吉に対して反抗的だったのですが、島津忠辰はそれに同調しようとしなかったのでしょうか。もちろん真っ先に降伏したことになってはいますが。

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昨日、武蔵野大学生涯学習講座「信長公記を読む」に出講。

テーマは「小谷封じ込めと異見17カ条」。
信長が将軍義昭を批判した異見17カ条を全部読む。
やや駆け足ながら解説をした。信長の異見は微に入り細を穿つようなもので、些細なことまで挙げている。
信長サイドの主張である点を割り引いても、義昭の依怙や不公正さが目立っていたのはある程度確実だろう。
異見は『信長公記』巻6(元亀4年)の冒頭に掲載されているが、正確には前年の元亀3年(1572)9月の出来事である。浅井・朝倉両軍との戦いを有利に進めているときで、信長が義昭を徹底的に追いつめようとしていたかは不明。
同時期に、義昭は信長の京都邸普請を何度も督促したり、三好義継・松永久秀の離反に対しても「公方衆」(幕府奉公衆)を共同出陣させており、まだ表向きは関係良好にみえる。義昭が信長に無断で地方の大名に対して御内書を発給していることと合わせ、この時期の義昭と信長の関係をどうとらえるか、なかなか難しいと感じた。

さて、来月からこの講座も第3期を迎える。
元亀争乱が終結し、義昭追放後の信長の新たな政治が始まる時期である。
浅井・朝倉の滅亡、天正改元と譲位問題、蘭奢待切り取り、長島一向一揆などを取り扱います。
興味のある方は参加してみませんか。
主催者の講座案内はここですが、まだ次期に向けた更新がなされていません。

案内チラシを載せておきます。ご参照下さい。
なお、多少カリキュラム変更があります。
前期分のスケジュールが1回ずれたため、第3期は前期最終回の「武田信玄の西上と三方ヶ原合戦」から始まります。同時に第3期最終回「長篠合戦①」が第4期回しとなります点、ご了承下さい。

信長3三鷹アクセス

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【2012/09/22 14:52】 | イベント
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龍馬暗殺の薩摩説について
中島
 いつも楽しく拝見させていただいています。特に「さつま人国志」は。
 龍馬の暗殺につては、まったく新しい視点で土佐藩の実情を述べた『龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた』を今年、出しております。
 本来は幕末の大きく変化した50日間の情勢を
 土佐藩と中岡慎太郎と龍馬の暗殺事件を中心に書き残したものです。
 作品はやや誤植などあり残念ですが、一読はされたのでしょうか。
 現在は、薩摩藩説については、ほとんど話題にはなっていないと私見ですが思います。
 この点を知っておられての講演なのか、そこが気になりコメントを。
             敬具

薩摩黒幕説
桐野作人
中島さん

コメント有難うございます。
不勉強で、ご著書は拝読しておりません。
個人的には、薩摩を含めて黒幕説はありえないと考えております。
今井信郎供述を超える史料はなかなか難しいと考えているところです。

薩摩黒幕説はほとんど話題になっていないということですが、果たしてそうでしょうか? 近年の関連刊行物はその説が多数を占めているように感じていますが。



中島
 ご返事、ありがとうございます。
薩摩説は以前に半藤一利や中村彰彦氏などが
 述べましたが、小説の類として、現在では多くの人は問題にしていません。少し、認識のズレがありそうですね。
 それと、今井信朗の供述書ですが、岩崎鏡川の「龍馬関係文書」の中の資料ですが大正のもので、原本もなく、A級資料ではないと思っています。
 この点は拙書で多少、詳しく述べております。

 岩崎鏡川の資料編纂は意図的なものがある。龍馬暗殺で岩崎鏡川の資料を過大視するのは、歴史学としてはよほど、注意が必要と思います。
 土佐に関係の深い岩崎鏡川が見つけたというのは、中身はかなり慎重に再考すべき。
 それが、歴史のやる意味でもあると。
 いずれにしても、薩摩説は無いのは確かですが。(笑い。)
 講義が盛況であることを祈念いたします。
 
 

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宮崎県の都城島津邸から展示案内のチラシをいただきました。

都城島津伝承館特別企画展
都城と琉球王国―国宝尚家資料、南九州初公開―

期間:10月7日(日)~11月29日(木)
会場:都城伝承館(サイトはここ

詳しくは、同館のPDF(ここ)か、下記チラシをご覧下さい。ダブルクリックすれば拡大されます。
都城島津邸表都城島津邸裏

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【2012/09/20 14:11】 | イベント
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展示会の案内です。

友人で下関の長府博物館の館長である古城春樹さんからいただきました。

「特別展 薩長盟約と下関―長府藩士と龍馬・慎太郎のキセキ―」

会場:下関市立長府博物館
期間:10月20日(土)~11月18日(日)

詳しくは下記のチラシ写真をご覧下さい。

薩長同盟の成立において、長府藩も重要な役割を果たしたことはあまり知られていません。
とくに坂本龍馬と同行した長府藩士の三吉慎蔵はその上京目的が龍馬の護衛役だとされていますが、考えてみれば、れっきとした一藩士が脱藩士を警固するというのもおかしな話。その点について、古城さんは史料をもとに、三吉はあくまで長府藩当局から京都情勢視察という密命を受けていたことを実証しています。
この展示でも、長府藩の独自の位置についての展示になるのではと思われます。

私も行けたらなと思っているところです。

長府表長府裏

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【2012/09/19 20:18】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第250回
―平田門下から英国留学へ―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回で区切りのよい250回の連載となりました。よくぞ長く続いたものだと改めて感無量です。

今回から3回に分けて、町田久成を書く予定です。
町田久成は薩藩英国留学生のリーダーであり、東京国立博物館の創設者でもあります。
今回は久成が平田国学の門下であったことを中心に書きました。
町田が平田門下だったことはやや意外な感もします。平田国学が尊王攘夷運動に影響を与えたため、閉鎖的、排外的なイメージがあるかもしれませんが、平田篤胤などは海外事情にも旺盛な好奇心、探究心を示していますから、平田国学のイメージと実態とは少し乖離があるかもしれません。
そう考えると、久成が平田門下から英国留学生になるのは矛盾するものではありません。
もっとも、久成は薩摩藩の洋学の拠点となった開成所の責任者ですから、職務上、渡欧しないわけにはいかなかったかもしれません。

記事中、野村宗七が日記で久成を「民部大人(うし)」と呼んでいることについて、平田国学の徒だったからではないかと書きました。
もしかすると別の解釈もできるかもしれないなと思っています。「大人」は島津家中での家格や役職を示す敬称かもしれません。たとえば、小松帯刀が「小大夫」とか「松大夫」と呼ばれるように、「大夫」は家老の敬称です。久成は大目付なので、家老より一級下になりますが、やはり重職なので、それなりの敬称が必要で、「大人」(この場合、読みは「たいじん」か)がそうではないかとも思っています。
西郷や大久保などは側役まで昇進しており、ときに「中老」と呼ばれています。これは土佐藩の家格制にも同様の名称があり、家老の下ながら、仕置役(あるいは参政)に昇る家格の人を中老と呼んでいるようです。たとえば、後藤象二郎や福岡藤次がそうです。西郷や大久保も土佐藩でいえば後藤や福岡に相当する地位です。
つまり、島津家中の重職の敬称は、大夫→大人→中老というランク分けがあったかもというものです。もっとも、島津家中で「大人」が家格・役職を示すほかの事例をいまのところ見つけられていないので、今回は留保し、「うし」説で書いてみました。
記主野村の敬称表記はけっこう気まぐれで不統一なので、「大人」も単なる重役の敬称という意味を出るものではないかもしれません。まったくの当て推量と不勉強なので、見当はずれのことを書いているのではないかと恐れています(苦笑)。

なお、久成を平田家「気吹屋」に紹介した相良長基は誰なのかわかりません。寄合の家格の相良家がありますが、その当主は小松帯刀の兄、相良長発ですから違うと思います。「長」を通字にしている点では共通しているので、同族ではないかと思いますが。通称は甚之丞です。もしご存じの方がおいでならご教示下さいませ。

余談ながら、記事にも書きましたが、町田は幕末薩摩藩きってのイケメンです。女性ファンも多いのではとひそかに思っているところです。
にもかかわらず、久成には遁世の志向があったようです。その原因は何なのか、じつのところよくわかりません。とにかく園城寺(三井寺)の塔頭光浄院の住持となったのには、大きな心境の変化があったと思います。
また同じ留学生仲間の村橋直衛(寄合並)も遁世し、雲水となって客死したことともどこか共通するものがあるように感じます。

次回は大目付としての久成と東京国立博物館創設について書きたいと思います。

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【2012/09/17 17:05】 | さつま人国誌
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ばんない
ご無沙汰しております。
町田久成は個人的に興味があったので、3回の連載興味深く拝見しました。

さて、この記事について一つ質問。村橋久成を「村橋直衛」と書いてられますが、これは何故でしょうか。一般的には「久成」表記の方が有名なようですが。

閑話休題、村橋久成も気になる一人です。私の地元で死んだ人ですから。ネットで検索すると「神戸市郊外で倒れていた」と書いてあるものが多いですが、当時の神戸市葺合区は現在の神戸市中央区になりますので、そんな郊外ではないですね。ただ、具体的な場所になるとはっきりしていないようですが…。

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昨日、鹿児島から帰京。

14日に城山観光ホテルで講演会。日本福祉施設士会の九州ブロックからお招き。一般参加者も含めて多数おいでいただきました。

演題は「西郷隆盛と坂本龍馬」。
西郷や龍馬ゆかりの史跡について、鹿児島・奄美だけでなく京都や土佐の写真も含めてスライドショーも。
いわずもがなだったかもしれないが、「船中八策」や「世界の海援隊」はフィクションということも話した。

城山観光ホテルは近年何度も宿泊しているが、いまだかつて館内の展望温泉に入浴したことがない。もったいなくてトホホです。
翌朝の朝食で、初めて朝カレーを食す。最近いろんなホテルで朝カレーが出ているが、これまで食べたことがなかった。

ホテルに鹿児島の友人、Y口さんが迎えに来てくれ、同行してまた史跡取材。
彼は事前に取材予定地を調査してくれ、車両停車場所なども含めてロケハンしてくれる。また資料まで揃えてくれているから、とても有難い。
今回もメインの取材地になると思われた清水城の縄張り図、発掘調査報告書などもコピーしてくれていたので、とても助かった。
今回は残暑が厳しく、あちこち駆け回ったため、暑がりの私は汗みどろになった。
また昼前後は桜島の降灰に悩まされ、15:00頃からは台風の影響か、雨にも降られて晴れ男の異名も台無しになった(笑)。

今回、もっとも印象に残ったのは、日新斎・貴久以前の島津氏の居城だった清水城跡と、蒲生にある江戸時代後期の街道、掛橋坂である。
清水城は6代氏久から14代勝久までの約160年間、島津本宗家の居城だった。近年、にわかに脚光を浴び、城郭研究者の泰斗である村田修三氏や三木靖氏なども訪問調査されている。すでに石垣が存在していたことが知られていたが、密林の奥にあるため、そこまで行けるかどうか危ぶまれた。
すると最近、見学会があったらしく、登山ルートがきれいに伐採されていたので、難なく登れた。

しかし、前途に大きな敵がいた。伐採作業のときに山道に落とされたと見られるスズメバチの巣があり、ハチが群がっていた。
私は十数年前、関ヶ原の島津退き口踏破のとき、1度スズメバチに左くるぶしを刺されるという痛い体験をしたことがあり、2度目に刺されると、異常なアレルギー反応を起こし、下手をすれば死に至るケースもある。だから、スズメバチが出やすい夏場の山城歩きはなるたけ避けていたのだが……。
しかし、ここで引き下がっては、せっかくの清水城の石垣が見られない。意を決して山道の片隅をスズメバチを刺激しないよようにソロリと歩いて、何とか窮地を脱した。帰路も同様である。
写真はスズメバチの巣と清水城の石垣。
スズメバチ清水城石垣

石垣は高い所では3メートル以上はあると思われた。野面積みよりも精巧な石組みである。また隅が算木積みになっている箇所もあった。
あくまで門外漢の印象だが、戦国期よりも新しいのではと感じた。かといって、織豊期や近世にここに城郭が築かれたという話は知らない。
憶測だが、貴久が内城を造営するまでに一時的に入城したのか、あるいは内城が平地の屋形造りで防備が弱いため、その詰めの城として新たに普請されたのか。いずれにしても、今後の究明が待たれる。

もうひとつは、蒲生(現・姶良市)にある掛橋坂である。
これは近年、発見された江戸時代後期の古道。これまでほとんど知られていなかったそうだが、姶良市が整備したので、訪問しやすくなった。
大きな岩盤を開削した石畳の往還である。当時の技術では困難な掘削作業だったはずで、その苦労が偲ばれた。岩盤には石ノミの痕が残っており、明らかに人工的に開削されたことがわかる。
鹿児島の古道は、白銀坂や龍門寺坂が有名だが、掛橋坂は今後、大きな注目を浴びるだろう。
掛橋坂道標掛橋坂石ノミ

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今回訪問した史跡は以下のとおり。
よく1日で回れたと思うが、これでも、いつもより少ないかもしれない。

ザビエル上陸地(祇園洲公園)
石橋公園(西田橋など)
稲荷川河口
西南戦争官軍兵士墓地
祇園洲砲台跡
薩英戦争記念碑
島津重冨荘
琉球人松
多賀山公園
肝付兼重奮戦の碑
東郷平八郎遺髪墓・銅像
東福寺城跡
春日神社(薩藩水軍軍港跡)
森有礼生誕地石碑
伊東祐亨生誕地石碑
大乗院橋(再建)
今和泉島津家下屋敷跡
桐野利秋邸宅跡(明治期)
島津氏五代墓(本立寺跡)
鶴嶺高等女学校校舎跡
稲荷神社
泗川新寨戦三勇士之碑
大乗院磨崖梵字
清水城跡(石垣・櫓台など)
桐野利秋生誕地
別府晋介生誕地
名越左源太屋敷跡
矢上城跡(南北朝期の矢上高純居城)
桂庵玄樹の墓
川田神社
川田家歴代墓(川田義朗など)
川田城跡
丹後局腰掛石
花尾神社
丹後局の墓/僧永金の墓
丹後局荼毘所
後醍院宗重の墓
花尾かくれ念仏洞
西山宗知師の墓(一向宗僧侶)
都迫の念仏かくれ窟
桐野利秋の田廬跡碑(吉田開墾地)
掛橋坂
伝相良八代実長夫妻の墓

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【2012/09/16 11:23】 | 歴史紀行
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脱帽
ながお
桐野様

こんにちは。
先月帰省の折、1日だけ鹿児島市に行きましたが、回れたのは、南洲墓地、同顕彰館、石橋公園などほんの数箇所でした。プロのお仕事だし、事前準備があればこんなに回れるのですね。脱帽で~す(笑)。
石橋公園よかったです。
                

こんばんは
桐野作人
ながおさん

あれだけ回るには、やはり事前準備が必要ですね。また私の独力だけではとても無理です。
今回も鹿児島の友人に協力してもらいました。

花尾神社
木脇moひろみ
明けましておめでとうございます。
本年も桐野さんのご健康とご活躍をお祈りします。

さて、昨秋に「花尾神社」に行かれたそうですが、ここには、戦国時代の木脇祐秀の享保時代の子孫・木脇祐盛が留守居役をしていた頃のミッションで京都で制作た扁額が現存しており(宮司様に確認済み)、現物を確認しに行きたく思っている場所です。
また、今年は薩英戦争から150年。色々な史料が表に出てくることを楽しみにしています。

本年もどうぞ、宜しくお願いします。

花尾神社
桐野
木脇moひろみさん

明けましておめでとうございます。
本年もよろしく。

花尾神社、昨秋行きました。
ただ、境内散策と本殿外観を見学しただけで、扁額は拝見しておりません。
知っていたら、ぜひ見たかったですね。

史料を見ていると、時折、幕末の木脇啓四郎の記事を見ます。
最近では、『斉彬公史料一』478頁に「御茶道職木脇藤渕(後啓四郎)」云々と茶釜の模製を作っているような記事がありました。
小松帯刀の書簡にも登場しますね。
あと、戦国関係では、島津義久の側室?か女房衆と思われる小侍従という人が木脇祐光の室になったという記事もありましたが、この人は祐秀の親戚でしょうか?

取り急ぎご挨拶まで。

桐野作人




木脇祐秀と木脇祐光は別支流
木脇moひろみ
桐野作人様

質問へのご回答が遅くなりすみません。

■戦国の「木脇祐秀」と「木脇祐光」の関係
関係姓を示す史料には未だ出会っておりません。
便宜上、木脇姓を「祐秀系」と「唐湊系」と呼んでいます。
・「木脇祐光」の流れは「唐湊の木脇」。
・幕末の「木脇啓四郎」は「唐湊系の分家」です。
(この2つの系統から遡る支流も存在有り)
※「唐湊系」については、丹羽謙治先生の『薩摩藩文化官僚の幕末・明治 木脇啓四郎「萬留」』に翻刻された系図が掲載されています。

■誤解しやすい天正時代2つの「木脇祐昌」
ここで、誤解されやすい戦国時代「木脇祐昌」についてご紹介させてください。
次の①と②は「別人」です。
系統も異なります。

①木脇祐秀系の木脇祐昌
・木脇刑部左衛門祐秀の父「木脇刑部左衛門祐昌」は肥後八代「花山城主」(地頭)。
・天正13年8月10日、甲斐宗運二男に攻め入られ討死。

②唐湊の木脇系の木脇祐昌
・天正13年5月5日生まれ。「木脇源次、後に伊東二右衛門」。
・幕末・木脇啓四郎はこの唐湊系の分家。

以上、ご回答させていただきました。

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明日、明後日と帰郷です。

鹿児島市での講演会のためです。

史跡見学もする予定。

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【2012/09/13 17:28】 | イベント
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BS歴史館
ばんない
こんばんは。

講演会とは離れるネタになりますが、本日(既に昨日になってますが)放送の「BS歴史館」拝見させて頂きました。三成が西軍諸将について愚痴っているのは存じていましたが、あれが現存する最後の三成の書状だったんですね。

鹿児島での史跡巡りのご報告、楽しみに待ってます。

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本日は新聞休刊日のため、「さつま人国誌」はお休みです。

次回は17日(月)掲載です。
よろしくお願いします。

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【2012/09/10 08:22】 | さつま人国誌
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小学館アカデミー「てらこや」特別講座「保古飛呂比を読む」が、10月から新しく始まりますが、それに伴い、体験講座を実施します。
体験講座は1回きりで、当講座の雰囲気を味わっていただくものです。リーズナブルな受講料(1.000円程度)で誰でも受講できます。

それで、今回は大久保利通書簡を読みたいと考えています。
慶応2年(1866)の薩長同盟から翌3年の王政復古政変までの時期で、大久保の代表的な書簡、面白い書簡を関連史料ととともに読み解きます。
関心のある方は受講してみませんか。

日時:9月18日(火)19:00~20:30
会場:千代田区立日比谷図書文化館4Fセミナールーム
演題:大久保利通書簡を読む
アクセス:同館サイトのここをご覧下さい。
問い合わせ・申し込み:ここをご覧下さい。

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【2012/09/06 22:38】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第249回
―「古来よりの国風」貫く―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は生麦事件の3回目、最終回です。
主に、久光主従とイギリス側の動きを中心にまとめました。
惜しむらくは、紙数の関係で、もう一方の当事者である幕府側、神奈川奉行所の動きを書けなかったことです。

若干補足しておきますと、当時の神奈川奉行所のトップは阿部越前守正外です。旗本(高3000石)でしたが、のちに陸奥白河藩10万石の阿部家を継いで大名となり、老中まで上りつめる人物です。
阿部は事件発生を知るや、外交上の一大事だと考え、事態解決のため、久光主従が宿泊する保土ヶ谷宿に使者を送り、しばらく同宿に滞在するよう要請します。しかし、薩摩藩側は英国から抗議があれば、我が藩が対応するので、幕府に対して累を及ぼすことはないとして拒絶します。つまり、薩摩藩は幕府の頭越しに英国と直接交渉するというわけですから、幕府の国家主権を否定したに等しいわけです。

阿部は怒って、非常手段に出ます。まず小田原藩に命じて箱根関所を閉鎖し、久光主従の行列が西上できないようにしたいと幕府に上申書を提出します。
幕府はその頃、朝廷対策で頭を痛めており、薩摩藩の協力を不可欠にしていたので、阿部の強硬措置は久光の機嫌を損ね薩摩藩の態度を硬化させると考え、阿部の越権行為だとして譴責処分にします。
そのため、久光主従は難なく箱根関所を越えて帰京することになります。

阿部の箱根関所封鎖はもともと神奈川奉行の管轄外ですから無理だったと思いますが、幕府も京都政局とのからみで、薩摩藩に対して強い態度に出られませんでした。
翌年、薩英戦争になり、薩摩藩は大きな痛手を被りますが、和平交渉で薩摩藩は英国と直接交渉することになり、その対外的な地位を高め、諸外国への認知度をも高めました。

阿部は事件の翌月、外国奉行に転じます。譴責処分を受けた割には栄転ではないかと思います。
阿部といえば、慶応元年(1865)、老中として数千の幕兵を率いて、朝廷を圧迫し京都政局を一挙に転換しようとした行動が有名です。また兵庫開港を無勅許で強行しようとして、朝廷から譴責・罷免され、一時、将軍家茂が辞職を口にする事態となったことでも知られます。
盛時のような幕府権力の行使を当然と考える正統的な幕臣・譜代大名だったといってよい人物です。

次週10日は新聞休刊日で休載です。
17日になりますが、町田久成を取り上げたいと思っています。9月15日(旧暦)が町田の祥月命日ですので、それにちなんだ企画です。

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【2012/09/03 17:55】 | さつま人国誌
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講演の最終案内です。

9月14日13:45から鹿児島市の城山観光ホテルで表題の講演会あります。
主催は鹿児島県福祉施設士会。

演題「西郷隆盛と坂本龍馬」


原則、会員さん対象ですが、一般参加者も先着100名まで参加可能です。
参加料500円、まだ参加枠残っているそうです。
応募方法は往復ハガキです。
関心のある方は下記をご覧下さい。
記事をクリックすれば拡大できます。

西郷隆盛と坂本龍馬

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【2012/09/02 09:47】 | イベント
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