歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第258回
―土佐藩視察団の同行絵師―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は河田小龍です。
ジョン万次郎の経験を聞き取った『漂巽紀略』を著した人物。
若い頃の龍馬とも交流があった人です。

彼が土佐藩視察団とともに薩摩に来たのは前から承知していましたが、薩摩側にどの程度の史料が残っているか調べたら、ときの藩主島津斉彬が江戸在府中とあって、あまり残っていませんでした。
管見の範囲では、斉彬付きの側用人竪山利武の公用日記にわずかに残るだけです。家老の新納久仰の日記にも記載がないような。

土佐藩側の史料をすべてあたったわけではないですが、小龍が薩摩で描いた絵図などは山内家などに現存していないのでしょうかね? もしあればすごいですが……。

川田維鶴撰『漂巽紀略 付 研究河田小龍とその時代』(高知市民図書館、1986年)は大変参考になりましたが、誤解や不明点もちらほら。
たとえば、土佐藩視察団一行が島津斉彬に歓待されたとあるけど、斉彬はおそらく江戸にいると思われる。
また、中村半次郎と別府晋介が付き人として面倒を見てくれたとあるけど、本当なのだろうか?
嘉永7年(1854)時点で、半次郎は18歳、晋介に至ってはわずか8歳なんだけど……。

次回は川田小龍つながりで、ジョン万と薩摩の関係でも書くか。

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【2012/11/26 17:44】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第257回
―徳川家康の命で短期間―

昨日、連載が更新になりました。
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今年2月、大隅半島を取材したとき、思い立って桜島一周をしました。
降灰が凄さまじく、前を行く車が道路の降灰を巻き上げて、著しく視界が悪くなるほどでした。

桜島東岸の黒神にある大正大噴火で埋もれた鳥居や、林芙美子の記念碑など定番の史跡を見学しましたが、とくに西岸の藤野町にある島津義弘蟄居跡を訪問できたのは大きな収穫でした。
道がよくわからず、付近の人に尋ねようにも、降灰のため人が戸外にほとんど出ておらず、商店で道を尋ねました。そしたら、そこからすぐ近くでした。

『島津国史』などには、義弘が関ヶ原敗戦の責任をとって潔く自発的に桜島に蟄居したように記されています。
しかし、以前から、和平周旋に乗り出した井伊直政が島津方に義弘の遠島で穏便に解決したい旨を伝えていたことを知っていたので、少なくとも義弘の自発的な行動ではないだろうと思っていました。
タイトルは「蟄居」と書きましたが、実態は「流謫」「流罪」とすべきかもしれません。
また『樺山紹釼自記』には、義久が義弘を「生害」させることで、戦後処理を決着させる意向を示していたことが書かれています。

また蟄居期間については、『島津国史』の説がほぼ正しいと思われます。
4月初旬から6月初旬までの2カ月有余だと思います。
7月になると、義弘が活発に活動し、書状の数が急に増え出すこともそれを裏付けているように思われます。

紙数の関係で書き切れませんでしたが、義弘の「蟄居」により、島津と徳川の和睦交渉の前提がととのったといえるのではないか、同時に、義弘赦免の方針も内定したと思われます。

次回は2つ候補があり、どちらにするか迷っています。

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【2012/11/20 22:00】 | さつま人国誌
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山口孝志穂
いいねぇ~

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先日、『織豊期研究』14号が届いた。

そのなかで気になった論文がひとつ。関ヶ原合戦の少し前の宇喜多騒動についてのもの。

石畑匡基氏「宇喜多騒動の再検討―『鹿苑日録』慶長五年正月八日条の解釈をめぐって―」

宇喜多騒動とは、宇喜多秀家と宿老衆が対立し、一時は宿老衆が屋敷に立てこもるなど一触即発になった事件です。その原因のひとつとなったのが、秀家の寵臣中村次郎兵衛の存在。
相国寺鹿苑院の日記『鹿苑日録』に、慶長5年(1600)1月5日、中村次郎兵衛が「相果てた」という記事があります。
その記事の解釈が難しいらしく、筆者の石畑氏によれば、朝尾直弘氏以来、新旧の研究者がさまざまに解釈しているそうですが、一致を見るに至っていないと石畑氏はいいます。念のため、当該条をあげておきます。

「中村次郎兵衛去五日夜相果ト云々、此故ハ此比備前中納言殿長男衆ヲ背テ恣之故ト云々、主者牢人也、定而中納言殿以前不苦之間、形少(大谷吉継)エ可出ト云々、備前ニハ不白與了松下人一両人[シテ]留守ヲスルト云云。上下七十人ホト之者共。一時ニ聴此事分散。絶言語。(後略)」

最初に断っておきますが、私は宇喜多騒動については門外漢です。
多くの研究者が上記の解釈に苦労されているようですが、どれもストンと腑に落ちてきません。それというのも、下記に示したような語句解釈に違和感がつきまとっているせいかも。

上記で私が語句で気になったのは2カ所。

1.「相果」(相果つる)。
2.「主者牢人也」(主は牢人なり)。

1.については、たしかに死亡するという意味もありますが、「身上相果つ」というように、地位・勢力や財産などすべて失うという意味もあります。
大西泰正氏によれば、中村次郎兵衛は殺害されず存命で、秀家夫人豪姫の実家の加賀前田家に引き取られ、その後は前田家家臣になっているそうです。だから、死亡記事だとすると、記主の誤伝だということになります。
ところが、石畑氏が明らかにされたように、上記引用中に登場する「不白」なる人物は相国寺の関係者(僧侶の可能性大)だと推定される。しかも、宇喜多家の大坂・備前島屋敷に出入りしていることから、宇喜多家中と何らかのつながりがあると考えられます。
そうであれば、不白からもたらされた情報を記したと思われる上記引用は雑説や噂ではなく、中村の生存を知っている家中からの確度の高い情報と思われます。
つまり、中村次郎兵衛の「相果」は死亡ではなく、地位や勢力を失う意味であり、この場合、進退に窮した中村が出奔もしくは逐電したと解することもできるのでは。

2.について。
この一節の「主」の人物比定について、ほとんどすべての研究者の理解は秀家と対立した旧臣衆だとし、彼らが中村次郎兵衛を襲撃して殺害したという解釈で一致しているようです。
しかし、先ほどみたように、中村は存命しています。この一節を解釈した方々は中村が殺害されたという前提を念頭に置いておられるから、「主」を一方の当事者である旧臣衆に比定しているのではないかと考えられます。
「主」には事の当人という意味があり、この場合、記事の前後関係から、もう一方の当事者で「相果てた」けど存命している中村次郎兵衛を指すとも考えられます。
つまり、当の本人である中村次郎兵衛は家中対立の結果、出奔して牢人となったという解釈です。
この「牢人」を旧臣衆だとすると、細かい点ですが、「牢人」という単数形ではなく「牢人衆」とか「牢人者共」といった複数形で記すのではないでしょうか。
また、旧臣衆である「牢人」が大谷吉継に庇護されているという解釈も、この事件の裁定での大谷の立場・態度からするとおかしいのでは。大谷は秀家=中村ラインを支持していたようですから、自分の意に沿わない旧臣衆を庇護するとは考えにくいのではないでしょうか。

以上、自己流で解釈してみましたが、全体の大意としては、

「中村次郎兵衛が5日夜出奔したという。その理由は、近年宇喜多秀家の宿老衆に背いて恣意の政治を行ったからだという。中村は牢人になった。おそらく秀家が以前心やすく思っていた大谷吉継の所に出頭したのではという。備前島(にある中村の屋敷か)には不白と了松、それに下人が2,3人留守しているだけだという。上下70人ほどの中村の家人や奉公人はこのこと(中村の出奔)を聞くと、たちまち退散してしまった。言葉にもならない」


なお、以下は余談です。
「主」の解釈について、私も以前悩ましかった経験があります。
「主」はこの場合、「ぬし」と読んだほうがいいと思いますが、主人という意味のほかに、事の当人という意味があります。以前、この「主」が含まれる一節をそのように解釈した人がいて、目からウロコだった記憶があります。
それは、羽柴秀吉が小牧長久手合戦の最中、五位少将に叙任したことを記した『多聞院日記』天正12年10月16日条。非常に有名な一節です。

「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」

今度、秀吉は天皇の思し召しにより、四位大将に任じて将軍も兼ねよという勅定があったけれども、「主」の望みで五位少将に任ぜられたという大意です。
ここにも「主」が出てきて、これを主人の意味に解すると天皇になります。天皇は秀吉を四位大将兼将軍にしたい意向だと前段にあるのに、なぜか天皇の望みで五位少将になったというわけのわからないことになります。
ところが、この「主」を事の当人、つまり官位を与えられる秀吉本人だと解釈すると、天皇の過分な官位授与に対して、秀吉がそれを断り、秀吉の望みで五位少将になったと、まことにうまい具合になります。

宇喜多騒動での「主」も事の当人=中村と解釈したほうが、うまく当該個所を解きほぐせるのではないかと感じた次第。

門外漢の妄言かもしれませんが。

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【2012/11/09 18:44】 | 戦国織豊
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千代田では
みなみ
特別講義ありがとうございました。
石畑さんは様々な大名家を意欲的に分析されてますね。
23日大門さんが江戸城廻り見学の募集をしてますので御案内しておきます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第256回
―子女と辛苦を共にする―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、御屋地の後編です。
御屋地と子どもたちについて書きました。
嫡男久賀が露梁海戦で額に矢傷を受けるという重傷を負いながら、義弘の手当で事なきを得ました。
この戦いで、義弘みずから家来たちの手当をしたというのはほかにも事例がありますね。
一番有名なのは、「薩摩の今弁慶」と呼ばれた猛者、木脇休作(諱は祐秀)でしょう。
彼も露梁海戦で、まるで義経の八艘飛びのように船から船を飛び移って戦っていたとき、敵の矢を受けて海に落ち、沈みそうになるところを助けられ、義弘の膝枕で手当されたことを生涯の御恩と肝に銘じ、義弘が他界したとき、殉死しています。その殉死のしかたもすごいです。拙著『さつま人国誌』戦国・近世編をご参照下さい。

もう一人、久松松平家に嫁いだ御屋地の二女ですが、婚家で苦労したようです。
そのせいか、若くして他界しています。
彼女について、母御屋地が弟で藩主家久に所領を与えるよう訴えているのは、この時期の女性の社会的地位を考えるうえでは興味深い史料です。
この訴状は、頴娃久政・渋谷重将に宛てられています。両人は島津家久の側近ですが、末尾に披露を願いたいと書かれているので、事実上、家久宛てです。

そのなかには、ときの中央政権の人質になった島津家の女性たちがその褒賞として知行地を得ている先例が書かれています。
まず、有名な亀寿は1万石(しかも無役)を得ています。
また、御屋地の妹千鶴(御下)も江戸へ人質をなり、3000石(無役)を与えられています。

同様に、徳川家への人質となった自分の娘にも、知行を与えてほしいというのが御屋地の主張です。
この二女は千鶴の帰国と入れ替わりに、藩主家久の養女として上京し、久松松平家に嫁いでいます。事実上、島津と徳川の縁組ですから、その二女にしかるべき褒賞があってもおかしくないという御屋地の主張も妥当です。

ただ、私の不勉強で文意がよくわからない点があります。
この御屋地の訴状は二女の死後に書かれたものです。
文中にある「宝寿院殿」というのが二女の院号だと思われます。これも不勉強で確認できていません(汗)。
この「宝寿院殿」を二女に比定したのは、文中別の箇所に「宝寿院殿養子に申すべきの由、黄門様(家久)より御意にて候」とあるからです。家久が御屋地二女を養子(養女)にしたのは、久松松平家の家譜でも確認できます。
ただ、リンク先のばんないさんの「戦国島津女系図」によれば、彼女の院号は「長寿院」のようで、少し違います。「長寿院」は久松松平家での法名で、豊州島津家では別に供養して別の法名を付けたと考えるべきか? さて、だれに比定すべきか?

問題は、御屋地の訴えの結末がどうなったのかという点。これも時間不足で追跡調査してません。
もうひとつは、すでに他界した二女に知行を与えるといっても、その名跡は誰が継いでいるのかという点です。松平定行との間に生まれた子どもに与えるとなれば、他家に与えることになるわけですね。
それは少し筋違いですから、御屋地は二女の分は豊州島津家に与えられるべきだという主張でしょうか?

不勉強をさらけだしていますが、近世島津家の子女のことはなかなか難しいですね。

次回は何を取り上げるか未定です。

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【2012/11/06 10:49】 | さつま人国誌
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宝寿院
ばんない
こんばんは。後編でも拙HPをご紹介下さり、誠にありがとうございます(汗)
疑問点について、いくつかご参考になれば(既に非公開コメントがあり、その中に書かれていることと重複するかと思いますが、お許し下さい)。

「宝寿院」が誰か?と言うことについてですが、これは島津家久(忠恒)の四男・島津忠広のことです。理由が不明なのですが、当初出家して島津御屋地の養子とされています(参考史料 「薩藩旧記雑録後編」4-1709,1710など)。寛永9年に「含 命為役小角徒、号慶忠坊」と書かれているところから見ると、父・家久の命で山伏になったと思われます。
ところが、家久の死後、異母兄・光久の命で還俗、後に家老となります。更に延宝5年に光久の命で御屋地(この時既に故人)との養子縁組を解消させられ、その翌年に家老を辞任、元禄16年に死去したという人物です。
個人的に気になっている人の一人で、少しだけ考察したことがあります(拙HP「加治木島津家」の項)

故・島津朝久次女(松平定行先室)の政略結婚への褒賞として、御屋地が要求した領地の行く末ですが、「薩藩旧記雑録後編」4-1860に書かれた島津御屋地発頴娃長左衛門、渋谷四郎左衛門宛書状に
 右先例有之儀候間、宝寿院殿江も知行御給候様ニ申度候、(以下略)
とあるところから見て、島津忠広の領地になったのでないかと思われます。ただ、「旧記雑録後編」5-532で「御屋地の領地について息子・久賀の石高に加える」と言う記述が見えますので、当初は御屋地領になった可能性も考えられます。
なお、上の引用では入力が面倒なので略してしまったのですが、続きには「これは私の領地を要求してるわけじゃないからね!」という意味合いのことが書かれているのが面白いです。

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