歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
講座の案内2件です。

古文書塾「てらこや」特別講座「大久保利通の手紙を読む」の第2期が4月16日から始まります。
それに先立ち、関心をお持ちの方を対象に体験講座を4月2日に開催します。

日時:4月2日(火)19:00~20:30
会場:千代田区立日比谷図書文化館4Fセミナールーム
   アクセス地図はここ。  
受講料:1000円

「てらこや」や講座内容はここです。

もうひとつ。
武蔵野大学生涯学習講座「信長公記を読む」が新年度、4月19日(金)から始まります。
今期は天正3~4年で、長篠合戦を3回に分けて論じます。ほかに越前国掟、安土築城などです。
信長好きや戦国ファンの方々の受講をお待ちしています。
詳しくはここです。

↓↓↓ぜひ下記をクリックして下さい↓↓↓
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2013/03/28 20:58】 | 武蔵野大学社会連携センター
トラックバック(0) |

4月2日【てらこや】参加します
木脇moひろみ
桐野さん
ご無沙汰をしております。
明日4/2都合がつき「てらこや」体験講座に申し込みました。予てより西郷隆盛や小松帯刀が京都から薩摩にいる大久保利通宛ての書簡の翻刻を読み繕い調べていることがあります。
ご講義楽しみにしております。

御礼
桐野
木脇moひろみさん

ご無沙汰しています。
明日の体験講座、受講されるそうで有難うございます。
何とか無事つとめたいと思います。

コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第272回
―「国賊」の悪名着せられる―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

多忙ゆえ長い間更新できずに申し訳ありません。

先週分の第271回「筆頭老中・伊集院幸侃の上意討ち」(中)も併せてご覧下さい。

↓↓↓ぜひ下記をクリックして下さいね↓↓↓
人気ブログランキング

【2013/03/26 15:46】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


ばんない
こんばんは。
「島津久章の東目送り」の件が調べられてません(爆)どうにかせねばとは思ってるのですが…。

>それでも、義弘は事件後、忠恒を擁護する一方、幸侃の遺族に同情している様子もない
私もいろんな史料を見て、これは変と感じていました。娘の婚家はどうでもよいと思っていたのか。しかも幸侃はかつての盟友なのに。
なお、御下は伊集院忠真との間に娘を生みますが、その娘の生年を逆算すると、どうも御下は忠真と共に都城に籠城していたことになります。御下のことは心配じゃなかったのでしょうか?

>それに加えて、立花宗茂、寺沢正成、相良頼房など九州の諸大名が義弘、忠恒父子に起請文きしょうもんを提出して忠恒を擁護した。高雄に謹慎していた忠恒を迎えに行ったのも寺沢、立花、小西行長の三大名だった(「種子島家譜四」五六号)。
これも興味深いですね。九州の諸大名は島津氏が九州の盟主の一つであると認めたようにも見えます。

コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第270回
―伏見屋敷の茶室で斬殺―

先週月曜日の更新が遅れたため、こちらでの告知も遅くなりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

伊集院幸侃が島津忠恒(のち家久)に伏見で斬殺されたことは有名です。
この事件の背景や原因は何なのかを考察しようというものです。

今回は、事件が起きた場所にこだわってみました。
記事にも書いたように、現在、伏見には「島津」を冠した地名が2カ所残っています。
ここに島津家の屋敷があった可能性は高いとは思うのですが、島津家も本家と佐土原家があります。後者は豊臣時代は豊久の佐土原家、江戸時代は島津以久の佐土原藩ですから問題は複雑です。

日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』(文理閣、2001年)には、各種の伏見城下図が収録されていて、城に近い桃山町島津が「島津右馬頭」とあり、佐土原家の島津以久、西に離れた新高瀬川沿いの島津町に「島津兵庫頭」「島津兵庫」とあるのは本家の島津義弘を示しているように見えます。

しかし、中村武生さんにお尋ねしたところ、その典拠はあいまいで、じつのところ、本家、両佐土原家とも屋敷の位置を特定するのは難しいとのお答えでした。

実際、確実な史料(曽木文書)によれば、島津本家は伏見に「上之御屋形」と「下之御屋形」、つまり上屋敷と下屋敷を2つもっていたことがわかりますが、現存する地名にそれに重ねることは難しそうです。
中村さんによれば、豊臣期の国持大名クラスは上下の屋敷をもっている事例が多く、上は城の近く、下は郊外という傾向があるそうです。

となると、新高瀬川沿いの島津町は「下之御屋形」になるのかどうか?
ある城下図によると、島津町の島津屋敷は新高瀬川によって東西に分断される形で掲載されています。これが上下の屋敷にあたるのかとも考えましたが、根拠のない憶測にすぎません。

伏見城下の大名屋敷でいちばん確実な史料とされるのが、寛永2年(1625)の「山城国伏見堀内御検地帳」だそうです。
そのなかには「嶋津右馬屋敷」と「嶋津屋敷」が掲載されており、前者が佐土原藩、後者が島津本家でしょう。でも、これは徳川期における伏見城下の終末の状況を示しているだけで、豊臣期のものではありません。

というわけで、結論としては、島津本家の上下の屋敷がどこにあるのか特定できないことになります。
中村さんの下屋敷は郊外にある傾向があるというご指摘を重視すれば、島津町が「下之御屋形」である可能性があると、とりあえず推定してみました。もちろん断定ではありません。
記事では、島津町の町会掲示板の写真を載せました。あのあたり、住所表示でも島津町を見つけられなかったための苦肉の策でした。
あの付近の景観がわかる写真を載せておきます。
新高瀬川の対岸(左岸)にあった日本酒の蔵元(松本酒造)の建物です。
写真のあたりである同川の対岸も「嶋津兵庫」屋敷だとしている城下図があります。
島津屋敷

各種城下図のなかで、「嶋津右馬頭」屋敷とされる桃山町島津ですが、わずか3万石足らずの小大名にしては、城の近くで敷地が広すぎるという点も気になっています。ここは本来、豊臣期の島津本家の屋敷(上之御屋形)だったけれども、関ヶ原合戦後、徳川権力に接収されてしまい、改めて佐土原家に与えられた可能性はないのかなとも考えているところです。

あと、島津忠恒が謹慎したとされる「高尾」もしくは「高尾之長谷寺」ですが、これは高雄の神護寺で間違いないのではないかと思っています。神護寺でもさらに子院が特定できそうです。
ただ、なぜ長谷寺といわれるのかよくわかりません。

次回は当初3月11日掲載予定でしたが、大震災の2周年ということもあり、特集記事が組まれることになったため、1週間延期となり、18日掲載です。
幸侃が斬殺されるに至った要因を探ります。

↓↓↓ぜひ下記をクリックして下さいね↓↓↓
人気ブログランキング

【2013/03/09 09:49】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |

高尾之長谷寺
ばんない
こんにちは。

実は私も以前に島津忠恒が勝手に謹慎に行ったという高雄の寺について考察したことがあるのですが、「庄内陣記」などでは「神護寺」としていますが、その頃神護寺は戦国時代の戦乱に巻き込まれて荒廃していたらしく、疑問を呈したことがあります。
別の寺名を書いていた史料も見つけていたのですが、その後その史料名を失念、気になっていたのですが…今回の桐野さんのコラムで再度確認することが出来ました。ありがとうございました。

伏見の辺りは大名屋敷っぽい地名が多いですが、あんまり当てにならないようですな…残念。
後、京都は他地域に比べてあの紺地の住居表示板が少ない場所かも知れないですね。

>松本酒造
この写真見ると鬼平犯科帳を思い出します(汗)



神護寺
桐野
ばんないさん

忠恒の蟄居先が「高尾」と書かれて神護寺の名前が出てこないのは、ご指摘のように同寺が衰退していたようですね。

ただ、その子院はいくつか健在だったようで、義弘などと連絡をとっています。とくに伊集院幸侃の妻女の動向を伝えるなどしていることから、おそらく忠恒はそこにいたのでしょう。普賢院あたりだと思います。

コメントを閉じる▲