歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第275回
―夫失い、家督争い渦中に―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、島津義久の二女・新城について書きました。
これまで義久の三姉妹のうち、長女於平と三女亀寿について書いたことはありましたが、二女新城についてはほとんど初めてだと思います。

昨秋、大隅半島に取材に行ったとき、垂水島津家やその分家の新城島津家の墓所を訪れることができました。
また、念願していた新城の墓がある浄珊寺跡に行くこともできました。
今回はこれらの成果を活かしたものです。

また以前から交流している新城島津家の末裔にあたる末川大史朗さんからいろいろご教示いただいたことも大変有難く、今回、少し紹介できました。

新城は「又四郎殿御袋」とか「鹿屋御袋」と呼ばれて尊敬を受けていました。
又四郎こと忠仍(のち信久)を生んだことが否応なく本宗家の家督争いに巻き込まれることになりました。
太守義久は孫の忠仍に、一時期は家督を譲ろうとしたともいわれ、それが無理でも義久の蔵入領6万石を譲ろうとしたともいわれています。

しかし、義久の死によってそれらは白紙となり、逆にライバルの忠恒(のち家久)の攻勢を受け、屈伏を余儀なくされます。

忠恒は豊臣政権と徳川政権に家督継承者として承認されていましたから、忠仍がいかに血統上有利でも家督を継ぐのは困難だったのではないかと思います。

島津三姉妹は、みな夫に先立たれたり、悲惨な憂き目に遭っている点では共通しています。

今秋の鹿児島宝山ホールでの講演では「戦国島津三姉妹」について講演する予定です。

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【2013/04/23 21:16】 | さつま人国誌
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末川
拙宅の創立者を取り上げ、その上私の名前まで載せて頂き有り難うございました。

市教委に削除を申し入れしているのですが、垂水家墓地の方では説明板にいまだに「おたま」が健在です。墓守養子の悲哀を感じていますが、今回の記事を機会に削除してくれたらと願っています。

先月は初代久章のご供養を清泉寺跡の墓前で、鎮国寺のご住職と執事の方にして頂きました。久章が出家しようとした時に、高野山でよくよまれたお経でして頂きました。執事の方は高野山の恵光院でも執事をされていて、先日は新城の方にも来て頂きました。

先生の今秋の講演会を楽しみにしております。

こちらこそ
桐野
末川さま

ご無沙汰しております。

遅ればせながら、新城さんの記事が書けました。ほんとは上下に分けてもっと書いてもよかったかもしれませんが、時間など制約多くて残念でした。

またいろいろご教示いただき有難うございました。そのうちの一部だけでも記事に反映させていただきました。

今秋の宝山ホール講演は9月28日(土)の予定です。今度はお会いできればと思います。

桐野

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新聞休刊日のため、本日は休載です。
次週をお楽しみに。

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【2013/04/15 00:56】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第274回
―2人の夫との悲劇と苦労―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

伊集院幸侃の惨殺事件→庄内の乱→伊集院忠真の暗殺と族滅と続き、締めは忠実夫人の御下の生涯を追いました。

御下は義弘の末娘です。そのせいか、幸侃が嫡男忠真を島津本宗家の家督に据えようとしたという説まで拵えられたほどです(まず捏造です)。

御下はそれくらい重要な女性だったといえましょう。

しかし、御下本人にしてみれば、舅を兄に殺され、庄内に攻めてきたのは兄、命令したのは伯父という具合で、骨肉相食む修羅場に巻き込まれてしまったわけです。
さらに、夫は兄の密命で殺害され、姑はじめ義弟たちもみな殺害されてしまいました。
最後に残ったのが御下と一女千鶴だったというわけです。

しかも、千鶴が嫁ぐと、今度は御下に再婚話が盛り上がりました。
宮之城家の島津久元です。ただの再婚ならまだしも、久元は先妻を兄家久に離婚させられた形での再婚ですから、寝覚めがよいはずもありません。

一子久近が15歳の若さで急死したとき、久元の先妻の祟りだという噂が流れたというのですから、御下の宮之城家での居心地の悪さも知れるというものです。
幸い、久近が佐志島津家を継いでいましたから、御下も佐志に移り、そこで生涯を終えたのはまだしもかもしれません。

この祟りの一件など、当ブログのリンク先であるHP「戦国島津女系図」(運営者:ばんないさん)から教わることが多かったです。この場を借りて御礼申し上げます。

次回は未定です。

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【2013/04/08 20:21】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第273回
―家中での再浮上警戒か―

1日、連載が更新になりました。
告知が遅くなり、すみません。

同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、伏見での伊集院幸侃の斬殺をきっかけに、庄内の乱を引き起こした嫡男忠真の行動とその悲劇的な最期、さらに生母や弟など、族滅のありさまを書きました。

伊集院一族がいた4カ所で同日に刺客が差し向けられ、整然と実行されたというのが凄さまじいですね。
伊集院一族がそれだけ恨みを買っていたということでしょうか?

じつは、忠真が暗殺されたとき、そばにいた平田新四郎も巻き添えで殺害されています。
新四郎は島津義久の老中、平田増宗の嫡男でした。増宗が島津忠恒の家督相続を快く思わず、義久の孫忠仍(のち信久)を擁立しようとしていたのは周知の事実でしたら、忠真暗殺にかこつけて、新四郎まで暗殺し、増宗に打撃を与えようとした意図が見え隠れします。

いやまあ、二重三重の謀略計画ですね。

次回は、暗殺された忠真の夫人御下(島津義弘の末娘)についてかきました。
明日掲載予定です。

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【2013/04/07 14:39】 | さつま人国誌
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