歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
このところ、雑誌への掲載記事が多いので、まとめてご紹介しておきます。

1.隔月刊誌『歴史群像』6月号 学研パブリッシング
  【島津三州統一記】
  戦国薩摩軍団、九州制覇への第一歩
  詳しくはここ

2.『歴史読本』7月号 中経出版  
  特集・山本覚馬
  「覚馬に影響を与えた3人 佐久間象山、横井小楠、勝海舟」
  詳しくはここ

3.ムック『薩摩藩 精強無比の千年史』 晋遊舎 
 特別寄稿 「薩摩藩」とは、何だったのか?
 詳しくはここ

4.歴史人別冊「戦国武将の死」 KKベストセラーズ
  「斬首された武将たちの死に様 石田三成・長宗我部盛親」
 詳しくはここ
 
5.『一個人』7月号 KKベストセラーズ
 【四国地方の決戦】長宗我部元親の戦術の秘密
 詳しくはここ

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【2013/05/30 17:54】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第280回
―小松帯刀の臨終みとる―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は小松帯刀の主治医だったボードウィンを取り上げました。
以前、小松帯刀の視点から取り上げたこともありましたが、今回は上野公園の胸像を撮影したことから、改めて書いてみました。

小松が大久保一蔵に宛てた書簡のなかによくボードウィンの名前が登場します。
とくに、小松の最晩年、大阪でボードウィンの治療を受けていたときはよくその様子を書き送っています。

ボードウィンと小松はおそらく長崎で知り合ったのではないかと思います。
史料で確認できるのは慶応2年(1866)ですが、ボードウィンは文久2年(1862)に来崎してますから、それ以前から知り合いだった可能性はあります。

ボードウィンと薩摩の関係は管見の限り、小松帯刀との交流しか検出しえませんが、長崎に常駐していた薩摩藩の留守居役(汾陽次郎右衛門、市来六左衛門など)とか長崎に交易その他の職務でやってくる人々とも交流があった可能性が高いです。

ボードウィンはオランダ医学に基づく医学校を東京に設置することを念願しましたが、明治政府がドイツ医学を選択してしまったため頓挫しました。
これは同様に、東京から排除されたイギリス人医師ウィリアム・ウィリスと立場が近いことに気づかされます。

次回は未定です。

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【2013/05/27 22:33】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第279回
―獄中で「管見」を著す―

20日に連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

山本覚馬特集の最終回です。
覚馬が二本松の薩摩藩邸の獄中で口述筆記した「管見」について、ほんのさわりだけ書きました。
上田藩士・赤松小三郎の影響を受けていたのではないかと思います。
赤松は覚馬と親しかったらしく、会津藩の要請を受けて、薩摩藩側と接触、小松帯刀や西郷吉之助に薩会和睦を勧めたと、覚馬は書いています。

前も少し触れましたが、赤松はこの一件で会津寄りと見られ、さらに会津藩へ仕官予定でしたから、薩摩側から会津のスパイと見られた公算大です。
ちなみに、赤松を暗殺したのは中村半次郎たちです。

本当は、覚馬が二本松藩邸をどのように入手し、それが同志社の拠点をなったかを書く予定でしたが、紙数の関係で断念せざるをえませんでした。
もっとも、最近の研究でも、覚馬がなぜ二本松藩邸跡を入手できたのかは不明のようです。
入手には開拓会社という華族たちの団体が関与しているのはたしかなようですが、同社と覚馬の関係も不明とか。

次回は未定です。

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【2013/05/22 17:12】 | さつま人国誌
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今夜8時からのNHKBSプレミアム「BS歴史館」に少し出演します。

詳しくはここ

テーマは大名家の生き残り策(1)
「突破700年 島津家 退くことを知らず」

私は戦国パートでインタビュー出演。
島津の退き口などについて語ります。
ただ、1分足らずの登場じゃないかと思います(笑)。

なお、友人の町田明広さんは幕末パートを担当。
お由羅騒動や島津久光についてお話しされるのではと思います。

よかったらご覧になって下さい。

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【2013/05/16 09:36】 | 戦国島津
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こんにちは^^
マロンハット
BS歴史館、拝見しました^^
1分以上はありましたよねw
桐野先生が戦国島津の第一人者ということですな!
次回はぜひスタジオ解説者を希望します!

ありがとうございます
桐野
マロンハットさん、お久しぶりです。

番組観ていただいたのですね。
来月のヒストリア「篤姫」特集にも出演予定です。こちらもよろしく。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第278回
―逮捕場所の二説を検証―

13日に連載が更新されました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

山本覚馬の2回目です。
前回予告しましたように、覚馬が蹴上と大坂のどちらで捕虜になったのかの考証です。
その手がかりとしたのは、覚馬を逮捕したと思われる兵具方一番隊の小隊長だった川路正之進(のち大警視川路利良)の従軍記です。

川路の従軍記で注目すべきは次の2点です。

1.川路の部隊は慶応4年(1868)1月7日、鳥羽伏見の戦いで枚方まで進出したが、京都への撤収命令が出て、いったん京都に戻る。そして9日に再出動命令が出て大坂に向かう。
 覚馬が蹴上で捕虜になったのも9日である。そのとき、川路の部隊が蹴上を通過していてもおかしくない。

2.川路の部隊は資金・兵糧・人足などが不足していたため、旧幕方の捕虜9人を「夫卒」として使役していたこと。
 このなかに覚馬も含まれるかもしれない。
 『薩藩出現戦状二』にある兵具方一番隊の戦闘報告書には、同隊が大坂で20人の捕虜を留置していたとある。このなかに前述の9人が含まれているだろうし、「山元角馬」も含まれている。

以上から、川路の部隊が大坂に下る途中、蹴上で覚馬を捕虜にし、そのまま大坂に連行して留置していたのではないかという推定が成立する。
これにより、蹴上説と大坂説を整合的に解釈することは可能。

もっとも、蹴上という場所はやや微妙です。
というのは、蹴上を下ると大坂ではなく、山科に行きます。
この点が私の推定の弱点ですが、これについては、川路の部隊が京都のどこを宿所にしていたのかも不明なので何ともいえません。
個人的には岡崎藩邸に駐屯していたかもしれないと思っているところです。
また覚馬がなぜ鳥羽伏見の戦いから数日たってからも、京都の付近をうろうろしていたかですが、黒谷の残留部隊にいたのか、あるいは洋学塾に残っていたのでしょうかね。そのあたりもよくわかりません。

覚馬が捕虜になった場所にこだわるのは私くらいしかいないかもしれませんが、とりあえずの推定的結論を出したということで終わりにしたいと思います。

覚馬の一件はともかく、川路の従軍記はとても面白いです。
薩摩藩の戦い方の一端がよく表れています。近代的な戦闘方法と、いかにも薩摩隼人らしい戦い方が同居しています。
個人的に興味をもったのは、「はと」です。これは指笛のことで、味方同士の位置を確認したり、何らかの合図に使っていたようです。
また大坂城一番乗りが出来なくなった川路はとても悔しがり、江戸に乗り込むときは徳川慶喜の首を挙げると豪語しています。

次回は覚馬の(下)です。
有名な「管見」の考察をしたいと思っています。
「管見」のヒントはある人物の建白書と関係があるのではと思っていますが。

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【2013/05/14 08:12】 | 信長
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雑誌『歴史群像』6月号(5月8日発売)に表題の記事を書きました。

第一特集で、17頁もある長い記事です。

始祖忠久からの島津氏の興りから、三州統一となる高城合戦までを取り上げています。

詳しくは同誌サイトのここをご覧下さい。

続編も書く予定です。

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【2013/05/10 08:23】 | 戦国島津
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第277回
―失明、二本松藩邸に留置―

連載が6日に更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は旬な話題です。
NHK大河ドラマ「八重の桜」で、現在、事実上の主役といってよい山本覚馬と薩摩藩の関わりについて。
関わりといっても、慶応3年(1867)あたりからだと思います。

今回は、覚馬が政府軍の捕虜になったいきさつについて書きました。
薩摩側の一次史料に、覚馬が逮捕された場所として、大坂と蹴上の両説があります。
一応、蹴上説が妥当かなと思っていますが、大坂説も無視できません。

それで、急遽、次回はこの問題を少し詳しく考えてみることにしました。
当初、上・下2回を予定していたのですが、上中下の3回になります。

お楽しみに。

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【2013/05/09 22:04】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第276回
―島津斉興が隠居生活―

4月29日に連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、あまり知られていない話だと思います。
私も大井屋敷があったことは知っていましたが、現在のどのあたりになるのかまではチェックしていませんでした。
ところが、FBのお友達がたまたまJR大井町駅周辺で道に迷ったとき、大井屋敷跡の案内板が立っていたことを教えてくれたので、しばらくして実際に行ってみました。
関ヶ原公園という小さな公園にその案内板は立っていました。

それ以前に、大井屋敷に関する史料を『旧記雑録追録』からいくつか見つけていたので、今回はそれをもとに書きました。
まだその全貌がわかったわけではありません。

同屋敷跡の近くにある品川区立品川歴史館が2003年に「しながわの大名下屋敷」という展示会の図録を作成していますが、他藩の下屋敷の記事はあるものの、薩摩藩大井屋敷の記事はありません。

島津斉興が隠居になってから居住したとされますが、いつからいつまでなのか、長期滞在していたのか、別荘的に一時使っていただけなのかもよくわかりません。

今後の課題としたいと思います。

次回は大河ドラマ「八重の桜」で現在、事実上の主役である山本覚馬と薩摩藩との関わりについて書く予定です。

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【2013/05/02 16:36】 | さつま人国誌
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