歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第290回
―畳踊りで長州の度肝抜く―

26日に連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

最近ではだいぶ知られるようになった大久保一蔵の畳踊り。
長州側の史料に登場する幕末版「鴻門の会」の一幕。
真偽のほどは不明だが、事実だとすれば、大久保はこのような荒技をどのようにして身につけたのか?

なお、前回289回「旧幕臣・人見寧と薩摩」(下)も先週月曜に更新されていましたが、告知するのを忘れておりました。こちらもご覧下さい。

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【2013/08/28 20:38】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第288回
―元榎本軍幹部の来薩―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

このところ、他県人、他藩人の来薩記事がつづいていますが、今回は旧幕臣の人見寧、人見勝太郎のことを書きました。

箱館戦争で榎本軍の幹部の一人で、遊撃隊の隊長をつとめたことは知られています。
また伊庭八郎とは同志だったことも知られているかもしれません。

その人見がなぜか薩摩藩との縁が深いと知り、史料を集めて書いてみることにしました。
とくに本人の自伝的な記録『人見寧履歴』が基本史料です。
ただ、これは時系列というか、年月の誤りが多少あります。
単なる記憶違いだと思いますが、それを念頭に入れて補いながら読めば、なかなか面白い史料です。

人見がなぜ薩摩を訪れようと思ったのか?
薩摩側もなぜ大歓迎したのか?

戊辰・箱館の両戦争で敵味方だっただけに、その辺の事情がいまいちよくわかりません。
人見が会い、親交を結んだ薩摩人は、のちの西南戦争における西郷軍幹部がほとんどだという点あたりにヒントがあるかもしれません。軍人同士の親近感といってよいでしょうか。

もっとも、人見は大久保利通の世話にもなっているあたりが面白いです。
この話は次回に書きます。

また記事でも少し書きましたが、江戸開城直前、人見が山岡鉄舟らの使者として戸塚で村田新八と会見したというのは、和平交渉と関わるものだったかのかどうか? その真偽も含めて検討すべきかもしれません。もし事実なら、和平交渉はもっと複雑だった可能性があるのと、鉄舟は勝海舟とは別の考え、別の動きをしていた可能性もあります。

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【2013/08/05 23:29】 | さつま人国誌
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宮崎市高岡町 坂本龍馬宿泊の地
ベベウ
桐野先生
間違えてメールフォームのほうに送信してしまいました。
破棄してください。申し訳ありません。

もう一度こちらに同じ内容を書かせてください。


幕末のことに興味がわき、先生のブログを拝見させていただいております。

私は鹿児島在住なのですが、先日、宮崎市高岡町の「坂本龍馬宿泊の地」という石碑があると聞き、見に行ってきました。

高岡の街中にある石碑の横には「霧島登山の途次に當町川添隆七宅へ宿泊」と書かれていました。

確かに霧島からそう遠くはない場所ですが、龍馬さんが何故高岡町に泊まったのか、私には理由がわかりません。

何か文献があるのか、今調べ中です。

このことで、桐野先生は何かご存知でらっしゃいますか?

返信済み
桐野
先ほどメールにて返信しておりますのでご覧下さい。

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