歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第297回
―子孫は外務卿・寺島宗則―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は江戸初期の有名な宮廷スキャンダル「猪熊事件」に連座し、甑島に流罪となった公家松木宗信について書きました。宗信は大炊御門宗信と一緒に流されています。

2人なのに、宗信を取り上げる理由はその子孫が明治の外務卿寺島宗則であるという点が大きいです。
宗信の子ども少兵衛は島津光久に取り立てられ、小番の家格と切米80俵を与えられました。
小番は御小性与よりひとつ上の家格です。

なお、サイト版の記事はサブタイトルが異なっています。
これは修正前のものです。

猪熊事件で甑島に流された公家の子孫が260年後には明治政府の閣僚になっているという数奇な縁を取り上げてみました。

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【2013/10/21 17:55】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第296回
―西南戦争で負傷し、自刃―

連載が本日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は西南戦争に西郷軍方で従軍した飫肥隊のリーダー、小倉処平について書きました。
一昨年秋、念願していた飫肥を訪れました。
飫肥城はじめ、いかにも南九州の小京都らしい所でした。
名物の飫肥天や射的の四半的なども楽しみました。
また小村寿太郎関係史跡も生誕地や銅像など訪れました。

そして、以前から注目していた小倉処平と飫肥隊の墓所も訪れることができました。

今回はそのときの成果をもとにしたものです。
訪問からもう2年もたってしまいました。
遅すぎますね。

東九州方面からの突出という小倉の戦略眼はたしかなものだったと思います。
もっと早く小倉の策が実行されていたら、西南戦争の局面もだいぶ変わったかもしれません。

小倉は最後まで降伏しなかった人でもありました。
その墓は小倉の無念がつまっているようでした。

飫肥の写真をいくつか載せておきます。
IMG_9197_800.jpg
飫肥隊の墓所

IMG_9152_800.jpg
飫肥城

IMG_9135_800.jpg
小村寿太郎生誕地

IMG_9172四半的_800
四半的を楽しむ、なかなか当たらない。

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【2013/10/16 17:08】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第295回
―縁ある新納家墓所近くに―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は旧・川辺町にあるフランシスコ・ザビエルの墓とされるものを紹介しました。
先月、南薩取材をしたとき訪れました。

当初は単なるフィクションだろうと思っていましたが、新納家の墓所に隣接していること。
またこの新納家がザビエルが訪れた市来鶴丸城主の新納康久の後継者である久饒(ひさとも)の家であることがわかったことから、俄然、ザビエル伝承も単なる虚構ではないなと感じた次第です。

新納康久の家老ミゲル(日本名不明)がザビエルから直接洗礼を受け、さらに康久の子どもたちも受洗しています。二男久饒もザビエルから受洗した一人だと思われます。
久饒はその後、市来から川辺に移りますが、その過程で棄教したものと思われます。
しかし、ミゲルの子もミゲルという洗礼名をもち、若ミゲルと呼ばれて、ザビエルから教化されたキリシタン集団としての誇りを川辺に移ってからも持ちつづけていたのではないかと思われます。
その証拠に、慶長10年(1605)、イエズス会宣教師ルイス・ニアバラが川辺を訪れたとき、若ミゲルからザビエルの遺品を見せられているほどです。

そのようないきさつから、この伝・ザビエル墓は無視できないなと感じた次第です。
川辺のキリシタン集団はその後どうなったのでしょうね?
記録は残っていないような。でも、悲惨な運命だったことはたしかでしょう。

なお、ネット版の記事では、伝:ザビエル墓の「天外傳神和尚」の刻字が見にくいので、単独の墓の写真を載せておきます。
IMG_6491ザビエル墓_800

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【2013/10/07 19:06】 | さつま人国誌
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本日、現地で見てきたのですが、「神」の字が「補」に見えるのですが、いかがでしょう?

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第294回
―鹿籠 安住寺に墓か―

先月30日に連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は先月の南薩取材の成果のひとつです。
枕崎市南溟館の末永館長に島津尚久の墓と伝承される史跡を教えてもらったのをきっかけに、尚久のことを少し書いてみました。

尚久は島津日新斎の三男ですが、若死にしたこともあって、あまり知られていません。
その武勇はなかなかのものだったことは記事に紹介してあります。

鹿籠(かご)、現在の枕崎市ですが、尚久はこの地の領主でした。
他界したのも同所です。
尚久がこの地にいたのは10年にも満たないと思います。
嫡男忠長がその後、鹿籠から串良や宮之城に移転したため、尚久の菩提寺は次第に忘れられていきました。

この墓が尚久の墓なのかどうかは断定できませんが、格式の高い墓なのはたしかです。

尚久の菩提寺とされる桜山安住寺について、記事執筆時点ではその由緒がよくわかりませんでした。
でも、記事にしたあと、2件の情報が寄せられました。
私は近世南九州の地誌『三国名勝図会』の鹿籠の部分を読んで、安住寺の由緒がわからないと書きましたが、よく考えてみると、忠長が移転した宮之城などの項目をチェックするのを失念しておりました。
そちらに安住寺の情報が少しありました。

それによれば、安住寺は瑞雲山という山号で、曹洞宗石屋派。福昌寺(島津家菩提寺)の末寺であり、忠長が父尚久の菩提を弔うために鹿籠に開基、開山は三枝舜有。尚久と殉死した尾辻佐左衛門の墓所だったという。
天正6年(1578)、忠長が串良に移封したとき、安住寺も移転、さらに東郷へ移転、極楽寺と統合し、曇秀寺と改号し、宮之城に移転という。

私の調査不足でした。
情報をいただいたお二人に感謝です。

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【2013/10/03 16:55】 | さつま人国誌
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竹田神社!?
前立腺隊じっちゃマン
初めまして、旧聞にコメしてすみません

竹田神社境内の左寄り、尚久と、殉死した家臣の墓(自然石)とが並びます。本葬墓か、あるいは追善供養塚であるかは知りません。本葬なら、50センチ無いくらいの五輪塔が一般的な時代でしょうけど。

3月に知己の葬儀のため、神社隣の葬祭場を訪れ、思い立って日新公を参拝。その時気がつきました。
私の祖に、宮之城家から養子に来た者があるので、超ウス~い血縁とも言えますから、参拝した次第。

興味深い記事、有難うございます。





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