歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第304回
―義弘、忠元、秀吉に降伏―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きです。
島津歳久の抗戦に手を焼いた秀吉がさらに鶴田、曽木と進みます。
そして島津義弘父子、島津以久、新納忠元が次々と出仕して帰順します。
そのいきさつをまとめました。

秀吉は義弘と忠元の出仕に非常に気をよくしたと思われます。
その証左として、鶴田の太閤陣(鳶ノ巣陣)滞在中に、義弘に宛てた領知朱印状を2点発給しています。
1点は大隅国を義弘に、肝付一郡を伊集院幸侃に与えるというもの(『島津家文書之一』378号)。

もう1点は島津一門衆といわゆる御朱印衆の領知宛行や安堵を包括的に認めたものです(上記文書379号)。
これには、久保に日向真幸院、以久は本領安堵、北郷時久は人質を出せば、大隅の本知は安堵といった趣旨があり、とりわけ注目すべきは島津家久についての記述です。
それには、家久が人質を出して居城を明け渡し、秀長に同行して上京し、上方で似合いの扶持を与えるつもりだったが、態度が神妙だったので、佐土原城と城付の知行を返還するというもの。
この朱印状の直後に家久が急死するだけに、意味深な内容にも読めます。

以上2点の秀吉朱印状が義弘が鶴田出仕時に発給されたという臨場感が興味深いですね。秀吉は義弘の態度を気に入ったようで、その家督継承を認めています。これも重要なポイントでしょう。
また義弘にとっては、その後の豊臣大名としての地位を確立したきっかけになった秀吉との出会いだったといえそうです。それは同時に苦難も伴いましたが。

次回は何を書くか未定です。
島津豊久か、北郷氏あたりでしょうか。

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【2013/12/23 20:36】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第303回
―島津歳久、秀吉を襲撃か―

連載が16日に更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は前回からの流れで、秀吉が薩摩からどのように撤退したのか、そのルートと途中で起きた出来事について書きました。

島津四兄弟の3番目で宮之城(祁答院)領主の歳久が秀吉の開城命令に応じず抗戦し、あまつさえ、秀吉の輿を襲撃したとさえいわれています。

当初、これは尾ひれのついた逸話ではないかと私は思っていましたが、島津義久の書状に、秀吉を襲撃したのは歳久ではないかという記述を見て、実際にあった史実だと思うようになりました。

それでもまだ疑問があります。
紙数の関係で記事には書きませんでしたが、秀吉が馬廻数十騎を歳久のこもる虎居城の物見に出したところ、歳久方に襲撃され、数騎が討たれたといわれています。これは一次史料ではなく編纂記録の記事なので、少し疑ってかかる必要がありますが、もし事実だとすると、歳久の抗戦姿勢は明らかで、秀吉に道案内の使者を送るはずがないし、秀吉もまた虎居城を攻めないはずがないと思います。大軍を擁しているのですから。
このいきさつは何とも合点がいきません。

また同時に、歳久の使者が九尾越えを案内したというのは本当なのかという次の疑問にもつながります。
秀吉が虎居城を警戒して、あえて険路を進んだかもしれません。

また秀吉の空輿に矢を射かけたのが本田四郎左衛門尉であるのはたしかなようですが、『本藩人物誌』の本田の譜には、大口領主の新納忠元の命だとあります。これもどうなのか? 歳久と忠元は互いに連絡を取り合って、この奇襲を実行したのかどうか?
義久は上の書状で、歳久の命ではないかと書いており、どちらかといえば、こちらが信じられる気がします。

また狙撃するなら、弓矢より射程の長い鉄炮のほうがいいような気がしますが、鉄炮は火縄の匂いで相手に感づかれる可能性がありますから避けて、弓矢にしたのかもしれません。

とまあ、この事件は謎が多くて合点がいかないのが正直なところです。
記事内容とはだいぶ異なりますが、補足として書いておきます。

次回は、その下で、秀吉が島津義弘、新納忠元を引見する話が中心です。

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【2013/12/19 23:12】 | さつま人国誌
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お知らせです。

NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」で、10月末に放映された「明智光秀・本能寺への葛藤」が来年1月3日(金)19:00~20:00に再放映が決定したとの連絡ありました。

まだ同番組サイトにはアップされていないようです。サイトはここです。

私も出演していますので、よかったら観て下さい。

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【2013/12/14 18:58】 | 戦国織豊
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本日は新聞休刊日のため、連載「さつま人国誌」は休載です。
次回は16日です。

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【2013/12/09 13:46】 | さつま人国誌
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来年2月、武蔵野大学生涯学習講座で、表題の講座全2回を開講することになりました。

来年の大河ドラマの主人公はどういう人だったのか、現存する史料から探ります。
2回の講座内容は以下の通りです。

第1回 02/16 羽柴秀吉との出会いと本能寺の変
第2回 02/23 突然の隠居と関ヶ原合戦

詳しくは、ここをご覧下さい。

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【2013/12/06 19:09】 | 武蔵野大学社会連携センター
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第302回
―川内と鹿児島両説併存―

本日連載が更新になりました。
同誌サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

前回の平佐城攻防戦の続きです。
秀吉が川内に入ったのち、鹿児島まで下ったかどうかという点の検討です。
北政所の老女と思われる「こほ」に宛てた秀吉の消息には、2,3日後に鹿児島に行くと書かれていて、これが一次史料だけに鹿児島説の最大の典拠になっています。
しかし、これはあくまで予定で、何らかの事情で実行に移されなかったのではないかと思われます。
『川角太閤記』の記事はやはり信を措けそうもありません。

秀吉は平佐に数日滞在してから、宮之城、大口方面に向かい、帰還の途についたものと思われます。

平佐城の攻防戦については、史料、とくに一次史料が少ないです。一次史料としては、豊臣方の秀吉消息や『九州御動座記』を除けば、新田神社所蔵の豊臣方4将が連署した禁制の高札の1点だけという寂しさです。一次史料に近いのはイエズス会関係の報告でしょうか。あとは後世の二次的な編纂史料ですね。
なお、この禁制は平佐城の戦いの前日の日付で、「兵船軍勢」の乱暴狼藉を停止させる旨書かれています。やはり、先乗りした豊臣水軍の軍勢が川内川から上陸して新田神社周辺に出没していたことは間違いないようです。

平佐城の攻防で、桂忠昉が意外な奮戦をみせたのは、同城の普請が強化されていたからかもしれません。前年の天正14年(1586)11月、島津義弘の家老伊勢貞成の「掟」によれば、「平佐御城」の普請が行われたことがわかります。また「~御城」とあるのは、忠昉の私城ではなくて、島津氏直轄の城という位置付けだと考えたほうがよさそうです。

なお、地元の川内歴史資料館学芸員の吉本明弘氏の論文が一番詳しいと思いますので、紹介しておきます。

吉本明弘「豊臣秀吉・関白軍の川内侵攻」『千台』40号、薩摩川内郷土史研究会、2012年 

次回は秀吉の撤退ルートについて書く予定です。

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【2013/12/02 15:34】 | さつま人国誌
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