歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第308回
―豊臣秀吉に徹底抗戦―

本日、連載が更新になりました。
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今回は日向庄内の大身領主、北郷(ほんごう)氏を取り上げました。
戦国、織豊期の当主だった時久(一雲入道)・忠虎父子のあたりです。今回は秀吉との対決において、北郷氏が徹底抗戦する様子を書いています。
根白坂の合戦では、島津忠隣とともに北郷氏の奮戦ぶりはある程度知られています。
このときの島津軍は2万程度。島津四兄弟のうち、義久・義弘・家久の3人がおり、ほかにも有力な一門・譜代・国衆も揃っていました。とくに家久は日向守護代であり、積極的な豊後侵攻論者でしたから、秀長軍との対決では前面に立たなければならない立場でしたが、ほとんど戦った形跡はありません。
家久さえそうなのですから、島津軍のほとんどは豊後での敗戦の痛手が大きく、秀長軍と戦う余力、気力が残っていなかったのかもしれません。
北郷氏は義弘に従って肥後口からの豊後侵攻にも従軍しています。そして豊後南郡や玖珠郡あたりでよく戦っており、相当の損害も出ていたはずです。それにもかかわらず、北郷勢は根白坂でも奮戦するのです。厭戦ムードが漂う僚軍のなかで、空気を読まない奮戦ぶりはすごいですね。
しかも、根白坂の敗北にもめげず、さらに庄内や大隅の支城に籠城して徹底抗戦の構えを見せます。
そしてようやく開城に応じたのは、大隅国が義弘などに与えられたのを確認してからです。同時にそれは大隅国内にある北郷氏領を確保できたからでした。
北郷氏への開城の使者は石田三成と安国寺恵瓊でした。
まさに「武闘派」の面目躍如たるものがあります。

次回は関ヶ原合戦における北郷氏の動向です。おそらくほとんど知られていないと思います。

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【2014/01/20 20:13】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第307回
―地元の伝承の矛盾と疑問―

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関ヶ原合戦の島津退き口で戦死した島津豊久の埋葬地が美濃国多良郷の瑠璃光寺だという伝承についての検証記事の3回目、最終回です。

瑠璃光寺にある墓と位牌が豊久のものではないという理由を記事で4つ挙げました。
もうひとつ付け加えれば、寛政元年(1789)前後、多良郷を訪れた永吉島津家の家来、岡野新次の報告書によれば、豊久の墓とされる五輪塔には「御諡を彫める(きざめる)文字も見へず」とあるように、俗名・戒名などは刻んでありませんでした。つまり、墓が豊久のものだとはいえません。
また位牌には「嶋津」の文字を含めてありますが、これとても豊久だと断定できるはずがありません。

さらに岡野の報告書には骨壺が2つあったと書かれています。つまり、多良郷周辺で2人が亡くなっていると思われます。もちろん、そのうちのどちらかが豊久だと特定できるはずがありません。

記事では紙数の関係で書けませんでしたが、多良郷に残る豊久伝承の発信源は多良郷樫原村の村役人らしい三輪孫太夫です。この人が8代前の先祖の三輪内助入道一斎が関ヶ原の戦死者の遺骸を荼毘に付し、廟所を建立したという由緒を語り出します。そしていつしか「嶋津塚」と呼ばれるようになったと書いています。寛政元年(1789)閏6月のことです。
それを読みますと、この廟所を供養するために廃退していた瑠璃光寺を再建し、骨壺2つを国許(薩摩と思われる)に送るよう夢のお告げがあったそうです。

そして、岡野が多良郷を訪れたのをきっかけに、この伝承が膨らんでいきます。上記覚書の4年後、瑠璃光寺住職・玄透和尚が伝・豊久の墓の由来を尋ねたことに対する返書で、豊久の家来らしき川口運右衛門という人物が登場したり、豊久らしき人物が白拍子谷で「御逝去」したという話もこしらえられます。

豊久を葬っているとされる瑠璃光寺の住職も、また最初の覚書の宛所である小林次郎左衛門も、あの墓の主なのか知らないのです。ちなみに、次郎左衛門は多良郷から山を越えた近江側の高宮の郷士小林家の当代の当主です。小林家には島津軍の落武者(島津義弘主従だとする)を匿い、義弘の感状なるものを所蔵しています。小林家でも自分の家の伝承の由緒がわからなくなっていて、孫太夫に尋ねています。あるいは、義弘主従の逃避行と豊久の墓がどんな関係にあるのかを知りたかったのかもしれません。

あと、永吉島津家がにわかに先祖豊久の埋葬地探しを始めるのは、記事にも書いたように、豊久が関ヶ原合戦で着用していた腹巻を入手し、菩提寺天昌寺に納めたことと関係あるかも知れません。
これが安永6年(1777)のことで、岡野の多良郷訪問より10年ほど前だと思われます。やや時間が経過しすぎているような気もしますが、ほかにきっかけは考えにくいですね。
なお、記事に載せた豊久の腹巻の写真が天昌寺に納められた鎧だと思われます。

私は伝承を全面否定するものではありません。伝承が本来の史実とは無関係であっても、それは時間の経過とともに、人々の記憶に残り、またひとつの「歴史」を形成していくのではないかと思っています。
ただ、史実と伝承は区別して考えたいという立場です。

次回は豊久の戦死とも関わりますが、関ヶ原合戦に従軍した島津軍の人数はどれくらいだったのか、またその内訳はどうなのか、という素朴な疑問を書きたいと思っています。
最近の拙著『関ヶ原 島津退き口』(学研M文庫)にも書かなかったことです。

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【2014/01/13 18:18】 | さつま人国誌
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あけましておめでとうございました
ばんない
本年もよろしくお願いいたします

最近こちらのブログは中々拝見することが出来ず見ることが少なくなっておりました。年末年始に掛けて私にとっては一番興味深いところを取り上げられていたのですね。

上石津町は数年前に私も一度訪れたことがあったのですが、豊久の墓所の話は中々に興味深い物ではありました。
いまだに解決できてないのですが、菩提寺の瑠璃光寺と豊久の墓所とされている場所に何故かお稲荷様(稲荷は島津氏の守護神)が祭られていたのが気になっています。

お稲荷様
桐野
ばんないさん、お久しぶりです。

お稲荷さんには気づきませんでした(汗)。
お稲荷さんは神社だけでなく、お寺にあったりもしますから、さほど不思議ではないのですが、豊久関連だったら、多少意味が違うかもしれませんね。

ただ、もし島津側(とくに永吉島津家)が建立したとすれば、寛政年間以降、下手すれば近代以降かもしれないのではという気もしていますが。



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少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
今年はもう少し更新のペースを上げることが目標です。

昨年暮れから「島津豊久の最期と埋葬地」と題して書いています。
上・中・下の3回の予定です。
本日、中が更新されました。
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上のサブタイトルが「史料と地元伝承食い違う」
中のサブタイトルが「永吉島津家の墓探し」

です。
豊久の位牌と墓が美濃国石津郡多良郷の瑠璃光寺にあるのはなぜか?
さらにいえば、この位牌と墓は豊久のものなのかという根本的な疑問もあります。
地元伝承の形成過程を注意深くみていこうと思っています。
下もお楽しみに。

新聞記事には載せられなかった烏頭坂と瑠璃光寺の写真3点載せておきます。
IMG_6885_800.jpg
瑠璃光寺の伝・豊久墓所

IMG_6911_800.jpg
烏頭坂のバス停

IMG_6933_800.jpg
烏頭坂の豊久供養碑入口

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【2014/01/06 18:13】 | さつま人国誌
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