歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第316回
―焼き豚、豚汁、丸焼きと多彩―

連載が24日に更新になりました。
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今回は幕末の薩摩藩でよく食べられていた豚肉食についてです。
じつにいろいろな料理法があるようです。
基本は琉球伝来の塩漬けを使用している事例が多いです。
「琉球豚」という言葉がよく出てきます。
琉球品種の豚を鹿児島で育てたものか、あるいは琉球から塩漬けで取り寄せたものか。

史料をもっていながら、記事ではうっかり書き忘れましたが、嘉永4年(1851)、島津斉彬が藩主として初めてお国入りしたとき、歓迎の料理メニューのなかに、

一、豚汁 竹のこ・とうふ・ねぎ
一、いりふた(炒り豚) からし

とあります。
豚汁は竹の子以下の具が入っていたのでしょう。
炒り豚は辛子が添えられていたということでしょう。そうなると、炒めたものではなく、チャーシューかベーコン様のものでしょうか?

翌年、このお国入りから江戸参府の途次、記事にも書きましたが、斉彬が「煙豚」のことを納戸役や琉球館聞役に問い合わせるよう命じています。琉球館が出てくるので、「煙豚」は琉球での保存法か調理法だと思います。
「炒り豚」と同一のものかどうかわかりませんが、乾パン製造をしている斉彬ですから、保存食の観点から関心をもったのかもしれません。
この「煙豚」、スモークしたものでしょうか? そうなると、スモークハムなのか? チャーシュー、ベーコンなどいろいろ考えられそうです。

来鹿した英国公使パークスの歓迎会で出された子豚の丸焼き、これはおそらく英国留学生たちが現地で仕入れた情報や知識をもとに再現したのかもしれません。

本格的に調べたら、もっと多くの事例があると思います。

次回から黒田官兵衛関係を書く予定です。

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【2014/03/27 08:19】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第315回
―ザビエルと会見、毒殺説も―

本日、連載が更新になりました。
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前回の続きです。
島津貴久の足跡をいろいろ書きました。
紙数の関係で総花式になったのは否めませんが。

面白いのは、記事にも書いたように、貴久の毒殺説があることですね。
しかも、雑書の類ではなく、『上井覚兼日記』に書かれているのですから、無視するわけにはいきません。
毒殺の実行者として噂されたのは、父日新斎の家老だった平田安房介宗茂です。
宗茂が貴久に遺恨があったのかどうかはわかりません。
ただ、記事にも書いたように、貴久が他界した年、宗茂は川辺から転じて、貴久が隠居する加世田の地頭になっているのが気になりますが。まあ、単なる偶然かもしれませんし。

あと、貴久とザビエルの会見場所については、通説の伊集院一宇治城よりも、国分清水城のほうが私も有力ではないかと思っています。会見の前後、貴久は蒲生・祁答院の諸勢と加治木の黒川崎で長対陣しており、国分清水城に張り付かざるをえなかったと思われるからです。

貴久については、まだほかにも書きたいことがあったのですが、紙数の関係で書けなかったのが残念です。

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【2014/03/17 18:53】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第314回
―本宗家継ぎ、鹿児島入城―

10日に連載が更新になりました。
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今年は戦国期の島津家当主、島津貴久(1514~71)の生誕500年にあたる。
それにちなみ、貴久の足跡の主だったものを上・下2回に分けて紹介する。

上では、貴久の家督相続問題について、養父島津勝久の有名な「悔返」ののちの苦難や、最大のライバル、薩州家の島津実久との戦いについて。
そして、貴久の名乗りが9代当主島津忠国とまったく同じであること。とくに忠国は初名が貴久である。
そのことを貴久がどこまで意識していたのかどうかは不明だが、もし意識していたとすれば面白いと思った。

というのは、貴久が「悔返」に遭って蟄居したように、忠国も日向侵攻の失敗により、家中から隠居させられている。ともに島津家当主から引きずり下ろされるという共通体験をしているのである。
しかも、忠国の次の当主に擁立されたのは弟の持久で、のちの薩州家の家祖である。
貴久もまた、薩州家の5代実久によって苦汁をなめた。
薩州家との抗争という点で、忠国と貴久は共通している。

島津実久は一度は家督を相続しているという研究もある(山口研一氏)。貴久の家督相続は実久との激しい戦いに勝利して、これを奪取したものである。貴久の家督相続は決して円滑に進んだのではなく、実力によるものであり、また家中の豊州家や北郷氏の支持を獲得してはじめて成ったといわれている。

今回の写真掲載は、鹿児島市の大龍小学校の校庭にある史跡案内板を使用した。
その近くには同校の校歌を書いた柱がある。その冒頭の歌詞は、

「大中龍伯名に負いて~」

「大中」こそ、貴久の法名「大中良等庵主」の略である。「龍伯」はもちろん島津義久の出家名。
この校歌は島津家の歴史を問わず語りに歌っていて興味深い。
08大龍小学校校歌_800

なお、「大龍」は貴久・義久父子の法名・出家名から一字ずつとったと記事で述べたが、紙数の関係でワンクッション省略している。
2人から一字とったのは、内城跡に建立された大龍寺である。江戸初期、大龍寺跡地に小学校が建てられ、その寺名を冠したともいえる。なお、大龍寺の開山は『鉄炮記』を叙述した南浦文之である。

次回は下を書きます。
ご期待下さい。

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【2014/03/12 19:37】 | さつま人国誌
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島津「貴久」
ばんない
こんにちは。

今年は貴久生誕500年とは感慨深いですね。鹿児島では何かイベントとかあるんでしょうか…ないんでしょうな…

知名度では息子の義弘に劣る貴久ですが、キリスト教伝来などの関係で教科書では知名度高いはずの貴久です、確かにもうちょっと注目浴びても良いと思います。

貴久の生誕500年は大坂の陣400年でもありますね。貴久が生まれてから100年後に天下の決着がついたというのも感慨深いです。大坂城天守閣などでは特別展などを行うようですが。ついこの間関ヶ原400年イベントしたと思ったのに、それからも既に14年とは…

「貴久」の命名には実は前例があったこと、またその前任者(?)にどうも自分をなぞらえた形跡があること、更にそれがご先祖の出自と関係ありそうなことは今回初めて聞く指摘で、大変驚きました。


かんな
初めまして、いつも新聞で「さつま人国誌」楽しみにしております。昨年の宝山ホールの講演会もうかがわせていただきました。貴久にかんして鹿児島の尚古集成館で講座ならあります(貴久生誕500年記念)。南日本新聞に3月1日に40名様とあったので、掲載されていた日のお昼に連絡したら、すでに定員になっておりました。ただ、キャンセル待ちや資料を入手したいという人が20人以上いらっしゃったそうで、新たに21日にも講座が開催されるそうです。そちらには参加できるので新たな話を聞くことができるので楽しみです。

御礼
桐野作人
かんなさん、はじめまして。

新聞連載を読んでいただき、また私の講演も聴いていただき、有難うございます。

貴久の講座についての情報も有難うございます。
おそらく講師は尚古集成館学芸員の岩川さんだと思います。岩川さんとは知り合いで、チラリと聞いておりました。
参加されたら、また感想でもお寄せ下さい。

忠国と貴久
桐野作人
ばんないさん

貴久については、かんなさんもお書きのように、尚古集成館が講座を開催してます。
義久の没後400年のときは何もなかったですけどね(笑)。

貴久について、忠国との類似性、共通性を指摘したのは、単に忠国の初名が貴久だったことに反応した思いつきだったのですが、忠国が弟の持久(薩州島津家沮)と抗争し、貴久もまた薩州家の実久と抗争したという共通点に、何か貴久が感じるところがあったのではないかという気がしているところです。

日新斎―貴久父子の家督の正統性をどこに求めるかという点を考えてみました。
もっとも、その前提としては、貴久の命名がいつで、誰によるものかという論証もしないといけないのですが(苦笑)。
相州家の当主たる日新斎の主導かなと一応考えているところです。





貴久生誕500年記念講座
かんな
夜分恐れ入ります。遅くなりましたが、21日の講座に出席いたしましたので、報告と言うほどでは有りませんがお伝えいたします。桐野先生のおっしゃる通り講師は岩川先生でした。講座を始める前に「今回この講座を行うのは個人的な後悔があるから」とおっしゃっていました。2011年に義久没後400年だったけど、2010年の年末に他県の新聞社から「来年、義久没後400年なので記事にしたい」と問い合わせがあって気がついたと、けれど(義久がなくなったのが1月なので)あと1月では準備ができないとイベントは断念したそうです。その代わり2011年の菊祭りの菊人形は義久と亀寿にしたそうです。

貴久生誕500年記念講座・2
かんな
(2011年も篤姫の菊人形だと思って行かなかったことを後悔しています。知っていれば…)講座では、桐野先生の「島津貴久の生誕500年上・下」も交えて貴久の生誕や勝久の養子になったことや悔い返し、逃避行伝説(山鳩や狐に助けられたこと)六地蔵塔、鉄砲伝来、ザビエル来鹿、初午祭、岩剣城の戦い、「さつま人国誌」でも出ていた貴久の死などを1時間半ほど講座で解説されました。講座の後で質問を受け付けていたのでザビエルが貴久に謁見した場所の候補に国分の清水城が入ってなかった事を聞いたら、岩川先生は初耳みたいな感じでした。


貴久生誕500年記念講座・3
かんな
長くなって申し訳ありません。これで最後です。岩川先生は貴久生誕の地の加世田に何かイベントをするのかを問い合わせたところ、「あくまで生まれたところであって、活躍したところは別なので特に何もしない」と言われたそうです。桐野先生やばんない様や私には残念なことになってしまいました。
追伸 岩川先生は桐野先生がいろいろな情報を県内外に発信してらっしゃるので大変ありがたいことだとおっしゃってました。あと先生には「義久のイベントや講座がなかったのは非常に残念です」とは言ってみました。こうなったら19年後の義久生誕500年記念にむけて、桐野先生のお力を持って、なにかイベントなどが開催されることを期待いたします。

菊人形
桐野作人
かんなさん、こんにちは。

岩川さんの講演報告、有難うございます。
19年後の義久生誕500年には、おそらく存命してません(苦笑)。

2011年の仙巌園の菊人形で、義久と亀寿が登場したのは私も見ました。写真もありますが、この欄には写真データをアップできないのが残念です。


菊人形残念です
かんな
夜分恐れ入ります。返信ありがとうございます。
>19年後の義久生誕500年には、おそらく存命してません(苦笑)
いえいえ、桐野先生はまだお若いではないですか。大丈夫ですよ。けど19年も待ちたくはないので、きりがよくなくてもいいので没後403年か404年記念をしてほしいものです。
菊人形の写真は残念です。泰平寺の銅像は見たくないので菊人形は見たかったですが。

菊人形
桐野作人
かんなさん

菊人形の写真データ、ご覧になりたいのであれば、メロアドを管理者だけ表示か、表紙にあるメールフォーマットでお送りいただければ、返信で添付します。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第313回
―島津吉貴が南泉院建立―

昨日、連載が更新になりました。
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今回は、日光東照宮で有名な東照宮信仰が薩摩藩においても見られたことを書きました。
どうも鹿児島への勧請は2度あったと思われます。2代藩主島津光久のときと、4代藩主島津吉貴のときのようです。
場所も違いました。1次は鶴丸城の北、2次は鶴丸城の西南です。
1次は場所を特定できませんが、2次は現在の照国神社の地で、ここに別当寺の南泉院が創建され、その境内に徳川家康を祀った洞廟と歴代将軍の位牌を安置した御位牌殿がつくられました。
家康の百回忌、二百回忌には盛大な法要が執りおこなわれています。

鹿児島にも東照宮があったことはほとんど知られていないと思いますので、今回紹介してみました。

前回分(第312回)の紹介・告知も忘れておりました。

佐土原藩小隊長・宇宿代吉の古写真――戊辰戦争中、京都で撮影

戊辰戦争に出征した佐土原藩の二番銃隊を率いる小隊長の古写真を知り、そのイケメンぶりもあって紹介してみようと思いました。
撮影時期、同場所、身の回りの装備なども興味深いです。
合わせてご覧下さい。

次回は未定です。

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【2014/03/04 09:07】 | さつま人国誌
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東照宮のその後
ばんない
御無沙汰しております

現在の照国神社の前身(と言うより先住)が東照宮というのは知っていたのですが
・そのもうひとつ前に別の東照宮もあった
・それを勧請したのは島津光久
というのは初めて聞く話で興味深く伺いました。

前から疑問に思っていたのですが、照国神社を建てる際に先住者(神?)の東照宮はどこかに移転したはずなのですが、その辺の話を余り聞きません。どうなったのでしょう?桐野さんもご存じではないでしょうか?

東照宮のその後
桐野作人
ばんないさん、お久しぶりです。

ウィキによれば、照国神社は幕末の元治元年に建立されていますね。衰えたりとはいえ、まだ幕府が健在な時期です。
その頃、東照宮をどこかに移したというのは、かなり大胆というか、幕府に見切りをつけたというか。
ですから、東照宮のその後、ぞんざいに扱われたかもしれませんね。

考えられるのは、東照宮も一応神様なので、鶴峯神社に合祀した可能性があるかもしれないです。

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