歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第325回
―直言居士、陽明学に傾倒―

本日(正確には26日)連載が更新されました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

明治3年(1870)7月、集議院門前で衝撃的な割腹自殺を遂げた横山正太郎安武について上下2回に分けて書きます。
今回は自刃に至る前の安武の足跡について書きました。
陽明学へののめり込みが事件の一因かもしれないと考えたところです。

次回は横山の自刃について世間がどのように受け止めたかについて。

なお、前回分(第324回)のモリソン号事件について告知するのを失念しました。
よろしかったら併読して下さい。

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【2014/05/27 00:23】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第323回
―耐火煉瓦の製造に苦労―

連載が12日に更新されました。
告知遅くなってすみません。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、島津斉彬の集成館事業で反射炉建設に関わった竹下清右衛門がその経験を買われて水戸藩の反射炉建設のために出向した苦労話を書きました。
蘭学者人脈によって招聘されたようですが、耐火煉瓦の製造に苦心しています。
また待遇もあまりよくなったようです。
仕事は反射炉建設だけで終わらず、反射炉を使っての大砲製造までやらされたようです。

清右衛門はキャリアも古いですが、明治になってからもあまり立身出世していません。
陸軍大尉止まりでした。
墓は青山墓地にあるそうですが、探せていません。

次回はモリソン号事件の余波で、山川港に入ったモリソン号の顛末について。

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【2014/05/17 17:05】 | さつま人国誌
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あお
この時代って、ちょっとでも技術ができると無茶苦茶色んなことさせますよね。
蘭学者だから何でもできるだろうって医者に船作らせようとしたり…。
待遇も藩によるんでしょうが、招聘しておきながらその待遇は可哀想ですね。その上出世もしなかったって…不憫ですね。
お墓参りしてあげたいです。

お墓
桐野
蘭学者は当時、オールマイティを要求されましたものね。それほど、当時の日本では先端的な学問・技術だったからでしょうが。
もっとも、その後、英語が普及すると主役の座を譲ってますけどね。

竹下清右衛門の墓は青山墓地にあることはわかっていて、その遠い縁者の方と探したのですが、見つかりませんでした。やっぱり直系の子孫にたどり着かないと墓の発見は難しいかも知れません。


竹下清右衛門の子孫です
石原 基規
今度水戸に出張のため、ご先祖様ゆかりの反射炉に関して検索していたところ、貴ブログに出会いました。
現在竹下ではなく石原を名乗っていますが、これは清右衛門の二男が石原家に養子に出された直後、竹下家の長男が死んだため、二男(私の先祖)が竹下家に戻って家督を継いだのですが、石原をそのままなのっていたと聞いています。
竹下清右衛門の墓は、確かに青山墓地の石原家先祖代々の墓の隣に並んであります。
これは陸軍中佐だった祖父が、六本木龍土町に住んでいた時に建てたそうです。
現在私は新潟に住んでいます。祖父が新発田連隊に転勤してきたとき祖母と出会い結婚。祖父の戦死後一家が祖母の実家である新潟に住んだためです。
現在私の父がなくなっており、私もあまり詳しくはないのですが、西南戦争のとき竹下清右衛門が大砲大尉として従軍したときの資料とかも残っています。
疑問に答えることができたでしょうか?

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南日本新聞連載「さつま人国誌」
―天草で横死、遺恨か―

5日に更新しています。
告知遅れてすみません。

ここをご覧下さい。

次回は、集成館の技術者、竹下清右衛門が関与した水戸藩の反射炉のことを書く予定です。

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【2014/05/10 09:11】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第322回
―意外、仙洞御所付近か―

4月28日に更新されましたが、うっかり告知を失念してしまいました。
今回はあまり注目されていない豊臣期における島津家京都屋敷はどこにあったのかについて書きました。

結論からいえば、まことに意外な場所、現在の京都御苑内の仙洞御所付近です。
その考証は連載記事を読んでいただくとして、秀吉が聚楽第を造営した頃、正親町上皇が健在だったわけですが、その上皇御所=仙洞御所は現在の地ではなかったと思われます。

聚楽第時代、仙洞御所付近は同第からだいぶ東に離れています。島津家が豊臣政権の大名編成・秩序において外様大名に位置づけられていたからでしょう。
ところが、秀次事件により聚楽第を破却することに決めた秀吉は自分の上洛・参内用に聚楽第に代わる京都屋敷が必要になりました。そして、島津家屋敷を接収して、その地に屋敷を造営します。のちに京都新城と呼ばれる施設です。
秀吉は島津義久に代替地として聚楽第の郭内に屋敷を与えました。義久はとても喜んでいます。外様大名ではなく譜代大名に準じた扱いだと感じたのでしょうか。
でも、ほどなく聚楽第は破却されましたから、その郭内屋敷が健在だったのは数カ月程度かもしれません。
その後、島津忠恒が上京区の木下町に別の屋敷を与えられます。

現在の仙洞御所付近にあった島津家屋敷は秀吉の屋敷になってから、秀頼の上洛・参内などで2,3度使用されたのみです。秀吉死後、大坂城西の丸を退去した北政所がその地を居所にしました。

豊臣期、聚楽第時代の島津家の京都屋敷が意外な場所にあったことは興味深いです。

次回は、島津義弘の家老だった伊勢貞成の非業の最期について。

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【2014/05/04 15:42】 | さつま人国誌
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