歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第195回
―薩長土密議と偽金造り?―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

萩の松下村塾近くにある「薩長土連合密議之處」という石碑に刻まれている薩摩藩士・田上藤七とは誰なのかという疑問を記事にしました。

記事にも紹介した山口県防府市在住の研究者・山本栄一郎さんがこの田上を追っており、薩摩側に彼の史料がないかという質問を以前受けたことがありました。
私も不勉強で、田上が明治になり、田中頼庸と名乗り、廃仏毀釈を推進した神道界の大物だという以外知らないと回答するしかありませんでした。
それから、山本さんから地元紙掲載の記事を送ってもらいました。それには「田上藤七」は実在せず、久坂玄瑞が日記に誤記したもので、本当は「田中藤八」だと指摘されていました。その典拠が野村靖(入江九一の弟)の回想録『追懐録』の記述だということもわかり、山本さんの調査研究に驚いたものです。

その後、史料をめくっていたら、たまたま『道島家記』(記主:道島正亮、寺田屋で有馬新七と一緒に串刺しになった道島五郎兵衛の兄)に、その田中藤八という人物を見つけました。しかも「銅銭札」という贋札づくりに関わった嫌疑をかけられていると書かれていて驚きました。

この贋札造りの田中藤八は萩を訪れた田中藤八と同姓同名ですが、同一人物なのかどうかは断定できません。
どうもこの贋札造りは町人の仕業ではないかという気もしますので。でも、名字がありますから、武士でなければ、名主・庄屋クラスなんでしょうか?

余談ながら、「銅銭札」って、銅銭ではなく紙幣ですよね?
天保通宝のことかと思いましたが、「雁札」(贋札)としているところを見ると、紙幣かなとも思います。藩札の一種なのでしょうか?
でも銭でもある紙幣ってどんなものなのか、不勉強で想像がつきません。
もしご存じの方がおいでなら教えて下さいませ。

また岸信介揮毫の石碑もだいぶ昔、長州の取材に行ったときに何気なく撮影していたものです。
本当は「田上藤七」の部分をアップにしたカットがあればよかったのですが、当時はそんな問題意識はありませんでしたからしかたありません。撮影していただけでも御の字というものです。
ポジフィルムをスキャナにかけたので、やや画質が落ちた点はご容赦を。

記事を書くきっかけを与えてくれた山本さんには感謝です。
田上藤七が田中藤八だったと教えていただいていなければ、偽金造りの田中藤八にも気づかなかったと思います。

よろしければ、下をクリックして下さい。
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【2011/05/23 17:26】 | さつま人国誌
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ありがとうございます
山本栄一郎
桐野様
ご紹介していただき、ありがとうございました。
現在は、楫取素彦顕彰会委員として、薩摩研究は放置状態になっていますが、一段落したら、樺山三円に挑戦したいと思っています。
しかし、「木戸孝允日記」に登場する樺山資之は、三円とは同姓同名の別人なのでしょうか?


樺山資之
桐野
山本栄一郎さん

返事が遅くなり、すみません。

『木戸孝允日記』はたしか明治元年から始まっていましたよね。
私は詳しく見ていないのですが、「樺山資之」で登場するなら、明らかに樺山三円のことだと思います。
樺山は明治になってからの消息がよくわかりません。もっと調べるべきだと思いますが……。

ちなみに、資之は実名で、三円は坊主名です。
薩摩藩の下級藩士は貧乏で、職を得るために鶴丸城内の茶坊主として出仕して、なにがしかの給金を得ている者もいました。坊主ですから、一応出家しないといけません。
だから、三円ですね。

ほかにも、

大山格之助綱良 正円
西郷信吾従道  竜庵
永山弥一郎盛弘 万斎

という具合に、茶坊主をつとめた人は少なくないです。
樺山も明治になると、藩政時代の三円を使わなくなり、実名を使ったということではないかと思います。


山本栄一郎
桐野様

樺山資之は、「木戸孝允日記」明治七年二月二十七日付、黒田清隆あて書簡に登場します。

樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。
折柄留守中なとに而、面会も不得仕。
元司法省出仕之樺山(註。資綱)とは相違候哉。
自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。

というものです。
木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が、何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。
もし樺山資之が幕末の三円と同一人物ならば、木戸は、久坂玄瑞と親しかった樺山三円を知らなかったのだろうかという疑問を、桐野先生にお尋ねした次第です。
これ、三円なのでしょうか?


三円の可能性あり
桐野
山本栄一郎さん

木戸日記のご紹介、有難うございます。
ただ、木戸文書のほうですね。

見てみましたが、頭注は一応三円だとしています。それほど誤りではないと思います。

というのは、木戸は樺山資之が訪ねてきても、いつも留守のようですから、じかに会っていませんね。
木戸は文久以来、三円は知っていても、資之名乗りは知らなかった可能性が高いのではと思います。
資之も三円を名乗ったほうがよかったかもしれませんが、現名乗りである資之を名乗ったから、木戸が誰だかわからなかったのではないかと思います。

ついでに、木戸関係文書三の黒田清隆のところを見てみましたが、残念ながら、黒田からの返信は現存していないようですね。

木戸が資之が誰だかわからなかったということは、三円はずっと鹿児島にいて表舞台に登場していなかったことを示しているのでしょうね。
資之がどこで何をしていたのか興味あります。

とりあえずは頭注に従ってよいのではという気がします。

じつは神田神保町の古書店主が樺山の子孫です。一度お会いしたことがあります。
たしか日記も所蔵されていたような。ただ、明治期のものがあるかどうかは不明です。

東大史料編纂所には「樺山資之日記」の謄写本が架蔵されていますが、文久4年=元治元年までしかないようですね。



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コメント
この記事へのコメント
ありがとうございます
桐野様
ご紹介していただき、ありがとうございました。
現在は、楫取素彦顕彰会委員として、薩摩研究は放置状態になっていますが、一段落したら、樺山三円に挑戦したいと思っています。
しかし、「木戸孝允日記」に登場する樺山資之は、三円とは同姓同名の別人なのでしょうか?
2011/05/26(Thu) 22:26 | URL  | 山本栄一郎 #-[ 編集]
樺山資之
山本栄一郎さん

返事が遅くなり、すみません。

『木戸孝允日記』はたしか明治元年から始まっていましたよね。
私は詳しく見ていないのですが、「樺山資之」で登場するなら、明らかに樺山三円のことだと思います。
樺山は明治になってからの消息がよくわかりません。もっと調べるべきだと思いますが……。

ちなみに、資之は実名で、三円は坊主名です。
薩摩藩の下級藩士は貧乏で、職を得るために鶴丸城内の茶坊主として出仕して、なにがしかの給金を得ている者もいました。坊主ですから、一応出家しないといけません。
だから、三円ですね。

ほかにも、

大山格之助綱良 正円
西郷信吾従道  竜庵
永山弥一郎盛弘 万斎

という具合に、茶坊主をつとめた人は少なくないです。
樺山も明治になると、藩政時代の三円を使わなくなり、実名を使ったということではないかと思います。
2011/05/29(Sun) 23:26 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野様

樺山資之は、「木戸孝允日記」明治七年二月二十七日付、黒田清隆あて書簡に登場します。

樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。
折柄留守中なとに而、面会も不得仕。
元司法省出仕之樺山(註。資綱)とは相違候哉。
自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。

というものです。
木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が、何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。
もし樺山資之が幕末の三円と同一人物ならば、木戸は、久坂玄瑞と親しかった樺山三円を知らなかったのだろうかという疑問を、桐野先生にお尋ねした次第です。
これ、三円なのでしょうか?
2011/05/31(Tue) 00:08 | URL  | 山本栄一郎 #-[ 編集]
三円の可能性あり
山本栄一郎さん

木戸日記のご紹介、有難うございます。
ただ、木戸文書のほうですね。

見てみましたが、頭注は一応三円だとしています。それほど誤りではないと思います。

というのは、木戸は樺山資之が訪ねてきても、いつも留守のようですから、じかに会っていませんね。
木戸は文久以来、三円は知っていても、資之名乗りは知らなかった可能性が高いのではと思います。
資之も三円を名乗ったほうがよかったかもしれませんが、現名乗りである資之を名乗ったから、木戸が誰だかわからなかったのではないかと思います。

ついでに、木戸関係文書三の黒田清隆のところを見てみましたが、残念ながら、黒田からの返信は現存していないようですね。

木戸が資之が誰だかわからなかったということは、三円はずっと鹿児島にいて表舞台に登場していなかったことを示しているのでしょうね。
資之がどこで何をしていたのか興味あります。

とりあえずは頭注に従ってよいのではという気がします。

じつは神田神保町の古書店主が樺山の子孫です。一度お会いしたことがあります。
たしか日記も所蔵されていたような。ただ、明治期のものがあるかどうかは不明です。

東大史料編纂所には「樺山資之日記」の謄写本が架蔵されていますが、文久4年=元治元年までしかないようですね。

2011/05/31(Tue) 00:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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