歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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こんなニュースがありました。ここです。

公家で京都吉田社の神主、吉田兼見の日記『兼見卿記』に日本海側で大津波があったという記事です。兼見は信長や秀吉と同時代の人です。

同日記の輪読会をかれこれ10年くらいやっていますが、その該当部分、8年前に私が担当したところでした。調べてみて思い出しました(汗)。
(該当部分は『大日本史料』第11編23冊に活字化されています。ネットでも東京大学史料編纂所のデータベースで年月日を入力して検索すれば、見ることができます)

日本海側で津波があったのは、天正13年(1585)11月29日条です。同年は秀吉が関白になった年です。
当該条は2カ所書かれていて、1回目は地震直後、2回目はある程度事態が判明してから追加情報を書いたものです。

地震が起きたのは同日子の刻(深夜零時頃)です。
兼見の自宅も長く揺れて、しばらく止まなかったようです。
地妖凶事如何(いかが)」と兼見は地震の不気味さを日記に書いています。
翌30日、兼見が吉田社の境内を見て回ったら、神壇の石垣の多くが崩れ、文庫の二階の北側の軒が一間(2メートル近く)欠け落ちていたことを発見します。そしてこの日も「地動今日に至るも止まず、切々地動しおわんぬ」と書いており、余震が止まなかったことがわかります。

そして、その後判明したことを書き加えています。
京都では壬生の堂塔が倒壊し、あちこちの民家が壊れており、「数多(あまた)」の死者が出たと書いています。
さらに、日本海側その他の被害として、

「丹後・若州・越州、浦辺波を打ち上げ、在家ことごとく押し流す、人死ぬ事数知らずと云々、江州・勢州もってのほか人死ぬと云々」

日本海側の丹後・若狭・越前(現在の京都府から福井県)に津波が押し寄せ、沿岸部の民家をすべて押し流し、数え切れないほどの死者が出たとあります。また近江や伊勢でも死者が出たと書いています。

さらに12月に入ると、越前の丹羽長秀に仕えていた兼見の妻の兄佐竹出羽守からの知らせで、地震で家が倒壊して兼見の妻の妹が圧死したとも書かれています。兼見の親戚からも死者が出ています。

余震の記事は、その後も12月1日、3日にもあります。
朝廷では、地震が終息することを願って祈祷することを決定し、兼見に7日間の祈祷が命じられたと書かれています。


『兼見卿記』は織豊時代の研究では非常に重要な一次史料で、学界においても信頼性が高いものです。その記述はかなり正確だと考えてよいです。
しかも、兼見は丹後田辺城主細川幽斎・忠興父子と親戚です(兼見の息子兼治の妻は幽斎の娘)。その関係から、日本海側の情報を入手して日記に追記したと思われます。

日本海側の大津波だけでなく、近江や京都、さらに東海地方の伊勢方面まで被害が広範囲に広がっていることから、相当大きな地震だったと推定されます。

たまたま目にしたニュースになじみのある身近な史料が触れられていたので、書いてみました。
大震災の教訓として、何らかの参考になれば幸いです。

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【2011/05/28 00:42】 | 雑記
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テレビニュースで見ました
坐忘
数日前にこのニュースに接したとき、桐野さんを思い出しました。
で今日来てみると、直接言及しておられて面白く拝読しました。

テレビニュースで言うには、関西電力はこの記録を無視した上で、
津波の想定高さをたった3メートルとしていたそうです。

九電の川内原発の想定高さもその程度だったと思いますが、
恐るべき怠慢、無責任、虚言、捏造体質と言わなければなりませんね。

確度の高い史料調査は、巨大インフラ構築の際には絶対避けて通れない、
重要なものだということがよく分かった事例でした。

天正の大地震調べておく必要がありそうですね。
NAO4@吟遊詩人
「兼見卿記」や「ルイスフロイスの日本史」のような信頼できる記録を、信憑性がないとして無視したことは電力会社の大きなミスというか、やってはいけないご都合主義と言えるでしょうか。

それにしても、太平洋側はプレートのずれによる津波の直接的な影響を受けますが、日本海側はどういうメカニズムで津波が起きるのか興味があります。

太平洋側の津波が日本海側に回り込むことは考えられますが、天正大地震は、震源は岐阜県付近とする内陸型と言われる(新聞記事より)ことから、どうして津波が起きたのか不思議です。

内陸の地震に呼応して海底の断層とかが大規模に動いたんですかね。

タイムリーなブログありがとうございます。

コメント御礼
桐野
坐忘さん

川内原発も不安ですよね。
鹿児島も決して地震が少ないわけではないですから。それに活火山がたくさんありますし。
原発のないもっと別の道を追求したほうがいいと思いますね。
もし何かあったら、観光も産業も交通・物流も生活もすべてダメになってしまうという想像力も働かせておかないといけないと思います。そのときに悔いてもはじまりませんから。
亜熱帯に近くて火山が多い鹿児島こそ、太陽光や地熱発電など潜在的な資源はたくさんあると思いますけどね。


NAO4@吟遊詩人さん

天正13年地震の震源地が内陸型とする根拠を知らないので何ともいえません。
ただ、もしそうなら、内陸からの震動が日本海に波及してユーラシア大陸にぶつかって戻ってきたというか、逆流してきたということはないのでしょうか?
太平洋と違い、日本海は狭いですから。
あくまで素人考えですけど。




天正地震について
悠々火山
ここ10年くらい天正地震を含めて古地震を調査してきた者です。
兼見卿記やフロイス日本史の津波のことは古地震の研究者なら知らない人はいない位で明治初期から指摘されていました。

兼見卿記の津波記述は明快なので,これから科学的に実証しなければならないと思います。ただ,天正地震は内陸の複数の活断層による地震で津波は起こりません。海底が地殻変動しないと津波は発生しませんので,地震波が大陸に反射しても津波は発生しません。もし津波が発生したのなら,天正地震ではなく別の海洋の地震を疑うことになります。当時ロシア方面で地震があったのかどうか。

参考までにフロイス日本史では若狭の長浜で地震後数日後に大きな波,という記述でした。ここに二つの曖昧さが残ります。一つは長浜は小浜と解釈されていること,あとは数日後に津波です。津波は地震直後なのでちょっと違和感があるのです。今後の調査課題です。

震源地?
桐野
悠々火山さん

初めまして。
ご教示有難うございます。
詳しく調べていらっしゃるのですね。

ただ、天正地震の震源地が内陸部だとする根拠が改めてよくわかりません。
当時の文献史料には表れないはずですが、地質的な調査などで判明しているのでしょうか?



Tm.
天正地震といえば有名なのは帰雲城ですね。

そんな天正地震については、寒川旭・著『秀吉を襲った大地震-地震考古学で戦国史を読む-』(平凡社新書)が、巻末の参考文献共々ご参考になるかと思います。

ただ同書では津波の件については触れられていないようですが、『兼見卿記』の記述からは、やはり津波は地震の直後のことのようであり、天正地震では内陸の活断層のみならず、問題の丹後・若狭・越前近辺の海底の活断層も連動して活動していたのではないでしょうか。

今回の東日本大震災を思うに、その様には考えられないでしょうか。


震源地は未だ不明です
悠々火山
この地震の震源地は未だに特定されていません。ここ30年来多くの研究者(地震学,地質学,地形学など)によってようやく,内陸の養老・桑名・四日市断層帯,荘川断層帯,阿寺断層帯の3つが候補に挙がってきましたが,そのどれかが動いたのか連動したのはまだ不明なようです。

内陸が震源である可能性は,斜面崩壊が岐阜県白川村周辺で多いこと(古文書の記録と伝承),液状化が濃尾平野の西部と富山平野の西部に集中していること(遺跡の調査),それと活断層調査(トレンチ,地形調査)で上記3つの活断層帯がどうやらこの付近の時代に活動した可能性が高いことが分かってきました。
日本海の海洋の地震なら濃尾平野まで液状化はしませんし(距離が遠いので),石川などでも液状化があると思います。また斜面崩壊も広範囲で起きるでしょう。

Tmさんご指摘の福井沖の活断層の可能性もありますが,地質学的には存在が分かっていません。仮に日本海で活断層が連動したなら新潟,富山,石川など広範囲に津波は襲来するでしょうから記録がよりどころになりますが,そのような古記録は見出されていないようです。

それと,気になっているのが兼見卿記の津波の記述の日が11月30日になっていることです。地震後わずか1日にして被害が京都に伝わってその日のうちに日記に記されたことになりますが,ちょっと信じられない感じです。

帰雲城
桐野
Tm.さん
お久しぶりです。

そうか、埋蔵金伝説でも知られる飛騨帰雲城がありましたね。
以前、帰雲城の記事を書いたことがあったのですが、すっかり失念しておりました。

関連書籍のご紹介も有難うございます。


兼見の日記の書き方
桐野
悠々火山さん

震源地推定についての詳しいご紹介、有難うございます。
場所を厳密に特定はできなくても、内陸部の活断層が動いたのはほぼ確実のようですね。ならば、なぜ津波が発生したのか、今後の調査や研究を待ちたいと思います。

あと、兼見卿記の書き方について。
中近世の日記全般、とくに公家の日記にいえることですが、記主は日記をその日か翌日あたりにつけると思われがちですが、そうではなく、メモ風なものを書き留めておき、あとでまとめて推敲ないし浄書する形が多いです。

兼見も同様で、たとえば、1か月分をまとめてつけたりしています。ですから、あとからの情報が当該日に書かれているケースも少なくありません。

この地震に関しても、ブログでも書きましたが、地震のあった11月29日が2つに分けて書かれています。最初のは当日かその翌日あたりに入手した情報。2回目はその後相当日にちが経ってから知り得た情報を追記したと思われます。
ですから、日本海や近江、伊勢の情報まで含まれているわけですね。
そう考えれば、決して不思議ではありません。


他の古記録や地質学的証拠
NAO4@吟遊詩人
>悠々火山さま
>桐野先生
>Tmさま
色々お教えくださり、ありがとうございました。天正大地震で本当に津波があったかどうか検証が待ち遠しいです。

恐らく、
地質学的に津波の痕跡(海底砂の層)が見られるかどうか、

丹後・若狭・越前の寺社などの古記録に天正地震の津波について記録がないかどうか

などがポイントになりそうですが。

兼見卿記の書き方の御礼ほか
悠々火山
桐野 さま

兼見卿記の書き方について、ご説明頂きありがとうございます。
史料の記録の仕方・背景についてはほとんど素人ですので、大変重要なご指摘でした。もしかすると、兼見卿記の津波は地震直後ではなく、フロイスのように地震の数日後かも知れない可能性もある、と思いました。仮にそうなら、この津波は11月29日の天正地震ではなく、その後の別の地震(日本海で発生)ということも考えられます。

それと、もう一つお教え下さいますでしょうか。「佐竹出羽守からの知らせで、地震で家が倒壊して兼見の妻の妹が圧死」とは、どこで圧死したかが震度の推定という意味で気になっていました。これは出羽守の居る所、つまり福井(北の庄)なのでしょうか。

吟遊詩人さんのおっしゃるように、津波堆積物の調査、古記録がポイントになると思います。これに加えて若狭湾周辺の海底活断層の詳細な調査も。
関西電力が計画しているボーリング調査というのは、津波堆積物の調査のことかも知れません。
私もかつて古記録について、図書館などで福井県の市町村史などを当たりましたが、「11月29日越前若狭に大地震」というような記述は複数の郡誌にありましたが、津波やその他被害の記述は見出せませんでした。私のは限られた史料の調査なので、公になっていない史料がたくさんあるのでしょうね。

なお、一つ補足があります。福井沖には活断層の存在は分かっていない、と先に書きましたが、これは活断層はあるのですが、天正地震に結びつくような活断層(16世紀後半に活動したもの)は知られていないという意味です。紛らわしくて申し訳ありません。

北ノ庄
桐野
悠々火山さん

佐竹出羽守の一節は、天正13年12月17日条で、

「越州佐竹出羽守書状到来云、妹今度大地震私宅壊落死去」

とあります。
出羽守は丹羽氏の家来でしたので、北ノ庄の城下に住んでいたはずです。

もっとも、この年4月、丹羽長秀は死去し、嫡男長重は幼少で、丹羽家は改易され、若狭一国に減転封されています。

佐竹がその後どうしたのか不明ですが、「越州」とあるので、北ノ庄でいいかなと思いますが……。

越州の被災など
悠々火山
桐野 さま

佐竹出羽守の居所について,ご教示下さりありがとうございます。

岐阜県郡上市白鳥町にある長滝寺の文書(長滝経聞坊文書)に,この地震で「越州北ノ庄・鶴賀(原文ママ)滅亡」とあるのですが,両地域の被災が記録してあるのはこの文書のみで,真偽が不明でした。ご回答により少し手がかりが得られた気がします。

みなさま

ブログに突然、あつかましく投稿させて頂き、また貴重な情報交換ができました。
まことにありがとうございます。
歴史関係はあまり知らないのですが、天正~慶長期の歴史地震を扱うにつれ、史料(活字体)などを見る機会が増え、少しは16世紀後半の様子が分かり始めた所です。
また、何かありましたら、よろしくお願い致します。


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この記事へのコメント
テレビニュースで見ました
数日前にこのニュースに接したとき、桐野さんを思い出しました。
で今日来てみると、直接言及しておられて面白く拝読しました。

テレビニュースで言うには、関西電力はこの記録を無視した上で、
津波の想定高さをたった3メートルとしていたそうです。

九電の川内原発の想定高さもその程度だったと思いますが、
恐るべき怠慢、無責任、虚言、捏造体質と言わなければなりませんね。

確度の高い史料調査は、巨大インフラ構築の際には絶対避けて通れない、
重要なものだということがよく分かった事例でした。
2011/05/29(Sun) 02:21 | URL  | 坐忘 #BbVmplvY[ 編集]
天正の大地震調べておく必要がありそうですね。
「兼見卿記」や「ルイスフロイスの日本史」のような信頼できる記録を、信憑性がないとして無視したことは電力会社の大きなミスというか、やってはいけないご都合主義と言えるでしょうか。

それにしても、太平洋側はプレートのずれによる津波の直接的な影響を受けますが、日本海側はどういうメカニズムで津波が起きるのか興味があります。

太平洋側の津波が日本海側に回り込むことは考えられますが、天正大地震は、震源は岐阜県付近とする内陸型と言われる(新聞記事より)ことから、どうして津波が起きたのか不思議です。

内陸の地震に呼応して海底の断層とかが大規模に動いたんですかね。

タイムリーなブログありがとうございます。
2011/05/29(Sun) 07:48 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
コメント御礼
坐忘さん

川内原発も不安ですよね。
鹿児島も決して地震が少ないわけではないですから。それに活火山がたくさんありますし。
原発のないもっと別の道を追求したほうがいいと思いますね。
もし何かあったら、観光も産業も交通・物流も生活もすべてダメになってしまうという想像力も働かせておかないといけないと思います。そのときに悔いてもはじまりませんから。
亜熱帯に近くて火山が多い鹿児島こそ、太陽光や地熱発電など潜在的な資源はたくさんあると思いますけどね。


NAO4@吟遊詩人さん

天正13年地震の震源地が内陸型とする根拠を知らないので何ともいえません。
ただ、もしそうなら、内陸からの震動が日本海に波及してユーラシア大陸にぶつかって戻ってきたというか、逆流してきたということはないのでしょうか?
太平洋と違い、日本海は狭いですから。
あくまで素人考えですけど。


2011/05/29(Sun) 18:46 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天正地震について
ここ10年くらい天正地震を含めて古地震を調査してきた者です。
兼見卿記やフロイス日本史の津波のことは古地震の研究者なら知らない人はいない位で明治初期から指摘されていました。

兼見卿記の津波記述は明快なので,これから科学的に実証しなければならないと思います。ただ,天正地震は内陸の複数の活断層による地震で津波は起こりません。海底が地殻変動しないと津波は発生しませんので,地震波が大陸に反射しても津波は発生しません。もし津波が発生したのなら,天正地震ではなく別の海洋の地震を疑うことになります。当時ロシア方面で地震があったのかどうか。

参考までにフロイス日本史では若狭の長浜で地震後数日後に大きな波,という記述でした。ここに二つの曖昧さが残ります。一つは長浜は小浜と解釈されていること,あとは数日後に津波です。津波は地震直後なのでちょっと違和感があるのです。今後の調査課題です。
2011/05/30(Mon) 00:34 | URL  | 悠々火山 #-[ 編集]
震源地?
悠々火山さん

初めまして。
ご教示有難うございます。
詳しく調べていらっしゃるのですね。

ただ、天正地震の震源地が内陸部だとする根拠が改めてよくわかりません。
当時の文献史料には表れないはずですが、地質的な調査などで判明しているのでしょうか?
2011/05/30(Mon) 18:40 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天正地震といえば有名なのは帰雲城ですね。

そんな天正地震については、寒川旭・著『秀吉を襲った大地震-地震考古学で戦国史を読む-』(平凡社新書)が、巻末の参考文献共々ご参考になるかと思います。

ただ同書では津波の件については触れられていないようですが、『兼見卿記』の記述からは、やはり津波は地震の直後のことのようであり、天正地震では内陸の活断層のみならず、問題の丹後・若狭・越前近辺の海底の活断層も連動して活動していたのではないでしょうか。

今回の東日本大震災を思うに、その様には考えられないでしょうか。
2011/05/30(Mon) 21:17 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
震源地は未だ不明です
この地震の震源地は未だに特定されていません。ここ30年来多くの研究者(地震学,地質学,地形学など)によってようやく,内陸の養老・桑名・四日市断層帯,荘川断層帯,阿寺断層帯の3つが候補に挙がってきましたが,そのどれかが動いたのか連動したのはまだ不明なようです。

内陸が震源である可能性は,斜面崩壊が岐阜県白川村周辺で多いこと(古文書の記録と伝承),液状化が濃尾平野の西部と富山平野の西部に集中していること(遺跡の調査),それと活断層調査(トレンチ,地形調査)で上記3つの活断層帯がどうやらこの付近の時代に活動した可能性が高いことが分かってきました。
日本海の海洋の地震なら濃尾平野まで液状化はしませんし(距離が遠いので),石川などでも液状化があると思います。また斜面崩壊も広範囲で起きるでしょう。

Tmさんご指摘の福井沖の活断層の可能性もありますが,地質学的には存在が分かっていません。仮に日本海で活断層が連動したなら新潟,富山,石川など広範囲に津波は襲来するでしょうから記録がよりどころになりますが,そのような古記録は見出されていないようです。

それと,気になっているのが兼見卿記の津波の記述の日が11月30日になっていることです。地震後わずか1日にして被害が京都に伝わってその日のうちに日記に記されたことになりますが,ちょっと信じられない感じです。
2011/05/30(Mon) 22:41 | URL  | 悠々火山 #-[ 編集]
帰雲城
Tm.さん
お久しぶりです。

そうか、埋蔵金伝説でも知られる飛騨帰雲城がありましたね。
以前、帰雲城の記事を書いたことがあったのですが、すっかり失念しておりました。

関連書籍のご紹介も有難うございます。
2011/05/30(Mon) 23:17 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
兼見の日記の書き方
悠々火山さん

震源地推定についての詳しいご紹介、有難うございます。
場所を厳密に特定はできなくても、内陸部の活断層が動いたのはほぼ確実のようですね。ならば、なぜ津波が発生したのか、今後の調査や研究を待ちたいと思います。

あと、兼見卿記の書き方について。
中近世の日記全般、とくに公家の日記にいえることですが、記主は日記をその日か翌日あたりにつけると思われがちですが、そうではなく、メモ風なものを書き留めておき、あとでまとめて推敲ないし浄書する形が多いです。

兼見も同様で、たとえば、1か月分をまとめてつけたりしています。ですから、あとからの情報が当該日に書かれているケースも少なくありません。

この地震に関しても、ブログでも書きましたが、地震のあった11月29日が2つに分けて書かれています。最初のは当日かその翌日あたりに入手した情報。2回目はその後相当日にちが経ってから知り得た情報を追記したと思われます。
ですから、日本海や近江、伊勢の情報まで含まれているわけですね。
そう考えれば、決して不思議ではありません。
2011/05/30(Mon) 23:30 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
他の古記録や地質学的証拠
>悠々火山さま
>桐野先生
>Tmさま
色々お教えくださり、ありがとうございました。天正大地震で本当に津波があったかどうか検証が待ち遠しいです。

恐らく、
地質学的に津波の痕跡(海底砂の層)が見られるかどうか、

丹後・若狭・越前の寺社などの古記録に天正地震の津波について記録がないかどうか

などがポイントになりそうですが。
2011/05/31(Tue) 04:07 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
兼見卿記の書き方の御礼ほか
桐野 さま

兼見卿記の書き方について、ご説明頂きありがとうございます。
史料の記録の仕方・背景についてはほとんど素人ですので、大変重要なご指摘でした。もしかすると、兼見卿記の津波は地震直後ではなく、フロイスのように地震の数日後かも知れない可能性もある、と思いました。仮にそうなら、この津波は11月29日の天正地震ではなく、その後の別の地震(日本海で発生)ということも考えられます。

それと、もう一つお教え下さいますでしょうか。「佐竹出羽守からの知らせで、地震で家が倒壊して兼見の妻の妹が圧死」とは、どこで圧死したかが震度の推定という意味で気になっていました。これは出羽守の居る所、つまり福井(北の庄)なのでしょうか。

吟遊詩人さんのおっしゃるように、津波堆積物の調査、古記録がポイントになると思います。これに加えて若狭湾周辺の海底活断層の詳細な調査も。
関西電力が計画しているボーリング調査というのは、津波堆積物の調査のことかも知れません。
私もかつて古記録について、図書館などで福井県の市町村史などを当たりましたが、「11月29日越前若狭に大地震」というような記述は複数の郡誌にありましたが、津波やその他被害の記述は見出せませんでした。私のは限られた史料の調査なので、公になっていない史料がたくさんあるのでしょうね。

なお、一つ補足があります。福井沖には活断層の存在は分かっていない、と先に書きましたが、これは活断層はあるのですが、天正地震に結びつくような活断層(16世紀後半に活動したもの)は知られていないという意味です。紛らわしくて申し訳ありません。
2011/06/01(Wed) 21:39 | URL  | 悠々火山 #-[ 編集]
北ノ庄
悠々火山さん

佐竹出羽守の一節は、天正13年12月17日条で、

「越州佐竹出羽守書状到来云、妹今度大地震私宅壊落死去」

とあります。
出羽守は丹羽氏の家来でしたので、北ノ庄の城下に住んでいたはずです。

もっとも、この年4月、丹羽長秀は死去し、嫡男長重は幼少で、丹羽家は改易され、若狭一国に減転封されています。

佐竹がその後どうしたのか不明ですが、「越州」とあるので、北ノ庄でいいかなと思いますが……。
2011/06/05(Sun) 00:22 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
越州の被災など
桐野 さま

佐竹出羽守の居所について,ご教示下さりありがとうございます。

岐阜県郡上市白鳥町にある長滝寺の文書(長滝経聞坊文書)に,この地震で「越州北ノ庄・鶴賀(原文ママ)滅亡」とあるのですが,両地域の被災が記録してあるのはこの文書のみで,真偽が不明でした。ご回答により少し手がかりが得られた気がします。

みなさま

ブログに突然、あつかましく投稿させて頂き、また貴重な情報交換ができました。
まことにありがとうございます。
歴史関係はあまり知らないのですが、天正~慶長期の歴史地震を扱うにつれ、史料(活字体)などを見る機会が増え、少しは16世紀後半の様子が分かり始めた所です。
また、何かありましたら、よろしくお願い致します。
2011/06/05(Sun) 19:54 | URL  | 悠々火山 #-[ 編集]
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