歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第196回
―島津久光の国葬の斎主―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きを書きました。
記事にも書いたように、いろいろ反響があり、それらの情報を参考にさせていただき、田上藤七=田中藤八=田中頼庸について補足しました。
情報を提供していただいた方々に感謝します。

今回の特徴は、やはり高崎正風との関わりですね。
高崎の日記に田中頼庸が登場し、しかも歌や風流を通じた友人関係でもあるようです。

そして、島津久光の国葬において、高崎が庶務全般の責任者、田中が祭祀の斎主という形で主導します。
福昌寺跡墓所に久光の墓がありますが、前面に鳥居が立っており、神式墓地だということがわかります。
田中と高崎の仕切りで葬儀が行われたわけですね。

それにしても興味深いのは、田中の斎主、高崎の御用掛長という辞令が久光の死の当日に出ていることです。
これは鹿児島から東京に電信で知らされ、即刻、葬儀の態勢がとられたことを示しています。あるいは、久光の危篤があらかじめ東京にも知らされていて、ある程度の準備ができていたのでしょうか?

写真は少し小さくなってしまいましたが、10年近く前に玉里邸を訪れたときに撮影したものです。
いまでも当時の庭園や池が残っています。
鹿児島女子高校のキャンパスの中というか、隣接してあります。
拝観の許可を得るために、同校の事務室に行こうとしたとき、校庭を掃除していた女子高生たちがみな明るく丁重に挨拶してくれたことを思い出します。礼儀作法がよくできた高校だと感じ入りました。
参考までに、玉里邸の庭園の写真を載せておきます。
久光やお由羅の方が見たのは確実です。

玉里邸

記事写真の黒門から続く道は国葬道路と呼ばれていて、ここから出た久光の葬列が福昌寺跡墓所まで続いたといわれています。

次回も高崎正風を書いてみようかと思っているところです。

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【2011/05/31 17:33】 | さつま人国誌
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樺山三円
山本栄一郎
桐野様

しつこくてもうしわけありませんが、樺山三円について。
樺山三円が、明治後の史料に出てくる資之と同一人物であるということに、いまいち確信が持てませんでしたので、言い出せませんでしたが、実は、明治五年から七年まで、北条県(現岡山県)七等出仕に樺山資之という人物が在籍しています。
これは、私が岡山県立図書館に確認しましたので確実です。
あの樺山三円が、地方の七等出仕に甘んじているというのが、どうにも解せなかったのです。
ただし、北条県といえば、たしか高崎猪太郎(五六)が赴任していませんでしたでしょうか?
非西郷派は、中央官吏につけず、地方にまわされたとみていいのでしょうか。
ちなみに、樺山資之は明治七年に茨城県に転出している(茨城県立図書館からは回答なし)ので、その途中に、先日お話した木戸孝允を訪問したとすれば符号は合うのですが。
もし桐野先生がご関心がございましたら、また「薩摩人国史」等でご紹介いただければ、と思います。
桐野先生は、お行儀の悪いI氏やK氏とは違うと信じておりますので・・・。

七等出仕
桐野
山本栄一郎さん

新たな情報提供、有難うございます。

ご指摘のように、三円なら七等出仕は不審ですね。三円クラスなら、悪くても知事でしょう。

う~ん、同姓同名の別人がいるのでしょうか?
あるいは息子でしょうかね?

断定せずに調べたほうがよさそうですね。


資之
山本栄一郎
桐野様

恐縮ですが、さらに樺山三円について。
もうしわけございませんが、御教示ください。

私が当初から思っている疑問なのですが、
樺山三円の諱が資之というのは、よく人名事典で見るのですが、最初の出典史料は、何なのでしょうか。

そこから調べてみようと思います。
教えていただければ幸いです。



資之
桐野
山本栄一郎さん

「資之」名乗りの初出かどうかわかりませんが、本人の日記の署名があるので確実ではないかと思います。

東大史料編纂所のデータベースに「樺山資之日記」と入力すれば、日記が表示され、その影印を見ることができます。

樺山資夫氏(おそらく資之の子孫でしょう)所蔵の日記を忠実に写した謄写本です。

その冒頭に「樺山資之日記」という題箋があり、どれから2,3枚めくれば、

樺山瀬吉郎藤原朝臣資之

という署名があります。
そこから、樺山資之、通称は瀬吉郎、氏は藤原ということが確認できると思います。




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樺山三円
桐野様

しつこくてもうしわけありませんが、樺山三円について。
樺山三円が、明治後の史料に出てくる資之と同一人物であるということに、いまいち確信が持てませんでしたので、言い出せませんでしたが、実は、明治五年から七年まで、北条県(現岡山県)七等出仕に樺山資之という人物が在籍しています。
これは、私が岡山県立図書館に確認しましたので確実です。
あの樺山三円が、地方の七等出仕に甘んじているというのが、どうにも解せなかったのです。
ただし、北条県といえば、たしか高崎猪太郎(五六)が赴任していませんでしたでしょうか?
非西郷派は、中央官吏につけず、地方にまわされたとみていいのでしょうか。
ちなみに、樺山資之は明治七年に茨城県に転出している(茨城県立図書館からは回答なし)ので、その途中に、先日お話した木戸孝允を訪問したとすれば符号は合うのですが。
もし桐野先生がご関心がございましたら、また「薩摩人国史」等でご紹介いただければ、と思います。
桐野先生は、お行儀の悪いI氏やK氏とは違うと信じておりますので・・・。
2011/05/31(Tue) 23:20 | URL  | 山本栄一郎 #-[ 編集]
七等出仕
山本栄一郎さん

新たな情報提供、有難うございます。

ご指摘のように、三円なら七等出仕は不審ですね。三円クラスなら、悪くても知事でしょう。

う~ん、同姓同名の別人がいるのでしょうか?
あるいは息子でしょうかね?

断定せずに調べたほうがよさそうですね。
2011/06/05(Sun) 00:26 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
資之
桐野様

恐縮ですが、さらに樺山三円について。
もうしわけございませんが、御教示ください。

私が当初から思っている疑問なのですが、
樺山三円の諱が資之というのは、よく人名事典で見るのですが、最初の出典史料は、何なのでしょうか。

そこから調べてみようと思います。
教えていただければ幸いです。

2011/06/05(Sun) 23:14 | URL  | 山本栄一郎 #-[ 編集]
資之
山本栄一郎さん

「資之」名乗りの初出かどうかわかりませんが、本人の日記の署名があるので確実ではないかと思います。

東大史料編纂所のデータベースに「樺山資之日記」と入力すれば、日記が表示され、その影印を見ることができます。

樺山資夫氏(おそらく資之の子孫でしょう)所蔵の日記を忠実に写した謄写本です。

その冒頭に「樺山資之日記」という題箋があり、どれから2,3枚めくれば、

樺山瀬吉郎藤原朝臣資之

という署名があります。
そこから、樺山資之、通称は瀬吉郎、氏は藤原ということが確認できると思います。


2011/06/07(Tue) 17:28 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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