歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第197回
―小松帯刀折伏はどちらか―

昨日連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回も高崎正風の日記を取り上げましたが、今回は正風とそのいとこにあたる五六について書きました。
2人は慶応年間に興味深い動きをしています。幕末薩摩藩の当該期の動向を語る場合、無視できない存在だと思いますが、討幕史観の影響が強いせいか、あまり注目されません。

私が個人的に感慨を覚えたのは、青山墓地にある両高崎の墓を参拝したとき、2人の墓が同じ区画にあったことです。正風の墓は個人墓で、ちゃんと名前が刻んでありましたが、五六のほうは家名しか刻んでなく、脇の墓碑に小さく名前があるだけでした(記事写真をご参照下さい)。
紙面には載せられませんでしたので、正風の墓の写真を載せておきます。

高崎正風

今回は、2人の動向のなかで、もっとも重要な政治活動だった小松帯刀説得工作について書きました。
工作といっても、具体的に小松との間にどのような話がなされたか不明です。

今回は、この小松を説得した高崎は、正風なのか、五六なのかという点にも触れました。
五六の日記や手紙が残っていないなか、正風の日記に当日、小松邸を訪れたと書かれているので、正風だと私も思っていました。
しかし、寺村左膳の日記をよく読むと、五六だったのではないかと思われます。その日記には「高崎伊太郎(猪太郎)」と書かれているからです。寺村が両高崎を混同していないとすれば、五六の可能性が高いのではないでしょうか。

この一件について、土佐藩参政の寺村左膳の手記に、高崎の度重なる説得に堪えかねた「小松が妾宅に逃げ込んだ」という記事があまりに印象が強いために、近年、小松が両高崎に説得されて「討幕派」から脱落したという評価もあります。

しかし、そうした評価を下すにはもう少し史料的な裏付けがほしいと思います。また史料を額面通りに読むだけでいいのかという面もあります。史料に当事者の本音や真意が示されているとは必ずしもいえないからです。とくに慶応3年(1867)後半の政局は複雑で、小松たちの言動も巧妙かつ政治的になされていますから、なかなか難しいところだと思います。

個人的には、小松・西郷・大久保のトリオの結束は堅い一方、役割分担があったのではないかと考えています。小松は対土佐担当のため、後藤らに宥和的な態度をとったり、また公家たちにもそのような応対をしている可能性があります。そのあたりの見極めが重要ではないかと思われます。

次回は何にするか、まだ思案中です。

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【2011/06/07 10:15】 | さつま人国誌
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