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表紙

拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)が本日から発売です。

書名:だれが信長を殺したのか―本能寺の変・新たな視点―
版元:PHP研究所
頁数:292頁
定価:760円+税
ISBN978-4-569-69073-5


よろしかったら、お買い求め下さい。

版元のサイトにも案内が出ております。ご参照下さい。

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【2007/03/15 10:56】 | 信長
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パルティアホースカラー
こんばんは。
早速、新著を購入させていただきました。
まだ「はじめに―本能寺の変はどのように論じられてきたか」の部分しか読んでいませんが、そこを読んでいるだけでも期待にたがわず面白そうな印象を受けました。

読み進めるのが楽しみです。

御礼
桐野
パルティアホースカラーさん、こんばんは。

さっそく拙著をお求めいただき有難うございます。
読了されたら、感想・批判などをお聞かせ願えたらと思います。

とくに、信孝問題、天正十年作暦問題、光秀が政変前に上杉景勝に通牒したのか否かという点などはそれなりの論を構築できたのではないかと思っております。


御著を購入しました。
磯部
桐野様、はじめまして。磯部と申します。
以前、藤本正行氏が「軍記・語り物研究会」において、新出三冊本『信長公記』についての見解を発表されたときに、お姿を拝見しました。

ところで、16日に御著『だれが信長を殺したのか』を2冊購入しました。小生は気に入った本は2冊買うことにしております。目次を拝見しただけでも、小生にとりましては、前作の『真説本能寺』と同様、たいへん興味深い内容であると思われます。じっくり読んでいきたいと思っています。

信長公記
桐野
磯部さん、はじめまして。

あの研究会の会場にいらしたのですか。
いやあ、恥ずかしい。

それはともあれ、2冊もお買い上げいただき、有難うございます。

その後、『信長公記』諸本については、私も関心を持続しておりまして、近々少し書く予定になっております。その節には、またこちらで紹介したいと思います。


惟任ノ妹ノ御ツマキ
Tm.
はじめまして。ご著書購入いたし、早速読ませていだいています。
自分が本能寺の変に興味を抱く切欠となったのは、まさに『信長謀殺の謎』をたまたま書店で目にし購入してからで、前作の『真説 本能寺 』で探究心に目覚め、2002.6のシンポジウム「 本能寺の変 -明智光秀の真価を問う-」 にも参加させていただきました。

今回のご著書は特に興味のある部分から目を通させていただいておりますが、最近の自分の関心は、『多聞院日記』天正九年八月廿一日の条に見られる「惟任ノ妹ノ御ツマキ」ならびに筒井順慶、定次の婚姻問題であり、後者については信孝の件においてご教示頂く点がありましたが、前者について桐野先生はどのようにお考えでしょうか。

「ツマキ」を「妻姫」として信長の側室であったとする説もありますが、むしろ光秀の室家である妻木と見るべきだ思われます。ただ、その場合には妻木某に嫁いだ光秀自身の妹とみるのが一般的なのかも知れませんが、自分は光秀室の妹のことではないかと考えています。

『兼見卿記』の天正七年の記事に「惟向州妹」(四月)や「惟任姉」(九月)として「妻木」なる女性の存在がみられることは既に知られており、先生も『俊英 明智光秀』のなかでそのことを指摘され正室亡きあと後妻となったのではないかと推定されておられますが、『多聞院日記』の記事は、まさにその彼女の死去を伝えるものと考えられないでしょうか。
しかも「信長一段ノキヨシ也」との記述からは、彼女が信長に気に入られた女性(かつて夜伽した?)であったが故に「向州無比類力落也、」ということになったのではないかと推察するのですがいかがでしょう。

ちなみに『兼見卿記』と時を同じくして『言経卿記』にも「ツマキ」なる女性が見られることを先生はご存知でしょうか?
このときの山科言経は、亡父言継の家領を無事相続した御礼に妻子を同道して信長を訪問し(ただし顔面の腫れ物により対面ならず)、続いて彼女のもとにも立ち寄り贈答を行っています。
もしこの「ツマキ」が『兼見卿記』の「ツマキ」と同一人物であったとすれば、なお一層『多聞院日記』の記述に真実味が増すように思われるのですが・・・・・

近所女房衆
桐野
Tm.さん、はじめまして。

さっそく拙著お買い上げいただき、有難うございます。
また過去の拙著、拙稿も精読されておられる由、恐縮至極です。

さて、この度のご意見、なかなか興味深く拝読しました。
とくに『言経』天正七年五月二日条は面白い記事ですね。
 山科言経が父言継の死去に伴い、信長邸に挨拶にうかがっています。この邸宅は同年二月に竣工した「二条御新造」(のちの二条御所)のことです。
信長は荒木村重を攻めるため摂津に出陣し、途中から帰京して二条御新造に入ったところに、言経が挨拶に祗候したのでしょう。
信長は言経に言継の遺領安堵と家督相続を許したようですが、ご指摘のように、信長は「面顔ニ腫物出来」という事情で、言経には面会しておりません。

問題の一節はその次です。

「其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等ニ帯二筋ツヽ遣了、其外カヽ  遣了」

ここに「ツマキ」が登場します。
言経が信長に家督相続の御礼の挨拶をしたときに、その流れで二条御新造にいる女房衆にも挨拶したというのは十分ありえますね。というか、それが儀礼的な慣習でもあります。
となると、「ツマキ」は信長付きの女房衆ということになりますから、勝俣鎮夫氏の信長の「キヨシ」(気好)だった側室という解釈があてはまるのでしょうか。

ただ、「近所女房衆」という書き方が少し引っかかっております。ただの「女房衆」なら、信長付きであることは明らかですが、「近所」をそのまま解釈すれば、二条御新造の近所ということになりますね。
たとえば、言経が家督相続の御礼挨拶をする場合、信長の重臣(とくに在京している)にも挨拶する可能性があります。京都所司代の村井貞勝などがそれに該当するでしょう。また、光秀の京都屋敷があるのも確実ですから、そこに留守の女房衆(ツマキか)がいたので進物したという考え方ができるかどうか。

まあ、ふつうなら、信長付きの女房衆だと解したほうがいいかもしれませんが。

『言経』に出てくる「ツマキ」と、『兼見』に出てくる「惟向州妹」の「妻木」、あるいは「惟任姉妻木」が同一人物なのかどうかも重要ですね。
このうち、「惟任姉妻木」について、兼見は「在京之間」と書いており、この「妻木」の居所は京都以外にありそうです。それが坂本なのか、安土なのか、どちらにもとれそうです。
また、「妹」の「妻木」が兼見のもとを訪れた天正七年四月十八日は、信長の摂津出陣、のちの在京の期間とも重なっており、信長付きの女房衆という可能性を排除できません。

もっとも、『兼見』天正八年正月十七日条で、兼見が光秀に新年の挨拶をしに坂本に行ったとき、光秀に面会したのち、「妻木」にも会って進物をしています。
進物が光秀のそれの半分であることから、「妻木」は明智家でも重要な立場の人間です。私は以前、これを光秀夫人と推定しましたが、あるいは夫人の実家の当主妻木氏(『明智軍記』だと、妻木範熈か同範賢か)の可能性もないわけではありません。微妙なところです。

同一人物か否か、決定的な証拠はありませんが、別人だとする積極的な理由もありませんね。難しいところです。

あと、『多聞院』に出てくる「御ツマキ」ですが、「御」という表記がとても不自然です。「ツマキ」が「妻木」なら、名字に冠しているわけです。
もっとも、多聞院英俊がこの女性の出自などをよく知らず、名字ではなく女性名だと勘違いして、たとえば、信長妹の市を「御市の方」というように、敬称の接頭語を付けただけなのかもしれません。

それともうひとつ、光秀の出自にも関わることですが、「妻木[惟向州妹]」や「惟任姉妻木」とする「妻木」が、たとえば、帰蝶を信長夫人斎藤氏と実家の名字で呼ぶように、実家名だとすれば、光秀の名字も本来は妻木だった(妻木家から明智家に養子入りした)可能性も考えるべきではないかと、以前から思っておりました。
光秀関係の系図のなかには、妻木ではありませんが、別の家から明智家の養子になったというのもありますので、今後、さらに要検討でしょうね。

ともあれ、ご教示有難うございました。今後の課題にしたいと思います。


信長ヨリ筒井順慶へ祝言在之、
Tm.
桐野先生、早々のご返事痛み入ります。

実際のところ『多聞院日記』の記述は多分に風聞などに基づく不確かさを伴っており、ご指摘の如く「御」を冠した「ツマキ」については、従来、他方よりも疑問が投げ掛けられていました。
その様ななかで
>光秀の名字も本来は妻木だった(妻木家から明智家に
>養子入りした)可能性も考えるべきではないかと、
>以前から思っておりました。
というのはその『多聞院』の記述に注目されてのことなのでしょうか?

『多聞院』のそれが人名であれば、妻木氏より他家に嫁いだ女性ということになろうかと思われますが、婚家の名が記されずに「信長一段ノキヨシ也」と記されているのは、やはり彼女が信長に近しい女性(側室を含め)であったとの英俊の認識を示すものといえるのではないでしょうか。
ただ、勝俣氏の「ツマキ」を「妻姫」とする解釈には疑問であり、また彼女が本当に信長の側室であったなら「信長ノ(御)ツマキ惟任ノ妹死了、」と記されていて良いかと思われ、光秀関係の系図や軍記物等にすらその事柄が記されていないことから、側室とみることにも疑問があります。

そうしたなかで自分が注目しているのは、元亀元年の二月と七月に、入京した信長が光秀の屋敷を宿所としていることであり、そのときに彼女が信長の夜伽を勤め「信長一段ノキヨシ也」となったもので、結果として身籠らなかったことで側室に召されることなく光秀の許に留まり、その後も信長入京のおりに相手になることもあったのではないかとみています。
ただ、『言経卿記』に「近所女房衆」とだけある点には疑問の余地がありますが。

実を申せば、その彼女こそが天正三年二月に筒井順慶に嫁いだ女性ではないかと考えていたのですが、最近ではその前年に亡くなった畠山昭高に嫁いでいた養女(道三の娘とも?)の再稼ではないかと考えており、その流れで信孝の猶子や大和拝領の件が出てきたのではないかとみています。

信長公記
磯部
磯部でございます。
ご多忙中のところ、御返事を賜り、厚く御礼申し上げます。
小生は太田牛一の著作にも多大な関心を抱いております。かつて、桐野様は、桶狭間合戦に関連させて、小瀬甫庵が『信長記』の執筆にあたり、天理本系統の『信長公記』を利用したのではないか、という趣旨を発表されました。大変、興味深い内容でした。近々、『信長公記』の諸本についてのご研究を発表されるとのこと、楽しみにしております。

光秀は妻木氏?
桐野
Tm.さん、こんにちは。

光秀が妻木名字だった可能性は、『多聞院』ではなく、『兼見』に基づいています。これにははっきりと、光秀の姉も妹も(おそらく同一人物ではないかと思われますが)妻木氏だと書いてあるからです。

当時、既婚の女性は、婚家ではなく実家の名字を名乗るのが常識ですね。未婚の場合ももちろんそうです。
光秀の姉妹が未婚か既婚かわかりませんが、いずれにせよ、妻木名字であるなら、光秀もそうだったのではないかと考えるのは自然です。

勝俣鎮夫氏の説についてですが、「御ツマキ」を「御妻姫」と解するのは明らかに不自然で無理筋でしょうね。重箱読みの逆、湯桶読みになりますから。

もっとも、だからといって、勝俣説が無効だとは思えなくなりました。Tm.さんのご指摘によって、どうやら信長のそば近くに「ツマキ」という女性がいることがわかったからです。
これをふつうに「妻木」と読めば、妻木氏という女性だということになり、勝俣氏の光秀妹=信長側室説の裏づけになるかもしれません。


天理本信長記
桐野
磯部さん、こんばんは。

天理本に触れた拙稿までご覧でしたか。
あれに書いたように、天理本は首巻があるので貴重です。しかも、陽明本その他と桶狭間合戦の記事に異同があり、なおかつ、甫庵信長記の記述と酷似している点があるのも、また面白いですね。

信長公記は何といっても自筆本・写本の数が半端ではなく多いですし、まだまだ発掘される可能性が高いです。
その全体を把握するというのは並大抵のことじゃないですね。


向州無比類力落也、
Tm.
桐野先生、あつかましくもすいません。

迂闊にも今まで何ら疑問に思っていませんでしたが、確かに『兼見卿記』の「惟向州妹」「惟任姉」と言う表記には留意すべきですね。
ただ、あくまでも「日記」という私的文章ゆえに、兼見自身にはそれで「光秀室の」という意味をもっていたのではないでしょうか。

もっとも、『多聞院日記』の「惟任ノ妹ノ」までをそのように解するのは難しいのですが、それこそ「姉ではなく妹の方の」という認識が英俊にはあったのではないでしょうか?

その上で素直に「ツマキ」を信長の側室としてみられないのは、やはり俗説の類にもそのことを見出すことが出来ないからであり、『多聞院』の「惟任ノ」を「光秀の許に居た」とするのは曲解でしょうか。

いづれにせよ、英俊がそれを記した時点で「本能寺の変」は予想出来ないはずですから、「信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、」には、彼女の死が光秀と信長の関係に一点の影を落としたことを窺えるような気がします。


難しいですね
桐野
Tm. さん、こんにちは。

『兼見』に出てくる「惟任姉」「惟向州妹」ですが、素直に読めば、光秀夫人(後妻)には解しにくいですね。

これ以前、『兼見』天正四年五月二十四日条に、光秀夫人とおぼしき人が書かれていますが、それは「女房衆」とあります。
彼女が光秀夫人であることはほぼ間違いないと思います。ただ、西教寺過去帳によれば、彼女は同年十一月に死去したとされています。
彼女が妻木氏の娘であることを、一次史料で確認できるのかどうかわかりませんが、もし通説どおり、妻木氏だとすれば、光秀の姉妹も妻木氏であることをどう整合的に理解すればよいかということになります。

以前の拙稿では、「惟向州妹」の妻木氏を同姉と同一人物とし(兼見が勘違いした)、さらに亡くなった光秀夫人の妹で光秀の後妻になったと推定するという、やや荒っぽい方法で解決しようとしたのですが、果たして妥当だったかどうかはわかりません。

「惟任姉」も「惟向州妹」も素直に読めば、光秀の後妻だとは思えませんよね。しかし、二人とも妻木氏を名乗っている。光秀の実姉か実妹なら、明智氏(もしくは惟任氏)でなければならないはずで、これまた別の問題が派生します。
それを解決するには、光秀も妻木氏の出だった(その後、明智家の養子になった)とするのも、ひとつの方法だと思います。

堂々めぐりの議論で申し訳ありません。

>その上で素直に「ツマキ」を信長の側室としてみられないのは、やはり俗説の類にもそのことを見出すことが出来ないからであり、『多聞院』の「惟任ノ」を「光秀の許に居た」とするのは曲解でしょうか。

この部分ですが、一般的には、俗説よりも一次史料を重視すべきだろうと思います。たとえ意外性があったとしてもです。
仰せのとおり、編纂物や軍記物などには、光秀の妹が信長側室だったというのはおそらくないと思いますが、だからといって、事実ではないとは限りません。
それと、『多聞院』の記事だけでは、「惟任の妹」がどこにいたかまではわかりませんね。

信長公記
磯部
桐野様、ご多忙中のところ、恐れ入ります。
磯部でございます。

『信長公記』に関する桐野様のご論文が掲載されていたために、発行当時、『歴史読本』を購入しました。

池田家文庫本『信長記』については、影印本が刊行されておりますし、陽明文庫本などに代表される、一般的に最も知られている『信長公記』は角川文庫から注釈書が出ております。しかし、『信長公記』の伝本は、そのほかに、石田善人氏が紹介された、牛一のご子孫の家に伝わる一本があります。この本と他本との異同については、ほとんど知られておりません。

こんにち、信長に関する研究は進んでいますし、良質な本でも調査しやすい環境になっております。ですので、他の軍記では当然のように行われている、詳細な校異と注釈とを兼ね備えた翻刻書の刊行を希望しているのですが、着手しようとする研究者はなかなか現れないようですね。

前回の繰り返しになりますが、桐野様のご論文を楽しみにしております。

感想
板倉丈浩
こんばんは。御著書、早速購入し、読了いたしました。
巻末の参考文献を見るだけでも、史料発掘と論文収集に大変な労力をかけた力作だということがわかります。
これで760円は安いですね(^^

感想ですが、信孝問題についてはすでに言及しましたので、それ以外に気がついた点をいくつか列挙いたしますと・・・。

(1)三好式部少輔の地位について(P84)

『信長文書』928号の解釈ですが、当時の土佐における長宗我部氏の地位について、一条氏を国主に仰いだ「大津御所体制」であったとする説や、康長の副状が「阿波国について信長朱印状が出た。式部少輔は若輩ゆえ、諸事御指南願いたい」という内容であることから類推すると、「元親に服属した式部少輔の処遇を保証する」というよりは、「式部少輔を阿波国主とし、長宗我部氏がそれを補佐する体制の承認」と解釈することもできそうですが、どうでしょう。

(2)天正10年5月27日付け堀秀政書状について(P185)

この書状ですが、秀政は5月17日に信長より秀吉への使者として出立を命じられており、同月20日に家康の接待を命じられているとする『信長公記』の記事すら誤りではないかと指摘されているのに(高柳光寿『明智光秀』)、27日にこんな書状を出しているというのはどうなんでしょう。
「内容は信頼できる」とする見解もありますが、私としてはちょっと信憑性に疑問を感じています。

(3)本能寺の変の直前期における光秀の地位について(P120)

「四国国分令ともいうべき信長朱印状によって、光秀と信長・信孝父子の対立は決定的になったと考えられる(中略)光秀と明智家中には大きな政治的打撃となり、光秀の地位の低下にも直結しかねなかった」とありますが、有力部将のほとんどを遠方に追いやって光秀のみを側に置いていたことを考えれば、信長の光秀に対する信頼と寵遇は絶大であり、変の直前期において、むしろその頂点に達していたと見るべきではないでしょうか。

(4)本能寺の変とは何だったのか(P280)

「光秀の謀反を希有で特殊なケースとするのか、当時の時代背景から蓋然的にありえたとするか、私には答える用意がない」と書かれておられるので、私見を述べさせていただきますと、戦国時代を含む中世という時代はとにかく性格の激しい人が多く、衝動的な武力行使は日常茶飯事でしたので、光秀の信長殺しもその一つにすぎないという印象を持っています。

むしろ日本の歴史上、希有で特殊なのは、秀吉が「主君の仇を討った」ことなんですけどね・・・。まあこれは余談ですが。



感想(追加)
板倉丈浩
すみません。あと一点だけ追加します。

(5)「惟任公儀を奉じて」の解釈(P216)

ここを「信長の決定を奉じて」と解釈するのはどうでしょうか。そういう場合は「公儀」ではなく「上意」ではないかと思うのですが・・・。
ここは普通に「公儀=信長本人」という意味に解すべきだと思います。



信長記諸本
桐野
磯部さん、こんにちは。

またコメント有難うございます。
ご紹介の太田牛一子孫家に伝来する一本がありましたね(石田善人「『信長記』の成立とその意義」 『織田信長のすべて』所収)。

『信長記』諸本の全容を一番網羅しているのは、内藤昌『復元安土城』にある一覧表だと思うのですが、これはほとんど団体・機関所蔵のもので、個人蔵は一点しかありません。
子孫家の分は入っておりませんが、もしかして門外不出の扱いなんでしょうか? 系統的には建勲神社本に近いようですが。

仰せのとおり、『信長記』のすべてを網羅した体系的な校訂本がないのが現状ですね。
例の軍記物の研究会に参加して、国文学方面では、平家物語や太平記などでその作業はとても精緻に行われていることが理解できましたが、日本史では遅々としていますね。


お礼など
磯部
桐野様、こんばんは。

磯部でございます。
本題からずれているコメントに対し、毎回、丁寧なご返事を賜り、たいへん恐縮しております。

太田家蔵『信長記』については、石田善人氏と谷口克広氏のご発言しか、小生には資料がありません。それらから推測するに、桐野様がおっしゃるように、建勲神社本の系統に近いものと思われます。
小生も『信長公記』については少々考えることがありますが、ご覧の通り、文章力が欠如しているので、なかなかまとめられません。

桐野様のご著作・ご論文から大いに学ばせていただきたいと思っております。





御礼&質問
かわと
改めて、ご著書をご恵贈くださいましてありがとうございました。
怠慢にも実はまだ4章までしか読んでおりませんでして…、読了次第、私のブログで紹介させていただこうと思います。

内容に深く踏み込んだ議論は私にはできないのですが、とりあえず一点、196頁で引用されている賀茂社の算用状が興味深いです。
論旨には全然関係なくて恐縮ですが、その中の翻刻されておられない箇所で、6月6日に「御屋形様」へ300文を支出した記事がありますが、これは誰なのかわかるのでしょうか? ご存じでしたらご教示いただければ幸いです。

羽柴秀勝かも
桐野
かわとさん、こんにちは。

「御屋形様」に気づかれましたか。写真の文字が小さいのですが、さすがですね。

じつは私も判断に迷って書きませんでした。
武家であることは間違いないし、通常、この言葉は守護クラスを指すか、織田家の場合、信忠以下の連枝衆が「殿様」と呼ばれるので、これに該当するかなと思いました。
でも、守護クラスは京兆家の細川信良くらいですが、彼は四国に逃亡していたようだし、織田家では、三七信孝はすでに名前が出ている、信雄は伊勢にいるし、彼の場合はむしろ「御本所様」と呼ばれることが多い。

そんなわけで、該当者はいないかと思ったのですが、一人だけいました。
秀吉の養子になった信長四男の御次こと秀勝です。秀勝もこのとき出陣して、摂津富田だったかで信長の供養をして秀吉共々、髪をおろして復仇を誓うという儀式をしています。
ただ、信長の息子という貴種性からすれば、300文は少ない気がするのですが、秀吉の前に書かれていることで、家柄の高さを表しつつ、養子なので、養父秀吉よりは銭額が少ないという落としどころかなと思いました。

そうそう、かわとさんに逆に教えてもらいたいことが2点あります。

1,「金伏」
 算用状の頭に書かれているこの文言、どういう意味でしょうかね? 最初「金状」かと思ったのですが、やはり「金伏」としか読めなくて。読みも「きんふせ」「かねふせ」「かなふせ」……どう読んだらいいのか? 銭も米もこれで表記してありますね。

2,禁制は敵味方双方からもらえるのか
 藤木久志氏だったか、稲葉継陽氏だったかが書いていた論文の中に、禁制は敵味方の双方から受給せず、必ず一方の陣営からだけだとあった記憶があるのですが、上賀茂社はどうやら両陣営に献金しています。光秀方からその見返りとして禁制を受給したのは確認できますが、秀吉方からは管見ではないようです。献金しただけで済ませたのでしょうかね? 少し不自然な気もしますが。それに6月6日は、秀吉は畿内に入っていないと思うのですけど、どこでどうやって渡したのかという疑問もあります(まあ、洛北を6日に出発すれば、9日頃には摂津あたりで遭遇しそうですが)。




かわと
ご教示ありがとうございます。
羽柴秀勝ですか…。ほかの史料で秀勝を「御屋形様」と呼んでいるものがあれば確定的ですが、類例はあるんでしょうかね。

さて、ご質問の件ですが。


私も「金伏」というのは初めて見ましたが、どうやら米での支払にのみ付されているようなので、升の種類ではないか、と思います。別のところで「判」というのもありますが、こちらは「判升」と言う升があることはすでに知られていますので、おそらく間違いないでしょう。


禁制については実効支配の確定をもって発給されるものであるのが一般的なので、双方から取り付けるというのは私もあまり聞いたことがありません。
事件の特異性と、京都の特殊性が作用したのでしょうか。
6日に計上して、秀吉の元へ使者を向かわせたのでしょうね。賀茂社は天文前半にいち早く幕府に赦免された本願寺と関係を結んだりと、なかなかしたたかな神社です(笑)。

あとこの算用状の別のところで、鳥羽へ使者を使わしたと思われる記述もありますね。ご著書によると、この直後に光秀が鳥羽に入ったそうですが、その絡みなんでしょうかね。

やっぱり細川信良か
桐野
かわとさん、ご教示有難うございます。

羽柴秀勝はまだ養子の身で家督を継いでいませんから、やはり無理筋でしょうかね。
となると、やはり旧公方衆の守護クラスになるかと思いますが、天正9年2月の馬揃えのとき参加しているのは、

細川右京大夫(信良)
細川右馬頭(藤賢)
伊勢兵庫頭(貞為)
一色左京権大夫(満信)
小笠原(貞慶)

このうち、「御屋形様」に該当する守護クラスは細川信良、一色満信、小笠原貞慶(信濃守護小笠原長時の嫡男)の3人でしょうかね。
一色は丹後だし、小笠原は小身です。衰えたりとはいえ、京兆家の信良でしょうか?
のちに土佐に下向していますが、その時期が不明のようですから、本能寺の変直後はまだ畿内周辺にいた可能性があります。あるいは、信孝の四国渡海軍に従軍していたか。
300文と少ないのは、他の諸将とくらべ、一軍の将ではないと考えればいいのかもしれません。

「金伏」、よく見ると米だけでしたね。升の種類というのは思いもつきませんでした。判升というのもあるんですね。いわゆる京升とは違うのでしょうか?

鳥羽云々も6月6日のくだりにありますが、光秀が下鳥羽に移ったのは9日です。それ以前、その地に明智方の陣所があったかどうかは不明です。勝龍寺城に明智軍がいるとは思いますが……。
翻刻は次の通りです。

ひた/五十二文  酒肴鳥羽衆雑掌[さしそへ まて四人]  
*[ ]は割書

「鳥羽衆」に酒肴を届けた賀茂社雑掌4人の手間賃が52文(1人13文ずつ)ということでしょうか。
鳥羽衆って誰でしょうね?

なお、この52文は「ひた」ですから、鐚銭ですね。
そういえば、そのあとに出てくる「芝山所」以下「堀久太郎殿」までの銭はすべて「ひた」とあります。写真だと見づらいかもしれません。

明智方の諸将に贈った銭は「ひた」とは書いてないですから、比較的良質だったのでしょうか? 現実の実効支配者を優遇したということでしょうかね(笑)。
あるいは、禁制を受給する場合の贈答銭は鐚銭では不可という慣習でもあるのかどうか。

あと、丹羽長秀の奏者「長束新三郎」へ200文贈っていますが、これは豊臣政権の五奉行の一人、長束正家でしょうね。

意外と面白い史料かもしれません。



御屋形、升、ビタ…
かわと
16世紀前半までなら、「御屋形様」といえばまず間違いなく細川京兆家当主を指すと思いますから、やはり細川信良が一番蓋然性が高いような気がします。腐っても鯛、ですかね(笑)。伊勢も家来の蜷川氏からは「屋形」と呼ばれたりしますが、ここではちょっと違うでしょうねえ。

升についてはあまり詳しくないのですが…、「判升」が「京升」と同一であった可能性はあるかもしれません。この辺は後日専門書にあたってみたいと思います。
ただ、語源はその名の通り有力者の判が押された升で、後には前田玄以が判を押した升というものも見られたようです。(http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho19.htmの4月24日の記事が見つかりました。)

「ひた」って、そうか、鐚ですね。気が付きませんでした(笑)。
確かに明智家中へはその注記がありませんね。精銭と鐚銭の使い分けがされた可能性もあるかもしれません。

ただ、実は私自身はその見解には懐疑的でして…(笑)、算用状の記載のアヤかなぁと思います。最初は銭については注記せずにいたものの、算用状の後半になって米との区別を付けるために「ひた」という注記を付けたのだと思います。

この時期になると、京都や奈良では「ビタ」といっても悪銭ではなく、通用銭一般を指すようになっています(たとえば『多聞院日記』など)。しかも1580年代には品薄からか「ビタ」が金銀に対して相場が上がっていることもわかっています(毛利一憲「ビタ銭の価値変動に関する研究」『日本歴史』310・311、1974年)。

「ビタ(鐚)」は字の如く悪銭を指す言葉だったように思えるんですが(ちなみに「鐚」は国字です)、史料上では上記のように通用銭を指すことがほとんどで、良銭に対する悪銭を指す用語として使用された形跡がありません。
この語は、「良銭(精銭)」の対義語として登場したのではなく、16世紀における銭貨そのものの品質低下によって、銭貨そのものを指す蔑称として登場したのではないか、と考えていたりします(おおっぴらに言ったことはまだありませんが(笑))。

横道にそれてしまいました。すみません。

最後ですが、「衆」と読まれた字、「にて」ではなかろうかと思います。「酒肴鳥羽にて、雑掌[さしそへ/まて四人]」となりますか。鳥羽へ酒肴を差し入れした、という意味ではないかと理解しました。

ビタ
桐野
かわとさん、どうも。

再度のご教示有難うございます。

>4月24日 十右衛門・三河、伊勢御遷宮の米を「玄以御判枡」にて米を払う。〔「慶光院文書」四〕

「慶光院文書」といえば、けっこう有名な史料ですね。前田玄以お墨付きの判枡。日本史の教科書にある豊臣政権の太閤検地と度量衡の統一というのを、ナマで見る感じです(笑)。

「ビタ」がいわゆる悪貨ではない、通説の弊害があるというご指摘、大変勉強になります。

「ビタ」が1580年代に、品薄のため金銀に比して相場が上がっているというご指摘は当時の経済状況がリアルに伝わってきます。さすがご専門ですね。
その背景としては、やはり同時代の中国の動きを見たほうがよいのでしょうか? たとえば、次のようなサイクルが想定されるのかどうか。

銀の大量流入→税の銀納化の進展→銭貨鋳造の減少→日本への銭貨輸出減少→日本の銭貨相場高騰

「にて」のご指摘も有難うございます。迂濶でした。おこしはいつも詰めが甘くて(爆)。



かわと
銭貨を巡るサイクルとしては、マクロ的にはその通りだと思います。ただ中国(明)の銀財政化は既に15世紀に始まっています。

とはいえ、中国から銭が入ってこなくなった、ああ困った…と右往左往しただけだったかというと、実はそうでもないかなぁ、と(笑)。「私鋳銭」「模鋳銭」などと呼ばれますが、日本での独自の銭貨鋳造が想像以上に普及していた可能性があります。

元々日本は中国に輸出していたほど銅を多く産出していたことや、17世紀に入ると日本は独自の発行(寛永通宝)のみならず、輸出するための銭貨(「長崎貿易銭」)を鋳造するほどになっていますので(もちろんこれは幕府権力の積極的関与によるものですが)、16世紀段階でもそのような動向はわりと見られたのではないか、ということになります。

もっとも、その検証のための史料的アプローチは極めて難しいので、考古学的検証の深化を待つほかはない点もどかしいのですが…、ただ、着実にその徴候が明らかになってきています。

すみません。いつのまにか完全に我田引水な話題になってしまいましたね…。この件に対する私のスタンスは流行りのマクロ的視点に対する批判にあるもので、つい細かい話になってしまいます(笑)。

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この記事へのコメント
こんばんは。
早速、新著を購入させていただきました。
まだ「はじめに―本能寺の変はどのように論じられてきたか」の部分しか読んでいませんが、そこを読んでいるだけでも期待にたがわず面白そうな印象を受けました。

読み進めるのが楽しみです。
2007/03/15(Thu) 20:42 | URL  | パルティアホースカラー #-[ 編集]
御礼
パルティアホースカラーさん、こんばんは。

さっそく拙著をお求めいただき有難うございます。
読了されたら、感想・批判などをお聞かせ願えたらと思います。

とくに、信孝問題、天正十年作暦問題、光秀が政変前に上杉景勝に通牒したのか否かという点などはそれなりの論を構築できたのではないかと思っております。
2007/03/15(Thu) 23:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
御著を購入しました。
桐野様、はじめまして。磯部と申します。
以前、藤本正行氏が「軍記・語り物研究会」において、新出三冊本『信長公記』についての見解を発表されたときに、お姿を拝見しました。

ところで、16日に御著『だれが信長を殺したのか』を2冊購入しました。小生は気に入った本は2冊買うことにしております。目次を拝見しただけでも、小生にとりましては、前作の『真説本能寺』と同様、たいへん興味深い内容であると思われます。じっくり読んでいきたいと思っています。
2007/03/17(Sat) 00:30 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
信長公記
磯部さん、はじめまして。

あの研究会の会場にいらしたのですか。
いやあ、恥ずかしい。

それはともあれ、2冊もお買い上げいただき、有難うございます。

その後、『信長公記』諸本については、私も関心を持続しておりまして、近々少し書く予定になっております。その節には、またこちらで紹介したいと思います。
2007/03/17(Sat) 00:38 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
惟任ノ妹ノ御ツマキ
はじめまして。ご著書購入いたし、早速読ませていだいています。
自分が本能寺の変に興味を抱く切欠となったのは、まさに『信長謀殺の謎』をたまたま書店で目にし購入してからで、前作の『真説 本能寺 』で探究心に目覚め、2002.6のシンポジウム「 本能寺の変 -明智光秀の真価を問う-」 にも参加させていただきました。

今回のご著書は特に興味のある部分から目を通させていただいておりますが、最近の自分の関心は、『多聞院日記』天正九年八月廿一日の条に見られる「惟任ノ妹ノ御ツマキ」ならびに筒井順慶、定次の婚姻問題であり、後者については信孝の件においてご教示頂く点がありましたが、前者について桐野先生はどのようにお考えでしょうか。

「ツマキ」を「妻姫」として信長の側室であったとする説もありますが、むしろ光秀の室家である妻木と見るべきだ思われます。ただ、その場合には妻木某に嫁いだ光秀自身の妹とみるのが一般的なのかも知れませんが、自分は光秀室の妹のことではないかと考えています。

『兼見卿記』の天正七年の記事に「惟向州妹」(四月)や「惟任姉」(九月)として「妻木」なる女性の存在がみられることは既に知られており、先生も『俊英 明智光秀』のなかでそのことを指摘され正室亡きあと後妻となったのではないかと推定されておられますが、『多聞院日記』の記事は、まさにその彼女の死去を伝えるものと考えられないでしょうか。
しかも「信長一段ノキヨシ也」との記述からは、彼女が信長に気に入られた女性(かつて夜伽した?)であったが故に「向州無比類力落也、」ということになったのではないかと推察するのですがいかがでしょう。

ちなみに『兼見卿記』と時を同じくして『言経卿記』にも「ツマキ」なる女性が見られることを先生はご存知でしょうか?
このときの山科言経は、亡父言継の家領を無事相続した御礼に妻子を同道して信長を訪問し(ただし顔面の腫れ物により対面ならず)、続いて彼女のもとにも立ち寄り贈答を行っています。
もしこの「ツマキ」が『兼見卿記』の「ツマキ」と同一人物であったとすれば、なお一層『多聞院日記』の記述に真実味が増すように思われるのですが・・・・・
2007/03/18(Sun) 00:37 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
近所女房衆
Tm.さん、はじめまして。

さっそく拙著お買い上げいただき、有難うございます。
また過去の拙著、拙稿も精読されておられる由、恐縮至極です。

さて、この度のご意見、なかなか興味深く拝読しました。
とくに『言経』天正七年五月二日条は面白い記事ですね。
 山科言経が父言継の死去に伴い、信長邸に挨拶にうかがっています。この邸宅は同年二月に竣工した「二条御新造」(のちの二条御所)のことです。
信長は荒木村重を攻めるため摂津に出陣し、途中から帰京して二条御新造に入ったところに、言経が挨拶に祗候したのでしょう。
信長は言経に言継の遺領安堵と家督相続を許したようですが、ご指摘のように、信長は「面顔ニ腫物出来」という事情で、言経には面会しておりません。

問題の一節はその次です。

「其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等ニ帯二筋ツヽ遣了、其外カヽ  遣了」

ここに「ツマキ」が登場します。
言経が信長に家督相続の御礼の挨拶をしたときに、その流れで二条御新造にいる女房衆にも挨拶したというのは十分ありえますね。というか、それが儀礼的な慣習でもあります。
となると、「ツマキ」は信長付きの女房衆ということになりますから、勝俣鎮夫氏の信長の「キヨシ」(気好)だった側室という解釈があてはまるのでしょうか。

ただ、「近所女房衆」という書き方が少し引っかかっております。ただの「女房衆」なら、信長付きであることは明らかですが、「近所」をそのまま解釈すれば、二条御新造の近所ということになりますね。
たとえば、言経が家督相続の御礼挨拶をする場合、信長の重臣(とくに在京している)にも挨拶する可能性があります。京都所司代の村井貞勝などがそれに該当するでしょう。また、光秀の京都屋敷があるのも確実ですから、そこに留守の女房衆(ツマキか)がいたので進物したという考え方ができるかどうか。

まあ、ふつうなら、信長付きの女房衆だと解したほうがいいかもしれませんが。

『言経』に出てくる「ツマキ」と、『兼見』に出てくる「惟向州妹」の「妻木」、あるいは「惟任姉妻木」が同一人物なのかどうかも重要ですね。
このうち、「惟任姉妻木」について、兼見は「在京之間」と書いており、この「妻木」の居所は京都以外にありそうです。それが坂本なのか、安土なのか、どちらにもとれそうです。
また、「妹」の「妻木」が兼見のもとを訪れた天正七年四月十八日は、信長の摂津出陣、のちの在京の期間とも重なっており、信長付きの女房衆という可能性を排除できません。

もっとも、『兼見』天正八年正月十七日条で、兼見が光秀に新年の挨拶をしに坂本に行ったとき、光秀に面会したのち、「妻木」にも会って進物をしています。
進物が光秀のそれの半分であることから、「妻木」は明智家でも重要な立場の人間です。私は以前、これを光秀夫人と推定しましたが、あるいは夫人の実家の当主妻木氏(『明智軍記』だと、妻木範熈か同範賢か)の可能性もないわけではありません。微妙なところです。

同一人物か否か、決定的な証拠はありませんが、別人だとする積極的な理由もありませんね。難しいところです。

あと、『多聞院』に出てくる「御ツマキ」ですが、「御」という表記がとても不自然です。「ツマキ」が「妻木」なら、名字に冠しているわけです。
もっとも、多聞院英俊がこの女性の出自などをよく知らず、名字ではなく女性名だと勘違いして、たとえば、信長妹の市を「御市の方」というように、敬称の接頭語を付けただけなのかもしれません。

それともうひとつ、光秀の出自にも関わることですが、「妻木[惟向州妹]」や「惟任姉妻木」とする「妻木」が、たとえば、帰蝶を信長夫人斎藤氏と実家の名字で呼ぶように、実家名だとすれば、光秀の名字も本来は妻木だった(妻木家から明智家に養子入りした)可能性も考えるべきではないかと、以前から思っておりました。
光秀関係の系図のなかには、妻木ではありませんが、別の家から明智家の養子になったというのもありますので、今後、さらに要検討でしょうね。

ともあれ、ご教示有難うございました。今後の課題にしたいと思います。
2007/03/18(Sun) 11:18 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
信長ヨリ筒井順慶へ祝言在之、
桐野先生、早々のご返事痛み入ります。

実際のところ『多聞院日記』の記述は多分に風聞などに基づく不確かさを伴っており、ご指摘の如く「御」を冠した「ツマキ」については、従来、他方よりも疑問が投げ掛けられていました。
その様ななかで
>光秀の名字も本来は妻木だった(妻木家から明智家に
>養子入りした)可能性も考えるべきではないかと、
>以前から思っておりました。
というのはその『多聞院』の記述に注目されてのことなのでしょうか?

『多聞院』のそれが人名であれば、妻木氏より他家に嫁いだ女性ということになろうかと思われますが、婚家の名が記されずに「信長一段ノキヨシ也」と記されているのは、やはり彼女が信長に近しい女性(側室を含め)であったとの英俊の認識を示すものといえるのではないでしょうか。
ただ、勝俣氏の「ツマキ」を「妻姫」とする解釈には疑問であり、また彼女が本当に信長の側室であったなら「信長ノ(御)ツマキ惟任ノ妹死了、」と記されていて良いかと思われ、光秀関係の系図や軍記物等にすらその事柄が記されていないことから、側室とみることにも疑問があります。

そうしたなかで自分が注目しているのは、元亀元年の二月と七月に、入京した信長が光秀の屋敷を宿所としていることであり、そのときに彼女が信長の夜伽を勤め「信長一段ノキヨシ也」となったもので、結果として身籠らなかったことで側室に召されることなく光秀の許に留まり、その後も信長入京のおりに相手になることもあったのではないかとみています。
ただ、『言経卿記』に「近所女房衆」とだけある点には疑問の余地がありますが。

実を申せば、その彼女こそが天正三年二月に筒井順慶に嫁いだ女性ではないかと考えていたのですが、最近ではその前年に亡くなった畠山昭高に嫁いでいた養女(道三の娘とも?)の再稼ではないかと考えており、その流れで信孝の猶子や大和拝領の件が出てきたのではないかとみています。
2007/03/18(Sun) 16:53 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
信長公記
磯部でございます。
ご多忙中のところ、御返事を賜り、厚く御礼申し上げます。
小生は太田牛一の著作にも多大な関心を抱いております。かつて、桐野様は、桶狭間合戦に関連させて、小瀬甫庵が『信長記』の執筆にあたり、天理本系統の『信長公記』を利用したのではないか、という趣旨を発表されました。大変、興味深い内容でした。近々、『信長公記』の諸本についてのご研究を発表されるとのこと、楽しみにしております。
2007/03/18(Sun) 19:58 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
光秀は妻木氏?
Tm.さん、こんにちは。

光秀が妻木名字だった可能性は、『多聞院』ではなく、『兼見』に基づいています。これにははっきりと、光秀の姉も妹も(おそらく同一人物ではないかと思われますが)妻木氏だと書いてあるからです。

当時、既婚の女性は、婚家ではなく実家の名字を名乗るのが常識ですね。未婚の場合ももちろんそうです。
光秀の姉妹が未婚か既婚かわかりませんが、いずれにせよ、妻木名字であるなら、光秀もそうだったのではないかと考えるのは自然です。

勝俣鎮夫氏の説についてですが、「御ツマキ」を「御妻姫」と解するのは明らかに不自然で無理筋でしょうね。重箱読みの逆、湯桶読みになりますから。

もっとも、だからといって、勝俣説が無効だとは思えなくなりました。Tm.さんのご指摘によって、どうやら信長のそば近くに「ツマキ」という女性がいることがわかったからです。
これをふつうに「妻木」と読めば、妻木氏という女性だということになり、勝俣氏の光秀妹=信長側室説の裏づけになるかもしれません。
2007/03/18(Sun) 23:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天理本信長記
磯部さん、こんばんは。

天理本に触れた拙稿までご覧でしたか。
あれに書いたように、天理本は首巻があるので貴重です。しかも、陽明本その他と桶狭間合戦の記事に異同があり、なおかつ、甫庵信長記の記述と酷似している点があるのも、また面白いですね。

信長公記は何といっても自筆本・写本の数が半端ではなく多いですし、まだまだ発掘される可能性が高いです。
その全体を把握するというのは並大抵のことじゃないですね。
2007/03/18(Sun) 23:28 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
向州無比類力落也、
桐野先生、あつかましくもすいません。

迂闊にも今まで何ら疑問に思っていませんでしたが、確かに『兼見卿記』の「惟向州妹」「惟任姉」と言う表記には留意すべきですね。
ただ、あくまでも「日記」という私的文章ゆえに、兼見自身にはそれで「光秀室の」という意味をもっていたのではないでしょうか。

もっとも、『多聞院日記』の「惟任ノ妹ノ」までをそのように解するのは難しいのですが、それこそ「姉ではなく妹の方の」という認識が英俊にはあったのではないでしょうか?

その上で素直に「ツマキ」を信長の側室としてみられないのは、やはり俗説の類にもそのことを見出すことが出来ないからであり、『多聞院』の「惟任ノ」を「光秀の許に居た」とするのは曲解でしょうか。

いづれにせよ、英俊がそれを記した時点で「本能寺の変」は予想出来ないはずですから、「信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、」には、彼女の死が光秀と信長の関係に一点の影を落としたことを窺えるような気がします。
2007/03/19(Mon) 07:10 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
難しいですね
Tm. さん、こんにちは。

『兼見』に出てくる「惟任姉」「惟向州妹」ですが、素直に読めば、光秀夫人(後妻)には解しにくいですね。

これ以前、『兼見』天正四年五月二十四日条に、光秀夫人とおぼしき人が書かれていますが、それは「女房衆」とあります。
彼女が光秀夫人であることはほぼ間違いないと思います。ただ、西教寺過去帳によれば、彼女は同年十一月に死去したとされています。
彼女が妻木氏の娘であることを、一次史料で確認できるのかどうかわかりませんが、もし通説どおり、妻木氏だとすれば、光秀の姉妹も妻木氏であることをどう整合的に理解すればよいかということになります。

以前の拙稿では、「惟向州妹」の妻木氏を同姉と同一人物とし(兼見が勘違いした)、さらに亡くなった光秀夫人の妹で光秀の後妻になったと推定するという、やや荒っぽい方法で解決しようとしたのですが、果たして妥当だったかどうかはわかりません。

「惟任姉」も「惟向州妹」も素直に読めば、光秀の後妻だとは思えませんよね。しかし、二人とも妻木氏を名乗っている。光秀の実姉か実妹なら、明智氏(もしくは惟任氏)でなければならないはずで、これまた別の問題が派生します。
それを解決するには、光秀も妻木氏の出だった(その後、明智家の養子になった)とするのも、ひとつの方法だと思います。

堂々めぐりの議論で申し訳ありません。

>その上で素直に「ツマキ」を信長の側室としてみられないのは、やはり俗説の類にもそのことを見出すことが出来ないからであり、『多聞院』の「惟任ノ」を「光秀の許に居た」とするのは曲解でしょうか。

この部分ですが、一般的には、俗説よりも一次史料を重視すべきだろうと思います。たとえ意外性があったとしてもです。
仰せのとおり、編纂物や軍記物などには、光秀の妹が信長側室だったというのはおそらくないと思いますが、だからといって、事実ではないとは限りません。
それと、『多聞院』の記事だけでは、「惟任の妹」がどこにいたかまではわかりませんね。
2007/03/19(Mon) 16:38 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
信長公記
桐野様、ご多忙中のところ、恐れ入ります。
磯部でございます。

『信長公記』に関する桐野様のご論文が掲載されていたために、発行当時、『歴史読本』を購入しました。

池田家文庫本『信長記』については、影印本が刊行されておりますし、陽明文庫本などに代表される、一般的に最も知られている『信長公記』は角川文庫から注釈書が出ております。しかし、『信長公記』の伝本は、そのほかに、石田善人氏が紹介された、牛一のご子孫の家に伝わる一本があります。この本と他本との異同については、ほとんど知られておりません。

こんにち、信長に関する研究は進んでいますし、良質な本でも調査しやすい環境になっております。ですので、他の軍記では当然のように行われている、詳細な校異と注釈とを兼ね備えた翻刻書の刊行を希望しているのですが、着手しようとする研究者はなかなか現れないようですね。

前回の繰り返しになりますが、桐野様のご論文を楽しみにしております。
2007/03/19(Mon) 23:25 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
感想
こんばんは。御著書、早速購入し、読了いたしました。
巻末の参考文献を見るだけでも、史料発掘と論文収集に大変な労力をかけた力作だということがわかります。
これで760円は安いですね(^^

感想ですが、信孝問題についてはすでに言及しましたので、それ以外に気がついた点をいくつか列挙いたしますと・・・。

(1)三好式部少輔の地位について(P84)

『信長文書』928号の解釈ですが、当時の土佐における長宗我部氏の地位について、一条氏を国主に仰いだ「大津御所体制」であったとする説や、康長の副状が「阿波国について信長朱印状が出た。式部少輔は若輩ゆえ、諸事御指南願いたい」という内容であることから類推すると、「元親に服属した式部少輔の処遇を保証する」というよりは、「式部少輔を阿波国主とし、長宗我部氏がそれを補佐する体制の承認」と解釈することもできそうですが、どうでしょう。

(2)天正10年5月27日付け堀秀政書状について(P185)

この書状ですが、秀政は5月17日に信長より秀吉への使者として出立を命じられており、同月20日に家康の接待を命じられているとする『信長公記』の記事すら誤りではないかと指摘されているのに(高柳光寿『明智光秀』)、27日にこんな書状を出しているというのはどうなんでしょう。
「内容は信頼できる」とする見解もありますが、私としてはちょっと信憑性に疑問を感じています。

(3)本能寺の変の直前期における光秀の地位について(P120)

「四国国分令ともいうべき信長朱印状によって、光秀と信長・信孝父子の対立は決定的になったと考えられる(中略)光秀と明智家中には大きな政治的打撃となり、光秀の地位の低下にも直結しかねなかった」とありますが、有力部将のほとんどを遠方に追いやって光秀のみを側に置いていたことを考えれば、信長の光秀に対する信頼と寵遇は絶大であり、変の直前期において、むしろその頂点に達していたと見るべきではないでしょうか。

(4)本能寺の変とは何だったのか(P280)

「光秀の謀反を希有で特殊なケースとするのか、当時の時代背景から蓋然的にありえたとするか、私には答える用意がない」と書かれておられるので、私見を述べさせていただきますと、戦国時代を含む中世という時代はとにかく性格の激しい人が多く、衝動的な武力行使は日常茶飯事でしたので、光秀の信長殺しもその一つにすぎないという印象を持っています。

むしろ日本の歴史上、希有で特殊なのは、秀吉が「主君の仇を討った」ことなんですけどね・・・。まあこれは余談ですが。

2007/03/19(Mon) 23:47 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
感想(追加)
すみません。あと一点だけ追加します。

(5)「惟任公儀を奉じて」の解釈(P216)

ここを「信長の決定を奉じて」と解釈するのはどうでしょうか。そういう場合は「公儀」ではなく「上意」ではないかと思うのですが・・・。
ここは普通に「公儀=信長本人」という意味に解すべきだと思います。

2007/03/20(Tue) 06:59 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
信長記諸本
磯部さん、こんにちは。

またコメント有難うございます。
ご紹介の太田牛一子孫家に伝来する一本がありましたね(石田善人「『信長記』の成立とその意義」 『織田信長のすべて』所収)。

『信長記』諸本の全容を一番網羅しているのは、内藤昌『復元安土城』にある一覧表だと思うのですが、これはほとんど団体・機関所蔵のもので、個人蔵は一点しかありません。
子孫家の分は入っておりませんが、もしかして門外不出の扱いなんでしょうか? 系統的には建勲神社本に近いようですが。

仰せのとおり、『信長記』のすべてを網羅した体系的な校訂本がないのが現状ですね。
例の軍記物の研究会に参加して、国文学方面では、平家物語や太平記などでその作業はとても精緻に行われていることが理解できましたが、日本史では遅々としていますね。
2007/03/20(Tue) 10:58 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
お礼など
桐野様、こんばんは。

磯部でございます。
本題からずれているコメントに対し、毎回、丁寧なご返事を賜り、たいへん恐縮しております。

太田家蔵『信長記』については、石田善人氏と谷口克広氏のご発言しか、小生には資料がありません。それらから推測するに、桐野様がおっしゃるように、建勲神社本の系統に近いものと思われます。
小生も『信長公記』については少々考えることがありますが、ご覧の通り、文章力が欠如しているので、なかなかまとめられません。

桐野様のご著作・ご論文から大いに学ばせていただきたいと思っております。



2007/03/20(Tue) 22:09 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
御礼&質問
改めて、ご著書をご恵贈くださいましてありがとうございました。
怠慢にも実はまだ4章までしか読んでおりませんでして…、読了次第、私のブログで紹介させていただこうと思います。

内容に深く踏み込んだ議論は私にはできないのですが、とりあえず一点、196頁で引用されている賀茂社の算用状が興味深いです。
論旨には全然関係なくて恐縮ですが、その中の翻刻されておられない箇所で、6月6日に「御屋形様」へ300文を支出した記事がありますが、これは誰なのかわかるのでしょうか? ご存じでしたらご教示いただければ幸いです。
2007/03/28(Wed) 17:36 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
羽柴秀勝かも
かわとさん、こんにちは。

「御屋形様」に気づかれましたか。写真の文字が小さいのですが、さすがですね。

じつは私も判断に迷って書きませんでした。
武家であることは間違いないし、通常、この言葉は守護クラスを指すか、織田家の場合、信忠以下の連枝衆が「殿様」と呼ばれるので、これに該当するかなと思いました。
でも、守護クラスは京兆家の細川信良くらいですが、彼は四国に逃亡していたようだし、織田家では、三七信孝はすでに名前が出ている、信雄は伊勢にいるし、彼の場合はむしろ「御本所様」と呼ばれることが多い。

そんなわけで、該当者はいないかと思ったのですが、一人だけいました。
秀吉の養子になった信長四男の御次こと秀勝です。秀勝もこのとき出陣して、摂津富田だったかで信長の供養をして秀吉共々、髪をおろして復仇を誓うという儀式をしています。
ただ、信長の息子という貴種性からすれば、300文は少ない気がするのですが、秀吉の前に書かれていることで、家柄の高さを表しつつ、養子なので、養父秀吉よりは銭額が少ないという落としどころかなと思いました。

そうそう、かわとさんに逆に教えてもらいたいことが2点あります。

1,「金伏」
 算用状の頭に書かれているこの文言、どういう意味でしょうかね? 最初「金状」かと思ったのですが、やはり「金伏」としか読めなくて。読みも「きんふせ」「かねふせ」「かなふせ」……どう読んだらいいのか? 銭も米もこれで表記してありますね。

2,禁制は敵味方双方からもらえるのか
 藤木久志氏だったか、稲葉継陽氏だったかが書いていた論文の中に、禁制は敵味方の双方から受給せず、必ず一方の陣営からだけだとあった記憶があるのですが、上賀茂社はどうやら両陣営に献金しています。光秀方からその見返りとして禁制を受給したのは確認できますが、秀吉方からは管見ではないようです。献金しただけで済ませたのでしょうかね? 少し不自然な気もしますが。それに6月6日は、秀吉は畿内に入っていないと思うのですけど、どこでどうやって渡したのかという疑問もあります(まあ、洛北を6日に出発すれば、9日頃には摂津あたりで遭遇しそうですが)。

2007/03/28(Wed) 19:47 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ご教示ありがとうございます。
羽柴秀勝ですか…。ほかの史料で秀勝を「御屋形様」と呼んでいるものがあれば確定的ですが、類例はあるんでしょうかね。

さて、ご質問の件ですが。


私も「金伏」というのは初めて見ましたが、どうやら米での支払にのみ付されているようなので、升の種類ではないか、と思います。別のところで「判」というのもありますが、こちらは「判升」と言う升があることはすでに知られていますので、おそらく間違いないでしょう。


禁制については実効支配の確定をもって発給されるものであるのが一般的なので、双方から取り付けるというのは私もあまり聞いたことがありません。
事件の特異性と、京都の特殊性が作用したのでしょうか。
6日に計上して、秀吉の元へ使者を向かわせたのでしょうね。賀茂社は天文前半にいち早く幕府に赦免された本願寺と関係を結んだりと、なかなかしたたかな神社です(笑)。

あとこの算用状の別のところで、鳥羽へ使者を使わしたと思われる記述もありますね。ご著書によると、この直後に光秀が鳥羽に入ったそうですが、その絡みなんでしょうかね。
2007/03/28(Wed) 22:12 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
やっぱり細川信良か
かわとさん、ご教示有難うございます。

羽柴秀勝はまだ養子の身で家督を継いでいませんから、やはり無理筋でしょうかね。
となると、やはり旧公方衆の守護クラスになるかと思いますが、天正9年2月の馬揃えのとき参加しているのは、

細川右京大夫(信良)
細川右馬頭(藤賢)
伊勢兵庫頭(貞為)
一色左京権大夫(満信)
小笠原(貞慶)

このうち、「御屋形様」に該当する守護クラスは細川信良、一色満信、小笠原貞慶(信濃守護小笠原長時の嫡男)の3人でしょうかね。
一色は丹後だし、小笠原は小身です。衰えたりとはいえ、京兆家の信良でしょうか?
のちに土佐に下向していますが、その時期が不明のようですから、本能寺の変直後はまだ畿内周辺にいた可能性があります。あるいは、信孝の四国渡海軍に従軍していたか。
300文と少ないのは、他の諸将とくらべ、一軍の将ではないと考えればいいのかもしれません。

「金伏」、よく見ると米だけでしたね。升の種類というのは思いもつきませんでした。判升というのもあるんですね。いわゆる京升とは違うのでしょうか?

鳥羽云々も6月6日のくだりにありますが、光秀が下鳥羽に移ったのは9日です。それ以前、その地に明智方の陣所があったかどうかは不明です。勝龍寺城に明智軍がいるとは思いますが……。
翻刻は次の通りです。

ひた/五十二文  酒肴鳥羽衆雑掌[さしそへ まて四人]  
*[ ]は割書

「鳥羽衆」に酒肴を届けた賀茂社雑掌4人の手間賃が52文(1人13文ずつ)ということでしょうか。
鳥羽衆って誰でしょうね?

なお、この52文は「ひた」ですから、鐚銭ですね。
そういえば、そのあとに出てくる「芝山所」以下「堀久太郎殿」までの銭はすべて「ひた」とあります。写真だと見づらいかもしれません。

明智方の諸将に贈った銭は「ひた」とは書いてないですから、比較的良質だったのでしょうか? 現実の実効支配者を優遇したということでしょうかね(笑)。
あるいは、禁制を受給する場合の贈答銭は鐚銭では不可という慣習でもあるのかどうか。

あと、丹羽長秀の奏者「長束新三郎」へ200文贈っていますが、これは豊臣政権の五奉行の一人、長束正家でしょうね。

意外と面白い史料かもしれません。

2007/03/28(Wed) 23:46 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
御屋形、升、ビタ…
16世紀前半までなら、「御屋形様」といえばまず間違いなく細川京兆家当主を指すと思いますから、やはり細川信良が一番蓋然性が高いような気がします。腐っても鯛、ですかね(笑)。伊勢も家来の蜷川氏からは「屋形」と呼ばれたりしますが、ここではちょっと違うでしょうねえ。

升についてはあまり詳しくないのですが…、「判升」が「京升」と同一であった可能性はあるかもしれません。この辺は後日専門書にあたってみたいと思います。
ただ、語源はその名の通り有力者の判が押された升で、後には前田玄以が判を押した升というものも見られたようです。(http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho19.htmの4月24日の記事が見つかりました。)

「ひた」って、そうか、鐚ですね。気が付きませんでした(笑)。
確かに明智家中へはその注記がありませんね。精銭と鐚銭の使い分けがされた可能性もあるかもしれません。

ただ、実は私自身はその見解には懐疑的でして…(笑)、算用状の記載のアヤかなぁと思います。最初は銭については注記せずにいたものの、算用状の後半になって米との区別を付けるために「ひた」という注記を付けたのだと思います。

この時期になると、京都や奈良では「ビタ」といっても悪銭ではなく、通用銭一般を指すようになっています(たとえば『多聞院日記』など)。しかも1580年代には品薄からか「ビタ」が金銀に対して相場が上がっていることもわかっています(毛利一憲「ビタ銭の価値変動に関する研究」『日本歴史』310・311、1974年)。

「ビタ(鐚)」は字の如く悪銭を指す言葉だったように思えるんですが(ちなみに「鐚」は国字です)、史料上では上記のように通用銭を指すことがほとんどで、良銭に対する悪銭を指す用語として使用された形跡がありません。
この語は、「良銭(精銭)」の対義語として登場したのではなく、16世紀における銭貨そのものの品質低下によって、銭貨そのものを指す蔑称として登場したのではないか、と考えていたりします(おおっぴらに言ったことはまだありませんが(笑))。

横道にそれてしまいました。すみません。

最後ですが、「衆」と読まれた字、「にて」ではなかろうかと思います。「酒肴鳥羽にて、雑掌[さしそへ/まて四人]」となりますか。鳥羽へ酒肴を差し入れした、という意味ではないかと理解しました。
2007/03/29(Thu) 00:49 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
ビタ
かわとさん、どうも。

再度のご教示有難うございます。

>4月24日 十右衛門・三河、伊勢御遷宮の米を「玄以御判枡」にて米を払う。〔「慶光院文書」四〕

「慶光院文書」といえば、けっこう有名な史料ですね。前田玄以お墨付きの判枡。日本史の教科書にある豊臣政権の太閤検地と度量衡の統一というのを、ナマで見る感じです(笑)。

「ビタ」がいわゆる悪貨ではない、通説の弊害があるというご指摘、大変勉強になります。

「ビタ」が1580年代に、品薄のため金銀に比して相場が上がっているというご指摘は当時の経済状況がリアルに伝わってきます。さすがご専門ですね。
その背景としては、やはり同時代の中国の動きを見たほうがよいのでしょうか? たとえば、次のようなサイクルが想定されるのかどうか。

銀の大量流入→税の銀納化の進展→銭貨鋳造の減少→日本への銭貨輸出減少→日本の銭貨相場高騰

「にて」のご指摘も有難うございます。迂濶でした。おこしはいつも詰めが甘くて(爆)。
2007/03/29(Thu) 09:20 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
銭貨を巡るサイクルとしては、マクロ的にはその通りだと思います。ただ中国(明)の銀財政化は既に15世紀に始まっています。

とはいえ、中国から銭が入ってこなくなった、ああ困った…と右往左往しただけだったかというと、実はそうでもないかなぁ、と(笑)。「私鋳銭」「模鋳銭」などと呼ばれますが、日本での独自の銭貨鋳造が想像以上に普及していた可能性があります。

元々日本は中国に輸出していたほど銅を多く産出していたことや、17世紀に入ると日本は独自の発行(寛永通宝)のみならず、輸出するための銭貨(「長崎貿易銭」)を鋳造するほどになっていますので(もちろんこれは幕府権力の積極的関与によるものですが)、16世紀段階でもそのような動向はわりと見られたのではないか、ということになります。

もっとも、その検証のための史料的アプローチは極めて難しいので、考古学的検証の深化を待つほかはない点もどかしいのですが…、ただ、着実にその徴候が明らかになってきています。

すみません。いつのまにか完全に我田引水な話題になってしまいましたね…。この件に対する私のスタンスは流行りのマクロ的視点に対する批判にあるもので、つい細かい話になってしまいます(笑)。
2007/03/29(Thu) 16:55 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
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