歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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先週の23日(木)は恒例の月一の名古屋中日文化センターの講座でした。

信長公記を読み解く」の講座もいよいよ佳境に入ってきました。
今回は「長篠合戦①」でした。
決戦に至るまでの経緯を、信長方、家康方、勝頼方それぞれの史料を使って確認しました。

おそらくこの講座では初めてだったと思いますが、プロジェクターを使って長篠古戦場跡の写真を20枚ほど見てもらいました。
とくに、鳶ノ巣砦から長篠城を見下ろすアングルは、受講生のみなさんの反応もよかったように感じました。
あの地点に立てば、長篠城は人の動きまで丸見えです。
太田牛一が『信長公記』巻八で、「勝頼があそこ(鳶ノ巣山)に陣取れば、(さすがの信長も)どうしようもなかったのに」と述懐していますが、まさにその通りの要害ポイントだと思います。

今回もレジュメの枚数が多く、最後の3枚は読み切れませんでしたので、次回まわしです。
次回は「長篠合戦②」で、7月28日(木)開催です。いよいよ決戦になります。
史料も迫真の場面がいくつも書かれています。

興味のある方は7月から改めて始まる講座「信長公記を読み解く」(毎月題木曜日、6回)に参加してみませんか。
詳しくは中日文化センターサイトのここにあります。

問い合わせや申し込みは同サイトのここをご参照下さい。


講座終了後、名鉄名古屋駅に急いだ。
知多半島の南端、野間大坊に行くためである。
以前から行きたいと思っていながら、ようやく実現した。
特急に乗ったら、1時間足らずで野間駅に着いた。

野間大坊(大御堂寺)という古刹には、源義朝と織田信孝(信長三男)の墓がある。
義朝だからといって、来年の大河ドラマの取材ではありません(笑)。
むしろ、信孝の墓を前から見てみたいと思っていたからです。
義朝の墓があるだけに、子の頼朝や鎌倉幕府から大事にされたお寺だということがよくわかります。
いくつか写真を紹介します。

野間大坊大門
源頼朝が寄進した野間大坊大門

義朝墓
源義朝の墓

太田平右衛門
織田信孝の墓前にあった寄進石碑

何と「太田和泉□□十二世□(孫か) 太田平右衛門」と読み取れました。
おそらく『信長公記』の筆者太田牛一の12代目の子孫でしょう。時代はもう明治のようです。
不明2文字は摩耗が激しくてよくわからないのですが、「牧蔭」と読める気もします。「牧」には地方長官という意味がありますから、「和泉守」の意でしょうか? 詳しい方がおいでならご教示下さいませ。

安養院
信孝が兄信雄の命で自害したのが、野間大坊のすぐ近くにある安養院だとか。自刃の間が再建されており、自刃の脇差などを同院が所蔵しているそうです。信孝の辞世といえば、

「昔より主を討つ身の野間なれば 報いを待てや羽柴筑前」

があまりにも有名です。
「討つ身」がご当地の「内海」にかけてあり、内海野間は平治の乱で敗れた源義朝が落ち延びてきて、長田忠致父子に湯殿で謀殺されたいわくつきの場所。
その地で信孝も自刃に追い込まれるわけで、自分を義朝、秀吉を長田父子になぞらえているのでしょう。
ただ、信孝自害は信雄の意向が強い気がしますが……。

それで、近くの丘陵に、その長田父子が頼朝によって処刑されたという「磔の松」がありました。
もっとも、すでに枯れていて切り株があるだけでした。

磔松

こちらも処刑された長田忠致の辞世が書かれていました。

「ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまはり」

長田は官途が壱岐守だったようです。最後に「壱岐」より大きい「美濃尾張」という大国を賜ったというわけですが、「壱岐」は「生き」か「息」、「美濃尾張」は「身の終わり」にかけられているようです。なかなか秀逸ですね。

とにかく暑い一日でした。

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【2011/06/28 19:46】 | 信長
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太田平右衛門について
ハンク
こんにちは。太田平右衛門について。よくは知らないのですが、同人は、織田信孝の家臣、太田監物の子孫のようです。代々平右衛門を襲名し、刈谷の御用達です。殖産興業家です。屋号は和泉屋のようですので、太田牛一とは関係ないのかもしれません。

屋号
桐野
ハンクさん

貴重な情報有難うございます。
信孝の家臣の子孫なら十分あり得ますね。
考えてみれば、太田牛一は信孝と直接の主従関係にありませんから、寄進する理由はふつうないですね。
それにしても、名字が同じだけでなく、屋号も和泉屋とは! 牛一の官途名との偶然の一致に驚くと共に、見事に惑わされてしまいました(汗)。


寄進石碑の件
ヨクロー
はじめまして
K2さんのブログからやってきました。

前出の方のおっしゃるとおりで、太田監物の子孫です。

「信孝公秘史」によれば野間まで落ちてきた時は太田姓を名乗る25人が奉仕しており、自刃に際して介錯の役を勤めたのも太田新右衛門源吉家であった…と野間史にあります。
その25人の中に太田和泉守牧陰という人物がおり、牧陰はその後一族と共に、信孝の墓守をしていました。
牧陰の孫の徳右衛門が承応4年(1655年)刈谷の地に移り住んで「和泉屋」の看板を掲げ、酒造業をはじめました。宝永5年(1708年)酒造業をやめ、商売に転じ、米、木綿など色々な物を取り扱いました。そして現在、大田商事(http://www.ota-shoji.co.jp/index.html)としてあらゆる分野で商売の発展を遂げ、ご活躍されています。
やはり、寄進石碑も当時の和泉守牧陰の子孫の方によるものだと思います。

御礼
桐野
ヨクローさん

K2さんのところで、よくお名前は拝見しております。
この度は刈谷の太田家の由緒などをご教示いただき、有難うございます。
信孝の家来たちのその後はまったく知らなかった話でした。


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太田平右衛門について
こんにちは。太田平右衛門について。よくは知らないのですが、同人は、織田信孝の家臣、太田監物の子孫のようです。代々平右衛門を襲名し、刈谷の御用達です。殖産興業家です。屋号は和泉屋のようですので、太田牛一とは関係ないのかもしれません。
2011/06/30(Thu) 16:02 | URL  | ハンク #-[ 編集]
屋号
ハンクさん

貴重な情報有難うございます。
信孝の家臣の子孫なら十分あり得ますね。
考えてみれば、太田牛一は信孝と直接の主従関係にありませんから、寄進する理由はふつうないですね。
それにしても、名字が同じだけでなく、屋号も和泉屋とは! 牛一の官途名との偶然の一致に驚くと共に、見事に惑わされてしまいました(汗)。
2011/06/30(Thu) 23:02 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
寄進石碑の件
はじめまして
K2さんのブログからやってきました。

前出の方のおっしゃるとおりで、太田監物の子孫です。

「信孝公秘史」によれば野間まで落ちてきた時は太田姓を名乗る25人が奉仕しており、自刃に際して介錯の役を勤めたのも太田新右衛門源吉家であった…と野間史にあります。
その25人の中に太田和泉守牧陰という人物がおり、牧陰はその後一族と共に、信孝の墓守をしていました。
牧陰の孫の徳右衛門が承応4年(1655年)刈谷の地に移り住んで「和泉屋」の看板を掲げ、酒造業をはじめました。宝永5年(1708年)酒造業をやめ、商売に転じ、米、木綿など色々な物を取り扱いました。そして現在、大田商事(http://www.ota-shoji.co.jp/index.html)としてあらゆる分野で商売の発展を遂げ、ご活躍されています。
やはり、寄進石碑も当時の和泉守牧陰の子孫の方によるものだと思います。
2011/07/01(Fri) 08:20 | URL  | ヨクロー #-[ 編集]
御礼
ヨクローさん

K2さんのところで、よくお名前は拝見しております。
この度は刈谷の太田家の由緒などをご教示いただき、有難うございます。
信孝の家来たちのその後はまったく知らなかった話でした。
2011/07/02(Sat) 08:00 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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