歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第200回
―入来峠で狙撃され絶命―

連載が更新されました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は記念すべき200回目でした。
4年以上、よく書き連ねられたものです。感無量ですね。

今回は前回の続編です。
平田増宗の最期について書きました。
ほんとは増宗の事跡などをもう少し書きたかったです。
たとえば、関ヶ原合戦のとき、大坂の留守居役として、陰で義弘を助けたこと。あるいは島津氏の琉球侵攻では、義久と同様、侵攻には消極的だったこと、それでも副将として出陣し、主将の樺山久高を牽制したために、おそらく義弘―家久ラインの恨みを買っただろうこと、などなど。

また、増宗の暗殺に関しては、『入来町誌』に刺客押川強兵衛の子孫が所蔵する家伝が収録されており、そのなかに強兵衛の動向がかなり詳しく書かれていて興味深いのですが、紙数の関係で紹介できませんでした。

なお、増宗が暗殺された現場は土瀬戸越という場所ですが、現在は太郎左衛門坂と増宗の通称で呼ばれているようです。事件の痕跡が地名という形で残っているのも興味深いものです。

記事の最後に書きましたが、増宗暗殺から四半世紀あとに、琉球勝連で増宗の出家した息子が薩摩藩当局によって殺害されています。「上命」とありますから、明らかに家久の命令ですね。
増宗の嫡男も日向野尻で鉄砲で狙撃されて落命、もう一人の息子は出家にもかかわらず、琉球で殺害されるという徹底ぶりには、島津家中の暗闘の根深さに改めて驚かされます。

次回からまた一から始める気持ちでやっていきたいと思います。
今後ともご愛読のほど、よろしくお願いします。

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【2011/07/04 18:50】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


ばんない
こんばんは。
連載200回おめでとうございます

が、記念すべき200回目のネタ、かなり陰惨なめでたかる内容でしたが、これでよかったんでしょうか?(苦笑)
私は興味のある人物だったので、興味深く読ませて頂きましたが。

増宗の次男の話は、私のつたない記憶では『本藩人物誌』には採録されていなかったように思います。出家したのに、遠隔地に逃亡?したのに、しかもかなりの年月が経っているのに、殺害されたという経緯は、足利幕府の大覚寺義昭を思い起こさせる物があります。奇しくも大覚寺義昭も島津家と縁のある人物ですが。

増宗の息子
桐野
ばんないさん

琉球で殺害された増宗の息子(二男なのかどうかわかりませんが)記事は『本藩人物誌』にはありませんが、『旧記雑録後編五』の「家久公御譜中」と、琉球在番奉行の町田久則の書状にはっきりと書かれています(715号)。

増宗の息子には乳母と小者一人が付いていたと町田書状にあります。乳母が付いていたということは、おそらく増宗・宗親が誅された頃はまだ幼児だったのでしょうね。

なお、記事には逃亡したのかとも書きましたが、町田の書状には「琉球の内勝連と申す嶋に召し置かれ候」とありますから、幼児だったので、どうやら流罪になっていたのでしょうね。
それで、20代半ばくらいに成人していたのを思い出して、改めて処刑の命令を下したということでしょうか。


悲劇の家系にひかりが
坐忘
平田靱負が分家の子孫だったことといい、平田家にはあまりに悲劇が多いですね。
平田家は桓武平氏の流れなんでしょうか、なんとなくその血筋や優秀さ故の悲劇のように感じました。
京都のお寺で増宗の痕跡を見つけられたのが桐野さんで本当に良かった気がします。
200回の連載が平田家の事跡で飾られたのも、その悲劇の家系に対する最大の御供養となっているように感じました。
これからもご健筆のほど、よろしくお願い申し上げます。

桓武平氏
桐野
坐忘さん

平田氏はご想像どおり、桓武平氏のようです。
平宗盛三男の系統だとか。

平田増宗が200回目というのは偶然ですが、坐忘さんのようにとらえていただいて光栄です。
今後ともご愛読、ご指導のほどよろしく。



ばんない
>『旧記雑録後編五』の「家久公御譜中」と、琉球在番奉行の町田久則の書状にはっきりと書かれています(715号)
5-715文書はコピーもとっておらず、よって全くのノーマークでした。御教示ありがとうございました。

町田久則という人物についても全く関心がなかったのですが、今回初めて『本藩人物誌』に載っている彼の記事を読んでみました。なんと島津の退き口の生き残りだったんですね。その後の経歴も興味深かったです。ただ琉球在番奉行だったことは書かれていませんでした。やっぱり暗殺に関わったとなると経歴の汚点と思われたからなんでしょうか。

町田久則
桐野
ばんないさん

町田久則は退き口でのはぐれ組ですね。
大和の大神神社に潜んでいたグループの一人です。
その縁もあってか、義弘-忠恒側だったのでしょう。

止上文書
今井より
こんにちわ。
なかなか明けない梅雨ですがお元気?

初心に戻って、平田増宗に思いを馳せています。
5000円の高価な地元の郷土史を開いて

平田増宗は宮内で切腹して、、

目に飛び込んできた記事に驚いたからです。
近侍の五十嵐氏は
ひょっとして、同級生は子孫?

興味をひかれあちこち読み漁ったのを
懐かしく思い出しています。
澤家預けになってるので、あるいは史資料にと
11年隼人町作成の最寄り古文書をみましたが
この頃の記事はありませんでした。

また、所持している図会にもありますが
慶長11年に琉球に。。
彼が切腹したのは慶長10年、、

果たして??
廻ってます。。

一応、歴史探訪、戦国時代に掲載しました。
少しずつ追記予定です。


コメント御礼
桐野作人
今井よりさん

古い記事にコメント有難うございます。

平田増宗、いろいろ研究されているのでしょうか。
また教えて下さい。

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コメント
この記事へのコメント
こんばんは。
連載200回おめでとうございます

が、記念すべき200回目のネタ、かなり陰惨なめでたかる内容でしたが、これでよかったんでしょうか?(苦笑)
私は興味のある人物だったので、興味深く読ませて頂きましたが。

増宗の次男の話は、私のつたない記憶では『本藩人物誌』には採録されていなかったように思います。出家したのに、遠隔地に逃亡?したのに、しかもかなりの年月が経っているのに、殺害されたという経緯は、足利幕府の大覚寺義昭を思い起こさせる物があります。奇しくも大覚寺義昭も島津家と縁のある人物ですが。
2011/07/05(Tue) 00:56 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
増宗の息子
ばんないさん

琉球で殺害された増宗の息子(二男なのかどうかわかりませんが)記事は『本藩人物誌』にはありませんが、『旧記雑録後編五』の「家久公御譜中」と、琉球在番奉行の町田久則の書状にはっきりと書かれています(715号)。

増宗の息子には乳母と小者一人が付いていたと町田書状にあります。乳母が付いていたということは、おそらく増宗・宗親が誅された頃はまだ幼児だったのでしょうね。

なお、記事には逃亡したのかとも書きましたが、町田の書状には「琉球の内勝連と申す嶋に召し置かれ候」とありますから、幼児だったので、どうやら流罪になっていたのでしょうね。
それで、20代半ばくらいに成人していたのを思い出して、改めて処刑の命令を下したということでしょうか。
2011/07/05(Tue) 13:11 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
悲劇の家系にひかりが
平田靱負が分家の子孫だったことといい、平田家にはあまりに悲劇が多いですね。
平田家は桓武平氏の流れなんでしょうか、なんとなくその血筋や優秀さ故の悲劇のように感じました。
京都のお寺で増宗の痕跡を見つけられたのが桐野さんで本当に良かった気がします。
200回の連載が平田家の事跡で飾られたのも、その悲劇の家系に対する最大の御供養となっているように感じました。
これからもご健筆のほど、よろしくお願い申し上げます。
2011/07/05(Tue) 14:46 | URL  | 坐忘 #BbVmplvY[ 編集]
桓武平氏
坐忘さん

平田氏はご想像どおり、桓武平氏のようです。
平宗盛三男の系統だとか。

平田増宗が200回目というのは偶然ですが、坐忘さんのようにとらえていただいて光栄です。
今後ともご愛読、ご指導のほどよろしく。
2011/07/06(Wed) 10:38 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
>『旧記雑録後編五』の「家久公御譜中」と、琉球在番奉行の町田久則の書状にはっきりと書かれています(715号)
5-715文書はコピーもとっておらず、よって全くのノーマークでした。御教示ありがとうございました。

町田久則という人物についても全く関心がなかったのですが、今回初めて『本藩人物誌』に載っている彼の記事を読んでみました。なんと島津の退き口の生き残りだったんですね。その後の経歴も興味深かったです。ただ琉球在番奉行だったことは書かれていませんでした。やっぱり暗殺に関わったとなると経歴の汚点と思われたからなんでしょうか。
2011/07/08(Fri) 00:52 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
町田久則
ばんないさん

町田久則は退き口でのはぐれ組ですね。
大和の大神神社に潜んでいたグループの一人です。
その縁もあってか、義弘-忠恒側だったのでしょう。
2011/07/11(Mon) 00:10 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
止上文書
こんにちわ。
なかなか明けない梅雨ですがお元気?

初心に戻って、平田増宗に思いを馳せています。
5000円の高価な地元の郷土史を開いて

平田増宗は宮内で切腹して、、

目に飛び込んできた記事に驚いたからです。
近侍の五十嵐氏は
ひょっとして、同級生は子孫?

興味をひかれあちこち読み漁ったのを
懐かしく思い出しています。
澤家預けになってるので、あるいは史資料にと
11年隼人町作成の最寄り古文書をみましたが
この頃の記事はありませんでした。

また、所持している図会にもありますが
慶長11年に琉球に。。
彼が切腹したのは慶長10年、、

果たして??
廻ってます。。

一応、歴史探訪、戦国時代に掲載しました。
少しずつ追記予定です。
2015/07/03(Fri) 14:39 | URL  | 今井より #EBUSheBA[ 編集]
コメント御礼
今井よりさん

古い記事にコメント有難うございます。

平田増宗、いろいろ研究されているのでしょうか。
また教えて下さい。
2015/07/06(Mon) 19:18 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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