歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨日、信州上田で講演をしました。
ご当地の「米熊・慎蔵・龍馬会」からのお招きです。

論題:赤松小三郎そして中村半次郎(桐野利秋)

昨秋、ご当地の池波正太郎真田太平記館でもほぼ同様のテーマでお話したことがあります。
まったく同じ話では芸がないので、少し変えました。別の史料もいくつか紹介しました。薩摩藩側には意外と史料があるものです。

とくに、新納嘉藤二(薩摩藩江戸留守居役)が吉井幸輔(京都留守居役)にあてた書簡(慶応2年10月)は、薩摩藩が英式軍学者をスカウトしようと、幕府側の講武所や下曽根家にいる人材にあれこれ食指を伸ばしている様子がうかがえます。
講武所が英式を嫌い、蘭式にこだわっていたため、疎外されている英式軍学者の平元良蔵や赤松小三郎に薩摩藩は目をつけたようです。
とくに第一候補は赤松ではなく、平元良蔵だったようです。
じつは、不勉強でこの人がどんな人なのか、よく知りません。
明治2年(1869)に「英式尾栓銃号令詞」という翻訳本を刊行していることがわかり、英式軍学者であるのは間違いないようですが、生没年や出身藩、略歴などがわかりません。もしご存じの方がおいでならご教示下さいませ。

それで、平元は下曽根家の当主金三郎(信敦)と不和になっていたようで、薩摩藩はだから平元引き抜きのチャンスだと考えたようですが、野津七次(のち道貫)の報告によれば、平元が下曽根家と和解して幕府側に残ることになり、赤松も平元に従うようだという観測が書かれています。
その後、赤松は薩摩藩にスカウトされていますから、上記書簡からまた紆余曲折があったと思われます。

ところで、薩摩藩がなぜ英式軍学にこだわったのかという点が重要ですね。じつは私も不勉強で、よく知りません。
薩摩藩の援助で、赤松は「重訂英国歩兵練法」を刊行しており、これは薩摩藩の軍制の基礎になったものと思われ、ひいては戊辰戦争で勝利する遠因にもなったといえそうです。
薩摩藩が蘭式でも仏式でもなく英式だったのは、仏式を採用した幕府の軍制改革への対抗だったのでしょうか?
あるいは、薩藩英国留学生から英式が他国よりも優秀だという情報が入っていたのかもしれません。
不勉強なのでよくわかりませんが、いろいろ考えられるところです。

また、講演のキモとしては、中村半次郎たちの赤松暗殺は、中村グループの跳ね上がりなのか、藩命なのかという点について少し触れました。
これについては、赤松暗殺の時期が重要で、薩摩藩が土佐藩との薩土盟約をいったん破棄し、長州藩(と芸州藩)との挙兵路線に傾いた時期と重なっていることがポイントだろうという話をしました。

薩摩藩のなかでも、高崎正風など土佐藩に近いグループは赤松暗殺の下手人が自藩人だと知らなかったように思われます。だから、赤松追悼の碑文も高崎グループが手がけ、田中幸助(中井弘)か田中頼庸が起草したようです。

四侯会議に薩摩藩が敗北したのち、島津久光と小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵などごく一握りの間で、いわゆる「討幕挙兵」計画が練られます(個人的には武力挙兵ではあっても、討幕ではないと思っていますが)。この首脳部と中村グループが通じていると考えられそうですね。だから、同じ藩内でも真相を知らない者が相当いたということでしょう。
講演ではもう少し突っ込んで話しましたが、とりあえずそのよう趣旨を結論としました。

講演の前後では、同会の三吉治敬さん(三吉慎蔵子孫)や事務局の中曽根孝一さんたちと旧交を温め、幕末上田藩についての貴重な情報もいただきました。厚く御礼申し上げます。

じつは前日から上田入りしており、真田氏関連の史跡や塩田平の中世・戦国史跡を見学して、とても得るところが多かったです。そのうち、ご紹介します。

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【2011/07/10 12:55】 | 信長
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