歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

一昨13日、武蔵野大学の三鷹サテライトキャンパスで、講座「お江の生涯」第3回を行いました。

そのなかで、拙著『江の生涯を歩く』(ベスト新書、ここです)で紹介した、毛利秀元宛て毛利輝元書状を読みました。
これは、お江が秀忠と伏見と江戸に別れて生活しているなかで、側室に子どもが生まれることをやきもきしているから、江戸に帰してほしいという訴えを舅の家康が聞き届け、淀殿にお江の帰国を要請している内容です。
一応、自治体史に収録されて活字になっていた史料ですが、「中納言殿女中」という表記がお江と結びつけられて理解されていなかったため、これまでスルーされていたと思われます。

今回、下関市の長府博物館がこの輝元書状を展示しているそうなので、ご紹介します。
同館のサイトのここに、展示情報があります。そのなかに、


ミニコーナー「長府毛利家と徳川家」

という項目がありますが、これがその展示です。
この輝元書状も原文書が写真版で掲載されています。

お江の人となりや想いが伝わる史料が数少ないなかで、この史料はとても貴重だと思っています。
近場で興味のある方はぜひ本物をご覧になって下さいませ。

同館館長の古城春樹さんには、史料の所在についてご教示いただき、有難うございました。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

スポンサーサイト

【2011/07/15 08:02】 | イベント
トラックバック(0) |

江戸下向
武江
桐野様
はじめまして。k2さんのブログから参りました武江と申します。
貴重な情報有難うございます。写真であっても原本を目にする事が出来感激です(解説の日付、9月3日では無く、13日付け書状ですが)。
子ゝ姫の誕生との兼ね合いもあり、江の下向時期には、以前より大変興味を持っています。中央図書館で書状の原文コピーもとりましたが、江下向願いに関する部分の後半の正確な解読に悩んでいるところです。茶々は、既に承諾したのか。この事に関する輝元の存念はどうなのか。「妨」は、家康にとって良い計らいなのか、文字通り邪魔するような事なのか。というあたりについてです(袖の返し書きからは、後者のように思いますが)。
桑田忠親氏は、昭和49年に著した『石田三成』で、大坂城入り後の家康について、「秀吉の遺制をやぶり、その子秀忠の夫人を、勝手に、江戸に帰らせたり、自由気儘を働いている。」としています。「勝手に」としている事から、一応許可を求めた事が分かる、重陽の面会の際の話の内容は、今回の発見までは知られていなかったものでしょうが、既に40年近くも前に下向時期が周知の事であるかの如く記されていたのは、ショックでした。今の歴史家は、かつて常識だった事を、忘れてしまっているという事でしょうか。
Tm.さんが講座の件を教えてくださいましたが、参加出来なかったのが残念です。


再び感激
武江
桐野様
本日再び展示情報を拝見したところ、日付の件に対応頂いた上、公開の写真も1枚付け足して頂き、江戸下向に関する部分が、全てカバーされています。長府博物館様の粋な計らいに、感激一入です。
関ヶ原前の、家康の言動や、西軍総大将になる事となる輝元の、この時点での生の声が記されている、という点から見ても、この書状は、本当に貴重なものだと思います。


輝元書状
桐野
武江さん

輝元書状の解釈はなかなか難しいですね。
問題の第一条ですが、家康がお江の江戸下りを淀殿に要請した以降の部分について。

これは家康のセリフで、「多分淀殿はこの件についてはご分別されていたはずなのに、どうしたことか、この頃江戸下りはならぬとの御意につき、家康はじつのところ、面白くない次第です。内々に(家康の申し出を)妨げている仁がいると承っていますが、ぜひ(その仁から)理由をお聞きになるようにと、忝なくご存分を申されたそうである」とでも訳すべきでしょうか。

以上から、淀殿は家康の申し出を(妨げる仁の進言によるものか)承諾していなかったと思われ、さらに大坂に下って直接諫言に及んだということでしょうか(実際は淀殿への圧力でしょうね)。
この「仁」は三奉行あたりでしょうかね?(三成はすでに失脚してます)。

輝元書状にある三カ条は、お江の件を含めて、「太閤様御置目」や「太閤様被仰置」を相対化というか、無効にしたいという家康の意向が感じられますね。

1.お江の江戸下りについては、たとえ人質政策についての「太閤様御置目」があったとしても、(お江の姉である)淀殿の「御分別」を示せば例外として処理できるはず。

2.後陽成天皇の譲位による次の天皇即位については、「太閤様被仰置」よりも「勅諚」が優先すべき。

3.諸大名の人質政策については、東国大名は大坂城に、西国大名は伏見城にという「太閤御置目」があるのに、豊臣一門の宇喜多秀家がすでにこの原則を破っているではないかというクレーム。

全体として、秀吉の置目や遺言を無効にしようという家康の意図が透けて見えます。

輝元が家康のやり方をどのように見ているのかは定かではありませんが、それなりに警戒しているようですね。末尾に養子の秀元に少々のことは捨て置いて、早めに国許から上ってきたほうがよい、しかも派手なやり方はしないようにと忠告していますね。
このあたり、輝元は家康に付け入る隙を与えないように慎重な態度をとっているように見えます。

長府博物館のサイトがさらに充実したのは私も確認しました。武江さんの書き込みのせいでしょうか。




六ヶ敷書状
武江
桐野様
ご教示有難うございます。度々のコメント申し訳ありません。
やはりk2さんのブログにリンクしている、紀伊さんの「萩の御前」というサイトのブログで、桐野様の御著書が紹介されています。そこに、まさに「六ヶ敷書状」と題して、書状解釈のコメントを入れていますが、大枠は、桐野様の解釈と同じで、少し安心しました。
私は、前半の部分が、「家康被申事候つる」で切れた後、「多分」から「何と共候哉」までを輝元の考えと解していました。
それから、折角七将等を自らの味方に付け、三成を佐和山に蟄居させたのに、太閤の置目を軽んじている姿勢を見せるのは、戦略的に拙いのではないでしょうか。この段階では、違背した事にも理由がある、又他にも違背している者が居るのに自分だけ責められるのはおかしい、という「言い訳」をして、淀殿を立てる姿勢を見せているように思います。関ヶ原の時点でさえ、反豊臣の戦いでは無い事が大義となっていたわけですから、そこまでは、置目に沿って動いている姿勢を見せておく必要があったはずです。江の下向が、「勝手に」行われたので無かったのも、そういう事ではないでしょうか。その為に、姉である淀殿が承諾するであろう様な下向の動機を、わざわざ持ち出した、というように解釈しています。


家康の真意
桐野
武江さん

再びご意見有難うございます。
ご紹介の紀伊さんのブログをのぞいてみました。
「外実無曲」の部分、武江さんの「(家康には)底意がない」という解釈のほうがピタリとしていいですね。

ご指摘のように、家康が「太閤置目」をないがしろにするような態度を、とくに淀殿の前で表面上は示さないと思いますので、あくまで淀殿の「御分別」に頼って、お江の江戸下りを実現したいということでしょうね。
そのための材料として、新天皇を誰にするか、人質政策の実態などを引き合いに出して、「太閤置目」「太閤遺言」をないがしろにするのではなく、あくまで柔軟に対処してほしいということになるのでしょうね。

また、桑田忠親氏の『石田三成』にも、この輝元書状を念頭に置いたと思われる記述があったとのこと。先行研究はあだやおろそかにできない好例ですね。

貴重なご指摘、有難うございました。


管理人のみ閲覧できます
-


コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
江戸下向
桐野様
はじめまして。k2さんのブログから参りました武江と申します。
貴重な情報有難うございます。写真であっても原本を目にする事が出来感激です(解説の日付、9月3日では無く、13日付け書状ですが)。
子ゝ姫の誕生との兼ね合いもあり、江の下向時期には、以前より大変興味を持っています。中央図書館で書状の原文コピーもとりましたが、江下向願いに関する部分の後半の正確な解読に悩んでいるところです。茶々は、既に承諾したのか。この事に関する輝元の存念はどうなのか。「妨」は、家康にとって良い計らいなのか、文字通り邪魔するような事なのか。というあたりについてです(袖の返し書きからは、後者のように思いますが)。
桑田忠親氏は、昭和49年に著した『石田三成』で、大坂城入り後の家康について、「秀吉の遺制をやぶり、その子秀忠の夫人を、勝手に、江戸に帰らせたり、自由気儘を働いている。」としています。「勝手に」としている事から、一応許可を求めた事が分かる、重陽の面会の際の話の内容は、今回の発見までは知られていなかったものでしょうが、既に40年近くも前に下向時期が周知の事であるかの如く記されていたのは、ショックでした。今の歴史家は、かつて常識だった事を、忘れてしまっているという事でしょうか。
Tm.さんが講座の件を教えてくださいましたが、参加出来なかったのが残念です。
2011/07/15(Fri) 19:52 | URL  | 武江 #Hpwl6DqI[ 編集]
再び感激
桐野様
本日再び展示情報を拝見したところ、日付の件に対応頂いた上、公開の写真も1枚付け足して頂き、江戸下向に関する部分が、全てカバーされています。長府博物館様の粋な計らいに、感激一入です。
関ヶ原前の、家康の言動や、西軍総大将になる事となる輝元の、この時点での生の声が記されている、という点から見ても、この書状は、本当に貴重なものだと思います。
2011/07/18(Mon) 16:21 | URL  | 武江 #Hpwl6DqI[ 編集]
輝元書状
武江さん

輝元書状の解釈はなかなか難しいですね。
問題の第一条ですが、家康がお江の江戸下りを淀殿に要請した以降の部分について。

これは家康のセリフで、「多分淀殿はこの件についてはご分別されていたはずなのに、どうしたことか、この頃江戸下りはならぬとの御意につき、家康はじつのところ、面白くない次第です。内々に(家康の申し出を)妨げている仁がいると承っていますが、ぜひ(その仁から)理由をお聞きになるようにと、忝なくご存分を申されたそうである」とでも訳すべきでしょうか。

以上から、淀殿は家康の申し出を(妨げる仁の進言によるものか)承諾していなかったと思われ、さらに大坂に下って直接諫言に及んだということでしょうか(実際は淀殿への圧力でしょうね)。
この「仁」は三奉行あたりでしょうかね?(三成はすでに失脚してます)。

輝元書状にある三カ条は、お江の件を含めて、「太閤様御置目」や「太閤様被仰置」を相対化というか、無効にしたいという家康の意向が感じられますね。

1.お江の江戸下りについては、たとえ人質政策についての「太閤様御置目」があったとしても、(お江の姉である)淀殿の「御分別」を示せば例外として処理できるはず。

2.後陽成天皇の譲位による次の天皇即位については、「太閤様被仰置」よりも「勅諚」が優先すべき。

3.諸大名の人質政策については、東国大名は大坂城に、西国大名は伏見城にという「太閤御置目」があるのに、豊臣一門の宇喜多秀家がすでにこの原則を破っているではないかというクレーム。

全体として、秀吉の置目や遺言を無効にしようという家康の意図が透けて見えます。

輝元が家康のやり方をどのように見ているのかは定かではありませんが、それなりに警戒しているようですね。末尾に養子の秀元に少々のことは捨て置いて、早めに国許から上ってきたほうがよい、しかも派手なやり方はしないようにと忠告していますね。
このあたり、輝元は家康に付け入る隙を与えないように慎重な態度をとっているように見えます。

長府博物館のサイトがさらに充実したのは私も確認しました。武江さんの書き込みのせいでしょうか。


2011/07/18(Mon) 18:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
六ヶ敷書状
桐野様
ご教示有難うございます。度々のコメント申し訳ありません。
やはりk2さんのブログにリンクしている、紀伊さんの「萩の御前」というサイトのブログで、桐野様の御著書が紹介されています。そこに、まさに「六ヶ敷書状」と題して、書状解釈のコメントを入れていますが、大枠は、桐野様の解釈と同じで、少し安心しました。
私は、前半の部分が、「家康被申事候つる」で切れた後、「多分」から「何と共候哉」までを輝元の考えと解していました。
それから、折角七将等を自らの味方に付け、三成を佐和山に蟄居させたのに、太閤の置目を軽んじている姿勢を見せるのは、戦略的に拙いのではないでしょうか。この段階では、違背した事にも理由がある、又他にも違背している者が居るのに自分だけ責められるのはおかしい、という「言い訳」をして、淀殿を立てる姿勢を見せているように思います。関ヶ原の時点でさえ、反豊臣の戦いでは無い事が大義となっていたわけですから、そこまでは、置目に沿って動いている姿勢を見せておく必要があったはずです。江の下向が、「勝手に」行われたので無かったのも、そういう事ではないでしょうか。その為に、姉である淀殿が承諾するであろう様な下向の動機を、わざわざ持ち出した、というように解釈しています。
2011/07/19(Tue) 00:26 | URL  | 武江 #Hpwl6DqI[ 編集]
家康の真意
武江さん

再びご意見有難うございます。
ご紹介の紀伊さんのブログをのぞいてみました。
「外実無曲」の部分、武江さんの「(家康には)底意がない」という解釈のほうがピタリとしていいですね。

ご指摘のように、家康が「太閤置目」をないがしろにするような態度を、とくに淀殿の前で表面上は示さないと思いますので、あくまで淀殿の「御分別」に頼って、お江の江戸下りを実現したいということでしょうね。
そのための材料として、新天皇を誰にするか、人質政策の実態などを引き合いに出して、「太閤置目」「太閤遺言」をないがしろにするのではなく、あくまで柔軟に対処してほしいということになるのでしょうね。

また、桑田忠親氏の『石田三成』にも、この輝元書状を念頭に置いたと思われる記述があったとのこと。先行研究はあだやおろそかにできない好例ですね。

貴重なご指摘、有難うございました。
2011/07/19(Tue) 15:07 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/07/20(Wed) 21:33 |   |  #[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。