歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)について、板倉丈浩さんをはじめ、いろいろご意見・ご批判をいただいた。
コメント欄の数が多くなってしまったので、本欄のほうでできうるかぎりお答えしたい。

まず板倉さんには貴重なご意見をいただき、感謝したい。非常に鋭いご意見なので、こちらも大変勉強になります。箇条書きに沿って、私見を述べてみたいと思います。

(1)三好式部少輔の地位について(P84)

これについては、本欄で別途ご紹介した新出の信長朱印状(「讃岐国之儀」云々)との関連も考えないといけないなと感じております。
天正八年(1580)三月、本願寺が降伏したことにより、信長はその余勢を駆って、四国仕置(阿波・讃岐)にも着手したのではないかと思われます。
それが、新出の信長朱印状であり、板倉さんが取り上げている香宗我部親泰宛ての信長朱印状+三好康長副状です。
両者はおそらくセットにして考えないといけないのではないかなと思い始めています。

板倉さんは、元親が土佐一条氏を盟主とする大津御所体制の補佐役であることから、阿波国の国主に元親がなれないのではないかとご指摘です。なるほどと思いました。もしかして板倉さんは、阿波国を三好式部少輔に与えるという信長朱印状があったのではないかと想定されているでしょうか? つまり、香宗我部親泰宛ての2点はそれの関連文書だと。

板倉さんは新出の信長朱印状の宛所は三好康長ではないかと推定されましたが、それをセットに考えると、讃岐と阿波の両国が三好氏に与えられることになりますね。
そうだとすれば、当然ながら元親は怒りますよね。信長との断交は天正八年まで遡ることになりますが、さすがに早すぎないでしょうか。

(2)天正10年5月27日付け堀秀政書状について(P185)

ご指摘のように、天正十年五月頃の堀秀政の動きについて、『信長公記』は混乱しています。谷口克広氏は秀政が備中に下向したのは五月下旬、つまり徳川家康接待ののちだとしています。私は下旬というより、ほとんど月末だったのではないかと思っています。
秀政が羽柴秀吉とどこで合流したか、一次史料で確認することは難しいのではないかと思っています。『寛政譜』などは秀政が備中高松にいたように書いていますが、果たしてどこまで信用できるか。
たとえば、『惟任謀反記』には、「堀久太郎秀政に池田勝九郎元助・中川瀬兵衛尉清秀・高山右近重友等を差し加へ、これを遣す」とありますが、池田元助・中川清秀・高山重友の三人とも、備中に行くどころか、本能寺の変前後、ようやく出陣しようかというくらいですから、彼らと同道するはずだった秀政もまだ上方に留まっていた可能性が高くないでしょうか。
私は、那波直治問題(斎藤利三問題でもありますが)を処理した五月二十七日ののち、秀政は中国に下向する態勢になったのではないかと思います。
したがって、五月二十七日付の秀政書状は存在してもおかしくないと思います。

(3)本能寺の変の直前期における光秀の地位について(P120)

これもなかなか難しい問題ですが、光秀が長宗我部氏の取次からはずされたことはたしかで、信孝が四国渡海の総司令官に任命された以上、光秀が四国政策から排除されたことは明らかです。
それが政治的打撃になるかどうかという評価の問題ですね。
光秀が信長のそば近くにいて、信頼が厚かったというのも評価の問題で、直接の担当正面がないというのは、谷口克広氏の言われる方面軍司令官の地位から降りることを意味します。光秀がそれで満足したかどうかですね。

(4)本能寺の変とは何だったのか(P280)

戦国時代は謀叛や叛逆が多かった、中世人はキレやすかったというのはその通りだと思いますが、そうした一般論ではなく、天正年間初期という時代において、より具体的に考える必要があるのではないかと思います。
拙著では十分書き切れませんでしたが、やはり、荒木村重や松永久秀の反逆との比較は重要ではないかと思っています。
久秀や村重の頃(天正七年前後)までは、二人がそうしたように居城にこもって、本願寺・上杉謙信・毛利輝元・足利義昭らと結ぶという方法がとれました。
しかし、光秀が謀叛を起こした同十年にはそうした方法はとれません。謙信は没し、毛利は退潮し、本願寺は降伏し、将軍義昭の京都帰還はほぼ絶望的な状況でした。反逆して成功するには、信長本人を打倒するしか方法はなくなっています。
私は、光秀が将軍義昭と結ぼうと考えていなかった、つまり、義昭が黒幕ではないと思っていますが、拙著で挙げなかった理由として、本能寺の変当日、光秀が美濃の国人西尾光教に宛てた有名な書状に、信長父子が「天下の妨げ」だったという一節にもっと注目すべきだと思っています。
何が言いたいかといえば、光秀は信長本人の存在は否定しても、信長が構築した「天下」の枠組みは認めているということです。光秀が信長死後も「天下」という言葉を使っていることは重要だと思います。言葉を換えれば、光秀は将軍義昭の京都復帰や旧体制の復活など考えていなかったということです。光秀は信長の代わりに「天下」の中心に坐るつもりだったとしか考えられないでしょうか。

(5)「惟任公儀を奉じて」の解釈(P216)

板倉さんが仰せのように、「公儀=信長本人」でも私は別に構いません。要は、「公儀」は信長であって、足利義昭ではないということが明確になればいいだけです。
ただ、大村由己が「将軍」と「公儀」を使い分けているので、あえて意味づけすれば、「将軍」が信長本人で、「公儀」が織田権力だと解すれば、うまくおさまるというだけのことです。

以上、どこまでお答えになっているかわかりませんが、とりあえずの回答にしたいと思います。





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【2007/03/20 23:50】 | 信長
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丁寧な御回答ありがとうございます
板倉丈浩
こんにちは。板倉です。

>貴重なご意見をいただき、感謝したい。非常に鋭いご意見なので、こちらも大変勉強になります。

こちらこそ、始めて見る史料や論文が多く、大変勉強になりました。

>両者はおそらくセットにして考えないといけないのではないかなと思い始めています。

例の信長朱印状について考察した際に、私もそのように考えました。

>もしかして板倉さんは、阿波国を三好式部少輔に与えるという信長朱印状があったのではないかと想定されているでしょうか? つまり、香宗我部親泰宛ての2点はそれの関連文書だと。

その通りです。

>讃岐と阿波の両国が三好氏に与えられることになりますね。 そうだとすれば、当然ながら元親は怒りますよね。

この時期の元親は、土佐では一条氏、阿波では三好氏を表面上立てて、名を捨てて実を取っていたということだと思います。

>彼らと同道するはずだった秀政もまだ上方に留まっていた可能性が高くないでしょうか。

なるほど。
毛利氏と講和して姫路城に引き返してきた秀吉が、秀政に対して「大博奕をお目にかけます」と言い切る『川角太閤記』の名場面はあまり疑ったこともなかったので、興味深いご指摘です。

ただ、もう少し傍証が必要かなとも思います。
私は『惟任謀反記(惟任退治記)』のこの記述については、直前で「軽率に戦うな」という信長の上意が示されていますし、文脈から「秀政を上使として秀吉陣中に派遣し、池田等には秀政への加勢を命じた」と解釈していました。
つまり、使者としての秀政は秀吉の陣に急行するけどそのまま復命することはせず、秀吉軍の一手の将として働くべく摂津諸将を与力につけられたということではないかということです。

>光秀が信長のそば近くにいて、信頼が厚かったというのも評価の問題で、直接の担当正面がないというのは、谷口克広氏の言われる方面軍司令官の地位から降りることを意味します。

確かに評価の問題というのはあると思います。
本社の総務部長と出先の事務所長のどっちが栄転か、みたいな話で(笑)
関東担当となった滝川一益は非常に落胆した旨、書状が残っていますが、光秀はどう思ったのか・・・。
ただ、意見対立があったり、評価が落ちたりしたということがあるとすれば、そういう家臣を大軍を率いさせたまま側に置くという信長の措置はやはり不可解なんですよね。
信長という人が無神経で、あまりそういうことを気にしなかっただけかもしれませんが(^^;

>光秀が美濃の国人西尾光教に宛てた有名な書状に、信長父子が「天下の妨げ」だったという一節にもっと注目すべきだと思っています。
>光秀は信長本人の存在は否定しても、信長が構築した「天下」の枠組みは認めているということです。

私は光秀は「天下」はそれほど意識してなかったのかなという印象を持っています。
細川父子あての手紙で「50~100日のうちに畿内近国を平定したら、息子・十五郎や忠興に譲って隠居したい」なんて言っていますし、光秀と細川氏の関係から言って、こちらの方が本音が出ているのではないかと思います。
つまり、明智氏の畿内における圧倒的な優位を保てればそれでいいのであって、それから先、天下統一までは考えていなかったような気がします。

>「公儀」は信長であって、足利義昭ではないということが明確になればいいだけです。

なるほど。了解です。
私も、この史料における「公儀=義昭」という解釈はありえないと思います。



三好や天下など
桐野
板倉さん、こんにちは。

再びコメント有難うございます。
気になった点について書いてみます。

>この時期の元親は、土佐では一条氏、阿波では三好氏を表面上立てて、名を捨てて実を取っていたということだと思います。

非常に面白い考え方ですね。香宗我部親泰宛て信長朱印状に「猶以て阿州面の事、別して馳走専一に候」とか、三好康長の副状に「諸事御指南」「いよいよ御肝煎」とある一節と関連しているようにも見えます。
私もこれらの一節から、信長が元親に阿波における何らかの権限ないし権益を与えたと思っていましたが、板倉さんのようには考えられませんでした。

また、拙著92頁あたりにある、新出の秀吉宛て元親書状に阿波勝瑞城に本願寺残党の牢人衆がこもっているのに、元親が「戦中遠慮を加え候」として、勝瑞城攻撃を控えたという一節が気になっていたのですが、板倉さんのご指摘が少しヒントになったような気がします。

そのように解釈すると、いくつかの疑問が氷解するのもたしかですが、一方で別の疑問が派生してくるようにも思えます。
たとえば、信長朱印状(天正8年6月12日付)ののち、式部少輔はどこにいたのか、岩倉なのか勝瑞なのかという点。式部少輔と三好存保との関係はどうなるのかという点。本願寺残党の牢人衆を引き入れたのは、むしろ式部少輔か、存保ではないのか(長宗我部方との対抗のため)などなど。

それと、阿波・讃岐両国を三好一族、とくに式部少輔を三好康長の子どもだと解すれば、康長父子に与えたことになり、いろいろな意味で極端にバランスを失した政策になるのではないかと思います。

第一に、阿波三好家の内情を無視した荒っぽいやり方であること。阿波三好家のなかで、康長は庶流にあたります。三好存保という一応の当主がいるのに、それを差し置いての仕置はいかがなものか。当然、存保方や篠原自遁など家臣団からも反発がありそう。
第二に、やはり天正三年の元親宛て信長朱印状(『元親記』の記事を信じてですが)にある「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」という趣旨が、やはり一定程度、信長の意向や政策を拘束していたと思われ、あまりにも三好方に偏して合理性が少ない仕置なので、元親が納得できるとは到底思えないこと。
第三に、「名を捨てて実を取る」といっても、既成事実の積み重ねは当知行主義の原則を生じさせ、その実、「名も実も捨てる」結果になりかねないのではないかということ。

などです。

信長も、光秀の意向をまったく無視できませんから、四国政策を三好有利に誘導するとしても、それなりの論理というか、理屈を組み立てる必要に迫られます。むしろ、信長はそのようなやり方を好んだ人です(たとえば、佐久間信盛折檻状)。
とすれば、元親そして光秀を説得するためにどのような理屈を拵えられたのか、なかなか想像がつきません。
これはやはり、現存する信長朱印状などの史料で類推するしかないと思いますが、とくに前回ご紹介した新出の信長朱印状の宛所が切断されているのが、返す返すも痛いですね(笑)。

堀秀政の動向については、何か一次史料か信頼できる史料がありそうにも思えます。もう少し探してみます。ご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

光秀と「天下」についてですが、たまたま西尾光教宛ての書状が現存しているだけですが、ほかにも近江・美濃あたりの信長家臣に相当数、ほぼ同文のものを送っていると想定してもおかしくないと思います。
そうだと仮定すれば、光秀が「天下」という言葉を乱発していたことになります。
これは、織田家中で「天下」が信長を頂点とする統治体制という意味で、ふつうに使われる用語になっていたことを示していると同時に、光秀も「天下」を暗黙の前提として受け容れていたことにならないでしょうか。
これは「天下」という大義名分を持ち出すことによって、「謀叛」を正当化しようという、光秀なりの戦略でもあったかもしれません。

細川父子宛ての光秀書状に「天下」云々という言葉がないのもある意味当然だと思います。「天下」はご指摘のように、いわば「建前」で他人に対して使う言葉。
それに対して、細川父子は親戚、とくに忠興は女婿ですから、「本音」で語ったというのはそのとおりでしょう。忠興を優遇することで、何とか細川父子を味方につけたかったのだと思います。

また「五十百日」で畿内を平定して既成事実をつくれば、みな謀叛のことなど忘れてしまうというのも、現実的な考え方だったと思います。そうなれば、ますます「天下」という言葉が実体となり、より説得力が増すことになったのではないかと思います。
いかんせん、光秀にはその時間的猶予が与えられなかったですけどね。




三好氏と長宗我部氏、信長・光秀の「天下」について
板倉丈浩
再度のレスありがとうございます。
関心があるテーマなので、もう少し議論を続けます。

>信長朱印状(天正8年6月12日付)ののち、式部少輔はどこにいたのか、岩倉なのか勝瑞なのかという点。

これは史料がないのではっきりしたことはいえませんが、阿波国主として、十河存保出奔後の勝瑞城に置かれたんじゃないかと思います。

>式部少輔と三好存保との関係はどうなるのかという点。

もともと存保は一部国人に担がれたピンチヒッターに過ぎず、国内における人望もあまりなかったようですから、正式に式部少輔が阿波三好家を継承したということだと思います。
康長が書状の中で、実の息子と伝えられる式部少輔を「同名式部少輔」と一族扱いで呼んでいた背景には、式部少輔は阿波三好家の跡取りという(三好一族の代表者としての)意識が働いていたのではないでしょうか。

>本願寺残党の牢人衆を引き入れたのは、むしろ式部少輔か、存保ではないのか

元親は秀吉に対して、「十河」の守備を固めて本願寺残党=雑賀衆の討伐に赴いたとし、雑賀衆と「同心」したのは新開道善(南阿波国人・牛岐城主)だと書いています。
つまり、新たに成立した三好=長宗我部の連立政権に服さない一部国人が、雑賀衆を引き入れて勝瑞城などを一時的に奪ったということだと思います。

>天正三年の元親宛て信長朱印状(『元親記』の記事を信じてですが)にある「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」という趣旨

信長が果たしてそんな気前のいい約束を本当にしたのか、何のメリットがあるのか、はなはだ疑問ですが、もしあったとすれば、天正3年ではなく、天正8年じゃないかと思います。
長宗我部氏が三好氏と協調するという前提があれば、「四国切り取り次第」の軍事行動の対象はもっぱら伊予(毛利氏が影響力を持つ)ということになりますから、毛利氏攻略の一環として期待できるからです。

>四国政策を三好有利に誘導するとしても、それなりの論理というか、理屈を組み立てる必要に迫られます。

例の信長朱印状にある「本領」という語がそれに該当すると思います。
つまり、阿波・讃岐は三好氏の「本領」であるから三好氏再興は正統性があり、信長としてもそれを支援すべきであるということです。

>織田家中で「天下」が信長を頂点とする統治体制という意味で、ふつうに使われる用語になっていたことを示していると同時に、光秀も「天下」を暗黙の前提として受け容れていたことにならないでしょうか。

信長が「天下」という言葉を使用するときに、国家の統合だとか、公的な存在としての武士だとか、そういう独自の統治理念が込められているのだという朝尾直弘氏の指摘は理解しています。
ただ、光秀が書状で「天下」という語を使用しているからといって、信長の統治理念まで継承したと言えるのかどうかは疑問です。
光秀の「父子悪逆天下の妨げ討ち果たし候」という文面の「天下」の用法は信長とはちょっと違っていて、これは天道思想じゃないかという印象を私は持っています。
つまり、「信長父子は天道に外れた悪人だから天に代わって私が滅ぼしたのだ」と光秀は表明して、当時の人々に広く共有されていた天道思想に訴えたのではないかということです。
前のコメントで述べたとおり、これが光秀の本音とは思えませんが、そういう宣伝はしたと思います。



「四国切り取り次第」朱印状
板倉丈浩
自己レスです。

>天正3年ではなく、天正8年じゃないかと思います。

天正8年11月の秀吉あて元親書状にある「殊四国行之段、御朱印頂戴仕旨」の「御朱印」がこれにあたるのではないでしょうか。
讃岐では十河・羽床の反抗、阿波では本願寺残党の乱入があり、伊予攻めも西園寺氏の抵抗ではかばかしい戦果をあげられず、本国土佐でも妹婿・波川玄蕃を謀反の罪で殺害するなど、この時期の元親の四国経営はあまりうまくいっていなかったようです。
元親は秀吉に「阿波・讃岐を平定すれば西国表で粉骨する」と釈明していますが、信長はどう評価したか。

この後、天正9年2月に一条内政が伊予に追放され、3月には三好式部少輔が離反します。
信長が長宗我部氏に見切りをつけ、「四国切り取り次第」を取り消し「土佐と南阿波を残して讃岐・伊予・北阿波を返上せよ」と命じたとすれば、このタイミングでしょう。
信長の決定を受け、光秀が元親を説得しようとしますが、元親はこれを拒絶します。
この交渉がいつ行われたのかは確定できませんが、同年9月には秀吉が三好氏救援のため阿波に出兵していますから、この頃には織田・長宗我部は完全な敵対関係になっていたということがいえると思います。

なお、伊予の西園寺公広が「元親がこのまま切り取りを続けたら天下の仇となろう」と信長に抗議していたそうですから(山本大『長宗我部元親』)、信長の政策転換の背景には、前左大臣・西園寺公朝や右大将・西園寺実益らに対する配慮、朝廷対策という側面もあったのかもしれません。



お詫び
桐野
板倉さん、どうも。

レスが遅れ気味でお許し下さい。
ちょっと仕事が立て込んでおりますので、もうしばらくお待ち下さい。




堀秀政の居所
桐野
板倉丈浩さん、こんばんは。

前回話題になった堀秀政の居所についてですが、『堀家の歴史』(堀直敬著、堀家の歴史研究会刊、私家版)に、「越後村松堀家譜」が収録されていて、そのなかに天正十年五月頃の秀政の動きについて次のように書かれています(原文片仮名を平仮名に直す)。

「天正十午年、堀秀政信長の命を承て秀吉の援兵として西国に赴くの時、明智日向守光秀、信長父子を京都に弑して畿内騒乱せしかば、秀政摂州に留りて秀吉の来るを待ちし処」云々

これによれば、秀政は本能寺の変勃発時に摂津にいたことになり、やはり池田恒興らと一緒に出陣するつもりだったのではないでしょうか。
一次史料ではありませんが、堀家の家譜ということで、それなりに信頼できるかもしれません。

これで、秀政が備中に行っていなかった可能性がかなり高くなったのではないかと思います。

取り急ぎ、この件のみ。


越後村松堀家譜
板倉丈浩
>「天正十午年、堀秀政信長の命を承て秀吉の援兵として西国に赴くの時、明智日向守光秀、信長父子を京都に弑して畿内騒乱せしかば、秀政摂州に留りて秀吉の来るを待ちし処」云々

御教示ありがとうございます。なかなか興味深い記述ですね。
ただ、江戸時代の編纂物のようなので、17日に秀吉への「御使」として派遣されたとする『信長公記』の記述や、変の報せを備中で聞いたとする『寛政譜』『川角太閤記』の記述を否定するだけの材料かどうか。

>これで、秀政が備中に行っていなかった可能性がかなり高くなったのではないかと思います。

「御使」でなくて「援兵」だったとしても、光秀が急遽帰国した10日後になっても安土にいるってのは、いささかのんびりしすぎているような気がします。
光秀帰国後に中国方面の戦況がさらに悪化して追加の援軍派遣が決定したとか、そういう事情があったのならわかるのですが、そういうわけでもなさそうですし・・・。


「軍使」「御使」
桐野
板倉さん、どうも。

堀家(分家ですが)の家譜、仰せのとおり、近世の編纂物ですので、一次史料よりは信用性ではやや劣ります。しかし、私はこれが『信長公記』や『惟任謀反記』の記事と矛盾するとは思っておりません。

まず、『信長公記』にある堀秀政の役割・地位について、一般に誤解があると思います。
それは「御使」という用語についてです。これをふつうに使者という意味で理解されているのではないでしょうか。

それがおかしいと思う一例をあげますと、『惟任謀反記』には次のように書かれています。

「将軍(信長)は、信忠を京都に相具し、御動座あり、重ねて、惟任日向守光秀を軍使にして、早々着陣せしめ、秀吉と相談すべし」

ここでは、光秀が「軍使」となっています。これも秀政と同様に「使者」の意味でとらえると、大きな間違いであることは明らかですね。

つまり、「御使」や「軍使」は単なる使者ではないということです。「軍使」を国語辞典で調べると、次のようにあります。

ぐんし【軍使】
1 交戦中、軍の命を受けて、交渉のため敵軍に派遣される者。
2 天皇、将軍などの命を受けて、征伐、鎮撫などのために派遣される者。

光秀の「軍使」役が、2の意味で用いられていることは明らかですね。そして、秀政の「御使」も同様の意味だと思います。

『信長公記』の秀政についての当該部分に戻れば、

堀秀政
維任日向守
長岡与一郎
池田勝三郎
塩河吉大夫
高山右近
中川瀬兵衛

が中国への加勢を命じられた「先陣」ですが、そのうち、秀政が特別に信長の「上意」(中国の歴々討果し、九州まで一篇に」)を奉じる「軍使」としての武将という位置づけであり、秀政自身も先陣の一人として軍勢を率いていることに変わりありません。

したがって、『信長公記』にある「何れも何れも同事に本国へ帰り候て、御陣用意候なり」には、秀政も当然含まれていると思います。
秀政は家康接待役をつとめ、側近としての仕事を片づけたのち(5月27日以降)、軍勢をととのえてから出陣したところ、摂津あたりで本能寺の変に遭遇したという理解は、時系列的にも決しておかしくないと思います。

秀政だけが「軍使」で、先陣の諸将と少し役割が異なるのは、この中国出陣が単なる戦国大名同士の戦いではなく、「将軍」たる信長が、まつろわぬ毛利を「追討」「鎮撫」するという,一種の「官軍」(語弊を招くのであまり使いたくないのですが)という位置づけだったからでしょう。

なお、『惟任謀反記』で、光秀を「軍使」としたことは、秀政を「御使」とした『信長公記』と少し矛盾しますが、「将軍」の「上意」を前線指揮官の秀吉に、じかに下達する役目を秀政が負ったと狭義に解釈するか、あるいはその「上意」を奉じた先手全体を「軍使」と広義に解したかの違いかなとも思っています。

秀政が身軽に備中に使者として行ったという従来の理解のしかたは誤解だと思います。

難しい議論になってしまいましたが(苦笑)
板倉丈浩
こんばんは。大変お忙しい中、度々のレス感謝です。

>光秀の「軍使」役が、2の意味で用いられていることは明らかですね。

『惟任謀反(退治)記』の「軍使」については、当時の文書では見かけない言葉ですが、確かに、古代日本・中国では将軍の意味で使われている用例がありますね。
この史料の著者の大村由己は漢学に通じた学者だったようですので、この解釈も十分にありうると思います。

光秀は上意を奉じた「軍使」として、秀吉を含む中国方面軍の諸将を監督する役割を付与されていたということになりますから、この記述からも、信長の光秀に対する評価・信頼度は非常に高かったということがいえますね(^^

>そして、秀政の「御使」も同様の意味だと思います。

さて、これはどうでしょう。『信長公記』における「御使」の用例ですが、

首巻 「美濃国より大事の御使を請取り(中略)田舎より御使に罷上り候。火急の用事に候・・・」
巻一 「上意の御使に使者を相副へられ、佐々木左京大夫承禎、御入洛の路次人質を出し、馳走候へ・・・」
巻二 「天下の名物を召し置かるべきの由御諚候て(中略)友閑・丹羽五郎左衛門御使申し、金銀・八木を遣し・・・」
巻三 「何れも覚えの一種ども召し置きたきの趣、友閑・丹羽五郎左衛門御使にて、仰せ出ださる・・・」
巻十一「御褒美として播州の内芥川郡仰付けられ、弥御忠節を励まされ然るべきの旨、御使衆に申され・・・」
巻十二「塩河伯耆守へ銀子百枚遣わされ候。御使森乱・中西権兵衛相副へ下さる・・・」
巻十三「関東衆申し上げらるる趣、これを承る御使衆、二位法印・滝川左近・佐久間右衛門、三使にて御縁辺相調へ・・・」
巻十四「桑実寺へ女房共出だし候へと御使を遣はされ候へば・・・」
   「御脇指、御三人へ参らせられ候。御使森乱、中将信忠へ・・・」
   「其儀御返事をば申し上げず、剰御使に遣はされ候者十人ばかり討殺し・・・」
巻十五「森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に先年鳥目一万六千貫入置かれ候・・・」
   「御目に懸け候処、森乱御使いにて、御小袖并に御馬、御褒美として・・・」
   「本知安堵の御朱印、矢部善七郎・森乱、両人御使にて下され・・・」
   「幸若八郎九郎大夫居り申候額屋へ御使菅屋玖右衛門・長谷川竹両使を以て、忝くも上意の趣・・・」
   「森乱御使にて、幸若大夫御前へ召出だされ、御褒美として・・・」
   「上意にて、堀久太郎御使として、羽柴筑前かたへ条々仰せ遣はされ・・・」

森乱(蘭丸)の名前が目に付きますが、上意を伝達したり応接したり褒美を与えたりと、普通に使者という意味で使われている例がほとんどで、「征伐、鎮撫などのために派遣される者」という用例はないと思います。

>この中国出陣が単なる戦国大名同士の戦いではなく、「将軍」たる信長が、まつろわぬ毛利を「追討」「鎮撫」するという,一種の「官軍」(語弊を招くのであまり使いたくないのですが)という位置づけだったからでしょう。

このへんの考え方、なかなか興味を引かれますね。
信長は秀吉の「惣無事令」を先取りしていたということでしょうか?
史料的根拠とか理論的な組み立てとか、もう少し御教示いただけるとうれしいのですが・・・。

>側近としての仕事を片づけたのち(5月27日以降)、軍勢をととのえてから出陣したところ、摂津あたりで本能寺の変に遭遇したという理解は、時系列的にも決しておかしくないと思います。

うーん。
使者として備中に直行するにしても、援軍として本国に帰って出陣準備をするにしても、光秀や摂津諸将と同じ17日に安土を出立していなければ不自然ではないかと言いたかったんですが・・・。



信長の中国出陣
桐野
板倉さん、どうも。

「御使」について、いろいろ事例を挙げていただき、有難うございます。
仰せのように、単なる「使者」という用例もあるでしょうが、そうでない別の用例もあると思いますよ。
たとえば、挙げていただいた事例のうち、巻十三の北条氏に対応した武井夕庵・滝川一益・佐久間信盛は織田家中での地位の高さからして、単なる「使者」ではなく、取次だと思います。ほかにも取次の事例がありそうですね。
取次の場合、ある程度独自の裁量権を有していることも留意しておくべきだと思います。

そして、織田家中の内部における「御使」と対外的な「御使」も区別する必要があるのではないでしょうか。「御使」をすべて同列には論じられないと思います。

また、私は光秀の「軍使」と秀政の「御使」の関係をほぼ同義語だとして位置づけているわけで、ただの「使者」ではない、別の側面を論じる必要があると言いたかったわけでして。

つまり、同じ「御使」でも、小袖や銀子を与える「御使」と、中国出陣にあたって何らかの重要な軍令と思われる「上意」の「条々」を携えた秀政の「御使」はレベルや意味内容が異なると思うのです。
それはまた以下のご指摘のように、信長の中国出陣の位置づけと関わっているのではないかと思います。

>史料的根拠とか理論的な組み立てとか、もう少し御教示いただけるとうれしいのですが・・・。

秀吉の「惣無事令」の先取りかどうかは何ともいえませんが、大村由己が「軍使」という言葉を使った背景には、信長と織田権力の性格を他の戦国大名と異なる格別の位置づけにしたい歴史観があるように思います。あくまで大村由己の歴史観であって、信長のそれではありません。

それは、拙著にも書いたように、信長を「将軍」と表記していることが示唆的だと思います。由己は信長が征夷大将軍ではないのは百も承知ながら、天皇をいただく政権(統一権力)による辺境の逆賊征討という意味合い(古代的な征夷大将軍に近いかも)で使っているのかもしれません。
由己はまた別の箇所で、信長のことを「天下に棟梁として、国家に塩梅(補佐)」と位置づけています。ここから、外征に向かう信長が「将軍」になるという考えが出てくるのかもしれません。

そうした由己の歴史観がよく表れている一節があります。『惟任謀反記』の武田攻めのところで、武田勝頼を「年来の朝敵たり」と述べている点が象徴的ですね。
ほかにも別所長治を攻める羽柴秀吉を「西国征伐の軍主」と述べているのも、「将軍」の代理的な意味合いでしょうね。

由己のそうした歴史観はまったく根拠がないわけではなく、武田攻めのとき、朝廷は信長のために自ら祈祷と戦勝祈願を行ない、畿内の寺社にも同様に祈祷を命じています。
拙著『真説本能寺』(22~25頁)でも書きましたが、このとき信長のために戦勝祈願をした寺社は、判明しているだけで、石清水八幡宮・興福寺・吉田社・三千院・伊勢神宮外宮・伊勢慶光院・越前剣神社などがあります。
また、信州に在陣している信長・信忠に対して、勅使も下向して激励しています。
織田権力が公武統一政権といわれる所以でもあると思います。
武田攻めもそうでしたから、中国出陣も同様かそれ以上だったと想定してもそれほど的はずれではないと思います。
史料的根拠、理論的組み立てになっているかどうかわかりませんが、どうでしょうか?

>使者として備中に直行するにしても、援軍として本国に帰って出陣準備をするにしても、光秀や摂津諸将と同じ17日に安土を出立していなければ不自然ではないかと言いたかったんですが・・・。

これについては、『信長公記』にもあるように、秀政は徳川家康接待役も命じられておりますから、家康が上洛した5月21日も、秀政は安土にいた可能性がありますね。
『信長公記』は秀政の記述で混乱していると前に書きましたが、どうなんでしょうかね。仮に命じられたのが17日だったとしても、すぐ出発するわけでもないでしょう。ましてや軍勢を率いてとなると。
秀吉への「御使」と家康接待役とが時系列的に両立しないと考えられてきたわけですが、何も同時にやる必要はないとも思います。

それと、板倉さんは5月27日付の秀政書状(稲葉貞通と那波直治宛ての2通)に疑問をお持ちのようですが、谷口克広氏によると、稲葉氏は美濃の国人ながら、信忠配下ではなく信長の旗本衆です。そうであれば、信長の中国出陣にあたって稲葉氏も従軍する可能性が高いわけで、そうなると、那波直治・斎藤利三の一件を片づけておかないと出陣できないという事情もあったのではないでしょうか。


堀秀政の役割、那波直治の一件
板倉丈浩
こんばんは。
毎度の事ながら丁寧な御回答・御教示ありがとうございます。

>私は光秀の「軍使」と秀政の「御使」の関係をほぼ同義語だとして位置づけているわけで、ただの「使者」ではない、別の側面を論じる必要があると言いたかったわけでして。

それはわかります。
ただ、もう少し事例があるといいんですけどね。
先の事例だけですと、由己は「軍使=光秀」、牛一は「秀政=御使」としていて、同一人物を指したものではありませんし、2人の立場や実際の行動からして別々の役目を与えられていたと見るのが自然ですから、同義語ではないと思います。

>あくまで大村由己の歴史観であって、信長のそれではありません。

あ、そうかあ。
由己は秀吉側近ですから、信長関係の叙述にも豊臣政権の色が色濃く出ているのは当然ですね。
私が先走りしすぎましたか(^^;

>織田権力が公武統一政権といわれる所以でもあると思います。

このへんは私も異論はないです。

>仮に命じられたのが17日だったとしても、すぐ出発するわけでもないでしょう。ましてや軍勢を率いてとなると。

戦争にかかわる重要事項ですから、上意を伝える使者ならばすぐに出立しなければおかしいです。
秀政が使者ではなく援兵だったと解釈する場合でも、秀政以外の連中は即時帰国しているわけで、側近は他にもいるのに、何で10日間も別の仕事をしているのかと、どうしても不審に思ってしまうわけで。

まあ、このへんは秀政の動向を裏付ける一次史料が出てこない限り、何とも確定できないわけで、秀政の「本国」が安土のすぐ近くであれば、出陣準備しながら側近事務もこなしたという可能性もなくはないですが、そこまで無理矢理辻褄をあわせる必要もないような気がします。

>板倉さんは5月27日付の秀政書状(稲葉貞通と那波直治宛ての2通)に疑問をお持ちのようですが、

この書状も本能寺の変の1~2年前のものとするなら、稲葉氏によって「奉公構え」に処された武士の帰参に関する裁定の伝達ということで、内容的にそんなに不自然なものではないと思います。
ただ日付の不自然さに加え、『稲葉家譜』では、この書状発給に関連する出来事として、信長による斎藤利三の切腹命令とその撤回、光秀を呼びだして暴行、光秀の付け毛がとれる(笑)という、とても史実とは思えないエピソードが並べられていますので、どうしても怪しいわけでして・・・。
ひょっとしたら、この書状を発見した『稲葉家譜』の編者が「本能寺の謎がとけた!」と喜んで(笑)掲載してしまったのかもしれませんね。あくまでも想像ですけど。

あと、斎藤利三を返す返さないのトラブルがあったかどうかについては、高柳光寿氏が「利三が依然として光秀の下にあったことから考えると、本当にあったこととは考えられない。信長という男は一旦言い出したらあとへ引くような男ではなかったからである」としており、もともとの出所が『続武者物語(武辺咄聞書)』であることからしても信憑性は低いと思います。


>堀秀政の役割、那波直治の一件
Tm.
>板倉さん
>ひょっとしたら、この書状を発見した『稲葉家譜』の編者が
>「本能寺の謎がとけた!」と喜んで(笑)掲載してしまった
>のかもしれませんね。あくまでも想像ですけど。

横レスになりますが、板倉さんの指摘されたことについては、
自分も同じ疑問を抱いていました。

そもそも件の書状は、本当に天正10年のものなのでしょうか。
文面からだけではその年次は判定し難く、利三の件の記述が
有ってこそ天正十年と断定される訳で、編者が「変」に関連
付けて挿入した可能性も否定できないように思われます。
『永源師檀紀年録』が利三の稲葉家退出の時期を天正10年
としていることにそうした作為が窺えるとみるのは穿ち過ぎ
でしょうか。

そのうえで素直に『信長(公)記』を読めば、秀政は5月20日の
家康接待の後、さほど日にちを措かずして出立したと考える
べきなのですが、その際、留意すべきは、「 御動座なされ、
中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰付けらるべきの旨
上意にて、羽柴かたへ条々仰遣はされ、」との記述であり、
「条々」には信長自身の出陣日次も含まれていたのではないのかということです。

『日々記』の記述によれば信長の出陣は6月4日の予定で
あったとされますが、それが決定したのは何時かと考えるに、
5月27日付で信忠が森乱宛てに信長の中国出陣、上洛を聞き堺への下向を取り止める旨を書き送っていることが注目され、
遅くとも26日には決定していたのではないかと推測されます。
実際、光秀は26日に坂本を発ち亀山に入っていますから、
信忠にも同日に伝わったのでしょう。

問題は、そうした決定を受け何時、秀政が出立したのかという
ことですが、26日以降で29日の信長の上洛に従い出立した
可能性も考えられ、27日付の秀政の書状も有り得ますし、
後者であれば備中高松までは到っていなかった可能性も高い
のではないでしょうか。

ただそのうえでも利三絡みの話しは少々出来すぎであり、
その処断を巡って信長と光秀の言い争いがあったとすれば
17日以前のことであり、那波直治帰参の裁定も同じ頃のはず
なので27日付の秀政の書状にはタイムラグがあるやに思われ
ます。
やはり『稲葉家譜』のそれは、実際にあった那波直治の件を
取り込み創作されたものではないでしょうか。


「稲葉家譜」の記事について
板倉丈浩
Tm. さん、はじめまして。

>信長の出陣は6月4日の予定であったとされますが、それが決定したのは何時かと考えるに、
>5月27日付で信忠が森乱宛てに信長の中国出陣、上洛を聞き堺への下向を取り止める旨を書き送っていることが注目され、

なるほど。
信長の意志決定は、17日の光秀らへの出陣命令と26日頃の信長本人の中国出馬決定と2段階に分けて考えるべきであり、堀秀政の派遣は後者を受けたものではないかということですね。
それなら、20日に家康の接待を行っていることも納得できますし、27日の書状発給もありえそうです。
確かに信忠の動向を見る限り、『信長公記』で17日に「御動座(出馬)」の「上意」があったとするのは早すぎますよね・・・。
となると、『川角太閤記』では「堀久太郎を京都より備中へ御使に遣わされ、"毛利退治のために出馬然るべきか見極めよ。返事次第では京都よりただちに出馬する"との仰せであった。久太郎が備中へ参着したのと同時に信長公御切腹の様子が伝わった」としており、時系列的にはこれが一番しっくりしているように思えます。

>やはり『稲葉家譜』のそれは、実際にあった那波直治の件を取り込み創作されたものではないでしょうか。

書状の内容からも、その後の稲葉家における直治の処遇から考えても、帰参は円満に解決したのであり、トラブルなどはなかったと考えるべきでしょうね。
なまじ直治が利三と似た経歴を持っていたがために、俗書に記されたエピソードに関連づけて、面白おかしく伝えられてしまったということだと思います。



堀秀政は軍目付では
桐野
Tm. さん、こんにちは。

>そもそも件の書状は、本当に天正10年のものなのでしょうか。

稲葉貞通と那波直治に宛てた堀秀政書状の年次ですが、『稲葉家譜』には天正10年条に収録されています。私はいまのところ、同年に比定しても、さほど矛盾があるとは思っていません。
秀政の両書状とも、那波直治の処分結果を伝えたもので、斎藤利三のことに触れているわけではありませんが、これは直治の処遇に関わるので、彼のことしか書かなかった、利三に触れる必要はなかったということでしょう。

この書状内容を裏づける史料として、『永源師檀紀年録』の記述は意外と重要だと思っています。
これには、光秀謀叛を書いている他の俗書が触れていない那波直治の一件を触れており、しかもこの一件が天正10年に起きたと書いているからです。その点で同書と他の俗書は区別すべきだと思っています。

もっとも、同書は利三が稲葉家を退転したのも天正10年とするなど、多少不正確な点はあります(これは直治の退転時期と混同したか、直治の一件に利三も関与していたことを示唆していると思われる)。
ですから、その点は差し引くべきでしょうが、直治と利三の一件はセットで考えるべきだということを教えてくれていると思います。
『稲葉家譜』で、利三と直治に対する信長の処分の軽重が生じた(利三は死罪、直治は帰参)のが疑問だと拙著で書いていますが、ほかでもなく、利三が直治を引き抜いたのだと考えればある程度納得いきます。利三は稲葉家を退散した罪ではなく、直治を勝手に引き抜いたことが織田家の家中法度に触れ、それに激怒した信長が利三に自刃を命じたのだと、とりあえずそのように解釈すれば、それほど的はずれではないと思います。

そのような意味で、私は『稲葉家譜』と『永源師檀紀年録』は重要な史料だと考えています。

いずれにしろ、二次的な編纂物ですから切り捨てるのは簡単ですが、『稲葉家譜』に収録された秀政書状2点に不審なところがないこと、両史料の記述がおおかたで一致していることを重視したいと思っています。
もっといえば、別の史料(できれば一次史料)でウラがとれればもっといいことはいうまでもありませんが。

秀政書状の内容については、Tm. さんも板倉さんも疑問をお持ちだとは思えませんが、問題は年次なんでしょうね。仮に天正10年だとすれば、『信長公記』の記述と矛盾するのではないかというのがお二人の疑問であろうと思われます。

それについて、私の意見はこれまで述べたとおりですが、改めて次の2点を挙げることで私の推測を補強しておきたいと思います。

1,秀政は軍勢を率いた一手の大将

 『信長公記』にある「御使」について、以前の議論では、「御使」はいろいろな用例や意味があるのではと指摘したものの、当該箇所についてはっきり打ち出せませんでしたが、秀政が軍目付だという意味合いで理解すべきだろうと思います。

たとえば、『多聞院日記』天正8年9月条に、滝川一益・明智光秀が指出を徴するために大和に乗り込んできた一節を「安土より上使にて」と書いています。
滝川・明智の両人は大和一国から強制的な指出を断行するわけですから、興福寺や国人などの抵抗を押さえつけるために当然軍勢を引き連れてきています。
それでも、「上使」と呼ばれているのは、むろんただの使者ではないことは明らかで、この場合、信長の命令を忠実に遂行する役割を意味します。この場合、両人は信長の陣代もしくは名代でしょう。
ほかにも探せば、陣代や軍目付を意味する「御使」の事例があるのではと思います。

秀政もそうした役割を負いながら、軍勢を率いていたと考えます。たとえば、山崎合戦を描いた軍記物の事例を出しますと、


『明智軍記』 
「次ニ堀久太郎秀政千五百」

『増補筒井家記』
「山ノ手ハ堀久太郎、浅野弾正父子、生駒善介、大谷慶松等打テ懸ル」

『池田氏家譜集成』
「中川瀬兵衛、堀久太郎山の腰へ上り、横合に攻かゝれハ」

『越後村松堀家譜』(堀家の分家が自分たちの行動を描いている)
「乃チ鉄砲ノ隊長近藤織部ヲ進メ、馳セテ財寺ノ峯ニ登リケレハ」

以上のように、秀政は一手の軍勢を率いています。そうであれば、信長から5月17日に「御使」を命じられてもすぐには出陣できません。

なお、軍記物が信用できないという考えもあるので、一次史料もみてみます。

『浅野家文書』10号、豊臣秀吉披露状写 
天正10年10月18日付、信孝家老の岡本良勝次郎左衛門・斎藤玄蕃助利堯に宛てた有名な長文の書状

「山崎に陣取申し候高山右近・瀬兵衛・久太郎手へ明智段々に人数をたて切懸り候之処を、道筋は高山・瀬兵衛・久太郎切崩」

秀政が高山重友・中川清秀と共に先手の一手になっていることがわかります。
秀政は本能寺の変以後は明智方のために通路を遮断されて自領と切り離されていますから、これらの軍勢は政変以前に編成したと考えるべきでしょう。


2,秀政の「御使」は軍目付・軍監

このように、秀政が一軍を率いていながら、『信長公記』で、明智勢や池田恒興など摂津勢を「先陣」とし、秀政を「御使」と区別して書いた理由は、信長が秀政に軍目付役を命じたからだと考えれば、よく理解できるのではないでしょうか。
信長側近が軍目付役をつとめた事例は、万見仙千代や菅屋長頼などにいくつかあります。
この場合も、信長は5月7日付の信孝宛て朱印状で、いったん淡路に渡海すると書いています。また四国攻めには兵粮3カ月分を用意させていますから、予定どおりだと、信長が中国に向かうのは3カ月後になります。

その間、備中には羽柴勢、明智勢、池田勢などが集結しているわけで、信長不在中、相論や喧嘩が起きないように統制を維持するためには、どうしても軍目付が必要です。それを秀吉や光秀に命じると、別の部将から不満が出ることでしょう。その役目は信忠が出陣してこないかぎり、秀政がもっとも適任であろうと思います。
信長は自分が中国に不在中の軍令権を秀政に委任したと考えれば、『信長公記』の「先陣」と「御使」の使い分けもすんなり理解できるような気がします。

そのように考えたうえで、本能寺の変時点で秀政が備中ではなく、摂津にいたというのも納得できる気がします。秀政は明智勢、摂津勢、長岡勢など諸勢を摂津に集結させたのち、備中に向かうつもりだったのでしょう。

光秀が丹波亀山を発したのが6月1日
長岡忠興が丹後宮津を発したのも6月1ないし2日頃
摂津勢も同時期にまだ摂津在国

秀政が5月27日に利三・直治の一件を処理してから出発しても十分間に合います。
Tm.さんが推定されたように、秀政は信長の上洛に同行して、最後の指示を仰いだのち、摂津に向かったのかもしれませんね。

とりあえず、このように考えると、拙説もまだ大きな破綻はしていないのではないかと思っています。
いろいろなご教示・ご意見有難うございました。




明智光秀家中軍法
Tm.
桐野先生どうも。

実は、5月27日の日次をもつ秀政の書状の年次判定において少々気に掛かるものとして、天正9年6月2日の年日次をもつ「明智光秀家中軍法」があります。

注目すべきは、条々を並び立てた後に「然而顕愚案條々雖顧外見」としたうえで、「既被召出瓦礫沈淪之輩」と謙り「剰莫太御人数被預下上者」と、光秀がことさら信長からの恩恵を謳っているいることです。
しかもそれらに続く文面には、あたかも稲葉貞通を揶揄するかの如き印象を受けます。
つまり、利三や直治の件があったのは天正9年のことだったのではないでしょうか。

そのように考えると、『多聞院日記』の「御ツマキ」の件の「信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、」も、両者の間に気まずい思いが漂っていたなかで、身内の不幸に悲しむ光秀に対し信長が気遣いを見せたものとして自然に解釈できるかもしれません。

>光秀謀叛を書いている他の俗書が触れていない那波直治の一件を触れており

『稲葉家譜』も『永源師檀紀年録』も、言わば身内の記録ですから不思議はないでしょう。
むしろ「本能寺の変」に纏わる他にはない情報として採り上げられ、共に天正10年の出来事ととして記されたのではないでしょうか。

利三が実行犯のひとりであったことは確かであり、公開処刑もなされている一方でその人柄、武勇を称えられる人物でもあったことから、一際注目を集めたであろうことは言うまでもなく(春日局の父親としても)、尾鰭の付いた話が創作されたしとても不思議はないでしょう。

利三の件は、やはり一次史料による裏付けのほしいところですが、「家中軍法」や『多聞院』が傍証になりそうな気がします。


以上愚見ですが。





史料批判
板倉丈浩
横レス失礼します。

>両史料の記述がおおかたで一致していることを重視したいと思っています。

うーん。
『永源師檀紀年録』は細川忠興が山崎合戦に参加したように記すなど、信憑性が高いとは言い難い史料のようですが、そのへんを差し引いても、那波直治が細川藤孝の尽力で円満に帰参したという記述ですので、『稲葉家譜』の記事とは大きく異なっていると思います(堀秀政書状だけ見ればそれほど矛盾しませんが)。

>問題は年次なんでしょうね。仮に天正10年だとすれば、『信長公記』の記述と矛盾するのではないかというのがお二人の疑問であろうと思われます

これについては、秀政の派遣が17日とする『信長公記』の記述が誤っているとするならば、天正10年も全くあり得ないとは思っていません(ただ、天正9年以前に比定する方が無理がないとは思います)。
問題は、Tm.さんも指摘するとおり、たとえこれが天正10年の書状であっても、『稲葉家譜』が記す利三をめぐる信長・光秀のゴタゴタは時系列的に困難、ということではないでしょうか。

>予定どおりだと、信長が中国に向かうのは3カ月後になります。
>信長は自分が中国に不在中の軍令権を秀政に委任したと考えれば、

これはどうでしょう。
秀政が27日以降に出発したとすれば、その時点では信長が近日中(6/4か)に中国出馬することが決定しており、だからこそ信忠は堺下向を中止したのだから、「出馬するのは当分先だから秀政に任せた」という推測は成り立ちがたいと思うのですが。

いろいろ否定的なことばかり言ってしまいましたが、絶対ないかというとそういうわけでもないわけですし、かといって推測に推測を重ねることが許されるなら何でも有りになってしまいます。
裏付けとなる一次史料に乏しい現状では何とも議論が難しいですね・・・。



誤解があるようで
桐野
板倉さん、どうも。

私の書き方が悪いせいか、どうも誤解があるようで。

私も那波直治に関しては円満に解決したと思っていますよ。それは『稲葉家譜』も『永源師檀紀年録』も一致しているのではないでしょうか。

問題は斎藤利三に関してどうなのかという点でして、上記両書が利三を直治と関連づけて述べている点が共通しており、他の俗書には見えない記述なので、重視すべきではないかということです。

付言すれば、両書とも、信長が光秀を折檻したとする点でも共通しており、利三の処分との関連を暗示しているのかもしれません。もっとも二次的編纂物ですから、それにこだわるつもりはありませんが。

あと、次の点ですが、

>秀政が27日以降に出発したとすれば、その時点では信長が近日中(6/4か)に中国出馬することが決定しており、だからこそ信忠は堺下向を中止したのだから、「出馬するのは当分先だから秀政に任せた」という推測は成り立ちがたいと思うのですが。

信長が6月4日に出陣するという典拠は『晴豊公記』(日々記)でしょうか?
そうであれば、「西国手つかい」云々とあり、必ずしも西国=中国ではなく、中国・四国・九州を含めた全般という意味ではないでしょうか。
5月7日付信孝宛て朱印状に「信長淡州に至って出馬の刻」との整合性を重視すれば、信長は淡路島に渡海して、信孝勢の様子を視察してメドが立ったのち、中国に向かう手筈だったと考えられます。
また、その傍証になるかもしれませんが、『フロイス日本史』にも「信長の堺行き」云々とあります。家康と再会する予定もあったかもしれませんが、堺からだと、淡路島への渡海のほうが中国へ行くよりも合理的ではないかと思います。

なお、『信長公記』にある「中国の歴々討果し」云々も、備中の秀吉からの注進との対応で述べたもので、したがって、その方面への出陣部隊である明智勢・摂津勢と「御使」の堀秀政などの陣立を記述しただけで、その場合、四国問題にあえて言及する必要がなかった、あるいはすでに5月上旬の条で触れているから重複を避けたとも考えられますし、一次史料の記事を優先すべきかと思います。。


私の誤解だったようです
板倉丈浩
>私も那波直治に関しては円満に解決したと思っていますよ。
>両書とも、信長が光秀を折檻したとする点でも共通しており、

なるほど・・・。私の誤解だったようですね。すみません。

>もっとも二次的編纂物ですから、それにこだわるつもりはありませんが。

了解しました。

>5月7日付信孝宛て朱印状に「信長淡州に至って出馬の刻」との整合性を重視すれば、信長は淡路島に渡海して、信孝勢の様子を視察してメドが立ったのち、中国に向かう手筈だったと考えられます。

これは興味深い指摘ですね。
5月7日の時点で信長は淡路に行くことを考えており、中国よりも四国を優先していたと。
ただ、これは秀吉からの救援要請が来る前ですので、5月27日付けの森乱あて信忠書状では「中国表近々お馬を出でらるべく候条・・・」とあり、方針転換が行われた可能性が高いのではないでしょうか。
あと、フロイス『日本史』の記述については、信長と信忠を混同していただけではないかと思います。



堀秀政の役割、その他
板倉丈浩
自己レスです。
3/19のコメントで、

>秀政は5月17日に信長より秀吉への使者として出立を命じられており、同月20日に家康の接待を命じられているとする『信長公記』の記事すら誤りではないかと指摘されているのに(高柳光寿『明智光秀』)

と書きましたが、同じ高柳氏の『本能寺の変・山崎の戦い』では、「この使者が安土に到着したのは17日であったが、信長は自身で大軍を率いてこれに赴援しようとし、すぐに光秀以下(中略)高山重友および近習堀秀政等を先鋒とし、おのおの国に就いてその用意をさせたが」とし、「堀秀政が光秀と共に出発を命ぜられたのは、中央から付けられた参謀とか督戦隊とかしての意味が多分にある」とも書いていますから、使者・先鋒・参謀・督戦隊と、いろいろな意味合いがあったということだと思います(すぐに出発を命じられたということでは共通しているのですが・・・)。

あれこれ指摘してきましたが、信長による光秀への暴行・折檻の事実そのものは多くの史料に共通して記されていますから(原因はともかく)、実際にあった可能性が高いと考えています。
ただ、本能寺の変当日の客観的な状況を見る限りでは、信長は光秀に絶大な信頼を置いていたとしか思えませんので、2人の間に何らかの対立があったとは考えられず、暴行・折檻は信長の歪んだ寵愛(笑)のなせるワザではないかと、そんな気がします。・・・全然学問的ではありませんが(^^;

その信長の「寵愛」が光秀にとって持続可能なものであったかというのはまた別問題で、『川角太閤記』で光秀が「挙兵は老後のためであり、重臣たちが同心してくれないなら一人で本能寺に乱入して切腹する」と語っている部分や、以前ここで触れた細川父子あての手紙の気弱な内容とあわせて勘案すると、年老いた光秀が思いあまって信長殺害を選択したのであり、自身の管轄でもある丹波・山城・近江を完全に掌握して割拠し、老後を安泰にすることだけを考えていたというのが真相のような気がしています。
衝動的に極端に走るのは中世の人ではよくあることですし。

相変わらずの気ままな書き込み失礼しましたm(_ _)m



謀叛は自発的か
Tm.
こんにちは板倉さん。

板倉さんの説によれば、たとえ衝動的であったとしても、謀叛は光秀の率先した意思の下に行なわれたことになるのでしょうか?
ただ今回、桐野先生によって提示された福屋隆兼宛ての書状からは、光秀にとっても謀叛が突発的なものであったことが窺えるのではないでしょうか。
つまり、利三を始めとし、秀満ら重臣たちに押し切らされる形で事件が起きたというのが真相ではないかと考えます。

桐野先生は、光秀が御所の「小屋懸け」に対し何ら手立てを施していなかったことを「無関心」だと述べられていますが、むしろ光秀自身、事態への対処を考える余裕すらなかったのではないでしょうか。
それこそ小説めきますが、光秀が愛宕山を下るまえに利三らは出立してしまっていて、事件の後に合流し、畿内掌握の事実を下に朝廷からの承認を得ようとした消極的姿勢にも思えます。

織田政権が公武一体のものであれば、なお更、光秀は朝廷に顔向けが出来ず、安土で使者の来るのを待っていたのではないでしょうか。

重臣の暴走?
板倉丈浩
Tm.さん、コメントありがとうございます。

>たとえ衝動的であったとしても、謀叛は光秀の率先した意思の下に行なわれたことになるのでしょうか?

そうですね。
ただ『川角太閤記』の談合の場面でも、先に切り出したのは光秀ですが、弱気な光秀を重臣たちが激励したりしていますので、そういう要素はあったんじゃないかと思っています。

>桐野先生によって提示された福屋隆兼宛ての書状からは、光秀にとっても謀叛が突発的なものであったことが窺えるのではないでしょうか。

5月28日の時点では光秀は中国に出陣するつもりであり、29日の信長上洛が無防備だったため突発的に謀反を決断したとする桐野さんの分析は私も妥当だと考えています。

>利三を始めとし、秀満ら重臣たちに押し切らされる形で事件が起きたというのが真相ではないか
>光秀が愛宕山を下るまえに利三らは出立してしまっていて、事件の後に合流し、畿内掌握の事実を下に朝廷からの承認を得ようとした消極的姿勢

謀反は重臣の暴走ではないかということでしょうか。
非常に面白いご指摘だと思いますが、『明智光秀軍法』などの史料を見る限りでは、明智氏は大名権力が強く、軍規も非常に厳格であったと思われるので、そのような統制の乱れがあった可能性は低いのでないかと思います。


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『当代記』
Tm.
板倉さんどうも。

自分は、謀叛が光秀個人の意思によるものであるということは、秀吉が大村由己に書かせた『惟任退治記』によって喧伝され、政治的にも規定されたものであったと考えています。

桐野先生は今著において「愛宕百韻」の解釈について
  あくまでも後世のわれわれが本能寺の変という
  動かしがたい事実を知っており、その事実から
  逆規定された一種の主観的的産物であることも
  銘記しておくべきだろう。
と述べられていますが、当時からそうした見方のあったことはその『惟任』からも明らかであり、なおかつ秀吉が『惟任』の聴講を誠仁親王にまでも強要していることからも、「変」が光秀個人の意思による謀叛であったことが秀吉政権の下で規定の事実とされ、後世にまで語られることになったものと考えられます。
当然、太田牛一の『信長(公)記』も例外ではなく、小瀬甫庵もまたしかり。『川角太閤記』なおさらではないでしょうか。

『当代記』では、談合の後、重臣たちに起請文を書かせたうえで人質を取ったと記されていますが、おそらく著者としては、そうまでしなくては彼らを従わせることは難しいと考えたに相違なく、実際「今なら信長(信忠親子)を討てる」それだけで彼らを説得するのは難しく、ある程度のビジョンを示さねば同意を得られなかったのではないでしょうか。

ところが事実は、御所の「小屋懸」には無関心であり朝廷への働きかけは行なっておらず、細川氏宛ての書状でも「不慮の儀」とするだけで息子たちに天下を任せると言い、とても重臣たちを納得させるような手立てを執っているとは言えません。
下の者であれば「わが殿が天下様にお成りになる」で喜び勇んだかも知れませんが、上級者ほど己の利害、行く末を思慮した行動を採ったのではないでしょうか。

謀叛はまさに、光秀にとっては「不慮の儀」であっても、重臣たちとっては納得尽くの事であったからこそ起こせたのではないかと考えます。


重臣による謀略?
板倉丈浩
Tm.さん、こんばんは。
『惟任退治記』が政治的宣伝に使われたというのは確かにそうだと思いますが、成立年代からすれば、やはり史料的価値は高いので、その内容を批判するためには出来る限り一次史料によるべきだと考えます。
特に、本能寺の変が光秀の主導のもとに行われたとするのは、多くの史料が一致していますので、これを否定するのは非常に困難であり、重臣とはいえ、謀略的な要素が入る余地は残念ながらほとんどないと思われます。

私が度々言及した『川角太閤記』の本能寺直前の描写については、明智氏旧臣の山崎長門守(長徳)や林亀之助の談話を引用しており、「『信長記』とは相違があるけど、2つ説があると思ってください」とわざわざ記述するなど、この部分に関しては比較的信憑性が高いという印象を持っています。
明智秀満を「左馬助」ではなく「弥平次」としているところもポイントが高いです(^^

明智軍の軍規の厳しさに加えて、当時の客観的情勢からして信長を打倒できる可能性は非常に高く、信長から直接恩を受けていない重臣たちは謀反にあまり抵抗がなかったと思われます。
光秀が決断し、重臣たちも説得されてそれなりに納得し覚悟を決めたから、一致結束して行動できたんだと思います。


謀略説にあらず
Tm.
板倉さん、しつこくてすいません。

>特に、本能寺の変が光秀の主導のもとに行われたとする
 のは、多くの史料が一致していますので、これを否定す
 るのは非常に困難であり、

果たしてそうでしょうか?
本能寺や二条下御所を襲撃したのが明智勢であることは否定し難い事実であり、そのうえで「明智勢=光秀主導」というのは当時、誰もが直ぐに思ったことであって、日記などの一次的な史料にそう記されているのは当然のことでしょう。
ただ、第三者が「談合(謀叛)」の実態を知ることはほぼ不可能であり、唯一それを光秀自身から聞いた兼見が記録に残していないのが惜しまれます。

『川角太閤記』は、「三月三日の節句での侮辱」「上諏訪での折檻」「家康饗応での不手際」という理由を挙げている時点ですでに俗説めいています。山崎長門守(長徳)や林亀之助がどの程度の地位にいたのかも疑問です。


>明智秀満を「左馬助」ではなく「弥平次」としているところも
 ポイントが高いです(^^

時代の早い史料はちゃんと「明智弥平次」と記しており、ましてや同時代の人間(山崎や林)なら間違うはずがなく、それらを以って『川角』の記事の信憑性を断ずることはできないでしょう。


>光秀が決断し、重臣たちも説得されてそれなりに納得し
 覚悟を決めたから、一致結束して行動できたんだと思い
 ます。

先にも述べたように、襲撃後の光秀の行動があまりにも不手際過ぎるのです。そのようなことから様々な謀略説=黒幕説が生まれてくるのでしょうが、明智勢による犯行の調査究明において「光秀主導」か「重臣主導」かを議論することは、それらと一線を画すものだと思います。

うーん。
板倉丈浩
Tm.さん
>第三者が「談合(謀叛)」の実態を知ることはほぼ不可能

だからこそ、当時明智家中にいた人間の証言というのは貴重だと思うんですけどね。
もちろん『川角』は後世に編纂された史料ですから、全面的に依拠する必要はないですが。

>襲撃後の光秀の行動があまりにも不手際過ぎるのです。

重臣たちが熟慮を重ねていたのなら、重臣たちが手際よく事を進めればいいような気もします。
お気持ちはわかるのですが、裏付けに乏しいので「重臣主導」の可能性は低いでしょうね。
例えば明智家が重臣主導で動いた過去の事例があったりすれば、また話は違ってくるのですが・・・。


水掛論ですが。
Tm.
板倉さん
>重臣たちが熟慮を重ねていたのなら、重臣たちが手際よく
 事を進めればいいような気もします。

光秀はもとより、重臣たちとて熟慮のすえ謀叛という行為に及んだのではなく、絶好の機会に「今なら信長親子を討てる」とばかりに半ば成り行き任せで事を起こしてしまったのだと思います。


>裏付けに乏しいので「重臣主導」の可能性は低いでしょう
 ね。

主人である光秀に先行きへの不安や苦悩があり、そして重臣たちにも事情や思惑があって始めて同意が成立したものと考えられ、おそらく光秀がふと漏らした「今なら上様を討てるかも」の呟きに、一端は諌めつつも実はここぞとばかりに謀叛を勧めた、つまり消極的な光秀に対し重臣たちは積極的であったというのが真相ではなかったかと思っています。


>例えば明智家が重臣主導で動いた過去の事例があったり
 すれば、また話は違ってくるのですが・・・。

それ以前の問題として、当主の挿げ替えさえ珍しくなかった時代、真に無謀と思われる主人の行為に家臣が唯々諾々と従っていただけでないのは自明の理でしょう。
それこそ光秀自身、稲葉家を出奔した利三や那波直治を受け入れているくらいですから、情に流されやすく、それゆえ軍規を定め対外的にも厳格さを示そうとしたのではないでしょうか。


史料からは小説やドラマのように光秀が陣頭で指揮する姿が窺えず不手際ばかりが目立つ、そうした状況から自分は、重臣たちが已むを得ず光秀の命に従ったかのごとき通説には異議を呈し、むしろ積極的に加担したのであろうという意味での「重臣主導」を説くものです。


重臣主導
板倉丈浩
Tm.さん、こんばんは。
光秀の呟き云々はこれはもう小説の世界ですので、何ともコメントのしようがないですが・・・。

>光秀にとっても謀反は突発的なものであった
>光秀が愛宕山を下るまえに利三らは出立してしまっていて、事件の後に合流
>上級者ほど己の利害、行く末を思慮した行動を採った(中略)重臣たちとっては納得尽くの事であった

以前のコメントでこのように書かれていたので、私の方で誤解があったのかもしれません。
(信長殺害に光秀本人が関与していないとする八切止夫氏の説を連想してしまったので・・・)

私の説明不足もあったかもしれませんが、実は『川角太閤記』の明智旧臣(山崎・林)の談話がまさに「弱気な光秀に対し重臣たちは積極的だった」という記述でして、『甫庵信長記』の「重臣たちから起請文・人質をとって同心させた」という"談合"の記事に対する異説として紹介されています。

ですから、仰るような意味での「重臣主導」については、十分ある得る話だと思っています。


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コメント
この記事へのコメント
丁寧な御回答ありがとうございます
こんにちは。板倉です。

>貴重なご意見をいただき、感謝したい。非常に鋭いご意見なので、こちらも大変勉強になります。

こちらこそ、始めて見る史料や論文が多く、大変勉強になりました。

>両者はおそらくセットにして考えないといけないのではないかなと思い始めています。

例の信長朱印状について考察した際に、私もそのように考えました。

>もしかして板倉さんは、阿波国を三好式部少輔に与えるという信長朱印状があったのではないかと想定されているでしょうか? つまり、香宗我部親泰宛ての2点はそれの関連文書だと。

その通りです。

>讃岐と阿波の両国が三好氏に与えられることになりますね。 そうだとすれば、当然ながら元親は怒りますよね。

この時期の元親は、土佐では一条氏、阿波では三好氏を表面上立てて、名を捨てて実を取っていたということだと思います。

>彼らと同道するはずだった秀政もまだ上方に留まっていた可能性が高くないでしょうか。

なるほど。
毛利氏と講和して姫路城に引き返してきた秀吉が、秀政に対して「大博奕をお目にかけます」と言い切る『川角太閤記』の名場面はあまり疑ったこともなかったので、興味深いご指摘です。

ただ、もう少し傍証が必要かなとも思います。
私は『惟任謀反記(惟任退治記)』のこの記述については、直前で「軽率に戦うな」という信長の上意が示されていますし、文脈から「秀政を上使として秀吉陣中に派遣し、池田等には秀政への加勢を命じた」と解釈していました。
つまり、使者としての秀政は秀吉の陣に急行するけどそのまま復命することはせず、秀吉軍の一手の将として働くべく摂津諸将を与力につけられたということではないかということです。

>光秀が信長のそば近くにいて、信頼が厚かったというのも評価の問題で、直接の担当正面がないというのは、谷口克広氏の言われる方面軍司令官の地位から降りることを意味します。

確かに評価の問題というのはあると思います。
本社の総務部長と出先の事務所長のどっちが栄転か、みたいな話で(笑)
関東担当となった滝川一益は非常に落胆した旨、書状が残っていますが、光秀はどう思ったのか・・・。
ただ、意見対立があったり、評価が落ちたりしたということがあるとすれば、そういう家臣を大軍を率いさせたまま側に置くという信長の措置はやはり不可解なんですよね。
信長という人が無神経で、あまりそういうことを気にしなかっただけかもしれませんが(^^;

>光秀が美濃の国人西尾光教に宛てた有名な書状に、信長父子が「天下の妨げ」だったという一節にもっと注目すべきだと思っています。
>光秀は信長本人の存在は否定しても、信長が構築した「天下」の枠組みは認めているということです。

私は光秀は「天下」はそれほど意識してなかったのかなという印象を持っています。
細川父子あての手紙で「50~100日のうちに畿内近国を平定したら、息子・十五郎や忠興に譲って隠居したい」なんて言っていますし、光秀と細川氏の関係から言って、こちらの方が本音が出ているのではないかと思います。
つまり、明智氏の畿内における圧倒的な優位を保てればそれでいいのであって、それから先、天下統一までは考えていなかったような気がします。

>「公儀」は信長であって、足利義昭ではないということが明確になればいいだけです。

なるほど。了解です。
私も、この史料における「公儀=義昭」という解釈はありえないと思います。

2007/03/21(Wed) 12:40 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
三好や天下など
板倉さん、こんにちは。

再びコメント有難うございます。
気になった点について書いてみます。

>この時期の元親は、土佐では一条氏、阿波では三好氏を表面上立てて、名を捨てて実を取っていたということだと思います。

非常に面白い考え方ですね。香宗我部親泰宛て信長朱印状に「猶以て阿州面の事、別して馳走専一に候」とか、三好康長の副状に「諸事御指南」「いよいよ御肝煎」とある一節と関連しているようにも見えます。
私もこれらの一節から、信長が元親に阿波における何らかの権限ないし権益を与えたと思っていましたが、板倉さんのようには考えられませんでした。

また、拙著92頁あたりにある、新出の秀吉宛て元親書状に阿波勝瑞城に本願寺残党の牢人衆がこもっているのに、元親が「戦中遠慮を加え候」として、勝瑞城攻撃を控えたという一節が気になっていたのですが、板倉さんのご指摘が少しヒントになったような気がします。

そのように解釈すると、いくつかの疑問が氷解するのもたしかですが、一方で別の疑問が派生してくるようにも思えます。
たとえば、信長朱印状(天正8年6月12日付)ののち、式部少輔はどこにいたのか、岩倉なのか勝瑞なのかという点。式部少輔と三好存保との関係はどうなるのかという点。本願寺残党の牢人衆を引き入れたのは、むしろ式部少輔か、存保ではないのか(長宗我部方との対抗のため)などなど。

それと、阿波・讃岐両国を三好一族、とくに式部少輔を三好康長の子どもだと解すれば、康長父子に与えたことになり、いろいろな意味で極端にバランスを失した政策になるのではないかと思います。

第一に、阿波三好家の内情を無視した荒っぽいやり方であること。阿波三好家のなかで、康長は庶流にあたります。三好存保という一応の当主がいるのに、それを差し置いての仕置はいかがなものか。当然、存保方や篠原自遁など家臣団からも反発がありそう。
第二に、やはり天正三年の元親宛て信長朱印状(『元親記』の記事を信じてですが)にある「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」という趣旨が、やはり一定程度、信長の意向や政策を拘束していたと思われ、あまりにも三好方に偏して合理性が少ない仕置なので、元親が納得できるとは到底思えないこと。
第三に、「名を捨てて実を取る」といっても、既成事実の積み重ねは当知行主義の原則を生じさせ、その実、「名も実も捨てる」結果になりかねないのではないかということ。

などです。

信長も、光秀の意向をまったく無視できませんから、四国政策を三好有利に誘導するとしても、それなりの論理というか、理屈を組み立てる必要に迫られます。むしろ、信長はそのようなやり方を好んだ人です(たとえば、佐久間信盛折檻状)。
とすれば、元親そして光秀を説得するためにどのような理屈を拵えられたのか、なかなか想像がつきません。
これはやはり、現存する信長朱印状などの史料で類推するしかないと思いますが、とくに前回ご紹介した新出の信長朱印状の宛所が切断されているのが、返す返すも痛いですね(笑)。

堀秀政の動向については、何か一次史料か信頼できる史料がありそうにも思えます。もう少し探してみます。ご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

光秀と「天下」についてですが、たまたま西尾光教宛ての書状が現存しているだけですが、ほかにも近江・美濃あたりの信長家臣に相当数、ほぼ同文のものを送っていると想定してもおかしくないと思います。
そうだと仮定すれば、光秀が「天下」という言葉を乱発していたことになります。
これは、織田家中で「天下」が信長を頂点とする統治体制という意味で、ふつうに使われる用語になっていたことを示していると同時に、光秀も「天下」を暗黙の前提として受け容れていたことにならないでしょうか。
これは「天下」という大義名分を持ち出すことによって、「謀叛」を正当化しようという、光秀なりの戦略でもあったかもしれません。

細川父子宛ての光秀書状に「天下」云々という言葉がないのもある意味当然だと思います。「天下」はご指摘のように、いわば「建前」で他人に対して使う言葉。
それに対して、細川父子は親戚、とくに忠興は女婿ですから、「本音」で語ったというのはそのとおりでしょう。忠興を優遇することで、何とか細川父子を味方につけたかったのだと思います。

また「五十百日」で畿内を平定して既成事実をつくれば、みな謀叛のことなど忘れてしまうというのも、現実的な考え方だったと思います。そうなれば、ますます「天下」という言葉が実体となり、より説得力が増すことになったのではないかと思います。
いかんせん、光秀にはその時間的猶予が与えられなかったですけどね。


2007/03/22(Thu) 10:29 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
三好氏と長宗我部氏、信長・光秀の「天下」について
再度のレスありがとうございます。
関心があるテーマなので、もう少し議論を続けます。

>信長朱印状(天正8年6月12日付)ののち、式部少輔はどこにいたのか、岩倉なのか勝瑞なのかという点。

これは史料がないのではっきりしたことはいえませんが、阿波国主として、十河存保出奔後の勝瑞城に置かれたんじゃないかと思います。

>式部少輔と三好存保との関係はどうなるのかという点。

もともと存保は一部国人に担がれたピンチヒッターに過ぎず、国内における人望もあまりなかったようですから、正式に式部少輔が阿波三好家を継承したということだと思います。
康長が書状の中で、実の息子と伝えられる式部少輔を「同名式部少輔」と一族扱いで呼んでいた背景には、式部少輔は阿波三好家の跡取りという(三好一族の代表者としての)意識が働いていたのではないでしょうか。

>本願寺残党の牢人衆を引き入れたのは、むしろ式部少輔か、存保ではないのか

元親は秀吉に対して、「十河」の守備を固めて本願寺残党=雑賀衆の討伐に赴いたとし、雑賀衆と「同心」したのは新開道善(南阿波国人・牛岐城主)だと書いています。
つまり、新たに成立した三好=長宗我部の連立政権に服さない一部国人が、雑賀衆を引き入れて勝瑞城などを一時的に奪ったということだと思います。

>天正三年の元親宛て信長朱印状(『元親記』の記事を信じてですが)にある「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」という趣旨

信長が果たしてそんな気前のいい約束を本当にしたのか、何のメリットがあるのか、はなはだ疑問ですが、もしあったとすれば、天正3年ではなく、天正8年じゃないかと思います。
長宗我部氏が三好氏と協調するという前提があれば、「四国切り取り次第」の軍事行動の対象はもっぱら伊予(毛利氏が影響力を持つ)ということになりますから、毛利氏攻略の一環として期待できるからです。

>四国政策を三好有利に誘導するとしても、それなりの論理というか、理屈を組み立てる必要に迫られます。

例の信長朱印状にある「本領」という語がそれに該当すると思います。
つまり、阿波・讃岐は三好氏の「本領」であるから三好氏再興は正統性があり、信長としてもそれを支援すべきであるということです。

>織田家中で「天下」が信長を頂点とする統治体制という意味で、ふつうに使われる用語になっていたことを示していると同時に、光秀も「天下」を暗黙の前提として受け容れていたことにならないでしょうか。

信長が「天下」という言葉を使用するときに、国家の統合だとか、公的な存在としての武士だとか、そういう独自の統治理念が込められているのだという朝尾直弘氏の指摘は理解しています。
ただ、光秀が書状で「天下」という語を使用しているからといって、信長の統治理念まで継承したと言えるのかどうかは疑問です。
光秀の「父子悪逆天下の妨げ討ち果たし候」という文面の「天下」の用法は信長とはちょっと違っていて、これは天道思想じゃないかという印象を私は持っています。
つまり、「信長父子は天道に外れた悪人だから天に代わって私が滅ぼしたのだ」と光秀は表明して、当時の人々に広く共有されていた天道思想に訴えたのではないかということです。
前のコメントで述べたとおり、これが光秀の本音とは思えませんが、そういう宣伝はしたと思います。

2007/03/24(Sat) 11:06 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
「四国切り取り次第」朱印状
自己レスです。

>天正3年ではなく、天正8年じゃないかと思います。

天正8年11月の秀吉あて元親書状にある「殊四国行之段、御朱印頂戴仕旨」の「御朱印」がこれにあたるのではないでしょうか。
讃岐では十河・羽床の反抗、阿波では本願寺残党の乱入があり、伊予攻めも西園寺氏の抵抗ではかばかしい戦果をあげられず、本国土佐でも妹婿・波川玄蕃を謀反の罪で殺害するなど、この時期の元親の四国経営はあまりうまくいっていなかったようです。
元親は秀吉に「阿波・讃岐を平定すれば西国表で粉骨する」と釈明していますが、信長はどう評価したか。

この後、天正9年2月に一条内政が伊予に追放され、3月には三好式部少輔が離反します。
信長が長宗我部氏に見切りをつけ、「四国切り取り次第」を取り消し「土佐と南阿波を残して讃岐・伊予・北阿波を返上せよ」と命じたとすれば、このタイミングでしょう。
信長の決定を受け、光秀が元親を説得しようとしますが、元親はこれを拒絶します。
この交渉がいつ行われたのかは確定できませんが、同年9月には秀吉が三好氏救援のため阿波に出兵していますから、この頃には織田・長宗我部は完全な敵対関係になっていたということがいえると思います。

なお、伊予の西園寺公広が「元親がこのまま切り取りを続けたら天下の仇となろう」と信長に抗議していたそうですから(山本大『長宗我部元親』)、信長の政策転換の背景には、前左大臣・西園寺公朝や右大将・西園寺実益らに対する配慮、朝廷対策という側面もあったのかもしれません。

2007/03/25(Sun) 20:28 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
お詫び
板倉さん、どうも。

レスが遅れ気味でお許し下さい。
ちょっと仕事が立て込んでおりますので、もうしばらくお待ち下さい。


2007/03/25(Sun) 23:49 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
堀秀政の居所
板倉丈浩さん、こんばんは。

前回話題になった堀秀政の居所についてですが、『堀家の歴史』(堀直敬著、堀家の歴史研究会刊、私家版)に、「越後村松堀家譜」が収録されていて、そのなかに天正十年五月頃の秀政の動きについて次のように書かれています(原文片仮名を平仮名に直す)。

「天正十午年、堀秀政信長の命を承て秀吉の援兵として西国に赴くの時、明智日向守光秀、信長父子を京都に弑して畿内騒乱せしかば、秀政摂州に留りて秀吉の来るを待ちし処」云々

これによれば、秀政は本能寺の変勃発時に摂津にいたことになり、やはり池田恒興らと一緒に出陣するつもりだったのではないでしょうか。
一次史料ではありませんが、堀家の家譜ということで、それなりに信頼できるかもしれません。

これで、秀政が備中に行っていなかった可能性がかなり高くなったのではないかと思います。

取り急ぎ、この件のみ。
2007/03/26(Mon) 22:33 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
越後村松堀家譜
>「天正十午年、堀秀政信長の命を承て秀吉の援兵として西国に赴くの時、明智日向守光秀、信長父子を京都に弑して畿内騒乱せしかば、秀政摂州に留りて秀吉の来るを待ちし処」云々

御教示ありがとうございます。なかなか興味深い記述ですね。
ただ、江戸時代の編纂物のようなので、17日に秀吉への「御使」として派遣されたとする『信長公記』の記述や、変の報せを備中で聞いたとする『寛政譜』『川角太閤記』の記述を否定するだけの材料かどうか。

>これで、秀政が備中に行っていなかった可能性がかなり高くなったのではないかと思います。

「御使」でなくて「援兵」だったとしても、光秀が急遽帰国した10日後になっても安土にいるってのは、いささかのんびりしすぎているような気がします。
光秀帰国後に中国方面の戦況がさらに悪化して追加の援軍派遣が決定したとか、そういう事情があったのならわかるのですが、そういうわけでもなさそうですし・・・。
2007/03/27(Tue) 04:12 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
「軍使」「御使」
板倉さん、どうも。

堀家(分家ですが)の家譜、仰せのとおり、近世の編纂物ですので、一次史料よりは信用性ではやや劣ります。しかし、私はこれが『信長公記』や『惟任謀反記』の記事と矛盾するとは思っておりません。

まず、『信長公記』にある堀秀政の役割・地位について、一般に誤解があると思います。
それは「御使」という用語についてです。これをふつうに使者という意味で理解されているのではないでしょうか。

それがおかしいと思う一例をあげますと、『惟任謀反記』には次のように書かれています。

「将軍(信長)は、信忠を京都に相具し、御動座あり、重ねて、惟任日向守光秀を軍使にして、早々着陣せしめ、秀吉と相談すべし」

ここでは、光秀が「軍使」となっています。これも秀政と同様に「使者」の意味でとらえると、大きな間違いであることは明らかですね。

つまり、「御使」や「軍使」は単なる使者ではないということです。「軍使」を国語辞典で調べると、次のようにあります。

ぐんし【軍使】
1 交戦中、軍の命を受けて、交渉のため敵軍に派遣される者。
2 天皇、将軍などの命を受けて、征伐、鎮撫などのために派遣される者。

光秀の「軍使」役が、2の意味で用いられていることは明らかですね。そして、秀政の「御使」も同様の意味だと思います。

『信長公記』の秀政についての当該部分に戻れば、

堀秀政
維任日向守
長岡与一郎
池田勝三郎
塩河吉大夫
高山右近
中川瀬兵衛

が中国への加勢を命じられた「先陣」ですが、そのうち、秀政が特別に信長の「上意」(中国の歴々討果し、九州まで一篇に」)を奉じる「軍使」としての武将という位置づけであり、秀政自身も先陣の一人として軍勢を率いていることに変わりありません。

したがって、『信長公記』にある「何れも何れも同事に本国へ帰り候て、御陣用意候なり」には、秀政も当然含まれていると思います。
秀政は家康接待役をつとめ、側近としての仕事を片づけたのち(5月27日以降)、軍勢をととのえてから出陣したところ、摂津あたりで本能寺の変に遭遇したという理解は、時系列的にも決しておかしくないと思います。

秀政だけが「軍使」で、先陣の諸将と少し役割が異なるのは、この中国出陣が単なる戦国大名同士の戦いではなく、「将軍」たる信長が、まつろわぬ毛利を「追討」「鎮撫」するという,一種の「官軍」(語弊を招くのであまり使いたくないのですが)という位置づけだったからでしょう。

なお、『惟任謀反記』で、光秀を「軍使」としたことは、秀政を「御使」とした『信長公記』と少し矛盾しますが、「将軍」の「上意」を前線指揮官の秀吉に、じかに下達する役目を秀政が負ったと狭義に解釈するか、あるいはその「上意」を奉じた先手全体を「軍使」と広義に解したかの違いかなとも思っています。

秀政が身軽に備中に使者として行ったという従来の理解のしかたは誤解だと思います。
2007/03/27(Tue) 09:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
難しい議論になってしまいましたが(苦笑)
こんばんは。大変お忙しい中、度々のレス感謝です。

>光秀の「軍使」役が、2の意味で用いられていることは明らかですね。

『惟任謀反(退治)記』の「軍使」については、当時の文書では見かけない言葉ですが、確かに、古代日本・中国では将軍の意味で使われている用例がありますね。
この史料の著者の大村由己は漢学に通じた学者だったようですので、この解釈も十分にありうると思います。

光秀は上意を奉じた「軍使」として、秀吉を含む中国方面軍の諸将を監督する役割を付与されていたということになりますから、この記述からも、信長の光秀に対する評価・信頼度は非常に高かったということがいえますね(^^

>そして、秀政の「御使」も同様の意味だと思います。

さて、これはどうでしょう。『信長公記』における「御使」の用例ですが、

首巻 「美濃国より大事の御使を請取り(中略)田舎より御使に罷上り候。火急の用事に候・・・」
巻一 「上意の御使に使者を相副へられ、佐々木左京大夫承禎、御入洛の路次人質を出し、馳走候へ・・・」
巻二 「天下の名物を召し置かるべきの由御諚候て(中略)友閑・丹羽五郎左衛門御使申し、金銀・八木を遣し・・・」
巻三 「何れも覚えの一種ども召し置きたきの趣、友閑・丹羽五郎左衛門御使にて、仰せ出ださる・・・」
巻十一「御褒美として播州の内芥川郡仰付けられ、弥御忠節を励まされ然るべきの旨、御使衆に申され・・・」
巻十二「塩河伯耆守へ銀子百枚遣わされ候。御使森乱・中西権兵衛相副へ下さる・・・」
巻十三「関東衆申し上げらるる趣、これを承る御使衆、二位法印・滝川左近・佐久間右衛門、三使にて御縁辺相調へ・・・」
巻十四「桑実寺へ女房共出だし候へと御使を遣はされ候へば・・・」
   「御脇指、御三人へ参らせられ候。御使森乱、中将信忠へ・・・」
   「其儀御返事をば申し上げず、剰御使に遣はされ候者十人ばかり討殺し・・・」
巻十五「森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に先年鳥目一万六千貫入置かれ候・・・」
   「御目に懸け候処、森乱御使いにて、御小袖并に御馬、御褒美として・・・」
   「本知安堵の御朱印、矢部善七郎・森乱、両人御使にて下され・・・」
   「幸若八郎九郎大夫居り申候額屋へ御使菅屋玖右衛門・長谷川竹両使を以て、忝くも上意の趣・・・」
   「森乱御使にて、幸若大夫御前へ召出だされ、御褒美として・・・」
   「上意にて、堀久太郎御使として、羽柴筑前かたへ条々仰せ遣はされ・・・」

森乱(蘭丸)の名前が目に付きますが、上意を伝達したり応接したり褒美を与えたりと、普通に使者という意味で使われている例がほとんどで、「征伐、鎮撫などのために派遣される者」という用例はないと思います。

>この中国出陣が単なる戦国大名同士の戦いではなく、「将軍」たる信長が、まつろわぬ毛利を「追討」「鎮撫」するという,一種の「官軍」(語弊を招くのであまり使いたくないのですが)という位置づけだったからでしょう。

このへんの考え方、なかなか興味を引かれますね。
信長は秀吉の「惣無事令」を先取りしていたということでしょうか?
史料的根拠とか理論的な組み立てとか、もう少し御教示いただけるとうれしいのですが・・・。

>側近としての仕事を片づけたのち(5月27日以降)、軍勢をととのえてから出陣したところ、摂津あたりで本能寺の変に遭遇したという理解は、時系列的にも決しておかしくないと思います。

うーん。
使者として備中に直行するにしても、援軍として本国に帰って出陣準備をするにしても、光秀や摂津諸将と同じ17日に安土を出立していなければ不自然ではないかと言いたかったんですが・・・。

2007/03/28(Wed) 00:36 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
信長の中国出陣
板倉さん、どうも。

「御使」について、いろいろ事例を挙げていただき、有難うございます。
仰せのように、単なる「使者」という用例もあるでしょうが、そうでない別の用例もあると思いますよ。
たとえば、挙げていただいた事例のうち、巻十三の北条氏に対応した武井夕庵・滝川一益・佐久間信盛は織田家中での地位の高さからして、単なる「使者」ではなく、取次だと思います。ほかにも取次の事例がありそうですね。
取次の場合、ある程度独自の裁量権を有していることも留意しておくべきだと思います。

そして、織田家中の内部における「御使」と対外的な「御使」も区別する必要があるのではないでしょうか。「御使」をすべて同列には論じられないと思います。

また、私は光秀の「軍使」と秀政の「御使」の関係をほぼ同義語だとして位置づけているわけで、ただの「使者」ではない、別の側面を論じる必要があると言いたかったわけでして。

つまり、同じ「御使」でも、小袖や銀子を与える「御使」と、中国出陣にあたって何らかの重要な軍令と思われる「上意」の「条々」を携えた秀政の「御使」はレベルや意味内容が異なると思うのです。
それはまた以下のご指摘のように、信長の中国出陣の位置づけと関わっているのではないかと思います。

>史料的根拠とか理論的な組み立てとか、もう少し御教示いただけるとうれしいのですが・・・。

秀吉の「惣無事令」の先取りかどうかは何ともいえませんが、大村由己が「軍使」という言葉を使った背景には、信長と織田権力の性格を他の戦国大名と異なる格別の位置づけにしたい歴史観があるように思います。あくまで大村由己の歴史観であって、信長のそれではありません。

それは、拙著にも書いたように、信長を「将軍」と表記していることが示唆的だと思います。由己は信長が征夷大将軍ではないのは百も承知ながら、天皇をいただく政権(統一権力)による辺境の逆賊征討という意味合い(古代的な征夷大将軍に近いかも)で使っているのかもしれません。
由己はまた別の箇所で、信長のことを「天下に棟梁として、国家に塩梅(補佐)」と位置づけています。ここから、外征に向かう信長が「将軍」になるという考えが出てくるのかもしれません。

そうした由己の歴史観がよく表れている一節があります。『惟任謀反記』の武田攻めのところで、武田勝頼を「年来の朝敵たり」と述べている点が象徴的ですね。
ほかにも別所長治を攻める羽柴秀吉を「西国征伐の軍主」と述べているのも、「将軍」の代理的な意味合いでしょうね。

由己のそうした歴史観はまったく根拠がないわけではなく、武田攻めのとき、朝廷は信長のために自ら祈祷と戦勝祈願を行ない、畿内の寺社にも同様に祈祷を命じています。
拙著『真説本能寺』(22~25頁)でも書きましたが、このとき信長のために戦勝祈願をした寺社は、判明しているだけで、石清水八幡宮・興福寺・吉田社・三千院・伊勢神宮外宮・伊勢慶光院・越前剣神社などがあります。
また、信州に在陣している信長・信忠に対して、勅使も下向して激励しています。
織田権力が公武統一政権といわれる所以でもあると思います。
武田攻めもそうでしたから、中国出陣も同様かそれ以上だったと想定してもそれほど的はずれではないと思います。
史料的根拠、理論的組み立てになっているかどうかわかりませんが、どうでしょうか?

>使者として備中に直行するにしても、援軍として本国に帰って出陣準備をするにしても、光秀や摂津諸将と同じ17日に安土を出立していなければ不自然ではないかと言いたかったんですが・・・。

これについては、『信長公記』にもあるように、秀政は徳川家康接待役も命じられておりますから、家康が上洛した5月21日も、秀政は安土にいた可能性がありますね。
『信長公記』は秀政の記述で混乱していると前に書きましたが、どうなんでしょうかね。仮に命じられたのが17日だったとしても、すぐ出発するわけでもないでしょう。ましてや軍勢を率いてとなると。
秀吉への「御使」と家康接待役とが時系列的に両立しないと考えられてきたわけですが、何も同時にやる必要はないとも思います。

それと、板倉さんは5月27日付の秀政書状(稲葉貞通と那波直治宛ての2通)に疑問をお持ちのようですが、谷口克広氏によると、稲葉氏は美濃の国人ながら、信忠配下ではなく信長の旗本衆です。そうであれば、信長の中国出陣にあたって稲葉氏も従軍する可能性が高いわけで、そうなると、那波直治・斎藤利三の一件を片づけておかないと出陣できないという事情もあったのではないでしょうか。
2007/03/28(Wed) 02:06 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
堀秀政の役割、那波直治の一件
こんばんは。
毎度の事ながら丁寧な御回答・御教示ありがとうございます。

>私は光秀の「軍使」と秀政の「御使」の関係をほぼ同義語だとして位置づけているわけで、ただの「使者」ではない、別の側面を論じる必要があると言いたかったわけでして。

それはわかります。
ただ、もう少し事例があるといいんですけどね。
先の事例だけですと、由己は「軍使=光秀」、牛一は「秀政=御使」としていて、同一人物を指したものではありませんし、2人の立場や実際の行動からして別々の役目を与えられていたと見るのが自然ですから、同義語ではないと思います。

>あくまで大村由己の歴史観であって、信長のそれではありません。

あ、そうかあ。
由己は秀吉側近ですから、信長関係の叙述にも豊臣政権の色が色濃く出ているのは当然ですね。
私が先走りしすぎましたか(^^;

>織田権力が公武統一政権といわれる所以でもあると思います。

このへんは私も異論はないです。

>仮に命じられたのが17日だったとしても、すぐ出発するわけでもないでしょう。ましてや軍勢を率いてとなると。

戦争にかかわる重要事項ですから、上意を伝える使者ならばすぐに出立しなければおかしいです。
秀政が使者ではなく援兵だったと解釈する場合でも、秀政以外の連中は即時帰国しているわけで、側近は他にもいるのに、何で10日間も別の仕事をしているのかと、どうしても不審に思ってしまうわけで。

まあ、このへんは秀政の動向を裏付ける一次史料が出てこない限り、何とも確定できないわけで、秀政の「本国」が安土のすぐ近くであれば、出陣準備しながら側近事務もこなしたという可能性もなくはないですが、そこまで無理矢理辻褄をあわせる必要もないような気がします。

>板倉さんは5月27日付の秀政書状(稲葉貞通と那波直治宛ての2通)に疑問をお持ちのようですが、

この書状も本能寺の変の1~2年前のものとするなら、稲葉氏によって「奉公構え」に処された武士の帰参に関する裁定の伝達ということで、内容的にそんなに不自然なものではないと思います。
ただ日付の不自然さに加え、『稲葉家譜』では、この書状発給に関連する出来事として、信長による斎藤利三の切腹命令とその撤回、光秀を呼びだして暴行、光秀の付け毛がとれる(笑)という、とても史実とは思えないエピソードが並べられていますので、どうしても怪しいわけでして・・・。
ひょっとしたら、この書状を発見した『稲葉家譜』の編者が「本能寺の謎がとけた!」と喜んで(笑)掲載してしまったのかもしれませんね。あくまでも想像ですけど。

あと、斎藤利三を返す返さないのトラブルがあったかどうかについては、高柳光寿氏が「利三が依然として光秀の下にあったことから考えると、本当にあったこととは考えられない。信長という男は一旦言い出したらあとへ引くような男ではなかったからである」としており、もともとの出所が『続武者物語(武辺咄聞書)』であることからしても信憑性は低いと思います。
2007/03/29(Thu) 04:11 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
>堀秀政の役割、那波直治の一件
>板倉さん
>ひょっとしたら、この書状を発見した『稲葉家譜』の編者が
>「本能寺の謎がとけた!」と喜んで(笑)掲載してしまった
>のかもしれませんね。あくまでも想像ですけど。

横レスになりますが、板倉さんの指摘されたことについては、
自分も同じ疑問を抱いていました。

そもそも件の書状は、本当に天正10年のものなのでしょうか。
文面からだけではその年次は判定し難く、利三の件の記述が
有ってこそ天正十年と断定される訳で、編者が「変」に関連
付けて挿入した可能性も否定できないように思われます。
『永源師檀紀年録』が利三の稲葉家退出の時期を天正10年
としていることにそうした作為が窺えるとみるのは穿ち過ぎ
でしょうか。

そのうえで素直に『信長(公)記』を読めば、秀政は5月20日の
家康接待の後、さほど日にちを措かずして出立したと考える
べきなのですが、その際、留意すべきは、「 御動座なされ、
中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰付けらるべきの旨
上意にて、羽柴かたへ条々仰遣はされ、」との記述であり、
「条々」には信長自身の出陣日次も含まれていたのではないのかということです。

『日々記』の記述によれば信長の出陣は6月4日の予定で
あったとされますが、それが決定したのは何時かと考えるに、
5月27日付で信忠が森乱宛てに信長の中国出陣、上洛を聞き堺への下向を取り止める旨を書き送っていることが注目され、
遅くとも26日には決定していたのではないかと推測されます。
実際、光秀は26日に坂本を発ち亀山に入っていますから、
信忠にも同日に伝わったのでしょう。

問題は、そうした決定を受け何時、秀政が出立したのかという
ことですが、26日以降で29日の信長の上洛に従い出立した
可能性も考えられ、27日付の秀政の書状も有り得ますし、
後者であれば備中高松までは到っていなかった可能性も高い
のではないでしょうか。

ただそのうえでも利三絡みの話しは少々出来すぎであり、
その処断を巡って信長と光秀の言い争いがあったとすれば
17日以前のことであり、那波直治帰参の裁定も同じ頃のはず
なので27日付の秀政の書状にはタイムラグがあるやに思われ
ます。
やはり『稲葉家譜』のそれは、実際にあった那波直治の件を
取り込み創作されたものではないでしょうか。
2007/03/30(Fri) 22:57 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
「稲葉家譜」の記事について
Tm. さん、はじめまして。

>信長の出陣は6月4日の予定であったとされますが、それが決定したのは何時かと考えるに、
>5月27日付で信忠が森乱宛てに信長の中国出陣、上洛を聞き堺への下向を取り止める旨を書き送っていることが注目され、

なるほど。
信長の意志決定は、17日の光秀らへの出陣命令と26日頃の信長本人の中国出馬決定と2段階に分けて考えるべきであり、堀秀政の派遣は後者を受けたものではないかということですね。
それなら、20日に家康の接待を行っていることも納得できますし、27日の書状発給もありえそうです。
確かに信忠の動向を見る限り、『信長公記』で17日に「御動座(出馬)」の「上意」があったとするのは早すぎますよね・・・。
となると、『川角太閤記』では「堀久太郎を京都より備中へ御使に遣わされ、"毛利退治のために出馬然るべきか見極めよ。返事次第では京都よりただちに出馬する"との仰せであった。久太郎が備中へ参着したのと同時に信長公御切腹の様子が伝わった」としており、時系列的にはこれが一番しっくりしているように思えます。

>やはり『稲葉家譜』のそれは、実際にあった那波直治の件を取り込み創作されたものではないでしょうか。

書状の内容からも、その後の稲葉家における直治の処遇から考えても、帰参は円満に解決したのであり、トラブルなどはなかったと考えるべきでしょうね。
なまじ直治が利三と似た経歴を持っていたがために、俗書に記されたエピソードに関連づけて、面白おかしく伝えられてしまったということだと思います。

2007/03/31(Sat) 11:17 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
堀秀政は軍目付では
Tm. さん、こんにちは。

>そもそも件の書状は、本当に天正10年のものなのでしょうか。

稲葉貞通と那波直治に宛てた堀秀政書状の年次ですが、『稲葉家譜』には天正10年条に収録されています。私はいまのところ、同年に比定しても、さほど矛盾があるとは思っていません。
秀政の両書状とも、那波直治の処分結果を伝えたもので、斎藤利三のことに触れているわけではありませんが、これは直治の処遇に関わるので、彼のことしか書かなかった、利三に触れる必要はなかったということでしょう。

この書状内容を裏づける史料として、『永源師檀紀年録』の記述は意外と重要だと思っています。
これには、光秀謀叛を書いている他の俗書が触れていない那波直治の一件を触れており、しかもこの一件が天正10年に起きたと書いているからです。その点で同書と他の俗書は区別すべきだと思っています。

もっとも、同書は利三が稲葉家を退転したのも天正10年とするなど、多少不正確な点はあります(これは直治の退転時期と混同したか、直治の一件に利三も関与していたことを示唆していると思われる)。
ですから、その点は差し引くべきでしょうが、直治と利三の一件はセットで考えるべきだということを教えてくれていると思います。
『稲葉家譜』で、利三と直治に対する信長の処分の軽重が生じた(利三は死罪、直治は帰参)のが疑問だと拙著で書いていますが、ほかでもなく、利三が直治を引き抜いたのだと考えればある程度納得いきます。利三は稲葉家を退散した罪ではなく、直治を勝手に引き抜いたことが織田家の家中法度に触れ、それに激怒した信長が利三に自刃を命じたのだと、とりあえずそのように解釈すれば、それほど的はずれではないと思います。

そのような意味で、私は『稲葉家譜』と『永源師檀紀年録』は重要な史料だと考えています。

いずれにしろ、二次的な編纂物ですから切り捨てるのは簡単ですが、『稲葉家譜』に収録された秀政書状2点に不審なところがないこと、両史料の記述がおおかたで一致していることを重視したいと思っています。
もっといえば、別の史料(できれば一次史料)でウラがとれればもっといいことはいうまでもありませんが。

秀政書状の内容については、Tm. さんも板倉さんも疑問をお持ちだとは思えませんが、問題は年次なんでしょうね。仮に天正10年だとすれば、『信長公記』の記述と矛盾するのではないかというのがお二人の疑問であろうと思われます。

それについて、私の意見はこれまで述べたとおりですが、改めて次の2点を挙げることで私の推測を補強しておきたいと思います。

1,秀政は軍勢を率いた一手の大将

 『信長公記』にある「御使」について、以前の議論では、「御使」はいろいろな用例や意味があるのではと指摘したものの、当該箇所についてはっきり打ち出せませんでしたが、秀政が軍目付だという意味合いで理解すべきだろうと思います。

たとえば、『多聞院日記』天正8年9月条に、滝川一益・明智光秀が指出を徴するために大和に乗り込んできた一節を「安土より上使にて」と書いています。
滝川・明智の両人は大和一国から強制的な指出を断行するわけですから、興福寺や国人などの抵抗を押さえつけるために当然軍勢を引き連れてきています。
それでも、「上使」と呼ばれているのは、むろんただの使者ではないことは明らかで、この場合、信長の命令を忠実に遂行する役割を意味します。この場合、両人は信長の陣代もしくは名代でしょう。
ほかにも探せば、陣代や軍目付を意味する「御使」の事例があるのではと思います。

秀政もそうした役割を負いながら、軍勢を率いていたと考えます。たとえば、山崎合戦を描いた軍記物の事例を出しますと、


『明智軍記』 
「次ニ堀久太郎秀政千五百」

『増補筒井家記』
「山ノ手ハ堀久太郎、浅野弾正父子、生駒善介、大谷慶松等打テ懸ル」

『池田氏家譜集成』
「中川瀬兵衛、堀久太郎山の腰へ上り、横合に攻かゝれハ」

『越後村松堀家譜』(堀家の分家が自分たちの行動を描いている)
「乃チ鉄砲ノ隊長近藤織部ヲ進メ、馳セテ財寺ノ峯ニ登リケレハ」

以上のように、秀政は一手の軍勢を率いています。そうであれば、信長から5月17日に「御使」を命じられてもすぐには出陣できません。

なお、軍記物が信用できないという考えもあるので、一次史料もみてみます。

『浅野家文書』10号、豊臣秀吉披露状写 
天正10年10月18日付、信孝家老の岡本良勝次郎左衛門・斎藤玄蕃助利堯に宛てた有名な長文の書状

「山崎に陣取申し候高山右近・瀬兵衛・久太郎手へ明智段々に人数をたて切懸り候之処を、道筋は高山・瀬兵衛・久太郎切崩」

秀政が高山重友・中川清秀と共に先手の一手になっていることがわかります。
秀政は本能寺の変以後は明智方のために通路を遮断されて自領と切り離されていますから、これらの軍勢は政変以前に編成したと考えるべきでしょう。


2,秀政の「御使」は軍目付・軍監

このように、秀政が一軍を率いていながら、『信長公記』で、明智勢や池田恒興など摂津勢を「先陣」とし、秀政を「御使」と区別して書いた理由は、信長が秀政に軍目付役を命じたからだと考えれば、よく理解できるのではないでしょうか。
信長側近が軍目付役をつとめた事例は、万見仙千代や菅屋長頼などにいくつかあります。
この場合も、信長は5月7日付の信孝宛て朱印状で、いったん淡路に渡海すると書いています。また四国攻めには兵粮3カ月分を用意させていますから、予定どおりだと、信長が中国に向かうのは3カ月後になります。

その間、備中には羽柴勢、明智勢、池田勢などが集結しているわけで、信長不在中、相論や喧嘩が起きないように統制を維持するためには、どうしても軍目付が必要です。それを秀吉や光秀に命じると、別の部将から不満が出ることでしょう。その役目は信忠が出陣してこないかぎり、秀政がもっとも適任であろうと思います。
信長は自分が中国に不在中の軍令権を秀政に委任したと考えれば、『信長公記』の「先陣」と「御使」の使い分けもすんなり理解できるような気がします。

そのように考えたうえで、本能寺の変時点で秀政が備中ではなく、摂津にいたというのも納得できる気がします。秀政は明智勢、摂津勢、長岡勢など諸勢を摂津に集結させたのち、備中に向かうつもりだったのでしょう。

光秀が丹波亀山を発したのが6月1日
長岡忠興が丹後宮津を発したのも6月1ないし2日頃
摂津勢も同時期にまだ摂津在国

秀政が5月27日に利三・直治の一件を処理してから出発しても十分間に合います。
Tm.さんが推定されたように、秀政は信長の上洛に同行して、最後の指示を仰いだのち、摂津に向かったのかもしれませんね。

とりあえず、このように考えると、拙説もまだ大きな破綻はしていないのではないかと思っています。
いろいろなご教示・ご意見有難うございました。


2007/03/31(Sat) 23:55 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
明智光秀家中軍法
桐野先生どうも。

実は、5月27日の日次をもつ秀政の書状の年次判定において少々気に掛かるものとして、天正9年6月2日の年日次をもつ「明智光秀家中軍法」があります。

注目すべきは、条々を並び立てた後に「然而顕愚案條々雖顧外見」としたうえで、「既被召出瓦礫沈淪之輩」と謙り「剰莫太御人数被預下上者」と、光秀がことさら信長からの恩恵を謳っているいることです。
しかもそれらに続く文面には、あたかも稲葉貞通を揶揄するかの如き印象を受けます。
つまり、利三や直治の件があったのは天正9年のことだったのではないでしょうか。

そのように考えると、『多聞院日記』の「御ツマキ」の件の「信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、」も、両者の間に気まずい思いが漂っていたなかで、身内の不幸に悲しむ光秀に対し信長が気遣いを見せたものとして自然に解釈できるかもしれません。

>光秀謀叛を書いている他の俗書が触れていない那波直治の一件を触れており

『稲葉家譜』も『永源師檀紀年録』も、言わば身内の記録ですから不思議はないでしょう。
むしろ「本能寺の変」に纏わる他にはない情報として採り上げられ、共に天正10年の出来事ととして記されたのではないでしょうか。

利三が実行犯のひとりであったことは確かであり、公開処刑もなされている一方でその人柄、武勇を称えられる人物でもあったことから、一際注目を集めたであろうことは言うまでもなく(春日局の父親としても)、尾鰭の付いた話が創作されたしとても不思議はないでしょう。

利三の件は、やはり一次史料による裏付けのほしいところですが、「家中軍法」や『多聞院』が傍証になりそうな気がします。


以上愚見ですが。



2007/04/01(Sun) 04:13 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
史料批判
横レス失礼します。

>両史料の記述がおおかたで一致していることを重視したいと思っています。

うーん。
『永源師檀紀年録』は細川忠興が山崎合戦に参加したように記すなど、信憑性が高いとは言い難い史料のようですが、そのへんを差し引いても、那波直治が細川藤孝の尽力で円満に帰参したという記述ですので、『稲葉家譜』の記事とは大きく異なっていると思います(堀秀政書状だけ見ればそれほど矛盾しませんが)。

>問題は年次なんでしょうね。仮に天正10年だとすれば、『信長公記』の記述と矛盾するのではないかというのがお二人の疑問であろうと思われます

これについては、秀政の派遣が17日とする『信長公記』の記述が誤っているとするならば、天正10年も全くあり得ないとは思っていません(ただ、天正9年以前に比定する方が無理がないとは思います)。
問題は、Tm.さんも指摘するとおり、たとえこれが天正10年の書状であっても、『稲葉家譜』が記す利三をめぐる信長・光秀のゴタゴタは時系列的に困難、ということではないでしょうか。

>予定どおりだと、信長が中国に向かうのは3カ月後になります。
>信長は自分が中国に不在中の軍令権を秀政に委任したと考えれば、

これはどうでしょう。
秀政が27日以降に出発したとすれば、その時点では信長が近日中(6/4か)に中国出馬することが決定しており、だからこそ信忠は堺下向を中止したのだから、「出馬するのは当分先だから秀政に任せた」という推測は成り立ちがたいと思うのですが。

いろいろ否定的なことばかり言ってしまいましたが、絶対ないかというとそういうわけでもないわけですし、かといって推測に推測を重ねることが許されるなら何でも有りになってしまいます。
裏付けとなる一次史料に乏しい現状では何とも議論が難しいですね・・・。

2007/04/01(Sun) 12:55 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
誤解があるようで
板倉さん、どうも。

私の書き方が悪いせいか、どうも誤解があるようで。

私も那波直治に関しては円満に解決したと思っていますよ。それは『稲葉家譜』も『永源師檀紀年録』も一致しているのではないでしょうか。

問題は斎藤利三に関してどうなのかという点でして、上記両書が利三を直治と関連づけて述べている点が共通しており、他の俗書には見えない記述なので、重視すべきではないかということです。

付言すれば、両書とも、信長が光秀を折檻したとする点でも共通しており、利三の処分との関連を暗示しているのかもしれません。もっとも二次的編纂物ですから、それにこだわるつもりはありませんが。

あと、次の点ですが、

>秀政が27日以降に出発したとすれば、その時点では信長が近日中(6/4か)に中国出馬することが決定しており、だからこそ信忠は堺下向を中止したのだから、「出馬するのは当分先だから秀政に任せた」という推測は成り立ちがたいと思うのですが。

信長が6月4日に出陣するという典拠は『晴豊公記』(日々記)でしょうか?
そうであれば、「西国手つかい」云々とあり、必ずしも西国=中国ではなく、中国・四国・九州を含めた全般という意味ではないでしょうか。
5月7日付信孝宛て朱印状に「信長淡州に至って出馬の刻」との整合性を重視すれば、信長は淡路島に渡海して、信孝勢の様子を視察してメドが立ったのち、中国に向かう手筈だったと考えられます。
また、その傍証になるかもしれませんが、『フロイス日本史』にも「信長の堺行き」云々とあります。家康と再会する予定もあったかもしれませんが、堺からだと、淡路島への渡海のほうが中国へ行くよりも合理的ではないかと思います。

なお、『信長公記』にある「中国の歴々討果し」云々も、備中の秀吉からの注進との対応で述べたもので、したがって、その方面への出陣部隊である明智勢・摂津勢と「御使」の堀秀政などの陣立を記述しただけで、その場合、四国問題にあえて言及する必要がなかった、あるいはすでに5月上旬の条で触れているから重複を避けたとも考えられますし、一次史料の記事を優先すべきかと思います。。
2007/04/01(Sun) 14:03 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
私の誤解だったようです
>私も那波直治に関しては円満に解決したと思っていますよ。
>両書とも、信長が光秀を折檻したとする点でも共通しており、

なるほど・・・。私の誤解だったようですね。すみません。

>もっとも二次的編纂物ですから、それにこだわるつもりはありませんが。

了解しました。

>5月7日付信孝宛て朱印状に「信長淡州に至って出馬の刻」との整合性を重視すれば、信長は淡路島に渡海して、信孝勢の様子を視察してメドが立ったのち、中国に向かう手筈だったと考えられます。

これは興味深い指摘ですね。
5月7日の時点で信長は淡路に行くことを考えており、中国よりも四国を優先していたと。
ただ、これは秀吉からの救援要請が来る前ですので、5月27日付けの森乱あて信忠書状では「中国表近々お馬を出でらるべく候条・・・」とあり、方針転換が行われた可能性が高いのではないでしょうか。
あと、フロイス『日本史』の記述については、信長と信忠を混同していただけではないかと思います。

2007/04/01(Sun) 15:47 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
堀秀政の役割、その他
自己レスです。
3/19のコメントで、

>秀政は5月17日に信長より秀吉への使者として出立を命じられており、同月20日に家康の接待を命じられているとする『信長公記』の記事すら誤りではないかと指摘されているのに(高柳光寿『明智光秀』)

と書きましたが、同じ高柳氏の『本能寺の変・山崎の戦い』では、「この使者が安土に到着したのは17日であったが、信長は自身で大軍を率いてこれに赴援しようとし、すぐに光秀以下(中略)高山重友および近習堀秀政等を先鋒とし、おのおの国に就いてその用意をさせたが」とし、「堀秀政が光秀と共に出発を命ぜられたのは、中央から付けられた参謀とか督戦隊とかしての意味が多分にある」とも書いていますから、使者・先鋒・参謀・督戦隊と、いろいろな意味合いがあったということだと思います(すぐに出発を命じられたということでは共通しているのですが・・・)。

あれこれ指摘してきましたが、信長による光秀への暴行・折檻の事実そのものは多くの史料に共通して記されていますから(原因はともかく)、実際にあった可能性が高いと考えています。
ただ、本能寺の変当日の客観的な状況を見る限りでは、信長は光秀に絶大な信頼を置いていたとしか思えませんので、2人の間に何らかの対立があったとは考えられず、暴行・折檻は信長の歪んだ寵愛(笑)のなせるワザではないかと、そんな気がします。・・・全然学問的ではありませんが(^^;

その信長の「寵愛」が光秀にとって持続可能なものであったかというのはまた別問題で、『川角太閤記』で光秀が「挙兵は老後のためであり、重臣たちが同心してくれないなら一人で本能寺に乱入して切腹する」と語っている部分や、以前ここで触れた細川父子あての手紙の気弱な内容とあわせて勘案すると、年老いた光秀が思いあまって信長殺害を選択したのであり、自身の管轄でもある丹波・山城・近江を完全に掌握して割拠し、老後を安泰にすることだけを考えていたというのが真相のような気がしています。
衝動的に極端に走るのは中世の人ではよくあることですし。

相変わらずの気ままな書き込み失礼しましたm(_ _)m

2007/04/08(Sun) 09:36 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
謀叛は自発的か
こんにちは板倉さん。

板倉さんの説によれば、たとえ衝動的であったとしても、謀叛は光秀の率先した意思の下に行なわれたことになるのでしょうか?
ただ今回、桐野先生によって提示された福屋隆兼宛ての書状からは、光秀にとっても謀叛が突発的なものであったことが窺えるのではないでしょうか。
つまり、利三を始めとし、秀満ら重臣たちに押し切らされる形で事件が起きたというのが真相ではないかと考えます。

桐野先生は、光秀が御所の「小屋懸け」に対し何ら手立てを施していなかったことを「無関心」だと述べられていますが、むしろ光秀自身、事態への対処を考える余裕すらなかったのではないでしょうか。
それこそ小説めきますが、光秀が愛宕山を下るまえに利三らは出立してしまっていて、事件の後に合流し、畿内掌握の事実を下に朝廷からの承認を得ようとした消極的姿勢にも思えます。

織田政権が公武一体のものであれば、なお更、光秀は朝廷に顔向けが出来ず、安土で使者の来るのを待っていたのではないでしょうか。
2007/04/08(Sun) 10:41 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
重臣の暴走?
Tm.さん、コメントありがとうございます。

>たとえ衝動的であったとしても、謀叛は光秀の率先した意思の下に行なわれたことになるのでしょうか?

そうですね。
ただ『川角太閤記』の談合の場面でも、先に切り出したのは光秀ですが、弱気な光秀を重臣たちが激励したりしていますので、そういう要素はあったんじゃないかと思っています。

>桐野先生によって提示された福屋隆兼宛ての書状からは、光秀にとっても謀叛が突発的なものであったことが窺えるのではないでしょうか。

5月28日の時点では光秀は中国に出陣するつもりであり、29日の信長上洛が無防備だったため突発的に謀反を決断したとする桐野さんの分析は私も妥当だと考えています。

>利三を始めとし、秀満ら重臣たちに押し切らされる形で事件が起きたというのが真相ではないか
>光秀が愛宕山を下るまえに利三らは出立してしまっていて、事件の後に合流し、畿内掌握の事実を下に朝廷からの承認を得ようとした消極的姿勢

謀反は重臣の暴走ではないかということでしょうか。
非常に面白いご指摘だと思いますが、『明智光秀軍法』などの史料を見る限りでは、明智氏は大名権力が強く、軍規も非常に厳格であったと思われるので、そのような統制の乱れがあった可能性は低いのでないかと思います。
2007/04/08(Sun) 13:13 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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2007/04/08(Sun) 19:59 |   |  #[ 編集]
『当代記』
板倉さんどうも。

自分は、謀叛が光秀個人の意思によるものであるということは、秀吉が大村由己に書かせた『惟任退治記』によって喧伝され、政治的にも規定されたものであったと考えています。

桐野先生は今著において「愛宕百韻」の解釈について
  あくまでも後世のわれわれが本能寺の変という
  動かしがたい事実を知っており、その事実から
  逆規定された一種の主観的的産物であることも
  銘記しておくべきだろう。
と述べられていますが、当時からそうした見方のあったことはその『惟任』からも明らかであり、なおかつ秀吉が『惟任』の聴講を誠仁親王にまでも強要していることからも、「変」が光秀個人の意思による謀叛であったことが秀吉政権の下で規定の事実とされ、後世にまで語られることになったものと考えられます。
当然、太田牛一の『信長(公)記』も例外ではなく、小瀬甫庵もまたしかり。『川角太閤記』なおさらではないでしょうか。

『当代記』では、談合の後、重臣たちに起請文を書かせたうえで人質を取ったと記されていますが、おそらく著者としては、そうまでしなくては彼らを従わせることは難しいと考えたに相違なく、実際「今なら信長(信忠親子)を討てる」それだけで彼らを説得するのは難しく、ある程度のビジョンを示さねば同意を得られなかったのではないでしょうか。

ところが事実は、御所の「小屋懸」には無関心であり朝廷への働きかけは行なっておらず、細川氏宛ての書状でも「不慮の儀」とするだけで息子たちに天下を任せると言い、とても重臣たちを納得させるような手立てを執っているとは言えません。
下の者であれば「わが殿が天下様にお成りになる」で喜び勇んだかも知れませんが、上級者ほど己の利害、行く末を思慮した行動を採ったのではないでしょうか。

謀叛はまさに、光秀にとっては「不慮の儀」であっても、重臣たちとっては納得尽くの事であったからこそ起こせたのではないかと考えます。
2007/04/08(Sun) 20:11 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
重臣による謀略?
Tm.さん、こんばんは。
『惟任退治記』が政治的宣伝に使われたというのは確かにそうだと思いますが、成立年代からすれば、やはり史料的価値は高いので、その内容を批判するためには出来る限り一次史料によるべきだと考えます。
特に、本能寺の変が光秀の主導のもとに行われたとするのは、多くの史料が一致していますので、これを否定するのは非常に困難であり、重臣とはいえ、謀略的な要素が入る余地は残念ながらほとんどないと思われます。

私が度々言及した『川角太閤記』の本能寺直前の描写については、明智氏旧臣の山崎長門守(長徳)や林亀之助の談話を引用しており、「『信長記』とは相違があるけど、2つ説があると思ってください」とわざわざ記述するなど、この部分に関しては比較的信憑性が高いという印象を持っています。
明智秀満を「左馬助」ではなく「弥平次」としているところもポイントが高いです(^^

明智軍の軍規の厳しさに加えて、当時の客観的情勢からして信長を打倒できる可能性は非常に高く、信長から直接恩を受けていない重臣たちは謀反にあまり抵抗がなかったと思われます。
光秀が決断し、重臣たちも説得されてそれなりに納得し覚悟を決めたから、一致結束して行動できたんだと思います。
2007/04/09(Mon) 22:41 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
謀略説にあらず
板倉さん、しつこくてすいません。

>特に、本能寺の変が光秀の主導のもとに行われたとする
 のは、多くの史料が一致していますので、これを否定す
 るのは非常に困難であり、

果たしてそうでしょうか?
本能寺や二条下御所を襲撃したのが明智勢であることは否定し難い事実であり、そのうえで「明智勢=光秀主導」というのは当時、誰もが直ぐに思ったことであって、日記などの一次的な史料にそう記されているのは当然のことでしょう。
ただ、第三者が「談合(謀叛)」の実態を知ることはほぼ不可能であり、唯一それを光秀自身から聞いた兼見が記録に残していないのが惜しまれます。

『川角太閤記』は、「三月三日の節句での侮辱」「上諏訪での折檻」「家康饗応での不手際」という理由を挙げている時点ですでに俗説めいています。山崎長門守(長徳)や林亀之助がどの程度の地位にいたのかも疑問です。


>明智秀満を「左馬助」ではなく「弥平次」としているところも
 ポイントが高いです(^^

時代の早い史料はちゃんと「明智弥平次」と記しており、ましてや同時代の人間(山崎や林)なら間違うはずがなく、それらを以って『川角』の記事の信憑性を断ずることはできないでしょう。


>光秀が決断し、重臣たちも説得されてそれなりに納得し
 覚悟を決めたから、一致結束して行動できたんだと思い
 ます。

先にも述べたように、襲撃後の光秀の行動があまりにも不手際過ぎるのです。そのようなことから様々な謀略説=黒幕説が生まれてくるのでしょうが、明智勢による犯行の調査究明において「光秀主導」か「重臣主導」かを議論することは、それらと一線を画すものだと思います。
2007/04/10(Tue) 01:38 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
うーん。
Tm.さん
>第三者が「談合(謀叛)」の実態を知ることはほぼ不可能

だからこそ、当時明智家中にいた人間の証言というのは貴重だと思うんですけどね。
もちろん『川角』は後世に編纂された史料ですから、全面的に依拠する必要はないですが。

>襲撃後の光秀の行動があまりにも不手際過ぎるのです。

重臣たちが熟慮を重ねていたのなら、重臣たちが手際よく事を進めればいいような気もします。
お気持ちはわかるのですが、裏付けに乏しいので「重臣主導」の可能性は低いでしょうね。
例えば明智家が重臣主導で動いた過去の事例があったりすれば、また話は違ってくるのですが・・・。
2007/04/10(Tue) 06:55 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
水掛論ですが。
板倉さん
>重臣たちが熟慮を重ねていたのなら、重臣たちが手際よく
 事を進めればいいような気もします。

光秀はもとより、重臣たちとて熟慮のすえ謀叛という行為に及んだのではなく、絶好の機会に「今なら信長親子を討てる」とばかりに半ば成り行き任せで事を起こしてしまったのだと思います。


>裏付けに乏しいので「重臣主導」の可能性は低いでしょう
 ね。

主人である光秀に先行きへの不安や苦悩があり、そして重臣たちにも事情や思惑があって始めて同意が成立したものと考えられ、おそらく光秀がふと漏らした「今なら上様を討てるかも」の呟きに、一端は諌めつつも実はここぞとばかりに謀叛を勧めた、つまり消極的な光秀に対し重臣たちは積極的であったというのが真相ではなかったかと思っています。


>例えば明智家が重臣主導で動いた過去の事例があったり
 すれば、また話は違ってくるのですが・・・。

それ以前の問題として、当主の挿げ替えさえ珍しくなかった時代、真に無謀と思われる主人の行為に家臣が唯々諾々と従っていただけでないのは自明の理でしょう。
それこそ光秀自身、稲葉家を出奔した利三や那波直治を受け入れているくらいですから、情に流されやすく、それゆえ軍規を定め対外的にも厳格さを示そうとしたのではないでしょうか。


史料からは小説やドラマのように光秀が陣頭で指揮する姿が窺えず不手際ばかりが目立つ、そうした状況から自分は、重臣たちが已むを得ず光秀の命に従ったかのごとき通説には異議を呈し、むしろ積極的に加担したのであろうという意味での「重臣主導」を説くものです。
2007/04/11(Wed) 06:37 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
重臣主導
Tm.さん、こんばんは。
光秀の呟き云々はこれはもう小説の世界ですので、何ともコメントのしようがないですが・・・。

>光秀にとっても謀反は突発的なものであった
>光秀が愛宕山を下るまえに利三らは出立してしまっていて、事件の後に合流
>上級者ほど己の利害、行く末を思慮した行動を採った(中略)重臣たちとっては納得尽くの事であった

以前のコメントでこのように書かれていたので、私の方で誤解があったのかもしれません。
(信長殺害に光秀本人が関与していないとする八切止夫氏の説を連想してしまったので・・・)

私の説明不足もあったかもしれませんが、実は『川角太閤記』の明智旧臣(山崎・林)の談話がまさに「弱気な光秀に対し重臣たちは積極的だった」という記述でして、『甫庵信長記』の「重臣たちから起請文・人質をとって同心させた」という"談合"の記事に対する異説として紹介されています。

ですから、仰るような意味での「重臣主導」については、十分ある得る話だと思っています。
2007/04/11(Wed) 21:39 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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2007/03/23(Fri) 02:38:37 |  むとうすブログ
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