歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第204回
―島津珍彦指揮で軍事演習―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回は東の岡崎でしたが、今回は西の小松原です。
岡崎と同様、これを藩邸といっていいのかもしれませんが、その性格がはっきり表れている調練場としました。
記事にもあるように、『桂久武日記』で慶応2年(1866)1月に、小松帯刀・島津伊勢・桂久武などの家老や西郷吉之助・吉井幸輔などの在京重役の協議により、調練場建設が決定したと思われます。
すでに岡崎にも調練場があるのですが、なぜ小松原にもつくったのか、理由がよくわかりません。

今回、使用した写真は京都・霊山歴史館所蔵の弾薬庫の古写真を提供していただきました。
現地にも足を運び、そのよすがを感じさせる写真も撮影しておりますが、今回掲載できなかったので、ここで載せておきます。「小松原児童公園」周辺が該当するのではないかと思います。大まかな位置は平野神社と立命館大学衣笠キャンパスの中間です。

小松原

場所の特定については、少し気になっている点もあります。
『京都の歴史』7・維新の激動(学芸書林)に付属する歴史地図には、等持院のすぐ南に「薩摩島津屋敷」というポイントがあります。これは小松原調練場を意味しているのかなと思いますが、今回の比定地より少し西になります。何を典拠にしたのか不明ですが、今回は採用しませんでした。今後の検討課題にしたいと思います。

今回印象に残ったのは、記事にも書いた久光三男の島津備後(重富家当主島津珍彦)のことです。彼は西郷や大久保と親しく、兄である図書久治と異なり、いわゆる武力討幕派に属しています。小松と一緒に写った写真もあります。
前回書いた岡崎での軍事演習でも総指揮をとったのは彼です。そして、小松原でも備後の指揮する薩摩藩兵が調練場から外に出て北野天満宮でも行軍して、近在の人々を驚かしています。
尾張藩留守居役の尾崎忠征などは備後を「豪傑」と評しています。慶応3年(1867)で弱冠24歳の御曹子ですが、久光の兄弟のなかではかなり出来がよかったのではないでしょうか。彼の事跡ももう少し知られてよいかもしれません。
この慶応3年9月の軍事演習は記事にも書いたように、差し迫った三藩挙兵計画に沿ったもので、かなり重要な出来事だったと思います。もし実現していたら、備後が総大将になり、西郷が補佐するという体制になった可能性が高いですね。

岡崎、小松原ときたので、次回は錦小路の藩邸について書きたいと思います。
時代は少し遡って、安政年間が中心になりそうです。

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【2011/08/08 20:01】 | さつま人国誌
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2014/10/06(Mon) 23:44 |   |  #[ 編集]
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