歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

昨日、三鷹での講座「お江の生涯」の最終回(5回目)に出講。

最終回は「お江と子どもたち―将軍御台所として―」と題して、主に福田千鶴さんが近年提唱している説を中心に検討した。
同説では、お江の実子は千姫、お初、忠長の3人のみで、家光や和子は側室の子という衝撃的な内容になっている。
このうち、家光が実子なのか否かという点について少し検討した。
福田さんが典拠とする「リチャード・コックス日記」の記事は別の読み方ができるという話をした。個人的には、通説どおり、家光が実子でもそれほど違和感はないとも話した。

5回にわたり、多くの方々に受講していただき、有難うございました。
お江については、個人的にはこの講座終了でもう終わったかなという気がしている。


それで、引き続き秋期講座のご案内です。
以前も告知しましたが、『信長公記』をやります。巻一、永禄11年(1568)の上洛からやります。
名古屋(中日文化センター)でやっている講座を東京でもやってほしいという声がちらほらありましたので、やることにしました。
要領は以下の通りです。同大学サイトにも私の講座の告知があります。ここです。毎回のタイトルも載っておりますので、ご参照下さい。
平日なので、参加できる方は限られていると思いますが、興味のある方は受講して下さい。


テーマ:『信長公記』を読む

10月から毎月1回で、原則として第3金曜日13:00から開催です。
以下の6回です。

10/21 11/18 12/16 
 
1/20 2/17 3/16

詳しくは、ここをご参照下さい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2011/09/15 09:56】 | 武蔵野大学社会連携センター
トラックバック(0) |

信長公記講座
non
こんにちは。
いつも、楽しく拝見しています。

ところで、信長公記講座を東京でもされるとのことですが、近畿でも行う予定はありますか?

東京は、なかなか行けないので、動画を見れたら良いなとは思いますが・・・


新刊楽しみにしています。早く読みたいです。

受け皿があれば
桐野
nonさん

初めましてでしょうか。

関西でもやれないことはないと思いますが、いかんせん、お声がかかりません。
カルチャーセンターなどにリクエストしてみて下さい。

新刊もよろしく。

カルチャーセンター
non
早々のお返事ありがとうございます。

今度、近場のカルチャーセンターで、歴史の講座を多く行っているところにリクエストしてみます。





再び輝元書状について
武江
桐野様
「お江」関連は、この講座が最後との由、終盤2回については、聞いておきたかった内容だけに残念です。ブログでお考えをご披露頂けると有難いのですが・・・。
先にお伺いした『慶長四年九月十三日付毛利輝元書状』解釈について、桐野様のご教示を基に、疑問に感じた点などを検討してみました。その結果、釈文の別案が浮かびましたので、ご批評下さい。
先ず、疑問に感じた点を挙げさせて頂きます。
一つは、あの第一条のほぼ全文を家康の言とすべきなのか、という事。江の下向動機の後に、「家康被申事候つる」と入れているのに、その後も家康の言葉というのは、不自然な感じを受けます。やはり、「多分」から、「何と共候哉」あるいは「御意の段」までは輝元の考え(言葉)なのではないでしょうか?
そしてもう一点、上記にも関連しますが、『多分淀殿はこの件についてはご分別されていたはずなのに、どうしたことか、』という家康の言と解釈された部分について。ここで言う「分別」は、「承知」であった、と受け止められます。そして、その後大坂入りまでの間に「不承知」とされた事になります。淀殿の裁許が、こんなにぶれるものでしょうか?それに家康であれば、一旦承知の裁許が下されたら、不承知と変更される事を許さなかったのではないでしょうか?
「此中は」を、「このあたりは」と読んでみたり、試行錯誤しましたが、やはり「このなかは」と考えるしか無い様で、これに合わせ、他の対象を入れ替えて、疑問点を解消すべく検討した結果が次の釈文です。

「~(前略)~下向をさせて頂きますように。」
との家康の申された事であった。多分淀殿は先だって(不承知の)判断を下されたはずである。(今回話を蒸し返すのは)どうした事であろうか?この時期下向してはならない、との(先だっての)御意につき、
「家康には、全く曲事を構えるつもりはございません。内々に讒言する人が在ると聞き及んでいますので、是非、その言い分をお聞かせ下さいますように。」と、はなはだ思う所を申された、との事である。

以上です。括弧内が家康の言です。「此中」の「分別」が、「此節御下有間敷」だったと解するのは、おかしいでしょうか?最初に下向の許可を願い出た際、断られたので、淀殿の姉としての心情に訴えるべく、下向動機を持ち出した、と考えると、つじつまが合うと思います。またこの動機は、恐らく京極忠高誕生の際、淀殿を心配させた、初の嫉妬話(世間にはそのように伝わった)を伏線に、家康が思いついたものではないか、とも考えています。さらには、この際の話が、江の「嫉妬深い」御台所のイメージにつながったとも考えるのですが・・・。
それから「忝」に「はなはだ」の読みがあるようです。原本が痛んでいる部分のようで、もしかすると、「悉」の判読間違いか、とも思えますが、どちらでも意味に大差は無いので、「はなはだ」で考えてみました。



すみません
桐野
武江さん

詳しいご考察有難うございます。

いま多用にて検討する余裕がありません。
一段落してからコメントさせて下さい。

こちらこそ、すみません
武江
桐野様
ただでさえ、ご多忙な桐野様に、新講座開講直前に厄介な質問をしてしまい、こちらこそ申し訳有りません。
いずれ、という事で、宜しくお願いします。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
信長公記講座
こんにちは。
いつも、楽しく拝見しています。

ところで、信長公記講座を東京でもされるとのことですが、近畿でも行う予定はありますか?

東京は、なかなか行けないので、動画を見れたら良いなとは思いますが・・・


新刊楽しみにしています。早く読みたいです。
2011/09/18(Sun) 17:22 | URL  | non #-[ 編集]
受け皿があれば
nonさん

初めましてでしょうか。

関西でもやれないことはないと思いますが、いかんせん、お声がかかりません。
カルチャーセンターなどにリクエストしてみて下さい。

新刊もよろしく。
2011/09/19(Mon) 00:49 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
カルチャーセンター
早々のお返事ありがとうございます。

今度、近場のカルチャーセンターで、歴史の講座を多く行っているところにリクエストしてみます。



2011/09/19(Mon) 12:13 | URL  | non #-[ 編集]
再び輝元書状について
桐野様
「お江」関連は、この講座が最後との由、終盤2回については、聞いておきたかった内容だけに残念です。ブログでお考えをご披露頂けると有難いのですが・・・。
先にお伺いした『慶長四年九月十三日付毛利輝元書状』解釈について、桐野様のご教示を基に、疑問に感じた点などを検討してみました。その結果、釈文の別案が浮かびましたので、ご批評下さい。
先ず、疑問に感じた点を挙げさせて頂きます。
一つは、あの第一条のほぼ全文を家康の言とすべきなのか、という事。江の下向動機の後に、「家康被申事候つる」と入れているのに、その後も家康の言葉というのは、不自然な感じを受けます。やはり、「多分」から、「何と共候哉」あるいは「御意の段」までは輝元の考え(言葉)なのではないでしょうか?
そしてもう一点、上記にも関連しますが、『多分淀殿はこの件についてはご分別されていたはずなのに、どうしたことか、』という家康の言と解釈された部分について。ここで言う「分別」は、「承知」であった、と受け止められます。そして、その後大坂入りまでの間に「不承知」とされた事になります。淀殿の裁許が、こんなにぶれるものでしょうか?それに家康であれば、一旦承知の裁許が下されたら、不承知と変更される事を許さなかったのではないでしょうか?
「此中は」を、「このあたりは」と読んでみたり、試行錯誤しましたが、やはり「このなかは」と考えるしか無い様で、これに合わせ、他の対象を入れ替えて、疑問点を解消すべく検討した結果が次の釈文です。

「~(前略)~下向をさせて頂きますように。」
との家康の申された事であった。多分淀殿は先だって(不承知の)判断を下されたはずである。(今回話を蒸し返すのは)どうした事であろうか?この時期下向してはならない、との(先だっての)御意につき、
「家康には、全く曲事を構えるつもりはございません。内々に讒言する人が在ると聞き及んでいますので、是非、その言い分をお聞かせ下さいますように。」と、はなはだ思う所を申された、との事である。

以上です。括弧内が家康の言です。「此中」の「分別」が、「此節御下有間敷」だったと解するのは、おかしいでしょうか?最初に下向の許可を願い出た際、断られたので、淀殿の姉としての心情に訴えるべく、下向動機を持ち出した、と考えると、つじつまが合うと思います。またこの動機は、恐らく京極忠高誕生の際、淀殿を心配させた、初の嫉妬話(世間にはそのように伝わった)を伏線に、家康が思いついたものではないか、とも考えています。さらには、この際の話が、江の「嫉妬深い」御台所のイメージにつながったとも考えるのですが・・・。
それから「忝」に「はなはだ」の読みがあるようです。原本が痛んでいる部分のようで、もしかすると、「悉」の判読間違いか、とも思えますが、どちらでも意味に大差は無いので、「はなはだ」で考えてみました。

2011/10/15(Sat) 22:59 | URL  | 武江 #Hpwl6DqI[ 編集]
すみません
武江さん

詳しいご考察有難うございます。

いま多用にて検討する余裕がありません。
一段落してからコメントさせて下さい。
2011/10/17(Mon) 20:54 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こちらこそ、すみません
桐野様
ただでさえ、ご多忙な桐野様に、新講座開講直前に厄介な質問をしてしまい、こちらこそ申し訳有りません。
いずれ、という事で、宜しくお願いします。
2011/10/18(Tue) 01:23 | URL  | 武江 #Hpwl6DqI[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。