歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第208回
―愛情深さからあらぬ噂も―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回に引き続き、島津義弘関連の記事です。
義弘の男子では久保と忠恒(のち家久)がよく知られていますが、事実上の三男だった忠清が今回の主役です。
忠清はほとんど知られていませんし、14歳で早世していますから、とりたてて取り上げるほどの事蹟がないのもたしかです。
ただ、忠清自身というより、その存在が家中において一定の意味をもっていたのもたしかです。
それは記事にも書いたように、どうやら忠清を太守義久の後継者にと考える勢力が存在したようなのです。それは義弘の家臣か、義久の家臣だかはよくわかりませんが、いずれにしろ、忠恒への反発や忌避が背景にあったことがうかがわれます。

それをよく示した義弘の忠恒宛て起請文を紹介してみました。
朝鮮半島に取り残されて、領国の情報がほとんど入らない忠恒の不安や猜疑心は相当なものがあったと思われます。それが義弘の起請文という形になったのでしょう。

なお、掲載写真には写っていませんが、墓の右側には「島津久四郎・松下源次郎の墓」と書かれた案内の柱が下の写真のように立っています。
源四郎

久四郎は忠清のことですが、松下源次郎は忠清に殉死した小姓です。
ただ、私が見た史料には「松下源四郎」とあり(「久四郎忠清一流系図」)、通称が少し違っています。音がほとんど一緒なので、よくある間違いでしょうね。
また『本藩人物誌』にも「松下源四郎」で立項してあり、15歳で殉死したとあります。これまた若すぎて切ない話ですね。
源四郎のことは当初、原稿にも書いていたのですが、残念ながら分量の関係で割愛しました。

次回は西郷隆盛と山岡鉄舟の駿府での談判について書く予定です。

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【2011/09/27 14:24】 | さつま人国誌
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